河川敷だったと思う
俺が彼女に出会ったのは、確かタイトルの通り、河川敷だったと思う。
その日、俺は河川敷を歩いていた。歩いていた、歩いていた…?
いや、歩いていたというより、物色していた。
そも、歩いているという行為自体に意味があるわけではない、俺は探していた。
そして、その行動の延長線上に歩くという行為があったわけだ。(どうにも、この表現はしつこいように思える、後で修正しよう)
何を探していたかというと、きっとそれは彼女を探していた。誰ともつかない、想像上の彼女。ヴィーナスを探していた。
結果としてその彼女は見つかるわけだが、しかし、事細かに思い出していくのであれば、彼女はプランクトンの死骸の匂いの漂う川の縁に立っていた。おれはその姿を、その後姿をなんとなく見つけたのだ。
というより彼女が見つけてくれと、叫んでいた。
それは、比喩でもなんでもなく。実際に叫んでいたのだ。
大きな声、なのだろうか。腹からは出てない、しゃがれた必死の声色で、嘘を叫んでいた。
「だれか! わたしを、わたしをみつけてぇ!」
振り絞るような声、言葉の意味も理解していないような抑揚のない、叫び。
彼女はセリフを叫んでいた。
先に彼女について誤解を生むかもしれないので、前書きをしておこう。
彼女は先に書かれた文で察されるだろうが、演劇部の部員である。そして、俺は彼女の演技について辛めな言葉を綴っているが実際はそうではないだろう。俺にとってはその叫びは嘘に聞こえたし、彼女の姿に嘘を感じざるを得なかった。しかして重要なのは、俺にとって、という部分なのだ。
きっと万人が万人、彼女の演技を目の当りにしたら実際にどこか陰のある、可哀想な少女に見えただろうし、その叫びは若さとも迷いともつかない、微妙なニュアンスで耳朶に届いただろう。そう、嘘ではあるが、一級品であることは確かだったのだ。
ともかく、その声を聴いた俺は彼女に近づいて行った。
彼女は俺に気が付かず、叫ぶ。セリフを、美しい声をしゃがらせて。
俺がなぜ近づいたかに関しては、どうでもいいこと、で終わらせるわけにもいかないので、記すと、彼女の表情がいかほどのものか見極めてやろうという気になったのだ。そも、先にも書いた通り、俺にとっては嘘の叫びであるがその叫びを厚顔にも堂々たる身振りで表現する彼女の顔はいかほどのものか、興味が出てきたからである。
「ソータさん! あなたは分かっていないの、貴方が如何に彼女を愛していようが、私の中に彼女はいない! だか、らだか…えーっと」
彼女はセリフに詰まって後ろに投げてある台本を拾うとしたのか。丁度後ろに近づいてきた俺を見つける。すこし、驚いたのか肩が跳ねたのが分かった。
「上手いね」
「え? あー、えっと? ありがとう、ございます」
「演劇部の練習?」
「あ、えっと」
彼女が戸惑うのも無理はない。知らない男が自分の練習を眺めているどころか近づいてきたのだから。
俺は彼女を安心させるために嘘をついた。
「俺も演劇やってたんだ」
「へえ、? そう、なんですか」
「聞いたことないかな」
俺はとある劇団の名前を口にする。すると、彼女は少し驚いて、そして再び怪訝な表情を見せた。どうやら、俺のついた嘘が嘘だと思われているらしい。
「信じてないかい? 君、三高の子だろ。豊橋って知らないか」
「え、豊橋先輩?」
「そう、彼女。彼女ウチの研究生で俺が指導したんだ」
「あ、え…じゃあ本当に?」
戸惑うようにバタバタと表情を変えていく彼女が、一瞬はっとなり、こちらに頭を下げた
「すいません、嘘だなんて思って」
今時殊勝だが、遠慮がちな子だ。誰もそんなことで怒ったりはしない、ましてや嘘を怒る奴なんてよほど追い詰められた馬鹿ぐらいなものである。
そして、それが彼女の社交辞令。つまりは心理的な仮面であるのなら尚更だ。
「いや、いいよ。発表が近いんだろう」
「あ、え、いやその」
「ん、オーディションかな? 随分と積極的なんだね」
「とんでもないです…」
彼女は俺を完全に本職だと思っているのか、照れ臭そうに笑う。
「悪い演技をするね」
「え?」
「あ、いや。いい意味で悪いといったんだ」
「どういうことですか」
「役者というのは、本来嘘をつけない人種だからね。君は嘘が上手そうだから」
「嘘、ですか」
「君は、別に誰かに見つけてほしいわけじゃないだろう、ああ、いや、そうだ、ごめんね。勝手にセリフを聞いてしまって」
「ああ、いえ」
「でも君にはこのセリフが、解らないだろう」
彼女の表情が怪訝を通り越して警戒に入る。それもそうだ、初対面にここまで言われたら。
分かった気になって、分かられたようなこと言われたら。
誰だって、嫌悪するし誰だって逃げたくなる。
「もう一度、セリフを言ってみないか? ごめんね。怪しいのは分かっているけれど、豊橋の下だと気になってね」
すこし逡巡して、彼女は一度所在なさげに台本を手に持った。そして文字を眺めるふりをして、大きく深呼吸する。彼女の中で何かを切り替えたのだろう、こちらに向き替えると
「合図、もらえますか」
といった。俺はうなずき。両手を持ち上げ拍の準備をとる。すこし、間をおいて手を鳴らしてやった。
彼女がセリフを吐く。彼女は俺の前で嘘をつく。
彼女長いまつ毛が、彼女の跳ね返るような唇が、彼女の白い顎先から喉元が
そして何より、彼女の髪の色つやが嘘の鈍色で輝いている。
どぶのように濁った川の前、彼女は愛の所在がないことを叫ぶ。
彼女は嘘をついていた。
言い終わると、どうですか。と目で訴えてきた。
「やっぱり、いいね」
「ありがとうございます」
「でも、やっぱり嘘が滲んでる」
「……」
「役は、なりきるものじゃない。体の中に入れるものだ。そして、それが自分に合わないのなら対話をすべきだ」
「対話、ですか」
「そうだ、対話だ。君は何がしたい? 君はどうしたい? と、その役に語り掛けるのさ。そして、その叫びに体を呼応させてやる。君は役の代弁者になるべきなんだ」
「代弁者、ですか」
「そう、もう一度やってごらん」
彼女が後ろを向く。彼女は真剣に自分の中に語り掛ける。
俺はその姿を見ている、見ているだけに飽き足らず。きっと手を伸ばしたくなる。
俺が見ていたものはかのミュウズに非ずして、ヴィナスであったのだ。それが、君だ。わかるかい? とは、どこかの戯曲のセリフだったろう。誰だっただろう、田中千禾夫か岸田国士か。
彼女の演技は素晴らしいものであった、であるがしかし、何より彼女を彼女足らしめていたのはその美貌であったのだ。彼女は納得できずにいた、なにせ彼女は自分が美しいことを知っていたからである。だから、誰とも知らない女の気持ちが、見放された女の気持ちが理解することができない。もちろん、彼女があと五年、十年と年を重ね男や世間、社会を知って行く内にその理解ができないということさえも飲み込むことができるだろう。しかし、彼女は若い。だから、若く書かれたその脚本の、そのセリフに共感も埋没もできないのだ。
そも、彼女は誰かに見つけてほしいと願うのではなく。
誰に見つけられるかを望んでいるような、そんな女なのである。
俺は出会った。彼女に
また一つ、燦燦と。
九月十六日 泡月 才之助