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イベント当日。
余裕を持って出るつもりだったのに寮のゴミ当番だったことをすっかり忘れていた俺は、予定より一本遅いバスに乗って最寄りの篠ノ木駅に向かっていた。モバイルPCを兼ねた携帯端末には妹の『速やかに到着せよ』的なメールが三件、2分刻みで着信している。時間を追うごとに文章は鋭利さを増していた。
人が行き交う駅ビルの電光掲示板前。息を切らせて駆け付けた俺に妹が振り向きざま「遅い」と一言。俺は素直に「悪かった」と詫びる。
集合時刻にはぎりぎり間に合っていたが、せっかちな妹は約束の十分前には到着できていないとご機嫌斜めになることが多い。実際、こういった待ち合わせで俺の方が先に集合場所に着くことはほとんどないため、弁明する気も起きない。
だが、不幸中の幸い今回はいつもと様子が違った。よほどイベントを楽しみにしていたのだろう。口では文句を言いつつも目がキラキラと輝いている。物理的な意味で眩しい。
「正月以来だな、しばらく見ないうちに大きく……大きく……?」
社交辞令を言いかけて、はてと首をかしげた。俺の目線、もとい背が半年で7センチばかし伸びたせいもあるのかもしれないが、妹が小さいという印象が以前とてんで変わらない。もう少し考えて発言するべきだった。などと思っている間に妹の目の輝きが失せ、どんよりと曇っていく。
「……なによ、言いたいことがあるならはっきりと言いなさいよ」
「い、いや、元気してたかなーって」
「唐突に話題変えんな! ちょっとばかし背が伸びたからって調子乗りすぎじゃないの。ふん、どうせ私はちっさいわよ!」
悪かったわね。なによなによ。あんたほどじゃないにしても、私だってちゃんと成長してるんだから。もう少しでBなんだから。
自分を慰める言葉を乱発し、妹はむくれてそっぽを向いてしまった。目は早くも雨模様に。……まだAだったんだな。
ふと、横顔に以前には見られなかったチークが塗られていることに気づき、潤んだ目も相俟ってその大人っぽさにドキッとする。不覚にも一瞬見惚れてしまった。こいつも化粧とかする年になったんだ、と兄の感傷に浸ってみる。
よくよく見れば、顔も以前より丸みがなくなっている気がした。胸元にまで垂れ落ちるサラサラの黒い髪。上は薄手のカーデガンにイルカのプリントTシャツ。下は膝丈より少し上の水色のフレアスカートといういかにも夏らしいラフスタイル。同年代の女の子たちと比べてもなお細い足が、ピンクと白のスニーカーを履きこなしている。媚びた美しさではなく、無添加の可憐さといった風合い。身内の欲目を差し引いてもモテるのは納得だ。
まあ、それ以上に驚いたのが言葉の棘の増量振りなのだが。校内での電話は人目もあるし手加減、もとい口加減していたんだろうか。などと憶測していると、既に言葉責めは次の話題に移行していた。
「前はちょくちょく顔出してたのに、最近全然帰ってこないって伯母さん、すごく心配してるんだよ」
「……うぐ」
ぐさっときた。やばい、搦め手から攻めてきたか。
「面倒くさいのはわからないでもないけど、それでも正月くらいは顔を出すのが筋でしょ。人として」
「せ、せやな」
罪悪感に胸が軋む。つうか、妹に人としての道を諭されてしまう兄ってどうなのか。
「三が日を過ぎても帰ってこないし携帯も通じなかったから、もしかしたらガス中毒にでもなってるんじゃないかって気が気じゃなくって――」
「あ、あんときはその、悪かったと思ってるよ。気にはしていたんだけど、なかなかバイトの休みが取れなくてさ」
絨毯爆撃を受けるのだけは避けねばと撤退を模索する俺に、妹が怪訝そうに眉をひそめた。
「学生のバイトなんてそもそも暇を見てやるものでしょ。兄貴も二年後には大学受験控えているんだし、いくらそれなりの成績取れてるからってあんまり学業をおろそかにしていたら――」
エスカレーターを上がる間も妹の攻勢はとどまることを知らない。罪悪感ゲージがものすごい勢いで増えていく。全部が全部正論だから反論の余地がない。
俺のバイト先は篠ノ木駅から徒歩二分ほどのところにある居酒屋だ。掘り炬燵があるなかなか雰囲気のいいお店で、値段もそこそこ良心的なので学生もたまに来る。特に年末年始は書き入れ時で、会社の忘年会やら新年会やらで目が回るような忙しさになる。お人好しの店長が月2回休みというかなり無茶苦茶なローテーションを組んでいたため、従業員たちも出れる日はなるべく出ようと一致団結。その結果として、バイト君も少なくとも週五は出なきゃまずいだろう、という流れになったのだ。
年末年始に携帯が通じなかったのはバイト先の仕事着に入れっ放しにしてしまったからだった。大急ぎで店仕舞いするよう急かされたので、少し慌てていたのだ。新年の店開けは五日からで、それまでは回収のしようがなかった。四国に帰省した店長をこれだけのために呼び戻すわけにもいかない。
帰るにしても一泊二日となると、骨休めというよりは疲れにいくような感じが拭えず、結局家には戻らなかった。寮の部屋で居残り組とだべったり炬燵板をひっくり返して麻雀したり大富豪に明け暮れたりといかんなく寝正月を満喫していたら、三日になって妹の方から出向いてきた。
突然の来訪に面食らい、連絡くらいしてくれれば良かったのにと迂闊なことを呟いた俺が、友人たちの目の前でこっぴどく怒られたのは言うまでもない。
現在進行形での説教が一区切りしたところで妹が深く息をつき、顔を上げた。
「まあでも、思ったよりは部屋綺麗に片付けてたよね」
「そりゃな、一人暮らしを許してもらっている以上最低限のことはするさ」
軽口を返しつつも、やっと肯定的な意見が出てくれたことに安堵する。
収納スペースが多いという以上に、元軍隊出身の寮長が抜き打ちの見回りにくるため、うちの男子寮は整理整頓が行き届いている。もし片付いていないようであれば、学校の外周(約1㎞)5周や正座1時間などといった厳しめのお灸が据えられるのだ。俺の場合は事情があって正座ばかりだったのだけど、思春期の男子にとってはじっとする罰より体を動かす罰の方が羨ましい。
そんなこんなで初めは鬱陶しく思っていた寮長の方針だったが、昔のように朝になってあれがないこれがないとバタバタすることはなくなったため、最近ではそう悪いことばかりでもなかったか、と思えてきている。
「ところでさ、あのときエロ本はどこに隠していたの?」
「紳士にそんなものは必要ない」
妹のじと目に、俺は口元を引き締めた。仮に本などがあったとして、寮部屋に保管するのは危険が大きすぎる。なので、もしあったとしても全ページをスキャンして携帯端末の隠しフォルダにストックして楽しむのが、現代紳士の嗜み方だ。俺が所持しているのに家探しをしたところで見つかるはずもない。もちろん、万が一落としたときのために複雑なパスワードも設定している。
一方で、妹も平気でそう言うことを聞ける年齢になってしまったのだな、と宙を見遣る。下ネタはネット上で日常茶飯事に飛び交っているからその影響も受けているのだろう。昔は男女の絡みがあるドラマを見ただけで耳まで真っ赤にして固まっていたものだ。あれはあれで微笑ましかったから、少しだけ残念だったりする。
ややあってホームに電車の到着案内が響き、俺は瑣末な思考を外へ追いやった。
一分後、俺は妹と肩を並べ、目の前に滑り込んできた特急電車に乗り込んだ。
■◇■
イベントの開催場所は都心からほど近い場所にある臨港パークの近くで、電車を乗り継いで片道一時間弱と問題なく行き来できる距離だった。
最寄り駅からエスカレーターを上がって動く歩道に乗り、高速貨物船が行き交う東京湾を眺めながら指定された建物へと向かう。
ベイサイド・センター。白塗りの壁に樹木や花壇など、緑豊かな敷地。清潔な外観の建物は赤字経営で撤退した病院法人から安く買い取ったもので、それをエランド社の母体であるCONAMがVR機専用の施設に改築したらしい。ガラス張りの玄関ロビーは敷地内に植えられた植林を反射していた。施設内に入る前にエアークリーニングを受けた俺と妹はショートカットのスラッとした女性スタッフに先導され、待合室に向かった。
「羨ましいですね、恋人同士での参加なんて」
「え、あ、あの……」
「兄妹です」
簡潔に答えた俺に、妹が一瞥をくれた。え、なんなのその百獣の王な眼差し。別にまずいこと言ってないよね? 当たり障りなく答えたよね?
「ああ、それは失礼いたしました。いえ、本当にお似合いに見えましたもので」
お世辞かどうかは判断がつかないが、どちらにしても兄妹は兄妹。それ以上でも以下でもない。褒め言葉には成りえない。むしろ大人のお姉様とお似合いに思われたい。あわよくばお近づきになりたい。そんな気持ちを乗せて片目を瞑ってみせる。
「さっきからパチパチと鬱陶しいけど、目にゴミでも入ったわけ?」
なにやら妹様の舌が鋭利にすぎるので方向修正を図る。
「あ、あの、今回のイベントって、一体何人くらい参加しているんでしょうか?」
「配布したチケットは第一次募集に100枚。追加の募集で50枚、定員は300人枠ですね」
300の223倍。暗算で6万6900人と答えが出る。クローズベータならいざ知らず、単なる一日体験イベントとしては破格の応募率だ。家族や知人など複数のメールアドレスを使っている人間も多いだろうから、実数はその半分以下だろうけれど。
「本来は一次募集の人数で行う予定だったのですが、開発が間に合うかが際どくて――なんとかぎりぎり間に合ったんですけれど――ホームページでの掲載期間が三日間だけになってしまって。その後の反響と掲載の不手際に対するクレ……ご意見が多かったもので、急遽二次募集を行わせていただくという形に」
そう言うお姉さんの顔は浮かなそうだ。よほどクレームが多かったんだろう。MMOの管理っていうのもなかなか大変なんだな。同情を眉根と一緒に寄せ、ふと思い当たる。
「って、あれ。そういえば、おまえは」
スタッフに追従しつつ隣を歩く妹に流し目を送る。
「……なに?」
人前で無視するのも大人げないと思ったのか、妹が不承不承といったていで応じる。機嫌を直して欲しい俺は、へりくだらない程度にお伺いを立てる。
「いや、どこでディアスポラのことを知ったのかな、と思いまして」
「ああ、たまたまVOのクラメンが話題にしていたのを耳にしたの。ただそれだけ」
素っ気ない妹の話をまとめると、イベントのことを知ったのは既に第一次募集が締め切られた後のことだったらしい。VOでは気の合った仲間同士でクランというグループを組むシステムがあるのだが、メンバーの一人がチャットでイベントの募集期間が短すぎるなどとやり玉に挙げていた。そこにたまたま事情を知らない妹が接続してきたという流れだ。
一体何の話をしているのかと尋ねると、VOの管理兼制作会社であるエランド社が近々ディアスポラというVRMMOをサービス開始予定であるということ。そのエランド社が管理している三つのMMOで課金一年以上のユーザーに対し、ベイサイド・センターで行われる先行体験イベントの参加者を募集していたということを聞かされた。スタッフの言うように募集期間がわずか三日だけで、応募することすら叶わなかったやつが愚痴っていたのだろう。応募したところで果たして223倍の関門を無事潜り抜けることができたかは、かなり疑わしいところだが。
妹も駄目元で追加募集に応募してみたものの、残念ながら落選通知を受けたらしい。VOのクラメンにも当たった者は一人としておらず、どんなイベントなのかと想像を巡らしていた。
そんな矢先、俺の口から出たベイサイド・センターという文言に反応したというわけだ。
「ならよかったじゃないか。これでイベントの詳細を説明してやれるだろ?」
「……んー、まあね」
言葉を濁した妹に俺は首を傾げた。先ほどの喜びようとは一転、その表情はなぜか浮かないものだった。