☆第一章
まだ梅雨が明けたばかりの初夏のある一日の出来事だったはずだ。
俺はいつものようにぶらぶらと学校中を徘徊していた。
教師の無駄にでかい声だけが響く廊下をよれた白いTシャツに緑の短パンという涼しげな姿で歩いていく。
蛍光灯のスイッチは入っておらず、午前の眩い太陽の光がワックスの掛けられたばかりの床に反射して室内を照らす。
そんな中一人の少女が、遠くの突き当りの廊下を軽やかな足取りで横切るのが見えた。
なぜ授業中というのに廊下を歩いているのだろうか?
自分の事を省みずもせず、俺はそう思った。
そして、無意識のうちにその少女の足取りを追った。
突き当たりの廊下を曲がるとそこには階段がある。
階段を上る少女が見えた。同じように階段を上る。
二階へと上った俺は、廃校舎へと続く渡り廊下を進む少女が見えた。
その廃校舎は、学校のガラクタなどがおかれた物置で、俺も普段行くような場所ではなかった。
そんなところにその少女は何の用があるというのだろうか?
疑問しか思い浮かばなかったが、俺も廃校舎へと向かった。
廃校舎側の引き戸を開けると、湿ったかび臭い匂いが漂っていた。
比較的新しそうに見える内観も長い間掃除されていないせいか驚くほど隅のほうには埃が溜まっていたりしている。
以前来た時もそうだが、正直汚いと思っている。できれば入りたくなかった。
早々にして立ち去りたかったが、件の少女を見失ってしまった。
やれやれ。無駄な時間だったな。保健室で一眠りするかと思った瞬間、歌声が聞こえてきた。
遠くからではなさそうだ。どうやら上の階からその歌声が聞こえるようだった。
俺はその歌声に誘われるように歩いていく。上の階には使われていない教室があるはずだ。
階段を上り、歌声のする方へ。
そして、その階の一番奥の教室まで来た。
ドアを開けると、先ほどの少女が窓際でぽつりと佇んでいる。
緑チェックのスカートに、ピンクのフード付きパーカー。そして、その頭に不釣合いに大きな白いベレー帽から流れる艶やかな黒の長髪。
穏やかな風が教室内に吹き込んできて少女のその長い髪やスカートを揺らした。
埃の被った本棚や、机や椅子、そして様々なガラクタが散らばっているその教室には、その少女のハチミツを思わせるような甘くて倍音の多く含まれつつも澄み切ったファルセットが響く。
ドアの開く音に気付いたのか、歌うのをやめた少女はドアの前に立つ間抜け面をしていただろう俺の方へ振り返る。
「だれ?」
ジップの下ろされたパーカーから見える白いブラウスが目に入った。
「……」
俺はただ呆然と立っていた。その少女の歌声に魅せられた俺は立ち尽くす事しか出来なかった。
「……天使?」
俺は小さく呟いた。俺は無意識のうちに天使と呟いた。
幼い頃に見たSF映画の中に、天使のような歌姫が宇宙に漂うコンサート上でオペラを歌うというワンシーンがある。
それから連想して俺はその言葉を発したのかもしれない。
「どこをどうみたら天使なんて思うのよ? 私には、金色に光る輪っかや純白の羽なんて持ってないわよ」
「……アンタ、何やってんの?」
「歌、歌ってるのよ。見たらわかるでしょ?」
少女はさも当然の事の様に言った。
「いや、わかんねーよ! 声が聞こえなきゃ、授業中なのに廃校舎に気持ち悪く立っているただの変人じゃねーか!」
「あら。なら、授業中なのにサボって歌っている私は別に変人じゃないわね」
「いや、十分変人だよ! アンタは!」
「キミこそ、何やっているのよ? 真面目な子は今頃きちんと先生の言うことを聞いて、ノートを取っているわよ」
アンタには言われたくない。そう思ったがあえて口にせずに俺は言葉をこらえた。
「……廊下でアンタを見た。何をしているんだろうかと思って追ってきた。歌声聞こえた。ドアを開けるとアンタが歌っていた!」
俺は簡潔に、ぶっきらぼうに、ただ淡々と喋る。
「……廊下で何をしているんだ、ろうか……フフッ」
少女は顔を下げて、少し握った手を口に当ててクスっと笑った。
え? 今の何? オヤジギャグ? 天使かと思ったらただのオヤジだった?
「すっごい寒いんですけど」
「うるさいわね。何を言おうと私の勝手でしょ」
くだらねえギャグ言うなら独りのときにでも言ってくれ。
「キミなんて名前なの?」
「”松本 翔太”」
「随分と平凡な名前ね。欠伸が出るほどインパクトに欠けた名前だわ」
「うるせえよ。そういうアンタこそ何て名前だよ」
これで平凡だとのたまう方の名前も平凡だったら、馬鹿にしてやるところだ。
「私の名前は”ハニー・ザ・プルミエール・ロクサーヌ・フェスタバニー三世”」
げっ! 平凡じゃない!? それどころか外人!? しかも三世ってどういうことだよ!?
「天使かと思ったら、外人さんか!?」
「嘘よ。どこからどうみても私は日本人でしょ。目腐っているの?」
この野郎ッ……!
円らな瞳に、細い鼻。綺麗な頬のラインに、白い首筋。
整った顔立ちではあるが、日本人であるのは間違いないだろう。
ただ、その瞳が、右目が緑、左目が青と左右で色が違うことを除けば。
「私の名前は”小早川 麻莉音”」
今の俺だったら、どこの国民的ガールフレンドの苗字だと突っ込んでいたが当時の俺がそれを知る由もなかった。
「”コバヤカワ マリネ”……なんだか言いにくい名前だな」
「平凡な名前よりマシでしょ」
なんだか癪にさわる女だな。
「それよりも、松本って名前どうにかしましょうよ」
「は? どうにかするってどういうことだよ」
「私がいい名前を付けてあげるわよ」
どう考えても大きなお世話だろうが。
「それじゃあ。どうしようかな」
うーん。と麻莉音は腕を組んで考えている。
そして、俺のブレスレットに目を向けた。
「なにそれ? 数珠?」
「まあそうだな。オニキスっていうパワーストーンだよ」
オニキスは真珠のように光沢のある黒い石だ。親父の引き出しに在ったのを勝手に拝借したものだ。
「うーん。黒くて光沢のある物……そうだ! ゴキブリなんてどうかしら」
「嫌だね。断固拒否する。地球が何度も回って何年と月日が流れようが絶対にお断りだ!」
「じゃあ”約三億年前の古生代石炭紀から出現して、図太い生命力を持った足の速い昆虫”なんてのはどうかしら」
「同じだろ! ゴキブリの特徴を述べただけじゃねーか。そんなに俺をゴキブリにしたいの? ねえ?」
「一々注文の多い子ね」
マリネは心底あきれたように溜息を零した。
「もうめんどくさいから”クロマル”でよくない?」
クロマル……確かにオニキスの数珠は、黒くて、丸いが……
「安直すぎじゃないか?」
「クロマルっていいじゃない! 呼びやすい! 私ながら良いネーミングセンスだわ」
こいつ、人の話きいてねえな。
「俺のあだ名を勝手に無視して決めて、尚且つ自分から良いセンスなんて言うなんてとんだ人間だな。コバヤカワ」
「無視して決めてないわよ。ゴキブリの時はちゃんと要望に答えたし無視してないじゃない。ムシだけに」
そして、またマリネは一人でクスッと笑っている。
もう呆れることしか僕は出来なかった。
「まあいいわ。立ち話なんだし座りましょう」
とりあえず僕らは教室にある椅子に座って、机越しに対面して話し始めた。
「コバヤカワ。なんで、わざわざこんな所で歌ってんの」
ジロっとマリネは俺を見てきた。
「クロマルは今何年生?」
「俺は小三だけど」
「渇っ!!!」
俺がそういい終えると、マリネは近くの机に置いてあった古びた教科書を機敏な動作で丸めて、剣道有段者も驚きの速度で頭を叩いてきた。
「なんで、いきなり殴ってくるんだよ!?」
「私は、六年生よ。敬って年上には敬語を使いなさい!」
変人には言われたくねえよ!
だが、一々突っ込んでは身が持たない。今回もこらえよう。
「して、コバヤカワさんはこんな所で歌ってらっしゃるんですか? 音楽室でもいいじゃないですか」
慣れない口調で何度も噛みそうになる。
「静かで、誰も居ないところの方が捗るでしょ。音楽室なんて授業やってるし、昼休みじゃ吹奏楽の練習してるじゃない」
確かにごもっともな意見だ。授業中に歌われていたら授業受けてる奴等は堪ったもんじゃないだろう。
「まあここが私の唯一のテリトリーなわけだけどね」
マリネが最後に言ったことは良くわからなかった。
「それで、なんでクロマルは授業中にも関わらず、廊下をあるいていたのよ?」
「特に意味はない。あえて言うなら暇だから。学校に居る時はただぶらぶらと歩き回っているよ」
「名前は平凡な癖にやっていることは随分と変よね」
「家に居るとうるさいんだよ。親が。だから仕方なく来てやっている」
事実、家に居るのは心地悪い。まだ、好き勝手できる学校の方がまだマシだ。
「それで、コバヤカワはなんでサボっ……」
もう一度頭上に鋭い一撃が落ちてきた。
「コバヤカワさんはなぜサボタージュしてまで、歌を歌ってらっしゃるのですか?」
慣れない口調ではあるが、今度はスムーズに言えた。
「私は、ただ単に歌を歌いたかったからよ」
マリネがそう言い終わると同時にチャイムがなった。
そろそろ昼食の時間だ。
やべえ、はやく行かねえと食いっぱずれる。
僕は勢い良く椅子から立ち上がる。
「じゃあ、コバヤカワまたな!」
それだけ言って俺は、クラスの給食を取りに行った。
「またな! じゃないわよ。二度と来ないで!」
☆
給食だけ平らげて、俺は教室を出る。
これからどうしようか、考えたところで眠気が襲ってきた。
無理もない。満腹に加え、このお昼時だ。
正に、給食後・オヒルネ・タイムだ。
とにかく寝床を探しにいこう。
そう考え俺は、いくつかの候補を考える。
保健室。駄目だ。昼休みには碌な用事もないくせに何故か保健室に来る奴がいるし、遊んでいてけがした奴が喚いてきたりして、眠るにはうるさすぎる。
次は、職員室。これも駄目だ。授業を終えてフラストレーションが溜まった教師達のいる職員室は、殺気が漂っている。
ソファに寝転がっていたら、どんな難癖をつけられるかわかったもんじゃない。少なくとも安眠はできないだろう。
だとしたら、残るは……
大きな鉄の取っ手を引き、重いドアを開く。
その部屋の札には校長室と書かれていた。
入って正面には、ガラス棚に陳列されている何かの大会のトロフィーがいくつも並べられている。
そして、頭が禿げ上がった幾つもの男性の写真が黒い額縁に収められ、壁の上側に綺麗に飾られていた。
新しく綺麗な部屋とは、不釣合いほどの多くの写真達である。
まあその理由は廃校舎があった頃からの歴代校長達を並べているのだから、当然といえば当然なのだろう。
右斜め奥には、無駄に高そうな立派な木製の机に、高級感溢れる黒ベタな肘掛チェア。
そして、その正面には、我が安眠の地、ワインレッドのソファがある。
決して大きいソファではないが、まだ小さな俺が眠るには十分な大きさだ。
俺は、最短距離でそのワインレッドのソファへ直行する。
俺は、一刻も早く寝転がって、給食後オヒルネ・タイムを満喫し、眠りの奥底まで落ちたかった。
しかし、窓際には運動場の叫びながら遊ぶ子供達を眺めている人物。
安眠の障害となる人物がそこにはいた。
げっ……
足が自然と止まる。最後の寄り代となったところにラスボスがいた。
通常なら、街にでも帰って、レベル上げするなり、アイテム買うなり、準備して望むものだが生憎そのような余裕はない。
そもそも俺はラスボスと戦うようなRPGの登場キャラではない。
そうこう無駄な事を考えているうちにその人物は、窓から射し込む光を滑らかで光沢のある頭で反射させながら振り向いてきた。
「なんだ。松本君じゃないか。また昼寝でもしてきたのかね?」
光を反射させるほどにみすぼらしく禿げ上がった頭に、時代遅れな丸眼鏡。
そして、その髪の量とは打って変わって、ふさふさと蓄えた口ひげと顎ひげ。
この男が校長室の主。
校長であった。
「まあ。そうですけど」
「君みたいな子供は寝てるんじゃなくて、外で元気に遊んだらどうかね。もったないないと思うがね」
正に模範的正論だと思う。反論しても無駄だということをもう経験から学んでいる。
「外で遊ぶのがそんなに好きじゃないんですよ。だから、暇潰しに寝ようかなと……」
「まあそんなに外で遊ぶのがいやなら、ここで一つ軽い授業をしようではないかね。聞いたところ松本君は最近も授業にでてないそうじゃないか」
ああ……この流れはもう何度も経験している。そして、これからこの校長の薀蓄話が始まることも。
この校長のことを俺は”熊校長”と呼んでいる。
理由は、無駄に背が高くおまけに図体もでかい。
しかし、図体がでかいと言ってもそこらへんのオヤジみたいなメタボリック・シンドロームではない。
ある程度鍛えているのか初老の男性とは思えないほどの引き締まった図体をしていた。
目の前に立たれただけで威圧感を感じる。
正直苦手な人物だ。
「節足動物である昆虫、例えば、バッタ、ハエ、ゴキブリなどとは別の脊索動物門に我々のような人間、哺乳類は属していて……」
俺が見付かったときには個人授業だと称して生物の話をしてくる。
まだふさふさの黒い毛髪が頭を覆っていた頃であろう大学生の時に生物学を専攻していたと熊は語っていた。
老人特有の『若い頃の私は……』といった具合の話し方にうんざりする。
「脊椎動物は、魚類、両生類、ハ虫類、鳥類、哺乳類と分類され、それぞれ……」
小学生の生物なんて、おしべとめしべがくっ付いてどうたらこうたらってので十分だろうに。
どうして、『生物分類学の話をしよう』なんて言い出すのか。
これは、熊がただ単に語りたいだけなのだろう。
それを聞かせられる身にもなってくれ。
そんな話を俺は聞きながら曖昧な相槌をうつ。
はい。そうなんですか。へぇ。
それにしても、ぺらぺらと喋る校長だと思う。世の校長と言うのはこういうものだろうか。
全校集会の時の無駄なスピーチを長々と語る校長は何を伝えたいのかわからないものだ。
「そして、このように生物は進化してきたのだよ」
校長のありがたいお話を聞いているとお昼休みの終わりを告げるチャイムが校内に響いた。
「おや、もうこんな時間かね。松本君、お昼休みは終わりだよ。教室に行きたまえ」
一刻も早くここから離れたかった。
俺は校長に一礼するとすぐさま校長室を出た。
ふぅ……やっと終わった。
俺は深いため息を落とす。なるべくなら関わりたくないものだ。
そして俺は適当にまたぶらぶらと校内を徘徊する。
ん? そういやあなんで校長室にいったんだっけ?