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98話 記録の影に残った名前

登場人物紹介(改訂版)


れい

探偵。過去と現在を繋ぐ「記録の継ぎ目」に執着する。

未解決事件や処理済みとされた案件の中に潜む矛盾を、静かに掘り起こす。


アキト

潜入・変装担当。

学生、配達員、作業員など社会の「背景」に溶け込み、表に出ない情報を拾う。

軽い態度の裏で、常に状況全体を見ている。


佐藤優子さとう ゆうこ

過去の資料を偶然掘り起こした一般人。

個人的な違和感から、封印されていた1999年の事件に再び光を当てるきっかけとなる。


御子柴理央みこしば りお

解析担当。

1999年当時の紙資料と現代のデータを突き合わせ、

「偶然では済まされない一致」を論理的に示す。


橘奈々(たちばな なな)

記録・金融・取引関係の調査を担う。

公式には整合性の取れている資料の中から、不自然な欠落や操作痕を見抜く。


沙耶さや

聞き込みと生活圏調査を担当。

人の言葉よりも「言わなかったこと」に注意を払う観察者。


高村刑事たかむら

1999年当時の担当刑事。

事故死として処理した事件に、長年拭えない違和感を抱えてきた。


鈴木刑事すずき

高村の元相棒。

当時の判断が正しかったのか、自問し続けている。

―冒頭―


1999年10月下旬 午後3時12分

東京都世田谷区外れ 高村邸


玄関先に差し込む秋の光が、長年積もった薄い埃を赤銅色に染めていた。

乾いた風に乗って落ち葉が一枚、ふわりと舞い、錆びついた郵便受けに当たってかすかな金属音を立てる。庭には手入れを失った雑草が腰の高さまで伸び、窓際の木の枝がガラスに触れるたび、かすり音を残していた。


家の扉は半開きのまま、誰かが慌ただしく出て行ったかのように止まっている。

高村刑事は靴底を滑らせないよう注意しながら一歩踏み込み、軋む木の床の感触を足裏で確かめた。


「……異常な物音はないな」


低く抑えた声に、背後から鈴木刑事が小さく頷く。


「ええ。でも、空気が変です。長く人が住んでいなかった家特有の匂いじゃない」


午後3時14分

居間


二人が居間へ足を進めると、色あせたカーテン越しに弱い日差しが差し込み、室内を斜めに照らしていた。

ソファの上には高齢の男性が仰向けのまま横たわっている。目は半開きで、焦点は合っておらず、青白い肌が光を反射していた。右手には、折り目だらけの古い新聞が握られている。


鈴木刑事が息を詰めて言う。


「……亡くなってますね」


高村刑事は無言で近づき、周囲を観察する。

テーブルの上には請求書や契約書と思しき紙類が散乱し、その中に不自然なほど細かく裂かれた紙片が混じっていた。


午後3時18分

居間・テーブル前


山崎医師が遺体の脈と瞳孔を確認し、手帳にメモを取りながら静かに口を開く。


「死亡推定時刻は昨日の夜から今朝にかけて。外傷は見当たらない。状況だけ見れば、心臓発作で説明はつく」


だが、その言葉の後、医師はテーブルの紙片に目を留め、眉をひそめた。


「……ただ、この紙の切れ方が気になりますね」


鈴木刑事は床に落ちていた紙片を拾い上げ、慎重に広げる。


「貸金契約書の一部……でしょうか。金額と名前が途中で切れています」


午後3時22分

窓際


室内を取材していた記者の佐伯が、控えめな声で呟いた。


「単なる自然死にしては、妙に整理されてないですね……」


その時、高村刑事が窓際のカーテンをそっと持ち上げた。

薄暗い影の中、壁紙の端に、指先ほどの赤黒い染みが残っている。


「……鈴木」


呼ばれて近づいた鈴木刑事が、息を飲む。


「血痕……ですね。量は少ないですが、擦れた跡があります」


午後3時27分

居間中央


山崎医師は死亡診断書にペンを走らせながら、低く言った。


「表向きは心臓発作で処理されるでしょう。ただし、この家は一度きちんと調べるべきです。何かが、意図的に隠されている可能性があります」


庭先では、窓越しに佐伯がメモ帳を握りしめ、周囲の音に耳を澄ませていた。


「……外部から人が出入りした形跡、ありそうだな」


室内には古い木材と埃の匂いが滞留し、壁の時計だけが淡々と時を刻んでいる。

秋風がわずかに窓を揺らし、その音が、これから掘り起こされる過去の気配を運ぶように響いていた。


現代 11月上旬 午後1時40分

東京郊外 玲探偵事務所・ロッジ内


ロッジの室内には、秋の柔らかな日差しが窓から斜めに差し込み、机や棚に積み上げられた書類の上の埃を淡く照らしていた。

かつて使われていた暖炉は今は冷え切り、火の気のない空気が室内を静かに満たしている。古い木の床を踏むたび、乾いたきしみが小さく響いた。


倉庫スペースの一角で、佐藤優子は積み上げられた段ボール箱の前にしゃがみ込み、慎重に一つを引き寄せた。

表面に溜まった埃を手で払うと、白い粉が舞い、鼻先をかすめる。


「わあ……こんなの、すっかり忘れてた」


蓋を開けた瞬間、古紙とインクが混じった独特の匂いが広がる。

中には、黄ばんだ新聞の切り抜き、角の折れた日記帳、宛名のかすれた破れた封筒が無秩序に詰め込まれていた。


隣に立っていた玲は、無言のまま日記帳を一冊取り上げ、ゆっくりとページをめくる。

紙が擦れる音だけが、静かな室内に落ちる。


「……なるほどな」


低く呟き、玲は視線を文字列に走らせた。


「これで、過去の事件の糸口が見えてきた」


優子は新聞の切り抜きを一枚手に取り、年号の部分を指でなぞる。


「1999年……この連続怪死事件、結局未解決のままだったのね。名前も、原因も、全部曖昧なまま」


足元ではモカが落ち着かない様子で箱の周囲を回り、鼻をひくひくと鳴らしながら匂いを嗅いでいる。

新聞の束に顔を近づけたかと思うと、低く唸った。


玲はその様子を見下ろし、淡々と声をかける。


「どうした、モカ。何か引っかかるか?」


モカは尻尾をわずかに下げ、再び箱の中の封筒に鼻先を押し付けた。


窓際では、学生風のカジュアルな服装に身を整えたアキトが、外の通りを一瞥しながら小声で言った。


「俺、ちょっと外の様子を見てくる。人の気配、気になる」


玲は日記から目を離さず、短く応じる。


「頼む。無理に動くな。違和感があれば、それだけで十分だ」


アキトは軽くうなずき、静かにロッジの外へと向かった。


優子は新聞記事の一部を読み上げながら、目にわずかな緊張を宿す。


「ここに書いてある住所……倉庫街ね。今の事件と、偶然とは思えない」


玲は日記を閉じ、指先で表紙を軽く叩いた。


「偶然に見えるものほど、繋がっている。過去は、必ず今に影を落とす」


その足元に、モカが寄ってきて座り、短く鼻を鳴らす。


「よし……」


玲は立ち上がり、ロッジ内を見渡した。


「準備は整った。1999年から続く流れを、ここで断ち切るぞ」


ロッジの中に、言葉にしない緊張が静かに満ちていった。

柔らかな秋の日差しの裏で、過去と現在が、確かに結びつき始めていた。


1999年10月下旬 午後4時50分

東京都内・郊外住宅街


夕暮れの光が住宅街を斜めに照らし、街路樹の葉は赤や黄色に染まり始めていた。

舗道には乾いた落ち葉が積もり、踏みしめるたびにかすかな音が響く。

家々の窓からは夕食の支度を知らせる灯りが点き始めていたが、通り全体は不自然なほど静まり返っていた。


高村刑事は手帳を片手に、古い一軒家の前で足を止める。

門扉は閉じられたまま、表札の文字は少し色あせていた。


「……ここで間違いないな」


背後で、若い巡査が小さくうなずく。


「はい。亡くなった男性と面識があると、近所の方が」


高村刑事はインターホンを押す。

短い電子音のあと、しばらくして玄関の扉がゆっくりと開いた。


中から現れたのは、買い物袋を手にした中年女性だった。

警察手帳を見せると、女性は一瞬だけ表情を強張らせる。


「突然すみません。高村です。昨日亡くなられた○○さんの件で、少しお話を伺いたくて」


女性は袋を握り直し、小さく息を吐いた。


「……ああ。あの方、亡くなったんですね」


「最後に姿を見たのは、いつ頃ですか?」


女性は記憶を辿るように視線を上に向ける。


「一昨日の夕方です。ゴミ出しの時に。いつも通りでしたよ。新聞を小脇に抱えて」


高村刑事は手帳に書き込みながら、視線を上げる。


「変わった様子はありませんでしたか? 誰かと話していたとか」


女性は少し考え込み、首を横に振った。


「いいえ……ただ、最近はよく知らない人が家の前に立っているのを見かけました」


高村刑事のペンが止まる。


「知らない人、ですか」


「ええ。若い男の人だったり、作業着みたいな格好だったり。配達の人かと思ってたんですけど」


高村刑事は一歩踏み込み、低い声で続ける。


「その人たち、何か話しているのを聞いたことは?」


女性は声を潜める。


「揉めている、というほどじゃないけど……声が少し荒い日もありました。『金』って言葉が聞こえた気がして」


高村刑事は静かにうなずく。


「ありがとうございます。ほかに気になることは?」


女性は一瞬ためらい、門の外に視線を向けた。


「夜になると、家の裏の方で物音がしたことがあって……でも、関わらない方がいいと思って」


高村刑事は帽子のつばに指をかけ、軽く頭を下げた。


「貴重なお話です。何か思い出したら、こちらに連絡してください」


女性は不安そうにうなずき、扉を静かに閉めた。


高村刑事は通りに戻り、周囲を見渡す。

落ち葉の間に残る、いくつかの新しい靴跡。

夕暮れの風が吹き、枯葉が足元を流れていく。


「……ただの心臓発作じゃ、なさそうだな」


遠くで子どもの笑い声が一瞬だけ響き、すぐに静寂に飲み込まれた。

1999年の秋の住宅街は、何も語らないまま、確かに異変を抱えていた。


―現代パート・商店街―

日時:11月中旬 午後4時半

場所:東京郊外・古い商店街


夕方の空気が冷え始め、商店街にはオレンジ色の街灯が灯り始めていた。

アーケードの下を、アキトは新聞配達員の制服姿で歩いている。肩には束ねた夕刊、足取りは自然で、どこにでもいる配達員そのものだった。


「……この時間帯、人の流れは悪くない。噂話も拾いやすいな」


小声でつぶやきながら、アキトは視線を下げつつ、周囲の音に意識を集中させる。

魚屋の前では威勢のいい声、和菓子屋からは甘い香りと笑い声。

どれも日常の一部だが、その中に微かな違和感が混じっていた。


商店街の端、古い金物屋の前に差しかかったときだった。


「……?」


少し離れた場所で、優子と一緒に歩いていたモカが、急に足を止めた。

鼻先を低くして地面に近づけ、同じ場所を何度も嗅いでいる。


「モカ? どうしたの?」


優子が声をかけるが、モカは応えず、尻尾をピンと張ったまま低く唸った。


その様子に気づいたアキトは、新聞を直すふりをして距離を詰める。


「……優子さん、その辺りですか?」


「ええ、この金物屋の前……急に匂いを嗅ぎ始めて」


モカは舗道から、店の裏手へと続く細い路地の入口に鼻を向けた。

落ち葉が溜まり、人の出入りが少なそうな場所だ。


「……この匂い、覚えてる」


優子が息を呑む。


「覚えてるって……?」


「前に、倉庫街で嗅いだのと同じ反応よ。モカ、あの時もこんな感じだった」


モカは短く「ワン」と一声鳴き、路地の奥を見つめた。

ただ吠えるのではなく、“知らせる”ような鳴き方だった。


アキトは一瞬だけ表情を引き締め、すぐに配達員の顔に戻す。


「……当たりかもしれませんね」


イヤーピースに指をかけ、低い声で無線を入れる。


「玲、聞こえるか。商店街の金物屋裏。モカが反応した。倉庫街と同系の匂いだ」


少し間を置いて、玲の落ち着いた声が返ってくる。


『了解。位置情報を送れ。アキトはそのまま周囲に溶け込め。深追いはするな』


「了解」


アキトは新聞を抱え直し、何事もなかったように歩き出す。

その背後で、モカはまだ路地の奥を見つめ、低く鼻を鳴らしていた。


「……やっぱり、ただの商店街じゃないわね」


優子の呟きに、アキトは振り返らずに答える。


「ええ。日常の中に、ちゃんと痕跡は残ります。

見つけるかどうかは……鼻と、目次第です」


夕暮れの商店街に、買い物客の笑い声が流れる。

その裏側で、過去と現在を繋ぐ小さな糸が、確かに引かれ始めていた。


―1999年・住宅街外れ―

日時:1999年11月下旬 午後10時過ぎ

場所:都内近郊・老朽化した住宅街の空き家前


街灯のオレンジ色の光が、錆びついたフェンスや古いレンガの壁に長い影を落としていた。

夜風が吹き抜け、乾いた音を立てて落ち葉が道路を転がっていく。

人の気配はなく、静けさだけがこの一帯を支配していた。


空き家の窓は割れ、板で覆われた隙間からかすかな月明かりが室内に差し込んでいる。

玄関前には、日付の古い新聞紙が無造作に散らばり、風に煽られてひらひらと揺れていた。


高村刑事は足を止め、顎で玄関先を示した。


「……鈴木、あれを見ろ」


鈴木刑事は懐中電灯を構え、指示された方へ光を向ける。


「新聞、ですか? かなり前のものみたいですね」


「そうだ。だが、ただ捨てられてる感じじゃない」


高村は一歩踏み出し、新聞紙の端を靴先で軽く押さえた。

その下には、かすかに擦れた靴跡が残っている。


「最近、人が出入りした痕跡だ。

空き家の割には、踏み跡が新しい」


鈴木は眉をひそめ、周囲を見回す。


「確かに……近所の人が入ったにしては、時間帯が不自然ですね」


風に煽られ、割れた窓の板がきしりと音を立てた。

その音に、鈴木が一瞬だけ身構える。


「それに、この新聞……」


鈴木は一枚を拾い上げ、街灯の光にかざした。


「日付が三日前です。誰かが、わざわざ置いた可能性もあります」


高村は低く唸る。


「見張りか、合図か……あるいは、ただの目くらましか」


玄関の扉は、わずかに隙間が空いていた。

鍵はかかっていない。


高村は懐中電灯を握り直し、鈴木に視線を向ける。


「中を確認する。物音には敏感になれ」


「了解です」


二人は足音を殺し、慎重に玄関へと近づいた。

床板が、かすかに軋む。


室内に一歩踏み込んだ瞬間、古い埃と、どこか甘ったるい匂いが鼻をついた。


鈴木が小声で言う。


「……この匂い、前の現場と似てませんか」


高村は答えず、暗闇の奥を見据えたまま静かに言った。


「偶然じゃないな。

この家も……何かを隠してる」


街灯の光が背後で揺れ、二人の影が玄関の壁に長く伸びていた。

1999年の夜は、まだ真実を語ろうとはしていなかった。


―現代パート・倉庫街跡地―

日時:11月中旬 午後4時半

場所:東京郊外・再開発前の倉庫街跡地


夕陽が傾き、倉庫街跡地の建物群は一様にオレンジ色へと染まっていた。

古びたコンクリートの壁には長い影が伸び、使われなくなった街灯が遠くで心許なげに点滅している。

風にあおられた落ち葉が吹き溜まりに集まり、踏みしめるたびに乾いた音が静寂を裂いた。


アキトは灰色の軽作業員用ジャケットに身を包み、軍手をはめた手で古い段ボール箱を抱えて倉庫の中へ入る。

姿勢は自然、視線は低め。

周囲から見れば、点検か片付けに来た作業員そのものだった。


「……ここか」


小さく呟き、足を止める。

倉庫の一角には、年季の入った木箱や潰れかけの段ボールが無造作に積み上げられていた。

床には埃と土が混ざり、ところどころに新しい足跡が残っている。


その足元で、モカがリードを緩められ、静かに動き出した。

鼻先を床すれすれに近づけ、慎重に匂いを追っていく。


「モカ、頼む。無理はするな」


アキトの低い声に、モカは一度だけ尻尾を揺らし、再び作業に集中する。

箱の周囲を回り、角に鼻を押し当て、床板の継ぎ目にまで丁寧に鼻先を差し込んでいく。


くん、と小さく息を吸い込んだ瞬間、モカの動きが止まった。

次の瞬間、低く短い唸り声が喉から漏れる。


「……反応したな」


アキトは箱をそっと床に置き、しゃがみ込む。

モカが示しているのは、積み上げられた段ボールの最下段。

一見するとただの廃棄物だが、近づくと微かに異質な匂いが混じっているのがわかる。


モカは箱の側面に鼻を押し付け、前足で床を引っ掻くような仕草を見せた。


「ここか……」


アキトは周囲を一度見回し、人影がないことを確認してから、箱の蓋に手をかける。

わずかに持ち上げた瞬間、埃が舞い上がり、夕陽の光の中できらりと浮かんだ。


中には、古い封筒とファイルが無造作に詰め込まれている。

紙の匂いに混じって、わずかに油と金属の匂いが漂った。


モカは箱の中を一度嗅ぎ、はっきりとした調子で短く吠える。


「……ビンゴだな」


アキトは口元を引き締め、無線のスイッチに指をかけた。


「玲、モカが反応した。箱の中に記録と……人の匂いが残ってる。

ここ、間違いなく使われてた跡だ」


夕陽はさらに傾き、倉庫内の影を濃くしていく。

過去と現在が交差するその場所で、モカの鼻先は、確かに真実への道を指し示していた。


―現代パート・―


高村刑事宅・リビング

日時:現代 午後3時過ぎ

場所:東京都内・高村刑事自宅


高村刑事宅のリビングには、午後の柔らかな日差しがカーテン越しに差し込み、古い木製家具の輪郭を淡く浮かび上がらせていた。

空気中には長年染みついた紙と木の匂いが漂い、埃が光の筋の中をゆっくりと舞っている。


ソファに腰掛けた高村は七十四歳になっていた。

細くなった手で新聞の切り抜きを持ち、杖を横に置いたまま、静かに紙面を見つめている。


向かいの椅子に座る玲は、無言でその様子を見守っていた。

やがて、高村が低く息を吐く。


「……もう二十五年以上前だ。だが、不思議と忘れられん」


玲は小さく頷く。

「1999年の件ですね。当時、現場で聞き込みをされたと伺いました」


高村は切り抜きを机に置き、視線を宙に向けた。

その目は、過去の風景をなぞるように静かに揺れている。


「夕方だった。今みたいに、秋の陽が傾く時間だ」

「住宅街でな……あの家の周りを、一軒一軒回った」


玲はメモを取らず、ただ耳を傾ける。


「最初に話を聞いたのは、向かいの奥さんだった」

高村の声が、少しだけ若返る。


「『変な物音は聞かなかったか』って聞いたらな……」

「最初は皆、口を揃えて何も知らないって言う」


高村はかすかに笑うが、その表情に温かさはない。


「だが、一人だけ違った」

「路地の角に住んでいた老人だ」


玲は視線を上げる。

「何か証言が?」


「ああ」

高村は指先で机を軽く叩く。


「『夕方、男が二人、家の前で言い争っていた』ってな」

「声は低くて、聞き取れなかったが、片方は何度も“金”って言ってたそうだ」


玲の目が細くなる。

「その証言は、記録に?」


高村は首を横に振った。

「残らなかった」

「上からは、心臓発作で処理しろと圧がかかってな」


リビングに、時計の秒針の音だけが響く。


「聞き込み中も妙だった」

高村は続ける。


「皆、同じことを言うように揃いすぎていた」

「まるで、前もって話を合わせたみたいにな」


玲は静かに言った。

「不自然ですね」


「ああ」

高村は切り抜きを指でなぞる。


「現場の家の裏手……倉庫の方を指さして、誰も近づこうとしなかった」

「質問すると、視線を逸らすんだ」


高村は一度、言葉を切った。


「……あの時、もっと踏み込むべきだった」

「だが、若かった。組織の中で逆らう力もなかった」


玲は穏やかな声で言う。

「今、こうして話してもらえたことが、十分です」


高村はゆっくりと玲を見る。

「君が来なければ、この話も墓まで持っていくつもりだった」


窓の外で、風が木々を揺らした。

カーテンがわずかに揺れ、午後の光が新聞の切り抜きを照らす。


「……聞き込みで感じた違和感は、今でも消えん」

高村は低く呟く。

「事件は、終わっちゃいなかった」


玲は静かに立ち上がり、深く一礼した。

「ありがとうございます。必ず、続きを辿ります」


過去の現場で交わされた小さな言葉の断片が、今、再び繋がろうとしていた。


【現代・午後5時前/住宅街・旧倉庫近くの路地】


夕暮れの光が住宅街を柔らかく染め、街路樹の影が舗道に長く伸びていた。

乾いた風にあおられ、赤や茶の落ち葉が足元を滑るように舞っていく。


アキトは軽作業員の服装に身を包み、肩に段ボール箱を抱えたまま、周囲に溶け込むように歩いていた。

箱の中には、倉庫で回収した古い書類、細かく裂かれた紙片、そして埃まみれの封筒が詰められている。


「……この辺りか」


小さく呟いた声は、風に紛れて消えた。


その隣を、モカがリードを付けて歩いている。

普段は落ち葉を追いかけたがるはずのモカが、急に足を止めた。


「どうした?」


アキトが視線を落とした瞬間、モカの鼻が低く動き、地面から空気へと匂いを追い始める。

尻尾がぴたりと止まり、耳がわずかに立った。


モカは一度、アキトの足元を回り込み、路地の奥――古い住宅の塀の方をじっと見つめた。


「……反応してるな」


アキトは歩調を変えず、視線だけを自然に流す。

塀の向こう側、街路樹の影に紛れて、誰かが立ち止まっている気配があった。


モカが低く「フッ」と鼻を鳴らす。


「関係者……か」


アキトは段ボールを抱え直し、あくまで配送途中の作業員を装ったまま、モカのリードを軽く引いた。


「よし、いい子だ。気づかせるな」


モカは理解したように一歩下がりつつも、視線と鼻先はその方向から離さない。

空気の中に残る、古い紙と人の匂いが、確かに一致していた。


夕暮れの住宅街は、何事もない日常の顔をしている。

だがその裏で、過去と現在を繋ぐ影が、静かに動き始めていた。


【現代・翌朝7時半/優子の自宅・リビング】


朝日がカーテンの隙間から静かに差し込み、リビングのソファと床を淡く照らしていた。

夜の冷えがまだ少し残る室内に、時計の秒針の音だけが規則正しく響いている。


優子はソファに腰を下ろし、両手を膝の上で重ねたまま、しばらく動かずにいた。

深く息を吸い、ゆっくりと吐く。その動作を何度か繰り返すうちに、胸の奥に残っていた重さが少しずつ薄れていく。


「……終わったのよね」


誰に向けるでもない小さな声が、静かな部屋に溶けた。

1999年から続いていた出来事、忘れ去られていた記録、曖昧に処理されてきた違和感。

それらがようやく一つの線として繋がり、幕を下ろしたのだという実感が、遅れて押し寄せてくる。


窓の外では、近所の家のシャッターが上がる音や、遠くを走る車のエンジン音が聞こえ始めていた。

世界は何事もなかったかのように、いつもの朝を迎えている。


優子は立ち上がり、窓辺に歩み寄る。

ガラス越しに射し込む光を受けながら、穏やかな住宅街を見渡した。


「……ちゃんと、前に進める」


そう呟いた声には、もう迷いはなかった。

過去は過去として胸に残る。だが、それに縛られ続ける必要はない。


カーテンを少しだけ開き、朝の光を部屋に招き入れる。

静かなリビングに満ちる明るさは、新しい一日の始まりを、確かに告げていた。


【時間:深夜0時過ぎ】

【場所:玲探偵事務所・書斎】


夜の闇が窓の外に広がり、街灯の柔らかな光が書斎の机の端だけを淡く照らしていた。

室内には、紙をめくる音とペン先が紙を擦る微かな音だけが続いている。


玲は背筋を伸ばしたまま机に向かい、山積みの書類を一枚ずつ丁寧に確認していた。

古い事件記録、聞き込みの走り書き、時系列を書き直したメモ。

それらを整理しながら、現場報告書の最後の欄に淡々と文字を書き込んでいく。


「……因果関係、確認済み。偶然じゃない」


低く呟き、ペンを止める。

一瞬だけ目を閉じ、静かに息を吐いた。


そのとき、背後で床がわずかに軋んだ。


「まだ起きてたのか」


振り返ると、ドア枠にもたれるようにアキトが立っていた。

ラフな服装のまま、片手をポケットに入れ、気負いのない表情を浮かべている。


「お前こそ、帰ったんじゃなかったのか」

玲が視線を戻しながら言う。


「報告書の途中だろ。電気ついてたから寄っただけだ」

アキトはゆっくりと室内に入り、机の端に視線を落とした。

「……ずいぶん昔の事件まで掘り返したな」


「掘り返したんじゃない。置き去りにされてただけだ」

玲は書類を揃え、静かに答える。

「誰かが見ていないふりをした真実は、時間が経っても消えない」


アキトは小さく息を吐き、苦笑する。

「相変わらずだな。そこまで背負わなくてもいいだろ」


「背負ってるつもりはない」

玲はペンを置き、アキトを一瞥した。

「ただ、終わらせる役目なだけだ」


一瞬の沈黙のあと、アキトは肩をすくめる。

「……じゃあ、邪魔したな。無理すんなよ」


「心配はいらない」

玲は再び書類に向き直る。

「もう少しで片がつく」


アキトは何も言わずに頷き、静かに書斎を出ていった。

ドアが閉まると、再び部屋にはペンの音だけが戻る。


玲は最後の一文を書き終え、そっと報告書を閉じた。


「――これで、一区切りだ」


街灯の光が、書斎の壁に細長い影を落としていた。


【時間:午後3時過ぎ】

【場所:郊外の喫茶店・窓際席】


午後の柔らかな陽射しが、喫茶店の大きな窓から差し込み、テーブルの木目を淡く浮かび上がらせていた。

外では通りを歩く人々の話し声や、自転車のベルの音が、遠くで溶け合うように響いている。


アキトは窓際の席に腰を下ろし、コーヒーカップを指先で軽く回した。

湯気と一緒に立ち上る苦味のある香りを一度吸い込み、静かに息を吐く。


「……やっと、一区切りってところか」


独り言のように呟き、通りを眺める。

スーツ姿の会社員、買い物袋を下げた主婦、学校帰りの学生。

誰もがそれぞれの生活を背負い、何事もなかったように歩いている。


アキトは口元にわずかな笑みを浮かべた。

「事件が終わっても、世界は普通に回る。まあ、それでいいんだが」


コーヒーを一口飲み、喉を潤す。

頭の中には、変装の段取り、現場の空気、無線越しの玲の声が一瞬よぎったが、すぐに意識から切り離した。


「次は……少しは楽な仕事だといいな」


そう言いながらも、その声には本気とも冗談ともつかない響きが混じっている。

結局、自分はまた誰かの影に溶け込み、裏側を歩くのだろうと分かっているからだ。


窓の外で信号が変わり、人の流れが動き出す。

アキトはカップを置き、軽く背筋を伸ばした。


「さて……帰るか」


席を立つその背中には、もう先ほどまでの緊張はない。

午後の光の中、彼はごく普通の一人の客として、静かに喫茶店を後にした。


【時間:午後4時10分】

【場所:玲探偵事務所・解析室】


午後の柔らかい光がブラインド越しに差し込み、白い机の上に淡い影を落としていた。

パソコンの画面には、年代表で整理された過去の事件資料と、現代の解析結果が並んで表示されている。


御子柴理央は椅子に深く腰掛け、背筋を崩さないままキーボードを打ち続けていた。

カタカタ、と一定のリズムで響くキー音だけが、部屋の静けさを保っている。


「……1999年の現場記録と、今回の証拠データ。時系列は一致、矛盾なし」


独り言のように低く呟き、画面を切り替える。

古い聞き込み記録、当時の警察資料、そして最新の解析ログ。

それらが一本の線として、ようやく重なり始めていた。


「隠されてたのは事実じゃなくて、つながりだな……」


そのとき、背後で控えめにドアが開く音がした。


「お、まだ詰めてるか」


振り返ると、アキトが気の抜けた様子で立っていた。

学生風の服装のまま、片手に缶コーヒーを持っている。


理央は一瞬だけ視線を向け、すぐ画面に戻す。

「ああ。最後の照合だ。ここでズレが出たら全部意味がなくなる」


アキトは軽く肩をすくめ、机の端に寄りかかる。

「相変わらず几帳面だな。もう十分じゃないか?」


「十分かどうかは、数字が決める」

理央は淡々と答え、キーを叩く手を止めない。

「……よし。全部一致。これで“偶然”じゃないって証明できる」


アキトは小さく息を吐き、感心したように笑った。

「なるほど。裏で動いてた俺たちより、よっぽど地味で厄介だな」


「派手さは必要ない」

理央はようやくキーボードから手を離し、椅子にもたれた。

「真実が残れば、それでいい」


一瞬、解析室に静寂が戻る。

午後の光が少し傾き、モニターの表示が淡く反射した。


アキトは缶コーヒーを差し出す。

「はい。糖分補給。頭使っただろ」


理央は一拍置いてから受け取り、短く言った。

「……助かる」


二人はそれ以上多くを語らない。

だが、積み重ねられたデータと沈黙が、すべてを物語っていた。


【時間:午前8時30分】

【場所:佐々木家・リビング】


朝の柔らかな日差しがカーテンの隙間から差し込み、リビングのソファを穏やかに照らしていた。

昨夜の雨が嘘のように空気は澄み、窓の外では小鳥の鳴き声がかすかに聞こえる。


優子はソファに腰掛け、膝の上にモカを抱いていた。

犬の柔らかな体温が伝わり、ゆっくりと上下する呼吸が、部屋の静けさと溶け合っている。

優子は背中から首元にかけて、一定のリズムで撫で続けていた。


「……落ち着いたわね。もう大丈夫よ」


モカは小さく鼻を鳴らし、丸くなったまま動かない。

その様子に、優子はわずかに口元を緩めた。


キッチンの方から、コーヒーの香りとともに足音が近づく。

アキトがマグカップを片手にリビングへ入ってきた。


「朝からずいぶん静かだな」


低く、いつもの男口調でそう言いながら、ソファの向かいに腰を下ろす。

モカは一瞬だけ顔を上げ、アキトを見ると、また安心したように目を閉じた。


「昨日までが嘘みたい」

優子はモカの耳元を撫でながら言う。

「張り詰めてたものが、やっとほどけた気がする」


アキトはコーヒーを一口飲み、視線を床に落とした。

「……ああ。終わったって実感、こういうときに来るな」


しばらく沈黙が流れる。

陽射しが少しずつ室内を移動し、テーブルの上の影が伸びていく。


「アキト」

優子が静かに声をかける。

「あなた、これからどうするの?」


アキトは一瞬考えるように天井を見上げ、それから短く答えた。

「しばらくは、何もないふりをする。普通に暮らす」

「それが一番、厄介で一番大事だからな」


優子は小さく息を吐き、うなずいた。

「……そうね。普通が、一番難しいもの」


モカが再び鼻を鳴らし、優子の腕の中で身じろぎする。

アキトはその様子を見て、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「こいつも、よく頑張ったな」


「ええ」

優子は優しく微笑む。

「守る側も、守られる側もね」


朝の光は変わらず穏やかで、リビングには何事もなかったかのような平穏が満ちていた。

それでも三人は、確かに同じ時間を越えて、ここに戻ってきていた。


【時間:午後4時10分】

【場所:佐々木家・庭先】


西日が低く傾き、庭の植木を黄金色に染めていた。

刈り込まれた枝葉の隙間から光が差し込み、地面にまだらな影を落とす。

住宅街は静かで、遠くから子どもの笑い声と、洗濯物が風に揺れる音だけが聞こえていた。


沙耶は手袋をはめ、剪定ばさみを握ったまま、植木の形を整えている。

だが視線は作業だけに向いていなかった。

通りを行き交う人影、向かいの家のカーテンの揺れ、角を曲がる自転車――

その一つ一つを、無意識のうちに確認している。


「……平和、だよね」


独り言のように呟き、切り落とした枝をまとめる。

その背後で、砂利を踏む控えめな足音がした。


「気、抜いてないな」


振り返ると、アキトが庭の端に立っていた。

作業員風でも学生風でもない、素の格好。

それでも立ち姿は相変わらず周囲に溶け込むように静かだ。


「癖みたいなものよ」

沙耶ははさみを置き、軽く肩をすくめる。

「終わったって分かってても、目が勝手に追うの」


アキトは通りに視線を走らせ、一通り確認してから言った。

「異常なし。今日は本当に、何も起きてない」


「……そう」

沙耶は少しだけ息を緩めた。

「それを聞けるだけで、十分」


沈黙が落ちる。

風が葉を揺らし、乾いた音が庭に広がる。


「沙耶」

アキトが低く声をかける。

「もう、守る側に戻らなくていい」


沙耶は一瞬、言葉を探すように空を見上げた。

西日に照らされた雲が、ゆっくりと流れている。


「分かってる」

そう答えてから、静かに続けた。

「でもね、家族を守る目まで手放すつもりはないの」


アキトは小さく息を吐き、苦笑にも似た表情を浮かべた。

「……それは、止められないな」


「でしょう?」

沙耶は微かに笑う。

「あなたも同じでしょ」


アキトは否定しなかった。

代わりに、庭全体を見渡しながら言う。


「ここは、守る価値がある場所だ」


沙耶は剪定ばさみを持ち直し、最後の枝を切り落とす。

「ええ。だから今は、こうして手入れしてるの」


西日が完全に傾き、庭に長い影が伸びる。

二人はそれ以上言葉を交わさず、同じ方向を見て立っていた。

過去を越えた者同士だけが共有できる、静かな時間の中で。


【時間:午前10時30分】

【場所:玲探偵事務所・解析室】


窓から差し込む午前の柔らかな日差しが、机上のモニターを明るく照らしていた。

ブラインド越しの光は白く拡散し、キーボードの上に淡い影を落とす。

室内には機械の低い駆動音と、空調の一定の風音だけが流れていた。


奈々は椅子に深く腰かけ、背筋を崩さないまま画面を見つめている。

過去の取引データ、銀行記録、現代の解析結果が複数のウィンドウで並び、時系列ごとに整理されていた。

指先は迷いなくキーを叩き、不要なデータを弾き、必要な情報だけを抽出していく。


「……これで全部、一本に繋がったな」


独り言のように呟き、フォルダ名を確定させる。

その瞬間、背後でドアが控えめに開いた。


「相変わらず、無駄がないな」


振り返らなくても、声で分かる。

奈々は画面から目を離さずに答えた。


「無駄を残すと、あとで必ず問題になるから」


アキトは壁際に立ち、室内を一瞥する。

整理された机、必要最低限の資料、静かな空気。

奈々の仕事場らしい光景だった。


「もう最終チェックか?」

「ええ。過去の取引と今回の脅迫文、資金の流れ、全部一致してる」


奈々はキーボードから手を離し、モニターを少しだけ回転させた。

「この口座。表向きは休眠扱い。でも、定期的に少額が動いてる」


アキトは画面を覗き込み、低く息を吐く。

「……完全に足がつかないと思ってたわけだ」


「そう。でも、完全なんて存在しない」

奈々は淡々と言い切る。

「記録は必ず残る。消されたとしても、歪みは出る」


アキトは小さく笑った。

「頼もしいな。裏方にしておくには惜しい」


「向いてない役はやらない主義なの」

奈々は椅子に深く座り直し、再びキーボードに指を置く。

「現場は、あなたの仕事でしょ」


「まあな」

アキトはそれ以上踏み込まず、軽く肩をすくめた。


数秒の沈黙。

キーを叩く音だけが、一定のリズムで室内に響く。


「……これで、本当に終わりだな」

アキトが静かに言う。


奈々は最後のファイルを保存し、画面を閉じた。

「ええ。少なくとも、数字の上では」


そして、初めてアキトの方を見る。

「お疲れさま。表も裏も、今回は綺麗に片付いた」


アキトは短く頷いた。

「それを聞けただけで十分だ」


窓の外では、午前の光が変わらず穏やかに街を照らしている。

奈々はモニターの電源を落とし、静かに立ち上がった。

事件は終わった。

少なくとも、この部屋では、すでに次の静けさが始まっていた。


【時間:午後8時】

【場所:高村刑事・自宅書斎/鈴木刑事・自室(オンライン通話)】


パソコンの画面に、ゆっくりと二つの映像が並んだ。

片方には、高村刑事の自宅書斎。年季の入った木製の書棚が壁一面に並び、背表紙の色あせた資料が静かに時を物語っている。

もう一方には、鈴木刑事の部屋。机の上には資料とメモが几帳面に積まれ、現役時代と変わらない整理癖がそのまま残っていた。


「……こうして顔を合わせるのは、何年ぶりだ」

高村が画面越しに低く言う。


「十年以上ですね」

鈴木は眼鏡を指で押し上げ、少しだけ口元を緩めた。

「退職してからは、連絡も最低限でしたから」


高村は手元の新聞切り抜きを指でなぞる。

「それでも、結局この件でまた集まることになるとはな」


「1999年の現場……」

鈴木は視線を落とし、机上のメモに目をやる。

「当時、心臓発作で片付けた件です」


沈黙が一拍、画面を挟んで流れた。


「間違っていた、とは言い切れん」

高村は静かに言った。

「だが、見落としたものは確実にあった」


そのとき、書斎のドアが軽くノックされた。


「邪魔するぞ」


振り向くと、アキトが壁際に立っていた。

私服姿で、表情はいつものように飄々としている。


「話は終盤か?」

「いや、ちょうど核心だ」

高村は椅子に深く腰を下ろしたまま応じた。


鈴木は画面越しにアキトを見て、小さく息を吐く。

「あなたが、今回裏を洗っていた人物ですね」


「まあ、そんなところだ」

アキトは肩をすくめる。

「俺は繋いだだけ。判断したのは、あんたたちの過去だ」


高村は苦笑する。

「随分と耳が痛い言い方だな」


「事実だからな」

アキトは淡々と続ける。

「当時、証拠は揃ってなかった。でも、違和感は残ってたはずだ」


鈴木は画面を見つめたまま、ゆっくりとうなずく。

「……残っていました。ずっと」


高村は新聞切り抜きを机に置き、背もたれに体を預けた。

「刑事ってのは、白か黒かを急ぎすぎる。灰色を抱えたままにする勇気が、あの頃はなかった」


アキトは視線を窓の外に向ける。

「今なら、違うか?」


「今なら……」

高村は少し考え、静かに答えた。

「記録には残せなくても、後悔は減らせるかもしれん」


鈴木は口元を引き締める。

「せめて、次に繋がった。それだけで、意味はあります」


短い沈黙のあと、アキトが踵を返した。

「じゃあ、俺はここまでだ。過去はあんたたちのもんだ」


高村は画面越しに鈴木を見て、深く息を吐く。

「……また一つ、区切りがついたな」


「ええ」

鈴木は静かに答えた。

「ようやく、ですね」


パソコンの画面には、二人の元刑事の姿だけが残る。

書斎と自室、それぞれの静けさの中で、長年胸に残っていた重みが、少しだけ軽くなっていた。

午後四時過ぎ。

場所:高村刑事・自宅書斎。


西日の角度が変わり、書斎の壁に並ぶ古い書棚の影がゆっくりと伸びていた。

高村は肘掛け椅子に深く腰を下ろし、膝の上に置いた一冊のファイルを静かに閉じる。表紙には、色あせた文字で「1999年」とだけ記されていた。


「……結局、俺たちは“事故”って言葉で片付けちまったな」


低く呟く声は、独り言のようでいて、向かいに座る男に向けられていた。


鈴木は机の前の椅子に座り、両手を組んだまま視線を落としている。

机の上には当時の現場写真のコピーと、最近まとめ直したメモが重ねられていた。


「証拠が足りなかった。上も急いでた。俺たちも若かった……言い訳なら、いくらでも出てきますね」


高村は苦笑し、窓の外に目をやる。

住宅街の向こうで、子どもたちの声がかすかに響いていた。


「それでもだ。引っかかってたんだよ。あの家の空気、書類の切れ端、血の位置……」

「分かってた。何かがおかしいって」


鈴木はゆっくり顔を上げる。


「それでも踏み込まなかった。俺たちは“刑事”でいることより、“組織の中の人間”でいることを選んだ」


しばらく沈黙が落ちる。

時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いた。


高村はファイルを撫でるように指で押さえ、静かに言う。


「今さらだがな……若い連中が、もう一度掘り返してくれた」

「完全な真相じゃないかもしれん。それでも、“なかったこと”にはしなかった」


鈴木は小さく息を吐き、わずかに口元を緩めた。


「それで十分かもしれません」

「少なくとも、あの事件は“終わったふり”をやめた」


西日が完全に沈み、書斎は薄暗くなる。

高村は立ち上がり、棚から一冊のノートを取り出した。


「俺たちの仕事は、もう現場じゃない」

「だが、語り継ぐことはできる」


鈴木は静かに頷いた。


「ええ。間違いも含めて、ですね」


二人の視線が、同じ1999年の文字に向けられる。

それは後悔ではなく、ようやく向き合えた“記録”そのものだった。


静かな書斎に、再び時計の音だけが流れ始める。

それはもう、逃げるための沈黙ではなかった。

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