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90話 潜入班と封印された証拠

登場人物紹介


ルミナ/25歳

冷静かつ大胆な行動力を持つ女性。危機的状況でも冷静に判断し、自らの力で任務を遂行する。戦闘能力と洞察力に優れる。


朱音あかね/10歳

沙耶の娘。観察力と直感に優れ、潜入班のサポート役として活躍。小さなスケッチブックに現場の情報を正確に記録する。


天音あまね/17歳

情報解析担当。デジタル地図や監視映像をもとに、現場の状況を迅速に解析する。冷静沈着で、潜入班と観察班の連携に不可欠。


アキト/20代後半想定

潜入班の中心的存在。戦闘能力・変装・現場判断に優れる。仲間を信頼し、作戦遂行の要として活躍。


桐野きりの 詩乃しの/20代前半想定

潜入班の一員。冷静な観察力と手先の器用さで、試薬や証拠の保護、現場の制圧を行う。


れい/29歳

チームリーダー。冷静沈着で戦略・作戦指揮に長ける。潜入班・観察班・影班の全体を統括する。


奈々(なな)/年齢非公開

玲の助手。情報整理、連絡調整を担当。潜入班と観察班への指示伝達を的確に行う。


成瀬なるせ 由宇ゆう/影班メンバー

潜入班の隠密行動担当。冷静で表情に出さないが、仲間の安全を守る使命感が強い。


御子柴みこしば 理央りお/年齢非公開

解析班担当。データ解析・ハッキング・証拠保全に長ける。潜入班の行動をデジタル面で支援。


安斎あんざい 柾貴まさき/影班メンバー

精神制圧・監視管理を担当。冷静で慎重、潜入班や仲間の安全確保に尽力する。


黒幕/匿名(研究棟主任・協力者を操る人物)

事件の黒幕。社内の不正行為を隠蔽しようとしたが、潜入班と影班の連携で拘束される。


藤堂/報道のスペシャリスト

企業側の不正やラベルのすり替えを独自に調査し、証拠を提示。黒幕ではなく味方。


沙耶/30代前後想定

朱音の母。冷静で家族思い。潜入班や現場の仲間に必要なサポートを提供する。

冒頭


【深夜 / 研究棟B棟】


研究棟の夜は静まり返っていた。蛍光灯の冷たい光が試薬棚や分析機器を淡く照らす。だが、誰も気付かないうちに、異変の兆しが小さな波紋のように広がっていた。


試験管の一部が微かに傾き、ラベルの位置もわずかにずれている。監視カメラの画面には、誰も映っていないはずの場所で一瞬の影が揺れた。


「…何かがおかしい」

研究員のひとりが独り言のように呟く。その声も、夜の静けさに飲まれてすぐに消えた。


夜勤の研究員・佐伯は、淡く光る試薬棚の前で立ち止まった。目の前の試験管のいくつかが微かに傾き、普段とは違う配置になっていることに気づいたのだ。


「…なんだこれ、誰か触ったのか?」

佐伯は小さな声で呟き、慌てて手元の端末を操作した。


社内通報システムを立ち上げ、警告メッセージを打ち込む。

「安全管理部、異常事態発生。研究棟B棟、試薬棚周辺で不自然な動きがあります。至急確認をお願いします…!」


手が震える。だが、画面に表示された「送信完了」の文字を確認すると、佐伯は深呼吸してから部屋の隅に目をやった。蛍光灯の光がわずかに揺れるように見え、背筋に冷たいものが走った。


「…本当に、誰もいないのか…?」


佐伯が警告メッセージを送信し終えた瞬間、低い音でドアの重厚な自動ロックが作動した。金属がかちりと噛み合う音が、静まり返った研究棟に響く。


「な、なんだ…?」

思わず声を漏らす佐伯。端末の通信画面を確認すると、外部との接続は一切遮断されていた。


「…外と連絡が取れない…?こんなはずは…」

パニック気味にボタンを押しても、何も反応しない。


壁の非常用パネルが淡く点滅し、警告ランプが赤く光った。佐伯は小さく息を吸い込み、震える手でパネルに触れながら呟く。

「…これは…ただ事じゃない…。」


「皆さん、緊急です!全館で異常が発生しました!」

非常ベルに続き、社内放送が響き渡る。声は震えていたが、緊急性は明確だった。


佐伯はまだ端末の前で固まったまま、小声で呟く。

「…こんな規模の異常、初めてだ…。」


同僚たちが慌てて情報端末を確認し、部署ごとに連絡網が走る。

「研究棟B棟、異常確認。全員、速やかに安全手順を実施せよ!」

「データセンターも同時に確認。外部接続遮断中、報告を優先!」


社内のチャット画面や電話が次々と光り、緊張が館内全体に広がる。佐伯は額に手を当て、深呼吸する。

「…これは、ただの停電とかじゃない…。何かが…動いてる。」


その瞬間、低く響く機械音と共に、研究棟の内部で何かが不自然に動く影がかすかに揺れた。


「誰だ…!?」

佐伯の声が震える。


【午前10時 / 玲探偵事務所】


玲はデスクに腰を下ろし、昨夜届いた件名「至急:研究棟異常について」のメールを開いた。画面には落ち着いた字体で依頼内容が記されている。


「…バイオテクノロジー企業、昨夜の異常…データ盗難と人物行方不明…か。」

玲は眉をひそめながら読み進める。


メールの差出人は企業の安全管理部担当者で、文章には切迫した様子が滲んでいた。


「昨日午後9時頃、研究棟内で異常が発生しました。

社内システムの一部が意図せず停止し、重要試薬の一部が行方不明です。夜勤スタッフの目撃情報によれば、不審者の侵入の可能性もあります。至急、事実確認と安全確保のため、調査を依頼したく存じます。」


玲は軽く肩をすくめ、デスクの端に置かれた携帯端末に目を落とす。


「…これは、かなり複雑になりそうだな。」

軽いため息をつき、玲はすぐに手帳を取り出した。

「まずは現場の状況を整理して、潜入班と観察班を組む必要がある。」


玲の脳裏には、潜入調査に最適な人材の顔が次々と浮かぶ。

「アキト、詩乃…そして朱音と天音も現場情報を拾える。連携が鍵になるだろう。」


画面のメールを閉じ、玲は机に置かれたスマートフォンを手に取り、静かに指示を打ち始める。

「影班にも通達しておくか…動き出すのは今日の午後から、だな。」


事務所の空気が、一気に張り詰めた緊張感に包まれる。


玲はデスクの端にいる奈々に視線を向けた。


「奈々、今回の件は潜入班と現場観察班の二手に分かれる。情報の初動は君に任せる。」

奈々は即座に頷き、手帳とタブレットを手に取る。


「了解です。潜入班はアキトと詩乃、観察班は朱音と天音ですね。連携の手順もまとめます。」

玲はメール画面をスクロールしながら続ける。

「研究棟は夜間閉鎖されていたようだ。まずは状況確認と潜入ルートの確保が最優先だ。」


奈々はタブレットを操作し、社内図面や警備情報をチェックする。

「潜入班は変装や装備の準備から始めます。現場観察班は周辺の動線を調べ、異常を見逃さないようにします。」


玲は軽く頷き、冷静に指示を加える。

「潜入班は社内に入るタイミングを慎重に判断すること。観察班は目立たず、無線で随時情報を送る。情報の共有が鍵だ。」


奈々は手早く作業を進め、潜入班と観察班のチェックリストを完成させる。

「アキトと詩乃には装備と変装品の確認を依頼しました。朱音と天音には現場周辺の監視ポイントを伝えておきます。」


玲は再びメール画面に目を落としながら、静かに呟く。

「全員が動き出せば、事件の核心に近づける…今日から本格的な調査が始まる。」


事務所には一瞬の緊張が走り、潜入班と観察班の準備が着々と整い始めた。


玲はデスクの端で作業する奈々に軽く視線を送り、指先でタブレットを操作した。


「奈々、このメールに添付されていた依頼主の連絡先、もう一度確認しておく。」

奈々は資料を差し出しながら頷く。

「はい、こちらです。バイオテクノロジー企業の総務部から直接の依頼でした。担当は佐伯翔太さん。」


玲は画面をじっと見つめ、ゆっくりと指でスクロールする。

「電話番号と内線、両方とも控えてあるな。必要になればすぐに連絡できるよう、こちらも整理しておこう。」

奈々がメモを取り、連絡先をファイルにまとめる。


玲は再び画面に目を落とし、低い声でつぶやいた。

「まずは佐伯さんと接触し、今回の異常の詳細と状況を直接聞く。そこから潜入班と観察班の動きを最終調整する。」


奈々が軽く頷き、タブレットの画面を閉じる。

「了解です。すぐに連絡を取り、今日中に調査準備を整えます。」


玲は椅子にもたれかかり、静かに深呼吸をする。

「動き出すのはこれからだ…全員が無事に、そして確実に情報を掴めるように。」


事務所の電話が、鋭く鳴った。玲はすぐに受話器を取り上げる。


「玲です。」

電話の向こうから、低く落ち着いた声が響く。

「成瀬だ。影班は本日、依頼案件の件で待機中。状況を確認しておきたくて。」


玲は頷き、声に力を込める。

「了解、成瀬。潜入班と観察班をこれから動かす。詩乃とアキトは研究棟の潜入準備を開始。朱音と天音は現場周辺での観察と情報収集だ。」


成瀬の声は冷静ながらも緊張感を帯びる。

「了解。影班はいつでも動けるようにしておく。安全第一で行動を。」


玲は受話器を置き、事務所内に声を響かせる。

「奈々、潜入班に連絡して準備を確認。朱音と天音には現場観察の段取りを伝えて。」


奈々がすぐに端末を操作し、指示を各班に送信する。

「潜入班は装備と変装の最終チェック、現場観察班はルートと監視ポイントの確認ですね。」

玲は静かに頷く。

「そうだ。各班とも、連携用の無線は必ず持たせろ。情報は随時共有、決して独断で動かない。」


事務所の空気が一気に引き締まる。玲の目は画面の向こうの潜入班、現場観察班、そして影班を思い描くように、鋭く光っていた。


「今日から、この事件に全員が関わる。無事に証拠を確保し、黒幕に迫るための第一歩だ。」


【午前10時30分 / 玲探偵事務所】


玲からの指示を受け、詩乃は静かに立ち上がった。手には手袋と作業用ケースを持ち、落ち着いた表情でアキトの方を向く。


「準備は整ったか?」詩乃の声は低く、しかし明確に意思を伝えていた。


アキトは軽く頷き、腰に掛けた装備を確認する。

「ああ。変装も通信機もチェック済みだ。無線は奈々からの最新情報を常に受信する。」


詩乃は端末を取り出し、軽くスクロールして現場の図面を再確認する。

「研究棟B棟の夜間警備は、昨夜の異常以降、センサーが増設されている。人の動きに対して敏感だから、侵入ルートは慎重に選ぶ必要がある。」


アキトは眉をひそめ、静かに問いかける。

「どのルートが最も安全か?」


詩乃は薄く微笑み、指先で図面上の点線をなぞる。

「西側の搬入口を使う。監視カメラの死角が多く、センサーも比較的少ない。夜勤スタッフの巡回がこの時間は最も緩むはず。」


アキトは息を整え、ゆっくりと頷いた。

「わかった。俺が前衛で押さえる。詩乃は内部確認とデータ収集だ。」


詩乃は軽く手を握り、作業用ケースを肩にかける。

「了解。無事にデータを回収して戻るまで、焦らず慎重に行動するわ。」


二人は無言のまま、事務所を出る前に一度互いの視線を交わす。

その目には、冷静な覚悟と信頼が確かに宿っていた。


「行こう。」アキトが低く呟く。


詩乃も頷き、静かにドアノブに手をかけた。

午後の光が差し込む事務所を抜け、二人は事件の核心へと足を踏み入れる準備を整えた。


【午前10時45分 / 研究棟B棟・搬入口近く】


詩乃は手袋を装着し、慎重に試薬ケースの蓋を開ける。

中の道具や資料を一つずつ目で追いながら、静かに呟いた。


「…異常はない…でも、何か違和感がある。」


ケースの中には通常の試薬や分析用具が整然と並んでいる。しかし、わずかにラベルの位置や使用痕跡が異なり、普段の配置とは違う。

詩乃は端末を取り出し、ケース内の写真を撮影してデータを送信する。


「奈々、ケース内の状況を送信した。確認を…」


無線から奈々の落ち着いた声が返る。

「受信確認。微細な変化も記録したわ。続けて内部の監視カメラ映像もチェックして。」


詩乃は手元の端末を操作し、研究棟内の監視カメラの死角や異常箇所を確認する。

「この辺りのセンサーは微妙に感度が上がっている…慎重に動かないと。」


小さな呼吸音だけが静寂を破る中、詩乃の指先が資料と道具の間を滑り、次の行動を決める。

「…全て確認が終わったら、次はデータ回収。無駄な動きはしない。」


目の奥に冷静な光を宿し、詩乃は静かに作業を続けた。


【午前11時00分 / 玲探偵事務所】


玲はデスクのモニターに目を落とし、SNSツールの通知を確認した。

画面には潜入班・観察班からの報告が次々と届いている。


「アキト、詩乃…現場入り完了。異常なし。監視カメラ死角確認済み。」

「朱音、天音…周辺状況を観察中。人影なし。試薬搬入口付近も異常なし。」


玲は眉をひそめ、通知の内容を細かくチェックする。

「…情報は順調だな。しかし、違和感のある部分は必ず確認させる。」


モニター上で研究棟B棟のフロアマップを開き、各班の位置をリアルタイムで表示させる。

「潜入班はA棟との連絡通路を使う。観察班は外周からの監視を継続。影班は建物北側で待機。」


玲は無線を手に取り、低く静かな声で指示を送る。

「全班、異常があれば即座に報告。独断での行動は禁止。情報の共有を最優先に。」


モニターの光が玲の冷静な顔を照らす。

「今日から、この事件の核心に近づく…全員が慎重に、確実に動く必要がある。」


静まり返った事務所に、緊張感だけがゆっくりと漂った。


【午前11時15分 / 研究棟周辺監視ポイント】


朱音は小さなメモ帳を手に、天音とルミナに向かい合った。

「ねえねえ、天音お姉ちゃん、ルミナお姉ちゃん、これ見て!潜入班のお兄さんたちが怪しいって言ってた場所、ぜーんぶ書いたんだよ!」


天音は微笑みながら朱音のメモ帳を覗き込み、指でひとつずつポイントをなぞった。

「ふむ…確かにここに潜入ルートの死角がいくつかあるわね。朱音ちゃん、よく見つけたわ。」


ルミナも頷き、朱音の肩にそっと手を置く。

「さすが朱音。こうして事前に確認してくれると、私たちも警戒できる。ありがとう。」


朱音は胸を張ってにっこり笑う。

「えへへ、だって怪しい場所は絶対見逃したくないもん!」


天音は静かにメモをまとめ、無線機に目をやる。

「じゃあ、この情報を本部に送ろう。潜入班もこれで安全確認しやすくなる。」


ルミナは小声で朱音に囁く。

「あなたの観察力、みんなの役に立つわね。今日の活躍が、きっと大事な鍵になる。」


朱音は誇らしげにメモ帳を握りしめ、これからの調査に胸を躍らせた。


【午前11時32分 / 研究棟周辺監視ポイント】


朱音は無線機に耳を傾け、目を輝かせながら叫ぶ。

「来た!潜入班が次の動きを知らせてきた!」


天音は冷静に朱音の肩に手を置き、落ち着いた声で答える。

「了解…では、慎重に行動しましょう。目立たず、全てを観察するのよ。」


ルミナも頷き、朱音に向けて小さく微笑む。

「そうね。焦らず、一つひとつ確認して。運命は私たちの味方…必ず安全に、全てを把握するの。」


朱音はメモ帳を握りしめ、深く息を吸い込む。

「うん、任せて!私、絶対に全部見逃さないから!」


三人はそれぞれの視線を周囲に巡らせ、潜入班の動きを追いながら、静かに監視を続けた。


【午前11時35分 / 研究棟周辺監視ポイント】


天音は淡々とタブレットを操作しながら、朱音に視線を向ける。

「ねぇ、朱音。私たちの年齢、知りたい?」


朱音は小首をかしげ、目を輝かせて応える。

「えっ、知りたい知りたい!教えて!」


天音は少し微笑みながら、冷静に答える。

「私は17歳。潜入班の監視や記録は、私の年齢での経験を活かしてるの。」


ルミナも朱音の方を見て、柔らかく言った。

「私は25歳よ。潜入班と協力する時には、少し大人としての判断力も必要だから。」


朱音は目を丸くして、二人を見上げる。

「わぁ…お姉ちゃんたちすごいね!私も頑張らなきゃ!」


三人は視線を周囲に戻し、潜入班の動きを注意深く見守りながら、次の行動に備えた。


【午後4時18分/玲探偵事務所・作戦室】


裏口のドアが静かに閉まり、潜入班が事務所内に戻ってくる。

詩乃の手には耐衝撃ケース、アキトの肩にはまだ現場の緊張が残っていた。


玲は机の前に立ち、複数のモニターを一瞥したあと、二人に視線を向ける。

その声は低く、だが確かな重みを帯びていた。


「――証拠は確保したか?」


詩乃はケースを机の上に置き、静かに頷く。

「はい。改ざん前の試薬と、搬出記録の断片も一緒に。外部汚染はありません」


アキトも短く同意する。

「裏ルートは使われていませんでしたが、痕跡は残ってました。

 内部犯行の可能性、かなり高いです」


玲はケースを開け、中身を一瞬だけ確認する。

その目が、わずかに細くなった。


「……十分だ。これで“事故”では済まされない」


少し間を置き、玲は奈々の方へ視線を送る。

「奈々、時系列を整理。佐伯が異変に気づいた時刻と、この試薬の移動ログを重ねろ」


「了解です」

奈々は即座にキーボードを叩き始める。


玲は再び潜入班に向き直った。

「二人とも、よくやった。ここから先は――反撃の準備だ」


作戦室の空気が、静かに、しかし確実に次の段階へと切り替わった。


【午後4時12分/研究棟裏・来客用駐車場付近】


朱音はスケッチブックを膝に乗せ、鉛筆を走らせていた。

冷たいアスファルトの感触が靴越しに伝わり、遠くで車のエンジン音が低く響く。


駐車場全体の配置、研究棟の出入口、外灯の位置――

彼女の線は迷いなく紙の上を滑り、黒いバンの停車位置に差し掛かったところで、ふっと動きが止まった。


「……あれ?」


朱音は顔を上げ、実際の風景とスケッチを交互に見比べる。

そして、鉛筆の先でバンの位置を軽く叩いた。


「……ここ。駐車場の角度からして、バンの中の人は――」


一度息を吸い、小さな指で研究棟の出入口を示す。


「研究棟の出入口を、真正面から狙ってる!」


隣にいた天音が静かにタブレットを覗き込み、ルミナもスケッチに視線を落とす。

ただの子どもの落書きではない。

視線、角度、死角――すべてが直感的に整理されていた。


「……確かに、この位置なら人の出入りが全部見えるわね」

ルミナが低く呟く。


朱音は少し誇らしげに、でも真剣な表情で続けた。

「うん。だからね、たぶん“偶然止めてる”んじゃないと思う」


夕方の風がページをわずかに揺らす。

そのスケッチは、この事件の重要な“目”になろうとしていた。


【翌日 午後3時12分/玲探偵事務所・作戦卓】


玲は腕を組み、作戦卓の上に広げられた朱音のスケッチをじっと見下ろしていた。

鉛筆で描かれた線は素朴だが正確で、駐車場全体の配置、研究棟への動線、そして問題の黒いバンの位置が一目で分かる。


「……この空白」


玲は、スケッチの中央付近――あえて何も描かれていない一角を、指先で軽くなぞった。


「意図的に空けられている可能性が高いな」


朱音は少し背伸びをして、玲の指の先を覗き込む。

【同時刻/同場所】


「うん。ここね、変なんだよ。車もないし、人も通らないのに……なんか“見られてる感じ”がしたの」


ルミナは腕を組み直し、静かに頷いた。

【同時刻/同場所】


「死角ね。カメラにも人目にも映りにくい。潜むにはちょうどいい」


天音はタブレットを操作し、研究棟周辺の監視カメラ配置図を表示する。

【同時刻/同場所】


「一致するわ。この位置、監視カメラのカバー範囲から完全に外れてる。しかも出入口まで最短距離」


玲は短く息を吐き、視線を上げた。

【同時刻/同場所】


「つまり――ここにいる人間は、最初から“奪う”か“連れ出す”つもりだった」


室内の空気が、わずかに張り詰める。


朱音はスケッチブックを胸に抱き、少しだけ不安そうに、それでも真っ直ぐ前を見た。

【同時刻/同場所】


「ねえ、玲さん……この人たち、まだ近くにいるの?」


玲は迷いなく答える。

【同時刻/同場所】


「ああ。少なくとも、完全には引いていない」


そして静かに、しかしはっきりと言葉を続けた。


「……次は向こうが動く。その前に、こちらが先手を打つ」


作戦卓の上で、朱音のスケッチは“子どもの絵”ではなく、

事件の核心を突く地図として、確かな存在感を放っていた。


【同日・午後17時42分/玲探偵事務所・作戦テーブル前】


天音はタブレットを操作し、朱音のスケッチを高解像度で読み込んだ。

画面上で線画が拡大され、次いで半透明のデジタル地図が重ね合わされる。


「……一致率、かなり高い」


淡々とした声だったが、その一言には確かな手応えが滲んでいた。

駐車場の配置、研究棟の出入口、黒いバンの停車角度。

朱音が直感と観察だけで描いた線は、GPSデータとほぼ誤差なく重なっている。


天音は指先で数点を示す。


「この位置関係、普通の待機じゃない。視線が完全に出入口に集中してる。

それにこの“空白”――」


画面上、朱音が意図せず残した余白の部分を拡大する。


「ここ、監視カメラの死角。

朱音、あなた、無意識に“見えない場所”を避けて描いてる」


朱音はぱっと顔を上げ、少し驚いたように目を瞬かせた。


「え……? でも、なんとなく……ここ、描いちゃいけない気がして……」


天音は小さく微笑む。


「それで正解。

その“なんとなく”が、相手の隠した意図をなぞってる」


玲は腕を組んだまま、二人のやり取りを静かに見下ろしていたが、やがて低く言った。


「……十分だな」


視線を朱音に向ける。


「朱音、このスケッチは立派な証拠だ。

目撃でも監視映像でもないが、“配置の証言”としては強い」


朱音は少し照れたように、でも誇らしそうにスケッチブックを抱え直した。


「ほんと? 役に立つ?」


「立つどころか――」


玲は一拍置き、はっきりと言い切る。


「これで、相手が“どこから見て、どこへ動くつもりだったか”が読める。

次の一手を考える材料としては、十分すぎる」


天音はタブレットを操作し、データを共有フォルダへ送信する。


「潜入班にも送る。

この死角、必ず使ってくる。逆に言えば――こちらも使える」


朱音の目がきらりと輝いた。


「じゃあ……次は、そこを描くね。

見えないところも、ちゃんと」


玲はその言葉に、ほんのわずか口元を緩めた。


作戦テーブルの上で、

子どものスケッチと最新のデジタル地図が重なり合い、

静かに“次の局面”への道筋を描き始めていた。


【深夜23時12分/研究棟B棟・保管エリア】


詩乃は棚の隙間に手を伸ばし、わずかに傾いた試薬瓶をそっと正しい位置へ戻した。

ガラス同士が触れ合わないよう、指先に細心の注意を払う。


「……ふぅ。危なかった」


小さく息を吐き、周囲の気配を確かめてから、背後にいるアキトへ視線を送る。


「アキト、次は裏ルートで移動するわ。正面は監視が強すぎる」


通路の奥では、換気装置の低い稼働音だけが一定のリズムで響いていた。

二人は言葉を交わすことなく、次の動きへと静かに身を切り替える。


【23:41/研究棟B棟・資材保管エリア】


詩乃はバッグから取り出したノートを片手に、足を止めた。

壁際の非常灯が淡く灯り、金属棚の影が床に長く伸びている。


彼女は一度、周囲に視線を走らせてから、ノートに短く書き込んだ。

棚番号、試薬の配置、床に残るかすかな靴跡――どれも見逃さない。


「……この位置、やっぱり不自然ね」


小さく呟き、詩乃は棚の裏側に回り込む。

そこには、意図的に空けられたようなわずかなスペースがあり、床には薄く擦れた跡が残っていた。


【23:42/同・資材保管エリア】


「アキト」


低く名前を呼ぶと、少し離れた通路から足音が近づく。

アキトは周囲を警戒しながら、詩乃の横に並んだ。


「どうした?」


詩乃は顎で床を示す。

「ここ、台車を一度停めてる。重量物を載せた跡……試薬だけじゃないわ」


アキトはしゃがみ込み、指先で床をなぞった。

「……確かに。裏ルートに運び出した可能性が高いな」


【23:43/研究棟B棟・裏通路入口】


二人は無言で頷き合い、裏通路へと足を進める。

非常灯だけが続く細い通路は、空調の低い唸り音だけが響いていた。


詩乃はノートを閉じ、バッグに戻す。

「ここから先はカメラが二台。死角を使えば三十秒は稼げる」


「十分だ」

アキトは短く答え、無線に手を伸ばした。


【23:44/同時刻・事務所】


玲はモニター越しに二人の位置情報を確認し、低く指示を飛ばす。

「了解した。裏ルートを維持しろ。観察班、そちらも動きがあるはずだ」


その声を聞きながら、詩乃は一歩踏み出す。

非常灯の光の中、彼女の表情は冷静そのものだった。


「……行くわよ。証拠は、もうすぐ核心に届く」


静かな足音が、裏通路の奥へと溶けていった。


【深夜23時18分/研究棟B棟・試薬保管エリア裏通路】


遠くで換気装置の低音が、一定のリズムで響いていた。

金属を擦るようなその音が、静まり返った通路の空気をわずかに震わせる。


詩乃はペンを止め、ノートの上に落としていた視線をゆっくりと上げる。

非常灯の淡い光が、彼女の横顔と壁際の影を細く切り取っていた。


一瞬、耳を澄まし――異変がないことを確認すると、詩乃はノートを静かに閉じる。

その仕草には、迷いも焦りもない。


「……記録は十分ね」


小さくそう呟き、詩乃は短く頷いた。

次の行動へ移る合図のように、足音を殺して通路の奥へと歩き出す。


その背後で、換気装置の低音だけが、変わらぬ調子で鳴り続けていた。


【深夜23時18分/研究棟B棟・非常通路】


非常灯だけが灯る薄暗い通路に、詩乃の浅い呼吸が静かに響いていた。

背を冷たい壁に預け、額に滲む汗を指先で拭う。換気装置の低音が遠くで唸り、金属と薬品の混じった匂いが鼻を刺した。


詩乃は手にしたノートを閉じ、胸の奥まで空気を送り込むように、ひとつ深く息を吸う。

それから視線を上げ、すぐそばに立つアキトを見た。


「……ここまでの配置と動線、全部書き留めたわ」

声は低く、だが確信を帯びている。

「この通路、表向きは非常用。でも――使われた痕跡が新しい。裏の搬入ルートと繋がってる可能性が高い」


アキトは無言で頷き、通路の先へと視線を走らせた。

赤い非常灯が、二人の影を長く床に引き延ばしている。


「次は裏ルートね」

詩乃は小さく息を整え、再び歩き出した。

その背中には、迷いはなかった。


【深夜2時12分/研究棟B棟・保管通路】


棚の間に立つ二人の背中には、張り詰めた静けさがまとわりついていた。

非常灯の赤い光が金属棚の縁をなぞり、影が床に細長く伸びる。


詩乃は手袋越しに冷たい金属ケースを強く握りしめ、わずかに身を乗り出して隣のアキトへ低く囁いた。


「……ここ、長居はできない。警備の巡回、三分後に戻ってくるはず」


アキトは頷き、通路の先に視線を走らせる。

遠くで換気装置の低音が脈打つように響き、足音が錯覚のように混じった。


「了解。裏ルート、次の扉だな」


詩乃は小さく息を吸い、緊張を押し殺すように答える。


「ええ。シャッターの影に入ったら、通信を一度切る。――気配、感じたらすぐ合図して」


二人は言葉を切り、同時に一歩踏み出した。

金属棚の隙間を抜けるたび、空気がわずかに揺れ、研究棟の闇が静かに牙を剥く。


この先に待つものを、まだ誰も知らなかった。


【深夜23時12分/研究棟B棟・裏搬入口】


夜の気配が濃く沈む裏搬入口には、外灯もほとんど届かず、コンクリートの床が月明かりをわずかに反射していた。

一台の黒いワゴン車がエンジンを切ったまま静かに待機している。


スライドドアが音もなく開き、車内の闇から成瀬由宇の灰色の目が浮かび上がった。

感情の読めない視線が、詩乃とアキトを順に捉える。


「……予定通りだな」


低く、無駄のない声。

成瀬は周囲を一瞥し、即座に状況を把握している様子だった。


詩乃は金属ケースを胸元に引き寄せ、小さく頷く。

「ええ。試薬は無事。内部の配置も記録したわ。追跡の気配は今のところなし」


アキトも周囲に目を走らせながら答える。

「監視カメラは数分前に復旧したはずだ。ここに長居はできない」


成瀬は短く息を吐き、顎で車内を示す。

「乗れ。ここから先は影班が引き取る。……よくやった」


その一言だけで十分だった。

詩乃は一瞬だけ肩の力を抜き、アキトと視線を交わす。


二人がワゴンに乗り込むと同時に、ドアは再び静かに閉じられる。

闇の中、ワゴン車は音も立てずに裏道へと溶け込んでいった。


その場に残ったのは、研究棟の低い機械音と、何事もなかったかのような夜の静けさだけだった。


【深夜23時42分/研究棟B棟・外周警備エリア】


朱音は低いコンクリート塀の陰に身を潜め、小さな手で双眼鏡をぎゅっと握りしめていた。

レンズ越しに見える敷地内は、夜間照明に照らされて白っぽく浮かび上がり、研究棟の壁面と駐車スペースがくっきりと分かれている。


冷たい風が頬を撫で、肩から提げたスケッチブックのページがぱらぱらと揺れた。

朱音は一度双眼鏡を下ろし、鉛筆を取り出す。


スケッチブックの中央には、研究棟B棟を基準にした簡易俯瞰図。

正面玄関、非常口、裏搬入口が太めの線で描かれ、矢印で動線が示されている。

その右下、少し離れた位置に「黒バン」と書き添えられた四角い影。


朱音は双眼鏡を覗き直し、小さく息を吸った。

黒いバンは街灯の影に半分隠れるように停車しており、フロントガラスの反射が不自然に抑えられている。


「……やっぱり、ここ」


彼女は鉛筆を走らせ、バンの停車角度を修正する。

タイヤの向き、研究棟出入口との距離、死角になる植え込みの位置。

さらに、バンから裏搬入口までの直線ルートに細い点線を引いた。


スケッチの端には、子どもらしい丸文字でメモが添えられる。

〈人が出てきたら、すぐ見える〉

〈カメラの死角〉

〈待ち伏せできる〉


朱音は唇をきゅっと結び、最後に小さな星印を黒バンの横に描いた。

それは彼女なりの「重要」の印だった。


再び双眼鏡を構えながら、朱音は小さく呟く。

「……ここ、絶対あやしいよ。潜入班のお兄さんたち、気をつけて」


夜の研究棟は静まり返っている。

だが、朱音のスケッチブックの中では、すでに“何かが動く予兆”が、はっきりと形になり始めていた。


朱音はスケッチブックを膝の上に広げ、鉛筆を強く握り直した。


【22:47/研究棟B棟・外周駐車場脇】


双眼鏡で見た光景を忘れないうちに、線を走らせる。

まず、駐車場全体の形。研究棟B棟の外壁との距離、街灯の位置、死角になる低木。

次に、黒いバンの停車位置――正門からは見えず、裏搬入口と非常階段の両方を視認できる、絶妙な角度。


「……ここ、完全に監視ポイントだ」


朱音は小さく呟き、バンの周囲に人影を描き足す。

一人、二人……いや、見えているのは一人だけ。でも「一人で十分」な立ち位置。


バンのスライドドア付近に、黒いマントを羽織った人物のシルエット。

風でマントがわずかにめくれ、肩から胸元にかけてのラインが見えた瞬間、朱音の鉛筆が止まった。


「……あれ?」


【22:48/同上】


朱音はもう一度、双眼鏡を覗く。

街灯の光が、人物の横顔を一瞬だけ照らした。


眼鏡のフレーム。

見慣れた額の傷。

研究棟でいつも白衣を着て、穏やかな声で指示を出していた――


「……主任……?」


思わず漏れた声は、風にかき消されそうなほど小さかった。


朱音は震える手でスケッチブックに追記する。

黒いマントの下に描き足されたのは、白衣の襟元と、社員証らしき矩形。


「間違いない……研究棟の主任だよ……」


彼女は無線機をぎゅっと握りしめ、息を整える。


【22:49/研究棟B棟・外周監視ポイント】


「玲さん……聞こえる?

黒バンに乗ってる人……研究棟の主任。

多分、この人が中と外、両方つないでる」


スケッチブックの上には、駐車場と黒バン、そして“主任”の位置がはっきりと描かれていた。

それは、子どもの絵でありながら、誰よりも正確な――決定的な証拠だった。


郊外の駐車場は、街灯の数もまばらで、夜気が重く沈んでいた。

黒バンのテールランプが消え、闇に溶けるのを確認した直後、アキトは一歩だけ後方に下がる。


彼はすでに“別人”だった。


肩にはくたびれた作業用ジャンパー。

胸元には企業ロゴの入った古いIDホルダー。

頭には深く被ったキャップ、顔の半分を覆う伊達眼鏡。

背筋はわずかに丸め、歩幅も意図的に不揃いにしている。


――夜間点検の外注スタッフ。

それが、今の彼の役割だった。


無線に、ごく短く息を含ませてから囁く。


「……玲、詩乃。これから接触する。五分以内で終わらせる」


返答はない。

それでいい。沈黙こそが、作戦が機能している証だった。


アキトは駐車場の端、白線がかすれた区画から歩き出す。

主任と黒スーツの男が、低い声で何かを確認し合っている背後――

あえて“偶然”を装う角度で近づいた。


「すみません」


控えめで、少し間の抜けた声。

主任が一瞬、苛立ったように振り返る。


「……誰だ?」


アキトは慌てた様子でキャップを押さえ、IDを胸元から引き出す。


「夜間設備点検の追加要員です。B棟のログに不具合が出たって聞いて……

あの、主任さんですよね? 署名、必要で……」


“署名”という単語に、主任の視線が一瞬だけ揺れた。

アキトは見逃さない。


黒スーツの男が口を挟もうとした、その瞬間――

アキトはわざと書類を落とした。


紙がアスファルトに散らばる。


「っ、すみません!」


しゃがみ込む動作と同時に、アキトの指先が主任の足元近くに滑り込む。

ほんの一秒。

その間に、主任の靴底についた微細な試薬粉末、

ポケットから覗いた小型データスティック、

そして黒スーツの男の袖口の社章――すべてを記憶する。


立ち上がる頃には、アキトの表情は再び“気弱な作業員”だった。


「お忙しいところ、失礼しました……

署名は、後で上に回します」


主任は苛立ちを隠しきれず、手を振る。


「……勝手にするな。用が済んだらさっさと帰れ」


「はい、失礼します」


アキトは深く頭を下げ、そのまま背を向ける。

歩調は変えない。

振り返らない。

視線を合わせない。


闇に紛れ、駐車場の外縁へ消えた瞬間、無線に低く報告する。


「接触完了。

主任はデータを保持、協力者は企業内部の人間。

痕跡、確実に押さえた」


数秒後、詩乃の静かな声が返る。


『……完璧ね。尾行も気づかれてない』


アキトはキャップのつばを直し、夜空を一度だけ見上げた。


「任務完了だ。次は――詰めに入ろう」


駐車場には、何事もなかったかのように夜風だけが流れていた。


【深夜23時40分/郊外・研究棟裏口付近 駐車スペース】


白ワゴンのスライドドアが、ほとんど音も立てずに閉じられた。

薄暗い駐車スペースに残ったのは、研究棟の主任と黒スーツの男だけだ。


同時刻、少し離れた場所――

街灯の死角に停められた配送業者風の軽トラックの中で、御子柴理央の指先が静かに動いていた。


「……来たな」


携帯型解析端末のホログラムに、複数の通信ラインが浮かび上がる。

主任の携帯端末、黒スーツの男のインカム、研究棟内部の非常回線――

それらが一本の“裏ルート”で結ばれているのがはっきりと見えた。


「玲、解析完了。主任は正式な管理権限とは別に、非公開の臨時認証キーを持ってる。

今の接触で、それを協力者に渡した」


無線越しに、玲の低い声が返る。

『……つまり、内部犯行は確定だな』


御子柴は一瞬だけ目を細める。

「ええ。しかも手慣れてる。偶発じゃない、計画的だ」


――その頃。


【同時刻/同駐車場・別角度】


アキトはすでに“そこ”にいた。


作業着、油のついた手袋、首から下げた社員証。

研究棟の外注設備点検員――

その変装は、現場の誰が見ても疑いようがない。


彼は工具箱を肩に担ぎ、主任たちの視界の端に自然に入る位置を歩く。

足取りは重く、少し疲れた作業員そのものだった。


「……あ、主任。今夜も遅いっすね」


何気ない一言。

主任の肩が、ほんのわずかに揺れた。


「……ああ。点検か?」


「はい。換気系、さっき警告出てたんで。

あ、これ、サインもらえます?」


アキトは工具箱の上にチェックシートを置く。

ペンを差し出す手つきに、迷いはない。


主任は一瞬、黒スーツの男に視線を送る。

だが、周囲には他にも作業車両がある。

この場で不審に動く方が危険――そう判断したのだろう。


「……分かった」


主任がサインをする、その“一秒”。


アキトの視線が、主任の胸ポケットを正確に捉える。

そこに入れられた小型データキー。

御子柴が言っていた“臨時認証キー”だ。


次の瞬間、アキトは工具箱を少し傾けた。

カン、と軽い金属音。


「あ、すみません」


屈む動作と同時に、手袋越しの指先が一瞬だけ動く。

――入れ替え完了。


主任が気づいた時には、すでにアキトは立ち上がっていた。


「ありがとうございました。すぐ終わらせますんで」


主任は短く頷き、黒スーツの男と共にその場を離れる。

背中が闇に溶けていくのを確認してから、アキトは小さく息を吐いた。


無線に、低く報告する。


「玲、こちらアキト。

接触完了。キーは確保した。主任側は気づいてない」


一拍置いて、玲の声。


『上出来だ。すぐ離脱しろ。影班がカバーに入る』


アキトは工具箱を肩に担ぎ直し、何事もなかったかのように歩き出す。

夜の駐車場には、再び静寂だけが残った。


だがその静けさの裏で――

事件は、確実に核心へと引き寄せられていた。


詩乃は白衣の襟を整え、研究員特有の落ち着いた所作で試薬棚の前に立った。

手袋越しに怪しい試薬容器をそっと持ち上げ、ラベルを光にかざす。


「……製造ロット、記録と一致しない」


低く囁くと同時に、耳元のインカムがかすかに震えた。

御子柴の声が、冷静に割り込む。


「解析完了。容器内の成分は社内登録外。外部ルートで持ち込まれた可能性が高い。――その試薬、証拠として確保して」


詩乃は一瞬だけ頷き、ケースに収める。

その背後、通路の角から足音が近づいた。


同じ頃――

駐車場側では、アキトが“設備点検担当”の腕章をつけ、工具箱を抱えて主任へ自然に歩み寄っていた。


「主任、B棟の換気ログにエラーが出てます。確認のサイン、いただけますか」


主任は一瞬だけ眉をひそめたが、作業服と腕章に目を走らせ、警戒を解く。

その隙を逃さず、アキトは端末を差し出した。


「すぐ終わります」


――ピッ。

端末が接続された瞬間、御子柴の解析が主任の携帯に潜り込む。


「……今です。通信ログ、全抜き完了。協力者との接触記録も押さえました」


無線越しに玲の声が静かに響く。


「よし。アキト、深追いはしない。違和感を残さず離脱。詩乃は裏ルートへ」


アキトは工具箱を閉じ、軽く会釈した。


「ありがとうございました。念のため、今日は換気制限がかかりますので」


主任が背を向けた瞬間、任務は終わった。

誰にも気づかれず、誰にも疑われず――必要なものだけを奪い取る。


数分後、裏搬入口。

黒いワゴンのドアが静かに閉まり、成瀬の低い声が確認を入れる。


「全員乗車。――任務、クリーンに完了だ」


夜はまだ深い。

だが、真実へ続く歯車は、確かに回り始めていた。


【翌日・午前10時半/玲探偵事務所・メインワークスペース】


事務所のブラインド越しに、冬の淡い陽光が差し込んでいた。

中央のテーブルには、密封された試薬容器、詩乃のノート、データを保存したメモリが整然と並べられている。


玲はデスクから立ち上がり、テーブルの前に歩み寄った。

一つひとつの証拠に視線を落としながら、低く落ち着いた声で口を開く。


「……これで揃ったな。

不正に持ち出された試薬、改ざんされた研究記録、主任と協力者の接触記録。

企業側の“内部犯行”は、もはや否定できない」


詩乃は小さく息を整え、静かに頷く。

アキトも腕を組んだまま、表情を引き締めていた。


【同時刻/事務所内・テーブル周辺】


玲は顔を上げ、順に仲間たちを見渡す。


「まず、詩乃。

君が回収した試薬とノートは、御子柴に回して正式な成分分析と筆跡照合を行う。

ここは“科学的に潰す”。抜かりなく頼む」


詩乃は即座に応じる。

「了解。分析結果が出次第、改ざん箇所も洗い出すわ」


玲は次にアキトへ視線を向けた。


「アキト。

君は主任と協力者の行動ログを整理し、接触時間と場所を一本の線で繋げ。

“偶然”じゃないと証明する役目だ」


アキトは短く頷いた。

「任せてください。防犯カメラと入退室ログも突き合わせます」


【同時刻/事務所奥・サブデスク】


玲は最後に、少し離れた場所でスケッチブックを抱える朱音と、タブレットを操作する天音へ目を向ける。


「朱音。

君のスケッチは、すでに立派な証拠だ。

駐車場、動線、黒バンの位置——そのまま保管する。描き直す必要はない」


朱音は少し誇らしげに、でも照れたように頷く。

「うん……ちゃんと残しておく」


「天音」

玲は続けて言う。

「朱音のスケッチと解析データを正式な資料にまとめてくれ。

“子どもの落書き”なんて言わせない形にする」


天音は淡々と答える。

「了解。データ化と照合はすでに進めてる」


【同日・午前10時45分/玲探偵事務所】


玲は一度、全員を見渡してから、静かに言葉を締めた。


「ここから先は、こちらが主導権を握る。

企業側が動く前に、証拠を固め、逃げ道を潰す。

焦らず、だが確実にいくぞ」


事務所の空気が、再び引き締まる。

これは終わりではない。

――黒幕へ辿り着くための、決定的な一歩だった。


【同日・23時18分/研究棟B棟 地下搬出ルート右側通路】


安斎は照明の落ちた通路の柱陰に身を溶かすように身を潜めていた。

外気を遮断する扉の向こうから、かすかな換気音と遠くの足音が重なって聞こえる。


彼は無線機を口元へ引き寄せ、息がマイクにかからないよう、極限まで声を落とした。


「――詩乃、搬出ルート右側の通路、封鎖完了」


一瞬の間を置き、視線だけで通路の先を確認する。

非常灯の赤い光が床に細長い影を落とし、人の気配はない。


「主任側は、まだ気付いていない。予定通り動ける」


無線の向こうで返答を待ちながら、安斎は静かに指を引き金位置から外した。

ここから先は、潜入班の仕事だ――影は、すでに役目を果たしている。


【22:18/研究棟から3ブロック離れた裏通り・観察班合流ポイント】


朱音は無線機を両手でぎゅっと握り、少しだけ背伸びするようにして口元を近づけた。

息を吸い込み、教室での発表みたいに一生懸命、でも声はひそめて話す。


「えっと……こちら朱音です。

 いま、ちゃんと事務所に着きました! 天音お姉ちゃんと一緒です!」


一拍置いて、周囲をきょろきょろ見回す。

暗い路地、動く影はない。安全確認――と、さっき教わった通りに。


「まわり、へんじゃないです。

 あやしい人も、くるまも、いません!」


最後に、少しだけ胸を張るような声で付け加えた。


「観察班、二人。

 ぜんぶ……だいじょうぶです!」


無線の向こうで、わずかに息をつく気配が伝わる。

朱音はそれを感じ取り、ほっとしたように小さく笑った。


天音が隣で静かに親指を立てる。

朱音はそれを見て、無線機を胸に抱きしめた。


(ちゃんとできたよね……)


夜の冷たい空気の中、観察班の任務は、確かに次の段階へとつながっていた。


【深夜23時18分/玲探偵事務所・作戦管制スペース】


玲はモニターから視線を外し、無線機を手に取ると、声の調子を一段落とした。

現場に出ている仲間へ向ける指示とは違う、柔らかく、落ち着いた声音だった。


「朱音、聞こえるかい?」


一拍置いて、少し緊張を含んだ声が返ってくる。


『うん……聞こえるよ、玲さん』


玲は思わず口元を緩め、小さく頷いた。


「いいかい、朱音。君と天音は“観察班”だ。危ないことはしなくていい。今いる場所から、見えたこと、気づいたことだけを、ゆっくりでいいから教えてほしい」


モニターには、朱音のスケッチと天音のタブレット情報が重ねて表示されている。

その正確さを、玲は誰よりも理解していた。


「もし少しでも怖いと思ったら、すぐに言うんだ。隠れたままでいい。無理はしない。――それが一番大事だ」


無線の向こうで、小さく息を吸う音。


『……うん! わかった!

えっとね、今は……黒い車、動いてないよ。人も、走ってない』


報告はたどたどしいが、はっきりしている。

玲は「ありがとう」と短く返し、続けた。


「上出来だ。朱音、そのまま続けて。

天音がそばにいる。二人で一緒に、周りを“見る”だけでいい」


『はいっ! がんばる!』


無線が切れたあと、玲は静かに息を吐いた。


「……よし」


そして声のトーンを切り替え、次の指示へと移る。


「詩乃、アキト。朱音たちからの観察情報を共有する。

裏ルートへ移動、主任と協力者を確保する準備に入れ。慎重に行け」


管制スペースの空気が、再び引き締まる。

だがその中心には、確かに“守られている観察者”がいた。


玲はモニター越しに、朱音の描いた線をもう一度見つめ、低く呟いた。


「……その目は、もう立派な力だよ」


【22:47/研究棟裏・非常通路付近】


詩乃は白衣の襟元を整えながら、壁際の影に身を溶け込ませた。

蛍光灯の切れかけた光が通路の床に不規則な輪郭を落とし、遠くで換気装置の低い駆動音が鳴っている。


「ここからなら主任たちを確実に抑えられる……」


囁くような声だったが、その響きには確信があった。

手袋越しに感じる壁の冷たさが、彼女の神経を研ぎ澄ませている。


隣でアキトが一歩だけ位置をずらし、視界の角度を確認する。

主任と黒スーツの協力者が立ち話をしている場所まで、遮蔽物は十分だ。


「了解です。無線で指示も入りますし、焦らず行きましょう」


アキトの声は落ち着いていて、余計な力が入っていない。

詩乃は小さく頷き、耳元の通信機に指先を添えた。


(成瀬、安斎……位置は問題なし。合図があれば、すぐ動ける)


二人の背後には、夜の研究棟が静かに呼吸するような気配を漂わせている。

その静寂の下で、不正の証拠と人の欲が、確実に追い詰められつつあった。


詩乃は視線を細め、決定的な瞬間を待った。

——ここで終わらせる。そのために、すべては整っている。


【翌日 午前0時12分/玲探偵事務所・簡易分析室】


分析機器が低い駆動音を立て、淡い青色の光が室内を照らし出す。

玲は白い手袋をはめたまま、試薬容器を固定し、慎重に端末を操作していた。


「……反応開始。揮発性なし、だが――成分が一部改変されているな」


モニターに流れる数値を見て、玲の眉がわずかに動く。

詩乃は一歩下がった位置から画面を覗き込み、静かに息を吐いた。


「やっぱり……。研究棟で管理されていた正規試薬とは違う。

ラベルだけを使い回して、中身をすり替えていた可能性が高いわ」


アキトは腕を組み、低く唸る。


「主任が関わっていた理由が、はっきりしてきましたね。

これを外に流せば、企業側は相当困る」


部屋の隅では、影班の三人――成瀬、桐野、安斎が無言で周囲を警戒している。

安斎が無線機を軽く叩き、短く報告した。


「外部の動き、今のところなし。追跡もされていない」


玲は分析結果を保存し、ゆっくりと振り返る。


「よし。これで“研究棟異常”の正体はほぼ確定だ。

主任は内部データと試薬を横流しし、外部協力者と取引していた」


視線を詩乃とアキトに向け、はっきりと言葉を区切る。


「詩乃、君のノートと試薬は決定打になる。

アキト、明日以降は主任の動線と協力者の身元を洗い出す。

影班は引き続き裏で監視、だが深入りはしない。証拠が揃った今、下手に動く必要はない」


成瀬が小さく頷く。


「了解。必要とあらば、いつでも動けるようにしておく」


玲は最後に全員を見渡し、少しだけ声を和らげた。


「今回の件は、全員の連携があったからここまで来られた。

だが――これはまだ序章だ。背後にいる“本命”は、これから姿を現す」


静まり返った事務所に、分析機器の停止音が響く。

その音は、次の局面へ進む合図のようでもあった。


事務所の静寂を破るように、壁面モニターが一斉に切り替わった。


【同日 午後22時40分/玲探偵事務所・作戦ルーム】


画面に映し出されたのは、報道スタジオの青白い照明と、その中央に立つ男――

報道のスペシャリスト・藤堂だった。


整えられたスーツ、感情を排した声色。

だが、その言葉は鋭く、的確に核心を突いていく。


「続報です。バイオテクノロジー企業・研究棟で発覚した試薬流出事件について、新たな事実が判明しました」


藤堂の背後に、問題となった試薬のラベル画像が拡大表示される。

同一ロット、同一管理番号――しかし、内容物の分析結果は一致しない。


「調査の結果、ラベルのみを使い回し、中身を別の試薬にすり替える手口が確認されました。

 これは内部管理を熟知した人物でなければ不可能です」


事務所内で、誰かが小さく息を呑んだ。


藤堂は一拍置き、続ける。


「特に注目すべきは、ラベルの再利用痕跡です。

 表面の微細な剥離、接着剤の成分差異――これらは偶然ではありません」


映像が切り替わり、専門家コメントと解析データが並ぶ。

そこに映る分析結果は、詩乃と理央が回収・解析したものと完全に一致していた。


「つまり――

 正規の試薬が搬出されたように見せかけ、実際には別物が保管・流通していた。

 企業内部、あるいは報道・管理に関与できる立場の人間が関わっていた可能性が極めて高いと言えるでしょう」


モニターが暗転する。


【同時刻/玲探偵事務所】


玲は腕を組んだまま、静かに頷いた。


「……藤堂、やはり噛んでいたか。

 ラベルだけを使い回す手口なら、帳簿と現物のズレも説明がつく」


詩乃は試薬容器に視線を落とし、低く言う。

「中身だけを抜き替えるなら、搬出記録は“正しい”まま残る。気づくのが遅れるはずです」


アキトが小さく息を吐いた。

「これで、主任と協力者だけじゃない。報道ルートまで一本に繋がりますね」


玲は皆を見渡し、はっきりと告げた。


「証拠は出揃った。

 ここからは――“暴く側”の時間だ。各自、次の段階に入れ」


事務所の空気が、静かに、しかし確実に動き出した。



【同日 深夜/玲探偵事務所・解析ブース】


モニターの青白い光が、薄暗い室内を照らしていた。

壁際に並ぶ端末には、研究棟周辺の映像、移動ログ、試薬の流通履歴が重ねて表示されている。


朱音と天音は並んでモニターの前に立ち、画面を食い入るように見つめていた。


朱音は背伸びをしながら、画面の一角に指をちょこんと当てる。

「ねえ、ここ見て。主任の動き、いつも同じ時間に止まってるよ。たぶん……次もここに来る」


小学生らしい素直な声だが、その指先が示すポイントは的確だった。

駐車場、裏搬入口、そして例の黒バンの待機位置——すべてが一本の線で繋がっている。


天音はタブレットを操作し、解析結果を重ね合わせる。

「試薬の移動ログとも一致してる。ラベルは正規品、中身は別物……藤堂が報道で指摘した通り、すり替えの可能性が高いわ」


朱音は少し誇らしげに胸を張り、無線機を握り直す。

「えっとね、これなら次は……主任さん、動けないと思う」


天音は小さく微笑み、朱音の頭に手を置いた。

「その通り。じゃあ、今からみんなに伝えよう」


天音が無線のチャンネルを切り替え、落ち着いた声で告げる。

「各班へ。主任の行動パターンを完全に把握しました。次の接触地点は事前に封鎖可能。現在、全行動を監視下に置けます」


朱音も慌てて無線に口を近づける。

「えっと……観察班からです! もう逃げ道、ないと思います!」


無線の向こうで、アキトの低い声が即座に返ってきた。

『了解。いい仕事だ、朱音』


少し照れたように朱音は無線を胸に抱きしめる。


その様子を少し離れた場所で見ていた玲は、腕を組んだまま静かに頷いた。

「……これで決まったな。藤堂の報道が火をつけ、こちらの証拠が蓋をする」


玲は視線をモニターから仲間たちへと巡らせ、低く、しかし確かな声で言う。

「主任も、協力者も、もう動けない。次で終わらせる」


事務所の空気が、再び引き締まった。

静かに、しかし確実に——包囲網は完成していた。


【深夜1時12分/玲探偵事務所・解析室】


事務所内は張り詰めた沈黙に包まれていた。

蛍光灯の白い光が、テーブルに広がる解析資料、回収された試薬容器、監視映像のプリントアウトを無機質に照らしている。


モニターの中央には、郊外の駐車場で交わる二つの影――

研究棟主任と、その協力者の姿が静止画として映し出されていた。


玲は腕を組んだまま、画面から視線を逸らさない。

「……やはりラベルの使い回しだ。藤堂が報道で触れた手口と一致する」


御子柴が解析データを切り替える。

「中身は別の試薬。成分のロット番号も一致しない。

表向きは“管理ミス”、実際は意図的なすり替えだ」


詩乃は静かに息を整え、試薬容器に視線を落とす。

「主任は、気づかれないと思っていた。

でも――朱音のスケッチで、動線が全部繋がった」


朱音はモニターの前で、少し背伸びをしながら小さく頷く。

「えっとね……この人、同じ時間に同じ場所を通ってたの。

だから、“いつも通り”って思わせたんだと思う」


天音が優しく微笑み、補足する。

「無意識に作られた癖。それが今回の決定打ね」


玲は一度だけ全員を見渡し、低く、しかしはっきりと告げた。

「これで流れは止められる。

潜入班は証拠確保を完了、影班は動線封鎖、解析班は裏付けも十分だ」


一拍置いて、玲は続ける。

「――次は表に出す段階だ。

藤堂の報道とこちらの証拠を合わせれば、企業は逃げられない」


モニターに映る主任の影が、静止したまま揺らいで見えた。

その沈黙は、崩れる前の最後の均衡だった。


【深夜/玲探偵事務所・作戦モニタールーム】


机の上に整然と並べられた試薬容器の間を、モニターの青白い光が横切っていた。

画面の中では、研究棟裏口の仮設照明の下、主任と黒スーツの協力者が壁に押さえつけられ、両腕を拘束されている。


成瀬由宇の無線越しの声が、低く静かに響いた。

「影班より報告。対象二名、拘束完了。抵抗は最小限だ」


続いて桐野詩乃が淡々と状況を補足する。

「試薬の搬出ルートも完全に封鎖済み。証拠物はすべてこちらで確保しました」


安斎柾貴が背後を警戒しながら短く付け加える。

「周辺に第三者なし。記録汚染の痕跡も、これ以上は残らない」


モニターを見つめていた玲は、腕を組んだまま、わずかに息を吐いた。

「……よし。これで企業側の不正は動かぬ証拠つきだ」


アキトが肩の力を抜き、静かに言う。

「朱音のスケッチと天音の解析がなければ、ここまでは辿り着けませんでしたね」


少し離れた場所で、朱音はスケッチブックを胸に抱え、小さく頷いた。

「……うん。ちゃんと、見ててよかった」


天音はモニターのログを保存しながら、落ち着いた声で締めくくる。

「これで報道と内部調査、両方が動ける。逃げ道はもうないわ」


玲はモニターの電源を落とし、全員に視線を向けた。

「全班、任務完了。ここから先は、真実を公にする段階だ」


事務所に流れていた緊張が、ようやく静かにほどけていった。


【同日・深夜/玲探偵事務所】


長机の上には、回収された試薬容器が種類ごとに整然と並べられていた。

蛍光灯の白い光がガラス容器を反射し、無機質な影を床に落とす。


正面の大型モニターには、成分解析の進捗バーと数値データが映し出され、右端には主任と協力者が影班によって拘束される瞬間の映像が静止画で表示されていた。


キーボードを叩く天音の指が、わずかに速度を上げる。

眉間にしわを寄せ、画面を凝視したまま低く呟いた。


「……やっぱり。ラベルと中身が一致していない。表記上は治験用安定試薬、でも中身は別系統の反応促進剤」


朱音が背伸びするようにモニターを覗き込み、小学生らしい素直な声で言う。

「えっとね……これ、前に見た色と違うよ。ほんとは、もっと透明だったはずだもん」


玲は腕を組み、静かに頷いた。

「ラベルの使い回しだな。藤堂の報道と一致する」


その名を出された瞬間、事務所の端に立っていた男――藤堂が一歩前に出る。

落ち着いたスーツ姿で、険しいが誠実な表情だった。


「ええ。こちらでも裏は取れています」

藤堂は手元のタブレットを操作し、解析結果と過去の流通記録を画面に投影する。

「主任は“正規品の管理ミス”として処理していた。しかし実際は、ラベルだけを再利用して中身を差し替え、横流しと実験に使っていた可能性が高い」


アキトが低く息を吐く。

「内部犯行……しかも、かなり計画的ですね」


詩乃は手袋を外しながら、冷静に言った。

「容器の扱いが雑じゃない。知識のある人間の手口です」


藤堂ははっきりと頷く。

「だからこそ、これは報道すべきだ。企業側の隠蔽も含めて、世に出す価値がある」

一瞬、視線を玲に向ける。

「もちろん、君たちのタイミングに合わせる。私は味方だ」


玲はその言葉を受け止めるように、静かに答えた。

「助かる。真実を外に出すには、君の立場と信用が必要だ」


モニターの解析バーが、最後まで到達する。

天音が小さく息を吸い、確信を込めて告げた。


「成分特定、完了。これで不正は否定できない」


事務所に張り詰めていた空気が、わずかに緩む。

だが同時に、次の局面が始まることを、全員が理解していた。


玲は皆を見渡し、低く、しかし確かな声で言った。

「ここからが本番だ。――黒幕を、完全に表へ引きずり出す」


【同日 深夜1時12分/玲探偵事務所・作戦ルーム】


無線越しに、わずかなノイズ混じりの沈黙が走った。

それは一秒にも満たない、だが全員が「異変」を直感するには十分な間だった。


玲は即座に顔を上げ、作戦ルームに集まる全員を見渡した。

長机の上には回収された試薬容器が整然と並び、壁面モニターには主任と協力者が影班によって拘束される映像が静止している。

蛍光灯の白い光が、誰一人として気を緩めていない空気を容赦なく照らしていた。


「――全員、落ち着いて聞け」


玲の声は低く、だが不思議と室内の緊張を制御する力を持っていた。


「潜入班、現状維持。詩乃、アキト、拘束対象の周囲を再確認。逃走・証拠破棄の兆候があれば即報告」

「影班、引き続き確保を優先。安斎、記録汚染の可能性を洗え。成瀬と桐野は外部接触を警戒」


無線の向こうで短い了解の返答が重なる。


玲は次に、解析班の方へ視線を向けた。

天音の指がキーボードの上で止まり、朱音も息を潜めてこちらを見ている。


「解析班、藤堂の報道資料と照合を続行。

 ――藤堂は味方だ。ラベル使い回しと中身のすり替え、その手口を“事実だけ”で固めろ。感情は要らない」


その名を聞き、室内の空気がわずかに変わった。

藤堂が敵ではない――その確認が、全員の中で一つの歯車を噛み合わせる。


玲は最後に、朱音の方へ歩み寄り、声のトーンをほんの少しだけ落とした。


「朱音、よくやった。

 でもここからは“見る”より“待つ”時間だ。天音と一緒に、画面から目を離さず、変だと思ったらすぐ教えて」


朱音は一瞬だけ背筋を伸ばし、小学生らしい真剣さで頷いた。


「うん。ちゃんと見る。ぜったい見逃さない」


玲はその様子を確認すると、再び全体に向き直る。


「――いいか。これはもう偶然でも内部トラブルでもない。

 だが、焦る必要もない。こちらは証拠も人も、すでに押さえている」


作戦ルームに、静かな決意が満ちていった。

無線の向こう、モニターの中、そして机の上の試薬容器――

すべてが、真実へ向かう同じ一点を指していた。


【深夜 23:42/バイオテクノロジー企業・研究棟B棟 裏搬入口付近】


無線に、低く鋭い声が走った。


「……詩乃、アキト、警戒しろ。白ワゴンから複数の気配――主任側の増援だ。ひとり、妙に動きが重い。黒幕の差し金かもしれん」


成瀬の声だった。短く、しかし確信を帯びた報告。


詩乃は即座に足を止め、白衣の裾を押さえながら周囲に視線を走らせた。非常灯の淡い光が、コンクリートの床に歪んだ影を落とす。


「……了解。人数と距離は?」


無線越しに、わずかなノイズの後、成瀬が答える。


「三人。主任とは別動。二人は警戒役、残り一人が問題だ。動きが鈍いが、無駄がない」


アキトは静かに息を整え、壁際に身を寄せた。手には作業員用の工具ケース。変装は完璧だが、油断は一切できない。


「重い動きで無駄がない……ベテランですね」

低く呟くと、詩乃が小さく頷いた。


「ええ。現場慣れしてる。企業の人間じゃない可能性が高いわ」


【同時刻/玲探偵事務所】


事務所のモニターに、裏搬入口付近の監視映像が拡大表示される。

玲は腕を組み、映像の中で一瞬だけ映った“重い動きの男”に目を細めた。


「……来たか」


背後で、天音が静かに言う。

「歩幅と重心移動、明らかに一般人じゃない。戦闘経験あり」


朱音はスケッチブックを抱え、画面をじっと見つめながら小さく呟いた。

「……この人、さっきの人たちと“影の向き”が違う」


玲はその一言に、わずかに口角を上げた。

「いい観察だ、朱音。無意識に警戒角度を取っている。確定だな」


無線を取り、玲は声のトーンを一段落として指示を出す。


「詩乃、アキト。増援の三人は影班が外側を押さえる。君たちは主任と協力者の確保を最優先。無理に交戦するな」


【23:44/研究棟B棟 裏搬入口】


詩乃は短く返答する。

「了解。接触は避ける。アキト、三十秒後に移動」


アキトは工具ケースを持ち直し、作業員のように肩を落として歩き出す。

「了解です。……詩乃、後ろは任せます」


詩乃は静かに微笑み、白衣のポケットに手を入れた。

「ええ。影から出てくるなら、影のまま眠ってもらうわ」


遠くで、白ワゴンのドアが静かに閉まる音がした。

夜の研究棟に、新たな緊張が重く沈み込んでいく。


だが同時に――包囲網は、確実に完成へと近づいていた。


【深夜1時12分/玲探偵事務所・エントランス】


扉が勢いよく開き、冷えた夜気が事務所内へ流れ込んだ。

バッグを抱えた詩乃が一歩踏み込み、荒れた呼吸を整えながら声を張る。


「玲! 試薬、確保完了!」


その声に、事務所内の全員が一斉に顔を上げた。

モニター前に立っていた玲は即座に状況を把握し、鋭い視線を二人へ向ける。


「よくやった。損傷は?」


アキトが肩で息をしながらも、短く首を振る。

「ありません。追跡も振り切りました。主任側の増援は影班が足止めしています」


玲は小さく頷き、すぐに指示を飛ばした。


「詩乃、試薬は第三解析テーブルへ。安斎、成瀬、周囲警戒を継続。

 奈々、外部との通信ログを全保存。今からが本番だ」


【同時刻/事務所・解析スペース】


白衣姿の天音が端末を操作し、朱音は椅子に正座したままモニターを見つめている。

詩乃が差し出した試薬容器を見て、朱音が思わず声を上げた。


「これ……ラベル、やっぱりおかしいよ。前に描いたのと、微妙に違う」


天音が静かに頷く。

「中身とラベルの不一致、確定ね。藤堂さんの報道とも一致する」


【深夜1時15分/事務所・中央】


玲は全員を見渡し、低く、しかしはっきりと告げた。


「これで流れは完全にこちらだ。

 企業側の不正、主任と協力者、そして黒幕の動線――すべて繋がる」


一瞬の沈黙のあと、玲の声がさらに引き締まる。


「全員、よくやった。だが油断するな。

 この事件は、まだ“終わったふり”をしただけだ」


事務所の時計が、静かに秒を刻む。

その音が、次の局面の始まりを告げているかのようだった。


街灯の白い光が濡れたアスファルトを照らし、事務所前の空気は張りつめていた。

成瀬の報告を受けた直後、アキトはすでに動いていた。


彼は腰のバッグから一枚の薄いコートを取り出し、素早く羽織る。

色はくすんだグレー、肩口には企業ロゴに似せた簡易ワッペン。

首元には無線用のイヤーピース、手には黒い書類ケース――

**「運び屋」**として、ここ数日この界隈を出入りしている人間の装いだった。


「……俺が行く」


低く短く告げると、アキトは街灯の影を縫うように歩き出す。

背筋はわずかに丸め、視線は周囲ではなく“目的地だけ”を見る角度。

警戒心の強い人間ほど、周囲を見ない――それを逆手に取った動きだった。


事務所正面の路地から、黒幕の使いが姿を現す。

黒いニット帽、地味な作業着、歩幅は不自然に一定。

確かに、成瀬の言う通り“動きが重い”。


アキトはその男と、街灯の境界線で自然に交差した。


「……遅かったな」


男が低く声をかける。

アキトは一瞬も間を空けず、面倒そうに息を吐いた。


「裏が揉めてる。主任の指示だ。

 “中身は触るな、ラベルだけ確認して戻れ”ってな」


書類ケースを軽く持ち上げ、いかにも中身に興味がないという態度を作る。

男の視線がケースに落ち、次にアキトの顔を探る――が、


アキトは視線を合わせない。

“命令を運ぶだけの下っ端”の目だ。


数秒。

緊張が、街灯の下で凍りつく。


やがて男は小さく舌打ちし、視線を逸らした。


「……チッ。こっちは別ルートを当たる。

 お前は戻れ。余計なことはするな」


「了解」


それだけ答え、アキトは踵を返す。

歩調は変えない。振り返らない。


数歩進んだところで、無線が微かに震えた。


『……上手いな、アキト。完全に信じたぞ』


成瀬の声に、アキトは口元だけで笑う。


『正面の脅威、排除完了。黒幕の使いは離脱した』


事務所の玄関灯が、静かに点いた。

詩乃が内側から扉を開け、アキトを迎え入れる。


「……バレなかった?」


「ああ。

 “ただの運び屋”で通した」


扉が閉まり、外の夜気が遮断される。

その瞬間、張りつめていた空気が、ほんのわずか緩んだ。


玲の低い声が、事務所に響く。


「よくやった。

 これで黒幕は一歩遅れた――次はこちらの番だ」


街灯の下には、もう誰もいない。

だが事件は、確実に核心へと近づいていた。


【同時刻/事務所裏口・サービス通路】


錆びた非常灯が低く唸り、赤みを帯びた光がコンクリートの床を舐めるように照らしていた。

湿った夜気と、かすかな薬品の匂いが混じる裏口通路で、アキトは静かに呼吸を整えていた。


白衣の上に羽織った作業用ジャンパー。

首元には社員証――もちろん偽造だが、質感も汚れ具合も本物と見分けがつかない。

手には、どこにでもある灰色のコンテナ。中身は空だ。


隣で、服部一族の紫苑が壁際に溶け込むように立っている。

無駄な動きは一切ない。呼吸音すら感じさせない佇まいだった。


紫苑が、無線機を軽く叩く。


「――玲殿、こちら裏口。準備は整っております」


一拍置いて、無線から玲の低く落ち着いた声が返る。


『了解。正面は成瀬が引きつけている。

 アキト、君は“黒幕の使い”として入れ。目的は接触と確認、深追いはするな』


「了解」


アキトは短く答え、わざと肩をすくめるような仕草を作った。

どこか気だるげで、仕事に慣れ切った“使い”の空気を纏う。


紫苑が小さく一歩引き、道を譲る。


「……ご武運を」


アキトは視線だけで応え、足音を殺しながら通路の奥へ進んだ。


【同時刻/事務所正面・街灯下】


街灯の白い光の中、黒幕の使いと思しき男が姿を現していた。

黒いコートに深く被った帽子。歩幅は一定だが、どこか重心が不自然に沈んでいる。


――“動きが重い”

成瀬の言葉が、アキトの脳裏をよぎる。


アキトはあえて無線を切り、タイミングを測った。

そして、正面からではなく、半分影になった搬入口側から、自然に合流する。


「……遅かったな」


低く、感情を削ぎ落とした声。

相手が振り向く。その一瞬、視線が交差した。


――疑念。だが、確信には至らない。


アキトは相手より半歩内側に立ち、コンテナを軽く持ち上げて見せる。


「上からだ。

 “中身は見せるな、時間を食うな”ってな」


男は一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに視線を逸らした。


「……そうか」


それだけだ。

問いも、確認もない。


――通った。


アキトは内心で息を吐き、歩調を合わせる。

あくまで“運ぶ側”。決して主導権を取らない距離感を保つ。


【同時刻/事務所内・管制スペース】


モニター越しにその様子を見ていた玲が、小さく息を吐いた。


「……いい。完璧だ」


奈々が即座に補足する。


「追跡マーカー、作動確認。

 今の接触で、相手の動線は完全に可視化できました」


玲は静かに頷く。


「このまま泳がせる。

 黒幕に辿り着くまで――な」


画面の中で、アキトは何事もなかったかのように、闇に溶け込んでいった。


玄関ホールに響いた足音に合わせ、アキトはわざと呼吸を荒らし、足取りを乱した。


「ちっ……まずい、挟まれた!」


黒幕の使いは一瞬だけ振り返り、同じく逃げ惑う“仲間”に見えるアキトの姿を視界に捉える。

疑念は浮かばなかった。焦燥と混乱の中では、同じ方向に逃げる者は味方に見える。


「こっちだ、裏の通路がまだ――」


黒幕の使いがそう叫び、奥へ駆け出す。

アキトは半歩遅れて続き、わざと肩を壁にぶつけてよろめいた。


その瞬間。


通路の照明が一斉に落ち、非常灯だけが赤く点った。


「なっ――!」


次の刹那、背後から低く鋭い声が飛ぶ。


「動くな」


成瀬由宇だった。

影のように距離を詰め、逃げ道を完全に塞ぐ位置に立っている。

同時に、反対側の通路から詩乃が静かに現れ、冷たい視線を向けた。


黒幕の使いは反射的に後退し――

その背後に、ぴたりとアキトが立っていた。


先ほどまでの焦りは消え、目だけが静かに光っている。


「……終わりだ」


短く告げると同時に、アキトは相手の手首を正確に取り、体勢を崩す。

逃走用に仕込まれていた通信端末が床に落ち、乾いた音を立てた。


「な、何者だ――!」


問いは最後まで続かなかった。

成瀬が無言で懐に入り、詩乃が背後から関節を極める。


三人の動きは一切の無駄がなく、数秒で制圧は完了した。


黒幕の使いは床に膝をつき、荒い息を吐くだけになった。


アキトは一歩引き、静かに息を整える。


「玲、こちら裏通路。対象確保。変装、問題なし」


無線越しに、玲の落ち着いた声が返ってくる。


『確認した。よくやった。全員、そのまま事務所に戻れ』


非常灯の赤い光の中、詩乃が一瞬だけアキトを見る。


「……見事な“逃げ役”だったわ」


アキトは小さく肩をすくめた。


「疑われないのが一番、ですから」


影が再び静かに動き出す。

事件は、確実に終局へと近づいていた。


【深夜1時12分/玲探偵事務所・作戦モニタールーム】


モニターの光が、室内の緊張を青白く浮かび上がらせていた。

拘束された男は床に座らされ、両手を後ろに回されたまま俯いている。

その横には、押収された試薬容器、偽造ラベル、通信端末が整然と並んでいた。


玲は腕を組んだまま、一歩だけ前に出る。


「主任、運び役、偽装報道のルート……ここまでは想定通りだ。だが――」


視線がモニターの隅、未解析の通信ログへと移る。


「この指示系統。誰かが“現場より一段上”から糸を引いている」


【同時刻/事務所内・解析デスク】


天音がキーボードを止め、静かに告げる。


「通信の最上位ノード、まだ生きています。主任ですら末端扱いですね」

朱音はスケッチブックを抱えたまま、不安そうに首を傾げた。


「じゃあ……まだ“ほんとうのわるい人”が、いるってこと?」


玲は一瞬だけ表情を和らげ、朱音の方を見る。


「そうだ。でもな、朱音。君のおかげで、そこまで辿り着けた」


【同時刻/事務所前・路地】


アキトは壁にもたれ、変装用の上着を脱ぎながら小さく息を吐いた。

成瀬が無線を切り、短く言う。


「黒幕の使いは完全に孤立した。だが、動きが早すぎる」

詩乃も頷く。


「……次は、証拠を消しに来るか、口封じに来るか」


【深夜二十三時四十分/玲探偵事務所】


外ではパトカーの赤色灯が、雨に濡れたアスファルトを淡く染めながら、ゆっくりと遠ざかっていった。

その光が完全に角を曲がって消えるまで、事務所の誰も言葉を発しなかった。


机の上には、封印テープが施された試薬ケースと、回収された入退室データのファイルが静かに並んでいる。

長時間張り詰めていた空気が、ようやく緩み始めていた。


玲は腕を組んだまま、深く息を吐く。


「……これで一連の包囲作戦は終了だ。主任も、黒幕の使いも、完全に表に引きずり出した」


アキトは壁にもたれながら、ゆっくりと頷いた。


「でも……一つ、はっきりさせておかないといけませんね」


玲は視線を上げる。


「藤堂の件か」


その名が出た瞬間、天音がタブレットから顔を上げた。


「解析結果、最終確認しました。

藤堂さんは“ラベルの流用”に気づいていましたが、内部告発のために証拠を水面下で集めていた側です。

すり替え自体には関与していません」


朱音も小さく手を挙げる。


「うん……藤堂さん、わざと同じラベルを使わせて、あとからバレるようにしてたみたい。

スケッチの動線、合わなかったもん」


詩乃は試薬ケースに視線を落としたまま、静かに言った。


「彼は“利用された味方”ね。

危ない橋を渡ってたけど、立場的に表で動けなかった」


一拍置いて、玲が結論を口にする。


「藤堂は黒幕じゃない。

むしろ、内部から崩すために動いていた“報道のスペシャリスト”だ」


その言葉に、事務所の空気がはっきりと変わった。

誤解が解け、線が一本、正しく引き直された感覚。


玲は机に手を置き、全員を見渡す。


「今回の事件はこれで一区切りだ。

だが、藤堂の集めていた情報は次につながる。

本当の闇は、まだ奥にある」


朱音はスケッチブックを胸に抱き、力強く頷いた。


「次も、ちゃんと見つけるよ。隠れてても、ぜったい」


静かな決意が、事務所に残った。

長きにわたる夜は終わったが、彼らの物語は、確実に次へ進んでいた。


【エンディング:事務所/夜】


玲はデスクに腰を下ろし、手元のモニターで今回の一連の調査報告を確認していた。

部屋の隅には、潜入班の詩乃とアキト、観察班の朱音と天音、影班の成瀬たちが静かに並んでいる。

机の上には回収された試薬ケースや解析資料、拘束映像のプリントアウトが整然と置かれていた。


玲は深く息を吐き、ゆっくりと顔を上げる。

「黒幕は警察に引き渡され、証拠も安全に保護された。これで今回の事件は一段落だ。全員、お疲れさまでした」


詩乃は手元の手袋を外しながら、安堵の表情を浮かべる。

「長かった……でも、任務は無事に完了しましたね」

アキトも微かに笑みを浮かべ、肩越しに朱音たちを見た。

「無事で何よりだ。これ以上、誰も傷つけさせたくない」


朱音はスケッチブックを膝に抱え、まだ興奮気味に小さな声で言う。

「次も…頑張ろうね、みんな!」

天音は静かに頷き、朱音の肩を軽く叩いた。

「そうね。でも今はまず、全員無事であることを喜びましょう」


窓の外では、夜空に星が瞬き、街灯の光が静かに夜を照らしている。

影班の成瀬は壁際に立ちながら、静かに無線機を握る。

「任務完了。次に備えて待機する」


玲はデスクに肘をつき、手帳を閉じて静かに呟いた。

「事件は終わった。しかし、次の危険は必ず訪れる……だが、私たちには仲間がいる。信頼できる仲間が」


部屋には一瞬の沈黙が訪れた後、全員の呼吸がゆっくりと落ち着きを取り戻す。

長きにわたる緊張が解け、事務所にはようやく平穏が戻った。


玲は最後に手元のモニターを消し、静かに立ち上がった。

「さて、次に備えるとするか」

仲間たちもそれぞれの席から立ち上がり、未来に向かって歩み出す。

夜の事務所に、希望と決意が静かに漂ったまま物語は幕を閉じる。


【玲の後日談:事務所/夜】


玲は窓際に立ち、夜景の光をぼんやりと見つめていた。

高層ビルの灯りが静かに瞬き、街の喧騒は遠くに感じられる。手元のデスクには、今回の作戦で回収した証拠ファイルとメモが整然と置かれていた。


「……落ち着いたな」

玲は低くつぶやき、肩越しに書類に目を落とす。


その時、ふらりとアキトが事務所に現れた。

「お疲れ、玲。終わったな、あの騒動も」

アキトは軽く肩をすくめながら、デスクの前に立つ。


玲は軽く頷き、静かに応える。

「あぁ、無事に終わった。主任も黒幕も警察に引き渡した。皆が無事で何よりだ」


アキトは窓際に寄り、夜景を見上げながら言った。

「でも、あの現場……裏で何が起きていたか、思い出すとぞっとするな」

玲は背筋を伸ばし、冷静に答える。

「だからこそ、情報と証拠の管理を徹底する必要がある。誰も無駄に巻き込まれないように」


しばしの沈黙の後、アキトが微かに笑った。

「玲はやっぱり、頼りになるな。俺も安心して動ける」

玲は軽く肩をすくめ、柔らかく言葉を返す。

「仲間がいるからこそ、無理せず行動できる。君も、よく頑張った」


事務所には二人だけの静かな空気が流れ、夜景の灯りがゆっくりと揺れている。

玲は再びデスクに目を落とし、証拠ファイルを指先でなぞった。

「次の事件が来ても、私たちはきっと乗り越えられる……そう信じている」


アキトは窓の外を見つめ、深く息を吐いた。

「……ああ。これからも、一緒に戦おう」


玲は静かに頷き、二人の影が夜の事務所に長く伸びたまま、物語は柔らかく幕を閉じた。


【詩乃の後日談:自室/夜】


詩乃は自室のデスクに向かい、解析機材の前で深く息を吐いた。

部屋は静まり返り、窓から入る夜風がカーテンをそっと揺らす。街灯の光が、机の上の解析画面に微かに反射している。


その静寂を破るように、ふらりとアキトが部屋に現れた。

「やあ、詩乃。まだ仕事してたのか?」

アキトは軽く笑いながら、机の端に肘をつく。


詩乃は肩越しに画面を見上げ、少し疲れた表情を浮かべる。

「ええ、データの整理がまだ終わっていなくて……でも、ようやく一段落です」

手元の解析機材に目を落とし、指先で軽くキーを操作する。


アキトは静かに近づき、窓際の夜景を見ながら言った。

「今回の件、君の冷静な判断と動きがなければ、絶対に成功しなかった。俺も助かったよ」


詩乃はわずかに肩をすくめ、低く微笑む。

「そう言ってもらえると……少し安心します。でも、あの研究棟で何が起きていたか、考えるとまだ少し背筋が寒いですね」


アキトは頷き、窓の外を見つめたまま静かに答える。

「確かに。でも、詩乃がいたから、俺たちは安全に任務を完了できた。君の冷静さは、やっぱり頼りになる」


詩乃はモニターに映る解析データを一度見つめ直し、深呼吸してから口を開く。

「これからも、こうして仲間と一緒に冷静に状況を把握して動く……それが私のやり方です」


アキトは微かに笑み、肩越しに詩乃を見やる。

「なら、これからも頼むよ。君の冷静な判断、俺は信じてるから」


部屋には再び静寂が戻り、夜風がカーテンを揺らす。

詩乃は解析機材に目を落としながら、ふっと安心したように肩の力を抜いた。

「……はい、私も信じます。仲間を、そして自分を」


窓の外の街灯がゆっくり瞬き、詩乃とアキトの影が机の上に長く伸びたまま、静かな夜が更けていった。


【成瀬の後日談:街角/夜】


闇に溶け込むように立つ成瀬は、街灯の光に目を細めた。

静かな夜風が彼の黒いコートを揺らし、耳には作戦中の無線の声が微かに蘇る。


その背後から、ふらりとアキトが現れた。

「成瀬、こんな時間に何してるんだ?」

アキトは無造作に両手をポケットに入れ、冷たい夜気に体をさらす。


成瀬は振り向かず、静かに答える。

「街の巡回だ。任務後も油断はできない。俺の習慣さ」

声は低く、しかし落ち着いていた。


アキトは少し笑みを浮かべ、街灯の下に立つ成瀬を見やった。

「やっぱり、お前は影の中にいる方が似合うな」


成瀬はようやく顔をアキトの方に向け、僅かに目を細める。

「そうかもしれん。だが、俺は仲間を守るために動く。それが俺のやり方だ」


アキトは頷き、軽く拳を握る。

「その冷静さ、いつも助かってるよ。俺も信頼してる」


成瀬は再び街灯の光を見上げ、深呼吸した。

「信頼は簡単に得られるものじゃない。だが、俺たちは互いを信じ合った。だからこそ、任務は成功した」


アキトは少し目を細め、静かに言った。

「これからも、影の中で頼むよ」


成瀬は微かに笑みを浮かべ、夜風にコートの裾を揺らしながら答えた。

「もちろんだ。俺の仕事は、まだ終わっていない」


二人の影が街灯に長く伸び、闇に溶け込むように静かな夜が更けていった。


【アキトの後日談:自宅ガレージ/夜】


ガレージの薄明かりの下、アキトは装備を一つ一つ丁寧に点検していた。

手袋をはめ直し、無線機のバッテリー残量を確認する。

戦略図を広げ、潜入ルートを思い返す。


「……あの時は、緊張しっぱなしだったな」

独り言のように呟き、拳を軽く握りしめる。


背後で足音が微かに響く。

「アキト……まだこんなことしてるの?」

ルミナの声。部屋の入り口に立ち、柔らかい光が彼女の輪郭を浮かび上がらせる。


アキトは肩越しに振り返り、わずかに笑んだ。

「いや、確認しておきたくてな。道具も状況も、全部手元に置いておかないと落ち着かないんだ」


ルミナは歩み寄り、手を肩にかける。

「もう大丈夫だよ。あなたは十分に戦ったんだから、少しは休まないと」


アキトは深く息を吐き、装備をそっと机に置いた。

「……そうだな。だが、俺の役目は終わったわけじゃない。次に備えておく必要がある」


ルミナは微笑み、そっと彼の手を握った。

「でも今は、少しだけ肩の力を抜いて」


アキトは頷き、戦略図にもう一度目をやる。

「よし……次の任務の準備も怠らない。だが、今夜は少しだけ、落ち着いてみよう」


ガレージの薄明かりに、二人の影がゆっくりと溶け込む。

外の夜風が静かに吹き抜け、深い静寂が訪れた。


【朱音の後日談:自宅/夕方】


朱音は机の前に座り、スケッチブックを開いた。

鉛筆の先で紙面を軽くこすりながら、事件の現場や潜入班、影班の仲間たちの姿を描く。


「……この角度はこうだったかな」

小さく呟き、細かい線を丁寧に重ねていく。


ふと、背後で軽い足音が響く。

「お、朱音……まだ描いてたのか」

アキトの声。廊下からゆっくり現れる。


朱音は驚きつつも振り返り、目を輝かせた。

「アキトお兄さん!見て見て、潜入班のみんな、影班のみんな、描いたんだよ!」


アキトは肩越しにスケッチブックを覗き込み、微笑む。

「おお、随分細かく描けてるな。これは…ちゃんと証拠になるくらい正確だ」


朱音は得意げに胸を張り、鉛筆を握り直す。

「次は、あの黒いバンの位置も描くんだ。絶対、忘れないようにしたいから!」


アキトは軽く頷き、そっと朱音の肩に手を置いた。

「うん、頼もしいな。お前の観察力は本当に役に立つ。今日も一緒に確認しようか」


朱音は笑顔を見せ、鉛筆を紙に当てる。

夕陽の光が机の上を淡く照らし、二人の影がゆっくりと重なる。

静かな時間の中で、事件の記憶と絆が静かに胸に刻まれていった。


【天音の後日談:解析室/夜】


解析画面の青白い光が、天音の瞳に静かに反射する。

指先でデータをなぞりながら、彼女は画面上の数値やグラフを静かに追っていく。


「……この異常値の傾向、やっぱり興味深い」

小さく呟き、深く息を吸い込む。手元のキーボードを軽く叩く指先に緊張感が漂う。


その時、背後でドアの開く音。

「……あ、アキトお兄さん?」

ふと振り返ると、廊下からアキトがふらっと現れた。


「やあ、まだ解析中か」

アキトの落ち着いた声に、天音は少し肩の力を抜き微笑む。


「うん、事件のデータを整理してたの。こうして残しておけば、次の作戦に役立つから」

彼女の瞳は解析画面の光を受け、冷静さと熱意が混ざった光を宿していた。


アキトは解析画面を覗き込み、頷く。

「さすがだな。お前の分析力があれば、どんな現場でもチームの大きな助けになる」


天音は軽く微笑み、指先を画面から離す。

「ありがとう。……でも、こうして確認するたびに、また戦場に戻るみたいで少し緊張するね」


アキトは肩越しに画面を見つめ、静かに答えた。

「その緊張感が、お前を強くしているんだ。無理せず、でも油断せず、これからも頼むぞ」


解析室の青白い光の中で、二人は静かに画面を見つめ、事件の記録と経験を胸に刻み込んでいった。


【ユウタの後日談:自室/夜】


部屋の窓辺に腰を下ろすユウタ。

外の夜景が静かに光を揺らし、街の喧騒は遠く、まるで夢のように感じられる。


「……ここまで、戻ってきたんだな」

小さく呟き、彼は掌で額をそっと押さえる。

事件を経て取り戻した記憶の断片が、頭の中で少しずつ、ゆっくりとつながっていく。


カーテンの揺れに気付いた瞬間、背後でドアの開く音。

「……あ、アキトお兄さん?」

振り返ると、廊下からアキトがふらっと現れた。


「夜景がきれいだな。考え事でもしてたのか?」

アキトの声は穏やかで、ユウタの緊張を和らげる。


「うん……いろいろ、思い返してたんだ。あの時のこと、失くした記憶……でも、少しずつ取り戻せてる気がする」

ユウタの瞳には、過去の痛みと現在の希望が混ざった光が宿る。


アキトは窓際に寄り、外の街灯を一緒に見ながら静かに言った。

「無理に全部思い出す必要はない。大事なのは、今の君がここにいて、前に進もうとしていることだ」


ユウタは少し微笑み、深く息をつく。

「うん……ありがとう、アキトお兄さん」


夜風が窓をそっと揺らし、二人は静かに夜景を眺めながら、過去と未来を見つめるのであった。


【コウキの後日談:自室/夜】


白い天井をぼんやりと見つめるコウキ。

長い間封じられていた記憶が、少しずつだが確実に戻ってきている感覚があった。

胸の奥に押し込められていた想いが、静かに波紋のように広がる。


「……俺、少しずつ思い出せてる」

小さく呟き、手で額を押さえる。まだ完全ではないが、確かな手応えがあった。


廊下の方でドアの音がし、ふと背後に気配を感じる。

「……アキトお兄さん?」

振り返ると、アキトがふらっと部屋に現れ、肩の力を抜いたように立っていた。


「調子はどうだ?」

アキトの声は柔らかく、だが確かな安心感を伴っている。


コウキは小さく肩をすくめながら答える。

「少しずつ……でも、まだ怖い。でも前よりはずっと楽になった」


アキトは微かに頷き、窓の外の夜景を二人で眺める。

「怖いのは当然だ。でも、ひとりじゃない。ここから一歩ずつ進もう」


コウキはゆっくりと息を吐き、少しだけ笑みを浮かべた。

「うん、ありがとう、アキトお兄さん」


夜風がカーテンを揺らし、二人は静かに未来を見据えながら、過去の影と向き合うのであった。

【朱音のあとがき】


私は小さなスケッチブックをいつも持っていた。事件の現場で見たこと、感じたこと、潜入班のお兄さんたちや天音お姉ちゃん、ルミナお姉ちゃんのかっこいい姿――全部、鉛筆で描き留めたんだ。


最初はちょっと怖くて、どうしていいか分からなかったけど、みんなと一緒に行動して、少しずつ勇気が出てきた。双眼鏡でこっそり見ていたときも、天音お姉ちゃんが冷静にデータを見ているのを見て、「私もちゃんと役に立てるかも」って思った。


事件が終わってからも、あの夜のことや、みんなで協力して証拠を守ったことは忘れられない。大人たちに助けられたことも、時には自分で判断して動いたことも、全部が大事な思い出だ。


これからも、私はスケッチブックを片手に、少しずつ世界を見て、覚えて、描き続けたい。誰かの役に立てるかどうかはまだ分からないけど、怖がらずに自分の目で確かめること――それが私の小さな勇気なんだと思う。


朱音あかね


【年齢:10歳】

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