91話 影横丁(かげよこちょう) ―― 夜に残された証言 ――
登場人物紹介
玲
郊外に事務所を構える探偵。
常に冷静で、感情を表に出さないが、仲間の安全と真実の追究を最優先に動く人物。
複雑に絡み合った事件の流れを整理し、最終的な判断を下す司令塔的存在。
⸻
橘 奈々(たちばな なな)
玲探偵事務所の情報整理・分析担当。
冷静沈着で現実的な思考を持ち、データと事実を重視する。
現場に出ることは少ないが、彼女の分析が事件解決の要となることが多い。
⸻
天音
映像・行動解析担当。
一見すると直感的だが、実際は膨大な情報を整理し、人の動きや癖を読み取る観察眼を持つ。
落ち着いた口調で、混乱した現場に指針を与える存在。
⸻
アキト
尾行班の中心人物。
夜の街に自然に溶け込む変装と冷静な判断力を持つルートマスター。
感情を表に出さず、必要なことだけを確実にこなすが、仲間への信頼は深い。
⸻
成瀬
影班の一員。
無口で存在感を消すことに長け、裏方での行動を得意とする。
直接語ることは少ないが、要所で的確な動きを見せる。
⸻
朱音
沙耶の娘。
まだ幼いが、事件のあとに残る空気や人の感情を敏感に感じ取る。
スケッチブックに描く絵は、出来事を静かに記録するもう一つの「証言」となっている。
⸻
ユウタ
事件を通じて、過去と向き合うことになった少年。
失われていた記憶と感情を、時間をかけて整理し始めている。
静かに前へ進もうとする姿が印象的。
⸻
コウキ
長く封じてきた過去を抱える青年。
事件後、少しずつだが確実に心の整理を始めている。
完全ではないが、「立ち止まらずに進む」ことを選んだ。
⸻
リコ
SNSと現場情報の収集を得意とする協力者。
軽い口調とは裏腹に、情報の精度と速さは一級品。
空気を和らげつつ、核心を突く発言でチームを支える。
⸻
拓海
かつて事件に巻き込まれ、真実を知る情報提供者。
十年前の倉庫事件の重要な目撃者であり、裏切りの構造を知る人物。
勇気を出して語った証言が、事件の全体像を明らかにした。
⸻
第三の影
今回の事件の中心人物。
過去の裏切りと誤情報によって人生を歪められた存在。
加害者でありながら、同時に被害者でもあった男。
冒頭
【23:42・渋谷区道玄坂影横丁】
蒸し暑い夜風が路地裏を吹き抜ける。ネオンの光が濡れたアスファルトに反射し、影を長く落とす。人気の少ない裏通りは、ひっそりとした静寂に包まれていた。
角を曲がった先、散乱する荷物や倒れた自転車の破片の間に、異様な光景が目に入った。血の跡が壁伝いに伸び、ここで何かが急に起こったことを告げていた。
「うわ……な、なんだこれ……」
声の主は通りかかった一般人の若い女性だった。スマホを手に取り、思わずその光景を撮ろうとしたが、指が震えてシャッターを押せない。心臓が高鳴り、思わず後ずさる。
「えっと……えっと……警察……!」
女性は恐る恐るスマホで110番に電話をかけた。声は震え、夜の静寂にかき消されそうだった。
「え、えっと……渋谷区、道玄坂の影横丁で……血が……倒れてる人が……」
電話の向こうから、警察の声が応答する。
「落ち着いてください。どなたか怪我をされていますか?状況を詳しく教えてください」
女性は息を整えながら、目の前の惨状を伝える。
「誰かが倒れていて……血が……道路沿いの荷物や自転車が散乱してて……動いてないみたいです……」
電話を握る手が震える。彼女は背後の暗闇をちらりと見た。蒸し暑い夜風だけが路地裏を吹き抜け、異様な静けさを増幅させていた。
「はい、落ち着いて。その場から離れずに待っていてください。救急と警察が向かいます」
女性はうなずき、深く息を吸う。だが心臓の高鳴りは収まらない。路地裏は、事件発覚直後の緊張と恐怖に包まれたままだった。
【23:48・玲探偵事務所】
玲探偵事務所のオフィスに、夜の静けさを切り裂くように電話が鳴った。机の上で積まれた資料やモニターの光が揺れる。玲はゆっくりと受話器を取る。
「玲探偵事務所です。」
受話器の向こうから、声がかすかに震えている。
「えっと……渋谷区の……影横丁で……人が……倒れてます……」
玲は眉をひそめ、机の上のメモパッドに簡潔に書き込む。
「場所は確認した。状況は? 怪我の程度は?」
「血が……大量に……あの、誰かが……!」
電話口の女性は言葉を詰まらせる。玲は落ち着いた口調で応じる。
「わかりました。警察には通報済みですか?」
「はい……でも、怖くて……」
玲は軽く息を吐き、受話器を握ったまま頷くように言った。
「安心してください。私たちも向かいます。落ち着いて、その場を動かずにいてください。」
通話を終えると、玲はデスクのモニターに目を向ける。
「奈々、天音、アキト、モニター前に集合。情報は逐一記録しておけ。」
オフィス内に緊張が走る。蒸し暑い夜の渋谷で、静かに事件の影が動き始めた瞬間だった。
玲は書類から目を上げ、受話器を取る。事務所にはまだ誰も集まっていなかった。静まり返ったオフィスの中、玲は受話器を片手に、モニターの光に顔を照らされながら深く息を吐いた。
「大丈夫。慌てる必要はない。落ち着いて情報を整理しよう……」
玲の声は、静かで穏やかだった。緊迫した状況でも、どこか安心感を与える落ち着きがある。
手元のメモパッドに通報内容を整理しながら、玲は小声で続ける。
「影横丁……夜23時48分。被害者は一名、路地で倒れている……。警察は通報済み。まずは状況の把握が最優先……」
玲は窓の外に目を向け、蒸し暑い夜風に揺れる街灯の光を眺めた。
「誰もまだ来ていないけど、俺がしっかり状況を押さえておけば、みんなが動きやすくなる……」
受話器を置き、玲はゆっくりとモニターに向かいながら、再び自分に言い聞かせるように呟いた。
「まずは落ち着け。焦らず、正確に……情報はすべて記録するんだ。」
静けさの中に、玲の冷静な判断と決意が静かに光っていた。
【23:50・影横丁交差点】
アキトは路地裏の影に身を潜め、倒れている被害者の様子を慎重に観察していた。蒸し暑い夜風が顔に当たり、フードを揺らす。
「23:50、動きなし……」
無線機に向かって低くつぶやき、スイッチを押す。
「玲、尾行班一名、影横丁南側で監視中。被害者は依然として倒れたまま。付近に不審者の気配はなし」
遠くから聞こえる酔っ払いの声や自動車の音に混ざり、微かな物音がする。アキトは息を殺し、目を細めて暗闇を注視する。
「警戒継続。路地裏から誰か出てくる可能性あり……」
現実的な尾行任務として、被害者の安全確認と周囲の警戒を淡々と報告する場面になっている。
了解です。では修正版です。
⸻
【23:50・影横丁交差点】
アキトは交差点の陰に身を潜め、周囲を注意深く見渡した。倒れている被害者の姿を視界に収めつつ、通行人や周辺の車の動きも確認する。
「23:50、異常なし……」
小声で無線に報告し、息を整える。
「玲、尾行班一名、影横丁交差点南側で監視中。被害者は依然として倒れたまま。付近に不審者の気配はなし。」
路地から微かに聞こえる足音に、アキトは一瞬目を凝らす。冷静な表情を崩さず、フードの端を指で軽く整えながら、慎重に暗闇を注視した。
「警戒継続。路地裏から誰か出てくる可能性あり……」
【23:52・玲探偵事務所】
天音は手帳を開き、静かにペンを走らせる。記入内容は以下の通りだった。
・影横丁の交差点、倒れている被害者の位置:北側路地から約5メートル、アスファルト上に仰向け。
・周囲の通行人の状況:午後11時50分時点で通行者なし。付近のコンビニ店員が窓越しに様子を見ているのみ。
・車両情報:付近に駐車中の車両は白と黒のワゴン各1台、ナンバー未確認。
・周囲の照明条件:街灯2基が稼働、ネオンの光が路地奥を微かに照らす程度。
・音の記録:軽い足音1回、近くの排水溝から水音が断続的に聞こえる。
・不審者情報:現時点で未確認。尾行班の報告待ち。
天音は記入後、ノートを閉じて軽く頷き、奈々に視線を送った。
「現場情報、随時更新できるよう整理しておきました。無線で尾行班と連携すれば、すぐに潜入班に共有できます」
【23:50・渋谷区影横丁付近】
尾行班のアキトは、路地裏の影に身を潜めていた。黒のパーカーにデニム、軽いスニーカーで、夜の繁華街に自然に溶け込む服装だ。フードを深く被り、耳には無線機を装着している。
アキトは呼吸を整えながら、視界に入る路地の状況を慎重に確認した。倒れている被害者、周囲の車両、街灯の光の当たり方、微かに聞こえる足音や排水音……すべてを頭の中で整理し、無線で玲探偵事務所へ報告できる態勢を整えている。
心臓は高鳴るが、表情は冷静そのものだ。夜風にフードの端が揺れ、街灯の光が透き通る肌を淡く照らす。アキトの指先は無線機に軽く触れ、仲間との連携に備えていた。
【23:50・玲探偵事務所】
事務所の扉が静かに開き、奈々と天音が足音を忍ばせながら入ってきた。奈々はノートパソコンを抱え、天音は手帳に何やら細かくメモをしている。
天音は手帳を開き、路地裏や被害者の状況、目撃者の証言を整理しながら、箇条書きで記入していく。通行人の位置、街灯の配置、倒れた自転車や荷物の位置、血の跡の向き、警察到着までの時間、そして通報者の詳細まで、一つ一つ正確に書き込んでいった。
奈々はノートパソコンを起動し、路地裏周辺の防犯カメラ映像やSNS上の情報を確認し、天音の手帳の内容と照合しながらデータを整理する。二人の連携は静かで確実であり、事務所内には緊張感が漂っていた。
【23:52・玲探偵事務所】
天音はモニターに映る映像に目を凝らし、指先でカーソルを滑らせながら犯人の動きを丹念に追う。通行人の流れ、被害者の動線、街灯に映る影の揺れ――あらゆる情報を瞬時に読み取り、手元の手帳に符号や矢印で記録していく。
「この歩き方……右足を少し引きずる癖がある。交差点を曲がる際、左手をポケットに入れる動作も微妙に遅れる」
天音は声に出さず、指先で画面上の動きを何度も再生。犯人の歩幅、角度の取り方、歩くリズム、視線の動きまで解析し、微細な行動パターンを手帳に書き込む。まるで占術師が星や手相から運命を読み解くように、映像から犯人の「癖」と「心理傾向」を推測する。
「ここ……被害者を確認した後、少し間を置いて振り返る。緊張のサインですね。逃走の可能性も考慮」
天音は次に、犯人の立ち止まり方や視線の動きにも注目する。街灯の影、通行人との距離、壁や物陰との位置関係まで、わずかな差異も見逃さない。
「同じ癖が次の角でも出れば、ほぼ間違いなく同一人物です。潜入班と尾行班に、このタイミングで注意喚起を送ります」
彼女の分析は、単なる映像の確認ではなく、犯人の行動心理を先読みする作業でもある。冷静かつ精密な観察は、現場班の判断を大きく支える重要な情報源となっていた。
【23:55・玲探偵事務所】
玲は椅子にもたれ、両肘を机に置きながらモニターに目を走らせる。画面には現場の監視映像や尾行班から送られてきたライブ情報、天音の手帳にまとめられた犯人の癖の解析結果が次々と映し出されていた。
「天音、犯人の動きは一定のリズムで進んでいる。微妙な停止や振り返りはすべて計算済みだと思われる」
玲は指先で画面をスクロールしながら続ける。
「奈々、尾行班と連絡を取りつつ、現場班にはこの癖を共有してくれ。焦らずに距離を保つことが最優先だ」
端末を軽くタップして、情報を整理する玲。静かな声だが、事務所の空気にしっかりと緊張感を刻み込む。
「この犯人、周囲の状況には敏感だ。角や死角に入るタイミングを見計らって行動している。接触はまだ先にして、まずは監視と記録だ」
玲は深く息をつき、椅子の背もたれに体を預けながら、冷静な視線をモニターに固定する。
「よし、全班、動きは慎重に。焦りは禁物。情報は随時更新、無線で必ず報告すること」
静かな口調の中に確固たる指揮力があり、事務所の誰もがその声に集中して頷いた。
【23:58・渋谷・宮下橋下広場】
夜の渋谷、湿った空気にネオンが滲む。広場には若者たちが集まり、スピーカーから漏れる音楽に合わせて踊っている。人混みに紛れ、アキトがふらっと姿を現す。
黒のパーカーにジーンズ、軽いスニーカー。フードを深く被り、耳には無線機。音楽に合わせて身体を揺らす群衆の中に溶け込み、誰の目にも止まらない。
アキトは軽く周囲を見渡し、無線越しに低く囁く。
「全員、位置についた……問題なさそうだ」
その声に、尾行班や観察班も無線越しで静かに応答する。群衆に紛れて監視するアキトの目は鋭く、注意深く広場の隅々を見渡していた。
「ターゲットはまだ確認できない……だが、焦らず行動する。動きがあれば即報告」
アキトは軽く拳を握り、群衆の間を慎重に歩き始めた。夜の渋谷のざわめきが、潜入班の緊張感を際立たせている。
【23:50・渋谷・影横丁】
路地の薄暗い空気に、湿った夜風がそっと吹き込む。繁華街の喧騒が遠くで響き、影横丁には酔客や通行人のざわめきが不規則に混じる。
その雑踏に紛れるように、アキトがふらっと姿を現す。黒のパーカーにジーンズ、軽いスニーカー。フードを深く被り、耳には無線機。夜の闇と街灯の陰に溶け込み、目立たない姿だ。
アキトは通行人に混じりながら周囲を観察し、低く無線に息を乗せて囁く。
「全員、配置についた……異常なし。ターゲットの動きを待つ」
湿った夜風が頬をかすめる中、アキトの目は影横丁の奥まで注意深く走る。酔客や雑踏に紛れても、鋭い視線は逃すことなくターゲットの兆候を追っていた。
【23:52・渋谷・影横丁細路地】
アキトの視線の先、暗がりの細い路地に一人の制服警官が立っていた。夜の湿った空気に混じる遠くの喧騒から少し離れ、静まり返った通りでパトロール中のようだ。
警官は歩みを止め、無意識に周囲を見渡す。目がこちらに向いた瞬間、アキトは体をわずかに沈め、フードの影に顔を隠す。息を整え、無線に小さく囁いた。
「警官、一名確認。ターゲットの動線を妨げないように注意」
夜風が路地を吹き抜け、遠くのネオンが路面にぼんやりと反射する。その中で、アキトの瞳は警官の動きと、潜む犯人の影を冷静に追い続けた。
【23:53・渋谷・影横丁細路地】
その瞬間、犯人はポケットから鋭い刃物を取り出した。細く曲がった路地の暗がりに、金属の光がわずかに反射する。通行人の一人が足を止め、驚いた表情で犯人を見上げたその瞬間、犯人はためらうことなく襲いかかった。悲鳴が路地の壁に跳ね返り、夜の静寂を切り裂く。
制服警官が咄嗟に反応し、駆け寄る。だが、狭い路地のために犯人との距離を詰める前に一歩遅れが生じる。犯人の手元の刃物は素早く動き、通行人の身体をかすめる。警官は必死に腕を伸ばすが、完全に止めるには間に合わない状況だった。
無線機の向こうから、アキトの低く鋭い声が響く。
「標的、第二の犯行開始──!ナイフ使用!周囲に通行人多数、警官一名!……これ以上は止められない!」
アキトは影に身を潜め、息を殺して路地を観察する。彼の視線は犯人の手元と通行人の動き、そして駆け寄る警官の動線まで、瞬時に把握されていく。細かい呼吸の変化、刃物の軌道、通行人の逃げ方、すべてを頭の中で整理しながら、次にどのタイミングで介入すべきかを冷静に計算する。
通行人たちは恐怖に顔を引きつらせ、必死に後退しながら路地の奥へ逃げ込もうとする。犯人はその隙を狙い、鋭い動きで追いかけようとするが、警官の存在が行動を制限する。アキトは影の奥で足を踏みならし、無線を通して仲間に状況を報告しつつ、路地の出口を封鎖できる位置を瞬時に判断する。
夜の渋谷の路地は、普段の雑踏の喧騒とは打って変わり、緊迫した戦場のような空気に包まれていた。街灯の光が濡れたアスファルトを照らし、犯人の影を長く引き伸ばす。アキトは呼吸を整え、動くべき瞬間をじっと待ち構えた。その目には恐怖や焦りはなく、冷静な計算と覚悟だけが映っていた。
【23:54・渋谷・影横丁細路地】
警官が振り向き、視線がアキトと交錯する。路地の空気が一瞬にして張り詰め、緊張の糸がぴんと張られる。
「お前は……誰だ!?」
警官の声には疑念と警戒が混じっていた。
アキトはすぐにフードを深く被り直し、額の汗をさりげなく拭う仕草を見せる。目は怯えた一般市民を装い、声も震わせながら言った。
「……ちょ、ちょっと……俺、偶然ここにいて……でも、あいつ、やばいですよ!刺そうとしてる!」
通行人のそぶりも交え、アキトは後ずさるように身を引く。手を前に出して恐怖を強調し、必死に警官の注意を犯人に向けさせる。
警官はアキトの動きを確認しながら、刃物を持つ犯人の方へ向き直る。アキトは影に紛れつつ、無線で仲間に小声で報告する。
「標的の注意、警官に向いた……今なら介入可能。」
夜風に混じる雑踏の音や遠くの車の音の中、アキトは冷静に次の行動のタイミングを計算し、路地の陰に体を潜めたまま、犯人と警官の動きを見守る。
【23:55・渋谷・影横丁細路地】
次の瞬間、路地に鋭い悲鳴が響いた。
「ぐっ……!」
警官の足がもつれ、バランスを崩して転倒する。倒れた先には散らばったガラス片があり、ふくらはぎを深く切り裂いていた。血が瞬く間に滲み出し、赤黒い染みが靴とアスファルトに広がる。
アキトはすぐに路地の陰から飛び出し、周囲に人が巻き込まれないように注意しながら駆け寄る。黒のフードと目立たないダークカラーの服装で、通行人と同化するように動き、警官に低く声をかける。
「大丈夫ですか!足、抑えて!出血がひどい!」
膝を曲げてしゃがみ、手で圧迫止血を試みながら、落ち着いた口調で指示を出す。
「止血します、落ち着いてください。すぐ救急車呼びますから!」
周囲の人々が避ける中、アキトは手際よく警官の足を押さえ、止血用のハンカチを取り出して応急処置を行う。顔には緊張の色が浮かぶが、声は震えず、あくまで冷静に振る舞う。
無線機で仲間に報告する声も最小限に抑え、状況を即座に伝える。
「警官負傷、止血中。周囲安全確認済み。次の指示待機。」
夜の影と路地の暗がりの中、アキトは通行人に怪しまれずに救護し、被害拡大を防ぐ役割を果たしていた。
【23:58・渋谷・玲探偵事務所裏口】
そのころ、玲探偵事務所の裏口では、簡易ながら救急対応の準備が整えられていた。
数分後、奈々と天音に支えられながら、警官が慎重に運び込まれる。
血の滲む制服の袖と、痛みに歪む顔が夜の光に浮かぶ。
白衣の女性がすぐに駆け寄った。手袋をはめた手は迷いなく、落ち着いた動きで出血箇所を確認する。
「出血はひどいけど、大腿動脈までは届いてない。すぐに縫合します」
桐生美和――ナース兼救護のスペシャリストだ。声は冷静で、指示も的確。
「奈々、止血用ガーゼと消毒液を。天音、血圧と脈を測ってください」
奈々は素早く指示通りの物品を手渡し、天音はタブレットで数値を確認する。
桐生は無駄な動きなく包帯を巻き、消毒液で患部を整える。
アキトは警官の横で小声で声をかける。
「痛み、我慢してください。すぐに安全になります」
外の夜風が差し込む中、緊張感と集中が混ざった空気が漂う。
救護班の手際の良さと冷静さが、現場の混乱を一瞬で制御していた。
【00:05・渋谷・玲探偵事務所裏口】
桐生の手際は驚くほど速く、警官の出血は次第に落ち着きを取り戻す。
「縫合完了。応急処置としては十分です。あとは病院で詳しい検査を」
その声に、奈々と天音は小さく頷き、警官の肩を支えながら落ち着かせる。
アキトは周囲を見回し、警官の視線が安心に変わるのを確認してから、低く声をかけた。
「これで一安心です。犯人はもう追跡中、危険はほとんどありません」
警官はまだ痛みに顔をしかめつつも、アキトの言葉でわずかに表情を緩めた。
玲が裏口に現れ、モニターで路地の映像を確認しながら指示を出す。
「奈々、天音はここで警官の保護と情報整理。アキト、現場の目撃情報と路地周辺の安全確認を頼む」
アキトは頷き、フードを深く被り直す。
「了解です。夜のうちに、路地裏周辺の監視カメラ映像も回収します」
桐生は手袋を外し、使用済みの器具を片付けながら、冷静に周囲を見渡す。
「救護はこれで完了です。あとは警察が正式に受け取るまで、安静にしてもらいましょう」
事務所の裏口には、夜の静けさと救護後の緊張が混ざった独特の空気が漂う。
事件の被害者は一命を取り留め、尾行班も周囲の安全を確保したことで、ひとまず危機は収束した。
玲はモニターの前で立ち止まり、深く息を吐く。
「まずは第一段階終了。次は現場検証と証拠の整理だ」
アキトは静かに路地に目を向け、遠くの街灯に照らされた影を追う。
「これで、夜の渋谷も少しは安全になる……か」
夜風が裏口に吹き込み、街のざわめきとともに、長い夜はまだ続いていた。
【00:12・渋谷・簡易テント玲探偵事務所モニター室】
玲は椅子に深く腰掛け、モニターの光で浮かぶ画面に目を凝らす。
「逃走経路を確認……この角、次の路地に抜けているはずだ」
天音はキーボードを操作しながら、映像の動きを解析する。
「左手の建物の陰に隠れて、動きが一瞬止まってます。警戒しながら進んでいるようです」
奈々が無線機を手に取り、現場班と連携する。
「アキト、確認。犯人、角を曲がったか?」
アキトの落ち着いた声が返る。
「はい、角を曲がりました。周囲の安全を確保しつつ、追跡を継続します」
玲はモニターの映像に手を伸ばし、ズームで犯人の動きを追う。
「通行人の流れも確認。巻き込まれの可能性は低い。各班、焦らず確実に動くこと」
天音は指先で画面をなぞり、犯人の動線と逃走経路を重ね合わせる。
「次の角で待機している警官と合流すれば、挟み撃ちが可能です。無線で全班に指示を流します」
玲は深く息を吐き、モニターの前で静かに囁くように言った。
「よし、これで次の一手が見えてきた。全員、冷静に、そして迅速に行動する」
青白い光が室内を淡く照らし、静かな緊張感が張り詰める。
監視映像の切り替わるたびに、犯人の逃走ルートが明らかになっていく。
【00:18・渋谷・宮下橋下周辺】
ネオンの光が濡れたアスファルトに反射し、街のざわめきが耳に届く。
アキトは深くキャップを被り、スマホを覗き込む仕草で通行人に溶け込む。
フードとキャップで顔を隠し、歩き方も自然に、まるで何も知らない若者のようだ。
「……これなら、誰にも気づかれない」
アキトは小声で呟き、周囲を確認する。
耳には無線機の小さな振動が伝わり、玲や天音の声が遠くから届く。
「アキト、角を曲がった。逃走者の位置、更新しました」
天音の冷静な報告が耳に入る。
アキトは足取りをゆるめ、周囲の通行人の流れに自然に混ざる。
スマホを操作する手つきも無意識に見せ、警戒を装いつつ、視線は常に逃走経路を追う。
「このまま尾行すれば、次の角で確実に押さえられる」
アキトの思考は冷静だ。街の喧騒の中、彼だけが事件の核心を見据えていた。
【00:25・渋谷・裏通り】
犯人が薄暗い裏通りに滑り込み、古びたビルの隙間に姿を消す。
街灯の光は届かず、闇に沈む空間。軋む扉がひとつ、閉まる音だけが響いた。
アキトは黒いパーカーのフードを深く被り、手には小型バッグをぶら下げて現れる。
無線機のイヤホンを耳に装着し、通行人のフリをしながらも視線は常に扉の方を向ける。
「……ここなら目立たない」
小声でつぶやき、足取りを軽やかに、自然に路地に溶け込ませる。
背後には街の喧騒、前方には犯人の潜む闇。アキトは冷静に状況を見極めながら、次の一手を考えていた。
【00:27・渋谷・裏通り・古びたビル前】
アキトはビルの外壁に身を寄せ、扉の隙間から室内を慎重に窺う。
暗い室内には、犯人が誰かと短く言葉を交わす声が漏れてくる。
もう一人、長身の影が薄暗がりで立ち上がった。
アキトは小さく息を整え、無線に口を近づける。
「……こちらアキト。犯人、誰かと話しています。長身の男も一緒にいる。状況報告です」
その声は低く、冷静だが緊張が微かに滲む。
路地裏の静けさの中、次の動きを待つ時間がゆっくりと流れていく。
【00:28・渋谷・裏通り・古びたビル内】
その瞬間、室内でカバンが音を立てて開かれた。
金属がわずかに光り、作業台の上に品々が慎重に並べられていく。
薬品の瓶、細工された金具、そして見慣れぬ小道具。
アキトは息を潜め、フードの影に身を隠しながら手元の小型カメラを取り出す。
「……よし、記録開始」
カメラのレンズ越しに、机上の道具や配置を正確に撮影する。
微かなシャッター音も聞こえないように、アキトは慎重に操作する。
無線機も口元に近づけ、潜入班に状況を逐一報告する準備を整えた。
【00:30・渋谷・裏通り・古びたビル内】
アキトは小型カメラを握ったまま、息を整えながら室内を観察する。
犯人は並べた薬品や金具に目を光らせ、手際よく何かを確認している。
その横で、長身の影も慎重に指示を出している様子だ。
アキトは無線機を静かに操作し、低く報告する。
「対象確認。二人組。片方は長身で指示役、もう片方は細工と薬品を操作中。動作に不自然な点なし」
暗がりに身を隠しつつ、アキトはメモ帳に簡単なスケッチを取り始める。
机上の道具の配置、人物の位置関係、動きのパターン――全てが後で分析の材料になる。
「……これ、かなり入念に準備されてる」
アキトの小さな吐息が、夜の静寂に溶ける。
外の街のざわめきは遠く、ここだけが時間を止めたように静まり返っていた。
【00:35・渋谷・裏通り・古びたビル内】
アキトは小型カメラの映像を手元の端末で確認し、暗号化して即座に送信準備を整えた。
「データ送信開始……事務所と藤堂の報道ステーションに同時送信」
端末の画面に、送信状況のバーがゆっくりと進む。
「……完了。映像は無事、両方に届いたはず」
玲探偵事務所では、奈々がモニターを見つめ、受信映像をリアルタイムで解析していた。
「映像確認、はい、きれいに映っています。位置関係も把握できます」
同時に、報道ステーションの藤堂もデスクで映像を確認。
「これでスクープの第一歩だ……慎重に扱おう。誤報は許されない」
アキトは小さく頷き、再びビルの暗がりに溶け込むように体を低くしながら、次の動きに備える。
路地の闇と街灯の光の間で、監視と潜入は静かに続いていた。
【00:40・渋谷・裏通り周辺】
アキトは壁際に身を潜め、無線機を耳にあてる。
「了解、尾行班β、γ班……全員配置完了か。状況は把握」
遠くの路地から、別班の低い声が返る。
「こちらδ班、表通りの出入口を抑えました。逃走経路は封鎖済み」
アキトは息を整えながら、手元の端末で事務所と連絡を取りつつ指示を出す。
「各班、焦らず。標的の動きを確認後、次の指示を待て。誤射・誤認は絶対に避ける」
夜風が湿った空気を運び、街灯の影が長く伸びる。
尾行班たちは、自然な仕草で警戒態勢を取りつつも、周囲に溶け込んで身を潜めていた。
アキトは無線に再び低く声を潜める。
「標的確認。準備完了次第、全員一斉に行動に移す。ここからが本番だ」
街のざわめきと遠くの救急車のサイレンが、緊迫した夜の空気をさらに張り詰めさせる。
【00:55・渋谷・裏通りの古びたビル内】
尾行班の一斉突入とともに、ビル内は緊張感で震えた。扉が蹴破られ、金属が擦れる音が響く。床に散乱したゴミや段ボールが踏み鳴らされる。
「前進!右壁沿い!」
「アキト、上階警戒!」
低く鋭い声が無線越しに飛ぶ。尾行班のメンバーは一糸乱れぬ動きで部屋を制圧し、犯人の動きを封じる。
暗がりに立つアキトは慎重にテレビモニターをつけ、ライブ報道を映す。
画面には、渋谷・影横丁での事件状況や警官の対応が映し出され、犯人の目に飛び込む。
「ほら、見ろ……もう隠れる場所はない」
アキトの低い声が背後で響く。フードで顔を覆いながらも、焦る犯人の表情が透けて見えた。
逃げ場を失った犯人は動揺し、手元の小道具やカバンを落とす。床に散らばる金属と紙類が、ビル内に響く乾いた音を重ねる。
尾行班の突入は正確無比で、犯人を包囲しつつアキトは静かに監視し続けた。
「全員、焦るな……ここからが勝負だ」
【00:57・渋谷・裏通りの古びたビル内】
混乱が渦巻く室内で、突然、暗がりから別の人物が現れた。
黒いコートを羽織り、足音ひとつ立てずにゆっくりと進むその影は、尾行班と犯人グループの間に静かに立ちはだかる。
「……貴様ら、何をしている?」
低く、冷静だが威圧的な声が、室内のざわめきを一瞬で止めた。
尾行班も犯人も一瞬硬直し、互いの目がその人物に注がれる。
アキトはフードを深く被り、無線で即座に状況を報告する。
「尾行班α、警戒。影の人物が介入。動きを止めろ、指示待ち!」
犯人の手がわずかに動くが、影の人物の静かな圧力に押され、すぐに止まる。
その存在だけで、室内の緊張は一層高まった。
尾行班の一人が低く息を吐きながら、無線でささやく。
「……一体、誰だ……?」
その影はゆっくりと手を挙げ、落ち着いた目で両者を見渡す。
「落ち着け。誰も怪我をする必要はない」
室内の時間が、数秒の静止のように感じられた。
尾行班と犯人グループ、そして正体不明の第三の影。
三つの勢力が、狭いビル内部で複雑に絡み合っていた。
廊下の角を曲がるたび、位置関係が崩れる。
階段を上がれば背後に気配、扉を開ければ至近距離で視線がぶつかる。
互いに相手の出方を測りながら、神経だけが張り詰めていく。
「くそっ、どこから回り込んできた……!」
犯人グループの一人が声を荒げた瞬間、乾いた破裂音が響いた。
銃声――だが狙いは定まっていない。
威嚇に近い一発が、壁のタイルを砕き、粉塵が舞い上がる。
尾行班は即座に散開した。
無駄な叫びはない。足音も最小限だ。
アキトは壁際に身を寄せ、呼吸を殺しながら、第三の影の動きを目で追った。
――動きが静かすぎる。
犯人とも、こちらとも違う。
目的が読めない。
そのとき、無線に微かなノイズが走り、次いで低く落ち着いた声が届いた。
「焦るな。情報を整理しろ」
玲の声だった。
「敵の動き、犯人グループの人数、そして“影”の位置。
すべて把握してから動け。感情で突っ込むな」
その一言で、空気が変わった。
張り詰めていた尾行班の動きが、わずかに整う。
「了解……」
「こちらβ、犯人三名、二階西側に固まってる」
「γ班、第三の影は単独。武器の有無、未確認」
無線越しに情報が積み上がっていく。
犯人グループも異変を感じ取ったのか、足取りが乱れ始める。
互いを疑う視線。
そして、第三の影が再び動いた。
ゆっくりと、しかし迷いなく。
まるで、この混乱そのものを見下ろしているかのように。
アキトは喉を鳴らし、無線に小さく囁いた。
「……玲。あの影、犯人でも一般人でもない。
でも、俺たちの動きを邪魔する気は……まだ、なさそうだ」
一瞬の沈黙。
そして、玲の声が再び響いた。
「なら、利用する。
影を基点に、犯人を追い込め。――全員、次の一手に備えろ」
静かな指示だったが、その言葉には確かな覚悟があった。
三つ巴の混戦は、ここからが本番だった。
【01:02・渋谷・影横丁奥/古びたビル裏路地】
アキトは物陰に身を沈めたまま、呼吸を整え、静かにカメラを構えた。
路地の奥、犯人グループが混乱の中で落としていったものが、街灯の淡い光に照らされている。
散乱した書類。
画面にひびの入ったスマートフォン。
録音アプリが起動したままの小型レコーダー。
アキトは余計な音を立てないよう慎重にシャッターを切る。
一枚、また一枚。
書類の表紙、署名、日付。
端末のロック画面、通知履歴。
音声レコーダーに表示されたタイムスタンプ。
「……証拠、確保。全て記録完了」
無線に低くそう告げた直後、耳元で玲の声が即座に返ってきた。
「確認した。映像とデータ、こちらでも受信できている」
玲の声は落ち着き払っていた。
まるで、この混乱すら想定の範囲内だと言わんばかりに。
【01:03・玲探偵事務所/管制スペース】
モニターに映し出されるアキトの映像を見つめながら、玲は短く続ける。
「アキト、その場を離れろ。証拠は十分だ。これ以上、前に出る必要はない」
一瞬の間。
「第三の影の動きはこちらで整理する。お前は“一般人”に戻れ」
無線越しでも分かる、はっきりとした判断だった。
【01:04・渋谷・影横丁奥】
アキトは小さく息を吐き、カメラをしまう。
フードを直し、スマホを手に取ると、さっきまでの緊張などなかったかのように姿勢を緩めた。
「了解。離脱する」
路地の向こうでは、尾行班の低い指示と足音が交錯している。
犯人グループの怒号、第三の影の気配、警察のサイレンが遠くで重なり始めた。
アキトはそれらを背に、ゆっくりと歩き出す。
今夜、決着をつけるのは――
彼ではない。
証拠は揃った。
あとは、玲たちの仕事だ。
【23:50 渋谷区影横丁】
アキトは無線機を口元に寄せ、低い声で報告する。
「増援一名、路地奥で軽傷。呼吸と脈は安定。応急処置済み、現場警戒継続」
天音が手元のタブレットを素早く操作し、映像と連携させる。
「了解。映像に反映済み。尾行班全員の位置もマッピングに追加」
奈々がノートパソコンの画面を確認しながら言う。
「被害軽微、でも動線の妨害には注意。犯人の逃走ルートを予測して配置を調整する」
アキトは倒れた仲間を背後に寄せ、安全な位置に移動させる。
「現場整理完了。無線で全班に安全確認を周知します」
玲の落ち着いた声が無線越しに響く。
「よし、負傷者の回収を最優先に。尾行班は位置を維持、犯人グループの動きを抑えろ」
天音が解析画面をスクロールしながら付け加える。
「データに異常はなし。証拠はすべて送信済み、報道班も確認済みです」
路地の薄明かりの中、尾行班は増援の安全を確保しつつ、犯人の追跡を冷静に続けた。
アキトの目は次の瞬間に備え、微動だにせず動きを注視していた。
【23:52 玲探偵事務所】
奈々はノートパソコンに向かい、アキトが送信した写真や音声ファイルを一つずつ再生して確認する。
「全データ受信完了。写真は高解像度、音声も雑音少なめ。これで動きの詳細が追える」
天音は解析画面をスクロールしながら、冷静に声を出す。
「奈々、送られてきた映像を時系列で整理して。犯人の動きと尾行班の位置をマッピングに反映する」
奈々が手早く操作し、画面上に路地や建物の平面図を表示。
「はい。アキトの位置、尾行班の増援、犯人の移動ルートも入力済み」
天音が指先で画面をなぞりながら続ける。
「犯人が最後に潜り込んだ建物の入口はここ。アキト、無線で現場班に確認させて」
奈々が軽く頷き、端末で指示を送信。
「了解。全班に現場状況の再確認を指示。無線は常に開いておけ」
玲はデスクに手を置き、モニター越しに解析作業を見守る。
「情報は全て整理しろ。焦らず、正確に。次の一手はここからだ」
事務所内は静かな緊張感に包まれ、全員が冷静に状況を把握しつつ、尾行班と連携を続けていた。
【23:58 玲探偵事務所・モニター室】
事務所の広いモニターには、渋谷、新宿、池袋の路地映像が同時に映し出されていた。街灯の明かりに照らされた暗い路地、倒れる人物、逃げ惑う犯人、尾行班の動き──すべてがリアルタイムで映し出されている。
玲は椅子にもたれかかり、腕を組んで画面を見渡す。冷静な表情の奥で、頭脳は次々と情報を整理し、複雑な状況を瞬時に分析していた。
「渋谷の現場は尾行班の増援が確保済み。負傷者は軽傷で応急処置可能。新宿は犯人が建物裏手に潜入、池袋は通行人を避けつつ追跡中……」
天音が画面をスクロールしながら報告する。
「映像解析結果によれば、犯人の移動パターンに一定の癖があります。角を曲がる際、必ず左手側の死角を確認する動作をしている」
奈々が端末に向かい、マッピングソフトで位置情報を更新する。
「尾行班α・β・γ班の現在位置を統合。各現場の状況をリアルタイムで重ね合わせました」
玲は低く息を吐き、画面に映る犯人の動きを指先で追いながら指示を出す。
「各班、焦るな。犯人の動線と死角を把握したら、次の封じ込みポイントを設定する。尾行班は無駄な接触を避け、連携を最優先に」
モニターに映る街の暗がりと人物の影が、事務所内の静けさの中で鋭く光る。
玲の冷静な声が、複雑に入り組む現場を的確に整理していった。
【0:12 取調べ室・警察署】
アクリル板越しの蛍光灯の光が、冷たく室内を照らす。アキトは椅子に腰を下ろし、前に座る第三の影――拓海――を静かに見つめた。拓海は肩をすくめ、顔を半分フードで覆っているが、その目はどこか冷静さと覚悟を帯びていた。
アキトは低く、しかし確実に届く声で問いかける。
「名前を名乗れ。今までの行動の理由も、全て話せ」
拓海は一瞬視線を逸らし、机の縁に指先をかける。
「……名前は拓海。元々情報提供者として関わっていた。だが今回、状況が想像以上に複雑になってしまった」
アキトは前に体を乗り出し、鋭い目で見据える。
「情報提供者が、なぜ尾行班や現場を混乱させる行動に出た?」
拓海は小さく息を吐き、フードの下から冷静に答える。
「目的は混乱の観察……というのも半分だ。もう半分は、自分が握っていた情報がどれだけ正確か、試したかった」
アキトの拳が机の下で軽く握られる。
「君のせいで人が怪我をした。軽い気持ちで“試す”行動だったのか?」
拓海はゆっくりと頭を上げ、アキトを真っ直ぐ見つめる。
「……結果は間違いだった。だが、情報提供者として知り得た範囲で、尾行班や警察の動きを記録し、後の解析に役立てるつもりだった」
アキトは深く息を吸い込み、静かに言った。
「理解はする。だが、二度と無駄な混乱を招くな。これ以上の犠牲は許されない」
拓海は小さく頷き、静かに机の上の手錠を見つめた。
取調べ室には緊張が漂い、拓海の情報と行動の理由が初めて明確に整理される瞬間だった。
【0:03 玲探偵事務所・オフィス】
モニターの光が部屋を青白く照らす中、天音と奈々はそれぞれタブレットやノートに情報を整理していた。
「東口の路地裏、ここから移動した可能性が高いですね」
「増援の尾行班はあと5分で現場に到着…無線も確認済みです」
その時、事務所のドアが軽くノックされる音が響いた。
「おっせーじゃん、みんな。リコ、来たよー!」
扉の向こうから元気な声が響き、ドアがゆっくりと開く。鮮やかなジャンパーにジーンズ、肩からカバンを斜めに掛けたリコが、笑顔で部屋に入ってきた。
天音は目を細め、奈々は手元の資料から顔を上げる。
「リコ、ちょうどいいところだ。各現場の情報を整理して、尾行班の指示を出すところ」
奈々が手早く説明する。
リコは手を振り、元気よく応える。
「了解! じゃあ、さっそく現場映像をチェックしよっか」
モニターに目を向ける三人の背後に、夜の渋谷の街灯の光が差し込み、事件解決への緊張感が少しだけ和らぐ瞬間だった。
【0:10 玲探偵事務所・オフィス】
リコは片手にスマホを掲げ、もう片方で髪をかき上げながら、ギャル語混じりで解析を始める。
「マジでさ~、この写真マジやばくない? 23時20分くらいにこの路地で不審者が目撃されてるっぽいし、マジ通報も入ってるんだよね~」
スマホの画面を天音と奈々に見せながら、リコは続ける。
「でさ、この投稿、位置情報もちゃんとあるし、コメント欄見たら通行人の声とかも入ってるから、犯人の動き、ちょっと読めちゃう感じ~」
天音は画面をスクロールしつつ冷静に分析する。
「投稿のタイムラインと現場映像を照らし合わせれば、移動経路はほぼ確定できそうね」
奈々も頷きながらメモを取る。
「リコ、SNSの情報も含めて尾行班に伝えます。現場とのクロスチェックで精度が上がります」
リコはにっこり笑い、スマホを軽く振った。
「おっけー。じゃ、私の目で拾った情報、ぜ~んぶ共有するからさ、みんなで犯人の動きガッツリ追おうぜ~!」
オフィスの中に、SNS解析を駆使した新たな情報網が静かに整い、尾行班の次の動きに活かされようとしていた。
【0:15 玲探偵事務所・オフィス】
玲は椅子にもたれかかり、モニター越しに映る路地の映像と資料の束を交互に見ながら、落ち着いた声で話す。
「裏切ったのは直属の上司だ。拓海の監視対象や内部の動きを密かに外部に流していた人物――十年前の倉庫事件の真相も、拓海はすべて目撃していた」
奈々が手元のタブレットでデータを確認し、眉をひそめる。
「それなら、今回の不審者や路地での動きも、上司の指示で動かされていた可能性がありますね」
天音は解析画面をスクロールし、細かい動線を重ね合わせながら静かに言う。
「拓海の情報提供と今回の尾行データを照合すれば、上司の行動パターンも浮かび上がるはずです」
リコは片手にスマホを持ったまま、ギャル語混じりで補足する。
「マジでー? じゃ、上司の動きもSNSとかの目撃情報で追えるってことっしょ? すごーい、完全に読み筋固まりそうじゃん!」
玲は静かに頷き、眼鏡の端を押さえながら続ける。
「まずは拓海の証言と現場データを整理し、尾行班に正確に指示を出す。上司の差し金による混乱を未然に防ぐためだ」
オフィス内は緊張と集中が交錯し、十年前の事件の影と現在の尾行情報が重なり合う瞬間だった。
【0:20 玲探偵事務所・オフィス】
事務所内に決意と緊張が漂う中、拓海が静かにドアを押し開けた。
奈々は驚きの表情で振り返る。
「え、拓海さん…本当にここに?」
玲はモニターの光を背に、拓海をじっと見つめる。
「来てくれたか、拓海。君の証言がなければ、今回の事件の全貌はつかめない」
拓海は深く一礼し、低く落ち着いた声で応える。
「はい…十年前の倉庫事件のことも、今回の尾行データのことも、全て話します。隠し事はありません」
天音がタブレットを手に、解析画面を一瞬見上げる。
「これで、上司の差し金や行動パターンも整理できそうです」
リコはスマホを手に、少し興奮気味に声を上げる。
「わー、拓海さん来ちゃった! これで一気に事件の全貌見えてくるじゃん!」
玲は椅子から立ち上がり、深く息をつきながら全員に目を向ける。
「よし、ここからが本番だ。拓海の情報を基に、尾行班と連携して動け。無駄な動きは一切なしだ」
拓海は静かに頷き、事務所の中心に立つ。
その姿は、十年前の影と現在の事件をつなぐ唯一の証人として、チーム全員に覚悟を促すものだった。
【0:22 玲探偵事務所・オフィス】
リコはにやりと笑い、スマホの画面を拓海に向けて指差した。
「ほらほら、拓海くん。ここに全部残ってるじゃーん。十年前の倉庫事件、あんとき誰に騙されたかとか、証拠写真までさ。マジでワクワクするね~!」
拓海は一瞬眉をひそめるが、すぐに落ち着いた表情に戻り、画面をじっと見つめる。
「…確かに、この資料は当時の状況を克明に示している。これがあれば、隠された事実も明らかになる」
天音はタブレットを操作しながら、淡々と指摘する。
「写真と証拠を時系列で整理すれば、犯人の行動パターンも浮かび上がるはずです」
奈々がノートパソコンの画面をスクロールさせ、拓海の情報と照合する。
「十年前の倉庫事件の映像と、今回の尾行データを組み合わせると、かなり正確な動線解析ができそうです」
玲は腕を組み、静かに全員を見渡す。
「よし、ここからは慎重に進める。拓海、君の証言とこの資料を基に、尾行班を動かす。全員、手順を間違えるな」
リコは指でスマホをポンと叩き、ふざけた調子で言う。
「おっけーおっけー、頭フル回転で楽しんじゃおうぜ!」
拓海は小さく息をつき、決意を込めて頷いた。
「わかりました…全て、正確に話します」
事務所内に、事件解明への緊張とわずかな高揚感が入り混じる。
十年前の影と現在の証拠が交差し、チームは次の行動に向けて静かに集中していた。
【0:24 玲探偵事務所・オフィス】
リコはスマホを握り直し、壁一面のモニターを勢いよく指差した。
「おっけーおっけー、私に任せなさい!犯人ちゃん、どこ行くのかな~ww
SNSと位置情報、今リアルタイムで追ってるからさ、逃げ道ぜーんぶ丸見えなんだけど!」
画面には渋谷から新宿方面へ流れる人の動き、投稿時間、位置タグが次々と重なっていく。
奈々が即座に補足する。
「投稿の時間差、最大で三分。移動は徒歩か、タクシーの可能性が高いですね」
拓海は一歩前に出て、深く息を吸った。
「……情報提供者として、俺が知っている裏ルートを全部出します。
十年前も、今回も、使われている動線は同じだ」
玲は視線を拓海に向け、短く頷く。
「よし。拓海は情報提供に専念しろ。記憶と事実を混同するな。
アキト、お前はルートマスターだ」
【0:25 渋谷・某ビル屋上付近】
無線越しに、アキトの低く落ち着いた声が返ってくる。
「了解。現在地、宮下方面から裏通りへ分岐確認。
人の流れを利用して移動してる。次は……逃げるなら東口だ」
フードを被ったアキトは、高所から街を見下ろし、頭の中で地図を組み立てていた。
路地、階段、地下通路、人混みの濃淡。
全てが線としてつながっていく。
【0:26 玲探偵事務所】
天音が静かに言葉を挟む。
「拓海さんの情報と、リコのSNS解析、アキトの現在地を重ねます。
――逃走ルート、三本に絞れました」
リコが画面をスワイプしながら笑う。
「はいはい出ました~!
この時間にこの路地通るヤツ、怪しすぎでしょ。投稿主もビビって動画上げてるし」
拓海はモニターを見つめ、低く告げる。
「……その路地の先に、昔使われてた倉庫跡がある。
十年前、俺が見た“始まりの場所”だ」
一瞬、事務所が静まり返る。
玲はその沈黙を断ち切るように言った。
「決まりだ。
拓海は情報提供を続けろ。リコはSNS監視を切らすな。
アキト――」
無線に向かって、はっきりと告げる。
「お前が道を制する。全員、お前のルートに従え」
【0:27 無線】
「了解」
アキトの声に、迷いはなかった。
「獲物は、袋小路に追い込む」
夜の街で、点だった情報が一本の線になる。
情報提供者・拓海。
ルートマスター・アキト。
事件は、確実に終着点へ向かって動き始めていた。
【0:26 玲探偵事務所・オフィス】
リコはスマホを片手に、勝ち誇ったように肩を揺らした。
「まだ油断しちゃダメよ~。次も私の指示でイケるからw 犯人ちゃん、逃げ道ぜーんぶSNSに落としてきてるし?」
モニターには渋谷周辺の地図と、時刻付きの目撃情報が次々と重ね表示されている。
投稿の位置、時間、写真の影の向き――それらが一本の線としてつながり始めていた。
拓海は一歩前に出て、静かに口を開く。
「そのルート、間違っていない。十年前も同じ動き方をしていた。人目を避けるが、完全には消えない……そういう性格だ」
奈々がすぐに反応する。
「情報、合致しました。拓海さんの証言と、リコのSNS解析、完全に一致してます」
【0:27 渋谷・繁華街外縁】
無線越しに、アキトの低い声が入った。
「こちらアキト。現在、宮下方面から旧ビル街へ抜けるルートを確認。
人通り、街灯、逃走経路――全部把握した。俺がルートを組む」
彼は地図を頭の中で再構築していた。
広い通り、細い裏道、行き止まり、工事中のフェンス。
どこを切り、どこを塞げば相手は“選ばされる”のか。
「尾行班は三方向に分散。追うんじゃない、追い込む」
アキトの声は落ち着いているが、迷いはなかった。
「証拠も全て押さえた。動きは事務所に戻り次第、分析に回す」
【0:28 玲探偵事務所・オフィス】
玲はモニターから目を離さず、短く頷いた。
「よし。拓海は引き続き情報提供。リコはSNSと一般目撃の更新を止めるな。
アキト、お前が現場の“道”を決めろ」
リコは笑いながら親指を立てる。
「了解~。逃げ道ゼロコース、作っちゃおっか!」
拓海は静かに息を吸い、覚悟を込めて言った。
「……今度こそ、終わらせましょう。十年前の続きも」
事務所と現場、情報と足。
それぞれの役割が噛み合い、包囲網は静かに、確実に閉じ始めていた。
リコはスマホを操作しながら、軽く腰を机に預けた。
画面には繁華街一帯の地図と、赤や黄色の点がいくつも重なっている。
「ね、見てこれ。23時42分、道玄坂裏。23時47分、宮下方面。で、今が――」
指先が止まり、赤い点をトンと叩く。
「24時02分。代々木寄りの裏通り。逃げ方がもうテンプレすぎて笑えるんだけどw」
奈々は画面を覗き込み、すぐに表情を引き締めた。
「点と点が一直線ですね……回り道してるようで、実は視線を切る動き」
天音が静かに頷く。
「人混みを使って監視を振り切るタイプ。でも、完全には消えていない。癖が出てます」
アキトは無線を耳に当て、短く息を吐いた。
「ルート、確認した。俺が前に出る」
玲が椅子から立ち上がり、全体を見渡す。
「無理はするな。追い込みは一方向からだ。挟む必要はない」
「りょ~」
リコは軽く手を振り、笑ったまま続ける。
「アキトくん、次の角ね。コンビニの裏、監視カメラの死角あるから注意~」
アキトはフードを深く被り直し、夜の街へ歩き出す。
ネオンの光が滲む舗道を、ただの通行人の速度で進みながら、視線だけを鋭く前方へ走らせた。
「……了解。今から合流点に入る」
事務所のモニターには、彼の位置を示す点が静かに動く。
その先にあるのは、十年前から逃げ続けてきた真実の行き止まりだった。
玲は低く、しかし確信を込めて呟く。
「もう逃げ場はないな」
夜はまだ深い。
だが、包囲は確実に狭まっていた。
23時58分。
池袋・雑居ビル裏手。
薄汚れた外壁に「関係者以外立入禁止」の紙が剥がれかけて貼られた出入口の前で、尾行班が静かに散開していた。通りに面した正面とは違い、この裏口は深夜になると人の気配が消える。聞こえるのは、遠くの車の走行音と、換気扇の低い唸りだけだ。
そこへ、アキトが合流する。
肩には宅配用の布バッグ。色褪せた作業着にキャップ、首から下げた社員証は遠目には判別できない。スマホを片手に、少し疲れた様子で欠伸を噛み殺しながら歩いてくる姿は、深夜配送の業者そのものだった。
「……遅配、マジ勘弁なんだけど」
小さく独り言を漏らし、ビルの前で足を止める。無線に触れず、視線だけで周囲を確認する仕草も自然だ。尾行班のリーダーと一瞬だけ目が合い、アキトは気づかないふりで壁際に寄る。
無線が短く震えた。
「ルートマスター、到着確認。内部、二名。奥にもう一つ区画あり」
アキトはキャップのつばを軽く押さえ、低く返す。
「了解。裏階段、生きてる。逃げ道は一本に絞れる」
ビルの中から、かすかに金属が触れ合う音が漏れた。誰かが焦って動いている証拠だ。
リーダーの声が続く。
「全員、30秒後に突入。アキト、動線誘導を頼む」
アキトは宅配バッグの肩紐を掛け直し、深く息を吸った。表情は、もう“ただの配達員”ではない。だが、それを外に出すことはない。
「了解。――表、抑えます」
街灯の影に溶けるように一歩下がり、アキトは裏口から伸びる細い通路へ視線を走らせた。
ここで終わらせる。そのための位置取りは、すでに頭の中で描き切っていた。
23時58分。
都心から少し外れた雑居ビル三階、蛍光灯の切れかけた廊下。
奈々の短い合図と同時に、尾行班が一斉に動いた。
靴底が床を叩く乾いた音が連なり、静まり返っていたフロアに緊張が走る。
「待て! 動くな!」
先頭の班員が叫び、廊下の奥にいた男が肩を強張らせて振り返る。
その瞬間、逃走経路を塞ぐように左右の通路から人影が現れた。
アキトはその中に、自然に紛れ込んでいた。
くたびれたジャケットに作業用のキャップ、首から下げた社員証のストラップ。
深夜残業の会社員にしか見えない姿で、壁際に立ち、視線だけで全体を確認する。
男は一歩後ずさり、焦ったように視線を泳がせた。
だが、もう逃げ場はない。
「床に手をつけ。ゆっくりだ」
別方向から低い声が飛び、男の膝が震える。
観念したようにカバンを落とし、床に手をついた。
その様子を見届けながら、アキトは無線に口を近づける。
「対象、確保。抵抗なし。現場制圧完了」
一拍遅れて、玲の落ち着いた声が返ってくる。
「了解。証拠品の確認を優先しろ。周囲の安全確保も忘れるな」
廊下に張りつめていた空気が、わずかに緩む。
尾行班の一人が男の手首に手錠をかけ、別の班員が落ちたカバンを開ける。
中から出てきたのは、書類の束と小型端末。
どれも雑に扱われていたが、その価値は計り知れない。
アキトは一歩下がり、全体を見渡した。
誰も怪我はなく、騒ぎも最小限で済んでいる。
「……よし」
小さく息を吐き、彼はキャップのつばを指で直した。
夜はまだ終わっていないが、確実に一つ、事件は前に進んだ。
廊下の蛍光灯が、静かに明滅していた。
玲の言葉が事務所に落ちた瞬間、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
モニターには、突入した尾行班が建物内を制圧していく様子が映し出されている。廊下の突き当たり、逃げ場を失った第三の影が壁際に追い詰められ、両手を上げて立ち尽くしていた。
「……確保完了。抵抗なし」
無線越しの報告に、奈々は小さく息を吐き、天音は指先を止めて画面を見つめた。
「やっぱり、東口から南側に抜けるルートを使ってましたね。拓海さんの証言どおりです」
「リコのSNS解析も一致してる。時間帯も、移動経路も」
リコは椅子に腰掛け、くるりとスマホを回しながら笑う。
「でしょ~?だから言ったじゃん。人ってさ、追い詰められると“いつもの癖”出ちゃうんだってw」
その頃、現場近くの階段踊り場では、アキトがフードを外し、拘束された男を静かに見下ろしていた。夜の喧騒は遠く、建物の中には荒い呼吸音だけが残っている。
「……終わりだ」
アキトの声は低く、感情を抑えたものだった。
「逃げ切れたつもりかもしれないけど、全部残ってる。証拠も、動機も」
男は目を伏せ、何も答えなかった。
事務所では、玲が椅子から立ち上がり、モニターを一つずつ確認していく。
渋谷、新宿、池袋――点だった事件が、一本の線としてつながっているのが、はっきりと見えた。
「十年前の倉庫事件。裏切り、隠蔽、そして今回の連続犯行」
玲は静かに言葉を選ぶ。
「偶然じゃない。すべて、人の欲と恐れが積み重なった結果だ」
拓海は一歩前に出て、深く頭を下げた。
「……俺が黙っていたせいで、被害が広がった。本当に、すみません」
「違う」
玲は首を横に振る。
「話したから、ここまで来た。もう一人で背負う必要はない」
その言葉に、拓海の肩から力が抜けた。
無線が再び鳴る。
「こちら現場。容疑者、警察に引き渡します」
玲はゆっくりと頷いた。
「了解。全班、帰投準備に入れ」
夜はまだ深い。
だが、長く続いていた影は、確実に薄れ始めていた。
翌日 午前1時32分
都内某所・玲探偵事務所 地下取調室
無機質な蛍光灯の光が、狭い取調室を白く照らしていた。
金属製の机と、向かい合う二脚の椅子。
その片方に、第三の影と呼ばれていた男が手錠をかけられたまま座っている。
男は背もたれに深く身を預け、モニター越しに映る事務所の様子を冷ややかに見返していた。
感情を削ぎ落としたような視線だった。
ドアの横に立つ奈々が、一歩前に出る。
手元のタブレットを確認しながら、淡々と口を開いた。
「時刻は午前一時三十二分。
あなたは先ほど、渋谷区内のビルで不審物所持および一連の傷害事件への関与の疑いで身柄を確保されました」
男は答えない。
薄く笑うだけだ。
奈々は気にせず続ける。
「質問します。
あなたが今回の犯行を起こした理由を教えてもらえますか?」
一瞬、沈黙。
換気扇の低い音だけが室内に響く。
やがて男は、ゆっくりと顔を上げた。
「……理由?」
かすれた声で、嘲るように繰り返す。
「理由なんて、簡単だろ。
十年前の倉庫事件だ」
その言葉に、モニター越しの事務所内の空気が一段、張り詰める。
奈々の視線が鋭くなる。
「十年前の倉庫事件と、今回の連続犯行にどういう関係が?」
男は小さく肩をすくめた。
「俺は“始末役”だった。
上からの命令で、見なかったことにして、黙って処理する側の人間だ」
「でも、その時――予定外が起きた」
男の指先が、机の縁を軽く叩く。
「拓海が、全部見てた。
本来、消されるはずだった目撃者が、生き残った」
奈々は静かに言葉を挟む。
「だから今回、口封じを?」
男は鼻で笑った。
「違うな。
“口を塞ぐ前に、全部壊したかった”んだよ」
その瞬間、取調室の奥のスピーカーから、玲の落ち着いた声が流れた。
「場所は都内、動機は過去の隠蔽。
そして君は、自分が切り捨てられる前に主導権を握ろうとした」
男の視線が、ゆっくりと天井のカメラへ向く。
「……さすがだな、探偵」
玲は続ける。
「だが、証拠は揃っている。
十年前も、今夜も、君は“命令された側”だった。
その上司の名前も、もう割れている」
男の表情が、初めてわずかに歪んだ。
奈々はその変化を見逃さず、静かに締めくくる。
「あなたの役目は終わりです。
あとは、すべて話してもらいます。
ここで、逃げ場はありません」
午前一時三十五分。
取調室の時計の秒針が、静かに進んでいく。
長かった夜は、ようやく真実の核心へと踏み込んでいた。
【23時58分/玲探偵事務所・作戦フロア】
事務所の壁一面に並ぶモニターには、渋谷の路地、ビル内部、取調べ室の映像が同時に映し出されていた。
青白い光が室内を照らし、キーボードを打つ音と無線の微かなノイズだけが響く。
リコは片手でスマホを軽く振りながら、もう片方の指で画面を素早く操作する。
無線アプリに短文を打ち込み、即座に送信した。
「尾行班のみんな~、対象の心理状況ヤバめだから慎重にね!w今、かなり追い詰められてるっぽいから、刺激しない方向でいこ~」
送信完了の表示を確認すると、リコは満足そうに口角を上げた。
その隣で、奈々はモニターに映る第三の影の表情をじっと見つめていた。
手元のタブレットには、リコが拾い上げたSNS情報、アキトが送信した現場写真、天音の解析メモが整理されて並んでいる。
「了解」と奈々は短く頷き、落ち着いた声で続けた。
「リコ、もう少し詳しい状況、共有してもらえる?
今の表情、相当追い込まれてる。下手に圧をかけると黙秘に入るかもしれない」
リコは「りょりょ~」と軽い調子で返しながら、スマホを再び操作する。
地図アプリとSNSログ、過去の投稿履歴を重ね、指でなぞるように整理していく。
「はいはーい、今送るね。直前までこの建物周辺でウロウロしてた形跡あり。あと、裏切った上司と連絡取ってた時間帯、ほぼ確定~。心理的には“もう詰んだ”って感じだから、逃げ道ナシって分かってるはず」
データが転送され、奈々のタブレットに次々と表示される。
奈々は素早く目を走らせ、静かに息を整えた。
「助かる。これなら、取り調べの流れも組み立てられる」
少し離れた場所では、玲が腕を組み、全体のモニターを一望していた。
現場、尾行班、取調べ、すべてが同時進行で動く中でも、その表情は崩れない。
「いい連携だ」と低く言う。
「今は追い詰めすぎない。事実を積み上げて、逃げ場を消す。時間は味方だ」
事務所内には、張り詰めた緊張と同時に、確実に包囲網が完成しつつある手応えが漂っていた。
夜はまだ深い。
だが、この事件は、確実に終わりへと近づいていた。
23時58分/渋谷・宮下橋交差点付近
遠くの交差点では、ネオンと街灯が混ざり合い、夜の人波がゆっくりと流れていた。
アキトはその中に自然に溶け込み、キャップを深く被ったまま立ち止まっている。
観光客を装った男女が笑いながら通り過ぎ、終電を気にする会社員が足早に横を抜ける。
無線機越しに、奈々の落ち着いた声が届いた。
「第三の影、現在は建物内で拘束中。取り調べ開始は数分後になる見込みよ」
アキトは視線だけで周囲を確認し、小さく息を吐いた。
「了解。交差点周辺、異常なし。人の流れも自然だ」
その直後、少し軽い調子の声が割り込む。
「ねえねえ、アキト~。その格好、マジで一般人すぎw
今すれ違っても絶対バレないって!」
リコだった。
アキトは苦笑いもせず、肩をすくめるだけで返す。
「それでいい。目立たないのが仕事だ」
同時刻/玲探偵事務所・モニタールーム
事務所内では、複数のモニターに現場映像と位置情報が映し出されている。
奈々は端末を操作しながら、拘束された第三の影のデータを整理していた。
「現場周辺の人の動き、落ち着いてきました。
外部からの介入も今のところなしです」
天音は静かに頷き、解析画面を見つめたまま言う。
「心理的にも逃げ場がなくなっています。
今なら、話す可能性は高いですね」
リコはスマホをくるりと回しながら、モニターを見上げた。
「SNSも静かになってきたし、拡散のピークは越えた感じ~。
このまま一気に畳みかけよ?」
玲は腕を組み、画面の向こうを見据えたまま低く答える。
「焦る必要はない。
だが、今夜のうちに聞けることはすべて聞く。
十年前の倉庫事件も、今回の連続事件も、ここで一本につなげる」
23時59分/渋谷・取調べ室(臨時)
無機質な部屋の中央で、第三の影――拓海は椅子に座り、俯いたまま動かない。
手錠の金属音だけが、わずかに空気を震わせていた。
奈々が正面に座り、静かに口を開く。
「拓海さん。
あなたは情報提供者として動いていた。
でも途中から、誰かの指示で行動が変わっていますね」
拓海はゆっくりと顔を上げた。
その目には、疲労と諦め、そしてわずかな怒りが混じっている。
「……裏切ったのは、俺じゃない」
短く、しかしはっきりとした声だった。
同時刻/宮下橋交差点
無線越しにその報告が届く。
「アキト、第三の影が口を開き始めた」
アキトは人混みの中で静かに頷き、交差点の信号を見上げた。
「了解。
俺はこのまま外を抑える。
何か動きがあれば、すぐ対応する」
赤信号が青に変わり、人の流れが再び動き出す。
その中で、アキトは変わらず“ただの一人の若者”として立ち続けていた。
事件は、まだ終わっていない。
だが、確実に核心へと近づいていた。
〔23時58分/都内某所・臨時取調べ室〕
蛍光灯の白い光が、無機質な取調べ室を均一に照らしている。
金属製の机を挟み、第三の影と呼ばれていた男は、椅子に深く腰を沈めていた。手首には手錠。だが、その表情には焦りも恐怖もない。
低く、よく通る声が静寂を切り裂いた。
「よく聞け……十年前の倉庫事件。俺をあの場所に導いたのは、間違いなく“お前の側近”だった」
その言葉に、室内の空気が一瞬、張り詰める。
拓海は思わず一歩前に出た。
喉が鳴り、言葉を選ぶように問い返す。
「……側近? 俺の、信頼していた人間だっていうのか」
第三の影は、わずかに口角を上げた。
「そうだ。お前が一番疑わなかった男だ。
俺に流された情報はすべて“本物”に見えた。日時、警備、倉庫の中身……全部な」
奈々はモニター越しに男の表情を観察しながら、淡々と記録を取る。
感情に流されず、事実だけを拾い上げる視線だった。
「あなたは、その情報を信じて行動した。
そして結果的に、事件の実行犯として利用された……そう理解していいですか?」
第三の影は、短く息を吐いた。
「ああ。俺は駒だった。
だが“誰が盤面を作ったか”は、最初からわかっていた」
その瞬間、取調べ室の外、事務所側のモニター前でリコが声を上げる。
〔同時刻/23時58分・玲探偵事務所〕
「マジで!? なにそれ、めっちゃドロドロしてんじゃんw」
スマホを片手に、リコは指を忙しなく動かしながらも、目は真剣だった。
笑い声の裏で、次々と関連情報を洗い出している。
「十年前の人間関係、今つながり直してるけどさ~、
確かに“側近ポジ”で怪しい動きしてた人、いるわ」
天音が隣で静かに頷く。
「証言とSNSログ、当時の出入り記録……全部、一本の線で繋がり始めてます」
取調べ室に視点が戻る。
第三の影は、視線を拓海に向けた。
「お前が真実に近づいたからだ。
だから、今回も同じ手口で“排除”されかけた」
拓海は拳を強く握りしめ、静かに言った。
「……俺はもう、騙されない」
その言葉を、玲は事務所の奥で静かに聞いていた。
腕を組み、モニター越しに取調べの様子を見つめながら、低く告げる。
「これで点と点が繋がった。
十年前と今を操っていた人物――本当の黒幕は、もう逃げ場がない」
夜は深まり、時計は静かに次の分を刻む。
長く続いた事件は、ついに核心へと踏み込んでいた。
【翌日 午前1時42分/都内・玲探偵事務所 取調べスペース】
白い蛍光灯が低く唸り、簡易的に設けられた取調べスペースを均一に照らしていた。
金属製の机を挟み、第三の影は椅子に深く腰を下ろしている。手首には手錠。だが姿勢は崩れず、視線だけが静かに鋭い。
「……話せば長くなるがな」
低く落ち着いた声が、静まり返った室内に響いた。
「十年前の倉庫事件。俺は最初から“駒”だった。現場の情報、時間、逃走経路……すべて事前に整えられていた」
拓海は一歩前に出て、思わず息を詰める。
「誰が……そんなことを?」
第三の影は一瞬だけ目を伏せ、それからはっきりと言い切った。
「お前の側近だ。表では忠誠を誓い、裏では情報を売っていた男だ」
その瞬間、室内の空気が一段重くなる。
モニターの前では、奈々が静かにキーボードを叩き、倉庫事件当時の入退室記録と通信ログを並べていく。
「この時刻……倉庫に入る直前、拓海さんの側近の端末だけ、位置情報が不自然に切れています」
第三の影は頷いた。
「俺に渡されたのは“倉庫には誰もいない”という情報だった。だが実際には、証拠も人も揃っていた。俺が踏み込めば、すべてを被る役目だったわけだ」
その横で、リコはスマホを高速で操作しながら、要点をまとめていく。
「えーっと、裏切りポイント①:偽の現場情報。②:通信ログの一時遮断。③:責任なすりつけ、と。うわ、典型的な黒ムーブじゃん」
軽い口調とは裏腹に、画面には時系列で整理された事実が次々と表示されていく。
奈々はモニターを指し示した。
「この証拠と、あなたの証言が一致しています。倉庫事件は単独犯ではない。明確な誘導があった」
第三の影は、ようやく小さく息を吐いた。
「俺は逃げた。だが、真実からは逃げきれなかった。だから今回……表に出る覚悟を決めた」
拓海は拳を握りしめ、低く呟く。
「……十年分の嘘が、今やっと繋がった」
リコはスマホを掲げ、にっと笑う。
「ね? ほら全部一本の線になったでしょ~。これ、報道に出たら一気にひっくり返るやつだよ」
蛍光灯の光の下、
過去の裏切りと事件の真相は、静かに、しかし確実に白日の下に晒されていった。
【23時58分/渋谷区・老朽ビル周辺】
夜も更け、繁華街の喧騒が一段落した頃。
渋谷の外れにある老朽ビルの周囲は、不自然なほど静まり返っていた。
ビルを囲むように、尾行班が自然な距離を保って配置につく。
街灯の陰、路上駐車の影、向かいの雑居ビルの非常階段――
誰が見ても「ただの夜の風景」に溶け込む形だが、その実、すべてが計算された位置取りだった。
無線に、アキトの低く落ち着いた声が流れる。
「……こちらアキト。全員、配置完了。
第三の影は建物内部に入り、こちらの誘導どおり動いている」
アキトはビル斜向かいの歩道に立ち、コンビニ袋を片手に持ったまま、視線だけをビルの出入口へ向けていた。
キャップを深く被り、夜の空気に完全に溶け込んだその姿は、通行人の誰の記憶にも残らない。
無線の向こうで、奈々が即座に応じる。
「了解。外周の死角はありません。
東側通路、非常階段、裏口、すべて押さえています」
少し間を置いて、天音の声が続く。
「第三の影、動きに迷いはありません。
……覚悟を決めている人の歩き方です。逃走より“終わらせる”選択ですね」
その言葉に、アキトは一瞬だけ目を伏せた。
そして、静かに息を吐く。
「なら、逃がさない。
全員、このまま誘導を維持。合図があるまで動くな」
ビルの中へと続く薄暗い階段を、第三の影がゆっくりと上っていく。
その背中を、見えない糸で操るかのように、尾行班は包囲網を狭めていった。
夜の渋谷。
何も知らない街の明かりの下で、十年前の因縁に、ようやく決着が近づいていた。
【23時58分/渋谷区・玲探偵事務所 作戦室】
事務所の照明は落とされ、モニターの青白い光だけが室内を照らしていた。
壁一面に並ぶ画面には、建物周囲を包囲する尾行班の位置情報と、第三の影が誘導されている建物内部の映像が映し出されている。
リコはソファの背に軽く腰掛け、スマホを片手に画面をスクロールしながら、肩をすくめるように笑った。
「ねぇねぇ、やっぱさ~、この人、ただの敵じゃなくない?裏でずーっと事情抱えてた系じゃんw
表の動きだけ見てたら分かんないけど、履歴たどると情状酌量案件すぎ~」
指先が軽快に動き、過去の投稿、消されたログ、匿名アカウントの痕跡が次々と整理されていく。
その横で、拓海は腕を組み、モニターから視線を外さずに静かに口を開いた。
「第三の影……彼は、十年前の倉庫事件の直後から完全に孤立していた。
情報を握っていたが、味方はいなかった。
裏切った側近にすべてを奪われ、信頼も、居場所もな」
奈々が画面を切り替え、証拠リストと第三の影の供述内容を照合する。
「倉庫事件当日、彼に渡された動線図と時間表……確かに改ざんされています。
側近が意図的に誤情報を流した可能性が高いですね」
リコはスマホを軽く振りながら、少しだけ声のトーンを落とした。
「うわ~……それ、メンタルやられるやつじゃん。
信じてた人にハメられて、全部背負わされた感じ?」
拓海は短く息を吐き、頷いた。
「だから彼は“敵”として動くしかなかった。
自分の正当性を証明する手段が、それしか残されていなかったんだ」
【23時59分/同・現場周辺 建物外】
無線が小さくノイズを含んで鳴る。
「こちらアキト。全員、配置完了」
低く落ち着いた声が響く。
「第三の影、建物内部に入り、こちらの誘導に従っている。
抵抗の兆候なし。だが警戒は継続する」
玲はモニター越しにその様子を確認し、静かに頷いた。
「了解。無理に追い詰めるな。
彼は“追い詰められた結果”ここにいる。事実だけを積み上げろ」
【同時刻/作戦室】
リコはスマホを胸の前で抱え、少しだけ真面目な表情になる。
「なんかさ~、今回の件、悪い人ランキング作るなら、
この人、トップじゃない気がするんだよね」
奈々が小さく同意する。
「ええ。少なくとも、動機は復讐や利益だけではない」
拓海はゆっくりと目を閉じ、そして開いた。
「十年前の倉庫事件。
あれは“一人の裏切り”が、何人もの人生を狂わせた事件だった。
今夜、それがようやく整理されようとしている」
モニターの中で、第三の影が建物の奥へと姿を消す。
包囲網は、静かに、しかし確実に狭まっていった。
【23時58分/渋谷区・影横丁裏路地】
路地の奥、街灯の光が届かない一角で、アキトは壁際に身を寄せていた。
人通りはほとんどなく、遠くで聞こえるのは繁華街のざわめきと、時折通り過ぎる車の音だけだ。
無線機から微かなノイズが流れる。
アキトは一度、深く息を吸い、吐いた。呼吸を整える癖は、長い現場経験で身についたものだった。
「……ここで、全てを終わらせる」
小さく呟き、周囲を見回す。
古いビルの非常階段、ゴミ袋が積まれた壁際、閉ざされたシャッター。
どこから誰が出てきてもおかしくない、緊張を孕んだ空気。
無線が短く震え、玲の声が届く。
「アキト、聞こえるか。第三の影の誘導、予定通りだ。尾行班はすでに包囲を完了している」
「了解。こちら異常なし。現場、静かです」
言葉は簡潔に。感情は乗せない。
それでも、胸の奥では確かな覚悟が固まっていく。
路地の向こう、足音が一つ、二つと近づいてきた。
第三の影に誘導された人物たちが、この場所へ向かっているはずだった。
アキトはフードの影で目を細め、無線機を握り直す。
ここで慌てれば、すべてが崩れる。
ここで冷静でいれば、事件は終わる。
「……全班へ。対象、接近中。合図を待て」
静かな声が、無線を通じて夜に溶けていった。
路地の空気が、わずかに張り詰める。
そして、その瞬間を待ちながら、アキトは影の中で一歩も動かず立ち続けていた。
【23時58分/渋谷区・影横丁周辺】
奈々の指示が飛ぶと同時に、事務所内の空気が一段引き締まった。
モニターに映る路地の映像が切り替わり、複数のカメラアングルが並ぶ。
リコは即座にスマホを両手で持ち、指を高速で滑らせる。
「りょ~!今、怪しい投稿と現地タグ全部洗い出してる!
“サイレン聞こえた”“路地封鎖されてるっぽい”……はい、拡散源特定~!」
軽い口調とは裏腹に、画面には位置情報と時刻が正確に整理されていく。
奈々はそれを横目で確認し、短く頷いた。
「十分。現場の一般人はこれ以上近づかない。尾行班、動きやすくなる」
【23時59分/影横丁・路地裏】
無線越しに、アキトの落ち着いた声が返ってくる。
「了解。周囲クリア。一般人、半径二十メートル圏外に流れてる」
アキトはキャップを深く被り直し、壁際に身を寄せたまま視線だけを動かす。
街灯の死角、ゴミ箱の影、非常階段の下――
逃走経路になり得る場所を一つ一つ、無言で潰していく。
足音が一つ、二つ。
尾行班のメンバーが、通行人を装って自然に配置についた。
「……第三の影、建物内で動き止まった」
アキトは呼吸を抑え、無線に低く告げる。
「誘導、ここで終点だ」
23時58分、渋谷・影横丁裏路地。
街灯の明かりが途切れる一角で、犯人は壁際に追い詰められていた。濡れたアスファルトに足を取られ、一歩、また一歩と後ずさる。その視線は左右に泳ぎ、逃げ道を必死に探している。
その包囲網の中、少し遅れて現れた一人の若者がいた。
色あせたスニーカーに、ロゴの擦れたパーカー。手にはコンビニのビニール袋を提げ、スマホを操作しながら歩いてくる姿は、どう見ても終電前の一般客だ。フードも被っていない。人混みに紛れるための、ごく自然な格好。
それが、アキトだった。
彼は犯人の数メートル手前で立ち止まり、スマホの画面を見つめたまま、小さく舌打ちをする演技をする。
「……マジかよ、ここ電波弱すぎ……」
独り言のように呟きながら、さりげなく立ち位置をずらす。その動きで、犯人の最後の退路が完全に塞がれた。
無線機はイヤーピース型。外からは見えない。
「……包囲、完成。逃走経路ゼロ」
ごく低い声でそう告げると、無線越しに奈々の即答が返ってくる。
「確認しました。尾行班、拘束に移ってください」
同時に、少し離れた場所からリコの弾んだ声が飛んだ。
「はい来た~!これ、完全チェックメイトじゃん!犯人くん、もう詰んでるよ~w」
犯人が歯噛みし、ポケットに手を伸ばしかけた、その瞬間。
左右と背後から、影のように尾行班のメンバーが一斉に動いた。
「動くな!」
「そのまま手を上げろ!」
低く、だが迷いのない声。腕を取られ、体勢を崩した犯人は、抵抗する間もなく地面に押さえつけられる。金属音が短く鳴り、手錠が嵌められた。
路地に張り詰めていた空気が、ようやく緩む。
アキトは一歩引いた位置で、その一連を静かに見届けていた。スマホをポケットに収め、何事もなかったかのように踵を返す。
その背中に、無線越しで玲の声が届く。
「……よくやった、アキト。全て予定通りだ」
アキトは振り返らない。ただ、小さく息を吐いて答えた。
「任務完了。現場、制圧されました」
23時59分。
渋谷の夜は、何事もなかったかのようにネオンを瞬かせ続けていた。
だがその裏で、十年前から続いていた歪んだ連鎖は、確かにここで断ち切られたのだった。
【23時58分/渋谷・影横丁裏路地】
ネオンの光が途切れた路地の奥で、湿った夜気が重く沈んでいた。
街の喧騒は壁一枚向こうにあるはずなのに、ここだけが切り離されたように静かだった。
包囲網の中央で、犯人は肩を落としたまま立ち尽くしている。
逃げ場がないことを悟ったその背中は、さっきまでの凶暴さを失い、どこか疲れ切って見えた。
アキトは一般客に紛れるためのキャップと薄手のジャケット姿のまま、数歩距離を保って立つ。
無線は握ったまま、しかしもう指示を出す必要はなかった。
犯人は深く、長い息を吐いた。
夜気に白く溶ける吐息のあと、低く、掠れた声が路地に落ちる。
「……俺は……十年前の事件で……」
一瞬、言葉が途切れる。
喉の奥で何かを飲み込むような仕草のあと、彼は続けた。
「……誰かに、裏切られたんだ」
尾行班の誰もが動かない。
遠くでパトカーのサイレンが微かに反響している。
「倉庫の配置も、人の動きも……全部、事前に掴んでた。
だから守れると思った。あの日、俺がいれば……誰も死なせずに済むって……」
犯人の拳が、震えながら握り締められる。
「……でも、情報は最初から流されてた。
俺が信じてた奴が……裏で、全部を売ってたんだ」
唇が歪み、声がわずかに震える。
「罠だって気づいた時には遅かった。
仲間は散り散りで……俺は、守れなかった……」
沈黙が落ちる。
路地に響くのは、犯人の荒い呼吸音だけだった。
少し離れた場所で、アキトが静かに口を開く。
「……だから、同じ状況を見た人間を、許せなかった?」
犯人はゆっくりと顔を上げる。
その目には、怒りよりも深い後悔と、長年抱え続けた疲労が滲んでいた。
「……ああ。
止めたかったのか、壊したかったのか……もう、自分でも分からない」
その瞬間、路地の入口から警官の足音が近づく。
赤色灯の反射が、壁にちらついた。
アキトは無線に短く告げる。
「対象、完全に沈黙。自供あり。確保を」
犯人は抵抗せず、ゆっくりと手を差し出した。
手錠がかかる金属音が、静かな路地に響く。
十年前に止まった時間が、ようやく――少しだけ、動き出した瞬間だった。
【23時57分/渋谷区・影横丁から一本外れた裏路地】
街灯の赤い光が、アスファルトに滲むように落ちていた。
路地の出口を示すように、地図アプリの赤い点が犯人の足元で止まっている。
犯人はその場から一歩も動かず、肩を落としたまま、震える息を吐いた。
周囲を取り囲む尾行班の気配を、もう隠そうともしない。
「……あの事故だ」
低く、かすれた声だった。
無線越しに、事務所の全員が息を詰めて聞いている。
「十年前……倉庫で起きた、あの“事故”。公式には、ただの作業中の不慮の事故だって処理された……」
犯人は拳を強く握りしめ、唇を噛む。
「でも、違う。
あの日、俺は現場にいた。
本来、立ち入り禁止になるはずの時間帯だった。なのに……内部の人間から“安全だ”って情報が流れてきた」
街灯の光が、犯人の目元に影を落とす。
「信じたんだ。
長年一緒に仕事してきた上司だった。
『確認は取れてる』『問題ない』って……」
一瞬、言葉が途切れる。
喉の奥で、何かが詰まったような音がした。
「結果、設備は未点検のまま動かされて……崩落が起きた。
中にいた仲間は、逃げる時間もなかった」
遠くで、車の走る音が微かに響く。
「事故後、すぐに責任は全部、現場の判断ミスにされた。
証拠になる記録は消され、俺だけが“確認を怠った人間”にされた」
犯人はゆっくりと顔を上げる。
その目には、怒りよりも深い疲労が滲んでいた。
「……それからだ。
誰も信じられなくなった。
正しいことをしようとすればするほど、裏で情報が歪められる。
だから俺は、同じやり方で“暴く側”に回るしかなかった」
無線越しに、リコが思わず声を落とす。
「……うわ……それ、マジで胸重いんだけど……」
奈々はモニターを見つめたまま、静かに言った。
「あなたは、裏切られた事実を証明したかった。
だから事件を起こし、隠された流れを表に引きずり出そうとした……そうですね」
犯人は小さく頷く。
「そうだ。
許されるとは思ってない。
でも……あの事故が“ただの不運”で終わるのだけは、耐えられなかった」
路地の奥で、アキトが一歩前に出る。
一般人に紛れたままの服装で、しかし声だけははっきりと告げた。
「……もう終わりだ。
真相は、俺たちが引き継ぐ。
逃げなくていい」
犯人は目を閉じ、静かに両手を前に差し出した。
赤い点は、もう動かない。
十年前から続いていた歪みは、この夜、ようやく言葉として吐き出された。
23時58分
玲探偵事務所・作戦フロア
そんな中、リコがテーブルの上に置かれたコーヒーカップを手に取り、少しふざけて持ち上げた瞬間――
「うわっ!」
カップが斜めに傾き、黒い液体が机の端に少しこぼれた。
温かいコーヒーはゆっくりと資料の端へ広がり、紙の角をじわりと濡らす。
「ちょ、やば、これ大事なやつじゃん!?」
リコは慌ててカップを戻し、ティッシュを掴んで机を拭き始める。
その口調は軽いが、目は一瞬だけ本気で焦っていた。
奈々は眉をひそめながらも、すぐに資料を引き寄せる。
「大丈夫、コピーは取ってある。原本は端末側よ」
落ち着いた声だったが、彼女の指先は無駄なく素早かった。
天音はモニターから目を離さず、淡々と告げる。
「今の動揺、現場にも伝播してます。犯人の心拍、さっきより上がってる」
画面の一角には、赤い点で示された犯人の位置情報が微かに揺れていた。
リコは拭き終えたティッシュを丸め、舌を出す。
「ごめんごめん~、空気重すぎてさ。ちょっとほぐそうと思っただけw」
その軽口とは裏腹に、彼女の視線はすぐスマホへ戻る。
SNS、位置情報、現場からの断片的な投稿。
すべてを繋ぎ直すように、指が止まらない。
その時、無線が小さくノイズを含んで鳴った。
23時59分
渋谷区・影横丁裏路地
「……こちらアキト」
夜の路地。
街灯の下、アキトは人混みに溶け込む服装のまま、影に紛れて立っていた。
パーカーのフードを浅く被り、スマホを操作する若者のふりをしながら、視線だけで犯人を捉えている。
「犯人、動揺が見える。さっきの包囲で完全に心が折れかけてる」
短く、静かな報告。
だが、その声には確信があった。
事務所で玲がゆっくりと頷く。
「よし。無理に追い詰めるな。逃げ場がないと悟らせればいい」
奈々がすぐ続ける。
「尾行班、距離を一定に保って。姿は見せるけど、近づきすぎないで」
リコはニヤリと笑い、スマホを掲げる。
「了解~。じゃ、ここで“偶然の目撃情報”もう一個流しとこっかw
『路地で警察っぽい人たち見た』ってね~」
送信。
ほんの数秒後、犯人の赤い点がぴたりと止まった。
路地の闇の中。
犯人はその場に立ち尽くし、肩を大きく上下させていた。
アキトは小さく息を吐き、無線機を握り直す。
「……これで終わる」
その声は、誰に向けたものでもなく、夜に溶けて消えた。
リコが立ち上がり、勢いよくパソコンの電源コードに足を引っかける。
「うわっ!」
コードに引っかかった勢いで、小さな書類トレーがカタカタと揺れ、資料が床に散らばった。
書類が床に散らばる乾いた音が、張り詰めていた空気を一瞬だけ緩めた。
「ちょ、ちょっとごめん!今のナシね!」
リコは慌ててしゃがみ込み、床に落ちた資料をかき集める。
「うわ~最悪、コーヒーまでこぼすとか私ほんとドジ~!」
奈々は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに落ち着いた声で言った。
「大丈夫。重要書類は防水ケースに入ってる。リコ、足元だけ気をつけて」
天音も画面から目を離さず、淡々と続ける。
「逆に、今の音で向こうが油断する可能性もあります。外の状況、再確認しますね」
モニターに映る路地では、犯人がわずかに視線を逸らしていた。
その瞬間を逃さず、アキトの無線が低く入る。
「……今だ。相手、集中切れた。距離、三メートルまで詰める」
リコは床から顔を上げ、親指を立てた。
「オッケー!結果オーライってやつ?w ほらほら、犯人さん、観念ムード入ってるよ~」
犯人は肩を落とし、抵抗する力を完全に失った様子だった。
街灯の下、尾行班の影が静かに距離を詰める。
事務所では、玲がその一部始終を見つめながら、短く息を吐いた。
「……小さな混乱も、使い方次第だな」
散らばった書類を整え終えたリコは、何事もなかったように椅子に座り直し、にっと笑う。
「はいはい、じゃあ続きいこ~。ここからがクライマックスっしょ?」
緊張と現実感が入り混じる中、事件は確実に終局へと向かっていた。
【翌日・午前0時42分/玲探偵事務所・メインフロア】
床に散らばった資料の中で、白い封筒だけが妙に目立っていた。
コピー用紙より少し厚手で、宛名も差出人もない。
ただ、角が擦れ、何度も人の手を渡ったような古さがある。
リコはしゃがみ込み、その封筒をつまみ上げた。
「え、なにこれ……? 混ざってたっけ、こんなの」
封筒を軽く振ると、中で紙が擦れる音がした。
ふざけた調子だった声が、少しだけ落ちる。
奈々がすぐに反応し、近づいてくる。
「待って。勝手に開けないで。どこから出てきた?」
「このトレーの下。さっき倒れたやつ」
天音も椅子から立ち上がり、封筒を覗き込む。
「……経年劣化がある。最近のものじゃないですね」
玲はデスクから歩み寄り、無言で封筒を受け取った。
手袋をはめ、慎重に口を開く。
中から出てきたのは、折り畳まれた数枚の紙と、古い写真だった。
写真には、夜の倉庫。
シャッターの前に立つ数人の影。
その中に――拓海がいた。
「……これ……」
拓海の喉が、かすかに鳴った。
写真の裏には、ボールペンで走り書きされた文字。
――「倉庫C棟 23:18 計画変更あり」
奈々が息を詰める。
「時間……事件当夜の、直前……」
紙の方には、さらに具体的な内容が記されていた。
簡単な配置図、出入口、警備の交代時間。
そして最後に、名前。
一人だけ、赤ペンで丸がつけられている。
「……側近の名前だ」
玲が低く言う。
リコは、いつもの軽さを失ったまま、ぽつりと呟いた。
「うわ……これ、ガチじゃん。
しかもさ、これ……」
スマホを取り出し、写真を照合する。
「SNSに一回だけ出たことある構図。
すぐ消されたけど、同じ角度……」
天音が静かに頷く。
「つまり、この封筒は――
誰かが“残した”」
室内に、重たい沈黙が落ちた。
拓海は封筒から目を離せず、かすれた声で言った。
「……十年前、
誰かが真実を知ってた。
でも、出せなかった……」
玲は封筒を机に置き、全員を見渡す。
「これが最後のピースだ。
裏切りの証拠は、偶然じゃなく――
ここに集まるように、仕組まれていた」
窓の外では、夜明け前の空がわずかに色を変え始めていた。
長い夜は、まだ終わっていない。
だが、真実はもう、逃げ場を失っていた。
玲は封筒に視線を落とし、ゆっくりと振り返った。
事務所の蛍光灯が、紙の縁を白く照らしている。
「……それは?」
リコは床にしゃがんだまま、封筒を指先でつまみ上げる。
いつもの軽い調子はなく、少しだけ真剣な目をしていた。
「んー、古いね。封もされてるし。日付……十年前だって」
その言葉に、空気がわずかに変わった。
奈々が椅子から立ち上がり、静かに近づく。
「差出人は?」
リコは封筒を裏返し、肩をすくめる。
「名前はない。でもさ……これ、倉庫の住所、書いてある」
天音の指が止まり、解析画面のスクロール音が消える。
拓海は息を呑み、無意識に一歩前へ出ていた。
「……十年前の倉庫事件……」
玲はゆっくりと封筒を受け取り、重さを確かめるように手のひらで感じた。
その表情は変わらない。だが、目の奥だけが鋭く光る。
「偶然にしては出来すぎだな」
アキトは壁際に立ったまま、静かに言った。
「誰かが、今まで残してきた……あるいは、隠してきたものですね」
玲は小さく頷き、封筒をデスクの上に置く。
「今すぐ開ける必要はない」
リコが首を傾げる。
「え、気にならない? 中、絶対ヤバいやつじゃん?」
「だからだ」
玲は窓の外に目を向け、夜景を見つめた。
「事件は解決した。だが、“全て”が終わったとは限らない。
これは、その先に進むための鍵かもしれない」
奈々は静かに微笑んだ。
「整理は、明日に回しますか」
「そうだな」
玲は振り返り、事務所の面々を見渡す。
「今日はここまでだ。全員、よくやった」
その一言で、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
リコは伸びをしながら笑う。
「いや~、今回も濃かったわ~。コーヒーこぼしたけど結果オーライ?」
「反省は後で」
奈々が即座に突っ込み、アキトは小さく息を吐いた。
夜はまだ深い。
だが、事務所の灯りは消えない。
机の上に置かれた一通の封筒が、静かに次の物語の存在を告げていた。
夜更け、玲探偵事務所。
窓の外では、渋谷の街がいつも通りの顔を取り戻していた。
ネオンは派手に瞬き、人の流れは絶えない。
だが、この部屋の中だけは、嵐のあとのような静けさに包まれている。
テーブルの上には、整理された証拠ファイル。
第三の影の供述書、十年前の倉庫事件の関係資料、そして今回の一連の事件を裏付ける記録。
どれも、もう“過去”になりつつあった。
玲は窓辺から振り返り、事務所の中を見渡す。
奈々は椅子に深く腰掛け、ようやく肩の力を抜いてコーヒーを一口飲んでいた。
天音は解析画面を閉じ、静かに手帳を閉じる。
リコはソファに寝転がり、スマホをいじりながらも、どこか満足そうな表情だ。
「いや~、今回マジで修羅場だったね。SNSも荒れたけど、全部収まったし!」
軽い調子のリコの声に、奈々が苦笑する。
「あなたが余計な実況をしなければ、もう少し平和でしたけどね」
そのやり取りを背に、ドア付近に立っていたアキトは、フードを外し、静かに息を吐いた。
街に溶け込む役目を終え、ようやく“戻ってきた”表情だった。
「……これで、全部終わったんですね」
ぽつりと零した言葉に、玲が小さく頷く。
「表に出る真実は一部だ。だが、それでいい。
誰かが背負って、誰かが前に進めるならな」
そのとき、事務所の奥から鉛筆の音が聞こえた。
朱音だった。
机に向かい、スケッチブックに何かを描いている。
事件の現場でも、血の跡でもない。
並んで立つ大人たちと、その隅で少し背伸びをしている自分の姿。
描き終えた朱音は、顔を上げてにっこり笑った。
「ねえ、みんな。これ、あとで壁に貼っていい?」
一瞬の沈黙のあと、成瀬が短く答える。
「……好きにしろ」
その声は、どこか柔らかかった。
夜は静かに更けていく。
誰かが失い、誰かが傷つき、それでも真実は残った。
派手な正義も、奇跡の逆転もない。
ただ、見過ごされそうになった事実を拾い上げた人間たちが、ここにいる。
玲は最後に、事務所の灯りを少し落としながら呟いた。
「また、普通の夜に戻るだけだ」
その“普通”を守るために、
彼らは明日も、この街の片隅で静かに目を光らせる。
物語は終わり、
しかし街は、何事もなかったかのように、今日も動き続けていた。
【玲の後日談】
――翌週・22時40分/郊外・玲探偵事務所
郊外の住宅地に建つ古いビルの三階。
玲探偵事務所の窓からは、高層ビルのネオンではなく、等間隔に並ぶ街灯と静かな国道が見えていた。
玲は窓際に立ち、カーテン越しにその淡い光を眺めている。
遠くを走る車の音が、波のように途切れ途切れに届くだけで、事務所内は驚くほど静かだった。
デスクの上には、すでに整理された事件ファイル。
第三の影、十年前の倉庫事件、裏切った側近――
すべて「解決済み」と赤字で記され、ファイルは棚の奥へ戻されている。
「……終わった、か」
玲は小さく息を吐き、ネクタイを緩めた。
今回の事件は、派手さも超常性もない、ただの人間同士の裏切りと執着が生んだものだった。
だからこそ、後味が静かに残る。
窓に映る自分の顔は、相変わらず感情を抑えた表情をしている。
だが、その目の奥には、わずかな疲労と――確かな納得があった。
机の端に置かれたマグカップは、もう冷めている。
それでも玲は一口だけ飲み、カップを戻した。
「次の事件が来るまでは……少し、静かでいい」
そう呟き、部屋の照明を一段落とす。
事務所の外では、夜の郊外が変わらぬリズムで呼吸していた。
玲は最後に窓を閉め、背を向けてデスクへ戻る。
静かな決着を胸に、探偵はまた“日常”へと戻っていった。
【後日談/奈々】
時刻:事件解決から三日後 22:40
場所:奈々の自宅・ワンルームマンション(郊外)
奈々は自宅のデスクに座り、パソコン画面に映る解析資料を淡々と整理していた。
画面には事件当日のログ、映像のタイムライン、証言の照合結果が並び、チェック済みのフォルダが一つずつ閉じられていく。
「……これで、全部か」
小さく呟き、マウスから手を離す。
肩に入っていた力が、ようやく抜けたのが自分でも分かった。
窓の外では、郊外特有の静けさの中を、たまに車の音だけが通り過ぎていく。
キッチンで淹れたまま少し冷めたコーヒーを一口飲んだ、そのときだった。
玄関のドアが、控えめにノックされる。
「……はい?」
警戒しつつドアを開けると、廊下の薄明かりの中にアキトが立っていた。
黒のパーカーにキャップ。いつもの“街に溶ける”格好だが、表情はどこか柔らいでいる。
「こんばんは。驚かせたらごめん。近くまで来たから」
奈々は一瞬だけ目を瞬かせ、すぐに小さく息を吐いた。
「本当に、ふらっと来るんですね。相変わらず」
「そういう役回りだから」
アキトは軽く肩をすくめる。
奈々はドアを開けたまま一歩退き、視線で中に促した。
部屋に入ったアキトは、デスク上の画面をちらりと見る。
「もう、整理終わり?」
「ええ。全部。あの事件は、これで完全に“過去”です」
奈々は画面を消し、パソコンを閉じた。
その動作が、事件に区切りをつける儀式のようにも見えた。
アキトは短く頷く。
「お疲れさま。奈々がいなかったら、もっと遠回りしてた」
「……そういうこと、あまり言わない人が言うと、妙に効きますね」
奈々はわずかに微笑んだ。
二人の間に、静かな沈黙が落ちる。
それは気まずさではなく、張り詰めていた時間がほどけたあとの、穏やかな間だった。
「少しだけ、休んでください」
奈々がそう言うと、アキトは小さく息を吐き、キャップのつばを持ち上げた。
「そうする。今夜は、追う役じゃないし」
窓の外では、郊外の夜が変わらず静かに続いていた。
それぞれが背負っていた緊張は、確かに終わりへと向かっていた。
天音の後日談
【午前1時32分/都内・天音の自室】
部屋を照らすのは、デスク上のモニターが放つ青白い光だけだった。
カーテンは半分だけ閉じられ、隙間から入る街灯の明かりが、床に細長い影を落としている。
天音は椅子に深く腰掛け、キーボードから静かに手を離した。
画面には「保存完了」の文字。最後のログが、確かにそこに収まった。
「……これで、全部ね」
小さく息を吐き、肩の力を抜く。
数字と映像、証言と時系列。混線していた情報はすべて整理され、一本の線として繋がった。
感情を挟まず、事実だけを積み上げる――それが自分の役割だと、改めて実感する。
そのとき。
玄関の方で、かすかな物音がした。
鍵の開く音は控えめで、まるで気配を消すようだった。
「……開いてた?」
聞き慣れた声に、天音は振り返る。
ドアの隙間から顔を覗かせたのはアキトだった。
黒いパーカー姿のまま、コンビニ袋を片手に下げている。
「まだ起きてると思って。コーヒー、飲む?」
「……今、ちょうど終わったところ」
天音はモニターの電源を落し、部屋の明かりをひとつ点けた。
柔らかい光の中で、ようやく夜が現実に戻ってくる。
アキトは袋から缶コーヒーを取り出し、机の端にそっと置いた。
視線が、自然と消えたモニターに向かう。
「大変だっただろ」
「でも、必要なことだった」
天音は短く答え、缶に手を伸ばす。
冷たい感触が、指先に心地よい。
少しの沈黙。
それでも気まずさはなく、ただ作業後の静けさが流れていた。
「……次は?」
アキトの問いに、天音は一瞬だけ考える。
「少し休むわ。明日になったら、また考えればいい」
アキトは小さく頷いた。
「それがいい」
二人の間に、深夜特有の穏やかな空気が落ちる。
事件は終わった。だが、それぞれの日常は続いていく。
天音は缶コーヒーを一口飲み、窓の外を見た。
夜はまだ長い。でも、もう焦る必要はなかった。
【0:31/繁華街外れ・路地】成瀬の後日談
街灯の影に立ち、成瀬は煙草に火を点けた。
夜風がコートを揺らし、煙が細く流れていく。
作戦中の無線の声が、まだ耳に残っている。
判断、指示、緊張——それらがようやく消え始めていた。
「……終わったな」
背後から足音。
「終わりましたよ」
アキトが、いつもの調子で現れる。
「怪我は?」
「かすり傷程度」
成瀬は煙を吐き、夜空を見上げた。
「次も、やるか」
「当然」
短い会話。
それで十分だった。
煙草を地面で踏み消し、成瀬は闇に溶けるように歩き出す。
影は、また次の影へ向かうだけだ。
【23時58分/郊外・倉庫を改装した簡易ガレージ】
蛍光灯が一本だけ灯る室内で、アキトは黙々と装備を点検していた。
無線機の電源を落とし、イヤーピースを外す。小型カメラのレンズを布で拭き、簡易ツールを元の位置に戻す。
金属棚に並ぶそれらは、どれも今回の事件で使われたものだ。
だが、もう“現場”の匂いはしなかった。
アキトは一度、手を止める。
コンクリートの床に視線を落とし、静かに息を吐いた。
「……終わった、か」
誰に向けた言葉でもない。
自分自身に確認するような、小さな独り言だった。
シャッターの隙間から、夜風が入り込む。
遠くでトラックが走り去る音。郊外特有の、静かすぎる夜。
アキトは棚に最後のケースを戻し、手袋を外した。
白い指先に、うっすらと残る緊張の感覚。
今日もまた、無事に戻ってこられた。
それだけで十分だと、彼は思う。
ガレージの奥にある椅子に腰を下ろし、天井を見上げる。
何も書かれていない、ただの天井。
「……次も、ちゃんと戻る」
誰にも聞かれなくていい誓いを胸の奥にしまい、
アキトは静かに立ち上がり、灯りを落とした。
ガレージは闇に戻り、
彼の足音だけが、短く夜に溶けていった。
朱音の後日談
――翌週・夕方/郊外の玲探偵事務所・ファミリールーム
西日がカーテン越しに差し込み、部屋の床に長い影を落としていた。
朱音は小さな机に向かい、スケッチブックを膝に乗せて鉛筆を走らせている。
紙の上には、見慣れた顔が次々と形になっていった。
真剣な表情の玲。
モニター前でキーボードを叩く奈々と天音。
少し離れた場所で周囲を警戒する成瀬。
そして――影の中に立つ、フード姿のアキト。
朱音は一度鉛筆を止め、絵をじっと見つめた。
「……みんな、ちゃんと帰ってきたね」
誰に言うでもなく、小さく呟く。
事件の夜の緊張や怖さは、もう胸を締めつけてはいなかった。代わりに残っているのは、守られたという実感と、確かな安心感だった。
そのとき、部屋の入口で気配が動く。
「やっぱり、ここにいた」
振り返ると、アキトが壁にもたれかかるように立っていた。
私服姿で、いつもの鋭さは少し影を潜めている。
朱音はにこっと笑う。
「アキト、見て。これ、今日の」
スケッチブックを差し出すと、アキトは少し驚いたように目を細め、絵を覗き込んだ。
「……よく見てるな」
「うん。だって、忘れたくないから」
朱音はそう言って、ページの端に小さく日付を書き込んだ。
“今日”という時間を、確かにここに残すために。
アキトは何も言わず、軽く朱音の頭に手を置く。
その仕草は、護衛でも任務でもない、ただの家族のものだった。
窓の外では、夕暮れの空が静かに色を変えていく。
事件は終わった。
けれど、朱音の描く日常は、これからも続いていく。
スケッチブックの中で、みんなはまだ同じ場所にいた。
それが、朱音にとっての――いちばんの「平和」だった。
ユウタの後日談
――翌週・午後九時過ぎ
――郊外の住宅地、二階の自室
ユウタはベッドの端に腰掛け、開け放した窓の外を眺めていた。
夜風がカーテンをわずかに揺らし、遠くを走る車の音が、一定のリズムで耳に届く。
机の上には、使い古したノートと鉛筆。
事件のあと、誰かに言われたわけでもなく、自然とそこに置くようになったものだった。
頭の中では、断片的だった記憶が、もう「痛み」ではなく「輪郭」として残っている。
倉庫の匂い、足音、誰かの声。
それらは完全には消えないが、もう暴れることもなかった。
ユウタは鉛筆を取り、ノートに短い言葉を書き留める。
「こわかった。でも、今はちがう」
自分でも驚くほど、字は落ち着いていた。
手が震えない。それだけで、前より少し先に進めている気がした。
窓の外で、犬の鳴き声が一度だけ響く。
ユウタはそれを聞きながら、小さく息を吐いた。
あの夜の出来事は、確かに終わった。
そして自分は、まだここにいる。
ノートを閉じ、机の引き出しにしまうと、ユウタは電気を消した。
暗闇の中でも、不思議と心は静かだった。
「……明日も、ちゃんと起きよう」
誰に聞かせるでもない独り言。
それは、事件のあとに手に入れた、ささやかで確かな前進だった。
【翌朝 午前9時10分/都内・静かな私立病院 個室】
白い天井を見つめながら、コウキはゆっくりと息を吸った。
消毒液の匂いがわずかに残る空気。カーテン越しに差し込む朝の光が、病室の壁を淡く照らしている。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
十年前の出来事。
倉庫の暗闇。怒号。裏切り。
断片だった記憶が、今は一つの「過去」として胸の奥に沈んでいる。
重い。
それでも、以前のように息が詰まるほどではなかった。
「……少しずつ、だな」
コウキは小さく呟き、指先を握った。
震えはもうない。
そのとき、病室のドアが控えめにノックされた。
「入るぞ」
聞き慣れた声に、コウキは視線を向ける。
ドアを開けて入ってきたのは、アキトだった。
黒のパーカーにキャップ。
病院には少し不釣り合いな格好だが、相変わらず周囲に溶け込む気配だけは完璧だった。
「……来たんだ」
「ああ。様子見」
アキトはそれだけ言って、ベッド脇の椅子に腰を下ろす。
気遣いすぎない距離感。
コウキには、それがちょうどよかった。
「もう……大丈夫そうだな」
「うん。全部、思い出したわけじゃないけど……逃げなくていいって、やっと思えた」
アキトは一瞬だけ視線を伏せ、それから静かに頷いた。
「それで十分だ」
短い言葉だったが、重みがあった。
病室の外では、看護師の足音と、朝の回診を告げるアナウンスが微かに響く。
日常は、もう動き出している。
「……アキト」
「ん?」
「ありがとう。あの夜、止めてくれて」
アキトは少しだけ口元を緩めた。
「礼を言われることはしてない。
ただ――終わらせただけだ」
立ち上がり、キャップを軽く直す。
「退院したら、外の空気でも吸え。
次は、過去じゃなくて、今を見る番だ」
ドアの前で一度だけ振り返り、短く手を上げる。
「またな」
ドアが静かに閉まり、病室には再び穏やかな静けさが戻った。
コウキは天井から視線を外し、窓の外を見る。
青く澄んだ空が、確かにそこにあった。
過去は消えない。
けれど、未来は――まだ、選べる。
コウキはもう一度、深く息を吸った。
それぞれが、それぞれの場所で、
事件の終わりを受け止め、次の一日へ向かっていく。
静かで、確かな余韻だけを残して。
第三の影・あとがき
夜明け前の留置場は、驚くほど静かだった。
鉄格子の向こうで、第三の影――かつて名を捨てた男は、冷たいベンチに腰を下ろし、天井の蛍光灯を見上げていた。
十年前の倉庫事件。
あの夜から、時間は止まったままだった。
守れなかった仲間。
信じていた側近の裏切り。
真実を知っていながら、声を上げれば消されると分かっていた恐怖。
正義でも復讐でもない。
ただ、自分が“間違っていなかった”と証明したかっただけなのだと、今なら分かる。
「……遅すぎたな」
誰に向けた言葉でもなく、男は小さく呟いた。
だが、あの夜、路地で証拠が押さえられ、事務所で真実が整理された瞬間、確かに何かが終わったのを感じた。
玲の冷静な視線。
奈々の淡々とした問い。
天音の静かな解析。
アキトの、感情を挟まないまっすぐな目。
誰も、彼を“怪物”としては見ていなかった。
それが、いちばん堪えた。
「全部話した。もう隠すものはない」
裁かれることは避けられない。
だが、沈黙のまま消えるよりはいい。
夜明けの光が、細い窓から差し込み始める。
第三の影は、ゆっくりと目を閉じた。
影は役目を終え、ようやく名前を持たないまま、静かに朝を迎えようとしていた。




