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婚約破棄を言い渡された瞬間、摂政殿下が「では私が伴侶に」と宣言なさいました

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/11/01

 王城の大広間には、いつもより多くの人々がいた。

 銀の燭台が長い影を落とし、天井の紋章が薄く揺らめく。

 私は一歩進み出て、跪いた。白い裾が石床に広がり、ひんやりとした空気が素肌を撫でる。


 王太子ディランが、壇上から私を見下ろしている。

 隣には蜂蜜色の髪の令嬢エマ。涙で頬を濡らし、か弱げに俯く姿は、まるで誰かの罪を請う聖女のようだった。


 私はその演出を、淡々と観察していた。

 いくつかの偽りの“舞台装置”が目に入る。見慣れぬ小瓶、刺繍針、毒菓子の残骸。

 どれも、私の私物ではない。

 だが、筋書きとしてはよくできている。


「公爵令嬢リディア・アーデン」

 ディランの声は、冷たく澄んでいた。

「そなたとの婚約を、ここに破棄する」


 人々が息を呑む音。

 私はゆるやかに顔を上げた。


「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」


「嫉妬からの妨害だ。エマ嬢の舞踏会で硝子粉を混ぜたガウンを渡し、毒菓子を贈ったと証言がある」


 証拠として掲げられる銀盆。

 その上の小瓶の中では、何かが鈍く光っていた。


 私は深く息を吸い、吐き出した。


「無実です」


 声は静かに響いたが、軽くも儚くもない。

 ただ、正しい順序を守って言った。


 その瞬間、大広間の奥で椅子の軋む音がした。

 誰もが視線を向ける。玉座ではなく、その左隣。


 摂政殿下――セドリック・レオンハルトが立ち上がっていた。

 彼の動きは穏やかだが、空気を支配する速さは雷のようだった。


「愚かだな、ディラン」

 低く響く声に、王太子の顔色が変わる。


「摂政殿下、これは王太子としての正式な……」


「王太子として? ならば問おう。おまえの“手順”は、どこにある」


 セドリックの灰青の瞳が、まっすぐに射抜いた。

「断罪は見世物ではない。公示の場で人を裁くなら、証拠と証人の整合を検証する手順を先に立てよ。――それができぬなら、その宣言は王家の恥だ」


 ざわめきが起きる。

 私は息を潜めた。彼が口を開くたび、場の重力が変わる。


「公爵令嬢リディア・アーデン」

 摂政殿下は壇から降り、私の前に立った。

 その姿勢は威圧ではなく、正確な距離感だった。


「そなたを問いたい。――王太子の婚約破棄を受けるか」


「……受けるしかありません。拒めば、国に背くことになります」


「そうか」

 殿下は短く頷き、視線を上げた。

「ならば、余が代わりに提案しよう。――公爵令嬢リディア・アーデン。余と、三年の契約婚を結べ」


 空気が裂ける。

 ざわめきが波紋のように広がり、誰かが小声で神に祈った。


「せ、摂政殿下……!」


 王太子が立ち上がる。だが、殿下は振り向かない。


「三年の契約婚。理由は三つある」

 彼の声が大広間に澄んで響く。


「ひとつ。汝は混乱の中で手順を乱さぬ。去年の港火災の折、避難民を正面門からではなく側門へ導いた。結果、死者は最小で済んだ。恐怖より先に行動を整えた判断は、貴い」


 私は目を伏せた。あの夜の炎の匂い、倒れる人の影――すべてが蘇る。

 けれど、殿下は続けた。


「ふたつ。汝は名誉より成果を選ぶ。赤字だった祭礼行事で香油取引を導入し、収支を黒字に変えた。誰も気づかずとも、国の台所を守ったのはそなただ」


 誰かが小さく息を呑む。

 私の知らぬ誰かが、その仕事を見ていた。


「みっつ。汝は『無実です』と告げながら、誰も罵らぬ。悪意に怒りで返さぬ女は、統治に必要だ」


 殿下の声は、淡々として、それでいて温かかった。


「だから、余はそなたを伴侶に望む。――三年。契約婚として。互いに実務を共にし、国の仕組みを整える」


 視線が私に集まる。

 私はゆっくりと息を整えた。


「お伺いしてもよろしいでしょうか、殿下」


「申せ」


「それは、王太子への“当てつけ”では?」


 ざわめきが再び走る。

 だが殿下は眉ひとつ動かさなかった。


「余は、当てつけのために人の人生を使わぬ。これは制度であり、統治の一環だ。――感情ではなく、手順のための婚姻だ」


 私は目を閉じ、短く息を吸う。

 胸の奥で何かが音を立てて解けた。


「お受けいたします」


 殿下が微かに頷いた。

 その動作一つで、大広間の空気が変わる。


 ディランの声が震える。

「殿下! お待ちを、そんな勝手な――」


「勝手か?」殿下の声が低く響く。「王太子の婚約破棄が公の場で認められるなら、それを代替する者も公に立てねばならぬ。これは手順の整合だ」


 ディランは言葉を失う。

 その隣で、エマの唇が震えていた。


「殿下、私は被害者ですのに!」


「被害者を名乗るなら、まず証言の整合を立てよ。涙は証拠ではない」


 冷たい一言に、彼女は肩を震わせた。


 殿下は侍従に目配せをした。

「この件は王家監察局に預ける。証拠品は封緘し、検証手順を設けろ。公開の場で再調査する」


 命令は淡々としていたが、確実に誰かの運命を動かした。


 その夜、私は「摂政殿下の契約婚者」として公示された。

 城下の人々は噂を囁き、議会では賛否が飛び交った。


     ◆


 翌朝。

 殿下の執務室に呼ばれる。


 広げられた机の上には、王都の地図、穀倉、港、孤児院の帳簿――数え切れぬ資料。


「これが、そなたへの課題だ」


「課題?」


「王妃教育など要らぬ。余が求めるのは“手順の修正”だ。三つ、任せる」


 殿下は指で資料を示す。


「一つ目、東河の水害対策。流域の堤防再配置を。

 二つ目、王都の夜間治安。女性と子供の安全導線を設計せよ。

 三つ目、奨学金制度。財源は贅沢税の一部を還流させること。期限は一月」


 私は地図を見つめ、息を整える。

 王妃修行ではなく、行政改革。

 やはりこの婚姻は“飾り”ではない。


「……承りました」


「それと、呼び方だ」


「はい?」


「余を“殿下”と呼ぶな。契約の相手として、“セドリック様”でいい」


 不意に胸の奥が熱くなる。

 けれど表情は変えなかった。


「……畏まりました。セドリック様」


 殿下が薄く笑う。その微笑には若さよりも、長い年月の疲れと信頼が混じっていた。


「手順を守る女が、隣に立つ。それだけで、国は変わる」


 私は小さく頭を下げた。

 心の中で、“契約”という言葉を何度も繰り返す。


     ◆


 数日後、私は靴を泥に沈めて東河の堤に立っていた。

 潮の匂い、湿った風、木杭の軋み。

 地図の線よりも早く、現実が動いている。


「リディア様、またお出ましで」

 作業服の男たちが頭を下げる。


「現場を見ずして数字は語れません。風向きと流速を記録してください」


「はっ」


 泥の上を歩くたび、足跡が残る。

 私はそれを見つめて思う。

 ――あの日、断罪の鐘が鳴ったとき、私の人生は終わらなかった。

 手順を持つ者は、どんな裁きにも沈まない。


 夜、帰城すると、執務室に明かりが灯っていた。

 セドリックが机に向かっている。


「報告を」


「水門の開閉時間を半刻ずらす提案を。潮流と風圧を考慮すれば、越流は三割減少します」


 殿下は黙って書類を受け取り、目を通した。


「よくやった」


 それだけで十分だった。


 沈黙が落ちる。

 私は問うように目を向ける。


「殿下……いえ、セドリック様は、なぜ私を?」


 殿下は一瞬だけ視線を逸らし、窓の外を見た。

「余は、怒りを選ばぬ者を隣に置きたかった。それだけだ」


「怒りを選ばぬ者……」


「怒りは刃だ。だが手順は盾になる。国を守るには、刃より盾が要る」


 その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かが溶けた。

 私が長年信じてきた“理”を、誰かが同じ言葉で語ってくれた気がした。


 蝋燭が小さく爆ぜる。

 殿下の影が揺れ、静かに机を叩いた。


「では、次の課題に移れ。王都の夜が、まだ危うい」


 私は頭を下げ、退出する。


 背中越しに、彼の声が届いた。

「リディア」


 名前を呼ばれたのは、初めてだった。


「はい」


「怒りではなく手順で、国を動かせ。――それが、余の望みだ」


 私は扉の前で振り返り、深く一礼した。


「承知しました、セドリック様」


 その夜、鐘楼の鐘が遠くで鳴った。

 断罪の鐘ではない。

 新しい手順の始まりを告げる、静かな合図だった。



 春の雨は、王都の石畳を墨のように濡らしていた。

 人々が外套の裾を握り、軒先の灯りを頼りに歩く。

 王太子の断罪劇から一月。

 私は、摂政セドリック殿下――今は契約上の伴侶――の指示で、三つの課題に取り組んでいた。


 ひとつ、東河の水害対策。

 ふたつ、王都の夜間治安。

 みっつ、奨学制度の財源再編。


 どれも“飾り”ではなく、“仕組み”そのものだった。


     ◆


 東河の堤防。

 私は靴の底で泥を感じながら、川の流れを見つめていた。

 水面は冬より深く、堤の継ぎ目がわずかに緩んでいる。

 作業服の男たちが、杭を打ち、砂嚢を積み上げる。


「公爵令嬢が、こんな所に……」

 年配の監督官が戸惑い気味に言った。


「紙の上では風も止まりません。現場でこそ、計算が正しいか確かめられるのです」


 私は地図を広げ、潮の干満を指でなぞる。

 王都の港は西側、東河は逆流する。満潮の刻と風向きが重なると、越流が起きる。

 それを抑えるには、開閉堤の時刻を半刻遅らせる必要がある。

 この一手で、三割の水位上昇を防げる。


「開閉時刻の変更は、役所の承認が……」


「書状は私が通します。摂政殿下の名で」


 私の声に、男は息を呑み、敬礼した。


 現場を離れると、雨が本降りになった。

 私は外套を閉じ、胸元の懐紙に新しい数字を書き加える。

 ――これが“成果”だ。怒りではなく、数字で戦う。


     ◆


 二つ目の課題は、夜間治安。

 王都では近頃、日暮れ以降の通り魔や追い剥ぎが増えていた。

 その多くは、灯の届かない裏通りで起きている。

 私は衛兵隊長に地図を見せる。


「巡回路を“円形”から“網目”に変えましょう」


「網目?」


「ええ。人は逃げるとき、円を避けます。だが“網”ならどの方向にも助けがあります」


 私は筆で線を引く。提灯貸出所を起点に、救護所、井戸、教会――それらを繋ぐ線が、街全体を覆う。


「ここを夜間だけ、女性と子供が無料で通行できる“灯の道”にするんです」


「……なるほど。護送と同時に、見せる抑止か」


「はい。犯罪は“暗闇”より“目”を恐れます」


 提案は翌週に実行された。

 提灯が街路に吊るされ、夜の王都が柔らかな光に包まれる。

 市民が笑いながら歩くのを、私は遠くから見ていた。


 セドリックが後ろから近づき、静かに言った。

「上出来だ。――灯りは力を使わずに、人を動かす」


「恐れ入ります」


 殿下の声は、夜気の中で低く響いた。

 灯火に照らされた横顔は、疲れているのに優しい。

 その横顔を見ると、不思議と胸が落ち着いた。


     ◆


 三つ目の課題は、奨学制度の財源設計。

 私は日夜、会計書類の山と格闘していた。

 奢侈税(贅沢税)の一部を学資金に還元し、貴族が寄付の代わりに“徳ポイント”を得られる仕組みを考案。

 寄付者の名を刻む代わりに、使用履歴が王立書庫に記録される。

 名誉ではなく、透明性による信頼を。


 殿下が書類をめくりながら呟く。

「徳を見える形にする……面白い」


「人は“褒められるため”より、“記録に残るため”に働きますから」


 私が笑うと、殿下もわずかに口元を緩めた。


     ◆


 そんな折、異変が起きた。


 ――東河の警報鐘が鳴る。


 私は机を離れ、外套を羽織って駆け出した。

 雨は滝のようで、夜空を引き裂くような稲妻が走る。

 堤防に辿り着くと、衛兵が叫んでいた。


「開閉鎖の鎖が切られています!」


「誰が!?」


「不明! 偽の開放命令が出ていたんです!」


 私は目を見開いた。

 偽命令? つまり、誰かが“水門を壊そうとした”。


 背筋が冷える。

 私は叫ぶ。


「副手順を発動! 梔子門を封鎖、風向が変わるまで待機!」


「しかし、堤が……!」


「手順どおりに!」


 兵たちが走る。

 水門の鎖が軋み、雨の粒が頬を刺す。

 私は灯籠の明かりを掴み、潮流を見極めた。

 風が北に回る。あと五分。


「今です、閉じて!」


 鉄の音が響く。

 水門がゆっくりと沈み、濁流が止まる。


 全身が雨と汗でずぶ濡れになった。

 だが、越流は防げた。

 ――ギリギリで。


 私は息を吐き、膝に手をつく。

 その瞬間、後ろから灯りが差した。


「リディア!」

 セドリックが駆け寄る。

 雨に濡れながら、私の肩を掴んだ。


「無事か」


「ええ……副手順が、功を奏しました」


「副手順?」


「開閉が遅れた場合に備えて、臨時の止水板を設けていました。風向を読むための予備策です」


 殿下の瞳が一瞬、何かを掴んだように光った。

「誰に命じた」


「自分で。許可は取っていません」


「許可など要らぬ。――よくやった」


 短い言葉が、胸の奥に火を灯す。

 殿下は傍らの兵に命じた。


「現場を封鎖しろ。偽命令の出所を追え。王家印の偽造なら重罪だ」


「はっ!」


     ◆


 翌朝。

 私は王宮の謁見の間に呼び出された。

 そこには、蒼白な顔のエマが立っていた。


「偽の命令を出したのは、おまえの使用人だという報告が上がっている」

 殿下の声は冷たく鋭い。


「そんな……私は知らなかったのです!」


「知らぬでは済まぬ。命令文書におまえの印がある」


 エマの手が震え、足元に封蝋の破片が落ちた。

 偽印を使ったのは彼女の家の文官。

 その証言が、すでに出ていた。


 ディラン王太子が現れ、声を荒げる。

「殿下! エマは無実だ! 彼女は被害者なんだ!」


 セドリックの瞳が灰色に光る。

「無実を語るなら、手順を示せ。証拠もなく、涙で語るな」


 私は一歩、前に出た。


「王太子殿下。私は昨夜、確かに偽命令の封筒を確認しました。

 そこには、貴殿の私印もありました」


 ディランが凍りつく。

 殿下が眉をわずかに上げた。


「王太子、釈明を」


「……知らなかった。彼女が、そんなことを」


「知らぬことを“知らぬ”と申告せぬなら、それも罪だ」


 静寂。

 私は黙っていた。

 この場は、怒りではなく手順で終わらせる。


 殿下が立ち上がり、裁定を下す。

「伯爵令嬢エマ・リヴィエール、偽命令の共謀と印章偽造の罪により、国外追放。

 王太子ディラン・ヴァン・レーンは一月の政務停止。王位継承権は暫定凍結とする」


 誰も、声を上げられなかった。


 私は深く一礼した。

 殿下の隣に立つと、彼が低く囁いた。


「怒りたいか」


「ええ。ですが、怒りは後にします」


「そうだ。怒りは保存しろ。――証拠のようにな」


 私の胸の奥で、熱と冷たさが同時に広がった。


     ◆


 その夜、執務室。

 殿下が窓辺で書状を書きながら言った。


「おまえの副手順がなければ、王都は沈んでいた」


「偶然です。風向きが味方しただけです」


「偶然に備える。それが有能というものだ」


 私は少しだけ笑った。

「褒め言葉として、受け取ります」


「受け取れ。――怒りではなく、成果で殴れ」


「……はい」


 蝋燭の火が揺れ、二人の影が机の上で重なった。

 外では雨が止み、静かな風が吹く。


 殿下が筆を置き、私の方を向いた。

「リディア」


「はい」


「次は、“更新”を考える時だ」


「更新……?」


「契約婚の期限まで、あと二月。続けるか、終えるか。互いに決めねばならぬ」


 私は一瞬、言葉を失った。


「殿下は……いえ、セドリック様は、どうなさりたいのですか」


 彼は少しだけ笑った。

「国が求めるなら、続けたい。余個人としても、――おまえが必要だ」


 心臓が、静かに鳴った。


「それは、“当てつけ”では?」


「余は、人の人生を当てつけに使わぬと、前にも言ったはずだ」


 灰青の瞳がまっすぐに私を射る。

 その強さに、私は小さく頷いた。


「では、次の更新にふさわしい成果を、あと一つ残します」


「期待している」


 窓の外、雨上がりの空に星が浮かぶ。

 街の灯が細い線となり、堤防を照らしていた。

 私はその光を見ながら、思った。

 ――怒りではなく、手順で人を救う。

 それが、私の選んだ“愛”の形だと。


 秋の祭礼が近づいていた。

 王都の空は高く、街の通りには赤と金の飾りが揺れている。

 断罪から始まった婚姻契約が、まもなく三月を迎える。

 私は机の上で、ひとつの書状を見つめていた。


 “契約婚・更新確認書”


 紙の右上には、摂政殿下の印章が押されている。

 更新するか、終えるか。――選ぶのは私だ。


 静かに息を吸う。

 私の手の中で、紙は軽い。それでも、その意味は重い。


     ◆


 祭礼前夜。

 セドリックの執務室に呼ばれた。


「おまえに見せたいものがある」

 殿下が机に地図を広げる。


 東河の堤は完成し、夜間の“灯の道”も広がっていた。

 王都は、少しずつだが確実に変わっている。


「この三ヶ月で、治安は四割改善。水害は一件もなし。奨学制度も稼働を始めた」

「……すべて、殿下が後ろ盾になってくださったからです」

「違う。余はただ、正しい手順を見守っただけだ」


 殿下の言葉は、淡々としていたが、奥に温かいものがあった。


「そなたは“怒りではなく手順で国を動かした”。それが余の誇りだ」


 私は目を伏せる。

 そのとき、扉を叩く音がした。


 侍従が駆け込み、報告する。

「ディラン殿下が参内を求めております!」


 殿下の眉がわずかに動いた。

「……来たか」


 私は胸の奥で、何かがざわめくのを感じた。


     ◆


 対面の間。

 王太子ディランは、以前よりやつれて見えた。

 髪は乱れ、瞳の光が曇っている。

 彼の隣には、誰もいなかった。


「父上――いや、殿下」

 言葉が震える。

「俺は間違っていました。エマは偽証をし、俺はそれを見抜けなかった。……どうか、やり直す機会を」


 静寂。

 殿下はゆっくりと立ち上がる。


「やり直すとは、何を指す」


「エリ――リディアと……婚約を」


 空気が凍る。

 殿下の瞳が冷たく光った。


「リディアは契約婚中だ。王太子の願いが“再取得”であるなら、それは人を物と見る愚行だ」


「違う、そんなつもりでは――!」


「では問う。おまえは“謝罪”の手順を理解しているか」


「……手順?」


「謝罪とは、声ではなく行動だ。まず被害の回復。次に再発防止。最後に過去に縋らぬこと。――それができぬなら、謝罪ではなく懺悔ごっこだ」


 ディランは俯いた。

 殿下は続けた。

「おまえの過ちは、怒りで動いたことではない。手順を怠ったことだ」


 私は一歩前へ出た。

「ディラン殿下」


 彼が顔を上げる。

「……リディア」


「私は、殿下を憎んではいません。けれど、戻ることはできません。

 私は“手順”によって自分を取り戻した。戻るのは、後退と呼びます」


 彼の唇が震え、何も言えないまま沈黙した。


 殿下が静かに告げる。

「ディラン、政務に戻れ。反省を形に変えろ。それが唯一の償いだ」


 ディランは深く頭を下げ、退出した。


 扉が閉まると、静寂が落ちる。

 私は殿下を見上げた。


「……お強いですね、殿下」


「余か? いや、強いのはおまえだ。余はただ、手順の意味を学んだにすぎぬ」


     ◆


 その夜、王宮の外では、祭礼の準備が進んでいた。

 灯籠が吊るされ、民が歌う。

 翌日、祭礼の中心で“契約婚の報告式”が行われる。

 更新か終止かを、民の前で公表する――それが新たな制度になっていた。


 私は鏡の前でヴェールを整え、深呼吸した。

 契約は制度、だが、心はそれ以上のものを知ってしまった。


     ◆


 祭礼の広場。

 群衆が見守る中、セドリックと私が並ぶ。

 金の装飾を施した祭壇の前で、司祭が問う。


「契約婚の更新を望まぬ場合、ここで終止を宣言なさい」


 私は視線を落とした。

 この数ヶ月の記憶が、胸を駆け巡る。

 雨の堤防、灯の道、殿下の声。

 すべてが、理と温もりの交差点だった。


 殿下が私を見て、微笑んだ。

「余は求めぬ。選ぶのは、そなただ」


 群衆が息を潜める。


 私は一歩、前に出た。


「三ヶ月前、私は断罪の場で“無実です”と言いました。

 そして今日、私はもう一度、別の意味でそれを言います。――“無実です”。怒りや後悔に対して、私は無実です。

 なぜなら、私は手順で愛を学んだから」


 ざわめき。

 私は続けた。


「契約を更新します。

 理由は三つ。

 一つ、怒りではなく手順で人を動かすため。

 二つ、制度を愛に変えるため。

 三つ、私が殿下の隣に立つことを、私自身が望むから」


 殿下の目が、静かに細められる。

 それは、長い年月を経て誰かを信じる者の笑みだった。


「良い。……余も、更新しよう」


 群衆が歓声を上げる。

 鐘が鳴り、白い花弁が舞う。


 殿下は私の手を取った。

 その手のひらは、剣よりも温かかった。


「リディア・アーデン。余は汝を飾らぬ。共に定義し続けよう」


「セドリック・レオンハルト。私は陛下を飾らせない。隣に立ち、定義を更新します」


 指輪が光を受けて、金線のように輝く。

 それは、王冠の輝きではなく、人と人を結ぶ光だった。


     ◆


 夜。

 祭礼の喧騒が静まり、王宮の執務室で二人きり。

 殿下が机に広げたのは、新しい法律草案だった。


「婚約破棄の公的手順書」


「……手順書?」


「婚約や断罪を“見世物”にすることを禁じる制度だ。

 今後、婚約破棄を行う場合は、監察局の立ち会い、証拠開示、再発防止策の義務化を伴う。

 そなたの経験を制度化した」


 私は静かに息を呑んだ。


「恋は私事、手順は公事。――それを、法にするのですね」


「そうだ。怒りではなく手順で、国を動かす」


 殿下が微笑み、筆を取り、署名する。

 その隣で、私は書記官として、自分の名前を記した。


 サインを終えると、殿下がふと顔を上げる。

「リディア。契約婚という形で始まったが、余はもう“契約”と思っていない」


「……なら、何と?」


「“共犯”だ。国を良くする罪を、共に背負う者」


 私は笑った。

「罪なら、喜んで背負います」


「ならば、更新完了だ」


 殿下が筆を置き、私の頭に手を置く。

 その指先は、傷だらけで、それでも優しかった。


 外では、灯籠の光が川面を流れていく。

 その光がゆっくりと王都を巡り、やがて遠くの堤を照らす。


 私はその光景を眺めながら、静かに言った。

「殿下。扉の蝶番は、春にもう一度点検しますね」


「また固まるのか」


「はい。でも、油を差せば、また開きます」


 殿下は小さく頷いた。

「扉は閉じるためにあるが、手順を守れば何度でも開く」


 蝋燭の炎が静かに揺れた。

 私は机の上の地図に新しい線を引く。

 堤から街へ、街から灯へ、灯から未来へ――。


 婚約破棄の鐘は、あの日確かに鳴った。

 けれど、それは終わりではなく、始まりの合図だった。


 怒りではなく手順で、私は愛を定義する。

 そして、愛を制度に変える。


 王都の灯りが、ゆっくりと夜を縫い合わせていった。








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