第1話「緋色の予兆」
あれから一年。
大正十年十一月十日。本郷・団子坂の空気は、剃刀の刃のように冷えていた。
六日前に東京駅で起きた原敬首相暗殺事件の余波は、未だ帝都の喉元を締め付け続けている。
十五日後に控えた皇太子殿下の摂政宮御就任を前に、街には号外売りの鈴の音と、殺気立った警吏たちの硬い靴音とサーベルのガチャつく音が絶えなかった。
鉛色の空からは、今にも白いものが落ちてきそうだ。
そんな帝都の憂鬱をよそに、古書店「藍峯堂」の店内は、古紙とインク、そして防虫用の樟脳の匂いで満たされ、静謐な時を刻んでいた。
「…無用の業には手を染めず、必須の務めは電光石火。…ホームズ先生なら、この八方塞がりの日本をどう評するだろうね、嘉一郎じいさん」
店主である藤平司は、薄暗い天井近く、書架に掛けた高い梯子の上で独り言ちた。
六尺(約182cm)の巨躯を猫背に丸め、セルロイドの丸眼鏡越しに洋書を読み耽っている。
手にしているのは、コナン・ドイルの『緋色の研究』。
亡き祖父・嘉一郎が遺した膨大な「知の迷宮」だけが、彼にとって唯一、息の吸える場所だった。
当時の日本家屋は、六尺の彼にはあまりに狭すぎる。鴨居に頭をぶつけないよう縮こまるのが癖になり、その痩躯の背中は常に頼りなげな弧を描いていた。
ガラガラッ!
静寂を豪快に蹴散らし、格子戸が開いた。
入り込んできたのは、冬の低い日差しよりも眩しい、圧倒的な「陽」の気配だ。
「つーかーさーさーん!またそんなカビ臭いところで、ロダンの『考える人』みたいな顔して!」
咲・エヴァンス。
英国大使の父と日本人の母を持つ、十九歳の美姫である。
五尺四寸五分(165cm)という、当時の女性としては破格の長身。それを包むのは、流行の先端を行くナイトブルーのサック・ドレスだ。上から羽織ったキャメルのウールコートが、彼女が動くたびに軽やかに揺れる。
鳶色の瞳が、梯子の上の司を捕らえて悪戯っぽく輝いた。
「咲さん、声が大きいよ。ここは書店だ、静かに…うわっ!」
咲の勢いに気圧されたか、あるいは単に運動神経が欠落しているせいか。司の足が、梯子の桟を踏み外した。
視界が反転する。
世界がスローモーションになる。
六尺の巨体が、重力に従って無様に落下していく。
下には積まれた本の山。
このまま落ちれば、本雪崩に巻き込まれ、あちこちの骨を折る未来が確定していた。
――痛いのは嫌だな。
司が目を閉じた、その瞬間。
ヒュッ、と鋭い風切り音がした。
咲が踏み込んだのだ。
彼女はサック・ドレスの裾を翻し、落下点の直下へと滑り込む。華奢に見える腕が、落ちてくる司の腰と背中を的確に捉えた。
衝撃音はしなかった。
咲は司に触れた瞬間、その場でくるりと一回転した。
遠心力と円運動。
司の落下のエネルギーを、まるで柳の枝が雪を払うように横方向へと受け流す。
トン、と軽い音だけを残し、司は畳の上に無傷で着地させられていた。
「…相変わらず、鮮やかだね。大東流合気柔術」
司は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、乱れた羽織を直した。心拍数は上がったままだが、表情だけは平静を装う。
「司さんが危なっかしいからよ。もう少し、自分の体の大きさを自覚したら?まるで、上野にいる生まれたてのキリンみたい」
「キリンは言い過ぎだ。僕はただ、重力と和解できていないだけだよ」
咲は腰に手を当てて快活に笑った。
その笑顔には、当時の日本人女性に求められた「慎ましさ」など微塵もない。それでも、不思議と嫌味がないのは、彼女の育ちの良さと、何よりその「強さ」が裏打ちする包容力のせいだろう。
彼女の母は、あの大東流合気柔術の達人・植芝盛平の妹。
咲の体には、東洋の武と西洋の美が同居していた。
「それで、今日はどうしたんだい?カフェー・プランタンは休み?」
「ええ。だから司さんを外に連れ出してあげようと思って。ずっと本ばかり読んでると、本当に本になっちゃうわよ」
「それはそれで本望だけど…」
司が言いかけた時、店の外に一台の人力車が急停車した。
ジャリッ、と車輪が石畳を削る音が、店内の空気を一変させる。張り詰めた、焦燥の音だった。
「司、いるか!」
低い声。そして、安煙草の匂いが店内に流れ込んだ。
現れたのは、よれよれの背広を着た中年の男だった。ハンチング帽を目深に被り、三日は風呂に入っていないような疲れた顔をしている。
関谷警部。本郷警察署捜査課の、叩き上げの刑事だ。
「関谷さん。珍しいですね、こんな朝早く」
司が眼鏡を押し上げた。
「おう、咲さんも来てたのか。…ちょうどいい」
関谷は懐から折りたたんだ新聞を取り出し、司に差し出した。乱暴に畳まれた朝刊だ。三面記事に、赤鉛筆で丸がつけてある。
「これを見てくれ。今朝の新聞だ」
司が新聞を広げる。咲も横から覗き込んだ。
『浅草十二階で奇術師転落死 八日夜、凌雲閣展望台にて人気奇術師・浅野虎三郎(52)が転落。即死と見られる。警察は事故死として処理。遺書等は発見されず』
短い記事だ。社会面の片隅に、申し訳程度に載っているだけ。
「…事故、ですか」
司が関谷を見た。
「ああ。本庁はそう結論づけた」
関谷は懐から「チェリー」の箱を取り出し、一本くわえたが、火をつけるのは思い留まった。咲の視線が「店内で吸ったら投げ飛ばす」と語っていたからだ。
「原首相の件があったばかりだ。本庁は思想犯の捜査で手一杯。芸人一人の転落事故なんぞ、誰も気にしちゃいねぇ」
関谷は苦々しげに吐き捨てた。
「だが…俺の勘が違うと言ってやがる」
「どういうことです?」
「妙なんだよ、色々と」
関谷は煙草を箱に戻した。
「事故にしちゃ、おかしい点がある。だが、証拠がねぇ。目撃者も『一人で転落した』と証言してる」
司は新聞記事をもう一度読み直した。活字の向こう側に、何かが潜んでいる気配がする。
「関谷さん、現場を見せてください」
「おお、来てくれるか」
関谷の顔に、わずかに安堵の色が浮かんだ。
「お前は本の虫だが…いや、本の虫だからこそ、見えるものがあるはずだ」
司はインバネスコートを羽織りながら、咲に向き直った。
「咲さん、外出の誘い、まだ有効かな?」
「もちろん」
咲が立ち上がる。
「危ないかもしれないよ?」
「だからこそよ。司さん一人じゃ、危なっかしくて」
咲は悪戯っぽく笑い、そのやりとりを見ていた関谷が笑い声をあげた。
「違いない。じゃあ、三人で行くか」
◆◇◆◇◆
人力車を二台連ね、一行は浅草へと向かった。
団子坂から浅草までは、市電を乗り継いでも一時間近くかかる。だが関谷は警察の特権を使い、交差点で優先的に通してもらった。
車夫が石畳を蹴る音が、リズミカルに響く。
やがて、視界に巨大な塔が現れた。
凌雲閣。通称、浅草十二階。
高さ五十二メートル、帝都で最も高い建造物だ。
煉瓦造りの八角形の塔。展望台からは東京を一望できる、帝都随一の観光名所である。
だが今朝は、入口に警官が立ち、立入禁止の札が下がっていた。
「警視庁刑事部の関谷だ。通してくれ」
関谷が警官に声をかけると、警官は姿勢を正して敬礼し、道を開けた。
一階のロビーは、普段なら観光客で賑わっているはずだが、今は人っ子一人いない。閑散とした空間に、三人の足音だけが響く。
正面には、使用停止中のエレベーター。鉄格子の扉の前に『使用停止』の立て札が寂しげに立っている。
鳴り物入りで導入されたエレベーターだったが、わずか半年ほどで「危険である」との理由から警察の命令により使用停止になっていた。
関谷は脇の階段へと向かった。
「十二階まで登るぞ」
狭い螺旋階段が、暗い上方へと続いている。
壁は煉瓦で、ひんやりと冷たい。
関谷が先頭に立って登り始める。
司の長い足が、階段の幅に窮屈そうだ。頭上の天井も低い。背を丸めながら、一段一段を慎重に登る。
三階、四階。
咲は軽やかに登っていく。息も乱れていない。
だが司は、すでに額に汗が滲んでいる。
「司さん、大丈夫?」
「う、うん…本を読むのは得意だけど、階段は苦手でね」
六階、七階。
司の呼吸が荒くなってくる。
関谷が振り返る。
「おい、司。お前、もっと体を鍛えろ」
「本を…読むのに…体力は…いらないんです」
十階。
司が壁に手をついて、呼吸を整える。
「少し…休ませてください」
「仕方ねぇな」
関谷が煙草を取り出そうとして、咲に睨まれてやめた。
一分ほど休憩。
「…行きましょう」
司が立ち上がる。
十一階、十二階。
そして、最後の扉を開けると、秋の冷たい風が、顔を叩いた。
鉄製の柵で囲まれた屋外スペース。東西南北、帝都の街並みが一望できる。
東には隅田川の流れ。南には東京駅の煉瓦屋根。西には富士山の雪を頂いたシルエット。北には上野の森。
風だけが虚しく吹き抜けており、常ならいるはずの観光客は誰もいなかった。
関谷が展望台の北側へと向かうと、コンクリートの床を踏む音が響いた。
「ここだ」
手すりが一部、歪んでいた。
よく見ると、手すりがわずかに外側に曲がっている。相当な力がかかったのだろう。塗装が剥げて塗り直された箇所もある。
「一昨日の夜、午後十時頃、浅野虎三郎はここから転落した。目撃者は、たまたま居合わせた観光客二名」
関谷の手帳には、走り書きがびっしりと並んでいた。
「証言によれば、『一人で手すりに寄りかかっていたら、突然体勢を崩して落ちた』と。酒臭かったという証言もある」
「それで事故死、と」
「ああ。特に不審な点はないとされた。本庁の連中は、現場検証もそこそこに『事故』の判子を押しやがった」
司が手すりに近づき、手すりの部分を観察する。
「…爪で引っかいたように塗料が剥がれている」
「ああ。俺も気づいた」
司はしゃがみ込み、手すりの根元を調べた。眼鏡越しに、床面をじっくりと観察する。
しかし、特に目立つものはなかった。
「…手がかりは、これだけですか」
「いや。もう一つある。俺が現場を見た時、ちょうどこの辺りに妙なものがあった」
関谷が、手すりの根元から少し離れた場所を指差す。
「二つの小さな杯だ。陶器製の、奇術に使うような小道具」
咲が身を乗り出す。
「杯?」
「ああ。直径一寸五分(約4.5cm)ほどの、飾り気のない白い杯が二つ、並んで置いてあった」
関谷は手帳の走り書きを見ながら続ける。
「一つは空。もう一つには、わずかに液体が残っていた。すぐに押収して、鑑識に回した」
「結果は?」
「青酸カリだ」
司と咲が同時に息を呑む。
「もう一つの空の杯は…内側にただの水の痕跡が残っていただけだった」
司は、関谷が指差した場所をじっと見つめた。
「一つは毒。一つは無害。これは『選択』を迫られたということでしょうね」
司は立ち上がり、風に吹かれながら遠くを見た。
「関谷さん、咲さん。これは…『緋色の研究』だ」
「あ!」
咲が目を見開いた。
「二つの薬のトリック!」
「そう。犯人ジェファーソン・ホープが使った手口だ」
司は説明を始めた。その声は、本を語る時の司特有の、わずかに弾んだトーンになっている。
「コナン・ドイルの名作。シャーロック・ホームズの最初の事件。犯人は復讐相手に二つの薬を差し出した」
咲が言葉を継いだ。
「一つは毒。一つは無害。どちらかを選べと迫ったのよね」
「ええ。それは神への祈りであり、運命への挑戦だった」
風が、司のインバネスコートの裾を揺らす。
「浅野虎三郎もまた、この選択を迫られたんじゃないでしょうか。そして…運悪くか、そう仕向けられてかはわからないけど、結果的に毒を選んだ」
関谷が唸る。
「じゃあ、これは他殺か」
「まだ断定はできません。ですが、少なくとも、単なる転落事故ではない」
司は展望台の手すりに近づいた。
「青酸カリなら、効果が出るまで数秒から数十秒です。毒を飲んだ直後に、激しい苦痛が襲う。呼吸困難、痙攣…」
司が手すりの傷を指先で撫でる。
「これは、苦しみながら何かに縋ろうとした痕だ。そして、力尽きて転落した」
咲が顔を曇らせる。
「問題は、誰がこの杯を置いたかです」
司は周囲を見渡した。展望台は広くない。隠れる場所もほとんどない。
「目撃者は『虎三郎は一人だった』と証言している。では、犯人はいつ、どうやって杯を置いたのでしょうね」
関谷が腕を組む。
「事前に仕込んでおいたとか?」
「可能性はあります。ですが…」
司が関谷を見た。
「関谷さん、杯を発見した時、杯の状況はどうでしたか?埃は?汚れは?」
「ああ。杯は綺麗だった」
「では、犯人は浅野が来る直前に、ここに杯を置き、選択をさせた後、姿を消した…あるいは」
司の目が鋭くなる。
「最初から姿を見せなかったのかもしれません」
「どういうことだ?」
「まだ仮説ですが…犯人は浅野に、ここへ来るよう指示を出した。『展望台の北側に、杯が二つ置いてある。どちらかを選べ』と」
司は深く息を吐いた。
「これは単なる殺人じゃない。演出された殺人です」
その言葉が、冷たい風に乗って消えていく。
「…やっぱり、お前を連れてきて正解だったな。実はな、もう一つやっかいなものがあるんだ」
咲が怪訝そうな顔をした。
「関谷さん…試しました?」
関谷は、バツが悪そうに苦笑した。
「一階の楽屋だ。いくぞ」
三人は階段を駆け下りた。




