表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ブラックアウト

作者: 灰音かぐら
掲載日:2026/03/08

祝福の鐘が鳴る。

チャペルに差し込む光は、残酷なほど綺麗で。

二人の未来を讃えていた。

厳かな空気の中、新婦のベールが、

その光を柔らかく受け止めている。


「花嫁さん綺麗な方ね」

「ほんと、見惚れちゃうわね」


あちこちで囁かれる、祝福の声。

けれど、どこか遠い出来事のようだった。


「汝、健やかなるときも、病めるときも――」



あぁ、本当に――



壊れてしまえばいいのに。

それが叶わないなら、

だれか今すぐ――俺を殺してくれ。



ブラックアウト



俺は漠然と思っていた。

普通に恋をして、普通に結婚して、

当たり前に家庭を持つ。

うまくいかないことがあっても、

それもきっと、よくある話の範疇で。

テンプレのような、それでいて幸せな人生。

特別なんていらない。

そんな、ありふれた未来像。


ただ、今はその未来像が、

少しだけ具体的になっていた。

――隣にいたいと思える人が、できたから。


その人との出会いだって、ありふれたものだった。

よく使うライブハウス、『The Basement』。

そこのスタッフの、少し年上のお姉さん――沙羽(さわ)さん。

見た目は少し派手だが、芯を持った強い人。

見た目と裏腹に、笑顔がかわいい人だった。


「今日もかっこよかったよー。新曲いい感じじゃん」

「……ありがとうございます」

「はやくうちの常連でデビューするバンド、出ないかな~」


「出たらいいのにな」、そう言って。

少しだけ期待しているように、よく笑っていた。


いつからか、

ライブ終わりに他愛ない話をするこの時間が、

何よりも大事な時間へと変わっていた。


好きな音楽、好きなコード、好きなアーティスト。

ささいな積み重ねが、俺の中で確実に大きくなっていった。


「えー、やっぱアンプはマーシャル一択でしょ」

「……そんな、選んで買えるほど金ないよ」


言葉遣いがいつ崩れていったかも、覚えていない。

それだけの会話と、時間を重ねていた。


「そっか、高校生の(がく)くんにはきついか」


バンドは高校の時から始めた。

大学生になった今でも、継続的にライブをしていた。

俺の書く恋歌は割と人気で。

小さいコミュニティだけれど、話題にもよく上がっていた。


それは――沙羽さんに宛てたラブソングだった。

だから、ここで歌うことは、遠回しな告白。

この好意を、いつ自覚したかは覚えていない。

けれど、気が付いたら自分の中に確かにあった。


「おつかれ~」


ライブが終わったあとの空気が好きだった。

ステージの縁に座って、その空気の中で作詞するのが好きだった。

片づけをする沙羽さんを目で追いながら。

その想いを歌詞にした。


ふっと、俺に重なるように影が濃くなる。

その気配に、顔をあげた時。

歌詞を覗き込んでいた彼女の視線と、ぶつかった。


近すぎて、一瞬呼吸を忘れた。


「いいね、この歌詞。私、好きだよ」


そういうと、目を細めた。

長い睫毛に縁どられた瞳。

強めのアイライン。

大きめのピアスが耳元を飾っていた。


店内のネオンライトが、彼女の瞳に滲む。

ギラついた蛍光色のネオンにあてられて、

目を、逸らせなかった。


――この距離に、“何か”を期待してしまう。


けれど、それが訪れることはなくて。

彼女は、すっと身を引いて続ける。


「君の書くラブソングはなんかさ、切ないけど……

 届きそうな気にさせてくれるよね」

「え……」

「ひたすらに好き、だけじゃなくてさ。

 届かせるんだっていう熱量?みたいなの」

「……」

「だから好きだよ」


……冷静になれ。

これは“返事”ではない。


「きっと、岳くんはそんな風に恋してるんだね」

「……そう、かもしれない」


今はこれでいい。

想いを伝えるのは、俺がちゃんとした“大人”になってから。

そう言い聞かせて、その日は終わった。


ライブハウスを出ると、冬の冷たい夜気が出迎えた。

けれど、ライブ後の火照りとは別の熱が、

胸の奥をじんわりさせていた。



そんな日々の中。ある日の講義中。

俺のスマホが震えた。

通知を見ると、兄貴からだった。


――ちゃんと食べてるか?お前に紹介したい人がいるんだ。

――今度時間作ってくれないか。飯でもいこう。


四つ年上の兄貴――尚人(なおと)

お互い多忙で、なかなか最近は会えていない。


……この言い方。

きっと、彼女を紹介してくれるんだろう。

彼女ができた、と聞いてからずいぶん経つ。

もしかしたら、結婚するという報告かもしれない。

そう、ぼんやり思った。


義理の姉になるかもしれない人。

男兄弟の俺には想像できないけれど、いい人だといいな。

でも、兄貴の選んだ相手なら大丈夫だろう。

そう思えるほど、兄貴はできた“大人”だった。


そんなことを考えながら、

空いてる日を知らせる返信を書いた。



しばらく、いつもと同じ日々が続く。

大学で講義を受け、ライブをし、友達と飲む。

曲を作り、歌詞を書き、歌に乗せる。

ライブをすれば、俺の恋歌で盛り上がった。



――気が付けば、兄貴と合わせた予定日前日。


その時は、少し先になってしまったと思った。

けれどあっという間に、明日。

明日の心配もそこそこに、今日もステージに立っていた。


目まぐるしく変わるステージ照明。

場を煽るように色が明滅するなか、沙羽さんを探す。


彼女は、壁際で背を預けて聴いていた。

音に乗ってひしめく観客の中でも、

彼女のいる場所だけは、いつも見失わなかった。


ギターを鳴らし、声を張る。

この想いが、ちゃんと届くように。

思い描く、ありふれた未来がやってくるように。

彼女の笑顔で、彼女の視線で、彼女の全てで、

俺の人生が埋め尽くされますように。


俺は、歌う。



ライブが終わり、また沙羽さんと話をしていた。

ステージにはまだ熱狂の残滓が漂う。

その余韻の中で、いつもと同じ。

中身があるようでない話。


「へ~。明日、お兄さんの彼女と初対面?」

「そうなんだよ。ちょっと緊張する」

「あはは、かわいいね」


沙羽さんはそういうと、俺の頭を強めに撫でる。


「ちょ、やめろって。それ、いつまでもガキみたいにさ」

「えー?」


こういう扱いは、俺が高校生のガキだった頃から変わらない。

……少し、複雑だった。


「そういえばお兄さん、何回かライブ見に来てくれてたよね」

「……弟が悪いことしてないか、きっと監視に来てたんだろ」


そう、少し意地悪く返す。

突き放すように。

彼女が兄貴に、興味を持たないように。


――兄貴。

兄貴は弟の俺から見ても、いい人だった。


誰かが転んだら、迷いなく引き返す。

相手が泥の中にいても、迷いなく抱きしめる。

そんな人だった。


『岳、大丈夫か?』

『何かあったら、ちゃんと言えよ?』

『バンド?いいじゃん。応援するよ』


世間では、できのいい兄貴がいると、

歪む弟も多いかもしれない。

けれど、俺が歪む余地すらないほど、兄貴は優しかった。

そんな兄貴を、素直に尊敬していた。

だから、沙羽さんが兄貴を知ったら――。

そう思うと、怖かった。


「監視、ねぇ」


俺の牽制に気づいたかは分からない。

けれど、その目には少し挑むような光があった。


結局、その話はそのまま流れて。

別の話題へ、静かに変わっていった。



兄貴との食事会当日。

夕方に、駅前のカフェで待ち合わせしていた。

店内に入ると、外気とは違う暖かい空気に包まれた。

見回してみても、兄貴はまだ来ていないようだった。


適当な席に座って、運ばれてきた水に口を付ける。


――ここは、ライブハウスに近い。


もういっそ、この辺に引っ越そうか。

大学は遠くなるけれど、最近はこの近辺にいる時間の方が長い。

暇つぶしに、スマホで物件を検索してみる。

そんなことをしている時、兄貴の声が頭上から降ってきた。


「岳、久しぶり。今日はわざわざありがとな」


その声にスマホから視線を上げた。


「こんばんは」


兄貴の隣に、女性が立っていた。

ゆるく巻いた髪、透明感のある肌、薄めのメイク。

控えめなピアスが、髪の隙間でゆらりと揺れていた。

とても――綺麗な人だった。


「とりあえず、コーヒーでいい?」

「うん。ありがと」


けれど、綺麗とか、そんなこと、どうでもよくて。


「食事は場所変えて、前に行ったところにしようか」

「そうだね。私もまた行きたいって思ってたし」


一体、……何を見せられている……?


指先が冷える。

息が浅くなる。

音が遠くなる。


だって、

兄貴の彼女は――



「あれ? 岳くん、固まっちゃった?」



――俺の好きな“彼女”だった。



「サプライズ成功?」


そういって、彼女は手をひらひらさせた。

その瞬間、昨夜語り合った彼女そのものになった。


「沙羽、さん……」

「昨日、緊張するって言ってたけど、

 そんな心配いらなかったね」


沙羽さんは、無邪気に笑む。

いたずらが成功した子供みたいに。


「沙羽。弟をあんまりいじめないでくれよ?」

「いじめてないよ~。

 尚人の大事な弟は、私の大事な義弟でもあるんだから」


呼び捨て。

近い距離。

義弟。


その後のことは、断片的にしか覚えていない。

けれど、聞きたくないことだけは鮮明だった。


付き合ってから半年以上経つこと。

秘密にしていたのは、サプライズのため。

出会いは――俺のライブだったこと。


床が抜けたような浮遊感の中、

時折差し込まれる、刃物のような言葉たち。


「岳のライブ、実は沙羽から動画でたまに見せてもらっていたんだ」

「……そう、なんだ」


俺の歌を、俺の知らないところで。

兄貴も、聴いていた。


「こっそり、バンドのSNSもチェックしてる」


兄貴は少し気恥ずかしそうに。

わざとらしく肩をすくめてみせる。


「あの人気の恋歌も聴いた。いいな、あれ。人気なのも分かる」

「……」

「お前の気持ち、相手に届くといいな」


兄貴は、愛おしそうに微笑んだ。


一見すると、穏やかな空気で、和やかな場。

純粋に弟の恋心を応援する兄。

恋歌に込めた恋心を見透かされた弟。


「私も応援してる」


目の前で、兄貴の彼女として座っている――その、想い人。

それだけが、致命的に噛み合わなかった。


「何かあったら、相談しろよ? 遠慮なんていらないからな」


二人の優しさは、俺にとって――鋭い毒刃。

毒を塗っているとは知らずに、無自覚に抉ってくる。

静かに、でも確実に。


並ぶ二人の背中を見送るまで、それは続いた。




――その日から、沙羽さんは『兄貴の彼女』になった。




それから、数日。

風邪だと嘘をつき、バンドも大学も休んでいた。

ベッドに寄りかかり、自室で天井を見つめる。

手には冷たいスマホ。

通知が震えて、文字が灯る。

バンド仲間からのメッセージだった。


――風邪大丈夫か?新曲の恋歌、SNSで話題になってるぜ。

――早く治せよ~。


「……」



昼間でもカーテンを開ける気にはなれなかった。

何もかもひどく億劫だった。

それでも、主張するようにカーテンの隙間から溢れる光。

どうしようもなく忌々しかった。


またスマホが震えた。

今度はバンドのSNSの通知だった。


――……さんにフォローされました。

――……さんが『いいね』しました。

――……さんがリポストしました。


スマホの画面に一瞬表示されて、すぐ暗くなる。

数日前までは嬉しかった筈の通知。

今はただ虚しかった。


バンド仲間からの連絡も、SNSの通知も。

どれも、返事をする気になれない。


俺の想いとは関係なく時間は進む。

俺だけが、取り残されているような。

そんな感覚に支配されていた。


大きくため息を吐き出して立ち上がる。

冷蔵庫を開けると、白い光が目に刺さった。

ガランとした庫内には、水のペットボトルと少しの惣菜。

でも結局、何も食べる気がしなくて。

水のペットボトルに手を伸ばした。

雑に取り出すと、扉を締める。

その音がやけに大きく響いた。


蓋を開けて、そのまま流しこむ。

自分の喉が鳴らす音が、煩わしかった。


ペットボトル片手にベッドサイドへ戻る。

テーブルに広げられたノートには書きかけの詞。


次の、新曲用の歌詞。


これから先の未来に 僕はいますか?

特別な誰かに なれる日は来るかな

君の見つめる先に 僕が当たり前に居ますように

僕はここで ずっと君を想い続けるよ


俺はまた、恋歌を書いていた。

それはもはや、ただの独りよがりの残骸。


冷蔵庫の低い駆動音が、部屋に響いていた。


「……」


俺の歌は、彼女には届かなかった。


――違う。

届かなかったんじゃない。

最初から、周波数が合っていなかっただけだ。


……鯨。


どこかで聞いたことがある。

52ヘルツで歌う、孤独な鯨。

誰にも聞こえない声で歌う、滑稽な求愛。


「俺は、……鯨だったんだな」


けれど、知らないままなら、

鯨だって幸せだったはずだ。

ただ、気持ちよく歌っていたはず。


それなら、知りたくなかったのに。

でも兄貴、だから……。

家族だから、――逃げられない。


その時、握ったままのスマホがまた震えた。

指先に伝わる振動が、俺の思考を止める。

画面には、兄貴からのメッセージ通知。


――この前はありがとな。

――実は今度、プロポーズしようと思ってる。

――沙羽にはまだ秘密な。また報告するよ。


「ははっ…」


乾いた笑いは、スマホの画面に沈んでいった。



しばらく、無気力な日々がただ流れていった。

何を食べても味がしなかった。

けれど、現実は待ってくれない。

講義にでなければ、単位を落とす。

ライブをしなければ、バンド仲間に迷惑がかかる。


一枚薄くなってしまった現実。

それを雑に撫でながら、日々を浪費していく。



けれど、

あの恋歌はもう、ライブでは歌えなかった。



珍しく実家に呼ばれた。

玄関を開けると、兄貴と沙羽さんの靴。

あぁ、また弟を“やらされる”。


それと同時に、嫌な予感に吐き気がした。

――予想は、当たった。


二人が結婚する、と。

両親は嬉しそうにしていた。


俺は、おめでとうと言うしかなかった。

心のなかで毒を吐きながら。


「ありがとう。岳くんのおかげだよ」


……うるさい。


「沙羽に出会うことができて、本当に感謝してる」


うるさい。


「この子の音楽が役に立つなんてねぇ」


やめろ。


「ほんと、岳くんの音楽のおかげなんです」


……やめてくれ。


それでも、俺は笑っていた。

弟というラベルで、本心を隠しながら。


家族も、沙羽さんも気付かない。

それでいい。それでいいはずなのに。


さらに薄くなった現実。

自分の輪郭がなくなってしまった感覚。

そんな浮遊感を抱えたまま、時間は流れていった。



嫌でも日常は続く。



その間も、兄貴からは結婚式の手伝いや相談。

沙羽さんからはのろけのような話。

そんなことのためにわざわざ呼ばれる時間。


「岳、悪いな。

 これ、招待客のリストなんだけど、確認手伝ってくれるか?」

「うん、いいよ」


目の前に積まれた招待状の束とリスト。

ひとつひとつ、確認していく。


綺麗に並んだ参列者一覧。

きちんとあいうえお順に掲載されている。

几帳面に揃った文面に兄貴の性格が滲んでいた。


指先が名前たちをなぞる。

招待状の宛名と見比べて、間違いがないか確認するだけ。

問題がなければチェックを入れていく。

そんな、数だけがある単純な作業。


中には見知った名前もいくつかあった。

兄貴の友達や、あまり会わない親戚。

親戚の確認をしてる時、兄貴がそれに気づいて声を掛けてきて。


「従兄弟のお姉ちゃん、全然会ってないな。

岳は会ってる?」

「いや、俺も全然会ってない」

「そっか。……お姉ちゃん、遠方に就職してから疎遠になってしまったな」


「今回来てくれたら嬉しいな」、そう言って兄貴は目を細めて。

束の招待状をわざとらしく掲げた。


「さて、続き進めないとな」


嫌味のない、場の回し方。

少しだけ胸の奥がざらついた。

けれど、それはやり場のないもので。

顔に出ないように、淡々と名前のチェックを進めていく。


新郎側友人。

新婦側友人。

新郎側親族。


進めていくと、自分の名前が目に入る。

当たり前に、俺の名前も一覧にあった。


――新郎側、親族。


自分のカテゴリに気分が沈む。

一瞬思考が止まった時、沙羽さんの声に引き戻された。


「岳くんがいてくれると、安心するよ。ありがとね」

「……うん」


沙羽さんは微笑む。

悪意も、他意もなく。


胸の奥で、何かが小さく軋む音がした。

それは弦がスクイールするような音で。


「あ、尚人。この方なんだけどさ――」


関わりたくない。

見たくない。

でも、特等席で見せられてしまう。

俺が望もうが、望むまいと。


「あれ?この人、よく岳くんのライブ聴きに来てくれる人じゃない?」

「俺、あんまり交流しないから……名前見ても分からないな」


でも、どうして――。


「尚人、知り合いなの?」

「ん?」


兄貴は手元の招待状を置いて。

沙羽さんの指先の名前を見る。


「ああ、そいつ。俺の昔からの友達だよ」


兄貴は、少し懐かしそうに目を細めた。


「岳のライブ、来てたんだな。最近も来てる?」

「うん、ついこの前も来てたよ。それで――」


全部、"兄貴"に塗り替えられていく。

水面が、鈍色の油膜で汚れていくみたいに。


ライブ終わりのあの時間さえ、例外ではなかった。


「岳くん、披露宴のことなんだけどさ」

「うん」


濡れた吐息の代わりに、刃物を。



「BGMリスト、これどう思う?」

「二人らしくて、いいと思う」


艶めく唇から溢れるのは、毒。



「じゃあ、受付はよろしくね」

「うん。あと、席次表はこれ?」


兄貴に抱かれてる時、どんな声で鳴いている?



「ウエディングケーキ、岳くんならどれがいいと思う?」

「これ、沙羽さんっぽいよ」


どんな風に、乱れてる?



映像が、勝手に立ち上がる。

生々しいそれは、現実なのか虚構なのかあやふやで。

目の前の会話と思考が噛み合わない。


そんな乖離を抱えたまま、進んでいく日常。

拒絶することもできず侵食する、弟としての役割。


結婚式の日が近づくほど、

いやでも濃く、俺に纏わり付いてきた。



そのまま、数日が過ぎた。

今日は、定期開催しているライブの日。

重たい気分のまま、ライブハウスの階段を下りていった。


扉を開けると、『The Basement』の文字が目に入る。

すましたようなネオンを纏って、闇に浮かんでいた。

今日はそのネオンが、ひどく他人行儀に見えた。


いつもと同じライブ。

けれどもう、いつもと違うライブ。


後ろのアンプが吐き出す音に、空気が震える。

心拍を無理矢理上げさせられるような、音圧で。

観客は拳を突き上げて、その音に応える。


恋歌を歌わなくなってだいぶ経った。

でも目の前で音に群がる人たちは、どうでもいいみたいだった。


この数ヶ月で、俺の書く曲は変わった。

不規則なテンポ、歪なコード進行。

どうしようもなく、歪んでしまった。


皮肉なことに、その方が好きと言われた。

話題に上がることも増えて、人気も上がった。


観客たちは、音が鳴ればそれでいいんだ。

音に溺れ、思考を飛ばし、熱狂という空気を交換し合う。

音楽なんて、そのただの触媒。

ただ混ざり合うため。

官能的に、排他的に。

矛盾を孕んで、それでも溺れる。


そんな冷めた思考をしていても、沙羽さんを探してしまう。

いつもどおり見つけ――




沙羽さんと――兄貴。

壁際の、見知った場所で。

唇を、重ねていた。



耳鳴りがした。


音が、膨張するように遠くなった。

まるで、水中にいるように。


二人は、身を寄せて俺の歌をBGMに。

何度も。深く。

熱を、交換している。

視界の端がぼやけても、その光景だけは鮮明で。


足元の床がゴムみたいに、ぐらつく。

また現実の輪郭が薄くなって、全てが遠い。

自分だけが、静かに深海へ落ちていく。


どうして、兄貴なんだ。

どうして、俺じゃないんだ。



俺じゃ、だめだったの?――沙羽さん。



指先に痛みが走る。

ギターピックと弦に挟まれて、みっともなく裂けていた。

その痛みが、現実の輪郭を呼び戻す。

血が、滲んでいた。


それでも、歌う。

指も、動いてしまう。

壊れた機械のように。


いつも通りの音を鳴らす。

観客たちの、汚れた欲望のために。


けれど、痛みで現実感が戻っても、声と音だけは――

一番近いのに、一番遠くに聴こえた。


最後の曲が終わった。

メンバーが最後にマイクパフォーマンスをする。


「今日も聴いてくれてありがとう!」


お決まりの挨拶、お決まりの流れ。

ボーカルの俺よりも、そういうのが好きなやつ。

珍しいかもしれないが、うちのバンドはそれが当たり前だった。

それを聞いて、観客たちは出口へ向かっていく。


ギターを肩から外して、シールドを抜いた。

その時、観客の何人かがステージに近寄ってきた。

これもいつもの流れで。


「岳くん、かっこよかったです!」

「これ、良かったら後で飲んでね」


同い年ぐらいの女の子たち。

彼女たちからの差し入れを受け取る。

コーヒーやお茶、エナジードリンク。


「また明日、講義でね!」


その中には、同じ学部の子もいた“らしい”。

人の顔を覚えるのは苦手で、そう言われても正直分からなかった。


「うん。来てくれてありがとうね」


愛想笑いを浮かべてやり過ごす。

そうすれば、相手は満足して帰っていく。

俺の思惑なんて知らないまま。


機材の撤収も済んで、メンバーはそれぞれ帰っていく。

でも俺はすぐに帰る気になれなくて。


ひとり、薄暗い通路に向かう。

ステージのそばに居残ると、兄貴が来る気配がしたから。

今は、会いたくなかった。


雑に積まれたダンボール。

飲料ケース、アルコールの容器。

その雑な並びに、俺も加わった。

しゃがみこんで、通路の天井を見上げた。

大きなため息が、自然とこぼれた。


入り組んだ通路の先。

少し離れた所から、湿っぽい音が聞こえた。

衣擦れの音と、合間に差し込まれる漏れたような吐息と笑い声。

姿は見えないけれど、近くにいるのは分かった。


ここではよくある光景。

ライブの熱狂にほだされたやつら。

その場だけの熱に浮かされて、欲望を溶かし合う。

よくあることのはずなのに、無性にイライラした。


――ステージから見た二人を、思い出してしまう。


「……」


思い出したくない。

それなのに、それは止まってくれない。


「くそ……」


思考が散らかる。

聞こえる音と、映像がリンクして。

俺の内側を抉っていく。


思わず、視線を下げる。

不快感に、苛立ちが加速する。

焦点の合わない目で、冷たい床を睨んだ。


沙羽さんと兄貴。

二人の縁を結んだのは――紛れもなく、俺で。

その事実に、どうしようもなく乾く。


その時、ぼんやりしたままの視界に、

マーチンのブーツが割り込んできた。


……沙羽さん。

正面に立たれても、顔を上げる気にならなかった。


「岳くん、今日も良かったよ」

「……ありがとう」

「尚人も今日、来てたね」


また、兄貴の話。

沙羽さんは、今までも。

俺と話していても、きっと俺越しに兄貴を見ていた。

今までは、ただ触れなかっただけ。

サプライズという、くだらないことのために。


「兄貴、来てたんだ。“気づかなかった”」

「うん。今は人と話してるから、あっちにいるけど」


顔をあげないまま、聞いていた。

沙羽さんの顔を、今は見たくなかった。


沙羽さんは、お節介に俺の目線に合わせてしゃがむ。

いつもとは違う角度のせいで、首筋の奥が覗く。


赤い、何か。

きっとさっき、兄貴が――。


「岳くん。なんか今日、変だよ?」

「……」

「なんか嫌なことあった?」

「……別に。少し、疲れてるだけ」


沙羽さんは、「そっか」と言っただけだった。

それ以上は聞かない、踏み込んでもこない。

きっと沙羽さんにとっては、そう答えられたことが全て。

それ以上でも、それ以下でもなかった。

――今まで、ずっと。


「疲れてるところ悪いんだけどさ。

 お願いしたいことがあって。いつも言いそびれちゃってさ」

「……うん。なに?」


あぁ、また弟を要求されてしまう。


「最近ライブで聴いてないあの恋歌。

 結婚式で歌ってほしいなって」




――何かが、割れた。




俺は、沙羽さんの左手首を掴んだ。

そのまま引き寄せるようにして。

自分の背後の壁へ押し付ける。


衝動が、抑えられなかった。

いや、抑えるつもりもなかった。


手から伝わるのは、ひどく冷めた温度だった。

けれど、もうどうでも良かった。


「隙、ありすぎじゃない?」

「……」

「それとも、俺だから安全って?」


息がかかる程、至近距離。

わざと下から煽るように覗き込む。


薄暗い通路の中でも、沙羽さんの瞳は凛としていた。

まっすぐなそれは、揺れない。


捕らえているのに、捕らわれているような錯覚。

壁に追い詰められているのは沙羽さんなのに、

本当に追い詰められているのは俺だと、突きつけられているようだった。


でも、止まれない。


「今、兄貴がここに来てさ……」

「……」

「これ見たらどう思うだろうね」


沙羽さんは、ステージ側の通路へ一瞬視線を向けた。


あぁ、やっぱり……。


手首を握る手に、少し力が入る。

その力に、沙羽さんは少しだけ手首に視線を流した。

けれど、何も言わずにまたこちらを射抜く。


指先が、また傷んだ。


血が滲んで、沙羽さんの白い皮膚を汚す。

それを見て余計に熱が、疼く。


「既成事実、作っちゃう? 兄貴は幻滅してくれるかな」


あと少し。

俺が踏み出せば。

壊せる。

何もかも。


「ねぇ、どうする? 『やめて』って言わなくていいの?」

「……」

「それとも、この先を期待してる?」


触れそうで、触れない。

呼吸が混ざりそうなほど近い距離。


「沙羽さん、教えてよ」


視覚も、皮膚の感覚も揺らぐ。

いつもより濃く香る香水に、五感が更に狂っていく。

身体の奥から、ドロドロした衝動が沸き続けていた。


けれど、それを肯定する自分がいる。

衝動と欲情が混ざり合って、俺の思考を侵食していく。

吐き気がするほど気持ち悪いのに、確かな快楽も混じっていた。


通路の蛍光灯が、不規則に明滅している。

それは、俺の鼓動によく似ていた。



長い沈黙。



最初に声を出したのは、沙羽さんだった。


「……ライブ後ってさ、高揚感あるもんね」

「……」

「こういう欲求に似たやつ」


「わかるよ」、と彼女は困ったように笑って。

そのまま、俺の頭をそっと撫でた。

その手は、どこまでも優しくて。

どこまでも、――残酷だった。


ここまでしても、伝わらない。

ここまでしても、“弟”の枠から変わらない。


反射的に、沙羽さんを視界から外した。

直視できない。奥歯が鳴った。

けれどもう、進むこともできなかった。


俺は――


「……冗談だよ、“義姉(ねえ)さん”」


弟に戻って、笑った。



手首を離して、沙羽さんの隣に並んで座る。

ちらりと横目で見ると、手首は少し赤くなっていた。

けれど、俺は何も言わなかった。


遠くから、足音が近づいてきた。

――きっと兄貴だろう。

歩き方の癖で、嫌でもわかってしまう。


「……ごめんね」


沙羽さんは、消えそうな声で言葉を置いた。

俺は、聞こえないふりをした。

情けなくて、惨めで。

それでも――離れたくなくて。隣にいたくて。

この場から、動くことができなかった。


無機質な床に、ネオンの光が滲んでいる。

ただ、何も言わずそれを見ていた。



――そして今、チャペルの親族席。


ネオンの代わりに、沙羽さんを包む祝福の光。

兄貴に向けられた柔らかな笑み。

それを受け止める兄貴の優しい眼差し。


二人の間には、誓いを促す神父。

純白のウエディングドレスが、輝いていた。

二人を阻むものは、何一つ存在しない空間。


この世界は、俺だけ祝福しない。


心のどこかで、願っていた。

結婚式までに壊れれば――。


そんな滑稽な願望。

願うだけで、何もできなかった。

何も、しなかった。



「それでは、誓いのくちづけを――」



座礁した鯨は、

海にも帰れず、丘にも慣れず。

ただ、――腐っていくだけ。



だから、お願いだから、

早く、誰か――




俺を、殺してくれ。





――ブラックアウト



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
幸せから取り残された岳の「殺してくれ」の独白で、世界に引き込まれました。 恋心を舞台で歌い、その恋歌は他者には評価されるのに、届いてほしい人には届かないどころか第三者として「君の書くラブソングが好きだ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ