強襲せしもの
あれは牙なのだろうか? 少しだけ呆けた頭で零はそんな事を考える。
目の前で飛び散る鮮血。突き立てられた狂気。
それは全てを飲み干すような巨大な口腔。
左右の頬側には上顎と下顎から二本ずつ合計八本の湾曲した牙が口腔の外側に飛び出しており、捉えた獲物の肉肌に深く、深く食い込んでいた。
捉えた獲物を見据える瞳は紫一緒に染まっていて、しかも半球状に盛り上がっている為、一見すると輝石の類が埋め込まれているような錯覚さえ引き起こす。
だが、その球は軽く蠢き、今牙を突き立てている獲物へと落とされているため、やはり瞳として機能しているのだろう。
そんな事が魂魄の中を瞬時に駆け巡り、そして自然と身震いした。
もしあれが、セシルだったらどうなっていた事だろうと。
恐らくはセシルの小さな身体では頭ごと、いや下手したら上半分が持って行かれていたかもしれない。
目の前の脅威はそういう類の物だ。
セシルをその身を挺して助けたのはブラックベアの親であった。
巨大な影が藪の中から飛び出し、セシルに今まさに喰らいつこうとしたその瞬間、後ろから体当りして助けたのである。
あの傷を見るに恐らくは動くのだってままならなかった筈だ、だが勇者は気力を振り絞り、セシルとわが子を助けようと傷ついた身体に鞭を打ったのである。
結果セシルは体当たりによりイービルの脇まで飛ばされ、更に己の腕も同時に我が子をシドニーの足元にまで転がした。
咄嗟の事であったのでひとりと一匹は多少の怪我も負ったやもしれないが、それでもこの化け物の毒牙にかかるよりは遥かにマシだ。
だが、あまりの出来事に皆が固まったまま動けないでいる。
親のブラックベアは僅かに残った意識で我が子に慈愛の瞳を向けていたが、その目の光は今まさに失われようとしていた。
グルゥ――僅かな唸り、まるで弄ぶかのように喉笛の感触を楽しんだ後、そいつは一気にその首から上を喰い千切った。
勢いに任せて頭が飛んだ。下草の上に落ち、力なくゴロゴロと転がり、セシルと子熊とを繋ぐ線の中心で動きを止めた。
セシルも子熊もまだ何が起きているのか理解できてないのか、その亡骸を呆然と見つめている。
頭を無くした胴体からは、まるで噴水のように多量の赤黒い血が吹き上がり、それが雨となって辺りに降り注いだ。
そして横倒しに倒れる胴体。重々しく悲しい音が鳴り響くが、化け物は構うことなしにその腹部に喰らいつき、一口の元に内臓ごと含みこんで軽く咀嚼した後、己の口腹を満たしそして――藪の中から全身を曝け出し、一行を値踏みするようにみやりだす。
一体これはなんだ? 零は己の記憶を必死に探る。だが答えはでない。
この身体の知識にもない存在。
その事がより不気味さを際立たせる。
岩石のようにゴツゴツした身体は瞳よりも更に濃い紫色。
胴体だけでもブラックベアの全長を大きく超え、その身を支える四肢は周りに見える木々の幹より太い。
顔は歪な丸型でその面積の三分の二程は口である。
耳は割りと小さい方のようだが、頭から胴体に掛けては雄々しい鬣が伸びていた。
その先では大蛇のように太く長い尻尾がゆらゆらと揺れている。
衝撃だった。ゴブリンとの戦いの時に見たハイゴブリンにも相当驚かされたが、これは更に格が違う。
そう思わせるほどに、目の前の化け物は禍々しくそして獰悪だ。
そしてその邪悪な何かは、全ての餌を認め終えると、天に向かってその大口を開け、身の毛もよだつような雄叫びを上げた。
その瞬間周囲の木々も生え渡る下草も、残された子熊の黒毛さえも、激しく振動させ不気味な音を辺りに散らした。
声ひとつで大気をここまで震わすこいつはやはり化け物だ――
零はいち早く落ち着きを取り戻すと、皆に向かって警告を発する。
今は悲しんでる余裕も恐怖する暇もない。
「皆目の前の相手に集中! 一瞬足りとも目を逸らすな! こいつは圧倒的にやばい!」
飛び込んだ声にハッとした表情でマーニが我を取り戻す。
「シドニー! その子供はなんとしても守って! あとあんた! クロスボウは何のために持ってるの! ボケっとしてないで早く狙いなさい!」
マーニの指示に、シドニーが慌てた様子で、判った! といい子熊を後ろにやり得物を抜いて化け物をみやる。
そしてマーニは即座にコンポジットボウを取り出し矢を番え全力で引き絞った。
その頃にはあの尖り目もクロスボウを構え化け物に照準を向ける。
「セシル! イービル! ふたりともそこにいたら危な――」
得物を構えるふたりを確認した後、零は化け物から最も近いふたりに注意を呼びかけようとする。
だが、その言葉は途中で飲み込まれた。セシルは悲しそうな顔でブラックベアの頭を見据えていた。
彼の性格だと、どうしても哀しみを心で受け止めてしまうのだろう。
しかし零の声が止まったのはセシルが原因ではない、その奥のイービルの顔をみたからだ。
周囲の皆が揃って戸惑いや怯えといった感情を表情に貼り付ける中、彼だけは喜々とした笑みを浮かべていたからだ。
そしてその笑みを確認しながらも、視界の端を二本の矢弾が疾走する。
二人の手から其々放たれた矢の軌道を目で追う。
風を切り裂きながら進むソレは、淀みなく化け物の身体に命中する。
だが――それは命中しただけに終わった。常識を遥かに凌駕する頑強さ、マーニの鋭い矢も、尖り目のバネの力を利用した強力なボルトも、皮一枚傷つけることなく弾き返された。
そんな――という落胆の声。イービルの取り巻きふたりに関しては、ガタガタと震え完全に戦意を失っている。
このままじゃマズイ! と零が咄嗟にミコノフに祈りジェードに願い始める――が、そこでセシルが蹶然し、水筒を握りしめ大きく前に踏み出した。
口では何かを呟いている。既に詠唱を開始していたのかもしれない。
だが――
「どけ、邪魔だ!」
セシルを片手で横に突き飛ばし、そして化け物に単身で突っかかる男。
イービルであった――
「い、イービル様!」
取り巻きふたりがほぼ同時に口にした。その声を受けながらイービルが捲し立てるように口を開く。
「我こそはアグドール子爵家が誇りし長男イービル・アグドール! 今こそ天が与えし我がソーマの力を持って、邪悪なる獣を討ち滅ぼさん! さぁお前たち! 我が有志をその眼に刻み! 勇敢なる騎士の物語を紡ぎ伝えよ!」
得々と口上し、イービルが化け物の捕食範囲に自ら足を踏み入れる。
「さ、流石我らがイービル様だ!」
「ご自分の命も顧みず! 単騎であのような化け物に挑むとは! 伝説に名を残した騎士たちが霞むほどのその勇気! 私感動でございます!」
先ほどまで震え上がっていたにも関わらず、ここまで持ち上げることが出来るふたりはある意味で賞賛に値する――
そんな事を思いながらも零は化け物向かっていくイービルにその眼を向けた――




