鴨川嘆きのジンタ
この作品を、亡き父・母及び家族と、心ある人々へ捧げます。)
鴨川嘆きのジンタ! 真っ赤に咲けよ!オゴニカの花!
(懐メロと童謡にささえられて!
平成貧乏物語
京都四条大橋のほとり、出雲の阿国の碑の前で、懐メロ・童謡の路上ライブをしているしがない男。この男、ピエロの面をかぶり、悲しげに、憂いをこめて、なおかつ奇妙なことに、楽しげに歌っている。三月三日だったので、「嬉しいひな祭り」を歌っている。また京都なので、菊地章子の懐メロ「春の舞妓」も歌っている。確かに、好奇心旺盛な御仁にはちがいない。
この初老の男・私・橘兼人がこの小説の主人公の一人である。物語の主人公にこのようなロートルかと、訝る人の気持ちも理解できるが、このような稀有なことが、高齢化が進んでいる現代社会では、充分ありうることだ。
通行人はこのライブにほとんど、無関心で、ただ外国の観光客が物珍しそうに、立ち止まり、古都・京都見物のついでに、たいして面白くもないけど、ちょっと、珍しい光景で、自国では、聴いたこともないエキゾチックな歌だから、チョットした記念にとカメラをむける。その中に、オッチョコチョイの明るいアメリカの若者が日本人の彼女を伴って、しばらく、聞いてくれた。彼女はメガネをかけた真面目そうな人だった。カセットテープが2個売れた。とりあえず、「日本の唄、すばらしい」とたどたどしい日本語で、彼女と一緒に拍手してくれた。嬉しかった。家に持ち帰って、そのテープをしっかり、聴いてくれたら、尚、嬉しいのだが。
その日の売上は1,000円だ。楽しくもあり、虚しいパフォーマンスで終わった。私の狙いはこのテープが一つでも多く売れることである。私はド素人にもかかわらず、厚かましくも、プロ並みに有料で販売しているのである。生活費を稼ぐためだ。僅かな年金では、最低生活もままならない。そこで、多少の小遣いを捻出するため、この哀れ、かつ奇妙奇天烈なパフォーマンスを演じることとなったのだ。ピエロの面は恥ずかしさやら度胸のなさをカバーすることと、多少は通行人の気をひくためだ。通行人は、遠巻きにクスクス笑って通る。 なかでも、ショックだったのは、いかにも上品そうな地元京都育ちの人らしき五十代半ばのご婦人が薄笑いを浮かべて、立ち去って行ったことだ。京都の人であれば、私の唄に多少は興味を持ってくれるのではと思った誤算の結果だ。また、20歳ぐらいのヤンキー風の光の三原色のように髪の毛を染めた男の子が三人・私の真ん前に現れ、「この爺さん面白い。何やってるんや!」と言いながら、私の唄に合わせて、ふざけた合唱をはじめた。
「お前ら!いいかげんにして、あっちへ行きな!」と追い散らす始末。それも、恐る恐る。いかにも、みすぼらしい文化アパートの我が家に帰ってくるなり、疲れとみじめさがドット全身をおそう。ドン底生活を実感する瞬間だ。
私の母方の叔父は神風特攻隊員として、敵艦を目指して、鹿児島の知覧飛行場を飛び立ったが、屋久島近くの海上に故意に不時着した。戦後2年経って、ひそかに、九州の故郷へ帰還した。
当時、叔父の選択を非難する者は誰もいなかった。むしろ、家族も村のひとたちも、皆抱き合って喜んだ。とりわけ叔父の母の喜びように村の人たちも涙したとのこと。父も母も(私の祖父母)も叔父の死を確信して、墓までたてていたのだ。
帰還するまでの2年間、叔父は何処かで、悩み、苦しみ彷徨った果てに、否、悩まずにしっかりと帰還の計画を立てていたのかもしれないが、そんなことはどうでもよいことで、兎にも角にも、父母の待つ故郷の我が家に無事、帰ってきたのだ。
叔父は生前、この2年間のことを誰にも話すことはなかった。また叔父に聞く者もいなかった。叔父は不器用な人だったので、妻や子供たちにも話すことはなかった。その代わり、帰還後しばらくは、酒を浴びデカダンに生きた。「デカダンにも主張があり、後悔はない」と、自分に言い聞かせて、終戦のドサクサを紛らすしかなかったのだ。
当時、私はまだ子供だったので、後にこの話を母から聞き、叔父は冷静で勇敢な行動をとれた人であり、人生をおもいっきり生き抜く資質のある人だと思った。さらに、当時、流布していた右に左にブレまくった浅はかな輩をしり目に、自分なりの戦後の生き方を真剣に模索していたのだろう。
それで、平凡で、幸せな人生をいきたのだ。そのいかにも実直な風貌のなかに、穏やかな表情をみて、私は叔父の人生は後悔のない充実したものだったのだと確信した。叔父は数年前、他界した。私はそういう叔父をひそかに、慕いつつ、自分の塒を探し求めている。
オゴニカの花は、中国・黒龍江省とロシアとの国境沿いに咲くという逞しくも、可憐な花である。真っ赤に咲く花である。冬の厳しい寒さに耐えて、暖かい春をつげる花である。私にはなんともいえない、郷愁をそそる花として、記憶に強烈に刻まれている。不思議といえば不思議。私はこの花をただの一度もみたことがない。ただ、岡晴夫のデビュー曲で昭和14年(国境の春)に歌われた歌詞の中に「咲けよ!オゴニカ 真っ赤に咲けよ! 燃ゆる血潮のこの胸に 明日の希望の花よ咲け」と歌われている。この頃、他にも、オゴニカを歌った唄が数曲あった。
情熱的で郷愁をそそる歌だ。戦前のソ満の国境地帯で歌われた唄で、春をまつ身に、吹雪が吹き荒れる大陸の風景が、その荒野に咲く真っ赤なオゴニカの花が、恰も、そこに、居合わせたように、眼前にくっきりと、映し出されるのだ。
別れた妻の百恵を思い出すとき、このオゴニカの花も一緒になって、百恵の姿の背後にいつも見えるのだ。また、「アリラン峠を超え行く」や「片割れ月―管原都々子」等の朝鮮系の唄を聞いていると、如何してか、心を和ませてくれる。情感あふれるこの感情が身体の芯まで浸透していくようだ。日本人と朝鮮の人々とはやはり、古来より、何処かで、血が繋がっているのだろうか?
また、百恵と一緒に、昭和16年に、河原喜久恵が歌った「月の浜辺」を阿佐ヶ谷のカラオケ喫茶で歌ったものだ。私は子供のころ、九州で育ったせいか、逆に北国を慕う気持ちが強い。百恵の先祖は北の地・山形の庄内藩(現在の酒田市・鶴岡市)の士族の出で、世が明治に変わって、廃藩置県・秩禄処分・廃刀令等の明治新政府の政策により、落ちぶれた士族の末裔だ。
時代と折り合いを付けられず、要領の悪い真面目な人達だった。明治20年ごろ、山形から、東京の下町へ移り住んだ。私は中央沿線の阿佐ヶ谷で、百恵と2年間の同棲生活を経て、結婚した。
因みに、庄内藩は幕末に敵対していた薩摩藩の西郷さんに、明治になって、助けられた。西郷さんは、庄内藩では、尊敬されていたという。歴史に興味のある方は、西郷さんと庄内藩の関係について、関連の本は多数。一読ください。西郷さんが龍馬と同様、横暴な国家権力関係者(K)の中で例外中の例外だったということだ。龍馬と同郷の土佐の岩崎弥太郎(T特権階級)と比べられよ!自ずと、歴史が物語っている。
私は学生時代、その当時の学生の大半がそうであったように、学園闘争を経験した。マルクスの資本論など、話題にしても、ほとんど数ページで放り投げ、大勢の中で、烏合の衆の一人として闘争に参加した。
学園闘争に参加しない者は、ノンポリとして、馬鹿にされた。ノンポリとはNON-POLITICALの略称で、政治問題や学生運動に全く関心を示さない人達のことである。ましてや、右寄りの人達はさらにレベルの低い人たちとして、左よりの人達から扱われた。概して、体育系の学生で、当局側(大学側)を守る人たちだった。当然、左よりの学生からは、嫌われた。
これ等右寄りの学生達の中には、政権側から金を貰って、学生からぬ生活を送っている輩もいた。本人たちは、いっぱしの、政治家気取りでいた。その結果、予想に違わず、現在、政権側の中枢にいる者もいる。一部は総会屋になった者もいた。
大学卒業後、サラリーマンになることをやめ、適当なアルバイトをみつけて、自分なりに自由な生活を送っていた。2年間位、司法試験の勉強もしていたが、自分には合わないと思い、あっさりと、諦めた。というより、世間体を気にして、受験勉強をしている振りをしていたのだ。
マルクスとは関係なく、「革命と搾取」という言葉からできるだけ遠いところで、我が道を進むことにした。マルクス等あまり、勉強しなかったが、本能的に感じるものがあったので、資本主義の歯車に乗っかっては、これ大変と世に背を向けて生きることにした。惨めな労働者には死んでもなりたくなかった。
しばらくして、知人の経営する喫茶店が当の本人の病気のため、閉店することになった。そこで私に経営の依頼があったので、喜んで引き受けることにした。天からの贈り物だった。高田馬場界隈だった。そこは、偶然に転がり込んできた所ではあったが、私にとっては、小さな清流から流れ込んだ夢のような恰好の桃源郷だった。大学街で学生や大学の教職員が常連客だった。
私は無気力な人生を送っていた。このような人間にとって、生活する手段として喫茶店経営はうってつけの商売だった。客との会話にも気をつかうこともなく、無精者の私にとって、願ってもない商売だった。開店して30年間は、家族を充分に養うぐらいには、繁昌していた。更に、週に一回、大学で法律の講義をしていた。私は大学は法学部卒で、法律系の資格受験講座を持つ私立大学で、ちょっとした小遣い稼ぎ程度で、講義をしていた。
この大学の学生達は、4年間、ほとんど、勉強することなく難なく卒業していた。例の司法改革で、法科大学院まで、設置していたが、開校以来、合格者は一人もいなっかた。当然、定員も満たしていず、学生の大半は中国の留学生で、それも名ばかりで、実際は、禁じられている就労目的で、滞在している人たちなのだ。
本来の大学の機能を果たしていない大学だった。日本の大学の大半はこのような私立大学で、文科省の天下り官僚が、高給取りの事務長として、迎えられ、できるだけ多くの助成金を文科省から、ひっぱりだしていた。
また、このような大学の経営者(理事長)は世襲制で、大学本来の教育理念など二の次で、自分達の懐具合だけを大事にしているだけだ。企業経営の感覚で教育理念が置去りにされている。温室育ちの一種の貴族社会を形成していた。実状は税金の無駄使いを堂堂とやっているということだ。勿論、この世界でも例外ありで、真面目な教育関係者もいる。
司法改革といえば、このことで、司法試験の合格者が以前の4倍ぐらい多くの合格者をだすようになり、弁護士でめしを充分食えない者もでて、カップ麺を食べて、糊口を凌いでいると聞く。現にNHKでこの現実をドキュメンタリー番組で放映されていた。
また、名門大学の校門の近くに、堂々と司法試験の大手予備校が教室を開校している。聞くところによると、司法試験の合格者は実質的に、これらの予備校へ通った人々で占められているという。嘆かわしいことだ。結果、今の実務法曹三者(裁判官・検察官・弁護士)の殆どは、大手司法試験受験予備校の出身か?大学の存在意義が問われる。司法改革はどこへいった?
とはいえ、これら大手予備校の教材は大学の学者によって、書かれた専門書をパクッテいるだけで、受験生が苦労せずに読めるように、作られたものだ。まあ、パクるということも、受験生が理解しやすいように、努力したということか?
法律専門の書籍は難解な表現が多々ある。専門家の先生方にお願い。予備校にパクられないように、もっと、解かりやすく、書いて下さい。勿論、一般大衆にも分かるようにお願いします。
百恵と摩子との家族生活は幸せそのものだった。この界隈も例にもれず、大型のファミレスの進出により、いまから7年前、喫茶店は閉店においこまれた。画一化したクールなビジネスとその思想に敗北したのだ。そして、破産だ。百恵とはこの破産騒動と私の浮気が原因で離婚することになった。
百恵には十分未練があったが、百恵の親類縁者の勧めと私自身にも自責の念があり、やむなく、離婚することにした。百恵は私の両親に心から尽くしてくれた。何一つ不平を言うことなく。両親が生きていたら、離婚話しただけで、猛反対されたことは明白だ。
百恵も私との過去はともかく、私との婚姻関係を維持したかった。いずれ、私が経済力を回復したら、百恵との復縁をきっと、果たそうと決意して。ところが、7年前の11月末日、夜半、そとは寒風が吹き荒れていた。
私が帰宅してみると、私の家財道具のみを残して、百恵と摩子が突然、姿を消してしまったのだ。もぬけの殻だ。茫然と家財道具のない部屋の真ん中で、立ちすくんでいると、今まで経験したことのない悲しみと孤独感が、どっと、こみあげてきた。
大声で「お前たち!勝手にどこへ行ってしまったのだ!」と、年甲斐もなく、子供のように、隣近所のこともかんがえずに、号泣したのだ。母が亡くなって以来、男泣きに泣いた。予期してはいたものの、離婚とはこういうことかと、実感させられることになった。
予想以上に、独り身の侘びしさ、寂しさがズシンと、心の芯までしみた。百恵も、言葉を交わして、別れるよりも、まだ、このほうが、別れやすい選択だったのかと私なりに勝手に納得して、こらえた。移転先はおそらく、向島の実家であろうと、見当は、ついていたが、百恵の家族のいる実家までは尋ねる勇気がなかった。
ジリ貧生活を強いられている私が、実家を訪ねても、かえって百恵と摩子に迷惑をかけることになる。後ろめたい気持ちが優先した。破産に追いやられたことで、鬱の気持ちが、数カ月続いた。当初はこの精神状態にどこまで、耐えられるかと思うと、お先真っ暗になり、自暴自棄になっていた。
世間は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり…万葉集 大伴旅人
(世のなかはむなしいものだと知る時こそ、いよいよますます悲しいのだった。)
しばらくして、京都に在住の学生時代の旧友から誘いがあり、気晴らしに京都へ移り住むことにした。
アパートを借りるのに一苦労した。私の収入(年金)では、不動産屋ばかりか家主自身さえ、申込の受付さえ、してくれないのだ。その不動産会社の規模が大きければ大きい程横柄だった。知人を通じて、ようやく、借りられたが。ここでも、格差社会の歪を実感させられた。破産以前は、比較的高級なマンションに住んでいたので、この落差に愕然とすることになる。
堀川通りの古いアパートで、みすぼらしい6畳一間の部屋があった。その代わり家賃は格安だった。6年前の2月の末だった。京都の冬の寒さは格別だった。百恵と摩子のいる東京を去り難く、後ろ髪を引かれる思いで転居したので、寂しさもましていた。
玉衣の さいさいしずみ 家の妹に 物言わず来にて 思いかねつも(万葉集 東歌)
(美しい衣のさいさいしずみ、家の妻にろくにものも言わずに出てきてしまい、恋しさに耐えかねている。)
私は京都の街に慣れたころ、四条大橋に近い、南座の北側・縄手通り界隈にあるカラオケ喫茶へ通っていた。ママさん1人で、低料金の店だった。それは、「カラオケ喫茶八金」という名の店だった。ママさんは土佐出身でいかにも南の国の女らしく男まさりで元気な明るい人だった。
八金とは、土佐で、向こう見ずで勝気な女を言うそうだ。名前をカンナといった。土佐弁丸出しでお客にはその方が、好感をもたれた。格別、美人という程ではないけれど、身体つきも、ぽってりとして、愛嬌のある小顔で、お客に人気があった。特に男性客には、ことのほかもてた。女性客は流石、京都の「はんなり」という京ことばが、ピッタリの常連は何人かいたが、カンナはこの京ことばからは、ほど遠い性格だった。
最も、最近の京都の人はこの「はんなり」という言葉を使わない。過去の言葉になってしまった感がある。しかし、私はこの言葉が大好きなので、使わせてもらう。
京都・関西以外の人達のために、「はんなり」の意味を講釈すると、「落ち着いて、上品で、明るいさま、味覚・聴覚・味覚」にもいうそうだ。
彼女は歌手で、歌唱力は抜群だった。はんなりとした京都のご婦人や、歌好きの男性達に人気があった。大正・昭和初期・戦中・戦後二十年代までの懐メロをよく歌った。20代の頃は、ダンサーを目指して、上京していたが、その夢を諦めて、京都に住むことになったとのこと。
歳は、四十代半ば。懐メロ世代ではないが、お客の要請で懐メロを歌ううちに、歌に磨きをかけていった。私といえば、この男こそ、母親世代の懐メロ以外、他のジャンルの歌に全く興味がなく、所謂、懐メロバカだった。
カンナは菅原都々子の「片割れ月」や松島詩子の「夕べ仄かに」などを、私は別れた百恵を偲んで、懐メロの「月の浜辺」・「啼くな小鳩よ」やディックミネの「黒い瞳」をよく歌った。このカラオケ業界では、新作と称して、歌いやすいだけが、取り柄の、つまらない唄が歌われていた。
甘たるい気の抜けた、なんの取り柄もない演歌が主流だった。音楽業界の狙い通り、この手のCDがよく売れた。カンナはお客の要望があれば、これ等の唄を歌ったが、本音は戦前の懐メロや戦後間もない頃、始まったラジオ歌謡に興味があった。そして、実際にこのようなジャンルの歌謡教室も設けて、お客さんに歌唱指導もしていた。教え方も優しく、丁寧で、キレのある指導が生徒に好評だった。
カンナは先を素早く見通す感にたけ、そのことでかえって、早合点して、結果、失敗すること、しばしばであった。店の料金を値下げして、集客を図ろうとし、多数の客を見込むのはよいが、「店内がこんじゅうて、後片付けもしんどい」「女の子も何人か、やとうか」と、いったぐあい。女の子の給料など払える状況でもないのに。未だ実現もしないことを、妄想する癖があった。当の本人は結構、大真面目で、傍から見ていると、滑稽極まりないことで、ちょっとした愛嬌と私は傍観していた。
妄想といえば、彼女は将来、当然メジャーになり、NHKの紅白歌合戦のステージで歌っている自分を信じていた。妄想と言えば、妄想だが。私もまた、彼女のその姿を想像して、NHKのホールで応援している自分を妄想していた。できれば、カンナとデユエットで戦前の懐メロの「沓掛小唄」や「お島千太郎恋歌」などステージで歌えたらと、妄想をふくらましていった。私自身も岡晴夫の「国境の春」や松井須磨子の「さすらいの唄」等をステージで歌っている自分を妄想していた。妄想合戦も良いところだ。とはいえ、妄想することも、精神衛生上、良いことだ。ほんの一瞬、人生を楽しくしてくれるものだ。
また、カンナに惚れ込んで、毎日のように、彼女の店に通ってくる常連もいた。ただ、カンナはそういう客と親しくなればなるほど、自己主張をし、土佐弁でまくし立てていた。
カンナは貧しい家に育ったので、TMKにヨイショする客には、常連でも、商売を忘れて、本音で、こっぴどく、やっつけてしまって、パッタリ来なくなったりした。当然と言えば当然だ。私はそういう客を7・8名は知っていた。これ等の客だけでも毎日来てくれれば、十分、店の採算はあったのに。
私はそのようなカンナに何時しか、魅かれるようになっていった。カンナも歳の差はあったが、私を父か、いや年の離れた兄のように慕っていた。しかし、一般にこの業界でメジャーな歌手になるためには、歌唱力に加え、多額な資金を要した。
私は精神面でカンナの相談役になれても、資金面での力にはなれなかった。それで、お客さんの中にしかるべき人がいないものかと、物色しているようだったが、なかなか、意中の男性があらわれそうにない。そこで、私に相談があった。私は京都の四条河原町に中高年向けの婚活を専門にする会社を紹介した。以前に知人の男性から聞いていた情報だった。私は本心では、カンナに婚活して欲しくなかったが、いかんせん、私に彼女を支える資力はなく、複雑な気持ちで、紹介した。
数百人のリストのなかから、1人の男性が候補にあがった。京都の私立大学に勤務する大学教授だった。カンナより一回り年輩の紳士だった。名を三好格郎といった。三好は京都の名家に生まれ、資産もそこそこに有していた。
カンナは幼くして、父親と死別していたせいか、歳のはなれた男性に魅かれるタイプの女性だった。カンナは三好を好人物とみて、心にきめた。相手もカンナを気に入り、婚活は成功した。ただ、婚活は表向きで、三好は妻帯者だった。三好は相当な浮気者で、妻は家で、悶々とくらすうちに、精神を病み、精神病院に入院することになったのだ。なかなか、回復の兆しがみえず、三好自身も憂鬱な日々を送ることになった。
そこで、三好はこの悶々とした状況から、解放されるために、適当な女性を物色していた。カンナとは、愛人として、付き合ってくれればとのことだった。カンナは資金さえ援助してくれればと、わりきって交際することにした。その話をカンナから聞いた時、「おめでとう。良かったね」と祝福したものの、人気のない、みすぼらしい我が家に帰ったとたん、寂しさ・悲しさとわが身の不甲斐なさが心の芯まで沁みた。私は愛すべき者を奪われたような気持ちだった。
カンナは三好との交際後は、以前にもまして、店と自分の将来に不安が、払拭されたため、生き生きと、かつ、のびのびと振舞っていた。カンナが元気になればなるほど、私の気持ちは、沈んでいった。否、ますます、カンナに対する想いが膨らんでいくばかりだった。そして、以前にもまして、カンナの店に足繁く、かよった。勿論、私は、そのような、お金など、通常では、持ち合わせていないので、前述したように、当初は友人・知人から借金しながら、カンナの店に通っていた。そのうち、預金も底をつき、友人に当座の生活費を捻出するため、さらに借金をすることになった。
しばらくして、周囲の人々も私に愛想をつかし、収入のみちが絶たれたので、冒頭の四条河原の路上ライブとなったのだ。私は、当初は恥ずかしい思いと、勇気のなさで、実行を躊躇したが、カンナの店に行きたい一心で、自分の唄に対する自信もてつだって、わが身の歳など忘れて、ライブに挑んだ。カンナの店の常連仲間にも呼びかけて、「さくら」でも良いからライブの現場に来てくれるように、さそった。7・8人はきてくれた。
それでも、結果は惨憺たるものだった。ほとんど、無視されっぱなしのライブとなった。当然といえば当然だが、初老のなんの取り柄もない男が、いまどき、ほとんど、歌われない童謡・懐メロ等いかにも地味なこの唄には、ほとんど、目もくれなかった。それは、当初から多少想像していたので、ピエロに扮装して気を引こうと、試みたのだが、やはり、結果は無残に終わった。老醜丸出しで恥をさらけ出すばかりだった。その内、常連仲間の誰も来なくなり、路上ライブは自然消滅した。
やがて、私はカンナの店に通うために、カンナの店で知り合った年上の資産家の老女・
菊と付き合うことにした。既に夫に先立たれ、気ままにくらしていた。老女との接点は懐メロだけだった。それも心のない、決して上手いとはいえないレベルの唄で、金持ち特有の傲慢な性格が歌い方に表れていた。私は彼女の横柄な性格に耐え、自分にたいする気前よさを優先させた。
二人は何時も、一緒だった。カンナの店に入る前に祇園商店街の辺りで、夕食をすませた。菊さんは飲食する直前に飲食代金を、私のズボンのポケットに押し込んでいた。そして、その中から、二人分の飲食代を払っていた。男としてのプライドを傷つけない心遣いだった。やはり、菊さんに感謝しなければと思った。カンナの店で楽しんだあとは、二人で喫茶店に入り、帰り際に、彼女の手をしっかりと握り、軽く、抱擁して、別れた。これらの飲食代は、全て、菊さんが払った。また、何がしかのお小遣いも貰った。
二人の間はこの程度で、お互いに満足していた。特に菊さんには家族があったので、深入りはしなかった。私もそれを、切に切に、かつ密かに、ねがった。私としては、菊さんを年上の姉のように、慕った。先だって、菊さんと同じぐらいの歳の姉を亡くしていたので、彼女は姉のような存在だった。ただ、ときどき、菊さんは、大胆にも、一線を越える誘いを提案することもあったが、私は用事に託けて、うまく、逃げていた。6畳1間のおんぼろアパートに帰宅しても、しばらくは部屋の中央に大の字になって身体を休めた。
天井の一点を見つめていると、天井板の木目がトンマな豚の顔に見えた。何処かで、出逢った顔だと思いつつ、一瞬、さっき別れたばかりの菊さんの顔に相違ないと確信すると同時に、思わず苦笑いしたものだ。しばらくして、私が小学校一年生の時に学芸会で独唱した歌を口ずさんでいた。「父さま母さまいつ帰る。春夏秋冬なったけど、私の父さま何時帰る」と恰も、私が60年前に、タイムスリップして、歌っていた。たぶん、戦争孤児の唄ではなかったのかと思う。定かでない。すると、百恵と摩子のことが脳裏をよぎった。
うつらうつらしていると、怪しげな色香を漂わせている女がちゃぶ台の前に、俯いて、じっと正座していた。紛れもなく百恵だ。私が「しばらくだね!元気だった。今、どうしている?」「再婚しよう」というと、「あなたとは再婚する気は全くありません。」ときっぱりと、正面を向いて、かつ、怒りをむき出しに、拒否されてしまった。
私が「お前さんはもういい人がいるのか」と尋ねると、また、俯いて、押し黙ってしまった。しばらくすると、私を憐れむような、寂しい表情になった。私はそんなはずはないと、もがいているところで、夢から目が覚めた。外は白々として、路地の電柱でスズメが、チュンチュン鳴いていた。夜が明けるところだった。しばらくして、ようやく、深い眠りについた。
百恵と摩子のことは、なにをしていても、四六時中、忘れることは、なかった。一日も早く、正常な暮らしを取り戻して、人並みの平凡な家庭の幸せを味わいたかった。
百恵は東京の向島で育った。向島の東の端は押上で、今でこそ、東京スカイツリーで賑う町に変貌したが、百恵が子供の頃は、向島のこの界隈は下町の貧しい人々が住むところだった。最盛期には芸者置屋や料亭が、軒をならべていた。また、職人の街で伝統工芸品などの工房もあった。現在もその伝統は引き継がれているようだ。
百恵の両親は蕎麦屋を営んでいた。店のやりくりに苦労するほど、貧しい生活を強いられた。百恵は最近では珍しく、もの静かな女で、容貌や性格は古風なところがあった。百恵の母は実直な方で、まるで、百恵に瓜二つの教養のある人だった。
百恵の父は太平洋戦争中に艦船上で米軍機に急襲され、沈没した艦船から命からがら、脱出して、自力で近くの島まで泳いで、生き延びたとのこと。百恵の母方の祖母は当時としては、めずらしく、高等女学校へ進み、下町の人に尊敬されていた。百恵はカンナみたいに、はっきりと自己主張するタイプの女性ではなかった。娘の摩子は私が晩婚だったため、40代後半で生まれた子供だった。摩子も母親に似て、控えめで、おとなしく、可愛らしい容貌をしていた。私は摩子をこのうえなく可愛がっていた。
摩子がまだ幼稚園の頃、摩子と百恵・私の3人で野坂昭如さんの「火垂るの墓」をテレビで観ていた。観終わったら摩子も百恵も涙をながしていた。涙なしでは観られない名作だった。私といえば、2人のまえで、涙を流すのも恥ずかしいので、トイレに駆け込んだ記憶がある。私は、ほとんど、アニメをみないが、この作品だけは、感動した。後になって、知ったことだが、この作品は野坂さんの戦争体験を、元にしているとのこと。実体験は質の高い芸術をうむのだ。納得の作品だった。その当時、百恵は「こんな悲しい、映画は二度と観たくない」と言っていた。この夏のある暑い日、ツタヤへ、行って、「火垂るの墓」のDVDをかりて、数年ぶりに観た。その夜は、心優しい百恵と摩子の姿が私の胸に迫って来るようで、眠れない一夜をすごした。
摩子といえば、彼女の子供の頃から、女性関係の激しい父親に反発する頃もあったが、心のそこでは、私を慕っていたとのこと。それだけに、この二人には、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。百恵との離婚直後に、二人は早稲田鶴巻町から、向島の実家へ移り住んでいた。
その後、実家は数年前に蕎麦屋を廃業していたので、自宅は人手に渡っていた。それから、谷中銀座の路地裏に引っ越していた。人伝に聞いた話だが、二人は、自宅に帰ると、肩を寄せ合うように、寂しげに、暮らしていたとのこと。また、この母娘は私の帰りをひたすら、待っていたとのこと。
二人は不幸のドン底にいたので、出来るだけ、明るい町に住みたかったので、JR日暮里駅から歩いて、5分ぐらいの谷中銀座に移り住んでいた。この街は多くの観光客で賑わった。特に、外国の観光客が訪れていた。彼等にとって、東京という大都会にありながら、ちょっと、鄙びて、日本的なところがお気に入りだった。人情あふれる、レトロな街で、「夕焼けだんだん」の近くの商店街からすこし、入った路地裏の家賃の安い文化アパートにひっそり暮らしていた。
「夕焼けだんだん」は、私の若い頃はあかね色に染まる夕日を長く眺められたが、最近は高層ビル群が建並び、すぐに、ビルの陰に消えていくようだ。また、猫の聖地として、有名で、人と猫とが、日常生活にとけこんでいて、心の支えとなり、住人や観光客にいなくてはならない存在だ。私は、もう東京には微塵も魅力を感じないが、この谷中銀座の風情だけは、特別だ。
私は、ここまでの二人の所在は確認していたが、その後、二人が何処に住んでいるのか、不明だった。私はその所在を調べる手立てはあるにはあるが、ドン底生活から抜け出せない現状では、たとえ、所在が判明しても、現実に同居できるわけではないので、会いたい気持ちを押し殺して、しばらくは、捜さないことにしていた。
それでも、百恵と摩子を一日でも早く京都へよんで、一緒に暮らしたい。そして、所謂、普通の家庭の幸せを取り戻したいと。しかし、現状は厳しい。破産した身だ。しかも歳もくっている。どうしよう!このごろは、いつも、焦っている。そして、気分が鬱になると、もうやる気を無くしてしまう。そして、幸せというやつが、私から、どんどん、だんだん、遠のいていく。
我ろ旅は 旅と思ほど 家にして 子持ち痩すらむ 我が妻かなしも
(万葉集 東歌 詠み人知らず)
(私の旅は旅だと思ってあきらめるけど、家に残って子を持ち、痩せているだろう妻がしのばれることよ)
東日本震災で被災した東北の人々のことを思うと、自分はまだ大丈夫、幸せだと言い聞かせる。が、しばらくすると、現実の自分に立ち戻り、ドン底を這いずりまわっている醜い老人の姿が私の頭をよぎる。それが、自分であることをいやがおうでも、知らされる。悲しんで、寂しくて、悩むより、もっと、現実を冷静に客観的にみることで、自分を奮い立たせようとすればするほど、身も心も硬直していく。
ひょっとしたら、鬱と躁の狭間を行ったり来たりしているのではと。不安な感情に襲われる。焦るばかりだ。近くの心療内科へ、いってみると、やはり、不安症と診断された。できるだけ、薬は飲みたくないが、日に2・3回、不安な気持ちに襲われる。
憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむぞ 万葉集 山上憶良
(私 憶良はもう失礼いたしましょう。今頃は子供が泣いているでしょう。それその母親も私を待っているでしょうから。)
と詠んではみたものの、私には帰ってみても、百恵と摩子に逢えるわけがないのだ。
一方、カンナと三好との関係は数カ月で終わった。三好の妻の知るところとなったからだ。
しばらくして、私は次の適当な職が見つかるまでということで、当分、「カラオケ喫茶八金」のマスターをすることになった。その当時は、三好との関係がなくなっていたので、カンナのマンションに立ち寄ることもあった。
カンナと私の間には、金銭関係はなく、ボランティアとして、マスターをして、その代り、無料でカラオケを楽しんでいた。カンナも金銭的ゆとりもなく、私に払う金等ないし、当然、私も台所事情を熟知していたので。私は店では、通称「かねちゃん」と呼ばれていた。カンナが適当につけた愛称だった。客も私のことをそう呼んだ。
この業界は、勿論、初めての体験だったので、好奇心もてつだって、「かねちゃん」と呼ばれることに、当初は、耳触りのいい心地よい満足感を味わっていた。ところが、カンナは客の前では、私がちょっとしたミスをおかしただけで、厳しく、叱りつけた。特に男性客の前では、徹底していた。これは理に適っていた。客には、私の存在を、雇われマスターとして、意識させることにより、カンナが女独りで頑張っているという姿をみせたかった。勿論、現実もそうだった。
しかし度が過ぎると、客の前で「かねちゃん、何時になったら、一人前になれがあー!いかんやんか!」と土佐弁を連発した。物を粗末に扱っていると、「知恵のない贅沢もん!」と怒鳴りつけた。贅沢に慣れた役立たずの無能な奴という意味だ。当初はこのいじめも、客の前ではカンナと私の関係をカモフラージュするために、理に適ったものとして承知していたばかりか、客の前で、芝居がかったママゴトをしているようで、妙に快感を味わったものだ。
しばらくして、接客に慣れたころ、柄にもなく、常連客に「社長!声はいいし、男前だし、女性にモテモテだね!」セレブの女性には「歌に艶がある。若いね!旦那は幸せだね!」と心にもないことをいう。当然常連客もヨイショしていることは重々承知だ。私の芸は精々この程度。三流の太鼓持ちも、いいところだ。
それでも、お客は「おい!かねちゃん。早くビール持って来い!遅いぞ」「いいかげんに、でんもく(カラオケを入力する機器)に慣れてくれよ!」「全く気が利かんな!」といった調子で、気が滅入るばかりだ。そのことをカンナに話すと、「お客はそんなもんや!」と、一笑に付される。
甘ちゃん育ちの私にしてみれば、我慢もこれまでと、何度も、店を辞めたいと、カンナに申し出るけれど、いつも、彼女特有の慰めと励ましに、屈してしまうのだ。ところが、彼女を経済的に支援してくれる常連さんが現れそうになると、かねちゃんこと、私の存在も危ういものとなった。
本気なのか、悪ふざけか、判別できそうにないいじめがはじまった。無気力で無口な私も流石に、その夜は帰宅したカンナに、バカ女を連発して、吼えまくったものだ。内弁慶もいいところだ。それはさておき、カンナのいいところは、寛大でおおざっぱなところだ。
その反面、悪いところは、必要以上に、執拗に、どうでもよい細かいところに拘ることだ。例えば、私が「甲という人は不美人だ」というと、カンナは全面否定した。私が「彼は真面目な人だ」というとカンナは「彼は不真面目な人だ」という。最後には、私も、面倒くさくなり、彼女に同意する始末。
また、彼女は堂堂と、かつ確信的に自分のことを、自慢しまくることだ。そこには、嫌らしさはなく、天真爛漫といえば、そうかも知れない。例えば、常連客のA氏に「私は、かわいいし、歌も上手し、きっと、私を好きになってくれるよね!」と、自然体で迫っていく。そうすると、実際にA氏は彼女を好きになってしまったものだ。このへんがカンナの魅力なのか、彼女の魔力に取り付かれてしまった男どもは結構いた。
カンナは庶民的な店が好きだった。飲食店やブティックに入る時も、安いところを好んで、入った。河原町通りの安いファミレスで食事をした。嫌ったのは、気取った、セレブ系の店だった。これは、百恵もそうで、二人に共通していた。そして結構安めの衣服でも、二人とも、上手に着こなしていた。
また、カンナは自分の店の定休日などは、私と二人で、京都四条河原界隈の商店街や錦市場商店街などを散歩した。少女みたいに、楽しそうに、繁華街の散歩を楽しんでいた。「こんなところ、やっぱり、京都やね!高知から出てきて良かったね!」と、年甲斐もなく、はしゃいで、京都にすっかりとけこんで、満喫しているようだった。しかし、やはり、高知の「八金」で田舎ものだった。私はそういうカンナに惹かれた。京都の常連客も私とおなじように、京都人らしくないカンナに惹かれたのだろう。
客層といえば、さまざまで、それだけで、カンナの店そのものがドラマであり、人生そのものだった。街の自営業をしている男どもを引き連れてくるスレッカラシの女。彼らは彼女のことを、女王様と呼び、飲食代は彼らが交代で、支払っていた。また、選挙のときだけ、へいこらして、選挙が終わったとたん、威張りだす政治屋先生。江戸時代、某藩の家老の末裔だという弁護士。気取り屋でけちな野郎だ。当世の弁護士によくあるタイプだ。三代続いているという町医者。息子は名門大学の医学部卒のエリート医者で幸せそのものだ。下ネタ話ししかしないエロ医者さん。
また、父親の莫大な遺産を相続し、それをひけらかすことすら面倒くさいと言わんばかりに、無気力で我が儘なドラ息子紳士。よわい、90歳だが、色気ぷんぷんの伊達男。見習うべし。
カンナに新作のポップ演歌を作曲してやるという色狂いの三流の作詞・作曲家。カンナの虜になってしまった資産家の不動産屋。彼は高級なティファニーのネックレスをカンナに惜しげもなく、プレゼントした。カンナはこの様な贅沢な高級品とは縁のない生活環境に育ったので、ちょっとだけ、贅沢な気分に浸れたことで、喜んでいた。普段は質素に、けなげに、働いているカンナの姿をみているだけに、このプレゼントを嬉しがっているカンナを見ていると、たまらなく、愛おしく思えてきた。やはり、カンナも本音では、高級ブランド品が好きな女性なのだと思った。当然といえば、当然だが。
客層の例を挙げると枚挙に遑がない。世間は広いもので、客の中にも、変り種がいるものだ。鮫島という男で、年頃は50代。彼は30代半ばになってから、某国立大の医学部を目指して、猛勉強した。その甲斐あって、みごとに合格を果たした。その目的は、町医者の出来の悪い師弟を医学部に合格させる個人指導の塾経営だった。しこたま、儲かっていた。そのため、鮫島は医学部に合格したものの、入学せず、合格という実績で、塾生が医学部に合格した暁には、その町医者から、その財力に応じて2,000万から5,000万の報酬を貰い受けるというものだった。
中には、即金で払えない町医者もいた。その場合は、10年払いで公正証書を作成させた。約束を履行しないときは、容赦なく裁判所で執行してもらった。それでも、執行出来ない場合は、つまり執行可能な財産がない場合は、カンナの店から、かつての塾生や父兄に厳しく、店まで、即金で持ってくるように、携帯で矢の催促をしていた。例えば、「おい山本!鮫島先生や!カラオケ喫茶八金まで、50万今直ぐ、持ってきいな」といった調子で。現役の医者でかつての彼の塾生を呼び捨てにして、自分のことを、鮫島先生といっていた。
驚くべきことに、実際、彼等は、鮫島の迫力に押されて、言われたとおり、持参したものだ。つまり、彼らは、鮫島に催促されなければ、払わない程に、大柄に、なっていたのだ。鮫島もそれを承知で強行に催促していた。私はそういう彼を密かに、尊敬していた。うっかり彼を本気で、先生と呼びたくなるほどに。
少なくとも、3・11の大震災で、白日の下に曝されたあの原発ムラの連中よりも、偉いと思った。鮫島は大検(現高校認定試験)の塾もしていた。塾生には、医者・大学の教授・資産家の子弟も多くいた。驚くべきは精神医療を専門にして、不登校の子供達の相談にのっているはずの大学教授の子弟もいた。
話しはだいぶそれたが、私はカンナの男性関係を、頼りない紐らしく、大目にみていた。というより、そうするよりしかたがなかった。女に囲われているという状況を大いに、プラス思考で歓迎している自分に満足し、快感にさえなっていった。惰性で時間だけが流れていた。
しかし、何時かは、彼女と別れる日が確実に到来することを予感していた。彼女が店を維持し、メジャーな歌手となるために、それなりの資金が必要だった。この業界では、常識になっていることだが、金持ちの後援者を得ないと、実現不可能の世界だった。手っ取り早い方法として、財力のある男の支援を受けることだ。そのためには、カンナが惚れそうもない人間でもよい。いや、そういう人しかいないのかもしれない。
彼らの愛人になるか、うまくいけば、正妻におさまるかだ。カンナも私という男がいながら、メジャー歌手になるという夢を実現させてくれるような金持ちの出現を待ち詫びているのだ。金とは縁のない私は、いずれ、カンナのもとから、去る運命にあった。その予行練習として、彼女から嫌われる方法を選択した。
例えば、彼女と二人、カフェレスト等で飲食した際は、敢えて、割り勘にした。もっとも、情けないことに、現実問題、私は彼女の分まで支払う経済的能力にかけていた。それどころか、大方、カンナが私の分まで、支払った。つまり、その気はないのに、支払う振りをしているだけで、彼女もそのことは承知していた。
羽振がよかったころのかねちゃんこと私の地位は地に墜ちたもので、プライドも消え失せそうになっていた。そうこうしているうちにカンナの前に工藤という弁護士が現れた。権威と金に弱い俗物だった。金のない依頼人には冷たかった。特に法テラスのような国の支援機関に相談にくる金のない相談者には冷淡に対応をしていた。この弁護士先生にとって、法テラスはチョットした小遣い稼ぎの出店として、位置づけていた。女性経験も豊富だった。毎月それ相当の援助をカンナにしていた。更に、毎日のように、彼女の店に常連の客として通った。
工藤は心臓に欠陥があり、アメリカで1500万円かけて、心臓手術をしたことを自慢していた。ところが、工藤は、二年前に、突然、不摂生がたたって、心臓病で急死した。工藤からの援助が途絶えてしまった。援助が途絶えると同時に、カンナと私との間がギクシャクした関係になっていった。
売り上げも当初半年は伸びていたが、客足がピタリと、とまってしまった。それは私の存在が大いに影響した。私はマスターという立場で働いていたが、その風貌が金持ちにみえたので、彼女のスポンサーと誤解された。特に男性の常連客は私が都合で店を休んでいる時に「かねちゃんはママのこれか?」と親指をたてて、「間違いないよ。かねちゃんは金持ちとちがうん?」としつこく、カンナにせまっていた。
彼女は「かねちゃんは自営業をしおったけんど、不況のあおりで、倒産したがよ。かねちゃんのたっての願いで、次の仕事が見つかるまで、この店で働いてもらいゆき。」と懸命に抗弁していた。それでも、彼女が実際に女独りで、頑張っている姿が客にはみえず、客足が急にひいていった。
私は親戚の結婚式に出席した際、離婚した百恵と摩子に3年ぶりに再会した。百恵はすこし、やつれた様に見えた。摩子は女の子らしくなっていた。百恵は、離婚の際に百恵に摩子の養育費を含め、月々、定額の支払いをすることになっていた。当初数ヶ月は約束通り、義務を果たしていたが、喫茶店を閉店してからは、そうもいかず、支払いがストップしてしまった。
収入が絶たれた百恵は谷中の日本食の料理屋で、慣れない仲居の仕事をしていた。百恵は客や仕事仲間に好かれた。私はこの母娘が不憫に思われた。それ故に、私は結婚式が終わって、二人と別れるのがつらかった。とりわけ、百恵は、「どうして、こんなことになってしまったの」と涙ぐんでいた。別れぎわに百恵は「あなたの頭もすっかり、白くなったのね。」と私の頭をそっと撫ぜた。
そばに摩子や親類縁者がいなっかたら、強く、抱きしめてやりたかった。百恵は無理に明るく振舞っていたが、どこか寂しげな表情から、私は彼女に申し訳ない気持ちだった。
確実に決断したわけではないが、いつものルーズな性格と成り行きにまかせて、百恵に「近い将来、必ず、復縁しよう」と打ち明けた。彼女は、はっきりと、頷かなかったが、その表情から、私は了解したものと、理解した。
夏野行く 子鹿の角の 束の間も 妹が心を 忘れて思えや (万葉集 柿本人麻呂)
(夏の野を行く鹿の短い角、その角のようなわずかな間
でも、妻が私を思う気持ちを忘れることがあろうか、忘れはしない。)
百恵の優しさ・忍耐強さ・奥ゆかしさが私を絶えず悩ましつづけた。
百恵との復縁の話をカンナに告白すると、男勝りで勝気な彼女が号泣した。「百恵さんの気持ちがどうでも、お前とは絶対別れん。」と。このようなカンナの姿をみていると、愛おしく思えてきた。カンナはほんの一瞬、健気で、しおらしい顔を覗かせた。そういう時の彼女は純真な少女のように、輝いてみえた。あたかも、永遠につづく愛を誓い、この健気な彼女を生涯支えたいと、思うほどに。
因みに、カンナは私のことを「お前」と呼び、私はカンナを「あなた」と呼んだ。多分、生まれ育った環境によるもので、お互いに満足していた。百恵もカンナも、古い昭和のにおいのする女性だった。しかし、タイプがまるで、違っていた。百恵と別れてからも、私は百恵とカンナの間で、悩み苦しんだ。
その後、2年が経ち、カンナとの生活は何もなかったかのように、元の鞘におさまっていた。しかし、私の心は、百恵と摩子のことが、いつも、気掛かりでいた。すまない気持ちで、胸が痛んだ。
一方、私にとって、はねかえりのカンナの存在は、大きかった。歌の魅力は当然として、彼女の男性的な言動と肉体的な魔力には、未だ充分に未練があった。ところが、常連の稲盛との縁があり、この度は、逆にカンナの方から、私に同棲生活を解消しようと、言い出したのだ。私の仕事の目途が一向にたたないことと、カンナの預貯金が底をつき始めていたことなどで、止むを得ず下したカンナの決断だった。彼女も私との関係を絶ち難く、悩んだ末に決めたことだった。
又、一方で、このことは、彼女の店を維持するために、私にとって、納得せざるをえないことではあったが。結果として、稲盛に資金面の援助をして貰おうと目論んだのだ。稲盛の容貌は貧相で、ビール腹で、剥げ頭だった。運送業で財をなしていた。
カンナと稲盛との同棲生活が始まった。一方、カンナは、偶々、東京から京都へ出張して、店の客になっていた作詞・作曲家の安田と懇意になり、オリジナル曲をつくってもらった。カンナはポップ系演歌歌手としての淡い夢を安田に吹き込まれていた。勿論、カンナの歌唱力はプロ級だった。この業界では安田は有名だった。勿論、それ相当の報酬を支払った。支払いは稲盛が負担した。
この業界では、新作ものと称して、安田達のような安っぽい音楽関係者が中高年向けにつまらない歌を競って、量産していた。それは、気の抜けた甘たるいコーラを飲まされているような按配だった。これに応えるかのように、多くの老若男女が、これまた、競ってうたっていた。日本国中、カラオケ業界は低俗になり下がっていた。
3・11の東日本大震災以降、特に、大都市圏に住む人々は、少なからず、原発と近い将来起こるであろう地震の影響について考えていた。しかし、時間が過ぎるにつれ、大方の人々の気持ちが、震災と原発の恐怖をすっかり、忘れかけているように思えた。すぐに冷めやすい国民性は常しへに変わらないのだろうか。
古来より、地震・台風などの自然災害に絶えず悩まされたせいだろうか。否、そればかりではなさそうだ。何か愚かな力が背後に蠢いているようだ。得たいのしれない巨大な化け物が、人々に立ち止まって十分考えることを放棄させているようだ。退廃的なムードの中で私は鬱な気持ちに襲われる。
この店の常連は、相も変わらず、ひたすら前向きに、けたたましく、新作ものを歌いまくっていた。こういうところには、必ずボス的な存在の女性がいた。子分の女性たち数人を従えて、店でも仕切っていた。男性客もかなわないくらいの権力を振るっていた。こういう女ボスは、金持ちで、貸マンション何棟かもっていると、平気で、自慢したがる女だ。
彼女曰く、金持ちの紳士の条件はまず高級なベルト・靴を身に着け、紙幣は高級な財布から、しっかり出す人だそうだ。ズボンのポケットから直接に、はだか銭を出す奴は貧乏人らしい。取り敢えず、私などは、彼女のいう貧乏人の典型だ。馬鹿らしくて、聞いちゃおれないと思うが、事実なのだ。嘆かわしいかな!貧乏人諸君!
安田についていうと俗物で、若い女の子たちを動員して、即席に養成して、国内ばかりでなく、友好と称して、近隣の後進国向けにつまらない歌を量産し、輸出して、大富豪となった。このような新曲ものはカンナの好みではなかったが,ご時勢と割り切り、生活するための糧として、妥協していた。
カンナは以前と同じように、歌手活動と同時にカラオケスナックの営業をつづけていた。一方、金目当てで、稲盛と同棲はしたものの、経済的には安定しているが、どこか、精神の安定を欠いた生活を送っていた。
そうこうしているうちに、何時しか、カンナの心に、私にたいする恋情をおさえきれず、時計の針を再び過去へまわしはじめいた。カンナは稲盛にばれないように、私と逢瀬をかさねた。彼女は歌手として大成するために、稲盛との生活も大事であり、精神的安堵を得るためには、私との逢瀬も捨てがたく、稲盛と私の間を、揺れ動いた。とりあえず、私との関係を稲盛に知られないように、用心深く、私と会っていた。
しかし、遂に私との関係が稲盛の知るところとなった。稲盛はカンナに絶縁状をたたきつけた。しかし、幸いにも、カンナは歌手活動もそこそこにやり、店を維持できる程度の稼ぎをえていた。それを支えたのは安田だった。
カンナは私を避けて、安田との関係を深めていった。暫くすると、安田との関係はよく、芸能界にあることだが、ある程度、カンナが稼げるようになると、互いに双方から、冷めていき、遠のいていった。
やがて、カンナの店に秋永という男が常連客となった。秋永は、身体は小さく、背は低いが、ずる賢い男で、ちょっとヤクザぽいところがあった。一方で人懐こいところがあり、カンナの店の客に好かれた。幼少時代、家庭的に恵まれない環境に育ち、両親の愛情を受けることがなかった。
カンナと秋永はともに、似たような環境で育ったので、秋永の心情が理解できた。しばらくすると、秋永からカンナに自分を働かせてくれという相談があった。カンナは秋永なら、店の売上を上げてくれるにちがいないと確信していたので、直ぐに、店に入って貰うことにした。秋永はカンナに女を感じ、彼女を愛していた。しかし、カンナは秋永を恋愛の対象にはしていなかった。新曲を愛する女性客に秋永は人気があった。彼女達の目線で会話が弾んだ。新曲嫌いの私が入る余地がなかった。店内が全く中身のない大袈裟な身振りと低俗な雰囲気に染まるなかで、自分自身と客にたいして、諦めと不快感に悩まされた。その感情が客に伝わったのか、予感していた通り、事態は更に、悪化した。
客の前で、客に聞こえるように、私にリンゴをうさぎ型に切るように、命じたのだ。リンゴ等うさぎ型に切ったこともない私に切り方の指導まで始めた。下卑た客等はそれを見て楽しんでいた。この気取った男が、気さくで、低俗な秋永に苛められているのが、たまらなく、面白くて、心地好かったのだ。また、いろんな出し物を適宜、客にだすように、命じたのだ。彼と私の間には上下関係はなかったが、いつの間にか、彼が優位にたっていた。
客の前で、仏頂面するわけにもいかないので、その場を繕っていた。そして、このまま惰性にながされ、ここから、這い上がることが出来そうにないのではないのかという恐怖すら感じた。腹立たしさと嫌悪感におそわれた。1930年にドイツで製作された「嘆きの天使」を思い出していた。ローラ・ローラという悪い女(女優はマレーネ・ディートリッヒ)が大学の教授(男優はエミール・ヤニングス)を誘惑して、さんざん・さんざんいじめる話だ。
勿論、カンナはローラ・ローラのように、悪女ではなく、ましてや、カンナ自身がいじめる訳ではなく、いじめるのは秋永だ。私もエミール・ヤ二ングス演じる大学教授とは、程遠い存在だが、この秋永の登場によって、私の役回りがこの大学教授に近づきつつあると予感したので、そこで、私に代わって秋永にマスターをさせるようにカンナに進言した。
意外にもスンナリと彼女はこれに同意した。ちょっと、拍子抜けすると同時に、軽い失望感に変わった。私よりも、はるかに、秋永がカンナの店の売上げに貢献できることは、明らかだった。この秋永に一種の嫉妬を感じたものだ。と同時に、低俗な秋永に嫉妬するほど、落ちぶれ果てていく自分に情けなく、かつ、自分にたいする救い難い嫌悪感に襲われた。
悔しいけれど、私は秋永に完敗だった。脱帽せざるをえなかった。ただ、妙に解放感があった。
余談だが、この年になって、ようやく分かったことだが、年をとればとるほど、嫉妬深くなり、群れを成して、子供のように、弱い人を平気でいじめる者がいることだ。特に、金持ちの女ほど、始末が悪い。自慢話は日常茶飯事。社会情勢や私のこの小説等には全く関心のない人種。
厄介なことに、こういう輩にかぎって、例のTMKに騙されやすいのだ。処置なしだ。衆愚政治の温床になっている。これも余談の余談だが、若年の女性層から中高年の女性まで、男性化している者が多くなってきている。同じ男性的といっても、土佐の八金とか、鹿児島のサツマオゴジョなどは、魅力があってよいが。言動・表情に全く女性を感じない女性たちが巷に溢れているといえば、大袈裟だろうか?更に言えば、礼儀を知らない、失礼な女性が増殖している。私達の母親世代で大和撫子も終わりか?嘆かわしいことよ!その一方で群れなくて、独居老人として、余生を工夫しながら、楽しんでいるひともいる。勿論、少数だが。
私は9月頃、京都御所の近くの東側にある梨木神社の萩が生い茂った小路を散歩していた時、品のいい50代とおぼしき着物姿のご婦人とすれ違った際、しっかりと、一礼された。 また、そのうえに京美人だった。その日は久しぶりに、天にも登る心地して、いい思い出になった。
ほんの一瞬のことだったが。末長く、永遠に、大事に記憶にとどめて置こうと思った。萩の花の咲く頃で句会の季節だった。句会の会員と勘違いしたのか、また、狭い人通りの少ない小道ですれ違う人との普通の儀礼的なものだったのかもしれないが。
どっちでもないことを願うばかりだ。私が四条大橋で路上ライブしている時、薄笑いして通り過ぎたあの下卑た女とは大違いだ。因みに、私といえば、俳句など、ほとんど、詠んだことのない人だった。
カンナは私に仕事はしなくていいから、彼女のマンションでの同棲生活を続けるようにすすめた。物心両面で支えるものを失っていた私にとって、カンナは私にとって女神以上の存在だった。私は例の曖昧な惰性で、そのまま居つくことにした。
しかし、これもカンナの一時的な気まぐれと承知しながら同居したのだ。安田との関係が冷め、再び、凋落しそうになっているカンナを、意外なことに、秋永が資金面で助けようと決心する。但し、その資金は、秋永が昔、付き合いのあったヤクザの金だった。
秋永はこの事を、カンナを愛していたので、彼女にかくしていた。あくまでも、秋永自身の借金として、処理した。カンナには、そのことを告げていなかった。勿論、そのヤクザは、カンナと秋永の接点は知らなかった。
しばらくぶりに、珍しく、百恵からの電話があった。喜んで電話に出てみると、摩子の突然の交通事故死を告げられた。腰が抜けそうになった。ばかなそんなことがあっていいはずはないと、打ち消したものの、現実は変わらなかった。
泥酔していて、無免許運転の18歳の未成年の男による事故だった。舗道を下校している時に背後から激突されたのだ。身体は、酷く傷つき、無残な状態だった。ただ、顔は奇跡的に原型をとどめていた。顔は天使のように、みえた。百恵も私も狂わんばかりに摩子の死を悲しんだ。
親子3人で観た「火垂るの墓」で涙を流していた心優しい摩子の死を現実のこととして、とらえることが出来なっかった。あの世へ逝って、土くれになり、私と百恵の前に二度と姿を見せてくれない摩子の死を理解できなかった。
摩子の死を信じることができなかった。摩子よ!私の愛しい摩子よ!もう一度、この世に戻ってきてくれ!黄泉の国から帰ってきてくれ!号泣するしかなかった。座敷童のように、私の六畳一間の住家に住み着いてくれればとも願った。ただ座敷童は富農の広い民家に住み着くと言われている。私の六畳一間に住み着いてくれるだろうか。摩子だったら、きっと、住み着いてくれるだろう。
また、あの「永遠」という化け物が、私の身体全身に浸透していくようで、絶望的になっていた。
この無軌道な男を切り刻んでやりたかった。この未成年の男の実家はこの地域の有力者で、昔からこの地域で選出されている例の世襲制の政治屋だったのだ。子供の教育やまともな政治活動等一切興味のない人間で、愛人宅で実家の家族とは別居していた。虚しい、苦しい日々がすぎた。摩子の死は私の所為だと百恵の両親から、激しく罵られた。復縁どころではなかった。百恵は私との復縁をあきらめて、私の前から立ち去った。
若ければ 道行き知らず 賄はせむ 黄泉の使 負ひて通らせ・・・万葉集―山上憶良
(まだ幼いから、道がわからないだろう、贈り物いたしますから、黄泉の使者よ、どうぞこの子をおぶってやってください。)
夕焼け小焼けで日が暮れて山のお寺の鐘が鳴る・・・
日本人に一番愛された童謡だ。大正12年の関東大震災で大ヒットした。②番の歌詞で、「子供が帰ったあとからは・・」のところを、子供を亡くした親たちが短い命のまま泣き叫びながら、天に召された子供たちを、悲しみの中で甦らせて泣いた。この歌詞中に「お月様」という言葉がでてくるが、この当時、「お月様」は黄泉の国にたとえられていた。そして、亡くなった子供たちは、この黄泉の国・お月さまへ旅立ったのだ。この歌は関東震災の、ちょっと前に作られたが、まるで、関東大震災の人々のための歌のように、聴こえて、震災直後はよく歌われたそうだ。また、この度の3・11の東日本大震災を経験した私達日本人の心を癒してくれる歌になることでしょう。
私は何時しか、鴨川べりの小道を、この「ゆうやけこやけ」を歌いながら、歩いていた。
秋永はヤクザへの返済が滞り、夜逃げした。
その後、秋永の行方について、誰も、知る者もいなかった。又、噂にもならなかった。一方、カンナはあいもかわらず、歌手活動と店の営業を頑張っていた。誰よりも、前向きに、土佐の女らしく、南の地方に咲くという彼女の名前そのものの真っ赤なカンナの花のように、陽気で、天真爛漫に歌い続けていた。
カンナはこの界隈の夏祭りのカラオケ大会などにプロ歌手として招待されていた。ゲスト歌手は数人いたが、今ごろ流行りの歌唱力のない三流の金持歌手が殆どで、カンナは大会の取りをかざった。彼女は自分のオリジナリティ曲を見事に歌いきって、祭りを盛り上げた。そのことで、この地域で大人気となり、店も繁盛した。
しかし、最近、私が気になることは、カンナのアタマのてっぺんに白いものが、目立ちはじめたことだ。毛染めの時間が長くなり、それに比例して、私ほどではないが、老いが少しずつ、忍び寄ってきている気配を感じる。鍋蓋に綴蓋の関係がいつまで続くのだろうか。
後日譚であるが、オゴニカの花は幻の花であるという。一説にはカンナ科の花という。オゴニカは北、カンナは南の花だ。現実にありえないことだ。現実にはありえないから、幻の花なのだろう。幻の花であればあるほど、この花を愛しく想う。
オゴニカの花は、その語源はキタイスキー・オゴニョーカというロシア語が由来で、「中国の小さい灯」という意味だそうだ。これは、札幌のロシア総領事で教えて頂いた。中国とロシアの国境沿いから離れた中国側の向こう岸に咲く花で、その辺りに咲く真っ赤な花の総称だとのこと。特定できない花なのだ。やはり幻の花か?
それにしても、「小さい灯」とは、郷愁をそそる何と素晴らしいロシア語であることよ!さすがプーシキンなどの詩人をうんだ国の言葉なのだ。
百恵もカンナも社会の底辺にいる貧しい人々の気持ちがわかる女性だった。そして、この二人は、たとえ1,000円の服を纏っても似合うし、一緒にいると、癒された。
私はテレビで、ある晩秋の夕暮れ時、多摩川の河川敷で暮らすホームレスの人々の生活実態を記録した映像を見た。その中の一人に、1960年代の青春時代に歌声喫茶に通っていた老人がいた。ロシア民謡のカチューシャをロシア語で歌っていた。歌いながら、電気のつかない薄暗い小屋ともいえない塒から、虚ろな目で、多摩川を渡る電車をながめていた。
ラスツベターリ ヤーブロニグルーシ‣・・・・(ロシア民謡…カチューシャ)
とロシア語で歌っていた。
彼の目には、その電車は冷たい、動く鉄の塊が、自分とは関係のないところで存在している怪物のように、思われたにちがいない。また、多摩川に沿って高級マンションや住家が建ちならんでいたが、その中で、善良な市民が幸せに暮らしているなどということを、思うゆとりもなく、遠くに眺められる富士山の景観も、彼にはほとんど感動の対象ではなかった。
しばらくすると、彼は無常にも、誰かに、捨てられた子猫を優しく抱いて、寒さをやっと凌げる粗末な小屋に潜り込んでいった。彼もまた、戦後間もない頃の幼児期、両親に先立たれて、仔猫と、同様に一人ぼっちになっていたのだ。
貧窮問答歌(後半の答)―万葉集…山上憶良
天地は広しといえど 我がためは 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 我がためは照りやたまはぬ 人皆か 我のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に
我れも作るを 綿もなき 布肩衣の 海松のごと わわけさがれる かかふのみ
肩にうち掛け 伏蘆の 曲蘆の内に直土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に
妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へさまよひ かまどには 火気吹き立てず
甑には 蜘蛛の巣かきて 飯炊く ことも忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに
いとのきて 短き物を 端切ると いへりがごとく しもと取る 里長が声は
寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世中の道
世中を 厭しと 思へど 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねど
(天地は広いといっても、自分のためには狭くなったのか。お天道さんやお月さん
は明るいというが、自分のためには照ってはくださらないのか。誰でも皆こうなのか、自分だけがこうなのか。たまたま人間として生を受け、人並みに自分も耕作しているものを、綿もない袖無し衣で、海松みたいによれよれの垂れ下がったぼろきれを肩にひっかけ、つぶれたような歪んだ家の中に、地べたに直に藁をばらばら敷いて、父母は枕の方へ、妻子は足元に自分を取り囲んで、嘆きうめき、かまどには火の気もなく、甑には蜘蛛の巣がかかって、飯を炊くことも忘れ、ぬえ鳥のような細々と弱弱しい声をあげていると、「特別に短い木の端をさらに切る」というたとえのように、むちをかざす里長の声が、寝所の戸口までやってきて呼び立てる。こんなにもどうしょうもないものなのか、世の中を生きていくということは。)
世の中を辛い、見も細るようだと思うけれども、飛び立つこともできない、鳥ではないのだから)
しばらくすると、京都にいるはずの私も多摩川の川べりの藪の中にあるみすぼらしい小屋で深い眠りについていた。私の休んでいる傍らで、いつのまにか、百恵と死んだはずの摩子が、この上もない幸せそうな笑みをたたえて、談笑していた。その脇にあの独りぼっちの子猫がその老人に抱かれて、気持ちよさそうに寝ていた。老人は例のカチューシャを憂いを帯びた声で歌っていた。ラスベターリ ヤブロニ グルージ ・・・・・
多麻川にさらす手作りさらさらに何ぞこの児のここだ愛しき(万葉集 東歌)
(多摩川にさらす手織りの布よ。さらにさらになんでこの子がこんなに可愛いのだろう)
ある日、堀川通りのおんぼろアパートに帰宅してみると、百恵が狭い台所に立って、楽しそうに、夕飯の準備をしていた。久しぶりに聞く包丁の音が私の身体に心地よく、響いた。そこに、黄泉の国へいったはずの摩子もいて、ちゃぶ台の前に行儀よく正座して、幸せそうに微笑んでいた。台所はシンプルでおそまつだが、その台所から、百恵の得意な鯖フライと肉じゃがの美味しそうな匂いが六畳一間の部屋いっぱいにひろがった。懐かしい味に、嘗ての幸せだった頃の思い出が蘇った。
夢も佳境に入った頃、鴨川べりのベンチで昼寝をしていた私は、ドーベルマンの鳴き声に、ひとときの楽しい夢をやぶられた。その獰猛なワン公は、太っちょで高慢ちきな顔をした中年女を引っ張っていた。いや、この女が、ワン公を引っ張り回していたのだ。いかにもセレブのお出ましといわんばかりに、下卑た、けばけばした身形をしていた。
私は静かに、懐メロの「国境の春」を歌っていた。
咲けよオゴ二カ 真っ赤に咲けよ 燃ゆる血潮の この胸に 明日の希望の 花よ咲け!
しばらくして、意を決し、私は摩子を失った悲しみにくれる百恵を捜し求めて、さすらいの旅に出た。何処というあてもない旅に出た。自然に、米原駅から北陸本線へ飛び乗り、北陸へ向かっていた。私には、やはり、デラシネ人生(根無し草人生)がむいているのか。
その先にはアムール川沿いに、逞しく、真っ赤に咲くというオゴニカの花のような百恵が待っていてくれることを信じて。やはり百恵のアタマのてっぺんにも、カンナのように、白いものが目立つようになっているのだろうか?
私も最近、お腹がデッパテきているようだ。それでも、私はこの花をこよなく愛してやまない。万一再会することがあっても、百恵のアタマのてっぺんがたとえ、カンナ同様、白くなっていても、百恵には黙っておこう。
新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重け吉事
(万葉集最後の歌 大伴家持)
(新年の年の初めの初春の今日に降る雪のように、良いこともますます重なってほしいものだよ)
願わくは之を語りて、平地人を戦慄せしめよ!
この書を外国に在る人々に呈す。 (柳田国男…遠野物語より)
●私はこの作品を書き上げるのに、厳しい台所事情もあって、できるだけ安く、環境の良い所と思い、カフェレスト・サイゼリアさんへ、殆ど、毎日通っていました。店長さんやスタッフの方々には、長時間の利用をお許しいただき、ありがとうございました。親切で、礼儀正しい対応に感謝しています。本物の「オモテナシ」を実感しました。
この作品はここで終了です。
私が主張したかったことは、格差社会が諸悪の根源だということです。
それは、文明の草創期から、この現代までに、この世界に貧困・テロ・戦争・環境破壊(原発を含む。)といった理不尽な汚泥を撒き散らし、大多数の人々を犠牲にしてきました。
格差は必要だという傲慢な人々も存在します。特に、政権ヨイショ組の人たちです。
その人達もざまざまです。特権階級・ヨイショ学者・ヨイショ政治屋・政権におもねる人種とそのシンパです。
悲しいかな!人間は、ニンジンを見せつけないと、動かない動物です。特に権力とお金には本能的に弱い生き物です。
その現実をふまえて、その努力に見合った成果を受け取ることと、不当に人の成果を横取りすることとは、違います。
この問題は深刻です。簡単には解決しません。世界に住む人々のそれぞれの覚悟が要求されます。一朝一夕には解決しません。
最近話題になっているフランスの経済学者・ピケティがいうように、株式・預金・不動産などの資産と労働等の所得によって稼ぎ出す成果に格差があり、これが、格差社会を助長していると。これも一理です。(労働などの所得間にも格差の要因がある。)兎に角、経済的な格差が大問題です。その結果、人々が、精神的にも大混乱を引き起こしています。なにが、不正で、なにが人々の進むべき道に適ったものなのか、明確でなく、カオスにぶち込まれた人々が右往左往している。これが、現実です。
このことを各人が意識し行動しない限り、世界はまた70年まえの不幸な世界戦争という轍を踏むことになりかねないと確信しています。核戦争という最悪の状態にならないように!出来るだけ多くの人々がこの議論に参加してください。
ご意見をお待ちしています。
最後まで、読んで頂いて、ありがとうございました。
平成27年8月1日
著者 春山ハルヒコ