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藍峯堂事件帖 ~犯罪は頁(ページ)の中に~  作者: 秋澄しえる
第2章「静止した街」

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第8話「路地裏の赤毛組合」

 大正十年、十一月十八日。


 銀座の「透明人間事件」から二日が過ぎた。


 秋晴れの空の下、帝都・東京は華やかな賑わいを見せていたが、その裏側で蠢く男たちの顔色は、鉛のように重かった。


 神田の裏通りにある、モグリの印刷所。


 その薄暗い土間で、関谷警部はインクに汚れた店主の胸倉を締め上げていた。


「…もう一度言ってみろ」


 関谷の声は低く、目は笑っていない。


「だ、だから言ったでしょう!金払いが良かったんだ!原稿の中身なんて読んじゃいねぇよ!」


「頼みに来たのは誰だ?」


「知らねぇよ!ただ…やけに目の座った、労働者風の男だった!京橋の裏長屋から来たって言ってたな、住所は書き置きに残ってる!」


 関谷は店主を突き放すと、押収した注文書を懐に入れた。


 外で待っていた司と咲が駆け寄る。


「警部、どうでした?」


「当たりだ。あの偽号外を刷らせた男の潜伏先が割れた」


 関谷はハンチング帽を目深に被り直し、ニヤリと笑った。


「京橋の裏長屋だ。…行くぞ。今度こそ、実行犯の首根っこを掴んでやる」


 三人は人力車を拾い、京橋へと急いだ。


 当時の京橋界隈は、表通りこそ煉瓦造りのモダンな建物が並んでいたが、一歩路地裏へ入れば、そこには日が差さないほど密集した木造の長屋が広がっていた。日雇い労働者や職人たちが身を寄せ合う、都市の影である。


 だが、彼らが目的地に辿り着いた時、そこで待っていたのは静かな潜伏劇ではなかった。


「――資本家を倒せぇぇぇッ!!」


「我々にメシを!仕事をよこせぇぇッ!!」


 怒号。


 耳をつんざくようなときの声が、狭い路地に反響していた。


 目的地である長屋へと続く路地を、数十人の男たちが塞いでいる。


 彼らは一様に赤い手ぬぐいを頭に巻き、あるいは赤い腕章をつけて、殺気立った形相で拳を突き上げていた。


「なっ…なんだありゃあ!?」


 関谷が舌打ちをする。


 実行犯が潜む長屋への道が、完全に人の壁で封鎖されている。


 所轄の警官隊も出動していたが、異様な熱気に圧倒され、遠巻きにするだけで手が出せないでいる。


「アカの扇動か!?クソッ、間が悪すぎる!」


 関谷は群衆を睨みつけた。


 男たちの目は血走っている。雇われたサクラではない。


 貧困と飢えに苦しむ者たちの、本物の怒りだ。


 一触即発。誰かが石一つ投げれば、暴動に発展するだろう。


「突破するしかねぇか…」


 関谷が腰のサーベルに手をかけた時、司がその腕を掴んだ。


「待ってください、警部」


「ああん?悠長なことを言ってる場合か!犯人が逃げちまう!」


「逃げません。…いえ、この騒ぎこそが、犯人がそこにいる証拠です」


 司は冷静な目で、赤い手ぬぐいの群れを見つめた。


「おかしいと思いませんか?彼らは本気で怒っている。でも、場所が間違っています」


 司は周囲を指し示した。


 そこは、ドブ板が腐りかけた掃き溜めのような路地裏だ。政府機関もなければ、資本家の邸宅もない。あるのは貧しい長屋だけだ。


「こんな誰もいない吹き溜まりで叫んで、何の意味があるんです?誰に聞かせているんです?」


 咲がハッとする。


「…そうね。まるで、誰かに、ここで叫べって指定されたみたい」


「そう。これは思想運動じゃない。『赤毛組合』だ」


 司の脳裏に、コナン・ドイルの名作が浮かび上がる。


 質屋の店主ウィルソン氏は、「百科事典を筆写する」という無意味な仕事を与えられ、店を留守にした。その隙に、犯人たちは店の地下から銀行への地下道を掘った。


「目的は二つある。一つは、警察の足を止めること。そしてもう一つは…」


 司は耳を澄ませた。


 狭い路地に反響する怒号の波。鼓膜が痛くなるほどの音量。


「防音だ」


「防音!?」


「この大声で、別の音を消しているんです。銃声か、爆発音か、あるいは何かを破壊する音か。…いずれにせよ、この裏で今まさに、誰かが何かをしている」


 関谷の目の色が変わった。


 刑事の勘が、司の論理を受け入れたのだ。


「なるほどな。…アカの集会に見せかけた、大掛かりな目眩ましってわけか」


「はい。正面から突っ込めば、犯人の思うつぼです。裏に回りましょう」


 三人は騒ぎを迂回し、長屋の裏手へと走った。


 表通りの喧騒が嘘のように、裏路地は不気味な静寂に包まれていた。


 腐った板塀と、黒く淀んだドブ川。


 表の怒号が、ここでは遠い潮騒のように響き、かえって周囲の音を消している。


「…誰もいないな」


 関谷が銃を構えながら進む。


 長屋は目の前だが、人の気配がない。


「待って」


 咲が足を止めた。


 彼女は鼻を鳴らし、風の匂いを嗅いだ。


「…臭うわ」


「ああ、酷いドブの臭いだ」


「違うわ、警部さん。ドブじゃない。…もっと深い、古い水の匂い」


 咲は地面に視線を這わせた。


 そして、長屋の中庭にある、古びた井戸の周りに目を留めた。


 このあたりの井戸は板で厳重に封鎖されていたはずだが、その板が一部剥がされている。


「地図を見せて」


 咲は関谷から地図をひったくると、現在の位置を指先でなぞった。


「やっぱり。この長屋の並び、不自然だと思ったの。…ここは昔、京橋川の支流があった場所よ」


 司が驚いて咲を見た。


「なんだって!?」


「大使公邸に出入りしている古物商のおじいさんが、よく古地図を持ってきてくれるの。それが面白くて、片っ端から覚えてしまったのよ」


 咲は悪戯っぽく微笑んだ。


「だから私、今の東京よりも、江戸時代の地図の方が詳しいかも。…この辺りの地下深くには、江戸城防衛のために作られた石積みの水路跡が、当時のまま残っているはずよ」


「なるほど。おてんば姫の趣味が、こんなところで役に立つとはな」


 関谷が感心したように唸る。


 咲は古井戸に近づき、膝をついた。


 彼女は地面ではなく、苔むした石積みに直接、耳を押し当てた。


 地下深くまで通じている石積みは、音を伝える聴診器の役割を果たす。


「…」


 咲の表情が険しくなる。


 表の怒号にかき消されそうな、しかし確かに響く、底からの振動。


「…聞こえる。なにかを砕く音だわ」


「何だと?」


「彼ら、封鎖された地下への入り口を、無理やりこじ開けようとしているのかな。ここから入って、一体どこへ…」


 謎は解けた。


 なぜ、こんな場所で騒ぐ必要があったのか。


 破壊音を、地上の怒号で隠蔽するためだ。


 そして、その作業を行っている者こそが、彼らが追っている実行犯に違いない。


 その時。


 咲がハッとして顔を上げた。


「…音が止まった」


「何?」


 関谷の目が鋭くなった。


「作業終了ってわけか。…なら、出てくるぞ」


 関谷は声を出さず、手振りで、下がれと指示した。


 ここで井戸を取り囲んでいては、犯人が異変に気づいて出てこないか、あるいは自暴自棄になって短絡的な行動をおこすかもしれない。


 泳がせて、完全に地上に出たところを叩く。


 三人は音もなく後退し、長屋の板塀の影へと身を隠した。


 息を殺して待つ。


 表の騒ぎだけが、変わらず響いている。


 長い沈黙が続いた。


 十分、二十分…。


 地下深くから縦穴を登ってくるには、相応の時間がかかる。


 もしかすると、別の出口から逃げたのではないか――そんな不安が司の脳裏をよぎり始めた頃だった。


 古井戸から黒い影がゆっくり上がってきた。


 誰もいないはずの路地裏。


 顔も服も泥で真っ黒だが、その目は異様な光を放っている。


 印刷所の店主が言っていた、目の座った男。確かに、そんな感じに見える。


 男が完全に井戸から出た瞬間、関谷が飛び出した。


「動くな!警察だ!」


 関谷が拳銃を突きつける。


 男は驚く様子もなく、ゆっくりと体を起こした。


 逃げようともしない。


 彼は、関谷の銃口を見ても、まるでそこには何もないかのように振る舞った。


 その視線は、もっと遠く、見えない「何か」を見つめている。


「…開いた」


 男は、ひび割れた唇で呟いた。


 恍惚とした表情。それは犯罪者の顔ではない。使命を成し遂げた殉教者の顔だった。


「封印は解かれた。…これで、道は繋がった」


「何を言っている!貴様、地下で何をした!」


「夜明けだ。…俺たちが、その礎になる」


 男はニヤリと笑うと、懐から小さな小瓶を取り出した。


「やめろ!」


 関谷が叫び、飛びかかる。


 だが、男の動作は迷いがなかった。


 躊躇なく小瓶の中身を呷る。


 関谷が男の腕を掴み、ねじ伏せた時には、すでに小瓶は空だった。


「ぐっ、が…ッ!」


 男が痙攣し、口から泡を吹く。


「おい!死ぬな!吐き出せ!おいッ!」


 関谷が必死に男の喉に指を突っ込むが、男は白目を剥きながらも、最期まで笑っていた。


 自分は捕まったのではない。役割を終えて退場するのだと、そう信じ込んでいるかのような笑顔。


 ガクッ、と男の力が抜けた。


 絶命。


 関谷はやり場のない怒りで、地面を拳で殴りつけた。


「…クソッ!またか!また尻尾切りかよ!」


 表では、まだ労働者たちが叫んでいる。


 彼らは知らないのだ。


 自分たちの裏で、一人の男が死んだことを。


 そして自分たちの怒りが、単なる「音消し」に使われたことを。


「…警部。これを見てください」


 男の硬直した指から、司が一枚の紙を抜き取った。


 ボロボロになった紙。


 それは地下道の地図だった。


 だが、単なる抜け穴の図ではない。


 京橋から日比谷の湿地帯を抜け、さらに西へと至る、江戸時代の水路や古井戸を複雑に繋ぎ合わせた、巨大な「地下迷宮」の全貌が描かれていた。


「おい、これは…」


 関谷が地図を覗き込み、ある一点で息を呑んだ。


 赤い線が指し示す終着点。


「…祝田町?」


 関谷の顔から、さっと血の気が引いていく。


 司が怪訝そうに尋ねる。


「祝田町…宮城(皇居)の目の前ですね。ここに何かあるんですか?」


「あるなんてもんじゃない!二十五日に、皇太子殿下が参内する経路だ!」


 関谷が叫ぶように言った。


「皇太子殿下は、霞ヶ関離宮を出発して宮城へ向かわれる。その際、必ずこの祝田町の交差点を通過して、二重橋を渡るんだ!ここは馬車の隊列が速度を落とす、数少ない場所なんだぞ!」


 その言葉に、咲が口元を押さえた。


 この地下道は、単なる逃走経路ではない。


 警備が手薄な地下を掘り進み、「最も警備が厳重であるはずの通過地点」の真下に、音もなく忍び寄るための道なのだ。


 そして、その地図には、流麗な万年筆の書き込みがなされていた。


 破壊された井戸の箇所に――『大道具:奈落への入口』。


 そして、関谷が指摘した祝田町の地点に――。


 『花道:魔王の出現』。


 司の手が震えた。


 背筋に、氷水を浴びせられたような悪寒が走る。


「…こいつは、革命のために扉を開いたつもりだったかもしれない」


 司は、死んだ男を見下ろした。


 泥にまみれ、命を捨ててまで硬い岩盤を砕いた男。彼は自分が主役だと信じていたはずだ。


「ですが、脚本家にとっては…これはただの舞台を準備したにすぎない」


 大道具。花道。奈落。


 人が死に、群衆が叫び、警官隊が動く。


 そのすべてが、脚本家にとっては書き割りの背景画と同じなのだ。


「ふざけないで!」


 咲が唇を噛み締め、地図を睨みつけた。


「人の命を、人生を、なんだと思ってるのよ!こんなの…こんな脚本、絶対に許さない!」


 表の騒ぎが、急に静まり始めた。


 時間が来たのだろう。扇動役のサクラが解散を告げ、労働者たちが去っていく気配がする。


 彼らの熱い怒りもまた、時間がくれば消える、効果音として消費されたのだ。


 静寂が戻った路地裏。


 関谷は無言で立ち上がり、死体に自分のコートを掛けた。


 その背中は、怒りを通り越して、冷徹な殺気を纏っていた。


「…上等だ」


 関谷が低く唸る。


「奈落だか何だか知らねぇが、地獄の底まで追いかけてやる。…司、咲さん。覚悟はいいな?」


「勿論です」


 司は眼鏡を押し上げた。


 レンズの奥の瞳に、もう迷いはなかった。

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