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藍峯堂事件帖 ~犯罪は頁(ページ)の中に~  作者: 秋澄しえる
第1章「十二階の亡霊」

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第4話「影の証人」

「相沢の息子…か」


 関谷警部は、その単語を咀嚼そしゃくするように呟いたが、その声にはまだ、確信の熱が帯びていなかった。


 刑事の長年の勘が、安易な物語への飛びつきを戒めているのだ。彼は汚れたハンカチで額の脂汗を拭うと、低い唸り声を上げて腕を組んだ。


「…筋は通る。動機としては十分すぎるほどだ。だがな、司。理屈だけで人間は捕まえられねぇんだよ」


「壁がありますか」


「壁なんてもんじゃねぇ。断崖絶壁だ」


 関谷は苛立たしげに、革靴のつま先で床を叩いた。


「いいか。仮にその『息子』が生きていて、復讐を企てたとしよう。だが、どうやって実行した?展望台にいた観光客二名は、署での聴取に『浅野は一人だった』と断言してるんだぞ。幽霊じゃあるまいし、衆人環視の中でどうやって突き落とす?」


 重い指摘だった。


 事実は小説よりも奇なりと言うが、捜査においては事実は事実でしかない。二人の目撃証言がある以上、第三者の介在は物理的に否定される。


 司は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、思考の海へと沈んでいった。


 冷え切った楽屋の空気。微かに揺れる裸電球。


 その光と影の揺らぎを見つめながら、司は静かに口を開いた。


「…関谷さん。その観光客というのは、本当に『ただの観光客』でしたか?」


「ああん?どういうことだ」


「状況を思い出してください。事件があったのは十一月八日。木枯らしの吹く、凍えるような寒い夜です。しかも閉館間際の時間帯だ」


 司は視線を天井――現場である展望台の方角へと向けた。


「そんな夜に、わざわざ吹きっさらしの展望台へ登り、夜景を楽しもうとする酔狂な人間が、都合よく二人もいるでしょうか。しかも、彼らは事件を目撃する『特等席』にいた」


 咲がハッとして、司の顔を覗き込んだ。


「…まさか」


「ええ。出来すぎていると思いませんか?」


 司の目が、眼鏡の奥で鋭く光った。


「彼らは、偶然そこにいたのではない。…犯人によって『配置された』のです」


「配置されただと?」


「彼らはサクラです。犯人の不在を証明するためだけに用意された、生きた舞台装置。おそらく、金で雇われて『誰もいなかったと証言しろ』と、あらかじめ口裏を合わせさせていたのでしょう」


 関谷が大きく息を吐き出し、天井を仰いだ。


「…なんてこった。警察の聴取そのものを、鼻から計算に入れてやがったのか」


「あくまで推論ですが、そう考えれば全ての矛盾が氷解します。犯人は現場にいながら、証言によって透明人間になった」


「だがよ、司」


 関谷が鋭い視線を戻した。


「それが事実だとしても、証明できなきゃただの妄想だ。サクラを雇った証拠もなけりゃ、肝心の『相沢の息子』がどこの誰なのかも分からねぇ。…これじゃあ、手も足も出ねぇぞ」


 手詰まりか。


 沈黙が落ちる。外の雨音が、先ほどよりも強くなっている気がした。


 このままでは、亡霊は再び闇の中へと消えてしまう。


 焦りが募る中、咲がふと、何かに引き寄せられるように動き出した。


 彼女は、部屋の隅に鎮座している大きな衣装タンスの前で足を止めた。


 黒光りする重厚な木製のタンス。浅野が生前、舞台衣装を収めていたものだ。


「ねえ、関谷さん」


「ん?なんだ?」


「さっき、机の引き出しが二重底だったわよね?そこからあの写真が出てきた」


 咲はタンスの扉には手を触れず、その下部にある頑丈そうな底板をじっと見つめた。


「浅野さんって、すごく疑り深い人だったんでしょ?ネタを盗まれるのを極端に恐れて、誰も信用しなかった」


「ああ、そう聞いてる。…それがどうした」


「そんな人が、自分の弱みや大事な秘密を、机の引き出し一箇所だけに隠すかしら。…保険をかけると思わない?」


 咲はその場にしゃがみ込むと、ナイトブルーのドレスが床の埃に汚れるのも構わず、タンスの底に顔を近づけた。


 そして、細い指の関節で、底板をコンコンと叩いた。


 鈍い音。


 中身が詰まっている音だ。


 咲は少し位置をずらし、再び叩く。


 コンコン。


 まだ同じ音。


 司と関谷が、固唾を飲んでその背中を見守る。


 咲はさらに奥の方、タンスの四隅に近い部分を叩いた。


 ポコッ。


 明らかに違う音がした。


 乾いた、空洞の反響音。


「…当たり」


 咲が振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。


「ここだけ、音が軽いわ」


「貸せ、俺がこじ開けてやる」


 関谷が前に出ようとするが、咲は片手でそれを制した。


「いいえ、道具ならあるわ」


 咲は立ち上がり、浅野の机へと歩み寄った。


 そこには、几帳面に並べられた万年筆やインク壺に混じって、一本の真鍮しんちゅう製のペーパーナイフが置かれていた。封書を開けるためのものだ。


「お借りするね、浅野さん」


 咲はペーパーナイフを手に戻ると、その薄く鋭利な先端を、底板のわずかな隙間に差し込んだ。


「よい…しょっ!」


 テコの原理を使い、一気に力を込める。真鍮が軋む音がする。


 メリメリッ、という嫌な音とともに、底板の一部が浮き上がった。


「開いた!」


 関谷が慌てて懐中電灯を照らす。


 剥がされた底板の下、暗い空洞の中に、何かが押し込まれていた。


 埃にまみれた黒い和綴じの雑記帳。


 油紙に厳重に包まれた書類の束。


「これは…『閻魔帳えんまちょう』か?」


 関谷が雑記帳をひったくるように手に取り、乱暴にページをめくった。


 古い紙の匂いが舞う。


 そこには、達筆だが神経質そうな文字で、浅野の私的な記録がびっしりと書き込まれていた。


『明治四十年、××座の支配人と喧嘩。出演料未払い』


『大正三年、弟子入り志願の男、手癖が悪いため追い返す』


『同月、新ネタのアイデアを盗まれた疑いあり』


「…呆れたな。自分への恨みやトラブルを、忘れないように全部記録してやがったのか」


 関谷の指が、ページをめくる速度を上げる。


 そして、あるページで指が止まった。


 そこだけ、執拗に朱色の線が引かれ、紙が破れそうなほど強く筆が走っていた。


 『矢田。ネタ泥棒と罵りおった。絶対に許さん』


「矢田…」


 関谷が顔を上げる。なにか記憶にひっかかる名前、単語、名字…。


「おい司、書類の束だ!そこに何かないか!『矢田』という名前がないか探してくれ!」


 司は油紙の包みを解いていた。


 中から出てきたのは、証文や権利書の類だ。浅野が他人から取り上げたものだろうか。


 その中から、一枚の古びた念書が出てきた。


 なんらかの師匠と呼ばれる人が弟子をとる場合、念書をとることは一般的だ。問題が起きた時の保証のためにも必要な書類だ。


「…ありました。弟子入りの念書だ」


 司の声が、わずかに上ずった。


「これを見てください」


 それは、借金のカタに、興行の権利と家財道具一式を浅野へ譲渡する旨を記した念書だった。


 日付は三年前。


 そして署名欄には、震えるような、しかし必死に力を込めた文字でこう書かれていた。


 『矢田 一郎』


 その横には、血判のような拇印ぼいんが押されている。


 さらに、住所と生年月日も記されていた。


 『下谷区万年町二丁目…』。


「矢田一郎…」


 関谷の顔色が変わり、全身から凄まじい殺気が立ち上った。


 点と線が、強力な磁力で引き合い、一本の太い綱になった瞬間だ。


「一郎…。ああ、思い出した。葬式の時、母親の喪服にしがみついて泣いていたあの坊主だ。痩せてて、目が大きくてな…」


 関谷の記憶が鮮明に蘇る。


「母親の旧姓『矢田』を名乗って浅野に近づき、弟子入りしたんだな。復讐の機会を虎視眈々と狙って…何年も、何年も…」


 生年月日から、司が頭の中で素早く計算する。


「現在、三十一歳か三十二歳。…関谷さん、二十三年前、少年だった子の年齢と合致しますか?」


「…合うな。下谷だな?」


「ええ。彼が、相沢の息子であり、今回の事件の実行犯である可能性が高い」


 関谷が帽子を目深に被り直した。


「行くぞ。…今度こそ、亡霊の尻尾を掴んでやる」


「でも、令状は?」


 咲が胡乱そうな表情を向ける。


「かまうか!臨検だ!」



◆◇◆◇◆



 楽屋を出ると、世界は冷たい雨に沈んでいた。


 叩きつけるような雨音が、帝都の喧騒を塗りつぶしている。


 三人は人力車を二台連ね、下谷・万年町へと急いだ。


 ほろを打つ雨音が激しい。


「急いでくれ!警察だ!」


 関谷が車夫を怒鳴りつけるが、ぬかるんだ道に車輪を取られ、思うように進まない。


 揺れる車上で、司は流れる景色を見つめていた。


 華やかな銀座とは対極にある、帝都の陰。


 下谷区万年町。


 そこは、東京でも指折りの貧民窟として知られていた。


 迷路のように入り組んだ路地、腐った板壁、路上に溢れる汚水。


 雨に濡れた黒い屋根瓦が、まるで生き物の死骸のようにどこまでも連なっている。


「…ここだ」


 車夫を待たせ、関谷が先頭に立って路地裏へと踏み込んだ。


 足元は泥濘ぬかるみだ。一歩踏み出すたびに、靴が泥に吸い付かれる。


 腐った生ゴミと、排泄物の混じった強烈な臭気が鼻をつく。


「こっちだ」


 関谷が地図を片手に、薄暗い路地を進む。


 念書にあった番地の長屋。


 傾きかけた平屋の長屋は、雨に打たれて黒く湿り、不気味な静けさを漂わせている。


 住人の気配はない。いや、息を殺してこちらの様子を伺っているのかもしれない。


 目的の扉の前。


 関谷が合図し、三人は扉の両脇に散開した。


「…いるか?」


 関谷が耳を澄ます。


 雨音に混じって、中から微かに、何かがぜるような音が聞こえた。


 パチッ、パチッ。


 枯れ木が燃えるような音。


 そして、隙間風に乗って漂ってくる、鼻を突く焦げ臭い匂い。


「燃やしている…!」


 司が叫ぶ。


「証拠隠滅だ!」


 関谷がドアノブを回すが、鍵がかかっている。


「クソッ、開かねぇ!」


 関谷が渾身の体当たりを二回繰り返した時、扉が悲鳴をあげた。


「警察だ!動くな!」


 六畳一間の薄暗い部屋。


 むっとする熱気と煙が充満している。


 中央に置かれた火鉢から、赤い炎が上がっていた。


 その前で、一人の男が振り返った。


 痩せこけた頬、無精髭、そして血走った目。


 彼は火鉢に、手紙や書類の束をくべていたところだった。


 部屋中に散乱する紙片。すべてを灰にしようとしていたのだ。


「矢田だな!?」


 関谷が怒鳴りながら踏み込む。


 男は、関谷の問いに応えはしなかったが、行動が肯定を意味していた。


 侵入者たちの姿を見ると、火鉢の側に残していた一冊――分厚い「大学ノート」だけは渡すまいと、反射的に懐に抱え込んだ。


 それは、彼にとって命よりも大切なものであるかのように。


「待て!」


 司が手を伸ばす。


 だが、矢田の動きは獣のように俊敏だった。


 彼は脱兎のごとく部屋の奥へ走ると、雨戸の閉まった窓に体当たりをした。


 ガシャーン!


 腐った木枠とガラスが砕け散る。


 男の体が、そのまま外の闇へと転がり出た。


「追うぞ!」


 三人は雨の路地へと飛び出した。


 バシャッ、バシャッ!


 激しい水飛沫を上げ、泥水を蹴り上げる音が狭い路地に反響する。


 矢田は速い。


 迷路のような長屋の地理を熟知しているのか、追っ手を撒くように直角に曲がり、狭い隙間をすり抜けていく。


 まるで路地そのものが彼をかくまっているかのようだ。


「はぁ、はぁ…!」


 司は長い手足を持て余し、ぬかるみに足を取られながら必死に追う。


 インバネスコートが泥に汚れ、重くまとわりつく。


 呼吸が苦しい。肺が焼けるようだ。


「待て、こらぁッ!」


 関谷が吠えるが、距離は縮まらない。


 矢田は路地を抜け、上野の山下、線路沿いの袋小路へと逃げ込んだ。


 その先には、高さ三メートルはある赤煉瓦の塀が立ちはだかっている。


 鉄道線路を隔てる壁だ。


 行き止まりだ。


「もう逃げられんぞ!」


 関谷が銃に手をかけ、構える。


 だが、矢田は止まらなかった。


 速度を緩めず、助走をつける。


 そして猿のような身軽さで塀の亀裂に指をかけ、一気に上へとよじ登り始めた。


「なっ…!」


 関谷が愕然とする。


 関谷の足では間に合わない。司では届かない。


 誰もがそう思った瞬間。


 ヒュッ、と風が鳴った。


「…逃がすものですかッ!」


 咲だ。


 彼女はハイヒールをものともせず、路地に積まれた木箱を軽やかに踏み台にした。


 タン、タン、とリズミカルな足音。


 ナイトブルーのドレスが、雨の中で花のように開く。


 跳躍。


 重力を無視したかのような高さ。


「そこッ!」


 空中で体を捻り、塀の天辺に手をかけた矢田の、その襟首を正確に掴んだ。


 大東流合気柔術の理合りあい


 相手の重心を崩し、重力を上乗せする。


「落ちなさい!」


 咲が腕を一閃させる。


「うわぁっ!?」


 矢田の体が宙を舞い、背中から地面の泥溜まりに叩きつけられた。


 ドサッ!


 激しい水飛沫が上がり、泥水が顔にかかる。


 咲は、猫のようにしなやかに着地すると、すぐさま矢田の腕を取り、関節を極めた。


「動かないで。折るわよ」


 低いドスの効いた声。


 普段の美姫の面影はない。武人の目だ。


「ぐ、うぅ…」


 矢田は泥にまみれ、苦痛に顔を歪めた。


 だが、その手だけは、懐の大学ノートを離そうとしなかった。


 爪が白くなるほど強く、強く握りしめている。


 まるで、それが自分の魂の一部であるかのように。


 遅れて、関谷と司が追いつく。


 二人とも泥だらけで、肩で息をしている。


「…確保だ」


 関谷が荒い呼吸を整えながら手錠を取り出し、矢田の手首にかけた。


 カチャリ、と冷たい音が雨音に混じる。


 雨脚はいっそう強まり、三人と一人の男を容赦なく打ちつけていた。


 矢田は、泥に汚れた顔で三人を見上げた。


 観念したのか、それとも別の感情か。


 その目は、捕らえられた犯罪者の怯えではなく、異様なほど静かで、どこか遠く――神の国でも見ているかのような恍惚を湛えていた。

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