いち、身元保証人兼雇い主と異世界人の私
「……マッダレーナ?」
「は、はいっ! なんでしょうか? 旦那さま」
豪華なお屋敷の一室。
大理石の床掃除をして、頑固な汚れと雑巾で格闘していた私は、思い切り顔を上げました。
目の前に立っているのは、私の頭二つ分ほど背の高い身長の青年。
その高さから見下ろしている、氷細工のような美しい顔の瞳は氷点下で、ビクビクしながら私は返事を返しました。
旦那さまはとても美しいお顔をしていますが。
――はっきり言って、怖いです。
その瞳は、マジで透明な水晶球のように表情読めません。
テレビで見た氷河やら、洞窟の凍えるような湧水の冷たさのブルーです。
夏、暑い時に見たい……でもやっぱり怖いので、心の平和のためには見たくないです。
そして、旦那さまは私を見る時は、少し顔をこわばらせるので益々びくついてしまいます。
綺麗な人に睨まれるのって、恐い。
だからといって、旦那さまの呼びかけをわざと無視したわけではありません。
私の名前は、本当は松田玲菜です。
最近まで地球の日本で、念願かなって合格した高校に通うごくごく普通の女子高生だったはずなのに。今は何故か異世界の「ラマンディーラ」という国で、大神官様のお屋敷の使用人やってます。この国では時折、ほかの世界からの迷い人がいるらしく、そんな人の事……私の事もですが、神の落とした者。で、略して「落し者」と言われているそうです。
この氷樹のように美しい目の前の青年は、身元保証人兼雇い主の大神官様です。
大神官……日本にはない職業なので、よくわからないのですが。
神社の神主さんのようなものでしょうか?
結構若いのに「大」が付く神官とはなんだかすごく有能で凄い事に思えます。そしてこの広大で豪華なお屋敷を見ると、その思いは間違ってはいなさそうです。使っていない部屋いくつあるんだろう……。ごく普通の家で育った私としてはびっくりするほどの大きさです。
旦那さまは私を引き取った義務感からか、毎日一度は私の顔を見にきます。
何かしでかしていないかと、心配なのでしょうか……うん、心配ですよね。
こんなに冷たそうな顔や態度をしていても、異世界から来たという得体の知れない私を信じて、引き取ってくれたのですから、頑張って働いて恩返ししなきゃいけません。真剣に、全力で。
まぁ、このままこのわけのわからない世界で身一つで放り出されたら、3日で干からびる自信があります! ので、いつ旦那さまの気がかわって追い出されないためにも必死なんですが。
「…………マッダレーナ?」
「ひっ! 申し訳ないです。す、少し考え事を」
また、旦那さまの呼びかけを無視してしまいました。
でも仕方ないことなのです。
名前は? と聞かれた時にフルネームで答えたんですが。
この世界では、日本語名は馴染みのない響きのようで「まつだれな」が「マッダレーナ」に聞こえたらしく。その思い違いを訂正しないまま、この日まできてしまいました。
そのせいで、呼ばれても気がつかない時が少々。
こんなことなら、もうちょっと伝える努力すればよかったです。
「お前の旦那様が、呼んでも……床掃除か?」
「ご、ごごごごめんなさいっっ! 旦那さまっ!!」
べちゃ。
慌てて頭をさげたせいで、勢い余って手に持っていた雑巾が宙を舞い。
旦那さまの立派な神官服に、ぞぞぞ雑巾がっ!!!!!
雑巾をこれまた凝った――主に金糸で複雑な刺繍がしてある――朱色の縁取りがしてある白の上衣にベッタリと投げつけてしまいました。
私は更に慌てて雑巾を引き剥がすと、エプロンの裾で必死で旦那さまの衣をふきました。衣の白色の部分にはつかなかったのは幸いでした。しかし、汚れを落とそうとたっぷり水を含ませていた雑巾は、バッチリとシミを作って、残念な存在感十分です。
この国の大神官である旦那さまに、これで外を歩けというのは、とっても恥ずかしいことでしょう。
「…………っ!!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、本当にごめんなさい」
「……もう、いい。ここの後片付けをしておけ、αι?νια αγ?πη」
「はっ、はいっ……」
ため息と「αι?νια αγ?πη」という単語に込められた冷たさに一瞬心を痛めながら、はっと気がついて周りを見渡すと。
床には錯乱した掃除用具、転がったブラシ、雑巾といつの間にかひっくり返ったバケツが水たまりを……って絨毯にまで流れていきそうです!! 汚れた水がっ!!
そう見えた瞬間に、私はその水を塞き止めようと雑巾をつかむと、変なふうに脚をひねってしまい、ばたりと倒れてしまいました。
とりあえず、高級そうな絨毯に汚水がかかるのはなんとか、阻止しました。
……私の着ているメイド服で。
服なんて汚れたら、洗えばいいんですよ!
汚れるために着てるモノなんですよ!
この世界、手洗いなんで大変ですけどっ……。
内心ちょっと泣きそうになりながらも、耳を触りながら私はほっとしました。
絨毯のお掃除なんて、服を洗うよりも更に大変です。
場合によっては日に干さなければならなくなると、上にある家具を全て移動させることになったら大変な重労働です。一人で出来る仕事ならいいのですが、館の他の使用人の方々にまで迷惑をかけることになります。他の使用人の皆さんは、私が異世界人だからなのか腫れ物を触らないかの如く親切なんです。親切すぎてよそよそしいぐらいです。普通に仲良くなりたいんですが、それは焦っても仕方ないですよね。異世界から来た人間、なんて不振がられても仕方ないのです。いじめられないだけでも本当に感謝しなきゃいけません。
細心の注意を払って、倒れた体制ながらなんとか雑巾でその水を吸い取って、やっと絨毯には被害を起こらない程拭けたので体を起こせました。メイド服自体は紺色で水のシミはなのですが、生成りのエプロンが灰色に染まってます。
ふうと、何かやり遂げた達成感が私の気持ちを晴れやかにします。
これから、着替えて洗濯ですが。
その辛さを振り切るように掃除用具を集めようとして、手を伸ばそうとすると。
ひぃぃぃ。
後ろ姿から何か、何かっ圧力を感じます!
「ま、まだ、いらしたんですか? 旦那さまっ!?」
そ、そんなに見張っているなんて、私の働きに不満が……。
ゾクゾクするような死線……じゃなくって視線を感じて振り向けば、旦那さまがこれまた居ました。
こう、生ゴミを見るような汚らしいモノを見る目です。
こんな汚れたもの視界にも入れたくない、視線を今にも逸らしたい、そんな気配がプンプンです。
本当に酷いありさまなので、その視線は仕方ないですが、その態度は心臓に悪いです。
「私がいたら……何か不都合があるのか?」
「すみません、せっかくお屋敷に雇い入れてくれたのに、お役にも立てず」
「そんなに気に止むことはない。お前がなにもできない者という事は、初めから織り込み済みだ」
「そ、そうですか」
それは、ホッとしていいのやら、悲しいやら。
でも、それでも雇ってくれた! という旦那さまの寛容さがちらっと見れます。
「お前にはもっと、ふさわしく、やるべき仕事があるはずだ、もっとな。……例えば」
「はい!私、自分に合う仕事が見つかるまで頑張ってみます。そしていつか旦那さまにご恩返ししてみせますから。厨房はコックさんに余計なことはするなと怒られちゃいますから、今度は厩舎の方に行ってみますね!」
私はこれ以上、旦那さまの機嫌を損ねないように、掃除用具をもたつきながらも自分に出来る全力の速さでまとめあげます。
とりあえず、窓は割らなかったし。
暖炉の上のキラキラと眩しい存在感のある花瓶も割りそうだな、とびくびくしてしまったけれど割らなかったので、出来は上々です。室内の様子を見渡して自分なりに満足して私は耳を触り。旦那さまに一礼をして退出しようとしました。
「待て、お前は……そんな格好で行くつもりなのか?」
「うぎゃ!」
旦那さまに言われるまで、気がついてませんでした!
濡れた衣服がぴったりと上半身にピタってます!
スカートの方は布地が多いし、下着がパニエみたいなのでなんとか恥ずかしくなることになってないのでいいですが、薄い生地で出来たエプロンとブラウスが胸の形を……。
「そんな格好で私にこれ以上、近寄るな。近寄るなら私が下がる」
ひらりと緋の衣を舞い上げて、白い手袋をした手を私にかざします。
旦那さまに近付く気は全くなかったのですが、それほど拒否られては、少し落ち込みました。途端、暖かい風が周りを吹いたような気がすると、な、なんということでしょう。洋服が乾いていました。汚れも綺麗さっぱりです。
「そんな格好を他の使用人たちに見せるのは示しがつかん」
「え、あれ? え?」
「本当にお前の世界には、術はないようだな」
このようなことも知らないのかと、目を細め呆れたように旦那さまは言いました。
あ、そうでした。
この世界はなんとっ!「魔法」があるらしいですよ!?
それどころか神様がいて、個人差はあるらしいですが、産まれた時に祝福を与えてくれるらしいです。その祝福を与えてくれる神様によって、使える魔法は違うらしいのですが。羨ましいです、使ってみたいです……と言ったところ、異世界からの住人はその加護を受けられないそうで……魔法は使えないそうで、残念です。
てっきり旦那さまは、見るからに「氷」とか「雪」とかの神様に守護されているかと思ってましたが、今感じたのは熱風?
「火と水と風の混合法術だ。私は、複数の神々に祝福されているので使える」
「す、すごいですっ!!」
まるで魔法のようっていうか……魔法なんですけど。
ボキャブラリーがないので私は旦那さまを、尊敬の眼差しで見るしかできません。
「だから、大神官の地位に座っている」
あまりの私のテンションにドン引きされたようです……そうクールに言うと。また一歩、私から距離をとられてしまいました。旦那さまは見るからにはしゃぐのお嫌いみたいですもんね、反省です。
クールに、クールに。
なんとか気持ちを落ち着けると、旦那さまの神官衣は、濡れたままだと言うことに気が付きました……あれ?
私の疑問視線に、賢い旦那さまはやはり気がついてしまったようで。
「これには、使えない」
イライラしているように答えました。
それはクリーニングに出せる服と、出せない服みたいな?
洗濯表示マークの「プロの手洗いオンリー」みたいな?
そ、そんな大事な服を!!
染み抜きの技術を習得しようと心に決めました。その前にそんなことにならないのが一番ですが。
「それに私は使用人の仕事を増やす気はないが、取り上げるつもりもない」
「す、すみません、増やしてしまって」
「お前の相手をしていては遅刻しそうだ。今から私は神殿に行くが、これ以上、私の目の届く範囲外では何かしでかさないように」
「あ、神殿に行かれるんですか?」
私は旦那さまが「神殿」という言葉が出たので、つい食い気味に聞いてしまいました。
「なんだ、お前も行きたいのか?」
――行きたいですっ!
と、つい返事をしそうになって、はっと仕事中だということを思い出しました。
「ついでだ。一緒に連れていってやってもいいが。くれぐれも私の側を離れるなよ」
「いえいえっ! お忙しい旦那さまにご迷惑はかけられませんし、まだまだお仕事ありますから。お休みにでも行ってみようかと思っていたんです」
十分に、旦那さまの通勤のお邪魔をしています。
それに私が神殿に行ってみたいのは、実は――。
と、旦那さまに言いにくそうにしていたところ、誤解を生んだようです。
「いくら神殿に行こうとも、お前が帰る手がかりはない。諦めて私の下で永久就職するんだな」
「雇用を保証してくれるのは嬉しいですが、ちがいますよ!」
もう分かっていました。
今までに帰ったことがあった、落とし者の方はいないって。
それはあきらめたつもりでも、何度も聞かされるとへこみます。
元の世界はそりゃあ恋しいです。
諦めるのも簡単には無理なんです。
だから、考えないように、考えないようにと、別のことを一生懸命しようと無意識に思っていたのかもしれません。
でも私が神殿に行きたいのは、それとは違う「人探し」という個人的な理由でした。
しかも、その事は大神官というお偉い様な旦那さまには口が裂けても言えません。なんといってもその「探し人さん」と出会ったことは、秘密にするという約束だからです。