DEAR
いつものごとく、あらすじなしですので変なところもあるかもしれません。容赦なく指摘いただけたらと思います。
ときどき、ひどく感傷的になる。
散る花びらや、残り一粒のチョコや、連絡のないケータイや、お風呂の隅っこのカビや、取れない洋服のシミなんかにどうしようもなく落ち込む。なんてツイていないんだろうって俯いて、じんわりと涙腺が緩むほどに悲しくなる。そんな日が、ときどき来る。
それは本当になんでもない日だったり、女の子の日の前日だったり、お気に入りのボディーソープがなくなった日だったり、特別に大切な日だったり。
ホームシックみたいなものだと思う。こういうことは女の子の方が良くわかるでしょう?
わけもないのに不安だったりすること。悲しくなったりすること。落ち込んじゃうこと。だって、一日の中でも気持ちは上下を繰り返す。朝起きてすぐの不機嫌と、お昼前の上機嫌ではずいぶんな差があるもの。人に会うのは嫌なのに、ものすごく人恋しくなる。
男の人の気分の上下ってわかりやすくて単純よね。気の合う友人と騒ぐだけで嫌な気分はなくなっちゃうでしょう。でも、女の人ってそうはいかない。好きなものを買っても、気の合う友人と話しても、ちょっとベッドに横になっても、嫌な気分ってなかなか拭えない。心のどこかに引っかかってるから、全部を忘れていい気分に浸ろうってなれないの。だからちょっとしたことに、ひどく感傷的になる。
今日の私はそんな気分。
テーブルの上に乗ったままの冷たいコンビニパスタとサンドイッチ、スタバのエスプレッソと、ちょっと贅沢をしたお高いケーキ屋のフルーツケーキ。好きなものばかりを目の前にしているのに、目の前のテレビを付ける気も起きなくて、ぬいぐるみがごちゃごちゃ付いたケータイを手で弄んでいる。
かわいいカバーとか便利なアプリも多いからスマートフォンにしたいけど、バイトと仕送りでまかなっている貧乏な苦学生の私にはお金の余裕なんてない。部屋の中心にテーブル。テーブルをはさんで壁側にそれぞれテレビとベッド。カウンターもない丸見えのキッチンに、小さな冷蔵庫とオーブンレンジ。首をめぐらせるだけで部屋全体が見渡せる小さなワンルームは、勉強道具と洋服なんかでいっぱいいっぱい。
「ほんとうは、こんなはずじゃぁ、なかったのよぅ」
美大に行く。絵を描きたいの。好きなことして、お金をもらって、認めてもらいたいの。
大きな都市への憧れもあった。全学年一クラスしかなくて、学校の合併の噂もあるような小さな田舎に生まれたから。小学校卒業の記念に初めて行った東京の大きさや賑わいに圧倒された。自分と同じくらいの女の子たちが、大人のようなおしゃれをして人波をすいすいと歩いていくのを見て、かっこいいと思った。ぐったりと疲弊して目を回す父と母に、私は東京で暮らしたいと言って大反対を受けたのだった。説得し続けて七年、一浪して諦めなさいと言われながらも合格した私を、しぶしぶながらも納得して送り出してくれた父と母に見送られやってきた東京は、田舎娘が一人で暮らすにはあまりに過酷だった。
まず、自分がとんでもなく常識知らずだということを思い知らされた。車が主な移動手段だった田舎とは違い、電車やバスを使わなくちゃ動けない。システムがうまく理解できず、どこに行けばいいのかもわからず、後ろから前から迫ってくる人の多さに辟易しながらもようやくたどり着いた学校で、私は一人きりだった。
方言や地方独特の常識、周りの人たちのセンスやスパスパ切れるような無関心。もうすでに右も左も疑い始めた私は、混乱も極まり、トイレの一室で一時間を過ごした。
こんなはすじゃぁ、なかった。
ようやく友達もできて、外を歩けるようになって、バイトも見つかって、電車とバスにも乗れるようになって、標準語もうまくなってきて、好きな人もできた。それなのに、何で私、いまこんなに落ち込んでるの……。
すぐ後ろのベッドにもたれかかって天井を見上げる。どうしたら付いたのか、前の住人が残したマジックの黒い線が一本、壁側から中央の照明に向かって走っている。これを見つけたときは思わず笑ってしまったけれど、今はなんとも鬱陶しい。純粋に憧れていた華やかな生活の幻想にのしかかる、現実問題やストレスの具現化のようだ。この亀裂から漏れ出していく真っ黒なモノが、真っ白な純粋を侵していく。田舎の、地主の、一人娘の、甘ったれの、私が生活と勉強との両立をやっていくための苦労がいかに大変なものなのか、夢見て憧れてばかりで、知らなかったんだろうって責められてる様。
「おしゃれな部屋に一人暮らし、ペットに猫を飼って、友達と新宿とかに買い物に行って、制服が可愛いカフェでバイトして、カッコイイ彼氏作って、そして勉強できればいいやって。そんなの、贅沢すぎたのよ」
世間知らずのがきんちょが、学校行きながら一人でそれらを全部やりきるには難しすぎる。勉強だけでも危ういのに、加えて生活のためのバイトの時間と生活用品の買い物と家事との繰り返しで精一杯だ。
ああ……。お母さんに会いたいなぁ……。
右手で目を覆って、まぶたを閉じる。真っ暗な視界に息を吐いて脱力した。足の裏から腰から首の芯から痺れるような疲れが溜まっている。机に向かって勉強しているとき、肩凝ったーと言った私の肩をがんばってるねと揉んでくれたお母さんの掌のぬくもりを不意に思い出す。すぅ、と息を吸った拍子にしゃくりあげて、熱くなった目の眦から一筋涙がこぼれた。耳の中に入り込んで冷たいのに、堰を切って涙が溢れ出す。
さびしい、さびしい、さびしい、さびしい。
ぐぐぐっと胸の奥から気持ちが膨れ上がり、喉元がきつく詰まった。ずるずると鼻を啜り、最近身に付いた音を気にする意識のせいで大きく喘ぐこともできずに唇を力いっぱい噛む。それでも嗚咽を漏らしながら小さい子供がするように手の甲手の平手首、腕全体で乱暴に涙を拭う。
帰りたいって思ってしまう。温かい空気に触れたい、親しい人の顔が見たい、コンクリートじゃない土の匂いを嗅ぎたい、ずっと一緒だった柴犬の小次郎をぎゅっと抱きしめたい、冷たい床じゃない畳の上でごろりと寝転がりたい、縁側で日向ぼっこしたい。
思い出すのは田舎の景色ばかりだ。虹色の景色を期待してやってきたこの街に繰り出して、美味しいものを食べてきれいな洋服を見て気分を晴らそうだなんて、今は到底思えない。冷ややかで子供の癇癪のような激しい寂しさは、胸をいっぱいにするくせに風船みたいに空洞だった。
声だけでいい。温かなものに触れたい。そう強く心の中で叫びながら静かに泣きつづけた。
しゃっくりは収まらないけれど、大分落ち着いた気分で手をどかして目を開けた。目の周りはひんやりしてるのに目頭はじんじんと熱い。つっかえつっかえ大きく深呼吸をする。涙でぼんやりする視界の中で、煌々としている照明の光とマジックの薙いだような黒い一本線がにじむ。
……こえが、ききたいなぁ。
ぐず、と垂れてきた鼻水を啜る。
ぶるる、と太ももが震えた。びっくりして体がはねると、ごとっと音を立てながら太ももから滑り落ちた。頭だけ起こしてみると、白いウサギのマスコットやライオンのぬいぐるみでごちゃごちゃしたケータイが震えていた。赤青黄色とイルミネーションが点滅し、メールの受信を知らせている。
ベッドのシーツで、冷たい涙で濡れた手を拭いてケータイを開いた。麻呂眉の小次郎の待ちうけの上に現れたメールのアイコンが、三件の受信を知らせていた。空いた手でティッシュ箱を手繰り寄せつつ、メールボックスを開く。
「お母さんに、ゆーきとみちる?」
懐かしい名前だった。狭い田舎の近所の子供たちは、兄弟姉妹のように育つ。ゆーきとみちるとはお互いの両親が友達で家も近かった縁で、家族ぐるみで旅行に出かけたり親しい付き合いをしていた。姉妹同然、親友のように悩みを打ち明けられる仲だったけれど、高校卒業を期に三人別れてしまったのだ。就職と進学と浪人。二人とも県外へ行き、一年遅れて私も東京へ。はじめは頻繁だったメールのやり取りも、最近では少なくなってしまっていた。悲しいなと思っても、忙しいんだろうし仕方ないよって納得していた。
「ふたりとも、どうしたんだろう」
疑問符を浮かべながら、母からのメールを開こうと操作した瞬間、再びメールを受信した。一通ではなく四通、五通、七通とひっきりなしにケータイが震える。
「え、え。なに」
とりあえずテーブルの上のケーキをどけてスペースを作り、開いたままケータイを乗せてとりあえずティッシュで鼻をかんだ。ちり箱いっぱいに鼻をかみ終えたころ、ようやく全件受信を終えた。
二十六通の未開封メール。小中高の友達からバイトの先輩まで。画面を埋め尽くすメールの件名は、すべて「誕生日おめでとう」で始まっていた。
慌てて時間を確認すると零時七分。十一月十日、私の誕生日。
もうしばらくは泣けないな、と思っていた涙が流れた。ぼたぼたと溢れる大粒の涙は温かいまま頬を滑り、胸元に染みていく。
さっきまであんなに冷たく感じていた涙の粒が、温かく心を満たしていくようだった。いつの間にか指が電話帳から母のケータイの番号を探し当てていた。短いコールの後、対話中の画面に切り替わる。嗚咽もなく、鼻水も出ないけれど、一度だけ小さく呼吸してケータイを耳に当てた。
「お、おかあさん?」
『もしもし? ひさしぶり』
「うん。ひさしぶり」
すん、という小さな音を拾ったのか、心配げに声音を柔らかくして母が尋ねてくる。
『なん? なんかあったと?』
「なんでも。なんでもなか。ちょっと」
『ああ、ホームシックかい。ゆうきちゃんとこもみちるちゃんとこもそうだったって聞いたけんねぇ』
「ゆーきとみちるんとこ?」
母の声の後ろから、にぎやかなテレビの音と父と弟の話し声が聞こえる。小次郎、と呼ぶ声が聞こえて待ち受けの写真を思い出して胸がぎゅっと縮こまった。
「小次郎、おると?」
『今日は寒かったけん、家ん中に入れてやったったい』
小次郎ー。と母が呼ぶと、わん、と小次郎が吠えた。
『お姉ちゃんはホームシックらしいよ。なんか言ってやらんね』
「いいよ。小次郎喋れんじゃん」
くすくすと自然に笑いが起こる。冷たくてうつろに感じていたからだの芯からほろほろと解れて温かく柔らかになってゆく。電話の奥の軽やかな掛け合いが懐かしい。父がお酒を飲んでしつこく絡むものだから、パソコンに向かってゲームをしている弟も、話題のエクササイズに挑戦している母も鬱陶しげに受け流すのだ。そしていい加減寂しくなって、父はラジオと酒とタバコを手に庭に出て行く。
案の定、絡んできたらしい父を母がうまくあしらい、愚痴をこぼす。笑顔とぬくもりと、静かな涙が止まらなかった。
『今日はあんたの誕生日だったね』
「うん。メール、届いたよ。ゆーきとかみちるとかからもおめでとうメール来たし」
『そう。良かったね。毎年、欠かさずにみんなでお祝いしよったけん、一人で寂しかとじゃない?』
「さっきまで寂しかった。ていうか私、自分の誕生日だってこと、すっかり忘れてたや」
だからケーキを今日、いや、昨日買っちゃった。
そういうと、また明日も食べるなら太らんように気をつけんとね、と母は笑った。
「今日は……」
『ん?』
「あ、りがとうね。ちょっと落ち込んでたから、元気でた。明日からまた学校行かなきゃ」
『あんたなら大丈夫よ。一回落ちたけど、めげないでがんばったけん、また頑張れる。休みならいつでも帰ってきていいし、電話ならいつでもかけてきてよか。お母さんも、あんたがおらんくなって、家のことも大変だけど何とかしよる。がんばんなっせ』
「うん。うん。ありがとう、おかあさん……」
『誕生日、おめでとう。そういえばもう、あんた大人たいね。帰ってきたらまた、お祝いばせなんね』
「かぼちゃの煮物がいいな。あれが一番好き」
『まだ後の話たい。じゃあ、お母さんもまた、明日早かけん、寝るばい』
「わかった。おやすみ」
『おやすみ』
「……ありがとう」
切れる寸前に滑り込ませた言葉が届いたかはわからなかったけれど、通話が切れたケータイの画面にまた新たにメールの受信の知らせが来ていたことに、なんだかほっとして頬を緩めた。
明日からまた、頑張れる気がする。
晴れた気分で、びしょびしょの顔を手で拭った。こすりすぎでひりひりと痛んだけれど、もう気にならない。家の半分ほどの大きさのバスタブにお湯を張りに立ち上がった。この気分で、シャワーだけでお風呂を済ますにはもったいない。もらい物の入浴剤を溶かして、柑橘系の香りのする石鹸で体を洗おう。ほかほかの体と気分で横になれば、きっとすばらしい朝を迎えられる。
湯気が立つお風呂場を出て、バースデーの晩餐に取っておくために冷たいコンビニパスタとケーキを冷蔵庫に仕舞う。ケーキをもうひとつ買って、大人になった新しい私を、私がお祝いしてあげよう。
生まれたことを祝ってくれた友達たちに、家族たちに、私自身に。
HAPPY BIRTH DAY DEAR.