第2話「踊る人形」
三人は階段を駆け下りた。
司の長い足が、段を踏み外しそうになる。咲が後ろから肩を支える。
「司さん、落ち着いて」
「あ、ありがとう」
息を切らしながら、一階へ。
関谷が先頭を行く。革靴がコンクリートの床を踏む音が、狭い空間に響く。
廊下の奥にある扉には、「浅野虎三郎専用楽屋」と書かれた札が掛かっており、その扉の前には警官が一人立っていた。
「開けてくれ」
関谷が短く指示を出した。
◆◇◆◇◆
楽屋は、六畳ほどの狭い部屋だった。
窓はない。天井から吊るされた裸電球が、薄暗い光を投げかけている。
壁際には奇術の小道具が並んでいた。
シルクハット、ステッキ、トランプの束、鳩を隠すための仕掛け箱。
全てが整然と並べられている。
司に続いて楽屋に入った咲が、ある違和感に気づいた。
「妙ね」
「どうしたの?」
「芸人の楽屋にしては、きれい過ぎない?」
咲の言葉に、司も周囲を見渡した。
確かに。
埃一つない。本棚の本も、背表紙が揃っている。机の上も整理されている。
まるで誰かが丁寧に片付けたような。
「ああ」
関谷が頷いた。
「俺が最初に来た時からこうだった」
机の上には、公演のスケジュール表や領収書の束、万年筆などが整然と並べられていた。
「そしてな…」
関谷が部屋の奥へと歩き、北側の壁を指差した。
「やっかいなものとは、これだ」
司と咲が、関谷の視線を追う。
腰の高さあたりに、白いチョークで何かが書かれていた。
棒人間のような図形。
いや、人間というより、人形だ。
手足を持つ小さな人形が、様々なポーズで並んでいる。
腕を上げているもの。横に伸ばしているもの。足を開いているもの。
そして、いくつかは旗を持っている。
全部で二十個ほど。横一列に、律儀に並んでいた。
「これは…」
司の目が見開かれた。
咲も、ハッとした表情を見せる。
「『踊る人形』!」
二人が同時に声を上げた。
関谷が眉をひそめる。
「お前ら、何でそんなにすぐ分かるんだ?」
「だって、これは有名だもの」
咲が壁に近づく。
「コナン・ドイルの短編。『踊る人形』よ」
「ドイル…あの、ホームズの?」
「そう」
司も壁の前に立った。眼鏡越しに、一つ一つの人形を観察する。
「1903年に発表された短編ですよ。ホームズシリーズの中でも、暗号トリックの傑作として知られてる」
◆◇◆◇◆
司の声が、本を語る時の弾んだトーンになる。
「舞台はイギリスの田舎。ヒルトン・キュービットという地主が、ホームズに相談に来るんだ」
「屋敷の壁に、謎の人形の絵が描かれるようになった。妻のエルシーは、それを見ると怯える」
咲が続ける。
「ホームズは、人形が暗号だと気づいた。ポーズがアルファベットに対応してたのよね」
「そう」
司が頷く。
「腕の角度、足の位置、旗の有無…全てに意味がある。旗を持つ人形は単語の区切りだ」
関谷が腕を組んだ。
「待て。小説のトリックだと?本当に暗号として使えるのか?」
「使えますよ。ドイルが考案したこの暗号は、実際に機能する」
司が壁を見つめる。
「ただし、条件があります。送り手と受け手の両方が『踊る人形』を知っていなければならない」
司の目が鋭くなる。
「つまり、これを書いた犯人は、浅野の読書遍歴を知っており、この暗号を解読できると確信していた」
◆◇◆◇◆
司は手帳を取り出した。
ページを開き、壁の人形を一つ一つ書き写していく。
咲も横から覗き込む。
「司さん、暗号表、覚えてるの?」
「何度も読んだからね」
司がペンを走らせる。
最初の人形。両腕を真っ直ぐ上に伸ばしている。
「これは…T」
手帳に、アルファベットのTを書く。
二番目の人形。片腕を横に伸ばし、もう片方を下げている。
「O」
三番目。片腕を上げ、片足を開いている。
「N」
司が、淡々と解読を進めていく。
I、G、H、T。
「TONIGHT…今夜」
次の人形は、旗を持っていた。
八番目からの人形。
T、W、E、L、V、E。
「TWELVE…十二」
また旗。
F、L、O、O、R。
「FLOOR…階」
また旗。
C、H、O、I、C、E。
「CHOICE…選択」
また旗。
O、R。
「OR…または」
最後の旗。
D、I、E。
「DIE…死」
司が手帳を見つめた。
そこには、こう書かれていた。
『TONIGHT TWELVE FLOOR CHOICE OR DIE』
司が顔を上げる。
「今夜 十二階 選べ さもなくば死を」
部屋に、沈黙が落ちた。
関谷が低く唸る。
「呼び出しか」
「そうですね。犯人は、この暗号で浅野を展望台に呼び出した」
咲が疑問を口にした。
「…浅野さんって、英語が読めたの?」
関谷が手帳をめくる。
「ああ。浅野は帝大を出ている。英語を話すこともできたらしい」
「帝大…」
司が呟く。
「それなら納得ですね。この暗号を解読できたわけだ」
咲が首を傾げる。
「でも、なぜ奇術師に?」
「さあな。だが、頭は良かったそうだ」
関谷が肩をすくめた。
「トリックを盗むのも、実に巧妙だったらしい」
◆◇◆◇◆
咲が、部屋の隅にある本棚に目をやった。
「ねえ、見て」
三人が本棚に近づく。
一段目には、奇術の専門書。
だが、二段目以降は探偵小説だ。
司が、その中の一冊を取り出す。
『シャーロック・ホームズの帰還』。
ページをめくると、しおりが挟まっていた。
「『踊る人形』は、この短編集に収録されています」
司がしおりを確認する。
ちょうど、『踊る人形』の冒頭だ。
司は本を本棚に戻した。
「そして犯人は、それを知っていた」
関谷が手帳を開いた。
「浅野虎三郎、52歳。帝大卒業後、奇術師として活動を始めた」
ページに、びっしりと情報が書き込まれている。
「浅草を中心に公演。人気奇術師として名を馳せた」
関谷が顔を上げる。
「だが…」
次のページを開く。
そこには、証言が並んでいた。
「『師匠は私が考えたトリックを、翌日には自分の芸として使っていた』」
「『新作の見学に来て、盗んでいった』」
「『秘伝を盗んで勝手に使った。破門した』」
司が眉をひそめる。
「トリック泥棒ですか」
「ああ。人のアイデアを盗み、自分の名声にする。浅野は、それを繰り返していたらしい」
関谷が手帳を閉じた。
「奇術師の世界じゃ、よくあることだが、最も嫌われる行為だ」
咲が小さく息を吐く。
「恨みを買う理由は、十分ってわけね」
◆◇◆◇◆
司が、暗号の書かれた壁をもう一度見つめる。
「でも、引っかかることがあります」
「何だ?」
「なぜ浅野は、この呼び出しに応じたのでしょう?」
司は考え込むように眉を寄せた。
「これは明らかな脅迫ですよ。普通なら警察に届けるはずだ」
関谷が頷く。
「…届けはなかったようだ」
「危険を感じたなら、警察に頼る方が合理的ですよね」
司が楽屋を見回す。
「それなのに、一人で展望台に行った。何か…応じざるを得ない理由があったんじゃないでしょうか」
関谷が机を指差す。
「異様に整理されてることにも理由があるのかも」
「証拠隠滅?」
「可能性はある」
司が机に近づく。
「もう少し、調べてみよう」
◆◇◆◇◆
三人は、楽屋を隈なく調べ始めた。
司は本棚。
一冊一冊、丁寧に手に取る。
いくつかの本には、メモが挟まっていた。トリックのアイデアを書き留めたもの。
だが、決定的なものはない。
咲は衣装箱。
蓋を開けると、奇術用の衣装が畳まれている。
黒いタキシード、白いシャツ、赤いマント。
全て、整然と畳まれている。
「几帳面な人だったのかな」
咲が呟く。
関谷は机の引き出しを探したが、見事に空だった。
関谷が引き出しを閉めた時に、異質な軽い音がした
少し、浮いているような。
関谷が再び引き出しを開け、底を叩いてみる。
コツ、コツ。
音が違う。
「おい」
関谷が二人を呼ぶ。
「引き出しの底、二重になってるぞ」
咲が駆け寄り、引き出しを覗き込んだ。
木製の底板。だが、わずかに隙間が見える。
「何か、挟まってる」
咲が細い指を差し込み引っ張ると、底板が、わずかに持ち上がった。
その下には、差出人不明の一通の、開封済みの封筒が隠されていた。
咲は、自分では確認せずに司に渡した。
封筒に入っていたのは一枚の写真だった。
「これって…」




