油断大敵
今零達がヒルズウルフに囲まれているのはチュコレート丘陵という名で知られる丘陵地で、比較的背の低い灌木の生え渡る小高い丘が、南北に向けて連なるように続いている。
この丘陵地を抜ける街道は比較的傾斜の緩やかなところを選んで敷かれており、その為ただ抜けるだけであればそれほど苦もなく進むことが出来る。
しかしそれでも馬車でここを抜ける人々は必ずレンジャーの護衛を雇ってから、この丘陵地を抜けるという。
その理由は――勿論このヒルズウルフだ。この肉食の狼達はここチュコレート丘陵に塒を構え、この街道を通る旅人に襲いかかる。
ロックもそれは重々承知の上であったが、彼自信はこの程度の相手、例え一〇〇〇匹集まろうが歯牙にもかけない実力を持っている。
そしてロック曰く、零でもこれぐらいならイケるはずだとの事であった。
「俺の見立てじゃ今のトイならこの程度問題ではない。まぁここで戦えないなら連れてきた意味が無いしな。だから背後は任せたぞ」
ロックの真剣な声が魂に響く。ロックと零はふたりよりも、小高い位置に見える足場で唸りを続ける相手を見上げながら、お互い背中あわせて構えをとっている。
一〇匹のヒルズウルフは、ロックの少し前方左右に五匹ずつ。
そして零の方にも同じく左右の足場から五匹ずつ、ふたりを見下ろすようにして立っていた。
そのギラギラした瞳は紛れも無く捕食者のもので、腹を透かした彼らからしてみればロックも零も丁度いい餌でしかないのだろう。
尤も零とてあっさり餌になるつもりはないが。
「来るぞ!」
何かを感じ取ったのかロックが戦神の如く重みのある声で警笛を鳴らす。
その瞬間吠え声を上げ野獣が波となりふたりの下へ一気に押し寄せた。
その動きは速い。常日頃からこの丘陵地で狩りを行う彼らは、当然この辺りの地形のことを本能で熟知している。
丘を下り一切の躊躇いなく間に立ちふさがる木々をすり抜け、迫るその距離は零からみて数歩分。
だがその瞬間には零は神のソーマの詠唱を終えていた。
力を借りるは風神ジュード。大気に宿るソーマを詠唱と共に掻き集め、敵を討つイメージを構築し、そして両手を激しく左右に広げる。
「我より放たれし十指の風矢!」
発動の言葉と同時に、左右の手の正しく十指から小さな矢が弾けるように飛んだ。
零はロックからは錬を中心に教えてもらっていたが、自主練においては風のソーマの鍛錬も欠かさなかった。
勿論無駄な殺生はしないと心に誓った例は、その練習を自前の的で行ったものだが、その成果が今こそ発揮できる。
空気を切り裂く音が連続し、そして続くはヒルズウルフの悲痛な鳴き声。
風のソーマで創りだした矢は二匹に二本ずつ、三匹に一本ずつ命中した。
しかしそれで怯ませる事こそ出来たが、致命傷を与えるには至らない。
この十指の風矢は少ないソーマで発動できる分詠唱も短く済み咄嗟の時には役に立つ。
だがその分威力はそれほど高くはない。
しかし現在錬のソーマも使える零にとっては一瞬の足止めだけでも十分である。
接近戦に持ち込む前に攻撃を加える事で精神的優位に立つことが出来るからだ。
特に相手が獣であれば本能でそれを警戒し動きが緩慢になる。
いくら強化を覚えたとはいえ五匹同時にこられては借り物の体に傷が付く可能性が高いだろ。
それは出来れば零も避けたいところだ。
零の目の前では傷を追った事で一旦動きを止め、こちらの様子を伺っている狼達。
このまま恐れをなして逃げてくれるならそれはそれで余計な手間が省けるが、警戒心を抱いていてもその炯眼は変わらず、どうやらまだまだ諦めてはくれないようだ。
と、そこへ背中側から聞こえるは鋭い刃の音。切り裂かれる空気の音に続くは獣の絶命の声。それも複数。
耳で判断するにロックが愛用の戦斧を振るい、一撃のもとに襲いかかってきたヒルズウルフを制してみせたのだろう。
全く相変わらず格が違うな、と零は素直に感心した。
もしかしたらそれだけで五匹全て倒してしまったのかもしれないとも思ったが、続く別の唸り声でまだ生き残りがいる事を知った。
二匹のようだ。先に仕掛けたのだと推測される三匹が倒された事で、明らかな狼狽を感じさせる声が空気を揺らしている。
だが、あまりロックの事ばかりに気を取られているわけにはいかない。
零はまだ傷を負わせただけで一匹も倒していないのだ。
出来るだけ眼力を強め、強で腕の力を強めた状態で小剣を胸の前に構えた。
両手持ちにし少しでも威力を高めようと握る手に力を込める。
錬のソーマである強は熟練したものであれば武器の強化も可能である。
ロックもそれを使いこなし戦斧の切れ味を増していた。
だがこれには中々繊細なソーマの練りが必要であり、零にはまだうまく使いこなすことが出来なかった。
その為今は単純な肉体的強化のみで攻撃の威力を上げている。
ただ、肉体の強化のみで武器を扱うと、その膂力に武器そのものが耐えられない可能性もあり、また傷みやすくなるという欠点もある。
そのあたりも考慮して強化しなければいけない。単発の戦いなら多少武器が傷んでも戻ってから直せばいいが、今はまだ旅の途中である。
こんなところで大事な武器を失うわけにはいかない。
零とヒルズウルフとの睨み合いは感覚的には一〇分にも二〇分にも感じられた。
だが実際は精々一分かそこらといったところだろう。
そしてヒルズウルフが何か目配せのようなものをした瞬間、二発の風矢と一発の風矢を受けた一匹ずつが左右から同時に襲いかかってきた。
鋭い爪が零の顔をもう一匹の牙が腕を狙う。鎧を着ている部分はいくら獣とはいえ攻撃が効かないと察したのだろう。
そうなってくると自然に敵が攻撃してくる場所は限られてくる。
故に――読みやすい。
鎧で覆われていない顔と、腕部分や脚部分の可能性は最初から考えていた。
顔は当然むき出しである為。
他では一応腕は長袖の内服で覆われているし、脚にはズボンとは別に革製の具足と膝当てを装着しているが、それでも鎧よりはマシと考えたのだろう。
零は想定内の獣の飛び込みを認め、先ず顔を狙い爪を立ててきた右のヒルズウルフに剣戟を重ねた。相手の腹部に向かってすくい上げてから、横に撫でるような斬撃だ。
このヒルズウルフは背中側に比べ下腹部の毛は短い。
その為零が放った一撃は淀みなく柔らかなお腹に侵入し、そして見事に一文字に斬り裂き、一匹を絶命させた。
空中で息を引き取った狼は赤黒い臓物をはみ出させたまま零の眼前を落下する。
だがソレを確認せず、零は直ぐ様後へ、振り返りざまの一撃をお見舞いする。
零の腕を取りに来ていたヒルズウルフの頭蓋に調度良く斬り落とした零の剣戟が喰い込んだ。
袈裟斬りに近い軌道を描いたため、頭蓋の斜め上に刃が入り、そのままするりと斜線を刻んだ。
頭の半分が斜めに裂け血飛沫を上げながらその身が地面を転がり帯のような血の跡を残す。
その二匹の亡骸をその眼に焼き付けた後、零は残りの三匹に目を向けた。
その瞬間残りの三匹が零に向けて駆け迫ってくる。
これだけやられても逃げようとしないその心意気には敬意を評したいが、それでも零にはもう負ける予感がしない。
それに残った三匹は動搖からなのか、動きにもはや精彩さがない。
最初に襲い掛かってきた二匹もタイミングがバラバラだった為、危なげなく首をはね、胴体を切り裂いた。
そして遅れてきた一匹にも一閃――だがこれは、相手が僅かに身体を逸らした事で致命傷には至らず、地面に着地し、重たい身体を引きずるようにしながら、瀕死に近い獣が距離を離す。
その眼はまだ零を睨んでいた。いや死が近いからこそ最後の抵抗を見せているのかもしれない。
零は止めを誘うと考え、ふと心魂に宿ったその所為を試してみた。
「聖なるミコノフの名のもとに我は炎神ガーネリアンの力を行使する――」
炎の神のソーマ、それは一度だけ零がトイに憑依する前にみた力。
零はここに至るまで風の神のソーマと錬の強のソーマは鍛錬を積んでいたが、この炎の力には手を出していなかった。
理由は身体を借りているトイが炎よりは風のソーマのほうが得意だというのが一点。
同時にその扱いの難しさだ、確かに彼は前に狼に襲われていた時、炎のソーマで撃退していたが、それが成功したのは偶然に近いものであった。
記憶を探るに、あの時この少年は獣は火を恐れるという思いに駆られ、咄嗟に発動したに過ぎなかった。
しかもあの時、野獣はそれほど動きも活発でなかった為、狙いも付けやすかった。
しかし失敗していたら確実にピンチに陥っていた事を考えると手放しで喜べる所為じゃない。
なので零も敢えては炎の力には手を出そうともしていなかったのだが――ここで欲が出てしまった。
今の負傷した相手にならきっと通じるはずだと――そう考えてしまったのだ。
そして詠唱が完了したその瞬間まるで大量の油に引火したが如く、ヒルズウルフの全身があっという間に炎に包まれ正しく火達磨と化した。
そこから感じるは圧倒的な熱量。あまりに強力な効果に零も眼を丸くさせる。
「馬鹿野郎! 何やってんだ!」
その時ロックの怒声が零の耳朶を打つ。はっと正気を取り戻した零であったが、そこに全身火まみれのヒルズウルフが飛びかかってきた。
まさか、と驚きに目を見開く。ほぼ瀕死だったはずなのに何故このような動きが出来るのかと。
そしてその余りの狂気に炎の脅威が重なって、零は完全に身が竦んだ状態となってしまう。魂ごと完全に凍りついたように。
しかしそこに黒い塊が降り注ぎ、押し迫った炎の塊を大地に叩きつけた。
その瞬間まるで溶岩石の如く肉礫が、弾けたように四方八方に飛散した。
その様子を呆然と立ち尽くし眺めていた零が、自分を助けたのはロックの一撃だと気づくまでに暫くの時間を有した――
次回更新は2015/01/15日予定です




