強くなりたい 優しくなりたい
いくらウォーミングアップ作品とはいえ
これほどまでに、キャラに魅力がないのは哀しかったです
カレンダーでは、九月が終わろうとしていた。それでも夏の気配は消えそうにない。
「弦の父さん、カネの使い方おかしいだろ」
「そうか?」
六人用のダイニングテーブルで、弦は、眠たそうな七海を見ながらトーストをかじった。
「一緒に住むって言った途端、こんな部屋用意するか?」
「嬉しかったんじゃないかな。七海が、初めて頼ってくれたから」
大学から遠くない、3LDKのマンション。中古の物件だったが、賃貸ではない。
「客室は、自分達が泊まるためだろうし」
弦は壁掛け時計を見て、コーヒーを飲み干した。
「今日も遅くなるけど、ひとりでも、まともな夕飯食べてくれよな」
「弦もしっかり食えよ」
「僕は大丈夫。忙しい合間に食べる訓練中だし」
「今から、変人医師まっしぐらだな」
七海は焼きあがったトーストにバターを塗りながら、慌ただしい弦を見やった。
半月前から同居を始め、以前の弦にはない気力を感じていた。突然、夜間診療の手伝いを始めたり、講義も研修も、総てきちんと向き合っている。事故がきっかけで、後継ぎとしての自覚が芽生えたーーと、七海は解釈していた。ところが「金沢は七海が継ぐから」と、父親に宣言したのだった。
「Advanced emergency、志望とか?」
「高度救命救急もフライトドクターも、キツいし人材不足だからね」
弦はリュックを肩にかけ、「行ってきます!」と部屋を出ていった。その背中が眩しくて、七海は悩ましいため息をゆっくり吐いた。
*
ベッドに寝そべり、サトルはディトレードの数字をぼんやり思い出していた。
タケルの仕事を手伝ったり、好きな航空系のバイトは面白いし、遣り甲斐もある。少しまえまでは、博士課程が学生としての目標であり、システムエンジニアになるだろうーーと思っていた。それが今、漠然とではあれ、歪みを生じているのだ。
「おまえはオサドか」
開けっ放しの戸口で、サトルを監視するような双眼が光っていた。サトルに声をかけられた仔猫は、軽やかな身のこなしで、彼のベッドへ飛び乗った。
「もう寝るのか?」
喉を鳴らしながら身体を擦り寄せる仔猫を、片手でつまみ上げ、腕の中に収めた。ユヅがいなくなり、飼い主は実質、タケルのはずだった。それでも仔猫は、毎夜サトルのベッドで丸くなっていた。
「カリフォルニアとマサチューセッツ、おまえならどっちがいい?」
応えるはずもなく、仔猫は大きなあくびをした。
「ここがいいニャ~」
戸口からの声に、サトルは舌打ちをして上半身を起こす。鴨居に手をかけ立っていたのは、家主で叔父のタケルだ。
「キモっ」
「可愛かったら怖いだろ」
タケルは悪びれたふうもなく、ソファーに落ち着いた。
「海外の工科大じゃなきゃダメなわけ?もしかして、NASAで働きたいとか?」
「宇宙までは考えてねぇーよ」
「でも、やっぱり空か」
電子タバコをくわえるタケルに、サトルはため息をこぼした。この叔父は、ふざけているようでいて核心を突いてくる。高校時代、航空好きならヘリの操縦くらい覚えておけと、費用も負担してくれたのだ。
「IT系だけなら、叔父きの手伝いできるけど…」
好きなことをしながら、次々と資格、技術を習得している気楽っぽさが、誰にともなく心苦しかった。
「サトルがいないと、うちの会社はトラブりかねないし、方向性の違う事業でもするかな」
「また立ち上げるのか?」
タケルの商才は認めている。僧侶になっていても、新しいビジネスを発信し続けただろう。伝統や継承を重んじるサトルの父親とは、大きな溝を感じていた。
「バックグラムチェックとホワイトハッカーを、サトルに任せっきりも悪いし」
言いながら吐き出された煙は、グレープフルーツの匂いがした。気を遣い、ビタミン煙草を吹かしていたらしい。
「おまえなら、F35も操縦できそうだ」
「誰が自衛隊に入るか」
サトルは仔猫を撫で、「ドクターヘリだったら、整備も操縦もアリかも…」とひとりごちた。
「ユヅ?」
三浦芙華は、すれ違った青年をそう呼んだ。
彼はその声に気づかないのか、早足で過ぎていった。
「…男だ」
芙華は呟き、彼の背中を追いかけた。確かに、彼は男性だった。それでも、芙華が感じた気配は、夏に出会い、忽然と姿を消したユヅだった。
構内の図書室でサトルと待ち合わせをしているのだが、時間には少し早い。正門をくぐると、馴れない大学のせいかあっさり見失ってしまった。
「早かったな」
背後から降ってきた声に、芙華は一瞬ヒヤリとしたが、すぐ、兄だと気づいた。
「もぉー、脅かさないでよ!」
いつも勝手な妹だが、今日は一段と情緒不安定らしい、とサトルは察した。目の前を、白衣に身を包んだ医学生が数人横切った。
サトルは、何となく理解した。
「サトちゃん、ユヅって女子じゃなかったの!?」
芙華の目も口調も真剣だ。
「どっちでもいいだろ」
言い捨てるようなサトルに、芙華は眉尻を上げる。
「どーしてタケにぃもサトちゃんも、ユヅのこと教えてくれないわけ?あたし、これでも友だちなんだけど」
芙華は唇を尖らせサトルの手首を捕まえると、白衣の学生たちの脇を小走りですり抜けた。
サトルは、止めれば余計に突っかかってくることを思い逆らわなかった。あれ以来、ユヅとは会っていない。会ったところで、彼は意識不明の時に何があったかなど覚えていないだろう。
考えたくなかった。自分のことを知らない彼に、他人行儀な態度をとられる確率の高さを。
「ユヅ発見!」
芙華の声に、サトルは息を飲んだ。
「待ちなさいよ!!」
甲高い声に驚いたのか、彼はようやく足を止め振り向いた。黒目がちな瞳を見開き、自分を追って来ただろう女子と向き合った。
「何の用ですか?」
「な、なな何って何よ!」
焦った様子の芙華の背中越しに、サトルは落胆のため息を吐いた。自分が思っていた以上に、胸の痛みは大きい。
「すみません、時間がないんです」
「ユヅ、今夜飲みにいこ!」
慌てふためく芙華に、弦は眉間を寄せ、サトルは額に手を当て空を仰いだ。
「ごめんなさい、バイト入ってるんで…」
彼は挙動不審な芙華を追い払おうとしているわけではなく、本当に忙しそうだった。
サトルは、色の薄い弦が心配になった。
退院してから、体調を崩したりしてないだろうか
後遺症はどうなのだろう
七海とは上手くやっているのだろうか
バイトで無理をしていないだろうか
きちんと食事をしているのだろうか
軽く頭を下げ、立ち去ろうとする弦に、
「そのうちさ」サトルは、つい声をかけていた。「また飯食いに来いよ」
「え?」
振り返り、弦はサトルを見上げた。
「迎えにいくよ。猫も少し大きくなったし」
弦はじんわり熱くなる目をきつく閉じ、口許を手で被った。
「力、入りすぎだぞ」
サトルは彼の頭を軽く撫で、ゆっくり離した手をそのままかざすと、背を向け来た道を大股で引き返した。
縁があればまた会える。
会えなければその程度だ。
「お味噌汁、なすのお味噌汁がいい」
背後からの声に、きつく閉じた唇が震える。
サトルは右手を高く上げ、歩調を速めた。
またな
弦は、人混みに紛れ見えなくなった彼を呆然と見送った。頬を伝う涙に気づくこともなく。
研修の時間が迫っていた。
弦はスマホのアラームを止め、立ち尽くす芙華に手を振り駆け出した。
道は人の数だけある。
それでも、どこかですれ違い、ぶつかり、交われば、一緒に歩むこともあるだろう。
偶然を装った、必然というものがあるのなら。
目を通してくれて、
つたない話、文章につきあっていただき、ほんとうにありがとうごさいます