霞雲、降れば雨
六月の午後、栞は渚の部屋に遊びに来ていた。
渚の部屋はいつも静かだったが、今日はザァザァと雨が落ちる音が、部屋の中を満たしていた。窓の外はぼんやりと白く霞んでいて、いつもより部屋が薄暗い気がした。
栞は読み終えた本をパタンと閉じて、ふぅ、と息を吐いた。
頭がふわふわとするような心地よい読了感だった。栞は閉じた本の表紙を撫でて、またパラパラと巻末まで捲り、静かに物語を反芻して、読後の余韻に浸る。こういう時間が好きだった。物語が終わったのに、まだその世界の中にいる気がするような曖昧な時間。本を閉じても、登場人物たちはどこかで続きを生きていて、ページの外でも、彼らの時間は流れ続けているような気がした。
本の内容はちょっとしたファンタジーもので、主人公が人々の感情を奪う悪い魔法使いを退治してハッピーエンド。ありきたりなお話だった。
しかし、この話の構成は興味深かった。感情を奪われた人々は、悲しまなくなる代わりに、喜びもなくなる。笑わなくなる代わりに、泣かなくなる。それを幸せだと思う人もいれば、何かが欠けていると思う人もいた。栞は読み進めながら、何度か手が止まった。
感情がなくなることは、本当に不幸なのだろうか。感情があることは、本当に幸せなのだろうか。
ハッピーエンドで終わったけれど、その問いの答えは、物語の中には書いてなかった。
(……疲れた)
少し読むのに集中しすぎてしまっていたのだろう。ずん、と頭が重く感じた。脳が糖分を欲していた。
目の前の机には、栞が持ってきたお菓子が散らかっていた。チョコレートや飴が、テーブルに直接置いてある。最初はちゃんと袋にまとめているのに、だんだん出しっぱなしになってしまう。渚は何も言わないけれど、内心気になっているかもしれない、と栞はなんとなく思っていた。でも片付けるタイミングを逃したまま、今日もこうなっていた。
チョコレートを一つ手に取って、ガサガサと包み紙を開け、口に運んだ。甘味がじわっと口の中に広がるのが心地良くて、頭の重さが、少しだけ和らぐ気がした。
ちら、と隣で本を読んでいる渚を見た。
渚は散らかっているお菓子も、栞のことも、特に気にした様子もなく、黙々と本を読み進めていた。ページをめくる手が、一定のリズムで動いている。集中しているときの渚は、静かだった。元から静かな人だけれど、本を読んでいるときはもう一段階、静かになる。
渚が読んでいる本の表紙を、栞はちらりと見た。暗い色の表紙だった。タイトルの字体が、少し鋭かった。
渚が読む本は、推理小説やゴシック調な話が多かった。以前、面白そうだからと言って二冊ほど借りて読んだことがあるけれど、栞の趣味には合わなかった。一冊目は途中で何度か置いてしまったし、二冊目は最後まで読んだけれど、読み終わった後に頭がふわふわする感じがなかった。重くて、複雑な話だった。
それが嫌いというわけではなかったけれど、続けて読もうとは思えなくて、それ以来、渚の本棚から借りることはなくなっていた。
それでも、渚があの手の話を好む理由は、なんとなくわかる。論理が積み重なっていく感覚と、物語の中に答えがある事が、渚には心地いいのであろう。
自分とは、全然違う読み方をしている。
栞はもう一つチョコレートを手に取りながら、そんなことを思った。
「ねえ渚」
「うん」
本から目を離さずに返事をした。
「さっきまで読んでた本、感情を奪う魔法使いが出てくる話だったんだけど」
渚は本から目を離さずにいる。でも耳はこちらに傾けていて、栞の次の言葉を待ってくれていた。
「感情がなくなるのってどういう感じだと思う?」
渚の手が、少しだけ止まった。
それからページをめくって、本に付属している紐を挟み、こちらを向いた。本を閉じるときの渚の動作は、いつも丁寧だった。
「感情がなくなる、というのは、判断に感情が介在しなくなるということ?それとも、何も感じなくなるということ?」
「……後者かな」
栞のその返答に渚は少し考えた。
「……私にはわからない。感情がない状態が、どういう状態かを想像できないから」
「想像できないって?」
「感情がない状態を想像しようとしても、その想像自体に感情が混ざってしまうと思う。だから純粋にない状態が、どういうことかを考えるのが、難しい」
栞はそれを聞いて、少しの間黙った。
渚らしい答えだった。どこから考え始めるかが、栞とは違った。栞は感情がなくなったらどんな感じかを、なんとなくのイメージで捉えようとしていた。でも渚は、その状態を定義しようとする。
「感情がない状態を想像する時点で感情が混ざるって、私は考えなかった……」
「栞はどう思ったの、その本を読んで」
栞は閉じた本の表紙を、もう一度撫でた。
「感情がなくなることを、幸せだと思う人がいるのはわかるな、って。傷つかなくてすむし、悩まなくてすむし」
「……でも」
「でも?」
「感情がなくなったら、本を読み終わった後の、この感じも、渚と話してて何かが動く感じも、全部なくなるな……って」
「それは、嫌なの?」
「嫌……かな」
栞は思考を続けながら、言った。
「傷つくのは嫌だけど、これがなくなる方が、もっと嫌」
渚は少し黙った。
「……そっか」
「渚は?」
渚はまた少し考えるように、少し間を置いた。
「わたしにはまだわからない、でも」
「でも?」
「感情がなくなったら、栞の言ってることが、わからなくなりそうだと思う」
栞は、それを聞いて少し笑った。
「それって、嫌なの?」
渚は少し間を置いて、目を伏せた。
「……嫌、かもしれない」
渚は本を開き直して、また読み始めた。
ページをめくる手が、また一定のリズムを取り戻した。少し前に戻って読み直しているのかもしれない。渚は話が途切れると、前のページに戻る癖があった。
栞は飴を一つ手に取って、包み紙を開けた。口に入れると、すっと甘さが広がった。さっきのチョコレートとは違う甘さで、軽くて、すっきりしていた。
感情を奪われた人々が、最後に感情を取り戻す場面を思い出した。あの場面で、登場人物が泣いていた。嬉しくて、悲しくて、全てが一度に戻ってきて、止まらなかった。
「渚はさ」
「うん」
「感情って、どこから生まれると思う?」
渚は本からすっと目を上げた。さっきより早かった。この問いの方が、渚にとって考えやすい形をしているのかもしれない。
「脳の中の化学反応だと思う。ドーパミンとか、セロトニンとか、そういうものが感情に関係していることは、科学的にわかっているわけだし」
「それだけ?」
「……それだけ、と言いたいところだけど……完全にそれだけだとも、言い切れないと思う」
渚はまた目を伏せて、少し間を置いた。思考を整理しているのだろう。
「同じ状況でも、人によって感じ方が違う。同じ化学反応が起きているはずなのに、悲しいと感じると人がいれば、嬉しいと感じる人がいる。それは経験とか、記憶とか、その人が積み重ねてきたものが関係していて……だとしたら、感情は化学反応だけでは説明できない部分があると思う」
渚はそこで少し止まって,それから続けた。
「……栞みたいなことを言うなら、感情は、その人がこれまで見てきたもの、経験してきたもの、全部が混ざったものなんじゃないかな」
栞の口の中で、先ほど含んだ飴がカロ、と音を鳴らした。それから、栞は渚の言葉を、しばらく転がした。
「……私は、感情って、気づいたらそこにいる感じだと思う」
「どういうこと?」
「悲しもうと思って、悲しくなるわけじゃないし、嬉しいと思って、嬉しくなるわけじゃない。気づいたらそういった思いがあって、その後に自分の感情なんだなってわかる」
「感情が先で、気づくのが後ってこと?」
「うん」
栞は手の中にある本の表紙を眺めた。
それから、感情を奪われた人々の顔を、頭の中で想像した。笑っていなくて、でも泣いてもいない顔。
「だから、感情は……」
栞は想像と思考を続けながら、ゆっくりと続きの言葉を運んだ。
「何かに触れた時に生まれるんだと思う。景色でも、音楽でも、言葉でも。触れた時に、元々そこにあったものが、呼び起こされて、初めて形になるんだと思う」
渚は黙って聞いていた。
しばらく静かだった。部屋の外で、雨が降る音が響いていた。
渚は手元のを本を見た。ページを開いたまま、でも読んでいなかった。
「……さっきの本の話に戻るけど」
栞は静かに渚の言葉の続きを待った。
「感情を取り戻した人たちは、最後、どうなってた?」
「……泣いてた、感情が一気に戻ってきて、溢れるみたいに」
「……そっか」
渚はそれだけ言った。
静かだった。でも、さっきとは少し違う静かさだった。
渚はゆっくりと本を閉じた。紐の栞を挟んで、表紙を表にして、膝の上にそっと置いた。タイトルの字体が、やはり少し鋭かった。
「泣けた?」
本のタイトルとは対照的に、渚のその声は優しかった。
栞は少し間を置いて、またゆっくりと言葉を運び込んだ。
「……うん、泣けた、というよりも感動したって……感じかも」
渚は何も言わなかった。でも、少し、表情が動いた気がした。
雨の音が、また少し変わった。
強くなったのではなかった。粒が細かくなった感じがした。窓ガラスを伝う雨粒が、いくつも合わさって、細い線になって流れていった。
栞はテーブルの上の包み紙を見た。チョコレートの銀紙と、飴の透明な包み紙が、散らかっていた。
渚がまた本を開く気配がした。ページをめくる音が、雨の音に混ざった。
栞はそのまま、目を閉じた。
感情を取り戻した人たちが泣いていた場面を、もう一度、頭の中で辿った。嬉しくて、悲しくて、全てが一度に来ていた。
部屋の外では、雨音が、優しく続いていた。




