プロローグ
冬羽 零は自分自身の身体を俯瞰してる現状においても特に慌てた様子は見せなかった。
勿論それは夢や、見間違いという事でもなく。
今廃寺の床に寝そべり、友人の仲間 勇猛に揺すられている細身の身体も、自然に流した黒髪を生やすあどけなさの残った顔立ちも、全て自分の物である事に間違いなかった。
にも関わらずどこか達観とした感じに状況を掴んでいるのは、それが今に始まった事ではないからだ。
しかし、それは自分の魂が身体を抜け出してしまうという状況のみに当てはまることであり――
今目の前でゆったりとした調子で彼を眺める骸骨は、零にとっても想定外の相手である。
「君も飲むかい?」
黒いローブを身体……というよりは骨の上から羽織ったその骸骨は、まるで英国紳士を思わせる挙措で紅茶を啜り、零にも勧めてきた。
「結構です」
淡々とした口調で応えた。骸骨が取り出したティーセットは一体どこから出したのかと多少は気にはなりもしたが、この状況でも冷静な自分には驚いてしまう。が、実際に奇妙な現象の中に立たされると人間こんなものかもしれない。
もしくは零自身が特殊なのかもしれないという考えも持てるが。
下では必死に勇猛が零を起こそうと声を荒らげてる。
彼が連れてきた女友達二人はとっくに逃げ出してしまったというのに、その必死さに魂が締め付けられる思いだった。
そして自分はいつまでもこうしてる場合じゃないことにも気付く。早く身体に戻らねば。
「君はかなり珍しいタイプだよね。でもそれじゃあこの世界じゃ随分と不便な生活を強いられてるんじゃないのかな?」
その身を動かそうとした直後の言葉に、初めて戸惑いを覚えた。
「図星かな?」
零は再び骸骨に身体を向けた。瞳のない窪んだ二つの洞穴。だが、にも関わらず全てを見透かされてるような気がした。
「貴方は一体誰なんですか? 死神ですか?」
零はここに来て初めて自分からソレに質問をした。確認する為に出た名称は彼をみたイメージがそのまま口を継いだものだった。
そして一瞬だが、死神だったならそれはそれで構わないという思いも湧いた。
「死神? あぁなるほど。この世界だと今の私はそう見えるのかもしれないね。まぁそれならそれで構わないよ。私は好奇心が旺盛でね。見たところ君は魂に大して器がそぐわっていない。それはこの世界じゃ致命的だろう」
骸骨はまるで自分は何でも知っているんだと言わんばかりに得々と話した。
「だからね。私が君をその魂に相応しい世界へ送ってあげよう。その方が面白そうだしね」
表情の無いはずの骸骨がまるでくすりと笑みをこぼしたように感じた。
何か嫌な予感がじめりと零の魂を覆った。
そしてそれが間違いでないことは、何時の間にか消え去ったティーセットと代わりにその手に握られた巨大な鎌によって証明された。
「やっぱり死神じゃないか……」
思わずこぼす零の耳に友人の声が響く。
「おい! 起きろよ零! おい!」
零を心配して声をかけ続ける勇猛の姿に、まだ死んでる場合じゃないと零の魂が震えた。
確かに自分にとっては住みにくい世界だが、それでも自分の事を親友だといってくれる彼がいるだけで生きていく意味があるのだから。
零は踵を返すようにし、魂を本体に向かわせた。そうすればいつものように身体に戻れると思ったからだ。
だが身体に入り込む直前で死神に追いつかれ。
「行ってらっしゃい」
という、どこか楽しげな声音と共にその鎌が振られたのだった――
◇◆◇
――ここは一体どこなんだ?
それが冬羽 零が目覚めて最初に思った事であった。
瞼を開くとそこには抜けるような青空が広がっていた。木々の隙間から差し込む光がその顔を照らし、身体を起こすと周りは草と花、大木や低木といったもので溢れていた。
零は顎に手を添え少し考えこむ。頭の中を整理しようと思ってのことだ。
何せ直前の記憶がはっきりしない。
これまでの経緯をたどってみた。
確か零は今が翌日の朝であるなら、前日は友人の勇猛に誘われ心霊スポットである廃寺に向かったはずであった。
残暑が厳しいので涼みに行こうという事だったのだが、その時は勇猛の女友達二人も同行してきた。
どうやら本来の目的は二十歳になってまだ彼女の出来たことがない零に、チャンスを与える為だったらしい。
零にとっては余計なお世話だったが、悪気があるわけでもないので四人で廃寺に向かったのだ。
そういえばと零は結局その二人は勇猛が目当てだったな、と言う事を思い出した。
だがとうの本人は怖いといって寄り添ってくる女の子を、うるせぇ。近付くな。うぜぇ、等と散々な言い草で雰囲気がかなり悪くなってしまったものだ。
確かそんな折だったのだ。廃寺の納骨堂に踏み入れた時、急に部屋が揺れ始め俗にいうラップ音というのも響きだし――そして零は自分の身体を見下ろすことになった。
蹶然し、そうだ! と思わずこぼしていた。
あの骸骨はどこに? と辺りを見回すが既に消失しており、自然の壁が聳え立つ見姿が視界に入るだけだ。
もしかして夢だったのでは? という感覚にさえ陥る。それならば今が朝なのも納得できるだろう。
ならば改めてここはどこかと考える。確か廃寺に向かうときは山道を通り抜けた筈だった。
だとしたらここは廃寺を抜けた先の山の中か? と改めて周囲を観察するが、そういう風にも見えるし、そうでない気もする。
そもそもいくら山とはいえ道ぐらいはあったはずなのだが、今はそれも見当たらない。
尤も山道を外れてしまったと考えることもできるが、ならば一体誰が何のためにという疑問も残る。
そこで零ははっと何かを思い出したようにポケットを弄りだした。
現在の着衣は寺に来た時と同じ半袖の開襟シャツとジーンズ。
ポケットには確か携帯電話が入っていたはずだ。
何でこんな簡単な事に気づかなかったんだろうとポッケの相当おくまで手を突っ込み取り出そうとするが……その期待は脆くも崩れ去った。
左右の口と、ジーンズの後ろポケットにまで手を伸ばし必死に探したが携帯電話は結局見つからなかったからだ。
いや、それどころか財布も見つからない。零は着衣している衣服以外は全てを失っていた。
ここまでくると流石に気が気ではなくなる。もしかしたら自分は何かの事件に巻き込まれたのでは? という不安にもかられる。
携帯電話も財布もないのは落としたからか盗られてしまったからか――前者なら物取か最悪人さらいの可能性も――。
そこまで思考を巡らせたところで零は一つ息を付いた。馬鹿らしいと思った。
大体零の事をさらって一体どうなるというのか。それに人さらいだとしたらこんなところに縛りもせず放っておくのはおかしい。
どちらにしてもこのままここで立ち尽くしていても仕方ないか、と零は思考の海から浮き上がりとりあえず動いてみようと考えた。
だが、その時だった。木々のがさごそと揺れる音がその耳に届く。
零は身構えたまま動くことが出来ない。唐突の事で咄嗟に判断が出来ないのだ。
隠れようかとも思ったが足がすぐにはいう事を効かず。結局木々の間から現れた存在に身を晒すこととなる。
(え? 女の子?)
零は視界に収めた女性に目を丸くさせた。
年は零よりは若いだろうか。少女とよんで良い部類だろう。
零が疑問に思ったのは、なんでこんな山に女の子が一人でいるんだという事もあったが、彼女の格好にも少々面を喰らってしまったからだ。
とりあえず疑問点は多々あるが、まずは髪の毛。首上までのショートカット。これは特に問題はない。
だがその色は|鮮緑色《エメラルドグリーン
》である。
勿論都内の、若者が沢山集まる街にでもくりだせばそういった染色を施してる者もいるが、このような山中では少々奇抜すぎるといえた。
更にいえば彼女の格好にも目を疑ってしまう物があった。
上半身には銀色の胸当てを装着し、下半身は革で出来たようなスカートに脚には具足。
そして腰には鞘に収められた剣のような物を吊るしている。
これは、確かそう以前、勇猛に進められてハマった事のあるゲームに出てくるような……そんな出で立ちであった。
コスプレ? という言葉が脳裏に過ったが、だとしてもなぜこんな山中でという疑問を拭うことが出来ない。
もしかしたら何かのイベントでもあるのか? 等とつい考えてしまう零だが、そんな事をしてる内に緑髪の少女は零に向かって歩みを進めてくる。
どうしようと戸惑うが一体どうしていいか判らず逡巡してしまった結果、口を継いだ言葉は。
「こ、こんにちは。いい天気ですね」
何を言ってるんだ自分は、と思わず頭を抱きかかえ身悶えたくなる。
だが、その娘は特に何の反応も示すこと無く……零の横を無言で通り過ぎた。
「え?」
と女の子を振り返る。すると彼女は、大木の前にしゃがみ何かを摘み取る。
零はもしかして無視されたのか? と少なからずショックを受け肩を落とした。
だがそんな彼の気持ちなど露も知らずといった具合に少女は随分と濃い色をした草を、剣とは反対側の腰に装着してるポシェットに入れた。
大きさはA4サイズの大学ノートより少し大きいぐらいか。襠がついてるのか底は余裕が感じられる。ただ今どきの女の子が身につけるようなお洒落感は無い。何かの革を縫い合わせたような、手作り感に溢れている。
草を摘み終えたのか、少女が振り返った。顔には笑みがこぼれていた。緑色の虹彩を持つ大きな瞳と目が合い心臓がどきりと揺れた気がした。
改めて見るとかなりの美少女である。
色々と考えねばならないことは多そうだが、とりあえずは再度彼女に声を掛けてみようかとも思った。
無視されておいて何度も声を掛けるのはウザイと思われるかもしれないが、とりあえず現状を知るためには彼女の話を聞く必要もありそうであるし、このまま何もしないのは――
そう思っていた時だった。再び今度は少女側の方から枝と葉のこすれあう音が響く。
一体今度は何だ? と目を凝らす。先ほどに比べれば少しは心にも余裕が生まれていた。
どこか悠々とした面持ちで音のする方を見続けた。
だが、そこに姿を表した存在に零の身魂が跳ねた。
正直いって少女の事まではまだコスプレや変わった格好の人物で解釈出来ないことは無かったのだが、二度目の襲来には腰を抜かすほどの衝撃を受けた。
ソレは非常に面妖な化物だった。
身長は少女よりも更に小さく百四十センチ程でしかないのだが、彼女の髪よりも濃い緑色の肉肌を有し、小さな身体とは裏腹に非常に逞しい筋肉を誇っている。
顔は丸型で髪はない。耳は先が尖っていて、少女を見つめながら開いた口内には数本の牙が見え隠れしている。
そして獲物を狙うように見開かれた双眸は、窪んだ瞳が不気味さにより拍車を掛けてるようだ。そんな化け物が三体も同時に現れたのである。
この悍ましい化け物達は、少女を見つめながら耳障りな奇声を発し続けていた。
それは知性の感じさせる声ではなかった。
反対に少女もその怪物に何かを言うがそれも零の理解できるものではなかった。
英語等といった外国語とも違う。が、それでもその言葉にはどこか規則性が感じられ怪物とは逆に、知性のようなものを匂わせる。
怪物達はダラダラと涎を垂れ流し、どこか興奮した感じにそれぞれが手に持った打製石器のような物を振り回していた。
それを見ている少女は不快そうに眉を顰める。
零は正直どうしていいか判らなかった。
脚が竦んで動けないとも言える。
目の前で少女が謎の化け物達に襲われそうになっているのだ。
ここは男として本来は助けに入るべきかとは思うのだが、まるで錘を身体中に張り付けられたが如く、すしりとした重さがその身を支配してしまっている。
そんな最中、緑色のソレは禍々しい雄叫びを上げたかと思えば、すぐさま三体同時に少女へ飛びかかった。
危ない! という叫声が零の口を継いだ。
だが少女は慌てる素振りもなく、冷静に腰の剣を抜き――向かってきた怪物達を振るった斬撃で次々と両断していった。
化け物達の緑色の血飛沫が、ブシュゥゥウという噴出音と共に舞い上がる。
化け物の身体は見事に上下半々や左右半々にわかれ、地面に崩れ落ち重苦しい音を後に残した。
少女の顔には緑の返り血がべっとりと張り付いていた。刃に残った体液は、宙で数度剣を振るい、散らし、静かに鞘に収める。
一連の動きをぼーっとした表情で見続ける零。現実感のないこの惨状に思考が追いついてこない。
少女は緑の化粧を落とそうともせず、再び零に向かって歩いてきた。
さっき見た時とは、印象がすっかり変わっていた。
可愛らしい美少女が、とんでもない異形に思えて仕方なかった。
逃げようにも今だ意識が追いついていない。だが逡巡してる間にもかの異形は近づいてくる。
そして、眼と鼻の先までその少女が近づいてきた。零は咄嗟に右腕で顔を覆った格好で瞼を閉じ、腰の引けた状態で、
「ご、ごめんなさい!」
とわけもなく謝っていた。
巨石を運ばされる人夫の如く、背中を折り曲げ、頭を沈下させたままかなりの間(実際には数秒の事だろうが)が過ぎても、外側からの反応は何一つ無かった。
零はそろりそろりとまず目線を上げ、それから首を上げた。誰も居なかった。
背中をおこし、きょろりと辺りを見回すがさっきの少女の姿は既にない。
がさがさという葉摺れ音が、響き渡るがこれはこれまでと違い風の他愛もない悪戯である。
零は結局無視をされ続けた事になる。それに軽く凹みそうになるが、よくよく考えてみればあまりに妙な話である。
あの少女は、まるでそこにいる者が視えていないようでは無かったであろうか。
顎に指を添え思考を巡らす。再度顔も巡らす。あの化け物の姿があった。
一体は胴体が見事に切り株のように斬られ、腰の位置からどす黒いものがこぼれていた。
それが何かは零にも容易に想像できたが、かといって確かめようとも近づこうとも思わなかった。
例え化け物でも一頭一胴、二腕二足、の体躯を持っているのだ。中身も人間と変わらなそうである。
そんなものを敢えてみようとは思わなかった。ただ気持ち悪いとは思ったが、不思議と吐き気などはわいてこない。
初めて死体を見たなら吐くのが当たり前という考えが零にはあった。小説などを見た限りの知識だが、でも現実に死体を目にしたらきっとそうなるものだろうと考えていた。
だが実際には、気持ち悪いという思いはあってもそれ以上の身体の訴えは無かった。
ただどちらにしても少女が消えた今、現状の手がかりが失われたのは事実だ。
いや寧ろ状況は更に悪化したとみていいだろう。
流石の零もこの惨状を目の当たりにして、これは現実世界で何か事件に巻き込まれてるのでは? という考えを持ち続けることは不可能だった。
まだ夢ですといわれた方が現実味がある。
いや夢なのだ。
きっとそうだ。
だったら早く覚めて欲しい。
しかし、現状は夢にしてはあまりにリアルすぎた。
夢には夢のらしさがあるものだ。だがここにはそれがない。
零は額を押さえながら、とりあえず落ち着こうと近くの立木に腕を置こうとした。
だがその木に体重を預けたその瞬間。目の前が真っ暗になった。
なんだ!? と一瞬だけ零は焦ったが、すぐさま上半身を引くと、目の前にその木が現れた。
それにも零は疑問を持った。身体を引いたらソレはみえる。でも体重をかけるとみえなくなった。
そこで零は、はっとした。なぜこんな事に気がつかなかったのだろうかと眉根を寄せる。
自分自身の事だ。だが今までとは勝手が違いすぎた為きづけなかった。
更に言えば零はその状態には慣れすぎていた。
だから普通の人であれば感じたであろう違和感にも鈍感であった。
零は目の間の立木に向かって右手をそろそろと近づけた
そして右の掌が樹皮に触れた事を、感じなかったのでそこから更に掛かりもしない体重を掛けた。
右手は零の予想通り、木の内部もすり抜け見事に反対側に貫通した。
そこでようやく零は現状を確信した。
自身が魂の状態でいることにだ――