初めての憑依
零が魂だけの状態である事は、自身にとってもそこまで驚くべき事態では無かった。
何故なら物心ついてからそんな事はしょっちゅうであったからだ。
だがそれは零が自分の意志で制御できるものではなかったし、いつ如何なる状況でなら起きるという物でもなかった。
つまりそれは常に唐突だった。それはあるお祭りの夜だったり、アトラクションのジェットコースターに乗った時だったり、学校でテストを受けてるところだったり、家族で食事をとってる途中からテレビを見てる時までいつだって唐突に身体から抜けた。
その度に零の身体は意識を失う。
零自身の意識はあるし、空中から自分の姿も見れたのだが、本体は意識を失うし、家族も、クラスメートも、先生も、当然目にしてるのはその本体なのだ。
そして当然のようにその度に騒ぎとなった。
零がその現象を幽体離脱だと知ったのは、小学生の頃、ネットに繋がった親のパソコンで調べてからだ。
親は何かの病気ではと零を何度も病院に連れていったものだが、結局理由はつかめず、そのことが親を苦しめ学校でも周りから距離を置かれる要因になっていた。
だがら零はこの力が嫌いだった。でも嫌いと言う理由で無くなる物でもなかった。
恐らく親友の勇猛の存在がなければ自ら命を立っていたかもしれないと零は今でも思う。
だが、そういった経験はこのような状況となっては決して無駄ではなかったようだ。
零は宙を浮いていた。現状を理解する為とりあえず空から辺りを俯瞰してみようと考えたからだ。
そして宙から眺める事で、今いる森がとても広大である事を知った。どこの樹海にいるのだろうかと目を疑った程だ。
とりあえず零が空から覗いてみても、広漠な緑の絨毯がどこまでも広がるのみである。
目立つものといえば一本だけやたら高い大木があるぐらいか。
もちろん際限なく上昇する事が出来ればもっと先まで見ることが出来るだろうが、零が浮ける高さはそこまで優れているものでもない。
場所や位置によっても変化はあるが、あまり高くまで浮き上がろうとしても途中で速度が落ち、終いには全く上がれなくなるのだ。
今見ている位置も、建物でいえばビルの五階程度に相当するぐらいである。
これは以前から知ってた事で、現状も変わることは無かった。
魂の状態といってもそこまで優れているわけではない。壁を抜けたりは出来るのだが、例えば飛ぶ速度一つとっても、飛行機のように早く飛べるという物でもない。
ただ、疲れないという利点はあるが。
零は宙空でぷかぷかと浮かびながらやれやれと顎を掻いた。
これからどうしようかと思ったりもした。
やみくもに動いても仕方がないと思う。
せめて自身の身体でもどこかにあればと思ったのだが、残念ながら見つける事は叶わなかった。
ただこの状況を考えるに、恐らくあの骸骨に出会った事は事実なのではないかとは思い始めていた。
そして同時に今いる世界はきっと、零がいた地球とは違うのだろうと、漠然ながら思い始めていた。
前に勇猛から貸してもらい読みふけった小説を零は思い出していた。
たしかその中でも、主人公はこういった異世界とよばれるたぐいの場所に転移させられていた。
零も現状の地形や何よりも先に出会ってしまった(向こうは気づいてもいなかったが)剣を帯刀した少女や、それに襲いかかっていた化物の存在が、その記憶を確証させるにたる事実として受け入れざるえないと考え始めていた。
だとしたら恐らくは零をどこかの世界に飛ばしたのは、あの骸骨であると考える他ない。
ならばとりあえずは彼を見つけることが先決かもしれないが――その手がかりもどこにもない。
零は少しずつ不安にかられていった。確かに魂が身体から抜け出す状態は慣れ親しんだ事ではあるが、それでもこれほど長時間抜けていた事はないのだ。
前に幽体離脱について調べた時の事を思いだす。確かそれではあまり魂が抜け出たままの状態が続くともう身体には戻れないとかかれていた事を。
だとしたら流石にまずいかもしれない。早く身体を――
零がそうあれこれと考察していた時だった。
何かの叫びがその耳に届いた。魂の状態であっても目と耳は変わらない。
その機能は変わらず有している。
聞こえてきた一つの声には聞き覚えがあった。今さっき聞いたばかりの声だ。だがもう一つは初めて聞くものだ。
零は一瞬迷ったがこのまま何も手掛かりがない状態でいるよりはいいかもしれないと、声のした方へと降りていった。
どちらにしても相手からは自分が見えてないことは先程の件で証明されている。
◇◆◇
零が降り立った時には、丁度あの化物共がソレに止めを刺したところであった。
緑の化物は今度は五体いた。それを目撃し、つい零は樹木の影に隠れてしまったが、すぐに必要なかった事に気づき身を晒した。
目の前では初めて見る、やはり零からみたら化物が、槍に突き刺され絶命した後だった。 槍といっても長い木の枝に先の尖った石の破片を括りつけたという程度の物だが、それでも彼等の恐らくは強い膂力にかかれば脅威の武器となり変わるのだろう。
緑の怪物は物言わなくなった哀れな骸を一瞥し、踵を返し去っていった。あいかわらず言葉ともいえない何かを叫んでからだ。
それは奴等にとっても勝利の雄叫びに近い所為なのかもしれない。
石槍に突き刺された骸は、あの少女に斬られた状態に比べればまだましに思えた。
零は多少の躊躇いもあったが、とりあえずその骸に近づいてみることにした。
近くまでいくとやはり零が見たこともないような容姿をしていた。
いや顔だけ見る分にはそれは犬のものであった。毛並みは見た目でしかないが少し固そうで、色は焦げ茶色だ。
耳は犬よりは一回りほど大きいだろうか。口元から飛び出た舌は人間のと変わらない感じもする。
零はこれを見て、何かで見たことがある気がしてならなかった。だが喉まで出かかってるが思い出せない。
たしかゲームや小説で見た気がするのだが――
どちらにしても思い出せないことをいつまでも考えていても仕方がない。
零は改めてその化物の骸を見る。獣の皮で作られたと思われる衣類を身にまとっていた。
腰の部分を植物の蔦で縛り、袖の部分と首の部分に簡単に穴を開けたものだ。
貫頭衣に比べればより身体に密着させた感じである。そして右手には剣が握られていた。
鉄製ではなく黒曜石を研磨した物のようだ。
全体的に見ると人間ほどではないにしても、あの緑の化物に比べれば知性を感じさせた。
零はひと通り見た後、もう少し近くでみてみようかと、顔を近付けてみた。
その時だった、化物の身体と零の身魂が光り始めた。まるで共鳴してるようだった。なんだと零は更に身を近づけた、その瞬間、何かに吸い込まれたような感覚が訪れ、頭のなかに多くの記憶や知識が飛び込んできた。それはあまりに一瞬の事であった。
膨大な情報量に、頭が破裂するのではないかと思ったがそうはならなかった。
そしてその奇妙な感覚が過ぎ去ったかと思えば視点が回転し、そして固定されていた。
視線の先には大地に根付く草花、そして奥には列なる樹木。それらを全て横倒しに見ていた。
勿論横倒しになってるのは零自身であり、そして今自分に起きてる状況も頭の中に根付いた記憶と合致してることで理解した。
今零はコボルトの身体の中にいる。つまり死んでいた彼の身体に憑依したのだ。
これは零にとっては初めての経験であった。
これまでは魂が抜けたことはあっても憑依した事はない。
因みにコボルトという名は飛び込んできた知識から得たものだ。そしてそれをもって漸く零も思い出すことが出来た。
確かゲームで出てきたモンスターに同じ名前のがいたなと。そして外見も記憶と重なる。
それと同時にその知識からあの緑の化物がゴブリンであった事も知った。
それもまた零がかつてプレイしたゲームに出てきたモンスターと同じだ。
ただこちらは零の知っているものとは見た目が異なっているが。
このコボルトが持っていた知識は、感覚的には魂に刻み込まれたような、そんな不思議な根付き方をしていた。
頭のなかで記憶を探るというよりは自然と身についたという感じだ。先ほどのゴブリンのことや、このコボルトのことも自分が必要と思う情報は自然と頭に浮かんでくる。
それでいて自身の記憶もはっきりしてるのが不思議な感覚であった。
ただ例えば日本人でありながらも多国語をマスターしてる人は、一々考えなくても自然と言葉が出てくるというから、それに近い感覚なのかも知れない。
零にとって右も左も判らない世界で、コボルトとはいえ知識が宿るのは嬉しいことであった。
だが、そんな零にはもうひとつ問題があった。
それは身体の動かし方だ。なぜなら憑依してもそれは魂の時と何らかわらなかったからだ。
どういう事かといえば、例えば魂の状態では物に触れたりしても、すり抜けるだけだ。そこに触れたという感覚はない。
そしてコボルトに憑依した現状では、草を触れても当然すり抜けるような事はないが、触感がないというのはかわってないのである。
いやもっといえば、神経そのものがないような感じでもある。身体を動かすということ一つとっても、それがないだけでこんなにも大変なのかと、改めて失ったものの大切さを知った。
零はとりあえず、身体から抜けることは出来ないのかと考え試してみた。が、これは意外とあっさり抜けることが出来た。
単純に意識で身体から抜け出るイメージを持つことで、零の魂はスポッとコボルトの身体から抜け出たのだ。
そこまで知ることが出来た零であったが、とりあえずはそのコボルトの身体に戻ることにした。
とにかく状況的にもこの状態に慣れておく必要があるかもしれないと思えたからだ。
零にはひとつ気になることがあった。
件の死神のような風貌をした者が発していた言葉だ。
魂に対して器がそぐわっていない。
確かにそう言っていたのだ。
そして零にとってふさわしい世界におくるとも――
それを思い起こし、自分はもしかしたら魂だけがこの世界に来てしまってるのではないだろうか? という考えが頭を過っていた。
つまり身体はそもそもこの世界には送られてきていないのではないかという事だ。
そうなると今後この世界を知る上で、憑依というのは重要な武器になるかもしれない。
だが、せっかくの武器も使いこなせなければ意味がないだろう。
零はとにかくまずは身体を動かす事から慣れようと必死になる事にした――