「インフォディスタンス」のススメ
唐突だが、自分は何かについてすごく考えるタイプで、真実を知りたいと飽くなき探求をするタイプの人間だ。
コロナ禍においても自主的にデータを調べたりしているが、マスコミや厚労省、分科会や医師会、首長や政府など、お偉いさん方の発する内容は非科学的で根拠なき個人の感想レベルばかりで、責任逃れや問題の先延ばしばかりしていることに心底ストレスが溜まる。
怒りで眠れず、本業に支障をきたしたことさえある。
緊急事態宣言の解除目安がどんどん変わることも、腹立たしくてしょうがない。
だが先日、彼女に言われてしまった。
「コロナの話になると、怖い」
普段、割と大人しく語気を荒げることも少ないのだが、確かにコロナの話になると次から次へと怒りが湧いてくる。
コロナに囚われるあまり、自分だけではなく身近な人にまで不快な思いをさせていたことに、ハッと気づかされた。
そもそも個人がいくらデータを集め真理にたどり着いたとしても、正直できることなど限られている。
例えばいかに日本のコロナ報道が間違っているかを語っても、マスコミを変えられる訳でもない。
それよりも、自分がやるべきことに集中すべきではないか?
コロナのデータ収集にかけていた時間を仕事に使う方が生産的に決まっている。
それならば、少しコロナ情報から距離を置いた方がいい、そう思った。
それは決して思考を止めたり、お偉いさんや世論に流されるわけではない。
ただ、必要以上に情報を得ようとするのは少し控えようと感じた次第だ。
世の中には色々なタイプの人がいるが、自分のように色々考えたり調べたりして時には必要以上のストレスを抱えてしまうタイプの人や、逆に楽観的で余計なことを考えずに生きる人もいる。
このコロナ禍は、自分のような「考えすぎるタイプ」の人にとっては苦痛で仕方ないと思う。
繰り返しになるが自分は何かについて深く考えたり、真実を知りたいと飽くなき探求をするタイプで、それは興味を持ったことに夢中になる他に、元来臆病で神経質な性格というせいもある。
「頭より体が先に動く」なんていう人の思考回路が理解できない。
考えることで得たものも沢山ある反面、考えなくてもいい知らなくてもいいような所にまで足を踏み込んでしまうので、時には必要以上のストレスを抱えてしまう。
そして、先の例のように自分のやるべきことに支障をきたしたり、他人に不快な思いをさせるのは、冷静に考えれば避けるべきことだ。
彼女にピシャリと言われたことで、昔読んだ大澤山 龍雲寺の住職である細川晋輔氏の記事を思い出した。
https://www.huffingtonpost.jp/stands/-_98_b_5074352.html
一部を抜粋させていただこうと思う。
ーーーきっと今の時代、多くの人がシンプルになれずに、苦しんでいるのだと思います。よく私は心の状態を、「水」と「氷」に例えるんです。悩んでいる自分が「氷」、悟った状態の本当の自分が「水」と考えてください。
氷をコップに入れようとすると、サイズによっては氷もコップも傷つけてしまいます。このコップは自分を取り巻く環境とでも、親しい相手とでも、自由に捉えてください。
しかし、水になると、ピタリとコップに収まります。氷とコップ、どちらもを傷つけることなく埋めることができます。
いつでも水のような状態であるのは、今の時代を生きる上で難しいと思います。
ただ、坐禅を通して氷となった自分を溶かす練習をしていると、自分の引き出しが開きやすくなるんです。イライラした気持ちを沈め、昨日のイヤな事も、良かった事も忘れて、ニュートラルな状態で仕事なりスポーツに取り組んでいただけたらと。ーーー
この記事を見て以来、自分の心が凝り固まった「氷」になってはいないかを客観視するよう、意識していったはずなのだが、このコロナ禍ではいつの間にか立派な「氷」を作り上げていた。
それも、誰かに言われるまで気づかなかった、お恥ずかしい限りだ。
さらに言えば、自分がコロナのストレスを増幅させてしまう大きな原因は「ネット」にあると感じた。
そもそも、情報技術が高度に発展した今の社会においては、真偽のわからない情報から見ず知らずの誰かの感情や呟きまで、過剰なまでに「知りすぎてしまう」。
いや、「知れすぎてしまう」と言った方が正しいかもしれない。
私たちはいつの間にか、以前には考えられないほどの情報や他者の感情を受け入れる日々を送っているが、人間が本来持つ処理能力や耐久力からすると、「キャパオーバー」なのではないか?
例えばSNS上ではネガティブな意見はもちろん、相反する意見を持つ人同士がお互いに意見や感情をぶつけ合う様を、そこら中で見かける。
なんだかコロナ禍を収めようとするよりも、時には相手を議論で打ち負かす戦いになっていたり、時には自分の意見や仮説が正しいと証明するために「感染者や死亡者の増加を望む人」すらいる。
「トイレットペーパーがなくなる」などのデマを流す輩が現れたり、自粛警察やマスク警察、医療従事者への偏見差別など、凝り固まった正義感や勝手極まりない偏見で誰かを平気で傷つける人たちの情報も、どんどん入ってくる。
陰謀論にはまり、空想と現実の区別がついていない方もいる。
「ライブハウスを潰せ!」なんてハッシュタグも見かけた。
コロナのデータを知ることによってお偉いさん方の発言や対策にストレスを感じるだけではなく、赤の他人の感情や行動を必要以上に知ることが自分のストレス増加に拍車をかけていたと、今ではそう思う。
そもそも、こうした見ず知らずの誰かの感情や行動を知ることなど、ネットができる前はあり得なかった。
気づかずうちにいつの間にか、私たちの心の中には信じられないくらいのストレスが降り積もっているのかもしれない。
ネットは大変便利なものだが、一方ではストレスの増幅器にもなり得てしまう恐怖を、このコロナ禍では強く感じた。
今後もネットがなくなることはないだろうし、情報技術は今後も発展していくだろう。
それによって便利になることが無数にあることは事実だし、自分もそれを日々、享受している。
しかし、これまで書いたように一方では毒にも凶器にもなりうる。
そこで、私たちは意図的に「情報と距離を置く」「情報を断ち切る」という概念も身につけるべきではないだろうか?
「インフォディスタンス」とでも言うべきか。
「ソーシャルディスタンス」という言葉がコロナ禍で提唱されたが、コロナ禍が収まっても情報化社会は続いていく。
ネットで山ほどの情報にアクセスできることを喜ぶだけではなく、その弊害もきちんと理解すべきだと感じた、先日の出来事だった。