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─────その瞬間、レオナは唐突に思い出した。
思い出したというより、それはフラッシュバックに近かった。くらりと血液が引いていくような感覚とチカチカ明滅する景色は、いわゆる眩暈と呼ばれるものだ、と思考の端で考える。ぶわりと毛穴が開き、冷や汗が噴き出した。
あ、やばい、と早鐘を打つ鼓動を服の上から押さえ足裏に力を込めたが、踏ん張ることは数秒しか叶わず、哀れ震えた膝は力なく折り曲げられた。
しゃがみ込んで─────とはいえ、普段の行動からすればかなりお淑やかに、ではあるが─────頭を伏せたレオナは、耳に刺すような悲鳴に煩いと胸中で溢しながら、不調からか声の不愉快からか、もはやどちらの感情も伴いあらん限り力を込めて瞼を閉じた。
「ラグフォードさん!?」
上擦った幾つもの声は、ただただレオナの神経をすり減らす。頼むから黙っていてほしいと思うが、それよりも込み上げる嘔吐感と全身を襲う寒気に、たまらず自身を抱きしめる。
「っ見なさい、貴女のせいよ! 貴女の品のない行いのせいで、こうして倒れる方がいるのよ!!」
「そんな…わたし、そんなつもりじゃ…」
「つもりがなくても、実害が出ている以上貴女は自身の行動を省みて自覚すべきだったわ。わたくしたちがどれだけの被害を受けたか、先程から申し上げているでしょう!?」
ヒステリックに糾弾する声と、狼狽るか細い声。周囲には人が集まっているのか、ザワザワと話し声が飛び交う。
レオナが倒れた事もこれ幸いにと、咎める勢いは強さを増した。さすが悪役とはいえ御令嬢、詰り方もお綺麗なことだ。
体調とは反して冷静な心境は、最早傍観めいた呟きをこぼす。その実、決して傍観ではなく逆に渦中の一員であるのだから、これは現実逃避とも言えるだろう。
とはいえ、眩暈は治らず血の気は引いたまま寒さは一向に増し、嫌な汗が背中を流れているのは事実だ。とにかくこの場を一刻も早く離れたい、疾く早く風のように…いや空気、そう、空気になりたい。めちゃくちゃ目立ってるこれは。
別の意味で冷や汗が出てきそうになった時、群がっている人混みから聞き覚えのある声が一際に上がり、数拍置いて肩をしっかり抱かれる。泣きそうな声で安否を確認してくるのは、普段共に行動している友人の泣きそうな声だ。
答えるようにレオナは僅かに頷いたが、返答は求めていなかったのか友人は優しくも強制的に立ち上がらせると、ゆっくりと歩き出しその場の脱出に貢献した。
レオナ自身を心配してくれる友がいて良かった─────フラッシュバックした"記憶"から、レオナは吐き気と戦いながらも、心底過去の己を褒め称えたのであった。
王立トレヴィア学園。
それが、レオナ・ラグフォードが今現在通っている教育機関の名前だ。
ヴィシュタリア国の王都に設立された学園で、貴族や商人などの子息・令嬢たちが多く通う男女共学の学園である。中等部・高等部・大学部、それぞれ2年ずつに区切られており、中等部は14歳から、高等部は16歳からと通う事ができる。
家業や家の方針などの理由で通わない者も少なからずいるが、子どものうちより家同士のパイプを手っ取り早く作ることができるという利点が大きく、家柄に固執する親はこぞって子どもを行かせるのが現状だ。
いちいち資金を投入してお茶会や夜会を幾度も開きウフフオホホハハハと媚びながら腹のさぐり合いをしつつ本音を引き出し秘密裏に他家との結びつきを地道に行うより、貴族にとってはそこそこの教育費で閉鎖空間で子供を使いコネを作った方が、よっぽど経済的で簡単である、という見解なのだろう。
ちなみに大学部になると、女性は結婚のため、男性は親について家の仕事を手伝ったり、軍や騎士団に所属することが多いため、進学率はぐんと下がる。
「…………………で、その学園の高等部で、糾弾イベントの真っ最中だった、と」
ぱちりと意識を取り戻して数分、情報を整理したのち、レオナは面倒そうに呟いた。
真っ白な天井に、これまた清潔感のある真っ白なカーテン、軽くて柔らかい最高級羽毛布団に人体工学に基づいた最高のフィット感を演出する枕。消毒液の匂いが鼻をかすめ、少したけ空いた窓から風が空気を送り込んでいる。窓の外は夕暮れ刻か、赤い光に包まれていた。
学園の医療室だ。そう何度もお世話になったことはないが、これだけいかにも清潔ですと主張された空間はどう見て考えても医療室しか当て嵌まらない。それにしてもこの枕、最高のフィット感である。ほしい。
医療室に運ばれ横たわった途端、意識が落ちてしまったようだ。サイトテーブルの時計を確認すれば、最後に確認した時から2時間ほど経っていた。
ちなみに最後に確認したのは、件の糾弾イベントが始まる前に確認した時間である。
レオナは自身が倒れてしまった原因を思い起こし─────海の海溝のそのまた奥の奥の奥よりも深いため息ついた。ようは肺が空になるまで空気を吐き出した。そのあとすぐに大きく吸ったのだが。
お腹に力を込め、肘を突いて起き上がると、時計と同じテーブルに置かれて水差しに手を伸ばす。先ほど呟いた際に喉の渇きを覚えたの水分を摂ろうとしたのだが、一口含み嚥下した途端予想以上に欲していたのか、一杯飲み干しすぐさま二杯目もコップを空にした。
目まぐるしく入り込んできた情報に負荷がかかったことが、今回昏倒した原因だろう。共にいた令嬢たちには申し訳なかったが、レオナが倒れたという事実もまた糾弾の要因となれたようなので、それで貸し借りなしということにして欲しいものである。いや、したということで。そういうことにしよう。
うんうん、と頷きながら、レオナはベッドから降り立った。あまり癖という癖がない青灰色の髪の毛だが、寝ていたことにより少しばかりよれている。時間的にもう帰るだけなのであまり気にしなくていいかと、数回手で梳いたあと、申し訳程度に束ねた髪を前へ流した。
「レオナ!」
扉を押し開け入ってきた女生徒は、立ち上がったレオナの姿を認めると、名前を呼んで小走りに駆け寄った。
クロエ、と応じるように彼女の名前を口に出せば、女生徒クロエはギュッとレオナの手を握り心配そうに覗き込んでくる。
「もう大丈夫なの? 痛いところない?」
「うん。心配かけてごめんね、ありがとう」
「レオナったら、突然倒れるんだもの…見ていてもハラハラしたのに、まさか急に倒れるなんて、本当、心臓飛び出るかと思ったわ…」
「ごめんって。私もびっくりした」
「生焼けのお肉食べても少しかびたパン食べてもそこらへんの野草食べても毒キノコ食べても婚約者とられてもケロっとしてるあのレオナが」
「一言どころか三言も四言も余計だし食べるオンリーなのは腑に落ちないのだけど。あと最後だけ毛色違うのなんで」
心痛な面持ちとは反して内容がふざけてきたことにより、眉尻を下げて謝罪とお礼を言ってたレオナは半眼でクロエを睨め付けた。堪える様子もなく笑ったクロエは、平気そうねとレオナの手を離した。
軽口を叩いていたが、レオナを心配していたのは本当のことだと分かっているので、レオナも少し肩を竦めただけでそれ以上言及はしない。
少しして医療室を管理する職員がやってきたので、少しばかりの問診を受け、特に以上は見られないと診断を頂いたレオナは、充分な休養を釘刺されて束の間の入院を終了した。
教室に戻って荷物を取ると、そのまま門の方まで向かう。レオナが倒れた糾弾イベントやらは授業終了後の出来事だったため、あとは帰るだけだ。あれだけいた野次馬たちも、良家の子息令嬢のため長く居残るような者は少なく、学園内はがらんとしていた。
レオナと共にいた令嬢たちは、すでに帰ってしまったらしい。クロエに聞くところによると、一応気にかけるような素振りでお大事にという言付けを預かったそうなので、やはり腐っても貴族令嬢だ。事の顛末は大筋で説明されたが、レオナが倒れた事により一旦お開きになったようである。
「ラグフォードの馬車を学園まで呼んで置いたから、外に出れば待っているはずよ」
「そんな、大丈夫だったのに…何から何までありがとう…」
普段、貴族令嬢にしては大変珍しく風変わりで別視点から言えばはしたないとも言われてしまうが、レオナは歩いて学園に通っている。あまり馬車での通学は好まないレオナが家の馬車を呼びつける事は少ないため、どうやらクロエが知らせを出してくれたらしい。
流石にレオナも、倒れた自分の体調を鑑みて呼ぼうと思っていたために、友人の心遣いを有り難く受けることにした。
「どういたしまして。倒れたって知らせを受けたからかしら、よっぽど心配だったのね…そのまま止まらずに学園内まで突入しそうな勢いできたから、いますんでのところで警備兵の方達に留めてもらってるわ」
「それもっと早く言ってほしかったな!」
全速力で止まる気配も見せず馬車馬の如く馬を走らせ─────いや馬車を引いてるので馬車馬であっているのだが─────そのまま門を破壊する勢いで突っ切り玄関口に寄せ転がるようにレオナのもとへ馳せ参じる光景が一瞬にして浮かび、悲鳴のように叫んだレオナはスカートの両端を持つと、姿勢正しくそれでも全速力で走っていった。
トレヴィア学園制服の丈の長いスカートはドレスに比べればずっと動きやすいとはいえ、あの一見淑やかに見えて超高速に足を動かす速さは、他の貴族令嬢では到底真似できない。
相変わらずねぇ、とのほほんと笑ったクロエは、どうせ押し問答するだろうと予想して変わらぬ歩みで追いかけた。レオナが突然倒れたのは大変大変、それこそ天変地異が起こるのではと思うほどに驚いたのだが、顔色も良くなり存外平気そうだったので、一安心である。
それにしても、と、安堵の色から物憂げに視線を落としたクロエは、レオナの状況を慮って哀れだとため息をつく。
彼女のあの様子では、ショックで倒れたようではないだろうが、それでも少なからず思うところはあるはずだ。なにせ。
彼女の婚約者が、他の女に目移りしているのだから。
◆ ◆ ◆
大変だった。それはそれは、もう。
水面を泳ぐ軽鴨のように地面を走る自分に称賛一割、今頃あたふたしながらも雪崩を止めるような状況に陥っている警備兵に申し訳なさ三割、そして雪崩そのものの自家馬車を操る御者と恐らく間違いなく確実に乗り込んでいるであろう従者に対しての怒り六割。
いや、この割合は客観的に思い返したからこそであり、実際その時は称賛一割謝罪が三割、怒りは十のうちの残り六どころか突き抜けた割合で叱責という怒りに塗れていた。
疾風怒濤、獅子奮迅、飛ぶ鳥を落とすどころか追い越す勢いで駆けて駆けて駆けて─────ワン・ツー・スリーの華麗なステップで踏み込み、勢いのまま押し留められている従者にドロップキックをくらわせた。
「お嬢様ぁぁぁぁあああああああご無事でぇぇぇええええええ倒れられたと聞いて俺っ俺っ」
「ああもう喧しいったらありゃしない、叫ぶのをやめなさいトーリ、みっともない」
「お嬢様がぁぁあああ倒れるなんてぇぇえええもう天変地異五里霧中前後不覚槍の雨が真っ逆さま大地は割れ海は高波花は萎れ空は轟き馬は嘶き」
「よーしその喧嘩買った。というか、障害物にぶつかる勢いで走らせれば馬も嘶くでしょうが、可哀想に…あら、御者の貴方見ない顔ね…この前入った? だからトーリの暴走に従ったのかまったく…」
「違いますよお嬢様、この御者俺の指示によしきた任せろって今までにない技術で走らせて突っ込ませたんです」
「よーーーーしわかった貴方は1ヶ月御者業務禁止。ついでにトーリはセグルに引き渡す」
「あああああああすみませんすみません申し訳ございませんそれだけはご勘弁を何卒」
生徒が帰ったあとでよかったと、心の底から思う。
喧しく騒ぐ従者に轡をし馬車の中に放り込むと、褒められたからか何故か照れてる御者をひと睨みして御者台に戻し、一つ咳払いをして猫を二、三匹被り貴族令嬢に相応しい笑みを浮かべて戸惑っている警備兵に淑女の一礼をする。呆けていた警備兵たちも慌てて礼を返してきたが、何か言いたげな視線を断ち切るようにごきげんようとレオナは馬車に乗り込んで帰路についたのであった。
戸を閉める前に遠くに見えたクロエに目配せをすれば、気づいた彼女が苦笑して一つ頷いていた。クロエには今日だけでたくさん迷惑をかけてしまった。後ほどお礼をしなければ。
帰ってきた自室で、もう何度目かわからない溜め息をつく。
レオナが倒れたというのはやはりというかラグフォード家に衝撃が走ったようで、出迎えたメイド執事たちは顔面蒼白、聞きつけた弟がベソベソ泣きながら抱きつき、なだめて漸く離れたかと思えばすぐに湯殿に連れていかれあれよこれよと言う間にベッドに押し込められかかりつけの医師により再診察を受け消化の良い夕飯をそのまま自室で食べ─────漸く、一人になれたところである。
ちなみに迎えに来ていた喧しい従者のトーリは宣言通り、家令のセグルへ引き渡した。青筋を浮かべながらトーリの首根っこを引っ掴みどこぞへ消えた二人に、胸中で合掌したのはレオナの優しさである。
寝床でもぞもぞとしていたレオナは、休憩は終わりとばかりに布団を跳ね除けて立ち上がった。自室の机に向かうと引き出しの中をゴソゴソと探り、未使用の手帳を適当に引っ張り出す。
覚えているうちに、全て書留めておかなければ。
インクを浸し、レオナは昼間のフラッシュバックと共に鎮座するようになった記憶を掘りおこした。
レオナ・ラグフォード。
ラグフォード伯爵家令嬢で、今年で十六歳になる。
三つ年上の兄が一人、一つ下の弟が一人、三人兄弟の真ん中である。
父はエリック・ラグフォード。代々王家近衛騎士団を務めるラグフォード家の現家長で、近衛騎士団を取りまとめる立場にいる。その近衛騎士団の団長は、祖父にあたるガイアス・ラグフォードといい、50代とは思えぬ筋肉隆々な健康体で未だ現役活躍中だ。
自身の立場を簡易的に確認したのち、ええと、と脳内の記憶に意識をやる。
フラッシュバックと共に押し寄せてきたその"記憶"の量は膨大で、夢物語の妄想というにはあまりにも実体験としての経験記憶であった。落ち着くまでに些か時間を有してしまったが、十六年間生きてきて見たことも聞いたことも経験したこともない出来事が、まるで過去に当然として在った出来事だと訴える頭に混乱するのは致し方ないだろう。
石畳というには整備された道、そこを走るのは馬車ではなく車と呼ばれるもので、小型のバイクや自転車、そして今よりも随分と身軽な服装をして歩く人々。夜中でも煌々と光に照らされ、通信機器の発達で遠方にいてもすぐに話すことができ、蛇口をひねれば誰でも水を手に入れられる。誰もが教育を受ける権利があり、治める自治体に意見を言う権利がある。生活の水準はやはり開きがあるものの、そこまで酷いものではないようだ。そして人々の大多数の手にあるのは、手のひらサイズの平らな機械。スマートフォン。
そのスマートフォン、で遊べる遊戯の一つ、幾つもの絵と文章で進み、時折音声が入りつつ、時にミニゲームがあったり、選択肢によって結末が変わったり、登場人物である複数の眉目秀麗な男性と恋に落ちる─────俗に言う、"乙女ゲーム"というもの。
レオナが通うトレヴィア学園は、その乙女ゲームの舞台になっている学園と、何から何まで同じであった。