物は試しに書いてみる
『夕映え燦燦と』とタイトルを付けてみた。
しかし言葉の響きばかりで意味がわからない。
ただこの言葉の響きはこれ以上にないほどこの小説のリズムに相応しいと確信していた。
暗い部屋の中、ディスプレイの明かりで自分の指が浮かび上がる。打鍵する指の動きに、もはや考えているスピードと反射神経が繋がったのではないかと錯覚する。
実際にはそんなことはありえない。だって打つスピードそんなに速いほうじゃないし。むしろ遅いほうだとも思う、そしてきっと打鍵スピードが遅いから考えている内容を精査する時間が生まれてしまい、思うように筆……というか文が進まないのだとも思う。
いまさら、創作に。精査も、何もないのだけれど。
けれどもしかし、筆は止まる。何が悪いのかさえ判らない。スランプに陥って、仕方なくタイトルでも考えてみるかと、横道にそれたのが原因なのかも判らない。結局、書き進めることは難しいのだと認めてしまいたい気持ちにもなる。
書き進めることは難しい。
これは、この小説を書ききることは、一つの挑戦だったのだ。
何せ、小説を書くということが初めてだったからだ。だから、そもそも小説を書いたことがなく、ましてや未だに小説の書き方、まあ、それは人それぞれであろうが、筋道の立て方とか、プロットとか、キャラクターの練り方とかそんなことを知らない俺には、無理な話だったのかもしれない。
ただ、なんとなく。
『創作』をして見たいと思ったときに、絵が掛けないから小説を選んだだけなのだ。
ただ漠然と表現したいことがあった。
芸術とはそのようなあり方でよいと、岡本太郎も言っていた。表現したいことがあるのなら、それはすでに芸術に触れているのだ。つまり小説とは芸術であり、芸術とは表現することにある。
俺には、漠然と表現したいことがあった。
『夕映え燦燦と』このタイトルに意味がないのか、真剣に考えてみる。
思い出されるのは、原風景。つまりこの創作の始まりの部分である。始まりとは、常にインパクトのあるものでなければならない。それは今まで読んできた小説たちがなんとなく教えてくれた。もしかすると、その本を発行している出版社が教えているのかもしれない。ともかくとして、インパクト・・・衝撃のある風景とは俺自身が体験した、衝撃の景色をまず読者に伝えることにある。
俺の小説は私小説だ。
表現したいこと、というのは俺の人生観に対する問いかけに等しい。ともすれば表現と言う形で読者に問いかけたいのである。俺は、俺という人間はどのようであるのか。つまり俺はこのふわふわと漂っているような浮遊感を、蔓延する怠惰を、誰かに知ってほしいと。そう願っているから、表現しているのである。
しかし、表現を生み出すことは難しい。そして、それが一切の共感を得られないとしても、表現をとめることも難しいのだ。
夕映え燦燦と、と言う小説はつまり告白である。
ある女への告白。そして、その告白はつまり愛であること。俺はその愛を不特定多数に晒そう。
九月九日 泡月 才之助




