第9話「沈黙の時限」
大正十年、十一月二十三日。
帝都・東京は、二日後に控えた、摂政宮御就任という宮中儀式を前に静まり返っていた。
大正天皇の御不例(ご病気)に伴うこの儀式は、決して華やかな祝祭ではない。原敬首相の暗殺からまだ日も浅く、街にはどこか喪に服すような重苦しさと、これから国の舵取りを担われる皇太子殿下への静かな敬意だけが漂っていたのだ。
世間のそんな雰囲気をよそに、団子坂の藍峯堂には久しぶりの穏やかな空気が流れていた。
「司さん、またポーを読んでるの?売り物の背表紙をこんなに丸くして。あ、『モルグ街』か」
「そう、やっぱり気になってね。これさ、目撃者たちが犯人の声を『聞き慣れない外国語だ』と思い込むって、単なるトリックではなく、人間が抱く『思い込み』という名の監獄を描いているんだなと改めて思ってね」
「監獄か…確かにそうかも。物理的にであれ、精神的にであれ、他者から強制されることもあるだろうし、自ら進んで入ることもある。人の目の前には、たくさんの監獄がぶら下がっているのかもね。私も司さんがいなかったら、監獄みたいな生活だったかもしれないなあ」
意味ありげな咲の一言は、司の疑念を誘ったが、もう一つの心配事が先にたった。
「そういえば咲さん、毎日のようにここに来てて、親御さんは心配してないの?」
「…今は大丈夫かな。パパは忙しすぎだし、ママは良い意味で放任主義だから、司さんのところに来ている分には心配していないみたい。…というか、今更、そんなことが心配になったの?」
司は、バツが悪そうに頭をかいた。
「…まあ、一応ね。未婚のうら若い女性が頻繁に外出していると、親御さんはあらぬ疑いを持つんじゃないかなと思って」
咲は、あごに指をあてて少し考えていたが、突然、艶やかな華のような笑顔を見せた。
「あら!じゃあ、結婚してくれてもいいのよ?」
「え!?ゲホッ…」
司は盛大にむせた。顔も赤くなっている。
「こ、こら!大人をからかうんじゃありません!」
「えー、別にいいのに…」
咲の小声に重なるように、店の戸が開けられた。
「司!いるか?」
「関谷さん!」
関谷の来訪とともに、湿った土の臭いが持ち込まれた。
関谷警部が、帳机の上にドサリと音を立てて資料を投げ出したからだ。
「地下に潜ったことでいろいろわかったぞ」
関谷の姿は凄惨だった。上等の背広は泥と汚水で変色し、顔は煤と脂汗で黒ずんでいる。目は充血し、徹夜明けの疲労が色濃く滲んでいた。
関谷は、咲が出した茶を礼を言ってから一息に飲み干した。
「市役所の資料室をひっくり返しても、地図なんて出てきやしなかった。…だから、潜ったんだ。古参の土木技師と、手の空いてる連中(警官)を引き連れてな」
関谷は、一枚のスケッチを広げた。
それは綺麗な図面ではない。泥にまみれた紙に、震える手でインクを走らせた、生々しい手書きの地図だった。
「京橋の例の古井戸から入ったが、中は迷路だ。江戸時代の水路、古井戸、明治初期の煉瓦造りの下水道…。奴らはそれらを無理やり繋ぎ合わせて、一本の道にしてやがった」
関谷は苦々しげに語る。
「足元は腐ったヘドロ、頭上からは崩れかけた煉瓦。ガスに怯えながら、カンテラの明かりだけを頼りに進んだ。…生きた心地がしなかったぞ」
そうして描かれた赤い線。
京橋から始まり、数寄屋橋の地下を抜け、日比谷の湿地帯の下を這うように伸びる歪な線。
その終着点は、祝田町。
宮城(きゅうじょう:皇居)の目の前であり、皇太子殿下の参内経路の真下だ。
「そしてな、最奥部には、とんでもない物があった」
関谷が一枚の写真を放る。
漆黒の闇の中で、強烈な光が浮かび上がらせたもの。
それは、天井に設置された、束ねられた筒のような塊だった。
その中央には、精巧な時計仕掛けの装置が鎮座している。
写真を見た瞬間、司が目を見張った。
注目したのは、爆弾そのものではない。
「…関谷さん。この時計…」
「ああ。気づいたか」
「暦機能付きじゃないですか!しかも、この装飾…スイス製の高級品だ。こんなものを使い捨ての時限装置に使うだなんて」
犯人の資金力と、計画への異常な執着が透けて見える。
「ああ、家が買える代物だ。それにダイナマイトがくくりつけてあった」
「…どうされたんです?」
「爆弾ともなると、我々警察の手には負えん。赤羽の工兵第一大隊に泣きついて、専門の将校に来てもらった」
警視庁には、爆発物処理の専門部署は存在しない。それは軍の領分だ。
爆弾という、未知の脅威を前に、関谷たちが味わった無力感と恐怖が察せられた。
「工兵たちの鑑定によれば、設定されていた時間は――」
関谷は唾を飲み込んだ。
「十一月二十五日、午前十時五分」
その時間に想定される惨劇を皆が想像し、沈黙が広がった。
「…暦機能付きなら、数日前に仕込んでおけば、あとは勝手に大惨事が起きる。…工兵たちが処理してくれたから良かったものの、一歩間違えれば帝都の心臓部が吹き飛んでいた」
関谷は安堵の息を吐き、椅子に背を預けた。
「あとは、この事実を公表して、当日の経路を変更すれば…」
「待ってください、関谷さん」
司が静かに、だが鋭く制止した。
「公表してはいけません。経路変更も、絶対にしてはならない」
関谷が眉をひそめる。
「なんだと?危険がないことを知らせるべきだろう。それに、万が一ということもある」
「公表すれば、敵は、計画が露見したと知ります」
司は眼鏡の奥の瞳を光らせた。
「彼らが逃げるだけならまだいい。ですが、相手はあの脚本家です。計画が潰れたと知れば、即座に『代案』を実行に移すでしょう」
「代案?」
「ええ。狙撃か、毒物か、あるいは別の場所での襲撃か。…計画を変更されれば、次に何が来るか、我々は全く読めなくなります。未知の脅威は、既知の脅威より遥かに恐ろしい」
関谷がハッとして黙り込む。
「今のままなら、我々は敵の手札を知っています。時限爆弾による爆破。…これが奴らの唯一の脚本だと思い込ませておく必要があります」
「…つまり、爆弾は撤去したが、まだそこにあるフリをしろと?」
「そうです。沈黙を守ってください」
司は続けた。
「そして、この沈黙こそが、実行犯を炙り出す罠になります」
司は、関谷と咲を真っ直ぐに見据えた。
「当日、午前十時五分。…犯人は、その瞬間に爆発が起きると信じています」
「だが、実際には起きない」
「ええ。訪れるのは、爆音ではなく静寂です」
司の推論が進む。
「予定された大爆発が起きず、静寂が続いた時…それを見届けるために現場にいる人間は、必ず狼狽します」
「現場にいる人間?時限式なら、犯人は遠くに逃げているんじゃないか?」
「いいえ。爆弾はあくまで、きっかけに過ぎません」
司は断言した。
「銀座の実験を思い出してください。強烈な情報の裏で、人間は透明になる。…爆発による混乱は、本命の刺客が標的に近づくための認識の死角を作るための装置です」
咲が青ざめる。
「まさか…爆発で警備が混乱した隙に、直接手を下すつもりなの?」
「恐らくは。そうでなければ、これほど手の込んだ演出をする必要がない」
司は続けた。
「当日の祝田町周辺は、一般人は排除され、沿道は警官隊で埋め尽くされているはずです」
「ああ。蟻一匹通さねぇ」
「では、その状況下で、唯一、そこにいても誰も怪しまない人物とは誰ですか?」
関谷の顔色が、さっと変わった。
血の気が引き、脂汗が滲む。
「…おい。まさか」
「はい。この状況下における透明人間。それは…制服を着た警察官です」
沈黙が落ちた。
あまりに恐ろしい、しかし論理的な帰結。
「変装した偽物か、あるいは脚本家に思考を誘導された本物の警官か。いずれにせよ、敵はあなたの部下や同僚の中に紛れている。彼らは、十時五分の爆発を合図に、混乱に乗じて動くつもりだ。しかも、十中八九、複数でしょう」
司は結論を告げる。
「しかし、時間は来ても爆発は起きない。…覚悟を決めていた暗殺者は、必ず動揺します。時計を見たり、キョロキョロと周囲を見回したり…必ず、不自然な挙動を見せる」
無言の環境下での意思の疎通は、視線や手信号、あるいは伝令に頼るしかないのだ。焦れば焦るほど、その動きは目立つ。
関谷は拳を握りしめ、ギリリと歯噛みした。
「…身内に裏切り者がいるかもしれねぇってのか。上等だ」
関谷の目つきが変わった。刑事の目ではなく、指揮官の目だ。
「司、お前の言う通りだ。公表はしない。…その代わり、極秘裏に、警官を見張るための警官を配置する」
「それが最善です」
「信頼できる身内と、他管轄の刑事を総動員して、沿道の警務警官の背後に張り付かせる。…十時五分、動揺を見せた奴がいれば、即座に拘束する」
関谷は帽子を被り直した。
「礼を言うぞ、司、咲さん。ここから先は戦争だ。民間人はすっこんでな」
「…ええ。お任せします」
司は静かに頷いた。
謎は解いた。策略も授けた。
あとは、専門家たちの仕事だ。
「吉報を待っていてくれ」
関谷は短く言い残し、足早に店を出て行った。
その背中は、泥と煤にまみれながらも、帝都を守る防人の矜持に満ちていた。




