第6話「本郷の深淵」
大正十年、十一月十五日。
原敬首相の暗殺から十日余り。
帝都・東京は、目に見えぬ緊張の糸で張り詰められていたが、ここ本郷・団子坂の古書店「藍峯堂」には、世間の喧騒から切り離されたような静寂が沈殿していた。
店主の藤平司は、帳場に座り込み、一冊の大学ノートを睨み続けていた。
視線の先にあるのは、先日の「浅草十二階事件」で実行犯が持っていた大学ノートの写しだ。司が一睡もせずに書き写した、悪意の複製である。
「…わからない」
司は眼鏡を外し、疲れた目頭を揉んだ。
書かれている文字の意味は分かる。
引用されている古典の出典も、レトリックも、膨大な読書量を持つ司には理解できる。
だが、その奥にある「芯」が見えない。
なぜ、これほどまでに演劇的な手順を踏む必要があるのか。合理性を欠いたこの犯罪の動機が、司の論理の網をすり抜けていく。
「あーあ。平和すぎて、カビが生えそう」
店内の静寂を破ったのは、窓辺で頬杖をついている咲・エヴァンスだった。
今日はカフェーの非番なのだろう。深いボルドー色のワンピースに身を包み、手には原書、コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズの冒険』が握られている。
「随分と不謹慎だね、咲さん。世間じゃワシントン会議だ、政変だと大騒ぎなのに」
「だからよ。一番町は息が詰まるの」
咲はパタンと本を閉じ、長い足を組み替えた。
「パパったら、ワシントン会議の件で書斎に籠りきり。公邸の中は、ピリピリした外交官と、私を見張るSPの視線だけ。…窒息しちゃうわ」
彼女の父親、ウィリアム・エヴァンス英国大使は、学者肌の知日派として知られているが、この激動の情勢下では外交官としての責務に忙殺されているらしい。
高貴な鳥籠から逃げ出した姫君は、不満げに唇を尖らせた。
「ねえ、司さん。ホームズは退屈すると、壁に銃を撃って弾痕で文字を書いたそうだけど、私たちは何をする?このまま埃を被って本の虫になる?」
「…銃を撃つ代わりに、怪物に会いに行こうか」
司は立ち上がり、インバネスコートを羽織った。
その目には、迷いを断ち切ったような光が宿っていた。
「怪物?」
「ああ。僕の知識はあくまで本の中だけのものだ。生きた人間の、それも壊れた人間の精神までは読めない。…だから、専門家に頼る」
司は苦笑して付け加えた。
「人の心を解剖して遊んでいるような人だ。ただし、覚悟してくれよ。君のことも丸裸にされるかもしれないよ?」
咲の鳶色の瞳が、一瞬で好奇心に輝いた。
「面白そう。パパより手強い学者先生なら、ぜひ会ってみたいわ」
◆◇◆◇◆
本郷・真砂町。
帝大に近いこの界隈は、多くの学者が居を構えているが、その洋館は一際異様な雰囲気を放っていた。
鬱蒼と茂る蔦が外壁を覆い、昼間だというのに薄暗い。
重厚な扉を開け、長い廊下を進む。空気は冷たく、どこか古紙とインクの匂いが漂っている。
「…鍵は開いている」
ノックをする前に、部屋の中から重低音の声が響いた。
司が扉を開ける。
そこは、書斎というよりは要塞だった。
床から天井まで、壁一面を埋め尽くす洋書の山。
足の踏み場もないほど積み上げられた文献の迷路の奥に、紫煙を燻らせる男の背中があった。
水野恭一郎。六十八歳。
かつて帝大で教鞭を執り、今は世俗を離れて独自の学問に没頭する、司の母方の祖父である。
水野は巨大なデスクに向かい、万年筆を走らせていた。振り返りもしない。
「…久しぶりだな、司」
「ご無沙汰しております、先生」
司は緊張した面持ちで頭を下げた。祖父ではあるが、幼い頃から「先生」と呼んでいた。
水野は、背中を向けたまま、鼻を鳴らした。
「上等なダージリンの香りと、市井の埃の匂い。…それに、微かなインクの臭気。奇妙な組み合わせの客人を連れてきたものだ」
咲がわずかに眉を上げた。
「鼻が利くのですね、教授」
「鼻ではない。脳だよ」
水野はゆっくりと回転椅子を回し、二人に向き直った。
白髪交じりの蓬髪。無精髭。だが、その瞳だけは、剃刀のように鋭く澄んでいる。
彼は咲をじっと見つめた。値踏みするような視線ではない。
顕微鏡で未知の細胞を覗き込むような、純粋な観察者の目だ。
「なるほど。一番町の温室で育ちながら、自ら泥の中に根を張ろうとする新種か」
「…なぜ?」
水野はパイプを置き、組んだ両手の上に顎を乗せた。
「君の手指。関節にわずかなタコがあるな。ピアノの練習にしては位置が違う。…重いトレイを、不安定な姿勢で運び続けている証拠だ。そして、その姿と、このあたりでは不釣り合いなほど上等な服。答えは自ずと導かれる」
「…!」
「君にとって労働は、特権階級である自分への贖罪かね?それとも、偉大なる父への反抗という名の自己表現か?」
言葉のナイフが、咲の内面を正確に切り裂いていく。
だが、その口調には悪意も侮蔑もない。ただ、事実を並べ、因果を問うているだけだ。
咲は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに不敵な笑みを返し、腰に両手をあてて、胸を張ってから一歩前に出た。
「どちらも正解で、どちらも不十分ね、教授」
咲は水野の視線を真っ向から受け止める。
「私はただ、与えられた鳥籠の中で、役割を演じるのが嫌いなだけ。…教授こそ、この本の山に埋もれて、何を恐れているのかしら?世界に出て、ご自慢の論理が通じない相手に出会うこと?」
部屋の空気が凍りついた。
司が慌てて止めようとするよりも早く、水野が喉を鳴らして笑った。
「クックッ…ハハハハ!」
愉悦。心底楽しそうな笑い声が、書斎に響く。
「司、いい相棒をもったな。エヴァンス大使の娘だけのことはある。その知性、腐らせるには惜しい」
「…お見通し、というわけですか」
「父親の著書を読めば、娘の思考回路も透けて見えるというものだ」
水野は愉快そうに目を細めると、司の手元に視線を落とした。
「さて。手土産も持たずに来たわけではあるまい?その大学ノート、先ほどから大事そうに握りしめているが…講義のメモにしては、殺気立っているな」
「…はい。これを見ていただきたいんです」
司はノートを差し出した。
「先日、浅草で事件がありました。これは、その実行犯が持っていた『指示書』の写しです。僕の知識では、どうしても黒幕の意図が掴めなくて」
水野はノートを受け取り、静かにページをめくり始めた。
書斎に、紙擦れの音だけが響く。
一分、二分。
水野の瞳から、感情の色が消えていく。まるで機械のように、情報を処理し、再構築していく。
やがて、彼はノートを丁寧に閉じた。
「…司。お前はこれを『指示書』だと思って読んでいるのか?」
「違いますか?詳細な手順、トリック、逃走経路…すべてが書かれています」
「だから間違える。読み解けない」
水野はパイプを手に取り、紫煙を吐き出した。
「これは指示ではない。『脚本』だ」
「脚本…?」
「この書き手にとって、現実世界は物理的な空間ではない。自分が演出すべき舞台なのだろうな。見てみろ、この記述を。『密室は錯誤により完成する』『招かれざる客』…。彼は、事象の効率性よりも、劇的な効果を優先している」
「ですが先生。なぜ、ただの実行犯にこんな文学的なものを?命令するだけなら、殺せの一言で済むはずです」
司の問いに、水野はニヤリと笑った。
「そこだ。それが最大の矛盾であり、答えだ」
水野は手元の写しを指で弾いた。
「ただの駒に、これほどの物語を理解させる必要はない。むしろ邪魔だ。…にも関わらず、著者はこれを書いた。なぜか?」
「…実行犯のためじゃない、と?」
「そうだ。物語には読者が必要だからな。書き手は、たとえ計画が失敗し、この脚本が誰かの手に渡ることさえ計算に入れている」
水野は司を指差した。
「彼はこのノートが、理解ある者の目に留まることを望んでいたのだ。愚か者なら紙屑として捨て、凡人なら証拠品として処理し、知恵者ならその意味を読み解こうとする。…司、お前はこれを読み解こうとした。そして、ここへ来た」
水野の瞳が、冷徹な光を帯びる。
「つまり、彼の配役は完了したということだ。お前は『読者』、あるいは『探偵』役に選ばれたのだよ。自らの芸術を理解し、喝采を送る観客としてな。すでに認知もされているかもしれない」
水野は立ち上がり、黒板にチョークで殴り書きをした。
『Plot Maker』。
「彼は、言うなれば『脚本家』だ」
その名は、呪いのように重く響いた。
「いいか、司。脚本家との対話は、論理の応酬ではない。世界観の侵食戦争だ。彼の脚本に乗るな。お前自身の言葉で、物語を書き換えるんだ」
水野の瞳が、厳しくも温かい光を帯びて司を射抜く。
「深淵を覗く覚悟はあるか?」
司は拳を握りしめ、深く頷いた。
「…あります。僕はこの物語を、バッドエンドにはさせない」
「…また、躓いたなら来なさい。こういうことなら、いつでも歓迎だ。お嬢さんもな」
「はいっ!」
◆◇◆◇◆
夕闇が迫る団子坂。
カラスの鳴き声が、冬の到来を告げるように寒々しく響く。
司と咲が藍峯堂に戻ると、店の前の柳の下に、中折れ帽を目深に被った男が一人、影のように立っていた。
先日まで、影のように寄り添っていた若い巡査の姿はない。
「…遅かったな、司」
男が顔を上げる。
関谷警部だった。
無精髭に、よれたコート。その目には、現場を這いずり回った刑事特有の、泥臭い疲労と鋭い光が同居している。
「警部?どうしたんです?」
「店に入れてくれ。…立ち話でするような内容じゃない」
関谷の声は低く、ひどく嗄れていた。
ただならぬ気配を感じ、司は無言で鍵を開けた。
店内に明かりが灯る。
関谷は座布団にも座らず、土間の上がり框に腰を下ろすと、懐から一枚の写真を取り出した。
「…上からは箝口令が敷かれてる」
「箝口令…?」
「今日の午前中。銀座四丁目の交差点で、一人の男が殺された」
関谷は写真を畳の上に滑らせた。
写っているのは、血の海に沈む男の死体。
場所は…帝都で最も賑わうはずの銀座のど真ん中だ。
「被害者は、内務省警保局の事務官だ。今月二十五日に行われる、皇太子殿下の摂政就任のための御参内。それの警務実施責任者の一人だよ」
咲が息を呑む。
二十五日。日本にとって大事な日だ。
「警務の責任者ですか…、狙ったのか、たまたまなのか。でも、白昼堂々の犯行なら、目撃者は…」
「そこだ」
関谷が苛立たしげに煙草を取り出し、しかし咲の視線を感じて、火を点けずに指に挟んだ。
「目撃者は山ほどいる。市電を待つ客や、銀ブラを楽しむ連中でごった返していた。数百人は下らねぇだろう。だがな…証言が滅茶苦茶なんだ」
「滅茶苦茶?」
「ある者は『赤い服の男』と言い、ある者は『青い法被の男』と言う。別の婦人は『大男だった』と言い、学生は『子供のような小男だった』と言う。…全員が真面目に答えて、これだ」
関谷は深く溜息をついた。
「誰も犯人の顔を見ていねぇ。まるで幽霊か透明人間にでも刺されたみてぇな話だ」
司の背筋に、冷たいものが走った。
衆人環視の密室。
食い違う証言。
それは、かつて本で読んだ、ある有名な事件を彷彿とさせた。
「…『モルグ街』だ」
「ええ。ポーの『モルグ街の殺人』ね」
咲が即座に反応した。
彼女も気づいたのだ。
物語の中では、犯人が人間ではなく、言葉を持たない猿だったために、国籍不明の奇妙な言語として証言が食い違った。
だが、今回は違う。帝都の真ん中で、猿がナイフを使うはずがない。
「物理的なトリックじゃない」
司は眼鏡のブリッジを押し上げ、確信を持って呟いた。
「これは、人間の脳を利用した認識の密室だ」
教授の言葉が蘇る。
『脚本家』。
銀座という巨大な舞台装置を使って、数百人の観衆の「眼」を欺く演出を行ったのではないか、そのような疑念が渦巻く。
「警部。その事件、僕たちにも追わせてください」
「…ああ。だから来たんだ」
関谷はニヤリと笑い、帽子を被り直した。
「警察の常識じゃ、幽霊は捕まえられねぇ。お前たちの知識を貸してくれ」
外では風が強まり、柳の枝が激しく揺れていた。
祝祭まであと十日。
姿なき脚本家による、第二幕のベルが高らかに鳴った。




