咆哮する狼
「逃がすかあああああああ!」
目標へダイブ!
しかし、目前のそれは俺を嘲笑うかのように、俺の手をすり抜けて遠くへ走り去る。
勢いあまって地面に激突!
顔を激しく強打してしまった。
倒れたまま体の感覚を確かめる。疲弊を通り越し、足が鉛以外の何物でもなくなっていた。
それでも俺は立ち上がる!仕事のために―
今、俺は逃げ回る仔犬を捕まえるためにひたすら走り回っている。
仔犬の特徴は薄茶色。耳がぴんと立っていて、尾はくりんと巻いている。どうやら豆柴か、生まれて間もない柴犬のようだ。
俺と仔犬が、鬼ごっこ(俺がずっと鬼)を繰り広げたがために、足元に広がる人工芝は踏み荒らされた跡でいっぱいだった。
一歩一歩、足が重い。それでも大きく足を伸ばして追いかける。
限界を訴える我が体にムチを打ち、今一度、仔犬に飛びかかる。
今度こそ!
今にも捕まえんとする寸前、すっと、目の前でそいつは抱きかかえられた。
またしても地面に顔。
「お疲れ様でしたー」
虚しく地面でのびている俺に、そんな悪戯っぽい声がふりかかる。
無慈悲だ。
そう思って顔を上げると、俺の幼なじみ、栗原優奈が小悪魔のように微笑んでそこに立っていた。
大きな黒い瞳が印象的。髪は肩までのセミロング。もともと幼く見られがちだが、耳の上で小さく二つ結びをするための大きめのリボンがそれを助長している。
その細い腕に抱かれ、仔犬がさも心地よさそうに息を荒げ、尻尾を振っている。
「何してんだよ」
「仔犬捕まえたの」
「見りゃ分かる」
「じゃあ、聞かないでよ」
「さっき、手伝わないって言わなかったか?」
「あんたが遅いから」
「今ちょうど捕まえるとこだったろうがぁ!」
「知らないわよ。遅いあんたが悪い」
そのかわいい外見とは裏腹に、冷たい面がある。というかすごい気分屋である。
いや、外見どおりに子供っぽいといえるのか。
「うわ、きゃあ!やめっ・・・・・・!あはっ!・・ばかっ!・・・・・・くすぐったいってば!」
急にあえぎ声がしたと思ったら、先ほどの仔犬が優奈の小さい胸をまさぐっていた。
服の上から?いーや、違うねっ!
つまり、仔犬が優奈のラフなTシャツの中に顔を突っ込んでるという形だ。
このエロ犬め・・・・・・
おかげで幾度と無く胸元からぽろりとしそうになるそれが、俺の煩悩を刺激する。
体の大部分の疲労とは裏腹に、一部は元気になった。
チラリズム万歳。仔犬グッジョブ。
「よし、仔犬。俺と変われ。」
・・・・・・あいや、本音が声に出てしまった。
「痛めつけるのが正解よね?」
ゴン!(優奈に踏まれた俺の頭が地面にめり込む音)
「童顔のクセしてエロいなんて、なんか余計キモイわ」
その暴言が子供っぽい。
「今、すっごく失礼なこと考えたでしょ」
「いえ」
「隠すとまた蹴るわよ」
「幼いのに暴言ばかり吐いてるから余計子供に見えるなんて、滅相もございません」
俺は顔を上げて、女王様(体はまだお姫様)にきっぱりと申し上げました。
ぐきっ!(あごを上に蹴られて首が曲がる音)
なぜだ・・・・・・?なぜ蹴られた・・・・・・・?
俺の体が、蹴られた反動でそのまま仰向けになった。
いたいいたい!首痛い!仰向けになったらめちゃくちゃいてえ!
こんなに走り回ったのは、いつ以来だろうか……
首の痛みを忘れるようにわざと爽やかにそう思いながら、寝転がったまま空を見上げる。
眼前に広がる雲一つない空は、太陽が輝くこともなく、一面が鈍色に染まっている。
人工芝と、飼い主不在の仔犬と、太陽、雲一つない鈍色の空。
こんな光景がこの世のどこにあろうか。
いや、ない。
じゃあ、ここはどこだ。
答えはべらぼうにディフィカルト。
俺達は今、誰かの夢の中にいる。
夢の中に来るのはおよそ五回目。そろそろ頭と体も慣れてきた。
この俺、二ノ宮いつきと栗原優奈は、夢の中に入り込んで悪夢を壊すという、なんとも妙なバイトを受け持っているのだった。
寝転がってボーっとしていると、俺の携帯が聞き慣れた軽快なゲームソングを鳴らし、一件の着信を告げた。
相手は分かりきっている。
俺は痛む体を無理矢理起こすと、おもむろにポケットから携帯電話を取り出し、一人の名前を呼ぶ。
「ひかるか?」
「どうも、お疲れ様です」
朗らかな敬語が返ってきた。その声はジャニ系アイドルのように甘い。
俺は電話の向こうから、俺と優奈の雇い主、神楽ひかるの声の特徴を余す所なく感じとった。
「悪夢の素は、ちゃんと持ち帰って下さいよ?」
「分かってるよ」
今のこの仔犬ような物は「悪夢の素」と呼ばれ、持ち帰りを命ぜられる。
その形状はさまざまだ。夢の世界というのは人が創るそうで、
創られて間もない夢には核や素があり、そいつを壊すか夢の世界から運び出すとその夢はたちまち消えてしまう。
持ち帰られたものは、大学なんかの研究機関で、貴重なサンプルとして扱われるらしい。
危険レベルが上がると「悪夢の核」と呼ばれるようなのだが、いかんせん関わらせてもらえない。
しかし仔犬が悪夢かねぇ……
「では、迎えの車をそちらへよこします」
ひかるは簡潔に伝えた。
夢の世界への出入りの仕組みは、詳しく教えてもらえない。なんか、粒子の扉が開くときにどうするとかしないとか。
知りたければ勉強しろだとよ。
行き方は、最寄の駅から、終電よりさらに後、0時きっかりに到着する電車に乗り込むと、いつの間にか夢の世界へご到着。
帰りはいつも黒塗りのリムジン。
うらやましいだろ?
なんか、五分も走らないで帰り着くんだけどね・・・・・・
電話を切った後、迎えが来るまで手持ちぶさただったので、携帯をいじろうとするも、ひかるからかかってくる電話以外、圏外だということを思い出す。
隣では優奈が仔犬にシバと名付け、お手やおかわりなどの一連の芸を仕込んでいた。
成功したときには、
「よ〜し、よしよし。いい子だねぇ〜。よ〜し、よしよしよし。」
といった具合に、これでもかと愛でていた。
お前はムツゴロウか……
「決めた!この子飼うわ!」
何か無駄に決意してしまっていた!
「いや、無理だし」
俺の常識が、思わずつっこませる。
ムツゴロウ状態の優奈を見て、数分も経たないうちにリムジンが迎えに来た。
高級感溢れる漆塗りのような傷ひとつない車体、真新しく、汚れが見られないタイヤ。そんなもので迎えが来ると、気分は大統領か祝賀会に招かれた大物俳優だ。
無人ってのがかなり恐いけど。
俺達の目の前にリムジンが停車する。
「いつものことだけど無人運転ってすごいね」
ごくりとつばを飲みながら優奈が言う。シバも「くうん」と、同意するように鳴いていた。
「あぁ、すごいな」
俺が適当に相槌を返したとき、自動で後部座席のドアが開く。
ドアから覗く広い車内へ、いつもの100倍重たく感じる体を投げ出すようにして、座った。
シバを抱えた優奈も軽やかに乗り込む。
「ご〜!」
と、軽快な優奈のかけ声に答えるように、「ワン!」とシバが鳴く。
なんでこんなになついてるんだ?
二人が乗り込んだのを察知したかのようにドアが閉められ、エンジンが低く唸り、走行を開始した。
「うわっ」
「きゃっ」
運転手不在で、切られるハンドルは、どちらにどう動くか予想させない。
結果として俺たちは、些細な揺れにさえ激しく体を揺さぶられ、広い車内を満喫できないでいた。
「たとえ適格者しか夢の中に入れないって言っても、運転手くらいはみつけて欲しいぜ・・・・・・」
と、思わずぼやく。
「同じく」
なんだ、優奈もか。
リムジンは3分程走っていたが、どこまで行っても地面は人口芝だらけというつまらない景色だ。
この夢を見ている人は、さぞ想像力に乏しいのだろう。
と思っていると、急激にあたりが暗くなり、瞬く間に、上下、前後左右、漆黒に包まれた闇の空間へと突入した。
車に乗っているという感覚すらおぼつかなくなる。
車内に、申し訳程度につけられたオレンジのナトリウム灯が頼りない。
ひかるは、「大丈夫、夢の世界と我々を繋ぐトンネルみたいなものです」と言っていたが、俺はどうも星のない宇宙へ放り出されたようなこの空間が苦手だった。
ふと隣を見ると、優奈が不安そうにシバをぎゅっと抱きしめていた。
あれほど元気に尻尾を振っていたシバですら、小さくなってくんくん怯えている。
みんな苦手なんだな。
トンネルを抜けると、現実世界であった。という雪国的表現が的を射ているかどうか。
俺たちはリムジンに乗って闇の中を抜けた瞬間、俺たちの町、有川町にある有川駅のホームに立っていた。リムジンを降りたという感覚はない。
この時差ぼけのような感覚に、毎度毎度放心する。
(毎度の事ながら、トンネルとこの感覚は慣れないなぁ・・・・・)
ふと隣を見ればシバを抱えた優奈が似たようにぼうっとしていた。
「キングクリムゾンに攻撃されたような感覚だな」
俺は呆然としたまま優奈に話しかけた。
「どっかにディアボロいるんじゃない?ああ、あんたのもうひとつの人格ってもしかしてディアボロ?」
「俺はそのへんのものを電話にしたりはしない」
「いや、でも頭おかしいじゃん」
(ホント、傷つくことをさらりというよな・・・・・・)
優奈の暴言は放心状態でも顕在のようだ。
これ以上傷つくことを恐れた俺は、口をつぐむことにした。
優奈も特にそれ以上しゃべる気はないようだ。
携帯で時間を確認すると、0時を少し回ったところだった。
おかしい、夢の世界に30分以上いたはずだが。
その理由は、夢の世界と現実で時間の流れにずれが生じるせいらしい。
そのずれは不規則で、今回はかなりいいほうだ。向こうで一時間も過ごしていないのに、帰ってきたら朝、ということもあった。
続いてあたりを確認する。
営業時間を終えた駅には、言いようの無い寂寥感があった。カーテンの閉められた駅員窓口、その向かいにある締め切られた待合室。駅舎内の電気は消されていたが、外の街灯の光が中まで届くため、真っ暗ということは無いが、薄明かりがかえって寂しい。
俺はシバを抱えた優奈とともに、無人の改札口を抜け、駅舎を後にした。
「どうも〜!」
駅舎から出た途端に線の細い男に、ハイテンションで出迎えられた。
先ほどの電話の主。
一応、俺たちの上司に当たる神楽ひかるその人である。
パッと見、クールな眼鏡野郎、いわゆるイケてる眼鏡男子なのに、性格のせいでどうもそんな感じがしない。
(それでもかなりモテてるようだが)
「悪夢の素はどこですか?」
嬉々とした声でひかるは尋ねる。
今回は自分の出世がかかっているらしく、妙に一人で張り切っていた。
「この子」
優奈がぶっきらぼうにシバを差し出す。
「んまあ!なんと可愛いワンちゃんでしょう!柴犬でしょうかぁ?おや、オスですねぇ!ん〜、くりくりしたおめめとくりんと巻いたた尻尾が愛らしい!」
ひかるはショップ店員顔負けの宣伝文句を勢い良く並べ立てる。
誰も聞いちゃいねぇっての。
ほら、優奈の冷たい目線に気づいて傷つく前に止めな。
「あぁ、そういや、ひかる」
「なんでしょう?」
「結局、仔犬のどこが悪夢なんだ?」
宣伝文句の羅列を終えて、一息ついているところのひかるに、ふと気になったことを尋ねた。
「ああ。察するところ、仔犬が逃げた。という、かわいらしい悪夢です。この場合、逃げた対象物を捕まえることで、逃げた事実そのものがなくなるんですよ。過去に何度か事例がありました」
ひかるは少しばかり愉快そうには説明すると、なにやら小型のトランシーバーみたいなものを取り出した。
俺たちにも支給された、ユピテルと呼ばれるそれは、悪夢の素に反応して音を出す。
俺たちもさっき、コイツでシバが悪夢の素だと断定したのだ。
ひかるが、ユピテルをシバに、そっと近づけると、ビィィィィッと大きな音が鳴った。
「間違いありませんね」
ひかるが頷く。
「それではお預かりします」
と、シバに手を伸ばす。
「やだ」
しかし、シバを渡すまいと、優奈は伸ばした手をそのままさっと横に振る。
その手の行方に俺がいて、俺は結果的にシバと正面から向かいう形となった。
確かにこのくりくりした可愛い瞳で見つめられると手放したくないというのも分かるが・・・・・・
「こら、仕事だ。わがまま言うな」
「そう、いつき君の言うとおりです」
と、俺とひかるは優奈に軽く注意した。
俺が目の前のシバを優奈の手から抱き上げようとして触れる。
途端、シバがぶるぶる震えだし、優奈の腕の中で暴れだした。
「きゃっ!」
思わず優奈はシバを手放していた。
優奈の手を離れたシバは、アスファルトの地面に着地した。
生えかけの爪と硬いコンクリートがこすれ合う、乾いた音が夜の静寂の中に響く。
シバは、フーッと何度も息を荒げ、幾度と無く吠え、俺たちに明らかな敵意を向けている。
姿は変わらぬというのに、先ほどまでの仔犬とは明らかに何かが違っていた。
「シバ・・・・・・?」
すっかり怯えた優奈が、その名を呼ぶ。
シバはそれに答えるような形で、
「ウオオオオオオオオオン!」
と、星の無い夜の空に向かって大きく遠吠えをした。
その姿はまるで一匹の狼。
「な、なにがあったのでしょうか・・・・・・」
ひかるが頼りない声で聞いてくる。
「知らん、こっちが聞きたい!」
雄叫びを終え、ゆっくりと顔をこちらに向けたシバの目は、真っ赤に血走っていた。
次の瞬間、全身の毛を逆立てるように震わせ、短かった牙がその跡を残さぬように全てが長くとがり出し、爪が地面とこすれてがりがりと音を立てながら肥大化する。
シバはみるみるうちに元の大きさより一回りも二回りも大きくなっていった。
そしてもう一度、漆黒の空に向かって、
「ウオオオオオオオオオオオオオン!」
と大きく吠えた。
それは遠吠えというよりも、雄叫び。
あるいは咆哮に近かった。
優奈はショックからか、へなへなとその場に座り込み、茫然と遠くを見つめていた。
俺たちの目の前の狼、いや、シバは大きく跳ねて、一瞬にして優奈に飛びかかった。
「優奈!」
「栗原さん!」
あまりの速さに、俺たちは叫ぶことしか出来ない。
しかし、優奈の眼前でシバは見えない壁のような何かに阻まれた。
「ギャン!」
と、シバは小さな悲鳴をあげ、ぶつかった反動で後ろにはね返される。
シバがぶつかったそこは、空間がひび割れ、赤より紅い、何かが覗いていた。
その裂け目のようなものを見て、にやりと笑うように口の端を吊り上げる。その隙間から、鋭くとがった白い牙を覗かせていた。
「ワン!」
シバは歯切れ良く吼えた後、その裂け目にもう一度体当たりした。ピシピシと音を立ててさらに広がった裂け目を、爪でえぐるように引き裂き、牙を使って周りの空間を引きちぎってまで裂け目を広げようとしていた。
獲物に食らいつくかのような、その狂気じみた行動に、俺たちはまたしても、誰一人として体を動かせないでいた。
獣一匹ほど通れるようなな穴があいた後、
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!」
と、本日三度目にして最大級の咆哮をあたりにぶちまけた。
さすがに近所に跳ね起きるやつがいたのか、近所の民家にぽつぽつと明かりがついたが、すぐに消えていった。
咆哮を終えたシバは、掻き分けるような動作で、さぞかし嬉しそうに尻尾を振りながら、その裂け目へと入っていく。
通り抜けて、優奈側から顔を出すことは無かった―
つまり、完全に消えた。
「な、何が起きたんだ・・・・・・」
俺は素直な感想を口にする。
ひかるは黙ってこそいたが、動揺を隠しきれずに、額に脂汗を浮かべていた。
肝心の優奈は、いまだに茫然自失としている。
空間の裂け目も、シバを完全に飲み込んだ後、跡形なく掻き消えた。
開けた駅の駐車場に、蘇る夜の静寂。
星が無く、月明かりと街灯がのみが照らす夏の夜。
夢物語が、幕を開けた。
「シバ・・・・・・」
狼の名を呼ぶ優奈のさびしそうな声が、耳に残る夜だった。