第7話「銀座の透明人間」
大正十年、十一月十六日。
秋晴れの空の下、帝都・銀座は今日もモダンな活気に満ち溢れていた。
路面電車が鐘を鳴らし、モガ(モダンガール)・モボ(モダンボーイ)たちがショーウィンドウを覗き込み、カフェーからは芳醇な珈琲の香りが漂ってくる。
だが、銀座四丁目の交差点だけは、どこか浮足立った、落ち着かない空気が淀んでいた。
その交差点の片隅に、不機嫌な顔で煙草を噛んでいる男がいた。
捜査課、関谷警部だ。
彼は本庁で開かれている捜査会議を「時間の無駄だ」と抜け出し、たった一人で現場に張り付いていた。
「…どいつもこいつも、節穴か」
関谷は通りを行き交う群衆を睨みつける。
昨日の正午、まさにこの場所で、内務省の警備局理事が刺殺された。
衆人環視の凶行。
にも関わらず、犯人の姿は陽炎のように掴めないままだ。
「お疲れ様です、警部さん」
鈴を転がすような声が、関谷の鼓膜を叩いた。
振り返ると、すぐそばのカフェー『プランタン』の勝手口から、白いエプロン姿の少女が出てきたところだった。
「咲さん」
関谷は短く答え、吸いかけの煙草を路上に捨て、足で踏み消した。
「休憩中か?」
「ええ。昨日の事件でお客さんが減るかと思ったけど、野次馬で逆にごった返してるわ。…それで、進展は?」
「それが、さっぱりだ」
関谷が肩をすくめた時、人混みを縫うようにして、インバネスコートの青年が現れた。
藤平司だ。
「遅いぞ、司。待ちくたびれた」
「すみません。市電が検問だらけで」
司は息を整えながら、関谷と咲に会釈した。
関谷は周囲を警戒するように視線を巡らせてから、三人で路地裏の目立たない場所へと移動した。
「本庁は思想犯の線で動いてる。だが、俺の勘が違うと叫んでやがる。…あの現場には、もっと別の何かがいたはずだ」
関谷は懐から手帳を取り出し、ページを開いた。
そこには、彼が足で稼いだ目撃証言が走り書きされている。
「見てくれ。これが、特等席で犯行を目撃したはずの市民たちの証言だ」
司と咲が手帳を覗き込む。
証言A(靴磨きの老人・交差点北側):『犯人は、真っ赤な背広を着た男だった』
証言B(学生・交差点南側):『青い法被のようなものを着た男が立っていた』
証言C(老婦人・交差点東側):『巨人のような大男が、腕を振り上げていた』
証言D(新聞売り子・交差点西側):『子供みたいに背の低いおじさんが、地面にしゃがんでいた』
「…酷いな」
司が呻くように言った。
咲も眉をひそめる。
「全員、別の人間を見ていたんじゃないの?」
「いや、犯行時刻は一致してる。被害者が倒れた瞬間に、その人物を見たという点もな。全員が嘘をつく動機もねぇ。…まるで化け物だ。見る方向によって色も形も変わる」
関谷は苛立ち紛れに頭をかきむしった。
司は手帳の文字を見つめたまま、思考の海へと沈んでいく。
水野教授の言葉が、脳裏に蘇る。
――『奴にとって他者は人間ではない。小道具だ』
――『この書き手にとって、現実世界は物理的な空間ではない。自分が演出すべき舞台なのだ』
犯人は、この銀座という舞台で、数百人の観客を欺くために、どんな「演出」を施したのか。
物理的な変装ではない。人間の認知機能に干渉するトリック。
「…チェスタトンだ」
司がポツリと呟いた。
「え?」
「G.K.チェスタトンの『見えない男』だよ。ある建物で殺人が起きた。入り口は監視されていたし、雪の上には足跡があった。でも、目撃者は『誰も通らなかった』と証言した」
司は眼鏡のブリッジを押し上げた。
「犯人は『郵便配達人』だったからだ。人々は、彼の制服(役割)という記号だけを見て、人間としては認識していなかった」
咲がハッとする。
「つまり…この犯人も、銀座の風景に溶け込む何かになりすましていた?」
「その通りだ。だが、今回は見えないだけじゃない。色が矛盾し、大きさが矛盾している。ここを解かなければならない」
司は地面に落ちていた石ころを拾い、アスファルトの上に簡単な図を描いた。
「まず色だ。北から見て赤、南から見て青。…一人の人間がこう見える条件は一つしかない」
司は円を描き、その中心に線を入れた。
「片身替わりだ。右半身と左半身、あるいは背中と腹で、色が極端に違う服を着ていたんだ」
「なるほど。派手なちんどん屋みたいな恰好か。…だが、そんな目立つ恰好をしてたら、余計に記憶に残るんじゃないか?」
関谷の尤もな指摘に、司は頷く。
「そこが罠です。次にもう一つの矛盾、大きさを考えましょう。一人の人間が、巨人と小人に見える理由。…これも単純な物理的動作で説明がつきます」
司は立ち上がり、両手を高く掲げてみせた。
「こうすれば、遠目には背の高い大男に見える。…そして直後に」
ストン、と膝を折り、地面にしゃがみ込む。
「こうすれば、子供のような背丈になる」
「…動作?屈伸運動でもしていたと言うのか?」
関谷が怪訝な顔をする。
だが、咲の鳶色の瞳が、何かを捉えたように揺れた。
彼女は、ほぼ毎日この銀座の街を見ている。
派手な赤と青の服。
何かを高く掲げ、大声を出し、そして地面に手を伸ばす動作。
そんな職業が、この街に存在するか。
「…あ!」
咲が声を上げた。
「いるわ。そんな人」
「何!?」
「最近、カフェーの窓からよく見るの。普通の新聞社じゃない、ゴシップ専門の三流紙の売り子たち。…彼ら、すごく派手な格好をしてるわ」
咲は興奮気味にまくしたてる。
「目立つために、法被を赤と青の染め分けにしてるのよ!そして、号外を配るとき…」
咲は手を高く掲げる仕草をした。
「『号外ーッ!号外だよーッ!』って、紙面を頭の上に掲げて大声を出すわ。これなら『大男』に見える」
「そして、客が手を伸ばしたら、腰を落として手渡す…!」
司の中で、パズルのピースが音を立てて嵌まった。
「そうだ。それなら全ての矛盾が氷解する!犯人は、号外売りになりすましていたんだ!」
司は興奮して続けた。
「なぜ誰も犯人の顔を見なかったのか。…それは、犯人が掲げていた号外という情報があまりに強烈だったからだ!」
「…!」
「人は見たいものしか見ない。群衆の視線は、派手な法被の男ではなく、その手が握っている衝撃的な見出しに釘付けになった。犯人は自分自身を、情報を運ぶ透明な媒体に変えたんだ!」
関谷の顔色が変わり、刑事の目になった。
「新聞の裏に隠れて近づき、手渡すフリをして懐に飛び込み、刺した…。被害者も、まさか新聞屋がナイフを持ってるなんて思わねぇから、無防備に近づいたってわけか!」
関谷は弾かれたように立ち上がり、周囲を見回した。
「衣装だ!そんな派手な法被を着たままじゃ逃げられねぇ。犯行直後に、必ずどこかで脱ぎ捨てて、地味な服に着替えたはずだ!」
「現場は交差点…逃げるとすれば、人目のつかない路地裏!」
司が叫ぶ。
三人は交差点から伸びる、薄暗い路地へと走った。
銀座の華やかさとは無縁の、残飯と汚水の臭いが漂う裏路地。
関谷は躊躇なく、積み上げられた木箱やゴミの山を崩していく。
「咲さんは下がっててくれ、服が汚れる。…司、手伝え!」
「はい!」
咲もためらわずに手近な箱を動かした。
数十分後。
古びたリンゴ箱の隙間に押し込まれた、不自然な布の塊が見つかった。
引っ張り出す。
それは、右が赤、左が青に染め分けられた、奇抜なデザインの法被だった。
その袖口には、どす黒い血痕が付着している。
そして、その下からは、凶器と思われる千枚通しと、大量の売れ残った「号外」が出てきた。
「…当たりだ」
関谷が低い声で唸る。
司は、束になった号外の一枚を拾い上げた。
粗悪な紙に、扇情的な見出しが躍っている。
『原首相暗殺の真相!背後に国際的な陰謀か!?』
「…デマ記事だ。この新聞自体が、殺人のためだけに印刷された、小道具だったんだ」
司の手が震える。
たった一人の人間を殺すために、数百人の群衆を読者として利用し、偽の新聞で視線を誘導した。
あまりにも演劇的で、あまりにも冒涜的な手口。
「…ん?何かあるぞ」
関谷が、法被のポケットから一枚のメモを見つけ出した。
上質紙に、万年筆の走り書き。
『第一幕『見えない男』、終演。大衆は情報を貪り、その裏の死角を見ない。リハーサルに最適』
「リハーサル…?」
咲が青ざめる。
司も、その言葉の意味を理解し戦慄した。
「銀座の事件、内務省警保局の事務官が狙われたのは偶然じゃなかった。リハーサルとは、奴の…脚本家の実験だったんだ」
「実験か…そう考えれば辻褄があうか。司、脚本家とは、言い得て妙な名づけだな」
「ええ」
脚本家の名付け親は先生だ。しかし、関谷には、先生の存在を知られたくなかったため、それについての言及は避けた。
「これは、強烈な情報の裏で、人間は透明になるという心理トリックが、極限状態でも通用するかの実地検証ですよ」
司は眼鏡のブリッジを押し上げた。
「十一月二十五日。皇太子殿下の摂政御就任。…当日は、霞ヶ関から宮城へ向けて、殿下の御参内が行われます」
関谷が厳しい顔で頷く。
「ああ。原首相の件があったばかりだ。内務省と警察の威信にかけて、蟻一匹通さない警務を敷く。沿道は警官の壁で埋め尽くされ、一般市民は遥か遠くに隔離される。…物理的な接近は不可能だ」
「その鉄の壁が、もし崩れるとしたら?」
司の言葉に、関谷が眉をひそめた。
「どういうことだ?」
「この実験の結果ですよ。人は、異質なものを目の当たりにすると、思考が停止し、視線が釘付けになる。…もし当日のルート上で、警官隊全員が思わず振り返るような、何かが起きたら?」
司は、路上に残された血痕を見つめた。
「数千の警官が一斉にそちらを向いた瞬間、警備に空白ができる。…その一瞬の穴を突いき、標的の懐へ、透明人間として入り込むつもりだとしたら?」
関谷の顔から血の気が引いていく。
銀座での成功は、あくまで予行演習。
「まさか…奴の狙いは、御行列の最中の…」
関谷は言葉を飲み込み、手にした号外を握りつぶした。
クシャリ、と乾いた音が路地裏に響く。
「…なめやがって。警察も帝都も、自分の劇場の客扱いか」
関谷の拳が震えている。恐怖ではない。激しい怒りだ。
「この新聞…」
咲が、通りへ続く路地の出口を見つめて呟いた。
そこには、一人のサラリーマンが歩きながら、拾った号外を熱心に読んでいる姿があった。
見出しは、原首相暗殺の真相。
「犯人は逃げたけど、犯人がばら撒いた小道具は、まだ街に残ってる。…みんな、面白がって読んでる」
司は歯噛みした。
脚本家は、自分自身の姿を消しただけではない。
自らの作った物語をウイルスのように街に拡散させ、それを楽しんでいるのだ。
あのサラリーマンも、カフェーの客たちも、知らず知らずのうちに、脚本家の掌の上で観客にさせられている。
「…終わらせてやる」
関谷が吐き捨てるように言った。
「第二幕だか何だか知らねぇが、これ以上好き勝手な芝居はさせねぇ。…脚本ごと叩き斬ってやる」
関谷は証拠品を風呂敷に包むと、司と咲に向き直った。
「司、咲さん。…感謝する。あんたたちの知恵がなきゃ、俺はまだ幽霊を追いかけていた」
関谷は短く頭を下げ、そしてニヤリと笑った。不敵な、猟犬の笑みだ。
「ここからは警察の仕事だ。この証拠品から、必ず実行犯の尻尾を掴んでみせる」
関谷は路地裏を駆け出していった。
その背中は、昨日までの迷いが消え、確固たる殺気を帯びていた。
残された司と咲は、銀座の空を見上げた。
雲ひとつない秋晴れ。
だが、その青空の向こうには、十一月二十五日という「破滅の特異点」が、口を開けて待っている。
「…行きましょう、司さん」
咲が、泥で汚れたエプロンを払った。
「私たちも準備しなきゃ。最高の批評家として、あの脚本家の駄作を酷評してやるために」
司は頷き、インバネスコートの襟を正した。




