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はつこえ  作者: あれすぅ
3/3

☆第二章

あの一件以来、俺は度々コバヤカワの居る廃校舎へ足を運んだ。

そしてコバヤカワはいつもあのしみったれた教室にいた。

「なんで、クロマルはいつも来るのよ」

「別にいいだろ」

俺は、どこぞのぐうたらしたパンダのように教室の机にだらしなく上半身を乗せて、手に取っている小説を読んでいた。

「正直言って邪魔なのよ! 碌に歌も歌えないじゃない」

「俺の事なんか無視しとけよ。どうせ俺は”約三億年前の古生代石炭紀から出現して、図太い生命力を持った足の速い昆虫”かなんかだろ」

「ゴキブリだったら、目障りでしょうがないわ。叩き潰してやりたいくらいよ」

先日のように鋭い斬撃を打ち込まんと丸めた教科書を持って、小早川は目を光らせていた。

「そう恐い顔するなよ。俺は静かに本でも読んでおくよ」

この使われていない教室には古びた本棚が、教室の後ろの扉を塞ぐ形で壁際に並んでいた。

そこには著名な作家の全集が、幾つも納められている。

「本なら図書室に行って読めばいいじゃない」

「この学校の図書室には碌な本はないよ。幼稚な本しかない」

実際、図書室には昆虫や恐竜の図鑑やら、終戦間近の広島を舞台にした無駄にグロテスクな漫画や、キツネの怪盗だか探偵だかが主人公の児童図書ぐらいしかなかった。

そんなものには俺は一切興味がなかった。

「……まあ勝手にするといいわ。ただし、邪魔だけはしないでよ」

それだけ言うと、コバヤカワは俺に背を向けて、歌を歌いだした。

初めて歌声を聞いたときと同じ歌だ。

歌詞は、聞き取れない。恐らく異国の言語なのだろう。

そして、そのメロディーは中世ヨーロッパを髣髴とさせるような荘厳な雰囲気を纏っていた。

穏やかに吹き込んでくる風にその艶やかな長い髪とスカートを棚引かせながら美声をふるわせていた。


雲の欠片もない青空のように澄み切ったファルセット。

名器のストラディバリウスのように倍音を多く含んだミックスボイス。

そして、絹のように柔らかく暖かいウィスパーボイス。

コバヤカワは、まるで天使を思わせるような七色の歌声の持ち主だった。


発せられる一つ一つの音階が、次々と生み出され点ではなく線として旋律を紡いでいる。

小さな口から空気を横隔膜へと送り込みそれを再び外界へと戻す過程で声帯を振るわせる。

だが、俺にはまるで体中からその声が発散されるかのように思えた。

そして、その声は僕の聴覚器官を刺激するだけでなく、僕の体を揺さぶるかのように震わせる。


「なあ。なんでコバヤカワそんなに歌上手いの?」

ピタッと歌声が止み、コバヤカワは満面の笑みでこちらへ振り返ってきた。

「やっぱりわかるー? 私には才能があるのよ!」

両手を頬に当てて、まさに輝くような笑顔をしている。

なんだこいつ。性格変わってないか?

呼び捨てにしたせいで、また怒号がとんでくるかと思いきや、思わぬ事態だった。

「私は、プロ歌手になるのが夢なのよ。上手くて当然じゃない」

コバヤカワは目を瞑りすました顔をしている。

「へぇー。そりゃすごいですね」

適当に流してみる。

「当たり前じゃない。そこらへんをブラブラして人生無駄にしているゴキブリ君とは違うのよ」

なんで褒めたのに、貶されなきゃいけないんですかね……

だが、確かにコバヤカワの歌は上手かった。いや、上手いという表現は適切じゃないかもしれない。

コバヤカワの歌は心の奥底に眠る何かを共振させた。

渇き切った喉へ、小川の透明な岩清水のように瑞々しい歌を流し込み潤していく。

本を読むために廃校舎へ来ているというのは事実ではあるが、歌を聞きに来ていると言ったほうがいいかもしれない。

夕方の埃の舞う教室に、俺とコバヤカワが二人。

コバヤカワは、黒板前の壇上で腕をそっと伸ばし温かみのある旋律を紡いでいく。

俺はそれをビー・ジー・エムにして、一ページずつ本を捲っていく。

そんな日が何日も続いていた。

「コバヤカワ。なんで、いつもここで歌っているんだ?」

体育をするなら体育館か運動場。本を読むなら図書室。料理をするなら家庭科室と決まっている。

何もこんな息をしていると埃で喉がいかれてしまいそうなとこで歌う必要もない。

歌うのなら音楽室に決まっているだろう。おまけに、防音設備も整っているとなれば尚更だ。

「私がどこで歌おうと勝手でしょ。まあ敢えて理由を挙げるとすれば、ここなら邪魔が入らないからかしら」

なるほど。

確かに、こんな汚い廃校舎になんか好き好んで入る奴なんて滅多にいないだろうし、いたとしてもよっぽど変わった人間だろう。

多分、傍若無人で、我侭で、唯我独尊を体現するような奴で、そいつは社会不適合者の素質があるだろう。

あれ? そんな奴どっかにいなかったっけ? と俺は疑問に思ったが、正直どうでもいいので、コバヤカワとの会話に集中した。

「まあどっかから紛れ込んできたゴキブリが邪魔してるけどな」

「それ。アンタのことよ。いきなり俯瞰視点で、自分を語らないでよ」

「まあまあ。俺とコバヤカワは、授業サボってるっていう共犯者なんだから、仲良くしようぜ」

「なんでいきなり仲良くしようなんて言い出すのよ……気持ち悪い……」

コバヤカワは、本気で気持ち悪そうにこちらを見てきた。

おまけに、二、三歩後ろへ下がった。

なにもそこまで拒否反応しなくてもいいだろうに……

「それに、怠惰に生きているどっかの誰かさんとは違うのよ。一緒にしないで。私は夢を叶える為にここにいるの! 私にはここしかないのよ!」

さりげなく馬鹿にされた気もするが、そこには目を瞑ろう。熱心に語る言葉はおそらく本当だろう。

「……それに、私には特別な事情があるのよ。ここでしか歌う事しか出来ないの」

急にコバヤカワは、浮かない顔をして小さくつぶやいた。

なんだか悪い事を聞いてしまったのかもしれない

夢を叶える為にコツコツ練習している奴を邪魔するのもなんだか気が引けてくる。

そろそろ下校の時刻も近いだろう。

「やれやれ。じゃあ熱心なコバヤカワさんのために、俺はそろそろ退散するよ」

「ええ。そうして頂戴。これで、邪魔者が消えて清々するわ」

俺は、読みかけの本に栞を挟み、元にあった本棚に直した。

「じゃあ、コバヤカワ、またな!」

「またな! じゃないわよ。もう二度と来ないで!」

何度ともなく行われる掛け合いに、デジャブも感じなくなってきた。

そのやりとりが僕らの日常になっていた。

扉を開け廊下へ出る。

本校舎のほうへ向けて廊下を歩き出すと後ろの方から再び歌声が聞こえてきた。

こんなとこでわざわざ歌わなくてもいいのに。

俺みたいに人目も気にせず、どこでも自分の好きな場所で好きなことやればいいと思う。

だが、特別な事情があってあの教室でしか歌えないというコバヤカワの言葉は、何度も俺の脳内に残響していた。



目が覚めると斑模様の白い天井が目に入った。

いつものように授業に出ず、うとうと眠り落ちていたようだった。

眩しい陽射しが窓から入り込み、目が眩んだ。

ワインレッドのソファはふかふかで気持ちがいい分熱くて汗をかいてしまった。

湿ったTシャツが体に張り付き、不快な感触を味わった。

「目が覚めたかね?」

寝ぼけ眼で声のするほうへ顔を向けると、立派な机の向こうに椅子に座る熊校長が何やら書類を書いているようだった。

「……」

俺は眠る前のことを思い出そうとする。

そういえば眠くなってまた校長室に来たんだった。

熊校長が居ない事をこれ幸いと思い、給食後・オヒルネ・タイムを満喫していたわけだった。

「起こそうかと思ったが、あまりにも気持ちよさそうに眠っているので、そのままにしていたよ」

書類に目を落としながら熊校長は頬を緩め優しい笑顔を浮かべていた。

「……ごめんなさい」

「何も謝る事はないよ。別に仕事の邪魔になるわけでもない。むしろ微笑ましいくらいでしたよ」

本当に怒ったり邪険にしているようではないようだ。熊校長は湯呑みを口に当てて、お茶をすすっている。

「さて、一段落したし少し休憩としよう。松本君これから暇かね?」

どうせまた学校中を意味もなく徘徊する予定だ。暇と言えば暇である。

「まあ暇と言えば暇ですけども……」

「では、この老人の休憩に付き合ってくれないかい?」



俺は連れられて体育館のすぐ側にある飼育小屋にやって来た。

熊校長は、灰色のスーツのジャケットを脱ぎ、青と白の混じるストライプ柄ネクタイを外し、革靴をシューズに履き替えていた。

「飼育小屋に入るのは初めてかな?」

「そうですね」

「少し匂いがきついかもしれないが、我慢したまえ。直に慣れるよ」

熊校長は飼育小屋のドアノブに鍵を刺し込み扉を開ける。

足を踏み入れると小部屋があり、その先にはガラスの窓が付いたドアを挟み動物達が飼われている部屋がある。

最初に踏み入れた小部屋には、モップやちりとりなどの掃除用具、また大きな茶色の袋がいくつも置かれていたりしている。

部屋は薄暗く、形容しがたい異臭が鼻の奥に入りこむ。

「ここは、様々な道具を置くところだけれども、このドアの先には動物達が居る。動物は苦手かい?」

「……あまり触れたりしたことがないので、苦手かもしれません」

「そうかね。じゃあ部屋の隅で見ているといいよ」

熊校長は動物達のいる部屋のドアを開け、中に入っていった。

それに付いていき俺も足を踏み入れる。

部屋には、六羽のニワトリが所狭しと駆け回っていた。

入ってきた侵入者に驚いたのか、鳴き声を上げるものも居れば、忙しなく翼を羽ばたかせているやつもいる。

褐色の体表をしているものも居れば、薄汚れた白い体表をしたニワトリも居た。

鮮やかな紅い鶏冠に、顎の下に垂れ下がった皮膚。

「鶏冠が大きいのが雄で、鶏冠が小さいのが雌だよ」

「雄と雌で外見が結構違うんですね」

「そうだね。動物は性別によって姿形、あるいは内部の構造まで違うものも居るんだ」

そういうと熊校長は、柵に囲まれている庭への扉を開ける。

「さて、とりあえずニワトリたちを庭へと放そうか」

熊校長は一羽ずつニワトリを掴み、生い茂る翠色の芝生に投げ放っていった。

羽をバタつかせ、羽毛が飼育小屋には飛び散っていった。

「どうですか? 松本君も触ってみたらどうかな?」

俺は部屋に一羽だけ残ったニワトリに触ろうとする。

そいつは、目が赤く充血しており、瞼が半分ほど閉じられていた。

薄汚れていない白い羽。しかし、他のニワトリとは違い小柄なやつだった。

怯えているのかそいつは差し出した手を嫌がるように後ずさりした。

「その子はわりと大人しい奴でね。名前は”シロ”って言うのだがね」

「なんでこんなに目が腫れているんですか?」

「よくわからなくてね。何度も抗生物質入りの目薬を差しているんだがなかなか良くならなくてね」

シロと呼ばれるそのニワトリは、片目の黒い瞳だけを僕に向けていた。

「まあいいさ。シロは隅の方でじっとしているだろうから、問題ないよ」

そして熊校長は庭からニワトリが入ってこないようにドアを閉めた。

静かになった飼育小屋には、白色と黒ずんだ緑色が混じるニワトリの糞、箱から食い散らされて散らばる粉々としたベージュ色の餌、そして無造作に散らばる藁が残った。

「さて、掃除をしましょうかね」


まず俺に任されたのは、餌箱に餌を加える事だった。

小部屋にあった茶色の袋はニワトリたちの餌が入っているものだった。

袋を持って、餌箱にスコップを使い餌を注いでいく。

その間、熊校長は糞を慣れた手付きで箒と塵取りを使って片付けていた。

そして、乱雑に散らばる藁を箒を使いコンクリートの上に均していく。

熊校長がシューズに履き替えた理由がその時わかった。

「最初から飼育小屋の掃除をするために来たんですね」

「そうですよ。生徒に飼育委員が居てちゃんと世話はしていてくれるんですが、時たま様子をみて私も世話をしているんですよ」

額に汗を浮かべながらも、笑いながら話していた。

「個人的な趣味みたいなものなんですよ。別に私がやるべきでもないんですがね」

そういうと熊校長はまた箒を使い藁を払っていく。

その間もシロは部屋の隅に居座り僕達の事を静かに見つめていた。


「ふぅ……まあこれだけやれば大丈夫でしょう」

熊校長は、額の汗を手で拭った。

「出来れば亀の方の部屋も掃除したかったのですが、松本君を長々と付き合わせるのも、申し訳ないですしね」

「いえ、特に俺は……」

今まで経験した事なかったけれども、こういう作業も悪くないなと思った。

そして、俺はニワトリ一羽が入れそうな箱の中に卵を見つけた。

「……卵だ」

無意識のうちに俺は呟いていた。

「ああ。ニワトリが産んだものだろう」

「これからヒヨコが生まれるんですか?」

「いや、そうとも限らないよ。雄と雌が交尾しないと卵は孵化しない。交尾しなくても卵を産むもんだから、見た目だけじゃわからない」

俺は薄いオレンジ色をした卵を手に取ってみる。その重さが手の平にのしかかる。

「まあ、大体、毎朝飼育委員が、様子を見に来て卵を取って行く。そして、早いうちに食べちゃうから有精卵なのか無精卵なのかわからないのさ」

「……」

俺は手の平に乗った卵を見つめていた。有精卵、無精卵。その重さや見た目だけでは区別も付かない。時間が経たないとわからないことだろう。

「面白いものだ。君が手にしている卵には、二つの可能性がある。一つは無精卵で、もう一つは有精卵だ。現時点ではどっちなのかわからない。私や君がニワトリの交尾を確認し、尚且つ産卵の場面を目撃すればほぼ有精卵であることは間違いないだろう。だが、私達はその両方の場面を目撃していない」

熊校長は淡々と喋っている。まるで、俺に話しかけるわけでなく考えている事をそのまま口にしているように思えた。

「そのおかげで、その小さな卵には単一の未来がないように思える。だが、それは私達の認識世界の中だけの話だ。世界からすれば可能性は、一つしかないかもしれないのだが……」

未来、可能性。それらは俺にとって得体の知れないものでしかなかった。

「実際に孵化するまで有精卵か無精卵かわからない。なんだかシュレディンガーの猫を思い出したよ」

「……ちょっと難しくて俺にはわかりませんね」

「いや、気にしなくてもいいよ。単なる独り言ですよ。もし良かったら卵は松本君が持って帰ってください」


俺達は飼育小屋の掃除を終えると庭に出た。

五匹のニワトリが突っつきあったり、芝生を啄ばんだりしている。

近くの体育館からは子供達の掛け声とボールを床につく音が聞こえてくる。

空には一片の雲もなく、俺の感じる暑さも知らん顔に燃える太陽が浮かんでいた。

微風に運ばれてくる新鮮な空気が鼻腔の奥深くに残る異臭を取り除いてくれる。

飼育小屋を背に庭を眺める俺と熊校長。

「休憩時間と言いましたが、かれこれ一時間以上も経ってしまいましたね」

少し申し訳なさそうに微笑んでいた。

「老人の趣味に付き合せて悪かったね」

「……いえ、そんなことは……」

俺は上手く言葉が思いつかなくて黙ってしまった。

熊校長は空を見上げていた。それにつられて俺も青空を見上げる。

「何だか懐かしくなってしまったよ」

「え?」

「君は、私の子供にどことなく雰囲気が似ていてね。昔良く子供と動物園など行って遊んだものだ」

そう言うと熊校長は、皺の寄った瞼を閉じて、深く呼吸をした。昔の記憶を思い返して懐かしんでいるような表情だった。

やがて、瞼を開き、青空の遥か遠くを見つめていた。微風に誘われ、新緑の芝生が宙へと舞い踊る。

「ありがとう。松本君。気が楽になったよ」


それから、熊校長と俺は庭に放ったニワトリたちを再び飼育小屋に戻し、飼育小屋を後にした。

そして、校内に戻ろうと玄関へと歩き出した。

「暇な時でもいい。良かったら、動物達と触れ合ってみるのもいいんじゃないかな」

突然そういうと熊校長は、飼育小屋の鍵を差し出してきた。

「俺が預かっていていいんですか?」

「スペアキーもあるから無くしたって構いやしないよ」

「いや、そういうことじゃなくて……」

もし何か問題があったときに俺に矛先が向かうのではないかと不安になった。

「君が悪い子じゃない事はわかるよ。信用しているからね」

そういって、半ば強引に飼育小屋の鍵を手渡され、熊校長は校内へと戻っていった。

玄関に残された俺は鍵を無くさないようにとポケットの奥深くにしまいこんだ。



持ち帰った卵を俺は、孵化するかどうか毎日確認していた。一週間たった後でも変化がなかった。

図書室でニワトリの卵について調べると、温めていないと孵化しないという事がわかった。

そして、一週間も後になってから温めたのではすでに遅く卵は孵化しなくなるということだった。

結局確認できたのは、二つの可能性の内の一つではなく、三つ目の可能性。

有精卵なのか無精卵なのかわからないという事実だった。


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