始まり――そして
男は山の中をひた走っていた。目を見開き、流す汗を拭いもせずに、ただ我武者羅に、何かに追われるように、そして何かを追うように――
その瞳は眼球が飛び出さんばかりに見開かれていた。必死さがあふれんばかりに滲みでていた。
男は神官衣を身にまとっていた。只の神官衣ではなく、それなりに品格の感じられる意匠の施されたものだ。
右手には銀色の杖、先端には顔のような物が模られている。
男はその杖を握りしめたまま前後に必死に振り脚も千切れんばかりに動かしていた。
決して走りやすい格好とはいえないだろうにそれでも彼は――遠目で真っ赤に燃え上がる一点目指してただただ全力で走っていた。
――燃えている。家が人が家畜が畑が彼が暮らした小さな、それでも慎ましくも笑顔で溢れていた村の全てが燃えている。
彼が僅かな願いを込めて、どうか間に合ってくれと山を下り、森を抜け、漸く辿り着いたその身に突き付けられたのは、残酷なまでの現実であった。
大地は無作為に抉れていた。辺りには死臭が漂っていた。まともに残った家も人も一切ありはしなかった。
思わず顔を手で覆いたくなるような凄惨な光景、道端には首を切り落とされていた幼子が無造作に捨てられてさえいた。
何故だ、何故ここまでする? そして何故教会は何も教えてくれなかったのか?
彼の拳は怒りで震えていた。いやそれは何も出来ず救うことも出来ず、ただ祈ることしか出来なかった己の無力さに打ちひしがれたからかもしれない。
教会が戦というものに不干渉であるのは彼とてわかっていた。教会の力は強大だ。故にその力を戦で振るうような事があれば、その被害の深刻さは計り知れない。
だが、だからといってこの無惨な光景を甘んじて受け入れられるほど、彼の心は強くはなかった。
己が育った村が蹂躙されて平気でいられるものなどいるはずがない、と彼は引きちぎれんばかりに唇を噛み締めた。
ふらふらと覚束ない足取りで彼は向かう。
せめて――せめて家族だけは無事でいて欲しい……と。
己の家の前に辿り着く。家は所々に損傷した後はみられたが、燃えてはいなかった。
もしかしたら、という淡い期待を込めて、彼はその扉に手を掛ける。
そしてゆっくりと開いたその目に飛び込んできたのは――あまりに壮絶な現実。
彼は力なくその場に崩れ落ちる。彼の家族、その内の息子ふたり――
ひとりはとても聡明な息子であった。兄に比べれば線は細く、男らしさに欠けていた面もあったが、利発で心優しい息子であった。
将来は父と同じ神官の道へ進みたいと、日頃勉学に暇がなかった――だが、その息子が今は見る影もない。
身体中に穿かれし無数の孔。その苦悶の表情からなぶり殺しにされたのは明白だ。
頬には涙の跡が見て取れた。それは痛みと苦しみからか、それとも今の彼のように誰も助けることが出来なかった悔しさからなのか――
そして長男は弟とは逆に、普段から身体を鍛える事が好きな逞しい男であった。
その肉体は本当に自分の息子だろうか? と彼が疑ってしまうほどに見事であった。
だが――そんな息子でさえも、多勢の前では抗うこと叶わず……四肢が切り落とされ、首から上が床に転がっていた。
腕には息子の愛用の剣が強く握られたままであった。きっと最後まで父の代わりに家族を守ろうと戦い続けたのだろう。
その床に転がる表情は怒りを滲ませたまま固まっていた。
息子の見るも無残なその姿をその眼に焼付け、彼は己の気力を振り絞り立ち上がると、フラフラになりながらも愛すべき妻の前まで歩みを進めた。
妻は綺麗な女性であった。気立ても良く、村一番、いや国一番とも称えられるほどであり、結婚して何年たってもまともにみることも憚れるほどの輝きをもった女性であった。
子供をふたり授かったが、それでもいくら年を重ねても、その美しさに陰りは感じられず、寧ろ年を追うごとに更に容姿に磨きがかかっていった。
そんな自慢の妻が――汚されていた。衣服は全て破りさられ、全裸で放り投げられていたその姿を見れは、ここで何が起きていたかなど一目瞭然だ――
美しかった白い柔肌は所々が鬱血し紫色に腫れ上がっていた。白魚のように細い指の何本かは切り取られ、肉をかじり取られた状態で転がっていた。豊かだった乳房も片側が刳り取られている。
美麗は顔は殴られ続けたのか腫れ上がり見る影もなかった。目玉は一つ潰れていた。涙の代わりに眼窩から白い何かが溢れ肌を伝い床を汚していた。
永遠とも思えるほどの慟哭が村を、いやかつて村だったその場所を覆い尽くした。その叫びは獣のそれにも酷似していた。
男は全てを呪った。村をここまで蹂躙した帝国も、そして無力な聖神ミコノスさえも全てを恨み、杖をその場でへし折り、着ていた神官衣も脱ぎ捨て村で未だに燃え盛る炎の中にくべ、怒りと怨嗟をその瞳に宿し、そして――この日男は全てを捨てる事を決意した。
◇◆◇
「はぁあぁああ!」
零の魂心の一撃がロックの腹部を捉えた。その拳をまともに受けた堅強な腹筋が波打ち、ロックの身が数歩後ずさる。
「くぅ~~! 効いたーー! 中々やるようになったじゃねぇかトイ」
ニヤリと口角を吊り上げ、賞賛の言葉を述べるロック。だがその顔にはまだまだ余裕があった。
「いや――でもまだまだ全然ですよ」
零はそういって苦笑交じりに右手を上下に振る。それは今まさにロックに打ち込んだ方の右腕だ。
「おいおい、十日間でこれだけ錬を使いこなせるようになったんだ。それは謙遜がすぎるぜ」
肩をすくめるロックをみて、零は、ははっ、と顎を掻いた。
本人としては謙遜のつもりもなかったのだが、ロックの様子を見る限りお世辞でいってるとも思えない。
だが、基本ジェンやロックの錬を参考にしてる零には、自分の今の力がそこまでとはとても思えないのである。
だが、よく考えてみればこのふたりが規格外というのもあるのだが。
「じゃあ今度は俺が打つからしっかりガードしろよ。今日はちょっと強めにいくからな」
柔らかい表情から研ぎ澄まされた目つきに変え、ロックがいう。攻守交代だ、ロックの獣のような瞳は、訓練だからと決して油断をするなと暗に訴えかけている。
判りました、と大きく息を吸い込み、軽く脚を広げて直立する。
教わった事をしっかり身魂で反芻し、まずは脚にソーマを集中させ大地にしっかり固定させるイメージで。
そしてロックの一挙手一投足に着目した。
「いいソーマだ」
零を認める口ぶり。そして腰を落としゆっくりと構えを取る。
零とロックがいま行っているのは、錬のソーマの中で強を使いこなすための鍛錬だ。
十日前、ロックは零がレンジャー試験に挑むために鍛えてくれる事を約束した。
それを零は素直にありがたいとおもいお願いしたのだが、ロックが使えるのは錬の強化がメインであり、神のソーマは専門外であった。
しかしロック曰く、零には錬も使いこなせる才能を感じる、との事で、暫くは錬の強化を使いこなす為の鍛錬に勤しむこととなった。
ロックが零に錬を薦める理由もしっかりとあり、神のソーマはその特性上どうしても発動に時間がかかりがちで、更に詠唱中は防御が疎かになってしまう。
しかし錬の強化を覚えておけば、その弱点を補うことが出来、戦術に幅が生まれるというのだ。
実際神と錬のソーマを比べた場合、神のソーマはその系統、つまり炎、風、水、土のソーマを外から掻き集め発動させる必要がある。
その為に其々の力の源である四神に祈りを、つまり詠唱をおこなうわけだが――
その為、発動する上でその力が強力であれば強力であるほど、ソーマを集めるのに必要な詠唱が長くなり時間がかかってしまうのだ。
それに対し、錬の場合は己の体内で生み出されたソーマを使用し発動するタイプだ。
その為、神に比べると発動するまでの時間は圧倒的に短くて済むし詠唱の必要もない。
(但し形式的に皆ソーマを使う前に宣言は行うが)
ただ、そこだけみるとかなり優れてるように思える錬だが、体内のソーマを直接使うため、その分消費が激しく無理をするとソーマの枯渇が起きる可能性もある。
神のソーマであっても一応体内のソーマも使用するが、その量は圧倒的に少ないので、ソーマの自己調整という意味では錬の方がより難しいのである。
零は最初練を教わる時、まずはソーマを練った状態で直立を続けることを鍛錬のひとつとしてやらされた。
だが、これに関してはロックが驚きを隠せない様子であった。
何故なら本来最初にこの練習を行うと、どんなに優れた才能をもった人間でも一〇分も持たず音を上げるからだという。
それに対し零は一時間でも二時間でも立っていられた。単純に感覚というものがないからという事が大きいというのもあったのだろう、と零は思ったりもしたが、それでもソーマが尽きないというのは普通はあり得ないようだ。
おかげで零はあまりに不自然では? と自らソーマが尽きて疲労する振りをした程だ。
そんな誤魔化しが通じるのか不安でもあったが、ソーマを極限まで抑える事でロックにもバレずに済んだことは幸いであった。
そして、それから暫く鍛錬は続き、今零は腹筋の部分にソーマの力を集中させている。強の力で面を覆い、ロックの拳を耐えようと踏ん張る。
勿論脚の強化も疎かにはしない。
フンッ! という力の篭った声。同時に強化した腹筋に強烈な衝撃。
零は思わず短い呻き声を上げつつもそれを耐えようとするが――自らがまるで魂の時の状態になったように浮き上がり、そしてそのまま一気に加速し鬱蒼と茂る木々を突き破るようなバキバキという音を耳に残しながら、ロックの姿がみるみるうちに遠ざかっていった。
勢いが収まった時には既にロックの姿も見えない。地面に背中を打ちつけながら、なお転がり太めの幹をもつ大樹によってようやくその動きを留めることが出来た。
木々と葉の隙間からのぞき見える空が青かった。かなり吹き飛ばされてしまったがここまでくると妙に清々しくも感じられる。
身体に別に損傷はない。咄嗟に落下する位置を強化したので平気であろう。
魂が憑依してる身体とはいえ、感覚がないだけで、斬られれば傷も付くしあまり強い衝撃を喰らえば身体自体は無事ではいられない。
零はそこに関しては特に気を使う必要がある。
そんな事を思いつつ、右手にソーマによる強化を施し、そして草を掴んだ。
この時、零は確かにそれを掴んだという感触を手に感じた。
これは練の強を習い始めて程なく知った発見であった。それは零でもこの強で肉体を強めている間に関しては感触を知ることが出来るということ。
とはいっても直接肌で触れているというのともまた違いはあるが。言うならば、例えば手であれば分厚い手袋をしたまま掴んでるような感触というべきか。
だが、それでも失ったと思っていた感覚が少しでも戻ったのは零には嬉しかったわけだが――
今年初更新となります。
そして今後の予定ですが毎日更新は少し厳しいかもしれません。
ただ2日~3日置きには更新していく予定です。
申し訳ありませんm(__)m




