95話 街灯の下で、真実は静かに息をする
【登場人物紹介】
玲
私立探偵。冷静沈着で理知的だが、内には強い正義感を秘めている。
状況に応じて女装や変装も厭わないプロフェッショナルで、その完成度は周囲が言葉を失うほど。
「事実だけを示す」ことを信条とし、依頼者の感情には深く踏み込みすぎない距離感を保つ。
アキト
玲の右腕的存在。尾行・潜入・現場対応を担当する行動派。
軽口を叩くことも多いが、観察力と判断力は一級品。
仕事として割り切りながらも、人の変化には誰よりも敏感。
奈々(なな)
情報分析と記録整理を担うサポート担当。
冷静で論理的、証拠の積み上げに一切の妥協をしない。
感情より事実を優先するが、チームの安定剤的存在。
佐伯俊介
今回の依頼者。妻の行動に違和感を覚え、玲探偵事務所を訪れる。
誠実で真面目な性格ゆえに、裏切りの事実を受け止めるまでに時間を要した。
離婚後、静かに新しい人生を歩み始める。
佐伯真理子
俊介の元妻。穏やかで家庭的に見えるが、心の奥に満たされない思いを抱えていた。
離婚後は過去を受け入れ、自分の人生を選び直そうとしている。
不倫相手の男性
真理子と関係を持っていた人物。
物語の中心には立たないが、事実を決定づける存在として登場する。
静かな住宅街、街灯の下、
誰にも知られず積み重ねられた事実は、
やがて逃げ場のない「真実」として姿を現す。
事件が終わっても、人生は続く。
その先に何を選ぶのかは――
探偵ではなく、当事者自身の問題なのだから。
冒頭
【プロローグ/東京都・杉並区/佐伯家リビング/20:00】
薄暗いリビングの片隅、ソファに腰掛ける男――
佐伯俊介は、無言のままタブレットの画面を見つめていた。
画面に表示されているのは、妻・真理子のスケジュールアプリ。
数分前まで、確かに彼女が指で操作していたはずのものだ。
「……また、“残業”か」
俊介の声は低く、喉の奥で擦れるように掠れていた。
画面をスクロールすると、今週の平日はほぼすべて同じ表示が並んでいる。
――19:30 社内会議
――20:00 取引先対応
――21:00 急な資料修正
どれも、それらしく整えられた予定。
だが、整いすぎていること自体が、俊介の胸に引っかかっていた。
「……こんなに毎日、同じ時間に“急な用事”が入るか?」
誰に向けるでもない言葉が、静かな部屋に落ちる。
リビングのローテーブルには、帰宅直後に置かれた真理子のバッグがある。
無造作に置かれているようで、中身はきちんと整えられていた。
俊介は立ち上がり、ためらいがちにバッグの口元を覗く。
化粧ポーチ。
いつもより念入りに揃えられたメイク道具。
そして――見慣れない、細身の香水瓶。
「……こんな匂い、前は使ってなかったよな」
瓶を手に取ることはせず、俊介はそっと視線を逸らした。
疑うこと自体が、何かを壊してしまいそうで怖かった。
それでも、胸の奥の違和感は消えない。
窓の隙間から、秋の夜気が忍び込む。
カーテンがわずかに揺れ、外を走る車の音が遠くで滲んだ。
壁掛け時計が、短く乾いた音を立てる。
カチリ。
針が「20:00」を指した瞬間、俊介はタブレットをテーブルに置き、深く息を吐いた。
「……真理子」
誰もいない部屋で、妻の名前を呼ぶ。
「本当に……仕事なのか?」
返事がないことは、最初から分かっている。
それでも口に出さずにはいられなかった。
俊介は両手で顔を覆い、しばらく動かなかった。
指の隙間から、暗く沈んだリビングの天井が見える。
「……俺ひとりで、確かめるには限界だ」
声は震えていたが、逃げの色はなかった。
「疑いたくない。でも……何もしないまま、目を逸らすのはもっと嫌だ」
ゆっくりと顔を上げた俊介の目には、迷いと覚悟が同時に宿っていた。
彼はスマートフォンを手に取り、検索欄に文字を打ち込む。
――玲探偵事務所
画面に表示された事務所の名前を、俊介は静かに見つめる。
「……頼むことになるかもしれないな」
その呟きは、決意というより、覚悟だった。
こうして、ひとつの“違和感”は、
やがて静かに扉を叩くことになる。
真実へと続く、
玲探偵事務所の扉を。
【プロローグ/東京都・住宅街/玲探偵事務所前/21:15】
街灯に照らされた静かな住宅街。
昼間の喧騒が嘘のように、通りを歩く人影はほとんどなかった。
遠くで車が一台通り過ぎ、タイヤがアスファルトを擦る音だけが残る。
その一角に、控えめな灯りを受けて小さなプレートが掲げられた建物があった。
――「玲探偵事務所」
古びているが手入れの行き届いたドアの向こうから、柔らかな明かりが漏れている。
まるで、訪れる者を静かに迎え入れるかのように。
扉の前で足を止めた佐伯俊介は、スーツの胸ポケットに手を当てた。
そこには、ここ数か月にわたって書き留めてきたメモと、印刷したスケジュールの写しが入っている。
「……」
無意識のうちに指先に力が入る。
心臓の鼓動が、やけに大きく耳に響いた。
(本当に……ここまでしていいのか)
妻を疑うことへの罪悪感。
だが、目を逸らし続けることへの恐怖。
俊介は一度、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「……確かめるだけだ」
そう自分に言い聞かせ、拳を軽く握る。
そして、ためらいを振り切るように扉をノックした。
コン、コン。
間を置かず、内側から低く落ち着いた声が返ってくる。
「――どうぞ」
俊介は喉を鳴らし、ドアノブを回した。
【東京都・玲探偵事務所/応接スペース/21:16】
室内は静かで、余計な装飾はない。
整然と並べられた書類棚と、柔らかな光を放つデスクランプ。
外の街灯とは違う、落ち着いた明かりが空間を包んでいた。
デスクの向こうに座っていたのは、白いシャツに黒いベストを身に着けた男。
背筋を伸ばし、こちらを真っ直ぐに見据える冷静な瞳。
探偵・玲だった。
「……こんばんは。こちらが、玲探偵事務所で間違いないでしょうか」
俊介の声は丁寧だったが、わずかに硬い。
玲は椅子に腰かけたまま、静かに頷く。
「ええ。間違いありません。……どうぞ、おかけください」
その声には余計な感情がなく、不思議と俊介の肩の力を少しだけ抜かせた。
俊介は勧められるまま椅子に座り、胸ポケットから資料を取り出す。
机の上に置いた瞬間、紙の重みが現実を突きつけてくる。
「……実は」
一度言葉を切り、俊介は視線を落とした。
「妻のことで、ご相談がありまして」
その瞬間、玲の視線がわずかに鋭くなる。
だが表情は変わらない。
「奥様の行動に、不審な点がある……そういう理解でよろしいですか」
玲の問いは淡々としていた。
責めるでも、煽るでもない。
俊介は小さく息を吸い、頷く。
「……はい。残業だと言われる日が増えました。
時間も、理由も、毎回似ていて……
最初は気のせいだと思っていたんですが……」
声がかすれる。
「自分だけでは、もう確かめきれなくて」
沈黙が落ちる。
デスクランプが二人の影を壁に映し出し、事務所の空気が静かに張りつめた。
玲はしばらく資料に目を落とし、やがて顔を上げる。
「……分かりました」
短く、しかしはっきりとした声だった。
「ご依頼、承ります。
真実が何であれ、曖昧なままにしておくよりは、向き合った方がいい」
俊介は思わず玲を見る。
「……怖くは、ないですか?」
玲は一瞬だけ目を伏せ、すぐに俊介を見返した。
「怖くない依頼など、ありません。
ですが――」
静かな声が続く。
「真実は、必ず光の下に現れます。
それを知る覚悟があるなら、私は全力を尽くします」
その言葉に、俊介の胸の奥で何かがほどけた。
小さな希望の灯が、確かにともる。
同時に、背筋をなぞる冷たい予感。
この先に待つ真実が、望む形とは限らないことも、理解していた。
それでも――。
「……お願いします」
俊介は深く頭を下げた。
こうして、ひとつの家庭の“違和感”は、
静かに調査対象へと姿を変える。
この夜、玲探偵事務所の扉は、
また一つの物語を迎え入れたのだった。
【東京都・玲探偵事務所/ミーティングスペース/21:40】
玲はデスクの上に資料を広げ、指先で一枚ずつ整えながら目を走らせていた。
窓の外では、街灯に照らされた住宅街が静まり返り、遠くを走る車の音だけが微かに響いている。
向かいの椅子にはアキトが軽く腰掛け、背もたれに体を預けたまま腕を組んでいた。
その隣で奈々はノートパソコンを開き、すでに画面に依頼者の情報を表示させている。
玲は資料から顔を上げ、二人を見た。
「……さっき来た依頼だ。依頼人は佐伯俊介。三十五歳、都内のメーカー勤務」
アキトが片眉を上げる。
「家庭案件か。久しぶりだね」
玲は淡々と続ける。
「妻・真理子。最近、残業が増えていると言って帰宅が遅い。
だが勤務先に確認すると、表向きは通常勤務の記録しか残っていない」
奈々の指が止まり、画面を切り替える。
「勤務先のタイムカード、リモート申請、社内スケジュール……全部“整いすぎてる”わね。
逆に言えば、作られている可能性も高い」
アキトが軽く口笛を吹く。
「なるほど。浮気か、別の顔か……あるいはもっと厄介な線?」
玲は視線を資料に戻しながら答える。
「現時点では断定しない。
ただ、俊介は“嘘をつかれている”と強く感じている。
香水、服装、帰宅時間――生活の変化が重なっている」
窓の外で風に揺れた木の影が、カーテン越しに揺らめいた。
奈々が静かに言う。
「感情だけじゃなく、違和感の積み重ね……ね。
このタイプの依頼は、本人が一番追い詰められてる」
アキトは椅子から少し身を乗り出した。
「で、俺たちの役割は?
尾行? 張り込み? それとも――“偶然の出会い役”?」
玲は一瞬だけアキトを見る。
「まずは事実確認だ。
奈々、奥さんの行動パターンを洗ってくれ。
仕事帰りの動線、立ち寄り先、曜日ごとの偏り」
「了解。通信履歴や位置情報はまだ触れないわ。
合法ラインで行く」
玲は頷き、次にアキトへ視線を移す。
「アキト、お前は予備。
状況次第で、接触役になる可能性がある」
アキトはにやりと笑った。
「“たまたま居合わせる他人”なら、任せて」
その軽い口調とは裏腹に、目はすでに仕事の色に切り替わっている。
玲は最後に資料を閉じ、静かに言った。
「これは家庭の問題だ。
だが――」
一拍置いて続ける。
「真実が家庭の外に繋がっていた場合、話は変わる。
慎重に行くぞ」
奈々が短く答える。
「ええ。感情より、事実を」
アキトは肩をすくめた。
「了解。
静かな住宅街の裏で、何が動いてるか……見せてもらおうか」
窓の外では、変わらぬ夜の静けさが続いていた。
その裏で、佐伯家の“違和感”は、確かに調査対象として動き出していた。
【東京都・住宅街/佐伯家前/22:18】
玲は門扉の前で一度だけ立ち止まり、静かに息を整えた。
夜風がロングコートの裾をわずかに揺らし、ワンピースの生地が街灯の光を柔らかく反射する。
足元のパンプスがコンクリートを踏む感触は、普段よりもわずかに高く、しかし確かだった。
ナチュラルメイクに整えられた中性的な顔立ちに、薄く纏わせた香水が夜気に溶ける。
強すぎず、だが記憶に残る香り――
“仕事帰りの女性”として、これ以上ないほど自然な存在感。
玲は視線を上げ、玄関ドアを見据えた。
「……」
無言のまま、チャイムに指を伸ばす。
ピンポーン――
電子音が、静まり返った住宅街に小さく響いた。
数秒。
室内で足音が動く気配。
ガチャリ、と控えめな音を立ててドアが開き、顔を覗かせたのは佐伯俊介だった。
一瞬、彼の目が戸惑いに揺れる。
「……はい?」
玲はわずかに首を傾け、柔らかく微笑んだ。
「夜分に失礼します。
佐伯真理子さんのお宅で、お間違いありませんか?」
俊介の喉が、ごくりと鳴る。
「え、ええ……そうですが。妻に、何か?」
玲は名刺を取り出さず、あくまで“個人的な来訪者”として距離を保つ。
「私、真理子さんの“仕事関係”の者です。
急ぎでお伝えしたいことがあって……少しだけ、お時間いただけますか?」
俊介の表情に、警戒と不安が入り混じる。
だが、拒む理由を見つけられないまま、彼は一歩身を引いた。
「……どうぞ」
玄関の灯りが、玲の影を室内へと引き込む。
その瞬間、彼女――いや、彼の目から、感情の色が消えた。
ここから先は、
“探偵・玲”ではなく――
“佐伯真理子の世界に踏み込む、ただの訪問者”。
静かな夜の住宅街で、
夫婦の真実へ続く扉が、確かに開いた。
【東京都・佐伯家リビング/22:22】
玄関から通されたリビングは、落ち着いた照明に包まれていた。
ベージュのソファ、整えられたローテーブル、生活感はあるが隙のない空間。
だが、どこか“整いすぎている”――玲はそう感じ取っていた。
キッチンの方から、湯を注ぐ音が聞こえる。
やがて、軽い足音とともに、真理子がトレイを手に戻ってきた。
「どうぞ。温かいほうがいいと思って」
湯気の立つ湯のみをテーブルに置きながら、真理子は穏やかに微笑む。
その表情は柔らかく、隙がない。
家庭の中に自然に溶け込む“理想的な妻”の顔だった。
「どうぞ、座ってください」
玲は一瞬だけ周囲に視線を走らせてから、勧められたソファに腰を下ろす。
姿勢は崩さず、だが威圧感を与えない距離感。
「ありがとうございます」
声は低く、丁寧で、どこまでも落ち着いている。
湯のみを両手で受け取り、軽く会釈した。
「お気遣い、感謝します」
真理子は向かいに腰を下ろし、俊介は少し離れた位置で二人の様子を窺っている。
リビングに、微妙な沈黙が落ちた。
湯気の向こうで、玲は真理子を静かに観察していた。
指先の動き、呼吸の間、視線の揺れ――
どれもが“慣れている”。
(……接客じゃない。
これは、人に見られることを前提にした振る舞いだ)
玲は湯のみを口に運び、一口だけ含む。
「……美味しいですね」
その一言に、真理子は少しだけ表情を和らげた。
「そう言っていただけてよかったです。
あまり人を家に招くことがなくて……」
「そうですか」
玲は静かに湯のみを置き、視線を真理子に戻す。
「突然の訪問で申し訳ありません。
ですが――少しだけ、お話を伺いたくて」
その言葉に、俊介の肩がわずかに強張った。
夜はまだ深く、
この静かなリビングで交わされる言葉が、
やがて夫婦の均衡を崩していくことを――
まだ、誰も口にしていなかった。
【東京都・佐伯家リビング/22:28】
リビングのソファに座る俊介は、落ち着かない様子で手元のスマートフォンを何度も確認していた。
画面を点けては消し、また点ける。その動きに、指先の震えが混じる。
通知画面には、位置情報アプリの履歴と、妻とのメッセージのやり取りが並んでいた。
無機質な時刻と地名の羅列が、かえって生々しく胸に刺さる。
――昨日。
【18:42】自宅発
【19:05】都心部・○○駅周辺
【22:17】位置情報更新なし
【23:56】自宅着
「……三時間以上、空白なんです」
俊介は低い声でそう言い、スマートフォンを両手で握りしめたまま、玲のほうを見ることなく続けた。
「残業だって言ってました。
『急な会議で遅くなる』って……メッセージも、たったそれだけで」
画面を操作し、短いやり取りを表示させる。
《今日は遅くなる。先に寝てて》
《了解。気をつけて》
それだけ。
感情も、説明も、余白もない。
「以前は、こんなことなかったんです。
遅くなるなら、必ず理由を言ってくれたし……電話だって」
俊介は唇を噛み、言葉を絞り出す。
「でも最近は、場所を聞いても
『仕事だから』
『言えない内容』
……そればかりで」
沈黙が落ちる。
湯のみの中の茶は、すでに湯気を失っていた。
玲は資料に視線を落としたまま、静かに口を開く。
「昨日の外出、服装は覚えていますか」
その問いに、俊介は一瞬だけ迷い、はっきりと頷いた。
「……はい。
仕事にしては、少し……」
言いかけて、言葉を切る。
その先にある感情を、口にするのが怖いようだった。
リビングの空気は、静かに、しかし確実に重くなっていく。
昨日の数時間――
それは、夫婦の間に横たわる、見えない溝の始まりだった。
【東京都・玲探偵事務所/深夜 23:41】
薄暗い事務所の一角で、モニターの青白い光が壁を照らしていた。
画面には、佐伯家のリビング。整然とした家具、消された照明、静まり返った空間。
その中央で、俊介がソファに座り込んだまま、動かずにいる姿が映っている。
玲は腕を組み、モニターから一瞬も目を離さず、低く口を開いた。
「……沈黙が長いな。
疑念を抱いた人間は、言葉より先に“間”で苦しむ」
背後で、椅子の軋む音が小さく鳴る。
アキトはモニターを覗き込みながら、静かに頷いた。
「だね。
問い詰める気も、信じ切る覚悟もない。
一番、心を削られる状態だ」
玲はわずかに目を細める。
「昨日の外出時間、位置情報の空白。
それに対して、妻は説明を避けている。
だが――」
指先でモニターのタイムラインをなぞりながら、続ける。
「現時点では、浮気と断定できる材料はない。
あるのは“不自然さ”だけだ」
アキトは顎に手を当て、軽く息を吐いた。
「でもさ、不自然ってのはさ……
往々にして、何かを隠してるサインでもある」
その言葉に、玲は否定も肯定もせず、静かに頷いた。
「だからこそ、こちらは感情を挟まない。
事実だけを拾う」
モニターの映像が切り替わり、過去数日の外出ログと、防犯カメラの配置図が並ぶ。
「明日から、尾行を開始する。
妻・佐伯真理子の行動を、時間単位で洗い出す」
玲の声は淡々としていたが、その奥には揺るぎない意志があった。
アキトは小さく笑い、肩をすくめる。
「了解。
じゃあ僕は――“偶然そこにいる人”をやればいいかな」
その軽い口調に、玲はようやく視線をモニターから外し、アキトを一瞥した。
「……頼む。
この件は、依頼人の人生に直結する」
アキトは一度だけ、深く頷いた。
「任せて。
真実が何であれ――ちゃんと、本人の前に置こう」
事務所の外では、深夜の住宅街が静まり返っていた。
だが、モニターの向こう側では、すでに歯車が回り始めている。
それが“誤解”なのか、“裏切り”なのか――
答えは、もうすぐ姿を現す。
【東京都郊外・佐伯家周辺/翌日 19:12】
夜風に乗って、街灯の橙色の光が歩道を淡く照らしていた。
アキトは肩にかけたトレンチコートを軽く整え、キャップのつばを指で下げる。髪と表情を影に溶かし込むその仕草は、すでに“日常の一部”だった。
(……出てきた)
少し離れた位置で、佐伯家の玄関が静かに開く。
現れたのは真理子だった。落ち着いた色のコートに控えめなヒール。派手さはないが、昨日と同じ香りが夜気にわずかに混じる。
アキトは視線を合わせない。
スマートフォンを操作するふりをしながら、歩き出すタイミングを半拍遅らせる。
(俊介さんの部屋、灯りは……消えたまま。よし)
真理子が角を曲がる。
アキトは自販機の前で一度立ち止まり、缶コーヒーを買う。硬貨の音が、周囲の生活音に紛れる。
「……っと」
独り言を装い、歩き出す。
距離は二十メートル。詰めすぎず、離れすぎず。
足音を揃えず、信号では同じ側に立たない。
住宅街を抜け、真理子は駅とは逆方向へ向かっていた。
その進路に、アキトの目がわずかに細まる。
(残業の方向じゃないな)
角を一つ、また一つ。
途中、真理子が立ち止まり、バッグの中を探る素振りを見せる。
アキトは即座に対応する。
道路を挟んで反対側に渡り、街路樹の影に視線を落とす。
(振り返り確認……じゃない。鍵だ)
再び歩き出す真理子の背中を、ショーウィンドウの反射越しに捉える。
直接見ない。それが、気配を消す一番の方法だった。
(……俊介さんには、悟らせない)
この尾行は、夫のためでも、妻を裁くためでもない。
ただ“事実”を拾うためのもの。
アキトは耳元の小型イヤーピースに、息を潜めたまま囁いた。
「こちらアキト。
対象、予定と異なる進路。現在、徒歩移動を継続中」
一瞬の間を置いて、玲の落ち着いた声が返る。
『了解。無理はするな。距離を保て』
「了解」
アキトは再び、住宅街の影に溶け込んだ。
真理子の足取りは迷いがなく、どこか“向かう場所を知っている”ようだった。
夜はまだ始まったばかりだ。
そしてこの静かな尾行の先に、佐伯家の運命を左右する答えが待っている。
【東京都内・玲探偵事務所/同日 19:24】
事務所の薄暗い部屋に、モニターの青白い光だけが浮かび上がっていた。
画面には、住宅街の街灯に溶け込むように歩くアキトの背中と、その少し前を行く真理子の姿が鮮明に映し出されている。
「距離、完璧ですね……二十二メートル前後で安定してます」
奈々がキーボードを叩きながら低く言った。
画面の隅には、リアルタイムで距離と心拍のログが流れている。
玲は腕を組み、モニターから視線を離さない。
「気取られていない。歩調も自然だ」
その時、画面の中で真理子が足を止め、バッグの中を探る仕草を見せた。
同時に、アキトが反対側の歩道へ自然に移動する。
奈々が小さく息を吐いた。
「……上手い」
数秒後、イヤーピース越しにアキトの声が入る。
『対象、コンビニ前で一時停止。今ならいける』
玲は即座に頷いた。
「奈々、準備」
「はい」
奈々が小さなケースを開く。
中には、硬貨ほどの大きさの薄型GPSタグ。磁気と粘着の二重固定式だ。
モニターの映像が少し拡大される。
真理子がコンビニの前でスマートフォンを操作している隙に、アキトが自転車ラックの横を通り過ぎる。
その一瞬だった。
画面の端で、アキトの手が自然に伸び、真理子のバッグの底に軽く触れる。
まるで、すれ違いざまに体をかわしただけの動き。
奈々の端末が小さく振動した。
「……入りました。GPS、リンク完了」
画面の地図に、赤い点が一つ灯る。
正確に、真理子の位置を示していた。
『完了。違和感なし』
アキトの声は淡々としているが、その裏に緊張が滲んでいた。
玲は静かに息を吐く。
「よし。ここからは追跡を控えめに。
“尾行”は終わりだ。次は“記録”に切り替える」
「了解です」
奈々はログの保存を開始し、時刻を打ち込む。
【GPS起動時刻:19:26】
モニターの中で、真理子は何事もなかったかのように歩き出した。
その背後で、見えない糸が静かに張られたことに、まだ気づかないまま。
玲は画面を見つめ、低く呟いた。
「……これで、嘘か真実かはっきりする」
事務所の時計が、カチリと音を立てて進んだ。
【東京都内・佐伯家リビング/同日 19:31】
夜風が半開きの窓から忍び込み、カーテンの裾をわずかに揺らした。
その擦れる音が、やけに大きくリビングに響く。
俊介はソファに深く腰を沈めたまま、スマートフォンを強く握り締めていた。
画面には、妻・真理子の位置情報アプリが開かれている。
小さなアイコンが、ゆっくりと自宅から離れていくのが見えた。
「……また、この時間か」
喉の奥で掠れた声が零れる。
昨日も、一昨日も、ほとんど同じ時刻だった。
玄関の方から、ヒールが床を打つ音が微かに届く。
コートを羽織る気配、バッグの金具が触れ合う乾いた音。
俊介は思わず顔を上げた。
「真理子……?」
返事はない。
代わりに、玄関のドアが静かに閉まる音がした。
カチャリ。
その瞬間、スマートフォンの画面でアイコンが少し大きく動いた。
住宅街の細い道を示すラインを、迷いなく進んでいく。
俊介は唇を噛む。
「……どこに行くんだよ」
指先が震え、無意識に地図を拡大する。
行き先はまだ表示されない。
ただ、家から離れていく事実だけが、やけに鮮明だった。
背後の壁に掛けられた時計が、静かに秒を刻む。
カチ、カチ、カチ。
俊介はソファの肘掛けに肘をつき、額に手を当てた。
「……仕事、なんだよな。そうだろ……?」
自分に言い聞かせるように呟くが、胸の奥のざわめきは収まらない。
画面の中で動く小さな点は、彼の不安を嘲笑うかのように、一定の速度で夜の街へと進んでいった。
リビングには、夜風と時計の音だけが残されていた。
【東京都内・佐伯家リビング/同日 19:34】
玄関のドアが、静かに、しかし確実に閉まる音がした。
カチリ、という金属音が、俊介の耳にやけに鋭く突き刺さる。
彼はソファに腰かけたまま、身じろぎもせず息を潜めた。
視線だけを玄関の方向へ向け、暗がりの向こうにあるはずの気配を探る。
――行った。
その事実を、耳が先に理解してしまう。
胸の奥が、ずしりと重く沈んだ。
俊介はゆっくりとスマートフォンに目を落とす。
画面の地図上で、真理子を示す小さなアイコンが、家の位置から離れ始めていた。
「……今夜も、か」
声はほとんど音にならず、唇の内側で消えた。
昨日も、先週も、同じように聞いたドアの音。
同じ時間、同じ静けさ。
彼は喉を鳴らし、無意識に背もたれに深く身を預けた。
「残業……だったよな」
自分に言い聞かせるように呟くが、言葉はどこか頼りない。
画面の中のアイコンは、住宅街の道を迷いなく進み、駅とは逆の方向へ向かっているようにも見えた。
俊介の眉が、わずかに寄る。
「……違う」
心の奥で、小さく、しかし確かな違和感が形を持ち始める。
彼はスマートフォンを握る手に力を込めた。
静まり返ったリビングに、時計の秒針の音が規則正しく響く。
カチ、カチ、カチ。
その音はまるで、俊介の中で積み重なっていく疑念を、刻みつける合図のようだった。
【東京都内・駅前商店街/同日 19:47】
ネオンと街灯が混ざり合う夜の通りを、二人はゆっくりと歩いていた。
人通りはまだ多く、仕事帰りの会社員や買い物袋を提げた人々が行き交う。
玲はアキトの腕に自然に手を絡め、わずかに身体を寄せる。
上品なロングコートの裾が歩調に合わせて揺れ、ワンピースのシルエットが夜の光を柔らかく受け止めていた。
ナチュラルなウィッグに整えられた髪が肩先を撫で、ほのかな香水の香りが空気に溶ける。
すれ違った女性が、思わず振り返る。
男性と思しき人物が、あれほど自然に、違和感なく溶け込んでいることに気づく者はいない。
アキトは視線を前に向けたまま、低く囁いた。
「……尾行対象は三十メートル先。駅とは逆方向だ」
「分かっているわ」
玲は声色を柔らかく変え、恋人同士の会話にしか聞こえない調子で返す。
唇に浮かぶ微笑みも、視線の角度も、すべてが“街に溶け込む女性”そのものだった。
アキトがわざと歩調を落とす。
玲もそれに合わせ、信号待ちの列に自然に紛れ込んだ。
「俊介さんの位置情報、問題ない?」
玲が軽く身を寄せたまま、小さく尋ねる。
「自宅。動きなし」
アキトは一瞬だけ視線を下げ、耳元で答える。
「この距離なら、絶対にバレない」
玲は小さく息を吐き、安心したように肩の力を抜いた。
夜風がコートの隙間を抜け、香水の香りがふわりと漂う。
前方では、真理子の後ろ姿が人混みに紛れながら、迷いなく通りを進んでいく。
その歩き方には、仕事帰りの疲れよりも、目的地を知っている者特有の迷いのなさがあった。
玲の視線が、わずかに鋭くなる。
だが表情は変えない。
「……今夜も、いつも通りね」
恋人に語りかけるような声で、しかし確信を帯びて呟く。
アキトは軽く頷き、肩を寄せたまま歩き続けた。
二人はあくまで“街のどこにでもいるカップル”。
佐伯俊介の目にも、記憶にも、決して引っかからない存在として――
静かに、確実に、夜の流れに溶け込んでいった。
【東京都内・駅前商店街/同日 19:52】
人通りの多い駅前の商店街は、夜のライトに照らされ、昼間とは違う賑わいを見せていた。
看板のネオンが重なり合い、焼き鳥の煙と甘いクレープの匂いが混じって漂う。笑い声、呼び込みの声、足音――すべてが雑音となり、個々の存在を巧みに溶かしていた。
その人波の中に、玲は自然に紛れ込んでいた。
上品なワンピースにロングコート。
足元は歩き慣れたパンプスで、重心の置き方まで女性そのものだ。
ウィッグの前髪を指先で整える仕草も、通行人から見ればごくありふれたものにしか映らない。
「……やっぱり、人が多いわね」
玲は柔らかな声色でそう呟き、隣を歩くアキトの腕に軽く触れた。
声の高さも、語尾の抜き方も、すでに完全に“街の女性”に溶け込んでいる。
アキトは恋人役として、自然に頷いた。
「週末前だしね。はぐれないように」
二人の会話に、周囲は一切の注意を払わない。
それが何よりの証拠だった。
玲は視線だけを動かし、ショーウィンドウに映る反射を利用して前方を確認する。
数十メートル先、真理子の背中が人混みに紛れながらも、確かに進んでいるのが見えた。
(……位置、問題なし)
胸の内でそう確認しながら、玲は歩調をわずかに落とす。
アキトも同時にペースを合わせ、立ち止まった屋台の前で足を止めた。
「どれにする?」
玲が楽しげに首を傾げる。
「君のおすすめで」
アキトが即座に返す。
屋台の明かりが玲の横顔を照らし、睫毛の影が頬に落ちた。
その一瞬、通りすがりの男性が思わず視線を向けるが、すぐに人波に押し流されていく。
誰も気づかない。
ここにいる“彼女”が、探偵であることも。
今この瞬間も、依頼人の妻を静かに追っていることも。
玲は小さく息を吸い、夜の喧騒に身を委ねた。
「……大丈夫。完璧に溶けてる」
それはアキトへの言葉であり、自分自身への確認でもあった。
俊介の視界にも、記憶にも残らぬまま――
玲は、女装という仮面をまとい、賑やかな駅前商店街の一部として静かに歩き続けていた。
【東京都内・ホテル街/同日 20:18】
ネオンがぼんやりと滲むように輝き、夜の湿った空気が肌にまとわりつくホテル街。
赤や紫の看板が無秩序に並び、通りを行き交う人々の影を妖しく照らしていた。
タクシーが縁石に静かに止まり、ウインカーの音だけが短く響く。
後部座席のドアが開き、真理子がゆっくりと降り立った。
ベージュ寄りのダークカラーのタイトなワンピース。
身体のラインを強調しすぎないが、歩くたびに大人の女性らしさが滲む絶妙な丈。
上から羽織ったショートコートは艶を抑えた黒で、ホテル街の光を反射せず、周囲に自然に溶け込む。
足元はヒールの低いパンプス。音を立てず、長く歩くことを前提に選ばれたものだ。
髪は軽く巻かれ、耳元には小さなピアスが揺れる。
香水は控えめだが、この街ではそれがかえって印象に残らない。
真理子は一度だけ周囲を見渡し、誰かを待つ様子もなく歩き出した。
その仕草に、迷いはない。
通りの向かい側、ネオン看板の影に溶け込むようにして、玲とアキトが足を止めていた。
玲はロングコートの襟を指先で整え、視線を落としたまま小さく息を吐く。
(……服装も、動きも、完全に“慣れている”)
アキトが視線だけで確認を送る。
玲はわずかに頷いた。
真理子はホテルの看板を一つ一つ確かめるように歩き、やがて中規模のビジネスホテルの前で立ち止まった。
派手さはないが、人の出入りが多く、誰が入っても記憶に残らない場所。
自動ドアが開き、柔らかな照明が彼女の背中を包む。
真理子は振り返ることなく、そのまま中へ消えていった。
ネオンの光が再び通りを満たす。
玲は低く、しかし確信を帯びた声で呟いた。
「……ここが、答えの入口ね」
その言葉は、夜のホテル街に溶け、誰の耳にも残らなかった。
【東京都内・ホテル街裏路地/同日 20:26】
メインストリートから一本外れただけで、空気は一気に静まり返っていた。
ネオンの光は届かず、古いビルの外壁に取り付けられた非常灯が、路地をぼんやりと照らしている。
ゴミ置き場の陰、配管が露出した壁際に、二つの人影が身を潜めていた。
玲はフード付きのロングコートを軽く羽織り、女装のまま姿勢を崩さず立っている。
ウィッグの前髪をわずかに整え、首元のストールを引き寄せる仕草は、夜の街に溶け込む女性そのものだった。
奈々は肩掛けバッグを抱え、スマートフォンを操作しながら小声で言う。
「外見、完璧です。歩き方も…正直、私が隣にいなかったら気づきません」
玲は視線をホテルの裏口へ向けたまま、淡々と返す。
「“気づかれない”のが一番の変装よ。見られても、記憶に残らない」
奈々の画面には、真理子の位置情報が小さく点滅している。
「今、エレベーターに乗ったみたいです。上…七階」
玲はゆっくりと息を整えた。
ヒールの感触、スカートの重み、視界の高さ――すべてを頭の中で再確認する。
「私が先に入る。あなたは裏から映像と音声を拾って」
「了解。無理はしないでくださいね」
玲は一歩、路地の暗がりから踏み出した。
街灯の下に出た瞬間、コートの裾が夜風に揺れ、香水のほのかな匂いが漂う。
背筋を伸ばし、視線はやや伏せ気味に。
スマートフォンを確認するふりをしながら、ホテルの正面へと歩き出す。
通りすがりの男が一瞬、玲に目を留める。
だが次の瞬間には興味を失い、雑踏へと消えていった。
奈々はその背中を見送り、通信を繋ぐ。
「……侵入、確認。玲さん、今は“彼女”です」
玲は小さく頷き、心の中で役を切り替えた。
(今夜は、探偵じゃない。ただの“偶然ここに来た女”)
自動ドアが静かに開き、ホテルの明かりが玲を迎え入れる。
真実へ続く扉は、すでにその内側にあった。
【東京都内・ホテル街 雑居ビル裏/同日 20:41】
俊介は雑居ビルの外壁に背を預け、身を小さくして立っていた。
夜の雨が上がったばかりの舗道はまだ濡れており、街灯の橙色が歪んだ光となって足元に揺れている。その反射が、やけに目に刺さった。
(落ち着け……ただ、確かめるだけだ)
自分に言い聞かせるように、俊介は息を整える。
胸の奥では、鼓動がやけに大きく響いていた。
手にした小型カメラのモニターには、ホテルのフロントが映っている。
少し角度を変えた瞬間――画面の中に、見慣れた後ろ姿が現れた。
「……真理子」
思わず、声にならない声が漏れる。
妻はフロントで短く会釈し、鍵を受け取ると、迷いのない足取りで奥へと進んでいく。
エレベーターホールに立ち、スマートフォンを一度だけ確認してから、静かに中へ入った。
カメラの映像が切り替わり、エレベーター内の天井カメラに映像が繋がる。
表示灯が「7」を示した。
俊介の指先が、わずかに震えた。
シャッター音が出ないよう、無意識に力を込めすぎている。
(仕事じゃ……ないよな……)
頭では否定したいのに、目の前の事実がそれを許さない。
胸の奥に溜まっていた違和感が、形を持った不安へと変わっていく。
エレベーターの扉が開き、妻の姿が廊下へ消えた瞬間、モニターは静止画のように止まった。
俊介はゆっくりとカメラを下ろし、暗い路地の天を見上げた。
ネオンの光がにじみ、視界がわずかに揺れる。
「……ここまで来て、引き返せるわけないだろ」
自分に向けたその言葉は、決意というより、逃げ道を塞ぐための呪文のようだった。
【東京都内・ホテル街/ビジネスホテル7階 廊下・同日 20:46】
モニターの映像が、わずかに揺れた。
次の瞬間――廊下の奥、客室の一つの前で、妻・真理子が立ち止まる。
ドアが内側から開いた。
そこに現れたのは、俊介の知らない男だった。
スーツ姿、年齢は三十代半ば。落ち着いた笑みを浮かべ、迷いのない動きで真理子を迎え入れる。
「お疲れさま」
音声は拾えていない。
だが、唇の動きだけで、何を言ったのかが分かってしまう。
真理子は一瞬、周囲を気にするように視線を走らせ――
そして、柔らかく笑った。
俊介の喉が、ひくりと鳴った。
男の手が伸び、真理子の指先に触れる。
ほんの一瞬。
だが、確かに――互いの手は絡み合い、軽く握られていた。
(……やっぱり、か)
俊介は、歯を食いしばった。
怒鳴り声も、震える息も、喉の奥で押し殺す。
感情が爆発する一歩手前で、理性が必死にブレーキをかけていた。
(まだだ……証拠だ。これは、証拠だ)
そう自分に言い聞かせながら、カメラの記録ランプを確認する。
赤い小さな光は、無情なほど安定して点灯していた。
男が何かを囁き、真理子が小さく頷く。
二人は自然な動作で部屋の中へ入り、ドアが静かに閉まった。
――カチリ。
電子錠の音が、俊介の耳の奥でいつまでも反響する。
俊介はモニターから目を離さず、深く、深く息を吸った。
肺が痛むほどに吸い込み、ゆっくりと吐く。
「……感情的になるな」
誰に言うでもなく、低く呟く。
拳は強く握られていたが、震えてはいなかった。
怒りも、悲しみも、裏切られた痛みも――
すべてを一度、胸の奥に沈める。
今はまだ、動く時じゃない。
「……玲さん」
かすれた声で名前を呼び、イヤーピースに指を当てる。
「……決定的です。
映像、全部押さえました」
夜のネオンが滲む路地裏で、俊介の表情は静かだった。
だがその目の奥には、確かに――戻れない一線を越えた者の覚悟が宿っていた。
【東京都内・ホテル街 路地裏/同日 20:48】
路地裏は、ネオンの明かりが壁に滲むだけで、人の気配はほとんどなかった。
湿った夜気が肌にまとわりつき、遠くを走る車の音だけがかすかに響いている。
ゴミ箱の陰、停められたバンの影に身を寄せるようにして、玲チームは簡易モニターを囲んでいた。
画面には、先ほど閉まったばかりのホテルの客室ドアが静止画のように映っている。
玲はモニターから目を離さず、低く、よく通る声で言った。
「……全員、落ち着け。感情は切り離す。
今は“確認段階”だ。踏み込みはしない」
イヤーピース越しに、アキトが小さく応じる。
『了解。映像はクリア。手元のバックアップにも保存済みだ』
奈々は膝の上のタブレットを操作しながら、淡々と状況を整理する。
「時刻、20時46分。
接触、手を握る動作、同室への入室――いずれも明確。
法的にも“継続性”を示すには十分な第一証拠ね」
リコが唾を飲み込み、小さな声で言った。
「……俊介さん、大丈夫かな……」
玲は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに首を振る。
「今は、こちらが支える。
彼には、すべてを“事実”として渡す。それ以上でも以下でもない」
モニターの右上で、録画時間が静かに進んでいく。
20:48――20:49。
玲は指先でイヤーピースを軽く押さえた。
「俊介さん。聞こえますか」
一拍置いて、かすれた声が返ってくる。
『……はい。聞こえてます』
「今は、その場を動かないでください。
あなたが直接対峙する必要はありません。
これは、あなたが“知るため”の調査です」
短い沈黙のあと、俊介は低く答えた。
『……分かっています。
正直、きついですが……でも、逃げたくはありません』
その声には、先ほどまでの動揺とは違う、静かな覚悟が滲んでいた。
玲ははっきりと言った。
「十分です。それでいい。
この先は、こちらで“形”にします」
奈々が画面を切り替え、ホテルの出入口と周辺道路のカメラ映像を並べる。
「相手の男性、身元特定に入る。
出入りの時間帯、過去の利用履歴、洗うわ」
アキトが軽く肩をすくめる。
「必要なら、明日には“偶然”顔を合わせることもできるけど?」
「今はまだだ」
玲は即座に制した。
「泳がせる。焦らせない。
――崩れるのは、必ず向こうだ」
路地裏を、夜風が抜けていく。
ネオンの光が一瞬、玲の横顔を照らし、その冷静な眼差しを浮かび上がらせた。
「……この件は、静かに終わらせる。
誰も、無駄に傷つかせないためにな」
モニターの中で、閉ざされたドアは微動だにしない。
だがその向こうで、確実に一つの関係が――崩れ始めていた。
【東京都内・繁華街ネオン通り/同日 21:12】
夜の繁華街は、ネオンが濡れたアスファルトに反射して鮮やかな光の帯を描いている。
人々が行き交う中、その流れに自然に溶け込む二人の姿があった。
玲はロングコートの下にワンピースを合わせ、ウィッグで柔らかく巻かれた髪を肩に落としている。
歩き方も仕草も自然で、男性であることをまったく感じさせない。
肩を並べて歩くアキトは、カジュアルなジャケットにジーンズ、キャップで髪を隠し、あくまで“普通の友人”のように振る舞う。
二人の距離感は自然で、通行人の視線を思わず引きつける。
通りを行き交う若い女性が小声で囁く。
「あの人、すごく綺麗……」
その声は群衆のざわめきに溶けて、玲の耳には届かない。
だが玲は微笑むこともなく、ただ冷静に周囲を観察していた。
アキトが軽く肩をすくめ、囁くように言う。
「通行人の視線がちょっと痛いね。けど、完璧に溶け込んでる」
玲は微かに頷き、目線を前方に据える。
「目的は目立つことじゃない。俊介さんに気付かれず、真理子の行動を確認することだ」
街の明かりに照らされながら、二人は群衆の中をゆっくりと進む。
その姿はまるで、夜の光と影に溶け込むひとつの風景のようだった。
アキトが再び囁く。
「僕の隣にいると、誰も男だなんて思わないだろうね」
玲は一瞬だけ口元に笑みを浮かべ、すぐに表情を引き締めた。
「気を抜くな。目的はあくまで追跡だ」
ネオンの光が二人の影を長く伸ばし、街のざわめきに混ざる。
その中で、玲の女装は完璧な変装として機能し、誰も彼の正体を疑うことはなかった。
【東京地方裁判所・民事第3号法廷/午後14:30】
法廷は静まり返っていた。
被告席には真理子、弁護士が付き添い、依頼者の俊介は傍聴席で緊張した面持ちで座っている。
裁判官は書類に目を通し、静かに判決文を読み上げ始めた。
「本件において、提出された証拠、並びに映像資料を総合的に検討した結果――被告である真理子氏は、婚姻関係における信頼義務に違反した行為があったものと認定する」
真理子はわずかに顔を強張らせ、弁護士が肩に手を置き慰める。
俊介は息を飲み、判決の行方を見守る。
裁判官は続ける。
「よって、被告は原告に対し、損害賠償として相応の金額を支払うこと。また、今後の行動については、婚姻関係を尊重するよう強く指示する」
法廷内に静かな衝撃が走る。
提出された玲チームの映像資料は、被告の行動を明確に示し、裁判官の判断を大きく左右したのだ。
俊介はわずかに肩の力を抜き、深く息をつく。
隣で弁護士が小さく頷き、判決の内容を確認していた。
玲チームの努力は、ついに正義として結実した瞬間だった。
【玲探偵事務所/午後19:30】
事務所のドアを開けると、長時間の尾行や監視業務を終えた玲チームが静かに帰還した。
奈々は椅子に腰を下ろし、少し疲れた笑みを浮かべながら言った。
「今回も無事に終了ですね」
アキトは肩にかけたジャケットを脱ぎながら軽くうなずく。
リコはタブレットを片手に、撮影映像の整理を始めた。
玲はデスクに書類を置き、深く息をつく。
「……女装はもうごめんだな」
その声には、任務の緊張と共に、少しだけ疲労が混ざっていた。
奈々が笑いをこらえながら、「ええ、玲さんの美しさは日常で十分です」と軽く返す。
アキトは軽く肩をすくめ、微笑んだ。
「次からは普通の潜入任務でいいね」
事務所の窓からは、夜の街灯が静かに光を落とし、長い一日の終わりを告げていた。
チーム全員の肩の力がゆるみ、静かな安堵が室内を包む。
【玲探偵事務所/午後20:00】
玲はデスクに向かい、裁判で使用した資料や映像データを丁寧に整理していた。
奈々がモニター越しに声をかける。
「玲さん、裁判の判決も無事出ましたね。俊介さん、奥様との和解は…」
玲は肩をわずかにすくめ、冷静に答える。
「和解じゃないな。離婚が正式に決まった。ただ、双方が納得した上での結果だ」
机上には、提出した証拠や映像が整然と並ぶ。すべての事実が揃っており、裁判での主張は揺るぎなかった。
玲の言葉には、安堵と冷徹さが同居している。
奈々が軽くうなずき、画面越しに微笑む。
「証拠が完璧でしたからね。これで、俊介さんも心置きなく前に進めます」
玲は資料を閉じ、深く息をつく。
「うむ。依頼者の人生を少しでも前に進められたなら、それが我々の仕事だ」
事務所の窓からは、夜の街の静けさが広がり、長い任務の一区切りを告げていた。
【俊介の新居/夕方】
俊介は新居のリビングに立ち、深く息をついた。
「……やっと、自分の人生を取り戻せる」
長い間、心に重くのしかかっていた疑念や不安が、ようやく解けていく感覚があった。
しかし同時に、わずかな寂しさも胸の奥に残る。
窓の外には、夕陽が静かに街並みを赤く染めていた。
その光を見つめながら、俊介は未来の生活を思い描く。
元妻の真理子は隣町に引っ越し、互いの生活は距離を取りつつも、新たな一歩を踏み出したのだ。
俊介は静かに頷き、手元のカップを握りしめる。
「これからは、自分のために生きよう……」
窓越しの柔らかな夕陽が、彼の決意をそっと後押ししていた。
【玲探偵事務所・小会議室/夜】
事務所の奥にある小さな会議室には、柔らかな照明が落ちていた。
壁際のホワイトボードにはすでに何も書かれておらず、机の上には整理されたファイルだけが残っている。
玲は椅子に深く腰を下ろし、最後に資料へ目を通してから静かに閉じた。
「……これで一件落着だな」
その空気を和らげるように、アキトが軽く肩をすくめて笑う。
「今回も無事に終わりましたね。派手さはなかったけど、こういう仕事ほど後味が大事だ」
奈々はノートPCを閉じ、書類をきれいに揃えながら小さく微笑んだ。
「依頼者が納得して、証拠も完璧。調査としては理想的な終わり方です。感情的にならず、事実だけを積み上げた結果ですね」
玲はその言葉に短く頷く。
「真実を示すだけだ。その先を選ぶのは、依頼者自身だからな」
一瞬、沈黙が落ちる。
しかしそれは重いものではなく、役目を終えた後の静かな余韻だった。
アキトが立ち上がり、伸びをする。
「事件が終われば、人生はまた続く。依頼人も、俺たちも」
奈々は会議室の灯りを一つ落としながら言う。
「ええ。だからこそ、私たちは次の依頼に備えるだけですね」
玲は席を立ち、ドアに手をかけて振り返った。
「今日は解散だ。……お疲れ」
三人はそれぞれ小さく頷き、会議室を後にする。
事務所の外では、夜の街が変わらぬ日常を刻んでいた。
事件は終わった。
だが人生は、静かに、確かに前へと進み続けている。
【翌朝・玲探偵事務所/書斎】
小型カメラの赤いランプは既に消え、デスクの上で静かに転がっていた。
玲は椅子に腰を下ろし、端末を起動する。画面には昨夜回収した映像のタイムコードが整然と並び、事実だけが冷たく記録されている。
「よし……回収完了。映像、音声ともに欠損なし」
玲はそう呟きながら、キーボードを打ち始めた。
報告書のタイトル欄に、簡潔な文字が刻まれていく。
――《調査報告書/佐伯真理子 行動調査》
背後の壁際で、アキトがコーヒーを片手に微笑む。
「毎回思うけど、玲さんの女装って本当に自然すぎるな。報告書だけ読んだら、まさか本人が潜入してるなんて誰も思わない」
玲は画面から目を離さず、軽く肩をすくめた。
「仕事だ。それに、これ以上露骨だと逆に怪しまれる。違和感を消すのが調査の基本だ」
アキトは椅子に腰を下ろし、モニターに映る静止画を覗き込む。
ホテルの廊下、部屋の前で微笑み合う二人の姿が鮮明に切り取られている。
「証拠としては十分すぎるな。時間、場所、接触の瞬間……全部揃ってる」
「だからこそ、感情は書かない」
玲は淡々と入力を続ける。
〈○月○日 21:47 対象者、指定ホテルに入館〉
〈同 22:03 同室内にて第三者男性と接触、親密な行動を確認〉
「事実だけを並べる。それが依頼者を守る一番の方法だ」
アキトは小さく頷き、真剣な表情になる。
「俊介さん……これを見たら、もう言い逃れはできませんね」
「それでいい」
玲は最後に電子署名を入れ、報告書を保存した。
画面に表示された《提出準備完了》の文字を見つめ、静かに息を吐く。
「真実は残酷でも、曖昧よりはずっと誠実だ。――これで、俺たちの役目は終わりだ」
窓の外では朝の光が差し込み、夜の名残をゆっくりと押し流していた。
【深夜・郊外を走る車内】
車内は静まり返り、エンジン音とタイヤがアスファルトを噛む低い音だけが流れていた。
玲の運転する車は、街灯に照らされながら郊外の道を一定の速度で進んでいく。フロントガラス越しに、橙色の光が規則正しく流れては消えた。
助手席でアキトが軽く伸びをし、首を鳴らす。
「やっと終わったな……」
その声には、安堵とわずかな疲労が混じっていた。
玲は前を見たまま、短く息を吐く。
「ああ。証拠は揃った。映像、位置情報、時間の整合性……どこを突かれても崩れない」
アキトはグローブボックスからタブレットを取り出し、画面を確認する。
「報告書も最終版だな。俊介さんには、もう送った?」
「今からだ」
玲は信号で車を止めると、片手でハンドルを押さえたままイヤーピースを軽く叩いた。
短い操作音のあと、落ち着いた通知音が鳴る。
【同時刻・車内】
「……送信完了」
アキトが画面を覗き込み、苦笑する。
「重いだろうな。受け取る側は」
「それでも、知らないままよりはいい」
玲の声は淡々としていたが、そこには確かな意志があった。
信号が青に変わり、車は再び滑るように走り出す。
しばらくして、イヤーピースから微かな着信音。
玲はボタンを押す。
【同時刻・車内/通話】
「……玲探偵事務所です」
一瞬の沈黙のあと、俊介の声が聞こえた。
低く、震えを必死に抑えた声。
『……全部、見ました。映像も……報告書も』
玲は視線を前に固定したまま、静かに応じる。
「事実のみを記載しています。判断は、佐伯さんご自身に委ねます」
『……ありがとうございます』
短い言葉だったが、その裏に詰まった感情は重かった。
悔しさ、悲しみ、そして――覚悟。
『……もう、迷いはありません。前に進みます』
「それが一番です」
玲はそれ以上、何も付け加えなかった。
通話が切れ、再び車内に静寂が戻る。
アキトが窓の外に流れる街並みを眺めながら呟く。
「人生を変える証拠、か……」
「俺たちは引き金を引いただけだ」
玲はハンドルを握る手に、わずかに力を込める。
「進むか、立ち止まるかを決めるのは、いつだって本人だ」
郊外の夜道は静かに続き、車はやがて事務所のある方向へと消えていった。
事件は終わった。
だが、それぞれの人生は――ここからまた、動き出す。
【数か月後・深夜/都内郊外 ホテル街】
やがてラブホテルの扉が開き、湿った夜気が流れ出した。
ネオンの光に照らされて現れたのは、真理子と一人の男だった。
真理子は以前よりも派手な装いで、髪はゆるく巻かれ、口元には隠しきれない高揚が残っている。
男は周囲を一瞥し、誰も見ていないことを確かめると、自然な仕草で真理子の肩に手を回した。
「寒くないか?」
低く、親密さを帯びた声。
真理子は一瞬だけ肩をすくめ、すぐに小さく笑った。
「平気よ。……もう、気にする必要もないし」
その言葉には、どこか吹っ切れた響きがあった。
男は満足そうに頷き、彼女を引き寄せる。
二人は並んで歩き出す。
かつて“背徳”だった関係は、今では何の障害もなく夜の街に溶け込んでいた。
通りの向こうでタクシーが止まり、ドアが開く。
真理子は一度だけ、振り返ることなく乗り込んだ。
赤いテールランプが遠ざかり、ホテル街には再び、何事もなかったかのような喧騒だけが残った。
【深夜・都内 住宅街から事務所へ続く路地】
玲は一人、夜道をゆっくりと歩いていた。
街灯に照らされたアスファルトの上に、自分の影が細長く伸び、歩調に合わせて静かに揺れる。
コートの内ポケットに入れた薄いファイルの重みを、指先で確かめる。
そこには、すでに役目を終えた証拠の控え――映像のログ、位置情報の記録、簡潔にまとめた報告メモが収められていた。
「……全部、揃ってるな」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
依頼は完遂され、裁きも下り、関係者はそれぞれの道を歩き始めた。
この証拠も、もはや“真実を示す刃”ではなく、過去を証明する紙切れに過ぎない。
事務所の入った建物が見え始める。
玲は鍵を取り出しながら、頭の中で手順をなぞった。
原本データは暗号化して保管。
不要になった複製は物理破棄。
依頼人に渡した分以外は、記録庫に期限付きで封印。
「感情は残さない。残るのは事実だけだ」
それが、探偵としての流儀だった。
階段を上がり、事務所の明かりを点ける。
静まり返った室内で、玲はデスクにファイルを置き、一つひとつ丁寧に確認していく。
指の動きは正確で、迷いがない。
全てを整理し終えたとき、時計は午前二時を回っていた。
玲は椅子の背にもたれ、ゆっくりと息を吐く。
窓の外では、夜が変わらず街を包んでいる。
誰かの人生が大きく変わったことなど、知りもしない顔で。
「……さて、次だな」
そう呟いて明かりを落とすと、玲の影は再び夜の中へと溶けていった。
【深夜・東京郊外 俊介の新居リビング】
照明は落とされ、部屋の中にはテーブルランプの柔らかな光だけが静かに広がっていた。
カーテンの隙間から差し込む街灯の明かりが、床に淡い影を落とす。
ソファに腰を下ろした俊介は、両手で小さな写真立てを持ち、黙って見つめていた。
そこに収められているのは、まだ笑顔が自然だった頃の二人の写真。
楽しかった記憶だけが、切り取られた時間の中で取り残されている。
「……これで、本当に終わったのか」
かすれた声が、静まり返ったリビングに溶ける。
問いかける相手はいない。それでも、言葉にしなければ胸の奥に溜まったものが押し潰してきそうだった。
写真立てをそっとテーブルに置き、俊介は天井を仰ぐ。
胸の奥には確かな痛みが残っている。
だが同時に、長く縛りつけていた重石が外れたような軽さもあった。
「……終わったんだな。全部」
そう呟くと、彼は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
過去を否定することはできない。
だが、これから先の時間は、自分の足で選び取れる。
窓の外では、夜風が木々を揺らし、かすかな音を立てている。
俊介は立ち上がり、カーテンを少しだけ開いた。
遠くに見える街の灯りは、静かで、しかし確かに未来へと続いているように見えた。
【深夜・東京郊外 玲探偵事務所】
玲は机に向かい、今日の調査報告書を丁寧に整えていた。
スタンドライトの白い光が紙面を照らし、ペン先が動くたびに、かすかな音が静寂を刻む。
日時、場所、行動記録、映像の取得時刻、接触人物の特徴。
一行一行を指でなぞりながら、誤りがないかを確認していく。
その表情に迷いはなく、感情も入り込まない。ただ、事実だけが淡々と並んでいた。
「……よし」
小さく息を吐き、最後のページにチェックを入れる。
全ての記録は揃っていた。
尾行、映像、位置情報、第三者証言。どれ一つ欠けていない。
ファイルを閉じると、玲は背もたれに体を預け、ゆっくりと天井を見上げた。
頭の中で、依頼人の表情が一瞬だけ浮かぶ。
怒り、戸惑い、そして最後に見せた、あの静かな納得の顔。
「……これでいい」
誰に向けた言葉でもなく、ただ自分自身に言い聞かせるように呟く。
探偵の仕事は、真実を示すことまでだ。
その先を選ぶのは、依頼人自身。
窓の外では、車の走り去る音が遠くに響き、夜はまだ続いている。
玲は立ち上がり、報告書のファイルを棚の決まった位置に収めた。
灯りを一段階落とし、事務所を見渡す。
今日もまた一つ、誰かの人生の岐路に立ち会った。
だが、明日になれば、また新しい扉が叩かれる。
玲はコートを手に取り、静かに事務所を後にした。
夜の東京は変わらず無表情で、すべてを飲み込むように広がっていた。
【22:47/佐伯俊介・新居リビング】
リビングは張り詰めたまま、時計の針の音だけが響いていた。
元妻の行動が、消えない残像のように脳裏に浮かぶ。
俊介はソファに腰を下ろし、テーブルの上に置かれたマグカップに視線を落とした。中身はとっくに冷めている。だが立ち上がって温め直す気力もなかった。
「……もう、終わったはずなんだよな」
誰に向けるでもない声が、静かな部屋に落ちる。返事はない。あるのは、壁際の時計が刻む無機質な音だけだ。
彼は目を閉じた。
すると、意志とは関係なく記憶が再生される。
【数週間前/夜・同じリビング】
「今日も遅くなるの?」
できるだけ平静を装って、そう尋ねた自分の声。
「うん、会議が長引きそうで」
真理子はソファにバッグを置きながら、スマートフォンを伏せたまま答えた。
「最近、多いな……残業」
「仕方ないでしょ。忙しいんだから」
その言い方が、どこか他人行儀だったことを、今ならはっきりと思い出せる。
【現在/22:47】
「……忙しい、ね」
俊介は苦笑し、ゆっくりと息を吐いた。
ホテルの映像。
知らない男の隣で見せた、あの自然な笑顔。
自分といるときには、もう見せなくなっていた表情。
「俺といる時間より……あっちの方が、楽だったんだろうな」
そう口にした瞬間、胸の奥がわずかに痛んだ。だが、以前のような鋭い痛みではない。鈍く、静かで、もう抗えないと分かっている種類のものだった。
立ち上がり、窓辺に歩み寄る。
カーテンの隙間から、夜の街灯が淡く差し込み、床に細長い影を落とす。
「疑って、調べて、確かめて……それで全部終わった」
ガラスに映る自分の顔を見つめ、俊介は小さく頷いた。
「それでもさ……知らないままよりは、ずっとよかった」
誰かに言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「嘘の中で安心するより、本当を知って、傷ついた方が……まだ前に進める」
時計の針が、23時を指す。
俊介は深呼吸し、カーテンを閉めた。
部屋は静寂に包まれる。
「……明日、カーテン買い替えるか」
そんな些細な予定を口にしたことに、自分で少し驚きながら、彼は照明を落とした。
過去はもう、戻らない。
だが、人生は――ここからも、続いていく。
【23:18/東京郊外・玲探偵事務所 前】
玲は事務所のドアを静かに閉め、鍵をかけた。
カチリという乾いた音が、夜の空気に溶ける。
雨上がりの路地は、街灯の光を受けて鈍く光っていた。濡れたアスファルトに映る自分の影は、いつもより少し長く、細く伸びている。
「……静かだな」
誰に向けるでもなく、玲は小さく呟いた。
この時間の住宅街は、人の気配がほとんどない。遠くで車が走り去る音と、電線を揺らす風の音だけが耳に届く。
歩き出すと、革靴が水たまりを浅く踏み、かすかな音を立てた。
「佐伯俊介……」
自然と、依頼人の名前が口をついて出る。
穏やかで、どこにでもいそうな男。だが、その内側には、確かに崩れかけた何かがあった。
【数日前/玲探偵事務所・夜】
「……もし、黒だったら……俺は、どうすればいいんでしょうか」
俊介は椅子に深く腰掛け、視線を落としたままそう言った。
震えを抑えきれない声だった。
「決めるのは、あなたです」
玲は淡々と、だがはっきり答えた。
「真実を知ったあと、どう生きるか。それまでは、こちらの仕事です」
【現在/23:20】
「……真実を知るってのは、優しくない」
玲は歩きながら、ふっと息を吐いた。
探偵という仕事を続けていれば、何度も同じ結論に行き着く。
浮気、裏切り、嘘。
それらを暴くことで救われる人もいれば、深く傷つく人もいる。
「それでも……知らないままじゃ、前には進めない」
街灯の下で立ち止まり、玲は夜空を見上げた。雲の切れ間から、わずかに月が覗いている。
「俺たちは、真実を渡すだけだ。選ぶのは……いつも、依頼人自身」
そう呟いた声は、静かな夜に溶けて消えた。
再び歩き出す。
濡れたアスファルトに映る街灯の光が、まるで点々と続く道標のように見えた。
「事件は終わった。だが、人生は続く……か」
自嘲気味に笑いながらも、その言葉を否定する気はなかった。
玲はコートの襟を立て、夜道を進んでいく。
次の依頼も、次の真実も、きっとまた――
この静かな街のどこかで、待っている。
【午前5時42分/東京郊外・玲探偵事務所】
秋の朝焼けが、事務所の窓から差し込む橙色の光となって、机の上に積まれた書類の角を静かに照らしていた。
まだ街は完全には目覚めておらず、通りには車の音も人影もない。支配しているのは、夜と朝の境目にだけ訪れる、張りつめた静寂だった。
その中で――
微かに、声がした。
「……終わった、はずなんだがな」
玲はデスクに向かったまま、ペンを持つ手を止めずに呟いた。
報告書の最終ページ。依頼人・佐伯俊介、案件終了の文字が、几帳面な筆跡で並んでいる。
背後のソファに腰を下ろしていた奈々が、コーヒーカップを両手で包みながら視線を上げる。
「でも、こういう案件ほど後を引きますよね。証拠は完璧でも、人の感情までは整理できませんから」
玲は小さく息を吐き、窓の外に目を向けた。
薄青い空に、鳥が一羽、低く弧を描いて飛んでいく。
「真実を示すのが、俺たちの仕事だ。救うかどうかは……本人次第だ」
その言葉は淡々としていたが、声の奥にはわずかな疲労が滲んでいた。
カタン、と静かな音を立てて、事務所のドアが開く。
「おはようございます。……いや、この時間だと“まだ起きてた”が正解ですかね」
アキトがコンビニ袋を提げて、気軽な調子で入ってくる。
袋の中から紙コップを取り出し、玲の机にそっと置いた。
「ブラック。砂糖なし。考え事してる顔だったから」
玲は一瞬だけ視線を上げ、ほんのわずかに口元を緩める。
「……相変わらず、無駄に勘がいい」
「職業病ですよ」
アキトは肩をすくめ、窓際に立って朝焼けを眺めた。
「佐伯さん、これからどうするんでしょうね」
奈々が静かに答える。
「前を向くと思います。時間はかかっても。少なくとも、“疑い続ける地獄”からは抜け出しました」
玲はペンを置き、報告書を揃えて閉じた。
「それでいい。俺たちが関われるのは、そこまでだ」
【午前5時55分/玲探偵事務所】
遠くで、最初の通勤電車の走行音がかすかに響く。
夜が完全に退き、朝が街を支配し始めていた。
玲は椅子から立ち上がり、窓を少しだけ開ける。
冷たい秋の空気が流れ込み、頭の奥に残っていた澱を静かに洗い流していく。
「……次の依頼が来るまで、少し休め」
「珍しいこと言いますね」
アキトが笑うと、玲は背を向けたまま答えた。
「人の嘘を見る仕事は、心を削る。削りすぎると……判断を誤る」
奈々は小さく頷き、カップを置いた。
「じゃあ、今日は解散ですね」
朝焼けの光が三人の影を床に伸ばす。
それはもう、昨夜までの重たい影ではなかった。
事件は終わった。
だが、人の人生は、今日も静かに続いていく。
その現実を背に、玲探偵事務所の一日は、ゆっくりと始まりつつあった。
【午前6時12分/東京郊外・玲探偵事務所】
資料と映像の最終チェックが終わり、室内に漂っていた張り詰めた空気が、ようやく緩んだ。
モニターはすべて黒画面に戻り、デスクの上には整然と並べられた報告書の束だけが残っている。
玲は椅子から立ち上がり、チーム全員を見渡して静かに言った。
「これで依頼は完了だ。各自、記録の整理と報告書の最終確認を頼む。提出は今日中だ」
奈々は軽く背伸びをしながら頷く。
「了解です。映像ログと時系列、もう一度突き合わせておきますね」
その横で、アキトがニヤリと口角を上げた。
椅子の背にもたれ、わざとらしく感心したような声を出す。
「いやー、それにしても今回も完璧でしたね、玲さん」
玲は嫌な予感を察し、視線だけを向ける。
「……何が言いたい」
「何って? そりゃあ――」
アキトは指を立て、楽しそうに続けた。
「ホテル街に溶け込むあの女装。歩き方、仕草、香水の選び方まで完璧。通行人が二度見してましたよ?
正直、あそこまで自然だと、もう“仕事”の域を超えてますって」
奈々が思わず吹き出す。
「ちょっとアキト、本人の前で言わないでください」
玲は額を押さえ、小さく息を吐いた。
「……任務遂行に必要だった。それ以上でも以下でもない」
「でもですよ」
アキトは悪びれずに続ける。
「次から“女装専門の潜入担当”って肩書き、名刺に――」
「それ以上言ったら、次の変装はお前がスカートだ」
低く、即答だった。
一瞬の沈黙の後、奈々が声を押し殺して笑う。
「……それはそれで、見てみたいですけど」
「ちょ、奈々さんまで!?」
アキトが慌てて手を振る中、玲は報告書の束を抱え直し、事務的に言った。
「雑談はそこまでだ。終わった案件に未練は残すな。次の依頼は、もうすぐ来る」
朝焼けの光が、事務所の床に差し込み、三人の影を並べて伸ばしていた。
軽口の裏にある疲労と、確かな達成感を残したまま、玲探偵事務所は次の“日常”へと静かに戻っていく。
【午後3時27分/都心・大型ターミナル駅前】
雑踏のざわめきが、波のように絶え間なく押し寄せていた。
改札を抜ける人々、スマートフォンを見下ろしながら歩く若者、買い物袋を提げた主婦、スーツ姿の会社員――その流れの中に、アキトはごく自然に紛れ込んでいる。
彼は歩きながら、視線だけをさりげなく巡らせていた。
派手に見ることはしない。ただ一瞬、通り過ぎざまに切り取るように。
「なるほど……」
小さく呟き、前を行く女性の歩き方を観察する。
重心の置き方、足運びのリズム、肩の揺れ。
「あの歩き方とバッグの持ち方……力を抜いてるのに、だらしなく見えない」
今度は斜め前を歩く男性に目を向ける。
スマホを操作しながらも周囲を把握している視線の動き。
「……警戒心、強め。ああいうのは尾行する側に回ると厄介だな」
アキトは無意識のうちに、自分の歩調を人混みに合わせて微調整していた。
早すぎず、遅すぎず。誰の記憶にも残らない速度。
(仕事が終わっても、結局こうなるんだよな)
内心で苦笑する。
任務がない日でも、身体が勝手に“観察する側”に回ってしまう。
通り沿いのガラスに、自分の姿が一瞬映り込んだ。
ラフな服装、どこにでもいそうな青年。
――完璧だ。
「これでいい」
誰に言うでもなく、そう呟く。
派手さも、特徴もいらない。
必要なのは、“どこにでもいる”こと。
人混みの向こうで、信号が青に変わる。
アキトは流れに身を任せるように歩き出し、再び雑踏の中へ溶けていった。
次の仕事が来る、その瞬間まで。
【午後6時12分/郊外・リコの自宅リビング】
夕方の柔らかな光がカーテン越しに差し込み、リビングのテーブルを淡く照らしていた。
テーブルの上には、ファンデーション、アイシャドウ、チーク、ブラシ類がきれいに並べられている。
リコはエプロン姿のまま、向かいに座る友人の主婦に身を乗り出して説明していた。
「まず下地は、ここ。目の下は薄く叩く感じで……そう、こすらないで」
「へぇ……そんなに違うのね。いつも適当に塗ってたわ」
友人は鏡を覗き込みながら感心したように声を上げる。
リコは少し照れたように笑い、ブラシを持ち替えた。
「現場……じゃなくて、撮影の時は光の当たり方が違うから、影を計算するんです。普段用なら、これくらいで十分ですよ」
言いかけて、慌てて言い直すあたりが彼女らしい。
「なるほどねぇ。リコちゃん、本当に詳しいのね」
そのとき、玄関の方から気配がした。
ドアが開く音と同時に、軽い足音。
「……あれ、メイク講座?」
ひょいと顔を出したのはアキトだった。
手にはコンビニ袋。完全に私服の、気の抜けた様子だ。
「アキトさん!? いつからそこに……」
リコは一瞬驚いたあと、苦笑する。
「今来たよ。玄関開いてたからさ」
アキトはテーブルの上を覗き込み、道具の並びを見て目を細めた。
「へぇ……これ、現場でも使ってたやつだろ。相変わらず几帳面だな」
「しーっ、今は“普通の主婦向け講座”ですから」
リコが小声で言うと、友人がくすっと笑った。
「お仕事関係の方?」
「……まあ、そんな感じです」
アキトは曖昧に笑い、ソファに腰を下ろす。
「それにしてもさ」
彼は顎に手を当て、少しからかうように言った。
「こうやって誰かに教えてるリコを見ると、成長したなって思うよ。昔はカメラ構えるだけで精一杯だったのに」
「ちょ、ちょっと! それは言わない約束じゃ……」
リコは頬を赤らめながらも、どこか誇らしそうだった。
友人は鏡越しに二人を見比べ、微笑む。
「いいチームなんですね」
その言葉に、リコは一瞬だけ視線を落とし、そして静かに頷いた。
「……はい。守るために、記録するために。一緒にやってきた人です」
夕暮れが深まり、部屋の灯りが少しずつ濃くなる。
リビングには、日常の穏やかな空気と、かつての緊張を乗り越えた者たちの静かな余韻が漂っていた。
【午後5時48分/郊外・佐伯俊介の新居リビング】
リビングのソファに腰を下ろし、俊介は窓の外を眺めていた。
ガラス越しに見える夕焼けは、橙から赤へ、そしてゆっくりと群青へ溶けていく。
部屋はまだ照明をつけておらず、静けさの中で時計の秒針だけが規則正しく音を刻んでいた。
「……静かだな」
誰に向けるでもなく、俊介は小さく呟いた。
以前なら、この時間帯は物音ひとつで胸がざわついていた。
スマートフォンを握りしめ、妻の帰宅時間や言い訳を頭の中で反芻していたはずだ。
今は違う。
テーブルの上に置かれたスマートフォンは伏せられたまま、通知音も鳴らない。
「……これで、よかったんだよな」
そう呟いた瞬間――
玄関の方から、控えめにドアをノックする音がした。
コン、コン。
俊介は一瞬だけ身を強張らせたが、すぐに立ち上がる。
「……はい」
ドアを開けると、そこにはラフなジャケット姿のアキトが立っていた。
手には小さな紙袋。相変わらず、場違いなほど気軽な雰囲気だ。
「どうも。急にすみません。近くまで来たもので」
「……あ、いえ。どうぞ」
俊介は少し驚きながらも、道を空けた。
アキトは軽く会釈し、リビングに足を踏み入れる。
「ここが新居ですか。いいですね、落ち着いてて」
「まだ何も揃ってませんけど……前よりは、静かです」
俊介はそう答え、ソファを勧めた。
アキトは腰を下ろし、紙袋をテーブルに置く。
「差し入れです。大したものじゃないですけど」
「……ありがとうございます」
少しの沈黙。
夕焼けの光が二人の横顔を染める。
アキトは窓の外に目を向け、ふっと息をついた。
「顔、だいぶ楽になりましたね」
俊介は苦笑し、視線を落とす。
「……正直、まだ整理はついてません。でも」
言葉を選びながら、続ける。
「毎日、疑わなくていい。それだけで……こんなに違うんですね」
アキトは静かに頷いた。
「疑い続けるのって、体力も心も削られますから。終わったって実感が、少しずつ追いついてきますよ」
俊介はしばらく黙り込み、やがて小さく息を吐いた。
「……ありがとうございました。本当に」
深く頭を下げる。
「あなたたちがいなければ、俺はたぶん、ずっと自分を疑い続けてました」
アキトは慌てたように手を振る。
「いやいや。決断したのは佐伯さんです。俺たちは、材料を揃えただけですよ」
立ち上がり、玄関へ向かいながら振り返る。
「これからは、自分の時間をちゃんと使ってください。夕焼けを眺めるのも、その一つです」
ドアが閉まり、再びリビングに静けさが戻る。
俊介はソファに座り直し、窓の外を見る。
夕焼けはすでに夜へと溶け始めていた。
「……ああ」
小さく頷き、彼は初めて、穏やかな気持ちでその景色を受け止めていた。
【午後10時32分/玲探偵事務所・執務室】
玲はデスクに肘をつき、少しだけ開けた窓の外に視線を向けていた。
夜風がカーテンを揺らし、街灯の白い光が向かいの壁に静かな影を落としている。
机の上には、すでに綴じ終えた報告書の束。
ホチキスの留め目は揃い、付箋もすべて外されていた。
「……これで一区切り、か」
独り言のように呟き、玲は眼鏡を外して目頭を押さえる。
派手な事件ではない。
だが、感情が絡み、真実が見えにくくなる類の依頼ほど、後を引く。
ふと、隣のデスクから椅子を引く音がした。
「まだ帰らないんですか」
奈々の声だった。
モニターの電源を落とし、コートを手にしている。
「ああ。少し風に当たってからな」
「……女装、相当堪えました?」
奈々は冗談めかして微笑む。
玲は鼻で小さく笑った。
「二度とやらん。変装は変装でも、あれは精神的に消耗する」
「でも、完璧でしたよ。通行人、二度見どころか三度見してましたし」
「だから余計にだ」
即答だった。
奈々は肩をすくめ、苦笑する。
「では、お先に失礼します。お疲れさまでした」
ドアが閉まり、再び事務所は静寂に包まれる。
玲は立ち上がり、窓辺に近づいた。
下を歩く人影はまばらで、それぞれがそれぞれの夜を生きている。
「事件が終わっても……人生は続く、か」
誰に言うでもなく、そう呟く。
今回の依頼者も、元妻も、そして自分たちも。
玲はカーテンを引き、部屋の灯りを一つ落とした。
明日には、また別の依頼が来るだろう。
それでも今夜だけは、この静けさを受け入れてから帰ろう。
夜風が、静かに背中を押していた。
【午後3時18分/郊外のカフェ・窓際席】
真理子は窓際の席に座り、両手で包むようにカフェラテのカップを持っていた。
ガラス越しに見える通りでは、買い物袋を下げた人々が行き交い、秋の光が柔らかく舗道を照らしている。
「……静かね」
誰に向けるでもなく、小さく呟く。
かつての生活では、こんな時間帯に一人でカフェにいる余裕はなかった。
そのとき、背後で椅子が引かれる音がした。
「相席、いいですか」
低く落ち着いた声。
真理子が振り向くと、トレンチコート姿のアキトが、まるで偶然を装ったように立っていた。
「……どうぞ」
一瞬だけ驚いたものの、拒む理由はない。
アキトはコーヒーを注文し、自然な動作で向かいの席に腰を下ろす。
「落ち着いた顔してますね。前より」
「そう見えます?」
真理子は微かに笑い、再び窓の外へ視線を戻す。
「離婚して、全部終わったと思ってたけど……実際は、ようやく始まった感じかしら」
「よくある話です」
アキトは深く踏み込まない。
それが仕事で身につけた距離感だ。
「恨んでます?」
真理子が不意に問いかける。
「依頼主の感情は、僕の管轄外です」
即答だった。
だが、その言葉に棘はない。
「ただ、一つだけ言えるのは……過去は戻らないってことですね」
真理子はカフェラテを一口飲み、少し間を置いてから頷いた。
「ええ。だから前を向くしかない」
沈黙が落ちる。
それは気まずさではなく、互いにそれ以上語る必要がないと理解した静けさだった。
やがてアキトは立ち上がる。
「では、これで」
「……ありがとう。会えてよかった」
アキトは軽く会釈し、店を出ていった。
窓越しに見える彼の背中が人混みに溶けるのを見届けてから、真理子はそっと息を吐いた。
過去は整理された。
それでも人生は、まだ続いていく。
カップの底に残ったぬるいカフェラテが、静かに揺れていた。
【時間:離婚成立から三か月後・夕暮れ】
【場所:俊介の新居・リビング】
窓の外が、ゆっくりと橙色に染まっていく。
この時間帯になると、決まって一日の終わりを実感するようになった。
以前の家では、夕暮れは「待つ時間」だった。
妻が帰ってくるのか、今日も残業なのか、
そんなことばかりを考えて、時計ばかり見ていた。
今は違う。
静かな部屋に、一人分の生活音だけがある。
少し広すぎるソファも、最初は落ち着かなかったが、
最近はこの余白が、心の余裕のように感じられるようになった。
「……あの時、事務所の扉を叩いてよかった」
小さく呟くと、部屋に自分の声だけが残る。
真実を知るのは怖かった。
知ってしまえば、戻れないことも分かっていた。
それでも、知らないまま自分を騙し続けるよりは、
ずっとましだったのだと思う。
玲という探偵は、感情を煽ることも、
余計な慰めを言うこともなかった。
ただ、事実を静かに差し出してくれた。
あとは、僕が選ぶだけだった。
失ったものは確かにある。
けれど同時に、
自分自身を取り戻した感覚も、確かにここにある。
窓に映る自分の顔は、少しだけ穏やかだった。
「これからだな……」
誰に向けるでもなく、そう言って立ち上がる。
明日の予定を確認し、電気をつける。
ごく普通の、当たり前の夜。
それが今の僕には、何より大切だった。
――真実は痛みを伴う。
けれど、それを越えた先には、
確かに“自分の人生”が待っている。
この物語に関わったすべての人へ、
静かな感謝を込めて。




