(9)
「お、おい。だ、大丈夫かおまえ、顔色悪いぞ」
「あ、あ、ああ、兄貴こそ」
お互いの蒼白な顔をどもる声で指摘し合う俺と妹。回りもおよそ似たような状況だ。
鼓動が一段と早まり、足が小刻みに震えている。ジェットコースターを下る瞬間のあの感覚が、いつまでも胸に居座っている。心臓が弱ければ、襲われたショックだけで息の根が止まるんじゃなかろうか。
一方でGMバジーナはたじろぐプレイヤーたちを舐めるように見、うっとりとした表情を浮かべていた。
大人しそうな顔して隠れドSか。
『ここにいる300人で倒せるかどうか挑戦してみてください。ちなみに死んだ人から順に強制送還されますので、頑張ってくださいねー』
ひらひらと手を振り、GMバジーナが微笑みを絶やさぬまま一足先に退場した。この場に残されたのは眠れる竜と、それを取り巻く300人の駆け出しプレイヤーたち。頑張れって、つまり腰に下げたちゃちなナイフでやり合えということだろうか。理不尽にすぎる。気休めでもいいから弓とかスリングとかの遠距離武器が欲しかった。
「な、なあ、これって勝てると思うか?」
「無理だろ。常識的に考えて」
「戦いは数……いや、なんでもない」
「ねえ、スライムは? 僕、スライムと戯れたい」
「現実逃避ですね、わかります」
不安げに身をすくませるみんなの顔は、たとえるなら0:2でロスタイムに突入したサッカーの試合で逆転を祈るサポーター。既に敗色濃厚だ。
「諦めたらそこで試合終了ですよ」
「だな、倒せれば何かレアドロップするかも知れんし、どの道やるっきゃねえ。ってわけで、誰か仕掛けてみろ」
「そこまで言っといて人任せ!?」
「……いつまでこうしていても仕方がないね、僕が囮になるよ。みんな、後のことは頼んだ」
「水臭いこと言わないで、あなただけを危険な目になんて遭わせられないわ」
「女子供は引っ込んでな。やっぱここは俺様の出番だろ」
『どうぞどうぞ』
人身御供、全会一致で可決。何で俺だけ、と愚痴零す青髪のヒューマが、眠れる竜の後ろ側にそそくさと回り込む。息を一飲みする音が20メートル以上離れたここまで聞こえた。うむ、気持ちは痛いほどわかるぞ。痛い目に遭うのはお前だけだけどな。
「……し、失礼しまーす」
おっかなびっくりそろそろと。女優の寝込みに突撃取材するレポーターを彷彿とさせる、目も当てられないへっぴり腰。なかなか縮まらない二人(?)の距離に、固唾を飲んで見守っていたプレイヤーから叱咤激励が飛び交い始める。
「ちょっとー、早くしてよー」
「そこは一気にガバッといくところだろ」
「根性みせろや!」
「まったく、最近の若いもんときたら」
失礼。野次の間違いだったようだ。
声に後押しされ、ヒューマの男が意を決して走り出した。勢いが付き、段々と歩幅が大きくなって――むしろ破れかぶれといった感がありありと窺える。俺は心の中で応援を送った。ついでに念物も。
「チェ、チェチェ、チェストー!!」
滑稽なほどに裏返った声と、金属バットで球を打つ音が重なった。握りが甘かったせいか、ナイフが手からあっさりと零れ、宙でくるくると回転する。嗚呼、と失望の溜め息が漏れた。
が、それでも竜を目覚めさせる効果はあったらしい。
「っへ、うが!?」
不機嫌そうに振るわれた長い尻尾が鞭のように唸り、ヒューマの右胴辺りにぶち当たった。
等身大の外装が突風に巻かれたビニール袋のように空を舞い、切り揉みながら地面に叩きつけられ、二回、三回とバウンドし、ごろごろと転がって停止した。
先ほどとは別の意味で目を覆いたくなる光景に重い沈黙が漂う。少なく見積もっても15メートルは飛ばされていただろう。ぴくりとも動かぬ男が、光の柱と共に消失した。
顔に纏わりつく虫を振り払うかのように、竜がぶるりと首を振るった。それだけで風がそよぎ、こちらの頬を撫でていく。寝起きであまり機嫌がよろしくないのか、再び振り上げられた尻尾が地面に叩きつけられる。落雷のような轟音が鳴り響き、振動で両足が微かに浮いた。
「……お、オワタ」
「わ、私、今までドラゴンさんのこと見くびってたかも」
「ただ大きいってことがこれほど凶悪だったとは……ビグザムはんなんで負けたんやろ」
「俺、この戦いが終わったら……」
「いやいや、フラグとっくに立ってるって」
参加者の軽口も先ほどとは違ってどこか弱々しい。俺だって正直びびっている。VR機を出たときに股間がどうなっているか心配しているくらいだ。
そんな大量の獲物、もとい俺たちを見つけた竜が、青い目をギラリと光らせた。次の瞬間――
(――って、はやっ!?)
てっきり鈍重かと思っていたが、甘かった。束の間、通過列車と姿がダブる。すっかり委縮していたプレイヤーたちが慌てて左右に分かれるが、円陣の真ん中で逃げ場を失った数十人がぶちかましの洗礼を浴びた。
プレイヤーたちがボーリングのピンのように小気味良く跳ね飛ばされ、はたまた空中で激しくぶつかり合い、地べたに叩きつけられた。苦しげにうずくまっていたかと思うと次々に光の柱と化し、消失した。
半端じゃなく痛そうだ。たとえ一瞬であれ体験したいとはこれっぽっちも思えない。
「掠っただけで即死かよ! って、こっちにもきたあああ!」
「うっぎゃあああああ!」
「いやあああああ!」
走っていた竜が大きく旋回し、鼻の先がこちらに向けられた。あちらこちらから悲鳴が飛び交う。突発的に生じた人の荒波に揉まれ、うまく逃げられない。これでは避けることもままならないか。覚悟を決めて歯を食い縛る。
ところが、予想に反して竜がその場で急停止し、続いては大きく息を吸いこんだ。
「あれ、止まった……?」
「……嫌な予感が加速中」
「右に同じ、竜といえばアレしか思い浮かばん」
牙が剥き出しになった巨大な口からそのアレ、仄かなオレンジ光が覗いた。長い首を大きく後ろにしならせた竜が、しゃにむに口を開く。灼熱息。直径3メートルはあろうかという大火球が勢いをつけて吐き出された。
猛然と迫りくる炎にプレイヤーたちが蜘蛛の子を散らすように逃げていく。その中央で火球が爆ぜ、爆発によって象られた白い衝撃輪が空の果てへと消えていく。周囲の酸素を燃やし尽くしたことによる酸素の急速流入が起こり、炎のかさを一段と増していく。炎の壁の中に取り残された黒い人影が絶叫と共に次々と消失。
背筋が泡立ち、どっと噴き出た冷や汗が背中の布地を濡らす。もはや生き物のレベルじゃない。近代兵器だ。わずか二回の攻撃で四分の一に近い人数がやられ、敵はなお無傷。生身でやり合おうとしても、100%勝ち目はない。
現時点では。
「……こりゃあ、半端ねえな」
阿鼻叫喚の地獄の中で、俺は思いの外、自分の足が機敏に動くことに驚いていた。再び放たれた炎を避けるべく、地面に身を投げ出し、辛うじて難を逃れる。ご丁寧に髪の毛の焦げた匂いまでついてきた。開発者の心意気に頭が下がる。
幾多のプレイヤーの心をくすぐっただろう、新たなる『初めて』というキャッチフレーズ。原点回帰。新鮮な刺激を求め、新たな環境に飛び込む不安と期待。それを満たすだけの懐深さを、俺はディアスポラから感じとっていた。
初期の状態でこれだけ動けるのならば、運動能力は現実とは比べ物にならないくらい向上するはずだ。目と鼻の先で猛威を振るっている化物を倒せるくらいに。
どうしても解けなかった問題が解けた瞬間の達成感と同様、倒せなかった強敵を倒せれば嬉しさもひとしおだろう。
理屈ではない。立ち塞がる障害を克服したいと思うのは人の本能だ。それは、仮想空間においても何ら変わらない。人は、いつだって自分のレベルを上げたがっている。
「おっし、いくぜっ!」
顔を両手で二度叩き、空元気を発する。人数を半分以下に減らしてなお逃げるプレイヤーたちを尻目に、ドラゴンに向かって疾走。後ろから戸惑うような声が放たれたが気にしない。無意味なのはわかってる。だが、これが不可避の敗北ならば、せめて一撃だけでも入れてやる。千里の道も一歩からだ。
そんな俺にも、現実はどこまでも残酷で。果敢にナイフを掲げて突貫した俺の目に焼きついたのは、大滝の勢いで落下してきた爪撃の三本線だった。