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婚約破棄を言い渡された瞬間、摂政殿下が「では私が伴侶に」と宣言なさいました

作者: 妙原奇天

 王城の大広間には、いつもより多くの人々がいた。

 銀の燭台が長い影を落とし、天井の紋章が薄く揺らめく。

 私は一歩進み出て、跪いた。白い裾が石床に広がり、ひんやりとした空気が素肌を撫でる。


 王太子ディランが、壇上から私を見下ろしている。

 隣には蜂蜜色の髪の令嬢エマ。涙で頬を濡らし、か弱げに俯く姿は、まるで誰かの罪を請う聖女のようだった。


 私はその演出を、淡々と観察していた。

 いくつかの偽りの“舞台装置”が目に入る。見慣れぬ小瓶、刺繍針、毒菓子の残骸。

 どれも、私の私物ではない。

 だが、筋書きとしてはよくできている。


「公爵令嬢リディア・アーデン」

 ディランの声は、冷たく澄んでいた。

「そなたとの婚約を、ここに破棄する」


 人々が息を呑む音。

 私はゆるやかに顔を上げた。


「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」


「嫉妬からの妨害だ。エマ嬢の舞踏会で硝子粉を混ぜたガウンを渡し、毒菓子を贈ったと証言がある」


 証拠として掲げられる銀盆。

 その上の小瓶の中では、何かが鈍く光っていた。


 私は深く息を吸い、吐き出した。


「無実です」


 声は静かに響いたが、軽くも儚くもない。

 ただ、正しい順序を守って言った。


 その瞬間、大広間の奥で椅子の軋む音がした。

 誰もが視線を向ける。玉座ではなく、その左隣。


 摂政殿下――セドリック・レオンハルトが立ち上がっていた。

 彼の動きは穏やかだが、空気を支配する速さは雷のようだった。


「愚かだな、ディラン」

 低く響く声に、王太子の顔色が変わる。


「摂政殿下、これは王太子としての正式な……」


「王太子として? ならば問おう。おまえの“手順”は、どこにある」


 セドリックの灰青の瞳が、まっすぐに射抜いた。

「断罪は見世物ではない。公示の場で人を裁くなら、証拠と証人の整合を検証する手順を先に立てよ。――それができぬなら、その宣言は王家の恥だ」


 ざわめきが起きる。

 私は息を潜めた。彼が口を開くたび、場の重力が変わる。


「公爵令嬢リディア・アーデン」

 摂政殿下は壇から降り、私の前に立った。

 その姿勢は威圧ではなく、正確な距離感だった。


「そなたを問いたい。――王太子の婚約破棄を受けるか」


「……受けるしかありません。拒めば、国に背くことになります」


「そうか」

 殿下は短く頷き、視線を上げた。

「ならば、余が代わりに提案しよう。――公爵令嬢リディア・アーデン。余と、三年の契約婚を結べ」


 空気が裂ける。

 ざわめきが波紋のように広がり、誰かが小声で神に祈った。


「せ、摂政殿下……!」


 王太子が立ち上がる。だが、殿下は振り向かない。


「三年の契約婚。理由は三つある」

 彼の声が大広間に澄んで響く。


「ひとつ。汝は混乱の中で手順を乱さぬ。去年の港火災の折、避難民を正面門からではなく側門へ導いた。結果、死者は最小で済んだ。恐怖より先に行動を整えた判断は、貴い」


 私は目を伏せた。あの夜の炎の匂い、倒れる人の影――すべてが蘇る。

 けれど、殿下は続けた。


「ふたつ。汝は名誉より成果を選ぶ。赤字だった祭礼行事で香油取引を導入し、収支を黒字に変えた。誰も気づかずとも、国の台所を守ったのはそなただ」


 誰かが小さく息を呑む。

 私の知らぬ誰かが、その仕事を見ていた。


「みっつ。汝は『無実です』と告げながら、誰も罵らぬ。悪意に怒りで返さぬ女は、統治に必要だ」


 殿下の声は、淡々として、それでいて温かかった。


「だから、余はそなたを伴侶に望む。――三年。契約婚として。互いに実務を共にし、国の仕組みを整える」


 視線が私に集まる。

 私はゆっくりと息を整えた。


「お伺いしてもよろしいでしょうか、殿下」


「申せ」


「それは、王太子への“当てつけ”では?」


 ざわめきが再び走る。

 だが殿下は眉ひとつ動かさなかった。


「余は、当てつけのために人の人生を使わぬ。これは制度であり、統治の一環だ。――感情ではなく、手順のための婚姻だ」


 私は目を閉じ、短く息を吸う。

 胸の奥で何かが音を立てて解けた。


「お受けいたします」


 殿下が微かに頷いた。

 その動作一つで、大広間の空気が変わる。


 ディランの声が震える。

「殿下! お待ちを、そんな勝手な――」


「勝手か?」殿下の声が低く響く。「王太子の婚約破棄が公の場で認められるなら、それを代替する者も公に立てねばならぬ。これは手順の整合だ」


 ディランは言葉を失う。

 その隣で、エマの唇が震えていた。


「殿下、私は被害者ですのに!」


「被害者を名乗るなら、まず証言の整合を立てよ。涙は証拠ではない」


 冷たい一言に、彼女は肩を震わせた。


 殿下は侍従に目配せをした。

「この件は王家監察局に預ける。証拠品は封緘し、検証手順を設けろ。公開の場で再調査する」


 命令は淡々としていたが、確実に誰かの運命を動かした。


 その夜、私は「摂政殿下の契約婚者」として公示された。

 城下の人々は噂を囁き、議会では賛否が飛び交った。


     ◆


 翌朝。

 殿下の執務室に呼ばれる。


 広げられた机の上には、王都の地図、穀倉、港、孤児院の帳簿――数え切れぬ資料。


「これが、そなたへの課題だ」


「課題?」


「王妃教育など要らぬ。余が求めるのは“手順の修正”だ。三つ、任せる」


 殿下は指で資料を示す。


「一つ目、東河の水害対策。流域の堤防再配置を。

 二つ目、王都の夜間治安。女性と子供の安全導線を設計せよ。

 三つ目、奨学金制度。財源は贅沢税の一部を還流させること。期限は一月」


 私は地図を見つめ、息を整える。

 王妃修行ではなく、行政改革。

 やはりこの婚姻は“飾り”ではない。


「……承りました」


「それと、呼び方だ」


「はい?」


「余を“殿下”と呼ぶな。契約の相手として、“セドリック様”でいい」


 不意に胸の奥が熱くなる。

 けれど表情は変えなかった。


「……畏まりました。セドリック様」


 殿下が薄く笑う。その微笑には若さよりも、長い年月の疲れと信頼が混じっていた。


「手順を守る女が、隣に立つ。それだけで、国は変わる」


 私は小さく頭を下げた。

 心の中で、“契約”という言葉を何度も繰り返す。


     ◆


 数日後、私は靴を泥に沈めて東河の堤に立っていた。

 潮の匂い、湿った風、木杭の軋み。

 地図の線よりも早く、現実が動いている。


「リディア様、またお出ましで」

 作業服の男たちが頭を下げる。


「現場を見ずして数字は語れません。風向きと流速を記録してください」


「はっ」


 泥の上を歩くたび、足跡が残る。

 私はそれを見つめて思う。

 ――あの日、断罪の鐘が鳴ったとき、私の人生は終わらなかった。

 手順を持つ者は、どんな裁きにも沈まない。


 夜、帰城すると、執務室に明かりが灯っていた。

 セドリックが机に向かっている。


「報告を」


「水門の開閉時間を半刻ずらす提案を。潮流と風圧を考慮すれば、越流は三割減少します」


 殿下は黙って書類を受け取り、目を通した。


「よくやった」


 それだけで十分だった。


 沈黙が落ちる。

 私は問うように目を向ける。


「殿下……いえ、セドリック様は、なぜ私を?」


 殿下は一瞬だけ視線を逸らし、窓の外を見た。

「余は、怒りを選ばぬ者を隣に置きたかった。それだけだ」


「怒りを選ばぬ者……」


「怒りは刃だ。だが手順は盾になる。国を守るには、刃より盾が要る」


 その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かが溶けた。

 私が長年信じてきた“理”を、誰かが同じ言葉で語ってくれた気がした。


 蝋燭が小さく爆ぜる。

 殿下の影が揺れ、静かに机を叩いた。


「では、次の課題に移れ。王都の夜が、まだ危うい」


 私は頭を下げ、退出する。


 背中越しに、彼の声が届いた。

「リディア」


 名前を呼ばれたのは、初めてだった。


「はい」


「怒りではなく手順で、国を動かせ。――それが、余の望みだ」


 私は扉の前で振り返り、深く一礼した。


「承知しました、セドリック様」


 その夜、鐘楼の鐘が遠くで鳴った。

 断罪の鐘ではない。

 新しい手順の始まりを告げる、静かな合図だった。



 春の雨は、王都の石畳を墨のように濡らしていた。

 人々が外套の裾を握り、軒先の灯りを頼りに歩く。

 王太子の断罪劇から一月。

 私は、摂政セドリック殿下――今は契約上の伴侶――の指示で、三つの課題に取り組んでいた。


 ひとつ、東河の水害対策。

 ふたつ、王都の夜間治安。

 みっつ、奨学制度の財源再編。


 どれも“飾り”ではなく、“仕組み”そのものだった。


     ◆


 東河の堤防。

 私は靴の底で泥を感じながら、川の流れを見つめていた。

 水面は冬より深く、堤の継ぎ目がわずかに緩んでいる。

 作業服の男たちが、杭を打ち、砂嚢を積み上げる。


「公爵令嬢が、こんな所に……」

 年配の監督官が戸惑い気味に言った。


「紙の上では風も止まりません。現場でこそ、計算が正しいか確かめられるのです」


 私は地図を広げ、潮の干満を指でなぞる。

 王都の港は西側、東河は逆流する。満潮の刻と風向きが重なると、越流が起きる。

 それを抑えるには、開閉堤の時刻を半刻遅らせる必要がある。

 この一手で、三割の水位上昇を防げる。


「開閉時刻の変更は、役所の承認が……」


「書状は私が通します。摂政殿下の名で」


 私の声に、男は息を呑み、敬礼した。


 現場を離れると、雨が本降りになった。

 私は外套を閉じ、胸元の懐紙に新しい数字を書き加える。

 ――これが“成果”だ。怒りではなく、数字で戦う。


     ◆


 二つ目の課題は、夜間治安。

 王都では近頃、日暮れ以降の通り魔や追い剥ぎが増えていた。

 その多くは、灯の届かない裏通りで起きている。

 私は衛兵隊長に地図を見せる。


「巡回路を“円形”から“網目”に変えましょう」


「網目?」


「ええ。人は逃げるとき、円を避けます。だが“網”ならどの方向にも助けがあります」


 私は筆で線を引く。提灯貸出所を起点に、救護所、井戸、教会――それらを繋ぐ線が、街全体を覆う。


「ここを夜間だけ、女性と子供が無料で通行できる“灯の道”にするんです」


「……なるほど。護送と同時に、見せる抑止か」


「はい。犯罪は“暗闇”より“目”を恐れます」


 提案は翌週に実行された。

 提灯が街路に吊るされ、夜の王都が柔らかな光に包まれる。

 市民が笑いながら歩くのを、私は遠くから見ていた。


 セドリックが後ろから近づき、静かに言った。

「上出来だ。――灯りは力を使わずに、人を動かす」


「恐れ入ります」


 殿下の声は、夜気の中で低く響いた。

 灯火に照らされた横顔は、疲れているのに優しい。

 その横顔を見ると、不思議と胸が落ち着いた。


     ◆


 三つ目の課題は、奨学制度の財源設計。

 私は日夜、会計書類の山と格闘していた。

 奢侈税(贅沢税)の一部を学資金に還元し、貴族が寄付の代わりに“徳ポイント”を得られる仕組みを考案。

 寄付者の名を刻む代わりに、使用履歴が王立書庫に記録される。

 名誉ではなく、透明性による信頼を。


 殿下が書類をめくりながら呟く。

「徳を見える形にする……面白い」


「人は“褒められるため”より、“記録に残るため”に働きますから」


 私が笑うと、殿下もわずかに口元を緩めた。


     ◆


 そんな折、異変が起きた。


 ――東河の警報鐘が鳴る。


 私は机を離れ、外套を羽織って駆け出した。

 雨は滝のようで、夜空を引き裂くような稲妻が走る。

 堤防に辿り着くと、衛兵が叫んでいた。


「開閉鎖の鎖が切られています!」


「誰が!?」


「不明! 偽の開放命令が出ていたんです!」


 私は目を見開いた。

 偽命令? つまり、誰かが“水門を壊そうとした”。


 背筋が冷える。

 私は叫ぶ。


「副手順を発動! 梔子門を封鎖、風向が変わるまで待機!」


「しかし、堤が……!」


「手順どおりに!」


 兵たちが走る。

 水門の鎖が軋み、雨の粒が頬を刺す。

 私は灯籠の明かりを掴み、潮流を見極めた。

 風が北に回る。あと五分。


「今です、閉じて!」


 鉄の音が響く。

 水門がゆっくりと沈み、濁流が止まる。


 全身が雨と汗でずぶ濡れになった。

 だが、越流は防げた。

 ――ギリギリで。


 私は息を吐き、膝に手をつく。

 その瞬間、後ろから灯りが差した。


「リディア!」

 セドリックが駆け寄る。

 雨に濡れながら、私の肩を掴んだ。


「無事か」


「ええ……副手順が、功を奏しました」


「副手順?」


「開閉が遅れた場合に備えて、臨時の止水板を設けていました。風向を読むための予備策です」


 殿下の瞳が一瞬、何かを掴んだように光った。

「誰に命じた」


「自分で。許可は取っていません」


「許可など要らぬ。――よくやった」


 短い言葉が、胸の奥に火を灯す。

 殿下は傍らの兵に命じた。


「現場を封鎖しろ。偽命令の出所を追え。王家印の偽造なら重罪だ」


「はっ!」


     ◆


 翌朝。

 私は王宮の謁見の間に呼び出された。

 そこには、蒼白な顔のエマが立っていた。


「偽の命令を出したのは、おまえの使用人だという報告が上がっている」

 殿下の声は冷たく鋭い。


「そんな……私は知らなかったのです!」


「知らぬでは済まぬ。命令文書におまえの印がある」


 エマの手が震え、足元に封蝋の破片が落ちた。

 偽印を使ったのは彼女の家の文官。

 その証言が、すでに出ていた。


 ディラン王太子が現れ、声を荒げる。

「殿下! エマは無実だ! 彼女は被害者なんだ!」


 セドリックの瞳が灰色に光る。

「無実を語るなら、手順を示せ。証拠もなく、涙で語るな」


 私は一歩、前に出た。


「王太子殿下。私は昨夜、確かに偽命令の封筒を確認しました。

 そこには、貴殿の私印もありました」


 ディランが凍りつく。

 殿下が眉をわずかに上げた。


「王太子、釈明を」


「……知らなかった。彼女が、そんなことを」


「知らぬことを“知らぬ”と申告せぬなら、それも罪だ」


 静寂。

 私は黙っていた。

 この場は、怒りではなく手順で終わらせる。


 殿下が立ち上がり、裁定を下す。

「伯爵令嬢エマ・リヴィエール、偽命令の共謀と印章偽造の罪により、国外追放。

 王太子ディラン・ヴァン・レーンは一月の政務停止。王位継承権は暫定凍結とする」


 誰も、声を上げられなかった。


 私は深く一礼した。

 殿下の隣に立つと、彼が低く囁いた。


「怒りたいか」


「ええ。ですが、怒りは後にします」


「そうだ。怒りは保存しろ。――証拠のようにな」


 私の胸の奥で、熱と冷たさが同時に広がった。


     ◆


 その夜、執務室。

 殿下が窓辺で書状を書きながら言った。


「おまえの副手順がなければ、王都は沈んでいた」


「偶然です。風向きが味方しただけです」


「偶然に備える。それが有能というものだ」


 私は少しだけ笑った。

「褒め言葉として、受け取ります」


「受け取れ。――怒りではなく、成果で殴れ」


「……はい」


 蝋燭の火が揺れ、二人の影が机の上で重なった。

 外では雨が止み、静かな風が吹く。


 殿下が筆を置き、私の方を向いた。

「リディア」


「はい」


「次は、“更新”を考える時だ」


「更新……?」


「契約婚の期限まで、あと二月。続けるか、終えるか。互いに決めねばならぬ」


 私は一瞬、言葉を失った。


「殿下は……いえ、セドリック様は、どうなさりたいのですか」


 彼は少しだけ笑った。

「国が求めるなら、続けたい。余個人としても、――おまえが必要だ」


 心臓が、静かに鳴った。


「それは、“当てつけ”では?」


「余は、人の人生を当てつけに使わぬと、前にも言ったはずだ」


 灰青の瞳がまっすぐに私を射る。

 その強さに、私は小さく頷いた。


「では、次の更新にふさわしい成果を、あと一つ残します」


「期待している」


 窓の外、雨上がりの空に星が浮かぶ。

 街の灯が細い線となり、堤防を照らしていた。

 私はその光を見ながら、思った。

 ――怒りではなく、手順で人を救う。

 それが、私の選んだ“愛”の形だと。


 秋の祭礼が近づいていた。

 王都の空は高く、街の通りには赤と金の飾りが揺れている。

 断罪から始まった婚姻契約が、まもなく三月を迎える。

 私は机の上で、ひとつの書状を見つめていた。


 “契約婚・更新確認書”


 紙の右上には、摂政殿下の印章が押されている。

 更新するか、終えるか。――選ぶのは私だ。


 静かに息を吸う。

 私の手の中で、紙は軽い。それでも、その意味は重い。


     ◆


 祭礼前夜。

 セドリックの執務室に呼ばれた。


「おまえに見せたいものがある」

 殿下が机に地図を広げる。


 東河の堤は完成し、夜間の“灯の道”も広がっていた。

 王都は、少しずつだが確実に変わっている。


「この三ヶ月で、治安は四割改善。水害は一件もなし。奨学制度も稼働を始めた」

「……すべて、殿下が後ろ盾になってくださったからです」

「違う。余はただ、正しい手順を見守っただけだ」


 殿下の言葉は、淡々としていたが、奥に温かいものがあった。


「そなたは“怒りではなく手順で国を動かした”。それが余の誇りだ」


 私は目を伏せる。

 そのとき、扉を叩く音がした。


 侍従が駆け込み、報告する。

「ディラン殿下が参内を求めております!」


 殿下の眉がわずかに動いた。

「……来たか」


 私は胸の奥で、何かがざわめくのを感じた。


     ◆


 対面の間。

 王太子ディランは、以前よりやつれて見えた。

 髪は乱れ、瞳の光が曇っている。

 彼の隣には、誰もいなかった。


「父上――いや、殿下」

 言葉が震える。

「俺は間違っていました。エマは偽証をし、俺はそれを見抜けなかった。……どうか、やり直す機会を」


 静寂。

 殿下はゆっくりと立ち上がる。


「やり直すとは、何を指す」


「エリ――リディアと……婚約を」


 空気が凍る。

 殿下の瞳が冷たく光った。


「リディアは契約婚中だ。王太子の願いが“再取得”であるなら、それは人を物と見る愚行だ」


「違う、そんなつもりでは――!」


「では問う。おまえは“謝罪”の手順を理解しているか」


「……手順?」


「謝罪とは、声ではなく行動だ。まず被害の回復。次に再発防止。最後に過去に縋らぬこと。――それができぬなら、謝罪ではなく懺悔ごっこだ」


 ディランは俯いた。

 殿下は続けた。

「おまえの過ちは、怒りで動いたことではない。手順を怠ったことだ」


 私は一歩前へ出た。

「ディラン殿下」


 彼が顔を上げる。

「……リディア」


「私は、殿下を憎んではいません。けれど、戻ることはできません。

 私は“手順”によって自分を取り戻した。戻るのは、後退と呼びます」


 彼の唇が震え、何も言えないまま沈黙した。


 殿下が静かに告げる。

「ディラン、政務に戻れ。反省を形に変えろ。それが唯一の償いだ」


 ディランは深く頭を下げ、退出した。


 扉が閉まると、静寂が落ちる。

 私は殿下を見上げた。


「……お強いですね、殿下」


「余か? いや、強いのはおまえだ。余はただ、手順の意味を学んだにすぎぬ」


     ◆


 その夜、王宮の外では、祭礼の準備が進んでいた。

 灯籠が吊るされ、民が歌う。

 翌日、祭礼の中心で“契約婚の報告式”が行われる。

 更新か終止かを、民の前で公表する――それが新たな制度になっていた。


 私は鏡の前でヴェールを整え、深呼吸した。

 契約は制度、だが、心はそれ以上のものを知ってしまった。


     ◆


 祭礼の広場。

 群衆が見守る中、セドリックと私が並ぶ。

 金の装飾を施した祭壇の前で、司祭が問う。


「契約婚の更新を望まぬ場合、ここで終止を宣言なさい」


 私は視線を落とした。

 この数ヶ月の記憶が、胸を駆け巡る。

 雨の堤防、灯の道、殿下の声。

 すべてが、理と温もりの交差点だった。


 殿下が私を見て、微笑んだ。

「余は求めぬ。選ぶのは、そなただ」


 群衆が息を潜める。


 私は一歩、前に出た。


「三ヶ月前、私は断罪の場で“無実です”と言いました。

 そして今日、私はもう一度、別の意味でそれを言います。――“無実です”。怒りや後悔に対して、私は無実です。

 なぜなら、私は手順で愛を学んだから」


 ざわめき。

 私は続けた。


「契約を更新します。

 理由は三つ。

 一つ、怒りではなく手順で人を動かすため。

 二つ、制度を愛に変えるため。

 三つ、私が殿下の隣に立つことを、私自身が望むから」


 殿下の目が、静かに細められる。

 それは、長い年月を経て誰かを信じる者の笑みだった。


「良い。……余も、更新しよう」


 群衆が歓声を上げる。

 鐘が鳴り、白い花弁が舞う。


 殿下は私の手を取った。

 その手のひらは、剣よりも温かかった。


「リディア・アーデン。余は汝を飾らぬ。共に定義し続けよう」


「セドリック・レオンハルト。私は陛下を飾らせない。隣に立ち、定義を更新します」


 指輪が光を受けて、金線のように輝く。

 それは、王冠の輝きではなく、人と人を結ぶ光だった。


     ◆


 夜。

 祭礼の喧騒が静まり、王宮の執務室で二人きり。

 殿下が机に広げたのは、新しい法律草案だった。


「婚約破棄の公的手順書」


「……手順書?」


「婚約や断罪を“見世物”にすることを禁じる制度だ。

 今後、婚約破棄を行う場合は、監察局の立ち会い、証拠開示、再発防止策の義務化を伴う。

 そなたの経験を制度化した」


 私は静かに息を呑んだ。


「恋は私事、手順は公事。――それを、法にするのですね」


「そうだ。怒りではなく手順で、国を動かす」


 殿下が微笑み、筆を取り、署名する。

 その隣で、私は書記官として、自分の名前を記した。


 サインを終えると、殿下がふと顔を上げる。

「リディア。契約婚という形で始まったが、余はもう“契約”と思っていない」


「……なら、何と?」


「“共犯”だ。国を良くする罪を、共に背負う者」


 私は笑った。

「罪なら、喜んで背負います」


「ならば、更新完了だ」


 殿下が筆を置き、私の頭に手を置く。

 その指先は、傷だらけで、それでも優しかった。


 外では、灯籠の光が川面を流れていく。

 その光がゆっくりと王都を巡り、やがて遠くの堤を照らす。


 私はその光景を眺めながら、静かに言った。

「殿下。扉の蝶番は、春にもう一度点検しますね」


「また固まるのか」


「はい。でも、油を差せば、また開きます」


 殿下は小さく頷いた。

「扉は閉じるためにあるが、手順を守れば何度でも開く」


 蝋燭の炎が静かに揺れた。

 私は机の上の地図に新しい線を引く。

 堤から街へ、街から灯へ、灯から未来へ――。


 婚約破棄の鐘は、あの日確かに鳴った。

 けれど、それは終わりではなく、始まりの合図だった。


 怒りではなく手順で、私は愛を定義する。

 そして、愛を制度に変える。


 王都の灯りが、ゆっくりと夜を縫い合わせていった。








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