第3話「二十三年前の亡霊」
浅草十二階の一階楽屋に、張り詰めた沈黙が満ちていた。
天井から吊るされた裸電球が、チリチリと微かな音を立てて揺れている。その頼りない光が、コンクリートの床に三人の影を長く伸ばしていた。
藤平司は、咲から受け取った一枚の写真を、指先で慎重に持ち上げた。
まるで、壊れやすい硝子細工でも扱うかのような手つきだ。
経年劣化でセピア色に焼けたその写真には、三人の男女が写っている。
撮影場所は写真館だろうか。書き割りの西洋館を背景に、彼らは少し緊張した面持ちでレンズを見つめていた。
「…この左の男性、浅野さんね」
咲・エヴァンスが、司のインバネスコートの袖を掴みながら、肩越しに写真を覗き込んだ。
彼女の言う通りだ。若く、頬の肉付きも良いが、その意志の強そうな眉と鋭い眼光は、間違いなく今回転落死した浅野虎三郎の若き日の姿だった。壁に貼られているポスターの絵に近いかもしれない。
自信に満ち溢れ、野心を隠そうともしない目つき。
対照的に、右側に写っているのは、神経質そうな細面の男だった。
線が細く、どこか憂いを帯びた瞳。
そして中央には、二人を取り持つように微笑む、慎ましやかな和装の女性。
三人は親しげに肩を並べているが、どこか奇妙な均衡…触れれば崩れてしまいそうな
、危うい緊張感を孕んでいるようにも見えた。
「問題は、この裏です」
司が手首を返し、写真を裏返した。
古びた台紙の裏面に、鮮烈な朱色のインクで、一文字だけ殴り書きがされている。
インクの飛沫が飛び散り、筆圧で紙が少し毛羽立っている。
まるで、血で書かれたかのような荒々しい筆致。
『R』
「R…」
関谷警部が、その文字を睨みつけながら低く唸る。
「なんだ?誰かの頭文字か?それとも暗号か?」
「いえ、おそらくこれは、誰かに向けての伝言でしょう」
司は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、静かに語り始めた。
その声は、大学の講義室で文献を紐解く時のような、滑らかで落ち着いたトーンを帯びていた。
「コナン・ドイルの『緋色の研究』。その作中で、第一の殺人現場となったローリストン・ガーデンの空き家…咲さん、その壁面に、血で書かれた文字があったのを覚えていますか?」
咲がハッとして、パンと手を打った。
「あ!『RACHE』ね!」
「そうです。発見当初、レストレード警部は書きかけの『レイチェル(Rachel)』という女性の名前だと勘違いしましたが、ホームズは即座に否定した。…それはドイツ語で『復讐』を意味する言葉、『ラッヘ(Rache)』だと」
「復讐…」
関谷が、写真の『R』の文字と、表の三人の顔を交互に見比べた。
喉をごくりと鳴らす音が、静寂な楽屋に響く。
「つまり、この写真は復讐の動機、あるいは標的を示しているってことか」
「その可能性が高いですね。筆跡を見てください。震えていますが、線の入りと止めに、女性特有の柔らかさがある。…これは、写真の中央にいる女性が書いたものかもしれません」
司の言葉に、関谷の目が鋭くなった。彼は写真の表面に視線を戻し、食い入るように見つめた。
刑事の勘が、記憶の奥底にある澱をかき回しているのだ。
激動の東京市で二十年以上、泥と埃にまみれて生きてきた男の記憶。
「…この右側の男」
関谷が、細面の男を指差した。
「見覚えがあるぞ」
「えっ、関谷さん、知っているの?」
咲が身を乗り出す。
関谷は眉間に深い皺を刻み、記憶の糸を手繰り寄せるように天井を仰いだ。
紫煙の染み付いた天井。裸電球の光。
二十年以上の歳月が、走馬灯のように駆け巡る。
「…ああ。そうだ、思い出した。この男、相沢だ。相沢広乃介」
「相沢?」
「浅野と同じ奇術師だ。…だが、こいつはもうこの世にいねぇ」
関谷の声が、ふと低く、重くなった。
楽屋の温度が、急激に数度下がったような錯覚を覚える。
「死んだんだよ。二十年以上前にな。俺がまだ、象潟署の駆け出しだった頃だ」
関谷は、誰にともなく独り言のように呟き始めた。
過去の亡霊を、言葉にすることで実体化させるように。
「…おい、ちょっと待て」
不意に、関谷の顔色がさっと変わった。
彼は懐から手帳を取り出そうとして、やめた。そんなものに書いてあるはずがない。自分の脳髄に刻まれた日付を確認するように、虚空を睨む。
「…今日は、大正十年の十一月十日。木曜日だな?」
「ええ。一昨日の事件当日は、十一月八日の火曜日よ。それがどうかしたの?」
咲が首を傾げ、大きな瞳で関谷を見つめる。
「…同じだ」
関谷の声が震えた。脂汗が額に滲む。
「浅野と相沢が死んだ日だ。…日付だけじゃない。曜日まで一緒だ!」
「なんですって!?」
司と咲の声が重なり、狭い楽屋に反響した。
関谷は壁に手をつき、身体を支えるようにして呻いた。
「間違いねぇ…。二十三年前。俺は相沢が死んだその事件を担当したんだ。鮮明に覚えてる。あいつが死んだのは、明治三十一年十一月八日、火曜日だ」
司の背筋に、冷たいものが走った。
ただの偶然ではない。
二十三年の時を隔てて、日付と曜日が完全に合致する周期。
犯人は、この日を待っていたのだ。執念深く、息を潜めて。
「死因は…?」
司の静かな、しかし確信めいた問い。
関谷が、ゆっくりと顔を上げた。その目は恐怖と驚愕に見開かれている。
「…転落死だ。ここ、浅草十二階の屋上からの…な」
ドクン、と心臓が跳ねた。
外では風が強まり、建物の煉瓦を叩く音が聞こえる。まるで亡霊が窓を叩いているかのように。
同じ場所。同じ月日。同じ曜日。そして、同じ死に方。
これは、過去の時間を現在に強引に接木したような、あまりにも歪な「儀式」だ。
「…関谷さん。その時、現場に『杯』はありましたか?」
「いや、なかった」
関谷は即答した。
「相沢の死は『事故』として処理されたんだ。夜景を見ようとして、誤って落ちたとな。一緒にいた妻の証言もあったから、警察はそれを疑わなかった」
「妻…。この写真の女性でしょうか」
司が写真の真ん中の女性を見つめる。その微笑みは、今となってはどこか悲しげに見える。
「彼女の名前は?」
「琴だ。相沢琴」
「なるほど」
司は眼鏡のふちをつまみ、脳内でパズルのピースを組み上げ始めた。
書物の知識と、現実の断片が結合していく。
「整理しましょう。犯人は、二十三年前の相沢の死が、単なる事故ではなく、浅野による殺害だったと確信している。だからこそ、全く同じ舞台を用意し、復讐を遂げた」
「でも、変じゃない?」
咲が鋭い指摘を投げかけた。
彼女は腕を組み、長い睫毛を伏せて思考する。
「復讐の儀式だとしても、浅野さんはなんで『毒』を飲んだの?今回の現場には杯があった。片方は青酸カリ、片方は水。…でも、青酸カリって強烈な臭いがするんでしょ?」
その通りだ。
よく「アーモンド臭」と表現されるが、実際はもっと鼻を突くような、焦げたような不快な臭気だ。
「普通なら、口元に近づけた瞬間に気づくわ。『これは毒だ』って。それなのに、なんで飲み干せたの?脅されたとしても、毒だと分かってて飲む人間はいないわ」
関谷も頷く。
「ああ。現場には争った跡もなかったようだ。浅野は、自分の意志で杯を選び、あおったんだ」
司は、ふと遠い目をした。
本棚の影を見つめながら、自身の幼い頃の記憶を手繰り寄せる。
古い日本家屋の縁側。庭の緑。そして、白い粉末を撒く母の背中。
「…咲さん。関谷さん。世の中には、その警告が聞こえない人間がいるんです」
「え?」
咲が目を丸くする。
「僕の母の実家は農家でね。昔は害虫駆除に青酸カリを使っていた。父はその臭いを嫌がって、散布の日は家に寄り付かなかったけれど、母は平気な顔で撒いていたんだ。『何も匂わない』と言ってね」
司は静かに続けた。
「不思議に思って記録を調べたことがあります。同じように青酸カリの臭いを感じ取れない人間は一定数存在する。…いわゆる『臭盲』です。生まれつき、特定の臭いが分からない」
関谷が呆気にとられた顔をした。口にくわえようとした煙草が、手から滑り落ちそうになる。
「まさか、浅野も?」
「ええ、その可能性があると思います。そして犯人は、浅野がそういう体質であることを知っていたんでしょう。おそらくは、かつて浅野と非常に近い関係にあった人間なら、それに気づく機会があったはずです」
司は、空中に見えない天秤を描いてみせた。
「犯人は、浅野に『運試しのゲーム』を持ちかけた。『片方は毒、片方は水。当ててみろ』と。浅野にとって、目の前の二つの杯は、どちらも無臭の透明な液体に過ぎなかった。…だから、堂々と選ばせることができたんです」
咲が、ぞっとしたように自分の二の腕をさすった。
「恐ろしいわね…。相手の身体的な欠陥を利用したトリックなんて」
「そしてもう一つ、決定的な矛盾があります」
司は天井を指差した。その指先は、コンクリートの床を突き抜け、遥か頭上の展望台を指し示している。
「毒を飲んで苦しみ抜いた人間が、手すりを乗り越えて落ちることができるでしょうか?ここの屋上の手すりは腰高程度の高さですが、わざと乗り越えようとするには、相応の力がいる」
関谷がハッとする。
「…無理だ。青酸カリは即効性だ。飲めば数秒で意識が混濁し、筋肉が痙攣する。手すりをよじ登るなんて器用な真似はできねぇ」
「つまり」
司の目が、眼鏡の奥で冷徹な光を帯びた。
「浅野は自ら落ちたのではない。…屋上で毒を飲まされ、絶命した後、死体となってから犯人の手によって『投げ落とされた』のです」
「なんのために…」
「二十三年前の相沢広乃介と、同じ最期を遂げさせるために…かもしれないですね」
重苦しい沈黙が落ちた。
単なる殺人ではない。
これは、死体という「小道具」を使って、過去の悲劇を再演した狂気じみた演劇だ。
「犯人は、この完璧な一致を作り出すために、何年も、何十年も待っていたのかもしれません、ずっと」
司の脳裏に、壁に描かれた「踊る人形」の暗号が揺らめいた。
過去の因縁、入念な準備、そして残酷な演出。
犯人は、この惨劇を芸術のように、ひとつの『物語』として組み上げている。
関谷が、足元の煙草を、革靴の底でグリグリと踏み消した。
「…上等じゃねぇか。二十三年前の亡霊だか何だか知らねぇが、この帝都で好き勝手な芝居はさせねぇぞ」
関谷の目に、猛禽類のような光が宿る。
「これは一つの仮説ですが」
司が思案気な表情のまま言葉を紡いだ。
「この写真が入っていた封筒。消印をみると局名が浅草七軒町、日付は十一月五日になっています。差出人は無記載、宛名は浅野。この距離だと遅くても翌日には届いていたでしょうから、十一月六日には浅野の手元にあったと思われます。写真の素性と、女性が書いたと思われる『R』。差出人は、この写真の女性か、女性に縁のある人ではないでしょうか」
黙って聞いていた咲が疑念を口にする。
「待って、司さん。仮にこの女性が浅野を殺したとしても、突き落とすのは難しいんじゃない?」
「そう、そこが疑問点。推定五十歳くらいの女性が、浅野の死体を、手すりを越える高さまで持ち上げるのは難しい…いや、無理といっていいし、もし相手が女性なら、浅野が素直に杯を手にしていたとは考えにくい」
「もしかしたら…」
関谷が何かを思い出したかのように言葉を継いだ。
「相沢の息子かもしれねぇな」
「息子?」
司が問う。
「ああ。相沢と琴の間には、一人息子がいた。当時十歳くらいだったはずだ。…今生きていれば、三十は超えてるだろう」
司と咲が顔を見合わせる。
三十代前半の男。
相沢の息子。
その時、表通りから激しい雨音が聞こえ始めた。冷たい冬の雨。
まるで、これから始まる追走劇の幕開けを告げるかのように、激しさを増していく。




