「恩返し」
この湖のほとりに面した森から、ふたりの人間が現れました。
おじいさんとおばあさんです。
旅装はほつれてボロボロになっており、草鞋は擦りきれてしまっています。最後に見たときよりずっとやつれたように見えます。
人間のお父さんとお母さんです。
おじいさんとおばあさんは飛び立った仲間の群れを「あっ」と言うように見送り、肩を落とし、それから、たった一羽残っていた鶴に目を留めました。
おじいさんとおばあさんは、よたよたと走ってきました。足腰が萎えてしまっているのでしょう。
鶴も飛んで行っておじいさんとおばあさんを支えてあげたかったのですが、心の底にある恐れが邪魔をしてできませんでした。――人間の姿をしていない自分を、拒まれるのではないかという恐れです。
鶴からすれば長い時間をかけて、ようやくおじいさんとおばあさんは鶴の前にやって来て、がっくりと膝を突きました。
「その……な。ひょっとしてお前さんは、わしらの娘のあの子じゃなか? わしらは、情けないが、鶴の見分け方がよう分からん。親として情けないとほんまに悔しいが、鶴になったあの子かどうか自信が持てんのじゃ。もしお前さんがあの子じゃったら、一声聞かせとくれ」
おじいさんは膝の上に手を突いて頭を下げます。
一目見て自分と分かれというのは酷な話だと鶴には分かっていました。
真摯な頼み方をされて、鶴は黙っていることなどできませんでした。
「おとうさん……おかあさん……」
姿は鶴のまま、声だけを人間のものに変えて語りかけました。
「おまえなのかい!? ああ、やっと会えたのね!」
おばあさんが鶴を抱きしめました。
「二人ともどうしてここにいるの?」
おじいさんが教えてくれます。
鶴が家を出たあと、おじいさんとおばあさんが鶴を探して旅に出たこと。
今日までの月日の中で渡りの群れを探し、先ほどのように語りかけたが、ずっと娘はいなかったということ。
おばあさんが、鶴の丸めた背中を撫でる間、鶴は信じられない気持ちでおじいさんの話を聞いていました。
「私が出て行ってからもう長いこと経ってるのに、その間ずっと探してくれてたの?」
おじいさんもおばあさんも一様に肯きます。
鶴は胸がいっぱいになりました。
「それにしても、他の鶴たちはお前を置いて飛び立ったというのに誰ひとり帰ってきやしないのね」
「ついて来られないならそれまでなの。渡りは群れでするけれど、それは一羽よりも外敵から身を守りやすいからであって、落伍した一羽のために群れが危険になっちゃ意味ないもの」
鶴はいつも「落伍した一羽」だった。本当に落伍はしてはいないが、いつでもしんがりに辛うじて付いていた。
とろい自分を誰も労わったりしないのは普通だったのに。
「みんな、多分もう戻って来ないんじゃないかな」
「――そしたらお前はこれからどうするんじゃ?」
おじいさんが険しい声音で尋ねます。
「独りきりでひっそり生きるわ。一緒に発てなかったなら、私の速さじゃ追いつくなんて無理だもの」
「独りか」
「うん」
「行く宛てもないか」
「うん」
「ほんならうちへ帰ろう」
「――え」
おじいさんは、鶴の小さな頭を、しわだらけの細い手で優しく撫でます。
おじいさんの目に嘘はありませんでした。
「そうですよ。帰りましょう。そのために私たちはお前を探してたんですよ」
おばあさんも言いました。
「私たち、お前にはたくさんたくさん幸せにしてもらったからね、本当に心から感謝しているの。――今まで本当にありがとうね。今度は私たちがお前を守って、幸せにしてあげる番だよ」
「でも私、人間じゃないのに。それに、もう反物を織る羽根だってないのに」
「いいんだよ。もういっぱい貰ったからね」
鶴の中からじわじわと熱いものがせり上がってきました。人間だったなら、きっと自分はしわくちゃな顔をしていたでしょう。
怖がられたら、拒まれたら、また何もさせてもらえなかったら――
そんな不安はもうありません。
「さびしかったじゃろう。もうひとりぼっちでおらんでええからな。また親子三人で仲良う暮らそう」
おじいさんとおばあさんは鶴を抱きしめました。
二人の温かさに、鶴の中で凝っていたものはゆっくり溶けていきました。
鶴はおじいさんとおばあさんを、その羽根で抱きしめ返しました。
「お父さん、お母さん、私もあの家に帰りたい。ずっと、帰りたかったの……っ」
こうしておじいさんとおばあさんは、一羽の鶴と一緒にふるさとに帰って行きました。
家に帰ったおじいさんとおばあさんは、反物を売ったお金で、鶴のためにおいしい果物や魚を買い、二人と一羽で仲良く食卓を囲みました。
二人と一羽の、新しい生活の始まりでした。
こうして鶴に恩返しをしたおじいさんとおばあさんは、鶴に看取られながら満足に生涯を閉じました。
優しいお父さんとお母さんの愛情をたくさん貰った鶴が、しゃんと翼を広げて旅立ち、遠い地で伴侶を見つけて子を儲け、よい家庭を築いたのは、また別のお話です。
めでたし、めでたし。