「倫敦の迷い子と団子坂の書痴」
大正九年、十月。
秋晴れの帝都・東京は、空前の「カフェー・ブーム」に沸いていた。
銀座、京橋、そしてここ銀座四丁目のカフェー・プランタン。
珈琲の香ばしい匂いと、洋酒の甘い香り。そして白エプロンを着けた女給たちの笑い声が、新しい時代の到来を告げている。
「いらっしゃいませ!ブラジル・コーヒー二つですね?」
店内を蝶のように舞う一人の少女がいた。
咲・エヴァンス、十八歳。
他の女給たちが華やかな着物にフリルのエプロンを着けているのに対し、彼女だけは店主の許可を得て、紺色のシンプルなワンピースに白いエプロンという洋装姿だ。
輝くような栗色の髪をボブカットにし、その大きな鳶色の瞳は、客たちの視線を一身に集めている。
「外国育ちのお嬢さんに着物は窮屈だろう」
そう言ってマスターが許可した洋装は、かえって店の「モダン」な看板となっていた。日本人離れした手足の長さと、洗練された身のこなし。
彼女はこの店の看板娘であり、同時に店一番の「問題児」でもあった。
「咲ちゃん!またそんな高いところのグラスを取って!脚立を使いなさい!」
「平気よ、マスター。これくらい届くもの」
咲は爪先立ちで棚の上のグラスを軽々と取ると、クルリとターンしてカウンターに着地した。
彼女にとって、このカフェーは単なる職場ではない。
麹町区一番町にある堅苦しい「大使公邸」から逃げ出し、生の人間たちが交差する「自由」の空気を吸える、唯一の聖域だった。
その時、店の外で騒がしい音がした。
見ると、黒い背広を着た大柄な男たちが数人、咲を指さしあわてているのだ。
客たちがざわめく。
咲は一瞬で表情を消し、舌打ちをした。
(…チッ、もう見つかったの?)
彼女はトレイを同僚に押し付けると、厨房の裏口へと走った。
「ごめん、早退するね!」
「ちょ、咲ちゃん!?」
エプロンを外し、裏路地へ飛び出す。
彼女の正体――それは、駐日英国特命全権大使ウィリアム・エヴァンスの一人娘。本来なら深窓の令嬢として、夜会で扇子を使っているべき身分なのだ。
だが、そんな退屈な生活は御免だった。
「捕まってたまるもんですか!」
咲はハイヒールで石畳を蹴り、迷路のような帝都の路地裏へと消えていった。
◆◇◆◇◆
一時間後。本郷区・団子坂。
銀座の喧騒から逃れ、適当な電車と人力車を乗り継いだ咲は、見知らぬ町に迷い込んでいた。
すれ違うのは書生ばかりで、カフェーの華やかさとは無縁の墨と古紙の匂いがする。
「…どこよ、ここ」
咲は溜息をついた。
追手は撒いたが、お金も全部使いきったし地図もない。あるのは好奇心と、少しの空腹だけ。
ふと、一軒の古びたお店が目に留まった。
『藍峯堂』という看板。
引き戸は開け放たれ、中には天井まで届く本棚が見える。
何かに引かれるように、咲はその敷居を跨いだ。
「ごめんください」
返事はない。
店内は薄暗く、静謐な空気が満ちていた。
書棚には、和書に混じって、珍しい洋書が並んでいる。ディケンズ、ポー、そしてコナン・ドイル。
「へえ…いいセンスしてるじゃない」
公使館の堅苦しい応接間でも、カフェーの喧騒でもない、静かで穏やかな時間が流れている。
咲が『二都物語』の背表紙を指でなぞっていると、頭上から声が降ってきた。
「…『二都物語』が好きなら、その隣の『大いなる遺産』もおすすめだよ」
「え?」
見上げると、高い書架に架けられた梯子の上に、一人の青年が座っていた。
丸眼鏡に、黒い着流し。そして何より目を引くのは、その体を折りたたむようにして座っている、異様なまでの手足の長さだ。
青年は本から顔を上げ――
一瞬、動きが止まった。
だが、それは、日本に来てから咲が慣れてしまった「あの視線」ではなかった。
驚きではある。だが、好奇でも値踏みでもない。
まるで、予約していない客が突然来店した時のような、純粋な「意外性」の驚きだった。
そして次の瞬間には、青年は何事もなかったかのように眼鏡を押し上げ、淡々と言った。
「いらっしゃい。…珍しいね、こんな場所にお嬢さんが来るなんて」
咲は思わず、キョトンとした。
(…え?)
それだけ?
髪の色は?目の色は?どちらの国の方ですかという常套句は?
いつもなら必ず向けられる、あの遠慮がちな、あるいは露骨な好奇の視線は?
何もない。
「お嬢さんじゃないわ。…ただの、迷い子よ。あなたは?」
咲は強がって見せた。
「僕は、藤平司。一応、ここの店主」
司はパタンと本を閉じ、梯子を降りてきた。
立ち上がると、その背の高さに圧倒される。六尺(180cm超)はあるだろう。
「私は、咲・エヴァンス…」
「咲さんか…ディケンズが好きなのかい?」
「…え、ええ。好きよ。パパの書斎にあったから、小さい頃から読んでて」
「へえ。いいお父さんだね」
司は、心から感心したように頷いた。
その反応が、あまりにも自然で、普通で、普通すぎて咲は戸惑った。
この人は私を見ていない。
いや、見てはいるのだろうが「外国の娘」として見ていない。
ただの、本好きの客として当たり前に接している。
「あの、私――」
咲が何か言いかけた時、店の外の通りがにわかに騒がしくなった。
怒号と、複数の足音。
そして、藍峯堂の入り口に、一人の男が転がり込んできた。
「おい!そこの女!動くな!」
現れたのは、よれよれの背広を着た刑事だった。
「はぁ…はぁ…!やっと追い詰めたぞ、こそ泥め!」
刑事は荒い息を吐きながら、咲を指差した。
「はあ?こそ泥ですって?」
「とぼけるな!さっき、近所の華族様のお屋敷から懐中時計を盗んで逃げた女がいるって通報があったんだ!『洋装の派手な女』だとな!」
咲は自分の服を見た。
紺色のワンピース、最新流行のモダンガール・ファッションだ。確かにこの界隈では浮いている。
「冗談じゃないわ!私は今来たばかりよ!」
「問答無用!署で話を聞く!」
関谷が手錠を取り出し、咲の腕を掴もうとする。
咲の目がすっと細まった。
大東流合気柔術の心得がある彼女にとって、この程度の刑事を投げるのは造作もない。
右足を引き、重心を落とす。迎撃の構え。
「お待ちなさい」
静かな、しかしよく通る声が、一触即発の空気を割った。
司だった。
彼は本棚の陰からぬっと現れ、その巨体で男と咲の間に割って入った。
「やあ、関谷さん。久しぶりですね。父の葬儀以来かな」
「あ?…おお、司か!こんなとこで何してやがる、邪魔だ!」
「邪魔じゃありませんよ。あなたは今、冤罪を作ろうとしている」
司は冷静に、咲の肩に手を置いた。
「この女性は犯人ではありませんよ」
咲は驚いて司を見上げた。
この人は――私を、信じてくれるの?
初対面なのに?
私の見た目が「怪しい」と言われているのに?
咲は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
この人は――
私の髪の色も、目の色も、話題にしなかった。
「どこの国の方ですか」とも聞かなかった。
ただ、本の話をして、そして今、私を疑わずに守ろうとしている。
私を「混血の娘」としてではなく、「一人の人間」として扱ってくれた初めての人だ。
(…この人、面白い)
咲の唇に、小さな笑みが浮かんだ。
その咲の感慨を破るように、再び怒号がわきおこった。
「何言ってやがる!目撃証言と一致してるんだぞ!洋装の女がこの路地に逃げ込んだのは間違いないんだ!ここにはこの店しかない。他に誰がいるってんだ!」
「『洋装の派手な女』。…その証言が正しいとしても、彼女ではありません」
司は溜息をつき、咲の足元を指差した。
「見てください、関谷さん。彼女の靴を」
「靴?」
「ハイヒールです。銀座の舗装路ならともかく、この団子坂の砂利道を全速力で逃げてきたなら、ヒールにはもっと傷がたくさんついているはず」
関谷が唸る。
「逃走経路が表の砂利道でないとすれば、裏の藪道だ。そこを通ったならば、オナモミ(ひっつき虫)の一つもついていなければおかしいし、靴は泥や草まみれだ。…彼女は表通りから、迷いながら歩いてきたんですよ」
「だ、だがな!」
関谷は食い下がる。
「ええ。関谷さんも間違ってはいませんよ。犯人は『ここ』にいます」
司はさらりと言ってのけた。
「えっ…?」
咲が驚いて司を見る。
司は申し訳なさそうに頭をかいた。
「実はついさっきまで、鍵を開けたまま外にでていたんですよ。その間に、犯人は、この店に入ったんじゃないかな。でも、人間が隠れる場所なんて、この狭い店内にはない」
司はゆっくりと歩き、床に落ちていたオナモミを拾ってから、天井に視線を向けた。
「店内にはね。…でも、上ならどうでしょう」
全員の視線が、天井近くの梁に向けられた。
そこには、古書を縛って吊るしておくための太い紐がぶら下がっている。
その紐の先に、一つだけ、人間一人が入りそうなほど巨大な風呂敷包みがあった。
「おやおや、よくあんなとこに入り込んだものだ。…あの結び目から見えている布切れ。随分と派手なレースですね」
司が梯子をすぐ近くにかけ直す。
関谷が慌てて駆け上がり、その風呂敷を引きずり下ろした。
ドサッ!
包みが解け、中から転がり出てきたのは――小柄な男だった。
いや、ただの男ではない。
毒々しいほど鮮やかな赤いドレスを無理やり着込み、金髪のかつらを被った、厚化粧の中年男だ。
「うわぁっ!?」
男は悲鳴を上げ、脱兎のごとく逃げ出そうとする。
その姿は滑稽だが、動きは素早い。
「この…女装野郎が!」
関谷が掴みかかろうとするが、男は小柄な体を活かして関谷の股下をすり抜けた。
だが、その先には咲が待ち構えていた。
「レディのふりをして悪事を働くなんて許せない!」
咲はドレスの裾を翻し、男の足を払う。
つんのめった男の背中に、彼女はヒールのかかとを容赦なく落とした。
「ぐえっ!」
男はあえなく失神した。
その懐からは、盗まれた金時計がジャラリとこぼれ落ちた。
「…これだ」
関谷が呆然と呟く。
司はパチパチと手を叩いた。
「なるほど。小柄な体を活かして女装し、油断させて盗みを働く。『派手な洋装の女』という証言は正しかったわけだ。…でも、逃げ場を失って隠れる時、ドレスを脱ぐ時間がなかったのが運の尽きでしたね」
司は、咲に目線を向けた。
「お見事。…でも、もう少し優しくしてあげてもよかったんじゃないかな?」
「あら、これでも手加減したのよ」
咲は乱れた髪をかき上げ、ニカっと笑った。
その笑顔に、司は一瞬、言葉を失った。
本の中のどんなヒロインよりも、目の前の彼女は鮮烈で、生き生きとしていたからだ。
「…あの」
咲が恥ずかしそうに視線を逸らした。
「ありがとう。信じてくれて」
「え?」
「私、いつも…髪の色とか、目の色とか、そういうので判断されるの。『珍しい』とか『綺麗』とか『異国風』とか。でも、司さんは違った」
咲はまっすぐに司を見た。
「私が何を読むか、聞いてくれた。それだけで、嬉しかった」
司は困ったように眼鏡を押し上げた。
「いや、僕は別に…ただ、本の話の方が、髪の色の話より面白いと思っただけで」
「ふふ、それよ。それが嬉しいの」
咲の笑顔が、店内を照らすように明るかった。
「ねえ、司さん。また来ていい?」
「え?ああ、もちろん。…お客さんは、いつでも歓迎だよ」
「お客さんじゃなくて、友達として」
「友達…」
司は戸惑ったように言葉を繰り返した。
彼にとって、友達は本だけだった。
人間の友達など、考えたこともなかった。
「だ、ダメかな?」
「いや、ダメじゃない。むしろ…嬉しいよ」
司の口から、珍しく素直な言葉が出た。
咲はパッと顔を輝かせた。
「…さて、一件落着だな」
関谷が男に手錠をかけ、部下に引き渡す。
そして、気まずそうに咲の方を向いた。
「あー、その…。すまんかったな、お嬢ちゃん。疑って悪かった」
「いいえ。職務熱心なのは結構なことだわ。日本の警察は優秀ね」
咲は皮肉っぽく笑う。
関谷は帽子を取り、手帳を開いた。
「一応、参考人として名前と住所を聞かせてもらってもいいか?あとで署長から礼状を送らせるから」
「礼状なんていらないわ。名前は咲。住所は…一番町よ」
「一番町?親御さんは?」
咲が答えに窮した、その時だった。
店の外に、静かに、しかし重厚なエンジン音が響き渡った。
黒塗りの英国車「ロールス・ロイス」が、狭い路地を塞ぐように停車する。
降りてきたのは、燕尾服を着た屈強な外国人たちと、一人の初老の紳士だった。
銀髪を撫でつけ、丸眼鏡の奥に知的な瞳を湛えたその姿。威圧感というよりは、深い学識と気品をまとった「賢者」の風格がある。
「Saki… I finally found you.」
紳士が静かに店内に足を踏み入れる。
関谷がぎょっとして後ずさった。
「な、なんだあんたは!一般人は立ち入り禁…」
「Papa!」
咲が駆け寄り、父の腕に抱きついた。
「Saki, are you hurt? (咲、怪我はないか?)」
「I'm fine. This detective mistook me for a thief. (平気よ。この刑事さんが私を泥棒と間違えただけ)」
咲が流暢な英語で答えると、ウィリアムの眼鏡の奥の目が、すっと細められた。
彼は関谷に向き直り、驚くほど流暢で、かつ古風な日本語で語りかけた。
「…刑事さん。娘が泥棒に見えたと?私の教育が行き届いていないということかな」
静かな声だった。だが、その声には、娘を侮辱された父親の冷ややかな怒りが込められていた。
関谷は、その紳士の顔にようやく気づいた。
新聞の一面で見たことがある。日英同盟の要であり、東洋学の権威としても知られる、あの大使だ。
「ま、まさか…エヴァンス大使閣下…?」
関谷の声が裏返る。
大使館のある一番町のご令嬢。点と線が繋がり、関谷の顔面から血の気が引いた。
英国駐日特命全権大使、ウィリアム・エヴァンス。
「も、もも、申し訳ありません!ご令嬢とは知らず!こ、これはその、捜査上の手違いでして!」
「手違いでレディに手錠をかけようとしたのかね。…日本の警察機構には、もう少し『紳士道』が必要なようだ」
ウィリアムが杖を突く。
外交問題にでもなれば、切腹では済まない。
それを見て、司が静かに助け舟を出した。
「閣下。この刑事は、愚直なまでに職務に忠実なだけです。それに、お嬢様の名誉は守られました。…この僕が保証します」
ウィリアムの視線が、司に向けられた。
値踏みするような鋭い視線。
だが、すぐにその目は、司の手元にある本と、背後の書棚に吸い寄せられた。
「…ほう。ディケンズの『大いなる遺産』の初版か。それに、あそこにあるのはラフカディオ・ハーンの未発表原稿の写しではないか?」
ウィリアムの声色が、外交官のそれから、一瞬で「学者」のものに変わった。
司は驚きつつも、一礼した。
「ええ。祖父の遺したコレクションです。…閣下のような稀代の東洋学者に目をつけていただけるとは、本たちも喜んでおります」
「君は、私の著書を知っているのかね?」
「『ヒンドゥー教と仏教』。…まだ原書でしか読めていませんが、名著でした」
ウィリアムの表情が緩んだ。
彼は嬉しそうに頷き、再び関谷を見た。
「…この青年に免じて、今回は不問にしよう。だが、二度目はないぞ」
「は、はい!肝に銘じます!」
関谷が深々と頭を下げる。
咲が父の腕を引き、司に向かってウインクをした。
「ありがとう、司さん。…パパ、この人が助けてくれたの。私の『名探偵』さんよ」
咲の言葉に、司は少し照れくさそうに頬を掻いた。
ウィリアムは司に向かって、今度は一人の父親として、そして同じ「知」を愛する者として、穏やかに語りかけた。
「…青年。君の名は?」
「藤平司です」
「ミスター・フジヒラ。娘を助けてくれて感謝する。…それに、君の書棚には興味深い本が多い。また、話を聞かせてもらいたいものだ」
「いつでもお待ちしております」
ウィリアムは娘をエスコートし、車へと向かった。
去り際、咲は車の窓から顔を出し、司に向かって手を振った。
「また来るわね、司さん!今度はもっと面白い事件、用意しておいて!」
黒塗りのロールス・ロイスが、一番町の公邸へと走り去っていく。
後に残されたのは、魂が抜けたように座り込む関谷と、苦笑する司だけだった。
「…おい、司」
「はい」
「俺はもうダメだ。寿命が十年縮んだ…。あの方は、ただの外交官じゃねぇ。学者だ。理詰めでお説教されるのが一番怖いんだよ…」
「大丈夫ですよ、関谷さん。娘さんが許せば、何も言いませんよ」
司は店の床に落ちていた、咲が忘れていったハンカチを拾い上げた。
そこには、微かに珈琲の香りが残っていた。
「…騒がしくなりそうだ」
司はハンカチをポケットに入れ、再び梯子を登った。
読みかけの本を開く。
だが、文字を目で追っても、頭の中には先ほどの少女の笑顔ばかりが浮かんでくる。
活字の世界よりも鮮やかで、謎めいた現実の少女。
大正九年の秋。
こうして、団子坂の書痴と、倫敦帰りの迷い子は出会った。
そして一年後――
二人は、帝都を揺るがす巨大な物語の渦中に立つことになる。




