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97話 落ち葉の街の影 ― 玲探偵事務所・静かな脅迫事件 ―

【登場人物紹介】


れい

玲探偵事務所の所長。冷静沈着で感情を表に出さないが、依頼の本質を見抜く洞察力に優れる。

個人間の金銭トラブルや脅迫のような“表に出にくい事件”を得意とする指揮官。


アキト

潜入・変装担当。郵便配達員、事務員、配送業者、学生など、状況に応じて姿を変える。

普段は男口調で淡々としているが、現場では抜群の適応力を見せる。


奈々(なな)

情報・金融調査担当。返済履歴、取引記録、データの矛盾点を洗い出すスペシャリスト。

感情よりも事実を重視し、事件の裏付けを固める。


御子柴みこしば 理央りお

分析官。脅迫文、書面、行動パターンから加害者像を導き出す理論派。

静かな口調だが、分析結果は鋭く的確。


沙耶さや

聞き込み・周辺調査担当。近隣住民や関係者から自然に情報を引き出す。

生活感覚に根ざした視点で、事件の“歪み”を見逃さない。


佐藤優子さとう ゆうこ

玲探偵事務所に関わる協力者。事件関係者の一人として行動を共にする場面もある。

冷静さと行動力を併せ持つ一般人の視点。


中川真也なかがわ しんや

生活安全課の刑事。証拠の受け取りと公式処理を担当。

民間である玲チームの調査結果を信頼している。


表向きは「昔の貸し借り」。

しかしその裏には、静かで執拗な脅迫と、人の弱さにつけ込む影があった。

玲探偵事務所は、声にならない不安を拾い上げ、

誰にも気づかれぬまま、事件を終わらせる。

冒頭


【11月上旬・午後2時/玲探偵事務所・ロッジ内(東京郊外)】


秋の柔らかな日差しが、ロッジの大きな窓から静かに差し込み、木製の床や年季の入った家具を淡く照らしていた。

外では街路樹の赤や黄色の葉が風に乗って舞い、遠くで子どもの笑い声がかすかに聞こえる。穏やかな午後だった。


コン、コン、と控えめなノック音が響く。


「どうぞ」


玲の低い声に応えるように、ドアが開いた。

佐藤優子が、胸に小さな茶色の犬を抱いて顔を覗かせる。


「玲さん、こんにちは。今日はお礼を言いに来ました。モカも一緒です」


モカは床に下ろされると、すぐに事務所の中を一周し、尻尾を小刻みに振りながらソファへ跳び乗った。クッションの上で一度くるりと回り、満足そうに座る。


「ここ、覚えてるみたいですね」


優子が小さく笑う。


玲は書類から視線を上げ、モカの様子を一瞥してから静かに言った。


「落ち着いてる。もう怯えた様子はないな」

「はい。夜もちゃんと眠るようになりました。散歩も……前より好きになったみたいです」


優子は膝にモカを抱き寄せ、その温もりを確かめるように指先で背中を撫でた。


「本当に、ありがとうございました。あの時、玲さんに連絡していなかったら……今でも後悔していたと思います」


「結果がすべてです。無事に戻った。それでいい」


玲の淡々とした言葉に、優子は少しだけ肩の力を抜いた。


そのときだった。


――チリン、と甲高いベルの音が、ロッジ内に不釣り合いなほど大きく響いた。


ドアが勢いよく開き、白髪交じりの高齢の男性が、肩で息をしながら立っていた。古びたコートの胸元を掴み、手にはくしゃくしゃに折れた封筒を握りしめている。


「す、すみません……ここが、探偵事務所で……合ってますか……?」


声は震え、額には汗が浮かんでいた。


玲は椅子から立ち上がり、ゆっくりと男性に近づく。


「ええ、そうです。どうぞ中へ。深呼吸してください」


男性は言われるまま椅子に腰を下ろし、封筒を胸に抱えたまま俯いた。


「昔……昔、知り合いに金を貸しまして……返すと言ったまま、姿を消して……もう何年も……」


封筒から覗くのは、古い借用書の角だった。


「警察にも相談しました。でも、民事だと言われて……もう、どうしていいか分からなくて……」


玲は男性の前に座り、落ち着いた声で言う。


「順番に聞きます。貸した時期、金額、相手の名前。覚えている範囲で構いません」


その様子を、優子は少し離れた場所から見守っていた。

モカを抱きしめる腕に、自然と力が入る。


「……また、始まるんですね」


思わず漏れた小さな声に、玲は一瞬だけ視線を向ける。


「ええ。依頼がある限り、ここは動き続けます」


優子は静かに頷いた。


窓の外では、ひときわ強い風が吹き、落ち葉が一斉に舞い上がる。

その光景はまるで、このロッジに新たな物語が流れ込んでくる前触れのようだった。


穏やかな午後は、いつの間にか、次の事件の入り口へと姿を変えていた。


【11月上旬・午後3時/玲探偵事務所・ロッジ内(東京郊外)】


事務所の中は、木の香りと紙の匂いが混じった静かな空気に包まれていた。

玲は机の上に並べた書類を一枚ずつ整え、視線を上げずに淡々と指示を出す。


「奈々。金融機関と、過去に関わりのあった取引先を洗ってくれ。返済履歴と未回収分の流れを重点的にだ」

「了解です。時間軸も整理して共有します」


奈々は即座にタブレットを操作し、通信を繋ぎ始める。


「沙耶は男性宅の周辺だ。聞き込みと、最近の出入りを確認してほしい」

「任せて。噂話も含めて拾ってくるわ」


沙耶はコートを羽織りながら、軽く頷いた。


「理央。手元の借用書と脅迫文の分析を頼む。筆跡、紙質、インク……全部だ」

「了解。書いた人間の癖、できるだけ炙り出す」


理央は資料を手に取り、静かに席に着いた。


【同時刻/東京郊外・高齢男性宅前】


郵便配達員風の制服に身を包んだアキトは、門柱の前で一度だけ深呼吸した。

肩には配達用のバッグ。姿勢も歩き方も、完全に“日常”の一部だ。


「自然に訪問者として溶け込む……怪しまれないように、だな」


小さく呟きながらインターホンに近づき、周囲をさりげなく観察する。

向かいの家のカーテンの揺れ、角を曲がる車の速度。

すべてが、情報だった。


【同時刻/玲探偵事務所・ロッジ内】


優子はソファの横に置かれたケージの扉を開け、モカを抱き上げる。


「モカ、今日はお願いね。お仕事よ」


モカは小さく「ワン」と鳴き、床に下ろされると封筒や書類の匂いを嗅ぎ始めた。

くしゃくしゃになった古い借用書に鼻先を近づけ、興味深そうに尾を振る。


玲はその様子を見下ろし、穏やかな声で言う。


「モカ。今日は嘱託警察犬だ。証拠物の匂いと、不審な人間の気配を覚えてくれ。頼りにしてる」


まるで言葉を理解したかのように、モカは短く鳴いて歩き出した。


【同時刻/高齢男性宅付近】


庭先の空気を嗅ぎ分けるように、モカが画面越しに映る。

その鼻先が、通りを歩く一人の見慣れない人物の方向を捉えた瞬間、低く短く吠えた。


「……来たか」


アキトは即座に視線を送り、無線を指先で押す。


「玲。目標確認。周囲と違う動きの人物あり。少し様子を見る」

『了解。そのまま観察を続けろ。無理はするな』


【同時刻/金融機関・通話回線】


奈々の声は冷静だった。


「はい……過去の返済履歴、確認できました。……ええ、やはり未返済分がありますね。分割が途中で止まっています」


彼女は画面に表示された数字を次々と整理していく。


【同時刻/男性宅周辺】


沙耶は近隣住民に自然に声をかけていた。


「最近、このお宅に出入りしている方、見かけませんでした?」

「ええ……確かに、夕方になると知らない人が何度か」


沙耶の表情が、わずかに引き締まる。


【同時刻/玲探偵事務所】


理央は脅迫文を光に透かし、静かに呟いた。


「筆圧が一定すぎる……意図的だな。紙質も同じ。これは間違いなく、同一人物」


午後の柔らかな日差しがロッジ内を満たす中、

それぞれの場所で、点だった情報が少しずつ線を結び始めていた。


そして、モカの鋭い鼻先が示す方向は――

この事件が、さらに深い場所へ続いていることを、静かに告げていた。


【11月上旬・午後3時20分/玲探偵事務所・ロッジ内(東京郊外)】


玲は窓際に立ち、ブラインド越しの光を背にしながらモニターを見つめていた。

画面の中では、アキトがカメラの死角に一瞬立ち止まり、深く息を整えている。


玲はインカムのスイッチを押し、低く告げた。


「アキト、潜入開始。怪しい動きがあれば、すぐ報告しろ」


無線越しに届く声は冷静そのものだが、言葉の端にわずかな緊張が滲んでいる。


『了解。今から入る』


【同時刻/東京郊外・金融関連事務所前】


アキトは一瞬で表情を切り替えた。

紺色の事務員用カーディガンに名札、手には書類ファイル。

背筋をやや丸め、歩幅を小さく――どこにでもいる「事務員」の所作だ。


「失礼します。本日の回収書類を受け取りに来ました」


受付の女性に向けた声は柔らかく、抑揚も控えめ。

警戒心を刺激しない、完璧な“事務員の声”だった。


「はい、少々お待ちください」


女性が席を外した隙に、アキトは視線だけで室内を走査する。

壁の掲示物、机の配置、監視カメラの位置。

そして、棚の奥にまとめられた“古い未処理ファイル”。


(……あったな)


心の中で呟きつつ、彼はファイルを運ぶ係のように自然に近づく。


【同時刻/玲探偵事務所・ロッジ内】


モニター越しに、その一連の動きを見ていた奈々が小声で言った。


「……違和感ゼロですね。本当に事務員にしか見えません」

「だろうな。あいつは“役に入りすぎる”」


玲は視線を外さず、静かに続ける。


「だが油断はするな。書類の中身に触れた瞬間が、一番危ない」


【同時刻/事務所内部】


アキトは棚から一冊のファイルを抜き取り、表紙を確認する。


(未回収・個人融資……高齢者名義、か)


その瞬間、背後から声がかかった。


「それ、今日使う予定でしたっけ?」


アキトは一拍も置かず、振り返って答える。


「ええ。上から急ぎで確認が入ってまして。すぐ戻します」


相手は特に疑う様子もなく、頷いた。


「そうですか。お願いします」


アキトは軽く会釈し、ファイルを抱えたまま歩き出す。

その足取りは、どこまでも自然だった。


【無線・小声】


『玲、当たりだ。未回収案件、脅迫文と一致する名義あり。写し取る』


玲は即座に応じる。


「了解。深追いはするな。記録を最優先だ」


窓の外では、落ち葉が風に舞っている。

だが事務所の中では、確実に事件の核心へと近づく歯車が、静かに回り始めていた。


【11月上旬・午後4時05分/東京郊外・住宅街隣接の小規模商店】


夕方に差しかかる時間帯、商店のガラス戸には西日が反射し、店内の商品棚に長い影を落としていた。

惣菜と日用品を扱う昔ながらの小さな商店で、客足はまばらだ。


アキトはジャケットを羽織り、スマートフォンを手にしたまま店内へ入った。

背筋は少し力を抜き、視線は棚の商品を追うだけ。

どこにでもいる、仕事帰りの客そのものだった。


「すみません、電池ってどこですか?」


レジ奥から顔を上げた中年の店主が応じる。


「ああ、右の棚の下段だよ。最近よく売れるんだ」


「ですよね。家のリモコン、急に切れちゃって」


何気ない世間話を交わしながら、アキトは店内の様子を観察する。

バックヤードへ続く扉の開閉頻度、店主の視線の癖、客同士の距離感。


(……奥で話してるな)


バックヤードから、かすかに低い声が聞こえる。

金額、返済、期限。断片的だが、聞き覚えのある単語だ。


アキトは棚の商品を手に取りながら、自然に位置をずらす。


「この店、前からやってるんですか?」

「もう三十年以上だな。最近は物騒でさ……変な客も増えた」


店主は声を潜め、ちらりと奥を気にする。


「借金の話で揉めてる人もいるし、あんまり首突っ込まないほうがいい」


アキトは軽く笑ってみせる。


「ですね。面倒ごとは御免です」


その表情の裏で、言葉を一つも逃さず拾っていた。


【同時刻/商店外・路地】


モカはリードをつけたまま、優子の足元を離れ、店の裏手を慎重に回っていた。

鼻先を地面に近づけ、落ち葉や段ボール箱、壁際の隙間を丹念に嗅ぎ分ける。


「……どう? モカ」


優子が小声で問いかけると、モカは一度立ち止まり、耳を立てた。

そして、同じ匂いを追うように、路地の奥へ進む。


低く、短い唸り声。


次の瞬間、控えめだがはっきりとした吠え声が上がった。


「……誰かいる」


近くで様子を見ていた玲が即座に反応する。


「警告吠えだな。匂いが一致してる」


理央がタブレットを確認しながら言う。


「さっきの事務所と同じ香水成分。人物、同一の可能性が高い」


【再び商店内】


アキトは会計を済ませ、袋を受け取る。


「ありがとうございます。助かりました」

「また来てください」


店を出る直前、アキトは無線に小さく息を吹きかけた。


「玲、ここも繋がってる。金の流れと人の動き、同じ匂いだ」


玲の声が即座に返る。


「了解。モカも反応した。次は裏の動線を洗うぞ」


商店の外では、夕暮れが街をゆっくりと包み込み始めていた。

だがその静けさの下で、確実に包囲網は狭まりつつあった。


【11月上旬・午後5時32分/東京郊外・倉庫街】


日が傾き始め、倉庫街はオレンジ色の街灯に照らされていた。

アスファルトの上には人影と建物の影が長く伸び、古びた倉庫が規則正しく並ぶ通りは、夕方にもかかわらず不自然なほど静まり返っている。

遠くで聞こえるのは、風に揺れる金属板のかすかな音だけだった。


アキトは運送会社のロゴが入った配達員用ジャケットを着込み、キャップを深くかぶって倉庫街に足を踏み入れた。

肩には伝票バインダー、両手には中身の軽い段ボール箱。

歩き方は慣れた配達員そのものだ。


「……この時間帯なら、多少うろついても不自然じゃない」


小さくつぶやき、視線を上げずに周囲を確認する。

倉庫のシャッターの開閉状況、トラックの有無、監視カメラの位置。

街灯の死角になる場所を、無意識に頭の中で線で結んでいく。


一棟目の倉庫の前で足を止め、アキトは伝票をめくる仕草をした。


「えーっと……この辺のはずなんだけどな」


独り言を装いながら、シャッター脇の人感センサーとカメラを確認する。

レンズの角度はやや内向き。

外周の死角が一瞬だけ生まれる。


(使えるな)


そのまま二棟目へ向かう途中、遠くで車のエンジン音が低く唸った。

アキトは歩調を変えず、段ボールを抱え直す。


倉庫の裏手に回ると、モカの反応を思い出すように足を止めた。

地面には新しいタイヤ跡。

それも、ここ数時間以内についたものだ。


「……やっぱり、出入りしてる」


無線に指先を軽く当て、声を落とす。


「玲、倉庫街に入った。配達員として自然に動ける。車両の痕跡あり、まだ人がいる可能性が高い」


少し間を置いて、玲の声が返る。


「了解。無理はするな。モカと理央のデータと照合中だ」


アキトは軽く息を整え、倉庫の側面に設置された非常口に視線を向けた。

鍵は古く、最近使われた形跡がある。


オレンジ色の街灯の下、アキトの影が倉庫の壁に細長く映る。

その影は、静かに、しかし確実に真相へと近づいていた。


【11月上旬・午後8時14分/東京郊外・所轄警察署前】


夜の住宅街は街灯に照らされ、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

冷えた空気の中、アスファルトに落ちる光が淡くにじみ、警察署の白い外壁だけが浮かび上がって見える。


アキトは黒い軽作業服に身を包み、肩をやや落とした配送作業員らしい姿勢で警察署の入口へ向かっていた。

両腕に抱えた段ボール箱は見た目より軽いが、中身はこの事件の流れを決定づける重要な証拠データと物品だ。


「表向きは配送作業員……これなら誰にも怪しまれない」


小さくつぶやき、視線を落としたまま歩調を一定に保つ。

受付前には夜勤の警察官が一人立っており、書類に目を落としていた。


アキトは自然な動作で立ち止まり、段ボールを軽く持ち上げる。


「夜分すみません。生活安全課宛ての荷物です」


警察官は顔を上げ、段ボールの送り状に目を走らせる。


「生活安全課……ああ、今日の件ですね。中川刑事に回します」


「お願いします。取扱注意で」


声の調子も、言葉の選び方も、どこにでもいる配送員そのものだった。

警察官は特に疑う様子もなく、段ボールを受け取る。


「ご苦労さまです」


「どうも」


短いやり取りを終え、アキトは一歩引いて軽く会釈をした。

その瞬間、箱の中に詰められた証拠が、正式に公の手に渡ったことを実感する。


警察署を背に歩き出しながら、アキトは夜空を一瞬だけ見上げた。

街灯の光の下、静かに息を吐く。


「……これで一つ、区切りだな」


住宅街の闇に溶け込むように、アキトの背中はゆっくりと遠ざかっていった。


【11月中旬・夜/東京郊外・玲探偵事務所】


事務所の灯りはすでに落とされ、デスクライトだけが窓際を淡く照らしていた。

外では風が街路樹を揺らし、落ち葉が舗道を転がる乾いた音がかすかに届く。


玲は最後の報告書を閉じ、静かに息を吐いた。

ペンを置いた指先に、わずかな疲労と確かな手応えが残っている。


「……これで全部だな」


誰に向けるでもない独り言が、静かな部屋に溶けた。


ソファでは優子がモカを膝に乗せ、そっと背中を撫でている。

モカは安心しきった様子で目を細め、小さく喉を鳴らしていた。


「本当に、ありがとうございました」


優子の声は穏やかで、もう震えてはいない。


「探して、見つけて、終わらせただけだ」


玲は淡々と答えながらも、視線を一瞬だけモカに向けた。

小さな命が、何事もなかったかのようにそこにいる。その事実が、この事件の結末だった。


玄関のドアが軽く開き、アキトが顔を出す。


「お疲れ。警察からも連絡来た。全部、正式に処理されたってさ」


「そうか」


玲は短く頷く。


奈々はタブレットを閉じ、椅子の背にもたれた。


「派手さはなかったけど、こういう終わり方が一番ですね」


「日常に戻れる。それが成功だ」


理央はモニターを落とし、静かに立ち上がる。


窓の外では、街灯の下を一人の通行人が通り過ぎていく。

誰も、この部屋で何が行われていたかを知らない。

それでいいのだと、玲は思った。


優子は立ち上がり、モカを抱き上げる。


「もう、前みたいに散歩できます。怖がらずに」


「気をつけろよ。秋は、いろいろ起きやすい」


玲の言葉に、優子は小さく笑った。


ドアが閉まり、足音が遠ざかる。

事務所には再び静けさが戻った。


玲は窓辺に立ち、夜の街を見下ろす。

事件は終わった。だが、街は変わらず息づいている。

そしてまた、誰かの不安や小さな異変が、ここへ辿り着くのだろう。


「……次が来るまで、少し休むか」


デスクライトを消すと、事務所は闇に包まれた。

外では風が止み、落ち葉も動きを止めていた。


静かな夜が、確かな終わりを告げていた。


【11月下旬・午前9時/東京郊外・佐藤優子宅の庭】


朝の澄んだ空気の中、庭一面に散った落ち葉が陽光を受けてきらきらと光っていた。

犬小屋の周りを、モカが小さな足で忙しなく駆け回っている。落ち葉を踏むたび、しゃりっと軽い音が響いた。


「こら、モカ。そんなに走ったら転ぶぞ」


縁側に立つ優子が笑いながら声をかけると、モカは一瞬だけ振り返り、誇らしげに尻尾を振った。


その横に、気配を殺すようにして一人の男が立つ。

ウィッグも派手な服装もない、いつもの姿に戻ったアキトだった。


「……元気そうじゃないか」


低く落ち着いた声に、優子は少し驚いたように振り返る。


「アキトさん。今日は変装なしなんですね」


「さすがに、犬の庭でまで配達員やる気はない」


肩をすくめるアキトに、優子はくすっと笑った。


モカは新しい匂いに気づいたのか、一直線に駆け寄ってくる。

くんくんと鼻を鳴らし、アキトの靴先を念入りに嗅いだあと、小さく吠えた。


「覚えてるみたいですね」


「だろうな。あいつ、仕事中はやたら鋭かった」


アキトはしゃがみ込み、指先を差し出す。

モカは一瞬警戒したあと、ぺろりと舐め、満足そうに尻尾を振った。


「よしよし。もう危ない場所に行くなよ」


まるで人に言い聞かせるような口調だった。


優子はその様子を見つめ、静かに口を開く。


「本当に……助かりました。モカが戻ってきてから、夜もちゃんと眠れるんです」


「それでいい。日常に戻れたなら、俺たちの仕事は終わりだ」


アキトは立ち上がり、庭を一度見回す。

穏やかな朝、吠える犬、洗濯物が揺れる音。

事件の影は、どこにも残っていなかった。


モカが再び庭を走り出し、落ち葉を舞い上げる。


「なあ、モカ」


アキトはぽつりと声をかける。


「次に会うときは、ただの散歩中でいい」


モカは意味がわからないまま、元気よく吠えた。


アキトは小さく口角を上げ、踵を返す。


「じゃあな。達者でやれ」


優子は深く頭を下げた。


「ありがとうございました。……本当に」


アキトは手を軽く振るだけで、何も言わずに門を出ていった。


庭には、モカの足音と、穏やかな秋の朝だけが残っていた。


【12月初旬・午後8時/玲探偵事務所・執務室】


事務所の中は静まり返り、デスクライトの白い光だけが机の上を照らしていた。

事件で集めた写真、記録媒体、証言メモ――それらはすでに分類され、無駄のない配置で並んでいる。


玲は椅子に腰掛け、最後の報告書に目を通していた。

ペンを持つ手の動きは静かで正確だ。


「……これで一件、完全に終わりだな」


小さく呟いたその声に、ドアの方から足音が重なる。


「お疲れ。まだやってたのか」


コートを肩にかけたアキトが、気取らない様子で入ってくる。

いつもの軽い口調だが、どこか仕事終わりの緩みが滲んでいた。


「確認は最後までやる主義だ。曖昧なまま終わらせると、後で必ず歪みが出る」


玲は視線を上げずに答える。


「相変わらずだな。証拠も流れも完璧だろ。警察に回した後は、もう俺たちの出番はない」


アキトは机の端に腰を預け、書類の束をちらりと見た。


「それでもだ」


玲は報告書を閉じ、ゆっくりと息を吐く。


「依頼人が“終わった”と実感できるところまでが仕事だ。事件は解決しても、気持ちは簡単に片付かない」


「……優子のことか」


「それだけじゃない。俊介も、真理子も、みんなそうだった」


玲は立ち上がり、窓の外を見る。

夜の街に街灯が点り、静かな日常が戻っている。


アキトは一瞬黙り込み、やがて肩をすくめた。


「俺は潜って、証拠取って、抜ける。それで十分だと思ってたけどな」


「お前がいたから、成り立った案件も多い」


玲は振り返り、淡々と続ける。


「変装、潜入、尾行。どれも代えが利かない役割だ」


「珍しいな、素直に褒めるの」


「事実を言っているだけだ」


アキトは小さく笑い、椅子を引いて座る。


「じゃあさ……次は少し、静かな仕事がいい。犬も泣かない、夫婦も壊れないやつ」


「依頼が選べればな」


玲はわずかに口元を緩める。


「だが、どんな事件でもやることは同じだ。事実を集めて、嘘を削る」


「冷たいな」


「現実的だ」


二人の間に、短い沈黙が落ちる。

だが、それは重くはない。


玲は報告書をファイルに収め、棚に戻した。


「今日はもう終わりにする。帰れ」


「はいはい、所長」


アキトは立ち上がり、ドアへ向かう。


「……なあ、玲」


「なんだ」


「今回の件、悪くなかった」


「そうか」


それ以上の言葉は交わされない。

アキトは手を振って出ていき、扉が静かに閉まる。


玲は一人残り、デスクライトを消した。


事件は終わった。

だが、探偵の夜は、また次へ続いていく。


【12月中旬・午後4時/御子柴理央・研究室】


午後の淡い陽射しがブラインド越しに差し込み、白を基調とした研究室の床に細長い影を落としていた。

複数のモニターにはログデータ、通信履歴、時系列グラフが並び、静かな電子音だけが空間を満たしている。


理央は椅子に深く腰掛け、背筋を伸ばしたまま画面を見つめていた。

指先は迷いなくキーボードを叩き、視線は数字と文字列を高速で追っている。


「……これで脅迫者の行動パターンも把握できた」


独り言のように呟いた直後、背後でドアが軽くノックされた。


「相変わらず、要塞みたいな部屋だな」


振り返ると、アキトが壁にもたれかかるように立っていた。

仕事帰りらしく、ラフなジャケット姿だ。


「侵入経路は一つだけ開けてある。無駄な動線は嫌いだから」


理央は視線をモニターに戻したまま応じる。


「冷たいな。もう少し歓迎してくれてもいいだろ」


「歓迎する相手は、データを乱さない人間だけだ」


「ひでえ」


アキトは肩をすくめながら、理央の隣のモニターを覗き込む。


「それが今回のまとめか?」


「ええ。脅迫文の投函時間、移動経路、通信遮断の癖。すべて同一人物の行動特性と一致する」


画面には、赤いラインで結ばれた時系列図が表示されていた。


「なるほどな……俺が尾行してた時の動きとも合う」


「あなたの現場データがあったから、精度が上がった」


理央は一瞬だけアキトを見る。


「感謝している」


「……今の、褒め言葉でいいんだよな?」


「事実よ」


アキトは照れ隠しのように鼻を鳴らす。


「頭脳班と現場班、ちゃんと噛み合ってたってことだ」


「ええ。どちらかが欠けていたら、結果は違っていた」


理央はキーボードから手を離し、深く息を吐いた。


「これで、この件は完全に終わり。後は警察と司法の領域」


「俺たちの仕事は、ここまでか」


「そう」


一瞬の静寂。

研究室の時計が、規則正しく秒を刻む。


「……なあ、理央」


「何?」


「お前、こういう作業してる時が一番楽しそうだぞ」


理央は少しだけ目を細める。


「感情ではない。整合性が取れた瞬間は、単純に美しいだけ」


「やっぱ変わってる」


「今さらね」


二人の間に、穏やかな空気が流れる。


「じゃ、俺は帰る。次は現場で会おうぜ」


「ええ。無茶はしないで」


「それは約束できないな」


軽く手を振り、アキトは部屋を出ていった。


理央は再びモニターに向き直り、保存ボタンを押す。


解析は終わった。

だが、真実を読み解く彼女の静かな時間は、今日も変わらず続いていく。


【12月下旬・午後3時/都内・駅前カフェ】


午後の柔らかな日差しが大きな窓から差し込み、通りを行き交う人々の影がテーブルの上をゆっくりと横切っていた。

年末が近づいているせいか、街の空気はどこか穏やかで、急ぐ人も少ない。


アキトは学生風のパーカーにジーンズというラフな服装で、窓際の席に腰を下ろしていた。

手元のカップから立ち上るコーヒーの香りを感じながら、自然体のまま外を眺めている。


「……平和だな」


小さく呟き、カップに口をつける。

視線は通りを歩く人々の靴、歩幅、視線の動きへと無意識に向いていた。


ベビーカーを押す夫婦、スマートフォンに夢中な学生、仕事帰りらしいスーツ姿の男。

誰もがそれぞれの生活を抱え、事件とは無縁の顔をしている。


「任務が終わると、こういう日常がやけに目に入る」


アキトは苦笑し、窓に映る自分の姿を一瞬だけ見た。

今の自分は、ただの学生にしか見えない。


「変装ってのは、結局“溶け込む”ことだ」


誰にも気づかれず、誰にも疑われない。

それが一番安全で、一番難しい。


通りの向こうで、落ち葉を踏みながら走る子どもを見て、アキトはふっと息を吐いた。


「……守れたなら、それでいいか」


今回の件で救われた人や動物の顔が、脳裏をよぎる。

派手な達成感はないが、胸の奥には確かな手応えが残っていた。


コーヒーを飲み干し、アキトは立ち上がる。


「さて、次に備えるか」


学生風のまま人波に紛れ、彼は静かにカフェを後にした。

またいつか、別の顔で、別の場所へ向かうために。


【12月中旬・午後4時/東京郊外・佐々木家近くの住宅街】


冬の陽が傾き始め、庭先の影がゆっくりと長く伸びていた。

沙耶は軍手をはめ、低木の剪定ばさみを手に黙々と作業を続けている。枯れた枝を落とすたび、乾いた音が静かな住宅街に小さく響いた。


「……この枝、伸びすぎね」


独り言のように呟き、切り落とした枝をまとめる。

そのとき、門の外から砂利を踏む足音がした。


作業員風の服装に身を包んだアキトが、工具箱を肩にかけたまま、何気ない様子で近づいてくる。

帽子を深くかぶり、視線は控えめ。周囲を警戒しつつも、不自然さは一切ない。


「こんにちは。近くで水道管の点検をやってまして」


低めの、落ち着いた男の声。

沙耶は一瞬だけ手を止め、顔を上げた。


「……ああ、そうなんですね。ご苦労さまです」


一見すると、ただの世間話。

だが沙耶の視線は、アキトの靴先や工具箱の持ち方を素早く観察していた。


「この辺り、最近空き巣被害があったって聞いたもんで。

 高齢者の家を中心に、少し様子を見させてもらってます」


アキトはそう言いながら、自然な流れで隣家――一人暮らしの高齢男性の家に視線を送る。


沙耶は剪定ばさみを置き、静かに答えた。


「そう……確かに、最近見慣れない人を見かけたことはあるわね。

 夕方になると、あの家の前で立ち止まってる人がいた気がする」


「ありがとうございます。助かります」


アキトは軽く会釈し、声を落とす。


「……今の話、もう少し詳しく聞いてもいいですか?」


その一言で、沙耶は確信した。

目の前の男が、ただの作業員ではないことを。


「ええ。中に入って。温かいお茶くらい出せるわ」


アキトは一瞬だけ周囲を確認し、小さく頷く。


「助かります。俺も、少し話したいことがある」


二人は何事もなかったかのように門をくぐり、庭を横切って家へ向かう。

外から見れば、近所同士の穏やかなやり取り。


だがその裏で、静かに情報は集まり、次の一手が組み立てられていく。


冬の空の下、剪定された枝の向こうで、見えない捜査が確かに進んでいた。


【12月下旬・午後7時/玲探偵事務所・解析室】


室内にはパソコンのファン音と、キーボードを打つ乾いた音だけが規則正しく響いていた。

モニターには金融取引の履歴、送金ルート、時系列グラフが整然と並んでいる。


奈々は背筋を伸ばしたまま、淡々と画面を切り替え、最後のチェックを終えた。


「……返済履歴、全件確認完了。名義も送金経路もクリア。

 これで二度と同じ手は使えないな」


キーボードから手を離し、深く息を吐く。

そのタイミングを見計らったように、背後のドアが静かに開いた。


「相変わらず仕事が早いな」


アキトがカジュアルなジャケット姿で入ってくる。

変装は解いているが、癖で周囲を一瞬だけ確認する視線は変わらない。


奈々は振り返らず、軽く肩をすくめた。


「遅い方が困るでしょ。

 ……それに、今回は相手が甘かった」


「確かにな」


アキトは奈々の隣に立ち、モニターを覗き込む。


「ここまで綺麗に洗い出されるとは思ってなかっただろうな、向こうも」


「自分の記録を甘く見た結果。

 データは嘘つかないから」


奈々は冷静に言い切り、ファイルを一つ閉じる。


「現金、電子マネー、名義貸し。

 全部一本の線で繋がった。これ以上掘る必要はない」


「助かる。現場側も動きやすくなる」


アキトは小さく笑い、椅子にもたれかかった。


「それにしてもさ……

 お前、ずっと画面見てて疲れないのか?」


「疲れるけど、放置する方が嫌」


奈々はようやく彼を見る。


「中途半端なまま終わる案件が、一番気持ち悪い」


「……職人気質だな」


「そっちは?」


「俺は俺で、もうしばらく“普通の人間”のフリ」


冗談めかして言いながらも、声は落ち着いている。


奈々は小さく笑った。


「変装、もう癖になってるでしょ」


「否定はしない」


二人の間に、短い沈黙。

だがそれは気まずさではなく、仕事を終えた者同士の静かな余韻だった。


奈々はモニターの電源を落とし、立ち上がる。


「これで完全終了。

 あとは報告書を玲さんに回すだけ」


「了解。じゃあ、今日はここまでだな」


アキトはドアに向かいながら振り返る。


「……いい仕事だったぞ、奈々」


奈々は一瞬だけ目を伏せ、淡々と答えた。


「当たり前。私の仕事だから」


解析室の灯りが一つ消え、夜の事務所に静けさが戻る。

表に出ることはないが、確実に“終わらせた”という実感だけが、二人の背中に残っていた。

【中川刑事のあとがき】


夜更けの警察署。

生活安全課のフロアには、すでに人影はまばらで、コピー機の低い駆動音だけが時折響いていた。


中川真也はデスクに肘をつき、提出された報告書の束を静かに見下ろしていた。

玲探偵事務所から届いた資料は、いつも通り過不足がない。事実だけを淡々と積み上げ、感情や憶測を一切挟まない――それが、かえって事件の重さを際立たせる。


「……貸し借り、脅迫、恐怖心。

 どれも大げさじゃないが、放っておけば人を壊す」


中川は小さく息を吐き、椅子の背にもたれた。

今回の件は、派手な事件ではなかった。銃も爆発もない。

だが、もし誰も動かなければ、高齢者は追い詰められ、静かに何かを失っていたはずだ。


「こういう事件ほど、警察だけじゃ拾いきれないんだよな……」


そう呟きながら、彼は視線を窓の外へ向けた。

夜の街は穏やかで、何事もなかったかのように灯りが連なっている。


民間の探偵に頼ることを、快く思わない同業者もいる。

だが中川は知っている。

玲たちは“踏み込みすぎない”。

しかし、“見逃さない”。


法の外に踏み出さず、だが法の届かない場所を照らす。

その絶妙な距離感があるからこそ、警察は最後に仕事ができる。


「……あのチームがいなけりゃ、今回も“事件未満”で終わってたな」


彼は報告書を閉じ、ファイルに綴じた。

机の片隅には、次の案件の簡単なメモが置かれている。

また、似たような相談が来るだろう。


中川は立ち上がり、上着を手に取った。


「静かな街ほど、影は濃い。

 だが……全部を警察が抱え込む必要はないか」


そう独りごちて、署の明かりを一つ落とす。

扉が閉まる音が、静かな廊下に小さく響いた。


事件は終わった。

だが、人の生活は続いていく。

その隙間に潜む影を、誰かが見ている限り――

街は、まだ大丈夫だと。

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