第164話 都合の良い記憶
翌朝――
「お母様、それではルークをお願いね?」
授乳を終えたばかりのルークを母に託すと、バッグを持った。
「ええ、分かったわ。任せてちょうだい」
「3時間後にまた授乳の為に戻ってくるわね」
「セシルには……何と言って戻ってくるつもり?」
心配そうに尋ねる母。
「本当のことを話すまでよ?ルークの授乳に戻るって。どのみち……セシルはルークのことを認識しているから」
ただし……自分の子供として。
「そう、分かったわ。行ってらっしゃい、エルザ」
「ええ、行ってきます」
こうして私は母に見送られながらセシルの入院する病院へ向かった――。
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コンコン
扉をノックしながらそっと開けた。
「セシル……来たわよ?」
声を掛けながら特別個室へ入ると、窓際に置かれたベッドの上でセシルが窓の外を眺めている姿が目に入った。
「セシル、起きていたの?」
声を掛けながら近づくと、セシルが振り向いて笑顔を見せた。
「待っていたよ、エルザ」
「ごめんなさい、遅くなって」
セシルの笑った顔はフィリップを彷彿とさせる。けれど、セシルはフィリップの記憶を消し去ってしまった。
それほどまでにセシルはフィリップの存在が疎ましかったのだろうか……?
「どうかしたのか?具合でも悪いのか?」
私の顔をじっと見つめていたセシルが怪訝そうな表情を浮かべた。
「え?何故そんなことを尋ねるの?」
「いや、何だか顔色が優れないようだから……大丈夫か?」
セシルが心配そうに声を掛けてくる。
「ええ。本当に大丈夫だから心配しないで。ところでセシル、明日退院するのですってね?」
セシルのベッドの側に置かれた椅子に座りながら尋ねた。
「ああ、そうなんだ。実は俺から先生に頼んだんだよ。早く退院させて欲しいって。何しろエルザに負担を掛けたくないからな」
「え…?」
セシルの言葉に背中が冷たくなる。
「私に負担って…どういうこと?」
何とか平静を装いながら尋ねた。
「エルザだってルークの世話で大変なのに、毎日面会に来てくれているだろう?だったら早目に退院したほうがいいじゃないか。俺も早く家族3人で暮らしたいしな。あの離れで」
「離れで……」
ひょっとして、セシルは自分がフィリップにでもなったつもりなのだろうか?だけど、自分のことは把握出来ている。…分からない。セシルの中で一体何が起こっているのか、私にはもう分からなかった。
「そ、そうなのね?本館ではなく…離れで暮らすつもりなのね?」
「勿論だ。何しろエルザのラベンダーの部屋は離れにあるじゃないか?」
ニコニコしながら語りかけてくるセシルとは正反対に、私の気持ちは沈んでくる。
もう……これ以上この話をするのは辛かった。
「セシル、明日退院するのよね?荷造りをするから貴方は休んでいて?」
立ち上がってセシルに声を掛けた。
「そうか?悪いな。実は昨夜頭が痛くてあまり眠れなくてさ……」
「そうなのね?だったら尚の事休んで?」
「ああ、そうさせてもらうよ」
そしてセシルは目を閉じると、すぐに寝息が聞こえてきた。
「おやすみなさい、セシル」
そっと寝顔に呟くと、物音を立てないように静かに室内の片付けを始めた――。




