フジツボ転生
「痛っ……」
ステンレス素材の刃が触れた人差し指から赤い雫が滴った。
白魚の様と褒められる美しい手指には素晴らしく映えるが、主には痛むばかり。
きゅっと指を絞めたまま傷口を洗い流し、救急箱を出して消毒して絆創膏を貼る。
その所作は野菜を切るより遥かに手馴れているのは気のせいではない。
人差し指に仲間を迎え、彼女の左手を守る兎さんの絆創膏は三枚になった。
「上手くゆかぬものですね。」
ふぅ、と息を漏らした彼女は再び台所に立って包丁を手に取った。
まな板の上には人参が転がっている。
二本分は輪切りにされ、後二本はほぼ無傷。
既に入っている切れ目に刃を入れると、やや硬い芯を切るために力を込めた。
まな板をこっ酷く叩いたのか、ガンッと強い音を立てて一つ輪切りが増える。
箱入り娘の彼女は腕力が強くない。
たくし上げてある着物の袖から覗く腕のなんと白く美しいことだろうか。
それこそカボチャは鉈でもなければ割れないだろう。
……鉈を振れるかは別問題だ。
「ふっ、くっ、ぐっ!」
芯が細くなるまでは大変な作業になる。
体重をかけるために一々踵を上げてぴょこぴょこと跳ねる彼女の姿は可愛らしくもある。
一身上の都合から料理に関してマイナススタートだった彼女の習いたての時分は、包丁を上段に構える、加熱は火に当てる、が普通。
正に調理場は戦場だった訳で、それに比べれば遥かにマシだと言える。
彼女の母が教育に費やした苦労は並々ならぬものだっただろう。
「はぁ、はぁ……ふぅ、次は何をするのですか?」
リビングのテーブルにある雑誌の広いてあるページにはハンバーグのレシピが写真付きで載っていた。
ハンバーグに平仮名で“はんばあぐ”と読みが振ってある。
彼女は今付け合わせのグラッセに挑戦しているらしい。
なお、グラッセは赤線で消されて人参の甘煮に直されていた。
「ふらいぱん。平鍋のことですね。水に浸し、材料・甲を加えて……」
この不器用な少女はさして珍しくもない中流家庭の生まれだ。
父はそこそこ名の売れた企業の平社員、母は大学時代からの恋人で現在パート主婦。
特に事件もなく恋愛結婚を果たし、特に事件もなく子供が生まれた。
そんな平凡なルーツを持つ少女は、何の因果か前世の記憶を持って生まれた。
平安時代、皇族の血筋が入った貴族の長女であり、藤壺と敬われていた女性の記憶。
自身の記憶を認識できるようになった瞬間に人生を一度全うした女性となった彼女は世界から爪弾きにされた。
およそ千年前の文化、常識で完成した藤壺が最低限適応するのに十年費やされた。
一回り年下の母に支えられ、まずは言語を学び、歴史を学び、何とか意思疎通が可能になった。
相互理解ができると、次は現代の常識を学び始めた。
世の宝として育った貴族の長女ができることと言えば、歌や化粧くらいなもの。
後は反物の目利きだろうか。
自らの世話も含めた仕事を覚……叩き込まれ、ようやく“とんでもなく高飛車な怠け者”までレベルアップした時、藤壺は中学生入学の年を迎えた。
超特急で小学生の勉強を詰め込み、何とか入学した中学校では朝廷の権力闘争で身につけた権謀術中で君臨。
数多の伝説を残している。
そんな彼女が丸くなったのは、高校入学に母が倒れたことと、その二年後に弟妹が産まれたことが原因だった。
母の不在の間、父と謎の物体を食べ続ける毎日に母への感謝を知り、貴族の子女に課せられた義務や宿命を持たない“ただの弟妹”が母性と自立心を目覚めさせた。
今日のハンバーグも、弟妹の大好物である。
失敗し、ゴミに変えた挽肉はキログラムに達し、腹を壊した父が出勤する姿を何度見送ったことか。
「後は焦げぬよう見つつ、はんばあぐを焼いてしまえば……落ち着きなさい、藤壺。火勢を収むればかような過ちは起こらぬのです。」
やんごとなき笑いを披露しながら、藤壺はギリギリ手が届く位置からコンロに手を伸ばした。
もちろんフライパンで顔はガードしている。
フライパン越しに覗いて“つまみ”を握ると、完全に顔を隠して手を返した。
カチッ
ボッ!
「ひぃっ!?」
点火と同時に身を竦めた藤壺は、燃焼が続く音を聞いてそろりそろりとフライパンを退けていく。
未だに慣れない文明利器の一つだった。
火力を弱めてグラッセのフライパンを置くと、空いてる方のコンロには盾のフライパンを乗せておく。
シンクに転がしてあった玉ねぎを手に取り、茶色い皮を剥いでいく。
初めての時は実まで剥いて食べる場所のはどこ、なんてお約束をやったものだ。
まぁ、微塵切りにしてしまえば結局同じだが……
二玉用意して、包丁を取った藤壺の喉が鳴る。
ここからは長くなるので割愛しよう。
「うぅ……目がぁ……妾のまなこがいと痛みて候ぅ……」
微塵切りにした玉ねぎを炒めながら、藤壺は玉ねぎのアレにやられてボロボロ泣いていた。
節に沿ってきるとか、そんなテクニックがないからザクザク切った結果だ。
仕方ない。
弱音を吐くも丁寧に面倒を見ているのだから、構わないだろう。
玉ねぎを炒め終えたら、一旦冷やしている間に洗い物を済ませておく。
後は混ぜて捏ねて焼くだけで時間は掛からないので、夕飯の前にまとめてやるのだ。
グラッセもいい具合になったら冷蔵庫へ。
「良きかな。夕方の安売りに間に合いそうですね。」
チラシと家計財布が茶巾に入っていることを確認すると、彼女は結っていた髪を下ろして櫛を入れる。
美しい黒漆の束が膝まで伸びる。
本当は地に横たわるまで長さを欲していたが、残念ながら母親がこれ以上は許さない。
唇に紅をさし、一通りの化粧をした彼女は商店街に出掛けた。
西陽は肌に悪いため、しっかり日傘をさして隙がない。
「はて、今日の特売は何でしたか。」
ガサガサと広げたチラシには所々に丸印が付けられている。
このチラシは商店街全体で出しているもので、某さん家は何が安いとか、そういう感じだ。
買う物を決めて周らないと商店街を端から端まで歩かなくてはいけなくなってしまう。
恐らく、藤壺では途中で動けなくなる。
「(以前は部屋の中ですらろくに歩かなかった私が、まさか買い物で街道を行くことになろうとはの……)」
脚が隠れるように着物の裾を押さえ、からんころんと下駄を響かせながら、すっかり慣れた灰色の道をてくてくといく。
焦げ茶の木々は姿を消し、地と同じ灰色の塔が聳える今の世は少し寂しい。
一つとして同じものが無かった木の肌と違い、灰の塔は違いがなく、一度歌にしてしまえばそれまでだ。
しかし、家屋には種類が増えている。
外出する藤壺の楽しみは様々な家を見て回ること。
海の向こうから渡ってきた花々も見られて良いものだった。
「あれ、船木の家が百合を増やしたわ。御母堂の趣味かしら……」
庭先の植木に見惚れる藤壺に見惚れる男がチラホラと現われていた。
外見に関しては文句のつけようがない大和撫子だ。
立っているだけで他人様の旦那だろうと魅了してしまうのだから始末に負えない。
後方にぞろぞろと男を連れる彼女は最早地域の名物だったりするわけで……
本人も自覚しているのがまた質が悪い。
「おやおや、藤ちゃん。今日は買い物かい?」
「ええ、母はかねてより約束していた旅行で留守にしておりますゆえ。明後日まではこの藤壺が一家の母にありまする。」
「そうかいそうかい。大変だろうが、体に気を付けるんだよぉ。」
「ご心配痛み入ります。高木のおばば殿も健康にはゆめゆめ注意なされますように。」
「はいよ。ありがとさん。」
快活に笑って歩いていく老婆に手を振り別れると、十分程で藤壺は商店街にたどり着いた。
特徴的な足音に気付いた店主たちが軒先に顔を出して彼女を探し、見つけては笑顔で手を振った。
中には何も買わない彼女にお土産を持たせる所もあるくらい。
最終的に予算以下で購入予定以上の商品が手元にある。
それが藤壺を愛する商店街店主の会クオリティだった。
「ま、また重たくなってしまいましたね……誰か手伝ってくれる殿方はおらぬのでしょうかー。」
「お手伝いしましょうか!?」
「お運び致しましょうか!?」
「是非お使い下さいませ!!」
「いえいえ是非とも私を!!」
「あら、助かります。では、家まで持って頂こうかしら。」
「「「「「「「「ジャンケンポンッ!あいこでしょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!しょっ!」」」」」」」」
「遅れてはいけませぬよ。」
さらりと荷物を持たせ、帯から抜いた扇子で扇ぎながら家路につく藤壺の日傘がくるりと回った。
「美味ひいー!? ハンバーグ美味ひいおじゃるー!!」
「こら、口に入れたまま喋らない。如何ですか、父上?」
「藤も成長ひたなぁっ……」
「父上も口に入れたまま話してはなりませぬ。」
無事に焼き上がったハンバーグは大根おろしと紫蘇に出汁醤油で味付けがされて食卓に並んだ。
青い顔で席に着いた父親と妹もご覧の通り。
父親に至っては何十年かぶりに漢泣きで袖を濡らす始末。
大喜びされた藤壺も照れ隠しに冷やの日本酒を喉に通してグラッセを齧る。
「また食べたくなったら言いなさい。“フジツボはんばあぐ”はもう失敗しません。」
「「!?!?!?」」
藤ちゃんはすっっっっげぇ美人の設定です