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藍峯堂事件帖 ~犯罪は頁(ページ)の中に~  作者: 秋澄しえる
第1章「十二階の亡霊」

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第5話「見えざる書き手」

 上野・山下。線路沿いの袋小路。


 行き場を失った雨が、煉瓦塀に跳ね返り、冷たい霧となって三人を包み込んでいた。


 泥濘ぬかるみの中で、咲・エヴァンスは矢田一郎の背中に片膝を乗せ、その右腕をねじり上げて完全に制圧していた。


 大東流合気柔術の「裏固め」。体重とテコの原理を利用し、相手が動けば動くほど関節に激痛が走る、逃れようのない体勢だ。


「…動かないで。暴れれば、肩が外れるわよ」


 咲が低い声で警告する。


 雨に濡れた栗色の髪が頬に張り付いているが、彼女はそれを払おうともせず、眼下の男を睨みつけていた。


 ナイトブルーのサック・ドレスは泥にまみれ、美しいレースの裾が無残に汚れている。だが、今の彼女は深窓の令嬢ではない。獲物を捕らえた若き狩人の目をしていた。


 彼女の膝の下で、矢田の細い背中が微かに震えているのが分かった。


 恐怖か、寒さか。あるいは、逃走の果ての疲労か。


「よし。…咲さん、もういいぞ。助かった」


 関谷の合図で、咲はゆっくりと体重を抜き、身を翻して矢田から離れた。


 彼女は泥だらけの手をドレスで拭おうとして、ドレスも泥だらけであることに気づき、小さく溜息をついた。


「おい、立て!」


 関谷が手錠の鎖を引いた。


 矢田は抵抗することなく、糸が切れた操り人形のように力なく立ち上がった。


 その顔は泥で汚れていたが、表情は不思議なほど穏やかだった。


 目は虚空を見つめ、口元には微かな笑みさえ浮かんでいる。


「…終わったか?」


 関谷が、泥で汚れたハンチング帽を直しながら問う。その声には、犯人を捕らえた安堵よりも、得体の知れない不気味さへの警戒が滲んでいた。


「お前の負けだ、矢田。署で洗いざらい話してもらうぞ。二十三年前の因縁も、浅野を殺した手口もな」


 矢田は、焦点の合わない目で関谷を見た。


 そして、ふ、と鼻を鳴らした。


「負け?…いいや、違う」


 彼は夢見心地で呟いた。声は雨音に消え入りそうだ。


「ここまでは『予言』通りだ。…神様は、すべてお見通しだ」


「神様だと?」


 関谷が眉をひそめる。


「ふざけるな。お前が浅野を殺したんだな!」


「神様がくれたんだ。…僕の人生を肯定してくれる、唯一の物語を」


 矢田は薄く笑った。


 泥にまみれ、手錠をかけられた両手を、彼は胸の前で組み合わせるように持ち上げた。


 その手の中には、命懸けで守り抜いた一冊の「大学ノート」が握られている。


 まるで、それが彼の命綱であるかのように。


 その時。


 咲の鋭い感覚が、微かな違和感を捉えた。


 ノートの陰で、矢田の指先が奇妙な動きをしたのだ。


 何か、小さなものを掴んでいる。


「…ダメッ!」


 咲が叫んだ。


 思考よりも先に体が動く。彼女は矢田の手首を掴もうと、泥を踏みしめた。


「第三章、終幕…」


 矢田の動きは、異常なほど滑らかで、迷いがなかった。


 ノートの背表紙の裏に隠し持っていた茶色の小瓶。その蓋を親指で弾き飛ばすと、彼は躊躇なく、その瓶を口元へと運んだ。


「やめろッ!」


 司も気づき、長い手を伸ばす。


 だが、遅かった。


 ガリッ、と男がガラスの瓶ごと中身を噛み砕く音がした。


 一瞬の静寂。


 直後、ガクッ、と矢田の体が弓なりに反り返った。


 喉を掻きむしるように指が動き、白目を剥く。


 口の端から、白い泡と血が混じって溢れ出す。


「嘘…イヤッ!」


 咲が矢田の体を支えようとするが、痙攣する大人の男の力は凄まじい。


 強烈な異臭が漂う。


 焦げたような、鼻を突く刺激臭。


 青酸カリ。


 浅野を葬ったのと同じ、致死の猛毒。


「吐き出せ!おい!」


 関谷が矢田の頬を叩き、口をこじ開けようとする。


 だが、矢田の顎は硬直して動かない。


 それでも、その歪んだ顔には、苦悶よりも深い、恍惚とした笑みが張り付いていた。


 彼は自分が死ぬことを恐れていない。むしろ、待ち望んでいた瞬間に到達したかのような、至福の表情。


 ビクン、と大きく一度跳ねて、矢田の体から力が抜けた。


 彼は泥水の中に崩れ落ち、二度と動かなくなった。


 絶命。


 あまりにもあっけない、そして残酷な幕切れ。


 矢田の手から、抱え込んでいた「大学ノート」が、ごとりと音を立てて転がり落ちる。


 冷たい雨が、開かれたページを黒く濡らしていく。


「…くそッ!畜生ッ!」


 関谷が帽子を地面に叩きつけ、泥水を蹴り上げた。


「なんで死に急ぐ!生きて罪を償うこともせず!」


 咲は、泥だらけのドレスのまま、その場に立ち尽くしていた。


 手のひらに、矢田を支えた時の微かな温もりが残っている。それが急速に冷えていく感覚に、彼女は震えを抑えられなかった。


 目の前で、人の命が消えた。それも、自ら望んで、笑いながら。


「どうして…どうして笑って死ねるの…?」


 咲の声が震える。


 彼女の知る「死」は、もっと恐ろしく、忌避すべきものだった。だが、この男は死を「救い」として受け入れた。誰かにそう吹き込まれたかのように。


 司が静かに歩み寄り、咲の肩に手を置いた。


「見ない方がいい」


 そう言って、自分のインバネスコートを脱ぎ、雨と泥に濡れた咲の肩にかけてやる。


 そして司は、泥にまみれた大学ノートを拾い上げた。


 まだ温かい。


 男が命懸けで守ろうとし、死んでまで離さなかった「宝物」だ。


 司は雨を避けるように背を丸め、建物の軒下へと移動した。


 ノートのページを開く。


 関谷と咲も、何かに引き寄せられるようにその左右から覗き込む。


「…これは」


 咲が息を呑んだ。


 そこには、二つの全く異なる筆跡が混在していた。


 一つは、インクの滲んだ乱雑な走り書き。


 筆圧が強く、紙が破れそうなほどだ。矢田のものだろう。


 そこには、浅野との最期の会話と思われる内容が、執拗に記録されていた。


『浅野、自白した。親父を突き落としたと認めた』


『お袋への仕打ちも認めた。毎月の金で口封じをしていたと』


『こいつは悪魔だ。殺す価値がある』


『神様の言う通りだった。僕が正義だ』


 矢田の怨嗟と、復讐の正当性を確認する言葉が、ページを黒く塗りつぶしている。


 その文字からは、彼の張り裂けそうな怒りと悲しみが立ち上ってくるようだった。


 だが、司が注目したのは、それではない。


 矢田の文字の隙間に、あらかじめ印刷されたかのように記されている、もう一つの筆跡だ。


 流麗で、知的で、どこか冷徹さを感じさせる美しい文字。


 インクの滲み一つないその文字は、まるで物語の「指示書」のように、矢田の行動を先回りして導いていた。


『第一章:過去からの招待状』


『第二章:二つの杯と運命の選択』


『第三章:逃走、そして永遠の安息』


「…章立てまでされている」


 関谷が呻く。


「あいつ、殺人を小説か何かだと思ってやがったのか」


 ノートには、司たちが推理した通りのトリックの全貌が記されていた。


 浅草十二階という舞台装置の選定。


 サクラを使った「不在証明アリバイ」の演出方法。


 そして――


『…対象者・浅野虎三郎は、特異な体質の持ち主である。彼の家系には、生まれつき青酸配糖体の臭気を感じ取ることができない者が多い。彼もまた、その体質を受け継いでいる』


「書かれている…」


 司の手が震えた。ページをめくる指先が白くなる。


「…浅野の家系や体質まで、完全に調べ上げていたんだ」


『ゆえに、毒と水の選択という遊戯は成立する。彼は疑うことなく杯をあおるだろう』


 咲が口元を押さえた。


「そんな…なぜ…」


「最初から、確実な方法として準備されていたのか」


 司の声が震える。


 関谷がノートを指差した。


「じゃあ、矢田はただ、この台本通りに動いただけだってのか?操り人形みたいに」


「いえ、それだけじゃありません」


 司はページをめくった。


 ノートの後半。そこには、計画の手順ではなく、矢田の孤独な心に向けられた「言葉」が並んでいた。


 会話ではない。


 一方的な、甘美な語りかけだ。


 美しい文字が、呪いのように紙面を埋め尽くしている。


『…君の痛みは、君だけのものだ。だが、世界はその痛みを理解しない』


『復讐は罪ではない。それは、歪められた均衡を正すための、崇高な儀式だ』


『君が主役だ。君の手で幕を引く時、君は孤独から解放され、愛する父母の元へ帰還するだろう』


 まるで慈悲深い教師が、迷える生徒を諭すような口調。


 だが、その本質は、絶望した人間の心の隙間に入り込み、死へと誘導する冷酷な精神支配だ。


 矢田の孤独、貧困、親への思慕。その全てを肯定し、殺人と自害を「救済」だと信じ込ませている。


 そして、最後のページ。


『…追っ手により逃げ場を失った時、主役は自ら毒を仰ぐ。これをもって復讐劇は完成し、彼は永遠の救済を得る』


 司がその一節を読み上げると、咲が寒気を感じたように体を震わせた。


 彼女は司のコートをきつく抱きしめた。


「ひどい…。自殺することまで、行動の一部だったの?」


「矢田は、この書き手に救われたつもりだったんでしょう。自分の存在を…価値観を肯定してくれた唯一の理解者だと信じて」


 司は、泥の中に横たわる矢田の遺体を見た。


 雨に打たれるその顔は、やはり満足げだ。何も知らず、ただ「物語」の中で死ねたことを喜んでいるようにさえ見える。


「でも実際は違う。彼は、書き手にとっての駒でしかなかった。…自ら死ぬことで証拠を消し、物語を美しく終わらせるための、使い捨ての主役です」


 遠くから、サイレンの音が近づいてくる。


 関谷が呼んでいた応援の警官たちが到着したようだ。


 関谷は濡れた髪を乱暴にかき上げ、雨空に向かって吐き捨てるように言った。


「…吐き気がするぜ。姿なき殺人鬼かよ」


 事件は解決した。


 実行犯は死に、動機も手口も解明された。


 だが、三人の間に勝利の空気はない。


 ただ、底知れぬ悪意の深淵を覗き込んだような、重苦しい沈黙が流れていた。


 このノートを書いた人物は、今もどこかで、次の物語を書いているのではないか。


 安全な場所から、人の命をインクのように消費して。


 帝都の闇の奥に潜む、見えざる著者。


 その巨大な悪意の輪郭が、雨の向こうにぼんやりと浮かび上がっていた。


「…司さん」


 咲が、不安げに司の袖を掴んだ。


 泥だらけの手。だが、その温もりだけが、今の司にとって唯一の確かな現実だった。


「このノート、まだ続きがあるの?」


 司はノートを閉じた。


 表紙には題名も著者名もない。ただの無機質な大学ノートだ。


「いや、この物語はこれで終わりだ」


 司は眼鏡の滴を拭い、毅然とした声で答えた。


「でも、書き手はまだペンを置いていない気がする。…これは、始まりに過ぎないのかもしれない」


 雨は降り続いている。


 その冷たさは、これから始まる、より深く暗い闇への序章のように思えた。

第1章 完

第2章(第6話)は、2月9日に掲載します。

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