優 ― ノイズの街の祈り
夜の東京は、雨上がりのアスファルトがネオンを反射して、
まるで誰かがこぼしたカクテルみたいに光っていた。
渋谷の外れ、ビルとビルの隙間に挟まれた地下の小箱。
看板には雑なステンシルで「UNDERPASS」とだけ書かれている。
階段を降りるたび、ベースの低音が心臓の鼓動とズレて重なり、
優の頭の中で、さっき飲んだ錠剤の輪郭がぼやけていく。
「……っし。今日こそカマす」
自分に言い聞かせるように呟きながら、
優はフードの中に隠した目をギュッと閉じた。
### マイクチェック ― 失敗を繰り返す天才
「次のMC、“YOU(優)”!」
ブースターの効いた声がフロアに響く。
ステージに上がる足が、思ったより重い。
スポットライトが当たると、優の顔は一気に“ラッパー”のそれになる。
目の奥だけ、まだ少年のままなのに、眉間のシワは大人ぶって深く刻まれている。
ビートが落ちる。
キック、スネア、ハイハット。
身体は覚えている。
だけど、頭のどこかでいつも誰かの顔がチラつく。
(……母ちゃん、ゆうすけ、セイヤ、鈴、カオリ、タカシ……
“夢追ってます”って顔で、実は逃げとるだけなんじゃねえか、俺)
言葉が少しだけもつれる。
観客の数人が、スマホを掲げたまま顔を見合わせる。
「噛んだな」
「またかよ、YOU…」
ざわめきが、ビートの裏側で渦を巻く。
優はそれを全部聞こえないフリをして、声を張り上げる。
「Yo, Yo――
俺はクソでバカで、でも黙っちゃいねえ
ドラッグで穴あいた脳みそで、まだ世界を信じてえ」
一瞬、会場の空気が変わる。
誰もが言葉にできず飲み込んでる本音の断片が、
ガラクタみたいな韻に紛れて、ステージから転がり落ちた。
しかし、その直後。
さっき飲んだクスリが急に波を打ち、視界の端が滲む。
言葉が続かない。
マイクを握る手に汗がにじみ、ビートから完全に遅れる。
「……っ、あ?」
ブーイングまでは起きない。
けれど、誰かがふっと目線をスマホ画面に戻す音が、
優にはナイフの音みたいに聞こえた。
曲が終わったとき、拍手はまばらだった。
### 楽屋の煙 ― なんでも引き受ける“いい奴”
ライブ後の楽屋は、タバコとスプレーと汗の匂いでごちゃ混ぜだ。
「おつかれ。…まあ、いつも通りやな」
先輩ラッパーが、缶チューハイを投げてよこす。
優は片手で受け取ると、そのままプルタブを開けずポケットに突っ込んだ。
「今日さ、お前の出番見とったってやつ、おるで」
部屋の隅から、スーツなのにスニーカー、というアンバランスな男が一歩前に出た。
髪はジェルで固めてあるが、その目だけは妙に乾いている。
「初めまして。“ARATA”です。
若いアーティスト見つけて、ネットで爆発させる仕事、やってます」
優は条件反射のように頭を下げる。
「YOUっす。あの、今日は噛んじゃって…」
「噛んだところも含めて、よかったですよ」
ARATAは、にやりとも、優しげとも取れる笑みを浮かべた。
「マジな話、一回スタジオ来ない?
レコーディングとMV、こっちで全部用意するから」
周りの空気がザワつく。
「出た、神オファーじゃん」
「YOU、行っとけ行っとけ!」
誰かが優の背中を叩く。
優の頭の中で、いつもの癖が顔を出す。
(…来た。
“はい”って言っとけば、とりあえず目の前は丸く収まるやつ)
「……行きます。いや、行かせてください」
気づいたときには、もう口が先に動いていた。
「決まり。
あ、ただ一個だけ、お願いがあってね」
ARATAは上着の内ポケットから、タブレットを取り出す。
画面には、見慣れないロゴ――YKテックが最近ローンチしたばかりの音楽配信兼SNSアプリの、ベータ版の画面が映っていた。
「このアプリさ、ヤバいんだよ。
再生数も、コメントも、ニュースも、
ユーザーが“気持ちよくなる情報”だけ選んで届けるアルゴリズムで構築されてて」
優は難しい言葉が並ぶのを聞き流すしかない。
「お前の曲も、ここでバズらせよう。
ただ、歌詞の中に、いくつか“フレーズ”を入れてほしい」
「フレーズ?」
「そう。
“戦争は避けられない”とか、“経済のためには仕方ない”とかさ、
それ単体じゃ浮くけど、ラップの流れに紛れさせれば、ただのパンチラインになる」
優は一瞬だけ眉をひそめる。
「……それ、なんで?」
ARATAは笑顔のまま、肩をすくめた。
「スポンサーがうるさいんだよ。
でも気にしなくていい、深い意味なんかない。
あくまで“世界観”だからさ」
「YOU、お前ノッとけノッとけ。
チャンス掴めるやつは、ええ条件でもゴネんかったやつじゃけえ」
横から誰かが茶化すように言う。
(なんでも引き受けてきた。
それが俺の“良さ”だって、ずっと思い込んできた。
断らん自分を“器でけえ”って誤魔化してきた)
優は、自分の中の“いつものパターン”が、また顔を出しているのに気づく。
「……わかりました。やってみます」
そう答えた声は、不思議と震えていなかった。
### 上空の地球くん ― フリースタイル解析モード
同じ頃、地球くんは、上空から東京の夜景を見下ろしていた。
ネオンと液晶画面と、車のヘッドライト。
それぞれが、ささやかな「俺を見てくれ」の信号を放っている。
さっきまで国会中継や裏会議の生々しいデータを解析していた地球くんは、
ふと気まぐれで、渋谷エリアの小さな電波の揺れに耳を傾けた。
――解析中……
不安定な心拍数。
錠剤由来の化学信号。
ビートに乗せて吐き出される、
「クソでバカで、でも黙っちゃいねえ」というフレーズ。
(あ、見つけた)
地球くんは、ノイズの中から優の声だけを少しだけ持ち上げて、
波形グラフに色をつける。
> ログ:人類OSサンプル・優
> ・自己認識:クズ/バカ/でも黙らない
> ・依存対象:ドラッグ/承認/“いい奴”でいようとする役割
> ・根底にあるコード:それでも世界を信じたい、というしつこい希望
上空から見れば、優の存在なんて、夜景の一ドットにも満たない。
それでも、そのドットから漏れ出す「まだ諦めきれない」信号は、
戦争計画会議の無表情なノイズより、ずっと強く地球くんの鼓膜を叩いた。
(この子は、何度も自分を売り渡しながら、
まだ自分を信じようとしている)
地球くんは、優の次の一手を見届けるために、
自転速度をほんの少しだけ“観察モード”にゆるめた。
### 8年前の河川敷 ― 地球くんをラップした夜
優がスタジオの具体的な話を詰めるため、
ARATAと日程をすり合わせているとき、
ふっと脳裏に一本の映像が差し込んできた。
それは、八年前の夏の終わり。
小学校からの幼なじみ、六人がまだ揃って笑っていた頃の記憶。
夕暮れの河川敷。
コンビニ袋に入った駄菓子と、安い炭酸飲料。
セイヤがバスケボールを適当に転がし、
鈴とカオリがなぜか石キリの記録を競っている。
タカシはノートPCを広げて、
「地球の裏側のチャット見れるんだぜ」と自慢げにコードを打ち、
ゆうすけは安物のコンロでソーセージを焼いていた。
「優、なんかフリースタイルやってや」
セイヤが半分ふざけながら言う。
「テーマは“地球”ね!」
と、鈴が割り込んで、カオリが笑う。
「いや、ハードル高えって……
でも、やってみるか」
優は当時、まだドラッグなんて知らなかった。
純粋に「リズムに合わせて本音を喋る」のが楽しくて仕方がない時期だった。
「Yo, Yo…
俺らちっぽけなガキ、だけど見てみ、空
地球くん、今日もちゃんと回っとるじゃろ?」
そのとき、みんなが笑った。
でも、それはバカにする笑いじゃなくて、
「なんかわからんけど、今の良かった」という、
身体のどこかが震える種類の笑いだった。
「“地球くん”て、お前……」
と、ゆうすけが呆れた顔をしながらも、
ソーセージを一本、優の皿に多めに乗せた。
「地球が回っとるんじゃなくて、
お前がちゃんとここにおるから、そう聞こえただけじゃろ」
その言葉の意味は、当時の優にはわからなかった。
ただ、「なんか褒められた気がする」という感覚だけが、
胸の奥に熱として残った。
八年後の今。
ドラッグと挫折で擦り切れた心のどこかで、
そのときの熱がまだ消えていないことに、優は薄々気づいている。
(俺はあの時、もう地球くんとラップしてたんかもしれん)
### スタジオの白い部屋 ― 武器にも祈りにもなる一曲
数日後、優はYKテック傘下のスタジオビルの前に立っていた。
ガラス張りのエントランス。
受付の笑顔は完璧で、ロビーに流れるBGMは“何も考えずにいられる”よう緻密に計算されている。
「YOU、こっち」
ARATAがICカードをかざすと、
奥のドアが無機質な電子音とともに開く。
スタジオの中は驚くほど白い。
吸音材まで白く塗られていて、
まるで病院か、無菌室みたいだ。
「ここで録る。
ビートは、こっちで用意したトラックに乗せてもらうけど、
リリックはお前の好きなようにやっていい」
ARATAはそう言って、タブレットを優に渡す。
画面には、数行の“キーワード”が並んでいる。
> ・未来のための“決断”
> ・犠牲は避けられない
> ・経済を守るため
> ・戦争は、誰かがやらなきゃならない仕事
「この辺のワードを、うまく散りばめてくれりゃOK。
あとは全部、お前の物語で構わないから」
優は、画面を見つめながら、喉の奥がきゅっと狭くなるのを感じた。
(これ、本当に“世界観”だけの話か?)
ドラッグで鈍くなった直感が、
珍しくはっきりと警鐘を鳴らしている。
マイクの前に立つ。
ヘッドホンを耳に当てると、
重いビートが鼓膜を揺らし始めた。
その瞬間、なぜか八年前の河川敷の夕焼けがフラッシュバックする。
> 「地球くん、今日もちゃんと回っとるじゃろ?」
あの時の自分の声が、
今の自分に向けて投げられた質問みたいに蘇る。
(回っとるよな? 地球くん。
もし今の俺のリリックが、
誰かを戦場に送るために使われるんだとしたら――
それでも、俺は「ラッパー」と名乗れるんか?)
優は、ヘッドホン越しに自分の心臓の音を聞いた。
ドクン、ドクン。
ビートと心拍が、途中でズレていく。
そのズレが、彼にとっての“違和感”そのものだった。
「YOU、いつでもいける?」
ブースの外から、ARATAの声。
優はマイクに顔を近づけると、
ゆっくりと息を吸い込み、問いかけるように呟いた。
「チェック、ワンツー……
これは俺の人生の“ラストチャンス”かもしれんけえ、
ちゃんと録っとけよ、地球くん」
その瞬間、上空の地球くんは、
優のスタジオの位置に小さなフラグを立てた。
> 人類OS解析メモ:
> 「ドラッグ中毒のラッパーが、
> 自分のリリックが“武器”にも“祈り”にもなりうると気づいた瞬間、
> そこには、この星の未来の分岐点が生まれる」
録音ボタンが赤く灯る。
ビートが走り出す。
優は、一文字目のラップを吐き出そうとしていた。
彼が選ぶのは――
スポンサーのキーワードをただなぞる“売れるための歌”か。
八年前の河川敷で、仲間と地球くんに向けて放った、
不器用で、でも正直な“祈りの続き”か。
スタジオの白い部屋の中で、
優の喉元で言葉たちが渋滞している。
地球くんは、
その一文字目がどちら側に転ぶのかを見届けるために、
今夜も自転をやめないまま、ただ静かに見守っていた。




