89話 黒い車の軌跡
【登場人物紹介】
玲
冷静沈着な私立探偵。卓越した推理力と観察力を持ち、数々の難事件を解決してきた。男。
アキト
玲の相棒であり、現場行動のエキスパート。戦闘能力・潜入技術ともに高く、冷静な判断力でチームを支える。黒いコートと帽子が特徴。
ルミナ
影班の女盗賊。俊敏かつ冷静な行動で味方を守る。家族思いで、過去に結婚・子育てのためこの業界を離れた経歴を持つ。
御子柴理央
記憶分析・データ解析担当のスーパースペシャリスト。冷静な判断力と高度な分析力を持つ。現場では的確な指示でチームを導く。
服部一族
影追いと呼ばれる特殊戦闘集団。迅牙などの精鋭が登場し、アキトたちと協力して黒幕を追い詰める。
黒幕(御堂)
陰謀の中心に位置する謎の人物。シルフィードや黒い車の行動を操り、各地で混乱を引き起こす。
朱音
玲とは直接関係のない少女。スケッチブックに描いた絵が事件の手掛かりとなる重要人物。
影班
成瀬由宇、桐野詩乃、安斎柾貴らによる特殊部隊。隠密行動、痕跡消去、精神制圧などを担当。
その他
夜鷹、神薙などK部門の狙撃・特殊戦闘担当者が登場し、事件解決に関わる。
冒頭
【22:40/東京・玲探偵事務所】
玲の静かな探偵事務所に、突然スマートフォンの振動音が響いた。
暖房の低い駆動音だけが流れていた室内で、その短い振動はやけに大きく感じられる。
机の上に置かれた端末の画面が淡く光り、不意に映し出されたメールの件名が玲の視界に飛び込んだ。
「――黒い車の正体」
「……穏やかじゃないな」
玲は小さく呟き、ペンを置いてからゆっくりと画面をタップする。
焦りはない。だが、この手の匿名連絡が“偶然”だった試しもなかった。
【22:41/同上】
メール本文には、簡潔だが妙に重みのある言葉が並んでいた。
「あなたにだけ知らせる。
あの黒い車は単なる移動手段ではない。
背後には想像以上の組織が動いている。
詳細は朱音が描いたスケッチを参照せよ。
次の動きを見誤るな。」
玲は一度、画面から視線を外した。
そして、机の端に無造作に置かれていた一冊のスケッチブックへと手を伸ばす。
【22:42/同上】
「朱音の……か」
表紙をめくると、夜の街を走る一台の黒い車が現れた。
ヘッドライトの角度、車体の重心、周囲の建物との距離感――
子どもの絵とは思えないほど、異様なまでに正確だった。
「……記憶だけで、ここまで描くか」
玲は低く息を吐き、椅子の背にもたれかかる。
窓の外では、遠くを走る車の音がかすかに重なっていた。
【22:43/同上】
「また、動き出したか……」
独り言のように呟いた声は、静かな事務所に溶けて消える。
玲はスマートフォンとスケッチブックを並べて机に置き、視線を前に据えた。
「さて……真実を掴むための夜は、これからだな」
その声には迷いはなかった。
静まり返った事務所に、次の事件へ向かう決意だけが、確かに残っていた。
【23:41/都心・旧商店街裏路地】
夜の闇に溶け込むように、一台の黒いセダンが静かに狭い路地を走っていた。
ヘッドライトは必要最低限に絞られ、街灯の薄明かりと重なって、車体の輪郭はほとんど背景に紛れ込んでいる。
運転席のアキトは、わずかに顎を引き、前方を睨むようにハンドルを握っていた。
フロントガラス越しに映るのは、無秩序に入り組んだ路地と、静かすぎる夜。
「……この先、監視カメラが増えるな。慎重にいくぞ」
独り言のように低く呟いた、その直後だった。
前方の路地から、白いバンが一台、続いてもう一台、ゆっくりと姿を現す。
進路を塞ぐように、間隔を保ったまま距離を詰めてくる。
アキトの目が細くなる。
「……ちっ。待ち伏せか」
次の瞬間、アクセルが踏み込まれ、エンジンが低く唸った。
黒いセダンは一気に加速し、車体を左右に振りながら、わずかな隙間を縫うように進路を変える。
壁まで数十センチ。
ミラーが触れそうな距離を保ったまま、アキトは一切ブレーキを踏まない。
「落ち着け……相手の癖を読む」
バックミラーには、追尾してくる白いバンのヘッドライト。
その数が、さらに増えているのが分かる。
路地の奥から響くエンジン音が重なり、逃走路は徐々に削られていった。
「……まだだ。捕まるわけにはいかない」
ハンドルを握る手は微かに震えていたが、視線は一切揺れていない。
計算された動きで次の角を見据え、アキトは低く息を吐いた。
「ここで終わらせるつもりはない」
黒いセダンは闇を切り裂くように、さらに深い路地へと消えていった。
【深夜2時15分/湾岸地区・廃倉庫】
薄暗い倉庫の中は、冷たい空気がじっとりと漂っている。
錆びた鉄骨の影が壁に長く伸び、床には古びた木箱や鉄製パレットが無造作に散らばっていた。
アキトは倉庫の入口で足を止め、周囲を一瞥した。
黒いコートの裾が、わずかな風に揺れる。
「……ここに間違いないな」
小さく呟き、耳に意識を集中させる。
遠くで水滴が落ちる音。
金属が軋む、かすかな響き。
アキトは壁沿いに身を寄せ、足音を殺して進んだ。
床の埃に、いくつか新しい足跡が残っている。
「……複数。しかも慌てた様子はない」
懐から小型ライトを取り出し、一瞬だけ照らしてすぐに消す。
その刹那、倉庫の奥に積まれた木箱の影が、不自然に揺れた。
「出てこい。隠れる気がないなら、なおさらだ」
沈黙。
だが次の瞬間、低い笑い声が闇の中に滲んだ。
「さすがだな、アキト。ここまで嗅ぎつけるとは思わなかった」
声の主は姿を見せない。
だが、その位置ははっきりと伝わってくる。
アキトは一歩も動かず、静かに返した。
「黒い車、白いバン、路地での待ち伏せ……
全部、ここに繋がってる。目的は何だ?」
数秒の間。
そして、ゆっくりと拍手の音が響いた。
「目的? 簡単だよ。
“運び屋”の動きを試しただけだ」
その言葉に、アキトの目がわずかに細くなる。
「……試す、だと?」
「そう。君がどこまで気づいているか、ね」
闇の中で、人影が一歩前に出た。
倉庫の天窓から差し込む月明かりが、相手の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。
アキトは、静かに息を吐いた。
「なら――今夜で終わらせる。
俺を“試す”のは、もう最後だ」
冷え切った倉庫の空気が、さらに張り詰める。
ここから先は、逃走でも追跡でもない。
真実へと踏み込む、静かな衝突の始まりだった。
【22:47/玲探偵事務所】
玲はデスクの前で椅子に深く腰掛け、静かな事務所の中で画面に映るスケッチを見つめていた。
朱音が描いた黒い車の絵。
フロントグリルの形状、ホイールの傷、リアガラスの角度――記憶だけを頼りに描かれたとは思えないほど、細部まで正確だった。
「……やはり、ただの勘や想像じゃないな」
玲は低く呟き、指先でタブレットを拡大する。
スケッチの片隅には、朱音自身も無意識に描いたのだろう、小さなメモが残されていた。
『この車、夜になると“音が消える”』
「音が、消える……?」
エンジン音か、走行音か。
それとも、もっと別の――。
そのとき、事務所のドアが静かに開いた。
「まだ起きてたんですね」
振り返ると、アキトがコーヒーの紙カップを手に立っていた。
いつもの軽い調子だが、目だけは真剣だ。
「朱音のスケッチ、見てたところだ」
「……やっぱり、気になります?」
アキトは玲の隣に立ち、画面を覗き込む。
ほんの一瞬、その表情が強張った。
「この型……見覚えがあります。昨日の追跡で、同じ感覚があった」
「感覚?」
「ええ。距離があるのに、存在感だけがやけに近い。まるで――」
アキトは言葉を探すように一拍置き、続けた。
「“見られている側が、観測されている”感じです」
玲はゆっくりと息を吐いた。
「……やはり、背後に何かいるな。シルフィードの件で終わりじゃない」
「ええ。むしろ、入口かもしれません」
事務所の外では、遠くで車の走り去る音がした。
玲は窓の方へ一瞬だけ視線を向け、再びスケッチに目を戻す。
「朱音の絵が鍵になる。次は――黒い車の正体だ」
アキトは小さく頷き、静かに言った。
「なら、今度は僕が追います。逃げる側じゃなく、追う側で」
事務所の灯りはまだ消えない。
新たな夜が、静かに動き始めていた。
【23:48/都心・環状道路沿いの裏道】
アキトはフードの影に顔を沈めたまま、折り畳まれた小さなメモを指先で広げた。
街灯の淡い光が紙面をかすめ、走り書きの文字が浮かび上がる。
―――
黒いセダン
・ナンバーは毎回偽装。共通点は「右テール内部の微細な欠け」
・エンジン音が不自然に静か。電装系を大幅に改造している可能性あり
・出没時間帯:22:30〜翌1:00
・必ず“人目の切れる地点”で減速する
・朱音のスケッチより、後部座席に仕切りあり
―――
その下に、玲の文字で短い追記があった。
「これはただの移動車両じゃない。
人か、情報か、もしくは“消すための何か”を運んでいる。
深入りするな。だが、目は離すな。」
アキトは小さく息を吐き、メモを握りしめた。
「……相変わらず、無茶を言う」
だが、その口調に迷いはなかった。
彼はメモを内ポケットにしまい、再び通りへと視線を戻す。
遠くで、低く抑えられたエンジン音が一瞬だけ響いた。
それは、風の音に紛れるほど微かで――だが、確かに“知っている音”だった。
アキトの目が細くなる。
「来たな……黒い車」
彼はフードの奥で静かに笑い、影の中から一歩、前へ踏み出した。
【23:48/都心・旧商店街裏路地】
黒いセダンは路地の角をゆっくりと曲がり、わずかに速度を落とした。
古いアスファルトに刻まれた無数のひび割れを、タイヤが静かに踏みしめていく。
両脇にはすでに閉店した商店のシャッターが並び、剥げた看板が街灯の淡い光を反射していた。
冷えた夜風が路地を吹き抜け、紙屑を転がしながら、車体の下をすり抜けていく。
エンジン音だけが、この一帯で唯一の生きた気配だった。
低く抑えられた回転数。
まるで周囲に溶け込むかのように、慎重すぎるほど慎重な走り。
セダンのブレーキランプが一瞬だけ赤く灯り、すぐに消える。
それは、誰かが「見られている」ことを理解している証のようにも見えた。
路地の闇は深く、静かだった。
だがその静けさの奥で、確実に何かが動いている――
そんな予感だけが、夜気に紛れて漂っていた。
【23:47/都内・再開発地区外れの裏路地】
アキトは崩れかけたコンクリート塀の影に身を寄せ、背中をぴたりと密着させていた。
街灯は一本先で切れており、この一角だけが不自然な闇に沈んでいる。
黒いセダンは路地の中央で完全に停止していた。
アイドリング音だけが低く唸り、まるで周囲を探る獣の呼吸のように一定のリズムを刻んでいる。
アキトはゆっくりと呼吸を整え、コートの内側に隠したイヤーピースに指先で触れた。
「……ゆっくり……焦るな。足音を立てたら終わりだ」
自分に言い聞かせるような低い囁き。
冷たい夜風が頬を撫でるが、瞬きひとつしない視線は黒い車に固定されたままだ。
セダンの後部座席の窓が、わずかに下がった。
ほんの数センチ。だが、それだけでアキトの神経は一気に張り詰める。
(……やっぱり、ただの移動じゃない)
玲から渡されたメモの一文が脳裏をよぎる。
――「黒い車は“拠点”だ。中で指示が出ている」
次の瞬間、車内で淡い光が瞬いた。
ノート端末か、あるいは特殊な通信機器。反射した光が窓ガラスに一瞬だけ映り込む。
アキトは膝をわずかに曲げ、いつでも動ける姿勢を取った。
(来るか……それとも、まだ待つか)
路地に再び静寂が戻る。
だがそれは、嵐の前のわずかな間に過ぎないことを、アキトは直感で悟っていた。
黒いセダンのブレーキランプが、赤く灯る。
「……動くぞ」
その瞬間、アキトの影もまた、闇の中で静かに動き出した。
【23:48/都心・旧倉庫街 路地裏】
アキトは路地の壁に体をぴったりと寄せ、息を殺した。
コンクリートの冷たさが背中越しに伝わり、鼓動の音だけがやけに大きく感じられる。
――コツ……コツ……
足音が、ゆっくりと、確実に近づいてくる。
乾いた靴底が地面を叩くたび、距離が縮まっているのが分かった。
(ひとりじゃないな……少なくとも二人)
アキトはフードの奥で目を細め、わずかに首を傾けて音の重なりを聞き分ける。
足取りは揃っていない。片方は重く、もう片方はやや軽い。
訓練された人間特有の、無駄のない歩き方だった。
「……来たか」
唇だけを動かし、ほとんど音にならない声で呟く。
ポケットの中で、玲から渡された小型送信機を指先で軽く押さえた。
足音が、路地の角で一瞬止まる。
張りつめた沈黙。
冷たい夜風が吹き抜け、遠くで車のクラクションが短く鳴った。
次の瞬間――
影が、街灯の光を横切った。
アキトは一切動かない。
呼吸すら、数を数えて制御する。
(まだだ……今は、見るだけだ)
足音は再び動き出し、彼のすぐ目の前を通り過ぎていく。
黒いコート、低く抑えた会話、視線は前方のみ。
その背中を、アキトは静かに見送った。
(――黒い車の周りに、やっぱり人がいる。しかも素人じゃない)
足音が完全に遠ざかったのを確認してから、ようやく息を吐く。
肺に溜まっていた冷気が、静かに抜けていった。
アキトは小さく通信機に触れ、低く囁く。
「玲……当たりだ。黒い車、護衛あり。動き、完全に組織的だ」
夜の路地は、何事もなかったかのように静まり返っていた。
だがその静けさの裏で、確実に“次の夜”が動き始めていた。
【深夜1時12分/湾岸地区・高架下通路】
黒いセダンは路地を抜けた瞬間、まるで獲物から逃げ切ることを確信したかのように、一気に加速した。
エンジンの低い唸りが高架下に反響し、重く湿った闇を震わせる。
赤錆びた鉄骨の影が流れ、街灯の明かりが断続的に車体を照らしては消える。
その光の切れ間を縫うように、セダンは速度を上げていった。
アキトは歯を食いしばり、砕けたアスファルトを力強く蹴り出す。
足裏に伝わる衝撃を無視し、ただ前だけを見据えた。
「くそ……速い……!」
吐き出した息が白く夜気に溶ける。
だが、アキトの目は決して諦めの色を帯びていなかった。
車のブレーキランプが一瞬だけ赤く灯る。
その挙動を見逃さず、アキトは即座に判断する。
「……減速ポイントか。次は右だな」
高架の柱と柱の間、影が濃くなる場所を選ぶように走り、視線を低く保つ。
靴底が路面を擦る音さえ、追跡の一部として計算に入れていた。
黒いセダンとの距離は、わずかに、しかし確実に縮まっていく。
夜の街は何事もない顔で眠っているが、その裏側で、静かな追走劇が続いていた。
「逃げ切れると思うなよ……」
低く呟いたその声は、エンジン音にかき消されながらも、確かな執念を宿していた。
【23:41/都心部・高架下へ続く裏路地】
突然、地面に閃光弾が弾けた。
眩い白光が夜を裂き、鼓膜を叩く衝撃音が高架下に反響する。
「――っ!」
黒いセダンは咄嗟にハンドルを切り、タイヤが悲鳴を上げた。
車体が大きく横滑りし、砕けたアスファルトに火花が散る。
「くそっ、逃がさねぇ!」
アキトは叫ぶと同時に地を蹴った。
視界が完全に戻りきらない中でも、彼の足は迷いなく車の進行方向を捉えている。
冷たい空気が肺を刺し、街灯の光が断続的に影を切り取る。
黒いセダンは再び加速し、高架下へと逃げ込んだ。
【23:42/高架下・旧物流道路】
エンジンの低い唸りが頭上のコンクリートに反射し、重く響く。
アキトは車道脇の段差を跳び越え、排水溝すれすれを駆け抜けた。
「……判断が早い。だが――」
一瞬、車のブレーキランプが灯る。
合流路だ。ここで速度を落とさざるを得ない。
アキトは歯を食いしばり、距離を詰める。
靴底が地面を叩く音すら、エンジン音に溶けて消えた。
【23:43/高架下・交差ポイント手前】
黒いセダンが再び急旋回した。
視界の端で、ナンバーの一部が確かに見える。
「……捕まえた」
アキトは息を整え、耳元の小型イヤーピースに低く告げた。
「玲、車両確認。逃走ルート、東へ。次で仕掛ける」
闇の中、追跡はまだ終わらない。
だが、この夜――主導権は、確実にアキトの側へと傾き始めていた。
【深夜 23:48/高架下の旧倉庫街】
フックワイヤーが張り詰め、黒いセダンの後部がぎくりと揺れた。
火花が散り、タイヤが悲鳴を上げる。
闇の中から、軽やかな足音。
ルミナはコンクリートの梁から地面へと滑り降り、フードの影で口元だけを歪めた。
「逃走経路、最短で塞いだ。――アキト、右だよ」
低く、乾いた声。
その瞬間、アキトは迷わず進路を切り替え、崩れたフェンスを跳び越えた。
黒いセダンはワイヤーに引かれて速度を落とし、車体が斜めに傾く。
運転席の男が舌打ちするのが、夜気に混じって聞こえた。
ルミナはリールをさらに巻き上げ、体重を預ける。
細身の身体とは裏腹に、動きは鋭く無駄がない。
「……ここで終わり。観念しなさい」
次の瞬間、セダンは完全に制御を失い、コンクリートブロックに鼻先を突っ込んで停止した。
エンジン音が途切れ、夜が戻る。
アキトが肩で息をしながら近づくと、ルミナはすでに距離を取り、闇の縁に立っていた。
「助かった。借りができたな」
「気にしないで。仕事よ」
それだけ言い残し、ルミナはフードを深くかぶり直す。
「……あたしは家族が待ってるの。後は任せた」
月明かりが一瞬、彼女の横顔を照らし――
次の瞬間には、闇に溶けるように姿を消していた。
【23:41/湾岸倉庫街・第三区画入口】
夜霧が立ち込める倉庫街の入り口に、もう一台の黒いセダンが静かに滑り込んだ。
街灯はまばらで、オレンジ色の光が霧に滲み、車体の輪郭だけをぼんやりと浮かび上がらせている。
低く抑えられたエンジン音が止まり、数秒の沈黙。
やがて運転席のドアがわずかに開き、革靴が濡れたアスファルトに降り立った。
「……やはり、ここに誘導されたか」
男はフードを深くかぶり、倉庫群の奥へと視線を走らせる。
その視線の先では、先行する黒いセダンが無理な軌道で減速し、フックワイヤーに引かれて車体を揺らしていた。
霧の向こう、走り込んでくる足音。
荒い呼吸とともに、アキトの声がかすかに響く。
「二台目……? くそ、挟み撃ちか」
男はポケットから小型端末を取り出し、短く操作する。
すると、倉庫街全体の非常灯が一瞬だけ明滅し、霧の中に不自然な影がいくつも生まれた。
「時間稼ぎは十分だ。あとは――」
その瞬間、倉庫の屋根上で金属が擦れる音がした。
ルミナがワイヤーを張り替えながら低く呟く。
「……遅いわよ。主役が増えるのは嫌いじゃないけど」
二台の黒いセダン、霧に沈む倉庫街、交錯する視線。
この場所が“逃走の終点”になるのか、それとも――新たな局面の始まりか。
夜はまだ、何も答えを返さなかった。
【深夜1時45分/都内某所・特別取調施設】
分厚い防弾ガラスの向こうで、シルフィードはゆったりと椅子に腰を下ろしていた。
天井から落ちる薄暗い照明が、その端正な顔立ちに淡い影を落とし、赤いリップだけが不自然なほど鮮やかに浮かび上がる。
ガラス越しに見える取調室は、必要最低限の机と椅子だけが置かれた無機質な空間だ。空調の低い唸りだけが、沈黙を埋めている。
「ふふ……」
シルフィードは足を組み替え、わざとらしく肩をすくめた。
「こんな狭い檻に閉じ込められても、まだまだ私のショーは終わらないわよ」
その声は甘く、どこか芝居がかった響きを帯びていたが、瞳の奥には一切の動揺がない。
むしろ、次の幕が上がる瞬間を待つ役者のような余裕すら感じさせる。
ガラスのこちら側、壁際に立つ玲は腕を組んだまま、その様子を静かに見つめていた。
「終わりかどうかを決めるのは君じゃない」
低く、抑えた声で玲が告げる。
シルフィードは一瞬だけ視線を上げ、玲と目が合うと、くすりと笑った。
「……そう。じゃあ、次は誰が舞台に立つのかしら?」
その問いに答える者はいない。
ただ、取調室の時計だけが、確実に次の局面へ向かって秒針を刻み続けていた。
【深夜2時15分/都内某所・特別取調室】
シルフィードは薄く笑みを浮かべたまま、背もたれに身を預けた。
防弾ガラス越しに交わる視線は、火花もないのに妙に張り詰めている。
「その真っ直ぐさが、いつか命取りになるかもしれないって……考えたことは?」
囁くような声が、静まり返った室内に落ちる。
アキトは一歩も引かず、低く答えた。
「何度もある。でもな、それでも曲がらないって決めてる」
シルフィードは一瞬だけ目を細め、興味深そうに息を吐く。
「ふふ……やっぱり面白いわ。あなたみたいな人間は」
そのとき、背後のドアが静かに開き、足音もなく玲が入室した。
書類を手に、淡々とした声で告げる。
「私情はそこまでだ、シルフィード。
君の“ショー”は、ここで終演だ」
シルフィードは肩をすくめ、赤い唇を歪める。
「本当に?――幕が下りたと思わせて、次の幕を上げるのが怪盗でしょう?」
玲は一瞬も表情を変えず、静かに返した。
「なら、その幕が上がる前に、こちらが舞台を壊すだけだ」
沈黙。
三人の間に流れる緊張だけが、時を刻むように重く残っていた。
【深夜二時過ぎ/市内・取調室】
シルフィードは、冷たい笑みを唇に浮かべたまま、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「あなたたちが港で止めた車、あれは“クロスライン”の一部よ。」
取調室の空気が、わずかに張り詰める。
防弾ガラス越しの照明が、彼女の瞳の奥に細い光を宿していた。
「物流、送迎、資金移動……表向きは何の変哲もない車列。でもね」
シルフィードは指先で机を軽く叩く。
「その一本一本が、点と点を結ぶ“線”になっている。だからクロスライン。」
アキトは腕を組んだまま、視線を逸らさずに問い返す。
「ただの運び屋ネットワークって顔じゃないな。」
「ええ」
シルフィードは楽しげに目を細めた。
「情報、人、記録――消したいものを、消したい場所へ運ぶ組織。
黒い車は、その象徴にすぎないわ。」
一瞬の沈黙。
遠くで換気装置の低い音だけが響く。
「……つまり」
アキトが低く言う。
「まだ終わってない、ってことか。」
シルフィードは小さく肩をすくめ、囁くように告げた。
「むしろ、始まったばかりよ。
あなたたちが“線”を一本断ち切った瞬間からね。」
その笑みは、敗者のものではなかった。
次の夜を予告する、静かな挑発だった。
【翌日 午後三時過ぎ/市内拘置施設・面会室】
面会室に鋭いブザー音が響き渡った。
重々しい警告の音色が、二人の間に張りつめていた空気をさらに硬くする。
シルフィードは名残惜しそうに唇の端を上げ、背もたれに身を預けたまま囁く。
「時間みたいね……でも覚えておいて、アキト。
“クロスライン”は、あなたが思っているよりずっと深く、この街に根を張っているわ。」
アキトは視線を逸らさず、低く言い返す。
「だからこそ、必ず引きずり出す。
あんたが知ってることも、背後の連中も全部だ。」
一瞬だけ、シルフィードの瞳が愉しげに細められた。
「その顔……嫌いじゃないわ。
次に会う時、あなたはまだその真っ直ぐさを保っていられるかしら?」
ブザーが再び鳴り、分厚いガラスの向こうで警備員が合図を送る。
シルフィードは優雅に立ち上がり、振り返らずに出口へ向かった。
残されたアキトは、ゆっくりと息を吐く。
「……必ず、終わらせる。」
無機質な面会室に、その言葉だけが静かに落ちた。
【深夜1時42分/港湾倉庫地区・地下通路】
潮風が地下へと流れ込み、湿った空気がコンクリートの壁に張り付いている。
天井の配管から落ちる水滴の音が、やけに大きく響いた。
アキトは手にした地図を一度だけ確認し、足を止めた。
ペンで記された赤い印は、まさにこの通路の先を指している。
「……この先だ。シルフィードが言ってた“クロスライン”の中継地点」
声を潜めたその言葉に、ルミナはわずかに口角を上げる。
彼女は壁に背を預けたまま、軽く周囲を見回した。
「ふぅん。確かに匂うわね。人の出入りが多いのに、痕跡を消そうとしてる感じ」
「罠の可能性は?」
「高い。でも……」
ルミナは足元に転がる古いタイヤ痕を指先でなぞる。
「逃げ道も、回収ルートも、全部ここに集約されてる。
“クロスライン”は、ただの輸送網じゃない。情報と人間を同時に流す線よ」
アキトは一瞬、奥の闇へと視線を向けた。
通路の先は、照明が切れて完全な暗黒に沈んでいる。
「なら、踏み込むしかないな」
「相変わらず真っ直ぐね」
ルミナは小さく息を吐き、ワイヤーフックの位置を確かめる。
「いい? 私が先行する。何かあったら、三秒で引き返す」
「了解。無理はするな」
その言葉に、彼女は一瞬だけ振り返った。
「それ、そっくりそのまま返すわ。ヒーロー気取りはほどほどに」
二人は合図もなく、同時に闇へと足を踏み出した。
静まり返った地下通路に、再び緊張が満ちていく。
その奥で、まだ誰にも知られていない“線”が、確かに脈打っていた。
【深夜1時12分/湾岸倉庫地区・地下通路】
ルミナは短く息を吐き、静かに言った。
「……気配が二つ。正面と、左の支柱の裏。」
その声は囁きに近いが、迷いはない。
アキトは足を止め、地図を素早く折り畳いて頷いた。
「了解。正面は俺が引きつける。ルミナ、左を頼む」
地下通路の天井を走る配管から、ぽたりと水滴が落ちる音が響く。
それだけで、張り詰めた空気が一層重くなる。
ルミナは小さく口角を上げた。
「相変わらず無茶言うわね。でも――嫌いじゃない」
次の瞬間、彼女の姿は闇に溶けるように消えた。
足音すら残さず、壁沿いを滑るように移動していく。
アキトは深く息を吸い、足音をあえて響かせながら前へ出た。
ブーツがコンクリートを叩く音が、通路に反響する。
「……来い」
その低い呟きに応えるように、暗闇の奥で金属が擦れる音がした。
同時に、支柱の影がわずかに揺れる。
――次の瞬間。
「今!」
ルミナの声と同時に、影の中から黒い影が跳ねた。
閃光のような動きで相手の腕が絡め取られ、鈍い音とともに地面に叩き伏せられる。
アキトも即座に踏み込み、正面の影に体当たりをかました。
短い格闘の末、二つの影は沈黙する。
地下通路に、再び静寂が戻った。
ルミナは軽く肩を払って言う。
「……クリア。やっぱり、あんたと組むと仕事が早いわ」
アキトは苦笑しながら、通路の奥を見据えた。
「まだ入口だ。クロスラインの本命は、この先だろ」
二人の影は並び、再び闇の奥へと歩き出す。
潮風が、遠くで低く唸るように通路を揺らしていた。
【深夜二時十分/湾岸倉庫地区・地下管制室】
薄暗い管制室の奥、赤く点滅するモニター群の前に、一人の男が静かに座っていた。
無数の監視映像が壁一面に映し出され、港湾道路、倉庫街の路地、高架下の暗がりが断片的に切り取られている。
白髪が混じる黒い長髪は肩口まで流れ落ち、漆黒のコートが椅子の背もたれに影のように広がっていた。
男は肘掛けに指を置いたまま、画面の一つ――疾走する黒いセダンの映像に視線を留める。
「……やはり来たか」
低く掠れた声が、無機質な室内に溶ける。
男の唇に、わずかな笑みが浮かんだ。
モニターの隅では、アキトとルミナの動きが捉えられている。
倉庫街へと踏み込む二つの影を、男はまるで駒を見るように静かに観察していた。
「クロスラインに触れた以上、もう引き返せん」
指先がゆっくりと操作盤に触れ、いくつかのランプが色を変える。
遠くで、重いシャッターが閉じる鈍い振動が響いた。
「さあ……踊れ。
真実に辿り着けるか、それとも闇に沈むか――」
男は背もたれに身を預け、赤く瞬くモニターの光を瞳に映したまま、ただ静かに成り行きを待っていた。
【深夜2時17分/湾岸倉庫地区・地下管制室】
瞬間、室内の照明が一斉に落ち、薄暗い非常灯だけが赤く灯った。
無機質な警告音が断続的に鳴り、壁一面のモニターが次々とブラックアウトしていく。
「くそっ、やられたか!」
男は舌打ちし、椅子から立ち上がった。
赤い非常灯に照らされた横顔には、焦りよりも苛立ちが色濃く浮かんでいる。
コンソールに手を伸ばし、非常用の物理スイッチを叩くように操作するが、反応はない。
通信回線――遮断。
外部カメラ――全滅。
「内部からの侵入……いや、外と連動しているな」
低く呟き、男はゆっくりと周囲を見渡した。
この管制室の存在を知っている者は限られている。
そして、このタイミング。
「アキト……それに、影を渡る女か」
名前を口にした瞬間、赤い非常灯が一度だけ強く瞬いた。
まるで嘲笑うかのように。
男はコートの内側から薄型の通信端末を取り出し、短く命令を打ち込む。
「第二ルートを破棄。クロスラインを沈めろ。証拠は残すな」
送信完了の表示を確認すると、彼は静かに端末を閉じた。
「捕まえたつもりでいるだろうが……」
赤い光の中で、男の口元がわずかに歪む。
「本当の夜は、これからだ」
その直後、地下通路の奥から、かすかな足音が響き始めていた。
【深夜 01:42/港湾地区・地下管制施設】
赤く揺れる非常灯の下、黒い戦闘服の男たちが無言のまま包囲を狭めてくる。
ブーツが床を踏みしめる音が重なり、空気が一気に張り詰めた。
アキトは腰のスティックを完全に展開し、低く身構えたまま視線だけで周囲を測る。
出口は一つ、距離は近い。数で押し切るつもりだ。
「ルミナ、煙幕準備は?」
その問いに、背後の闇から即座に応える声が返った。
「――いつでも。三秒あれば十分よ」
次の瞬間、ルミナの手元から小型カプセルが床を転がり、
乾いた音とともに白い煙が一気に噴き上がった。
「今だ、走るぞ!」
アキトが踏み出すと同時に、視界は完全に遮断される。
男たちの怒号と咳き込む声が煙の向こうで乱れ、統制が崩れた。
「くそ、見えねぇ!囲め!」
だが、その声はもう遅い。
アキトとルミナの影は、煙の隙間を縫うようにして非常通路へ滑り込んでいた。
非常灯だけが赤く点滅する通路で、ルミナが小さく息を吐く。
「……やっぱり、あんたと組むと派手になるわね」
アキトは一瞬だけ口角を上げ、前を見据えたまま答えた。
「まだ序盤だ。
“クロスライン”の中枢は、もっと奥にいる」
赤い光の中、二人の影は再び闇へと溶けていった。
【深夜1時12分/港湾地区・旧管制施設 地下管制室】
煙幕が床を這うように広がり、赤い非常灯の光が視界を断続的に裂いた。
警報はすでに止まり、代わりに響くのはブーツが金属床を踏み鳴らす乾いた音だけだ。
アキトは煙の中で一歩踏み込み、スティックを横一閃に振る。
鈍い衝撃音とともに、右側から詰めてきた男の身体が壁に叩きつけられた。
「一人、沈めた!」
その声に呼応するように、天井近くから軽やかな着地音が落ちてくる。
ルミナだった。
「背後三人、今――」
言い終わる前に、ルミナはワイヤーを射出する。
フックが暗闇を切り裂き、背後の一人の足首に絡みついた。
「うわっ――!」
引き倒された男が床に転がるのと同時に、ルミナは身体を回転させ、もう一人の喉元へ蹴りを叩き込む。
呼吸が詰まる音が短く響き、その影は沈黙した。
赤い非常灯の下、残る一人が銃を構えた瞬間――
「伏せろ!」
アキトの声と同時に、床を転がる。
銃声が一発、天井の配線を撃ち抜き、火花が散った。
その隙を逃さず、アキトは距離を詰め、スティックの先端を男の鳩尾へ突き入れる。
低い呻き声とともに、最後の影が崩れ落ちた。
数秒の沈黙。
煙がゆっくりと薄れ、管制室の輪郭が戻ってくる。
ルミナは肩で息をしながら、アキトの方をちらりと見た。
「……相変わらず無茶するわね」
アキトはスティックを畳み、短く息を吐いた。
「そっちこそ。タイミング、完璧だった」
非常灯の赤い光の奥、まだ点滅を続けるモニター群が不気味に沈黙している。
この先に、“クロスライン”の核心がある――二人とも、それを直感していた。
「行こう、ルミナ」
「ええ。夜は、まだ終わってない」
二つの影は再び動き出し、闇の奥へと溶けていった。
【翌朝 07:18/都内・地下管制室】
アキトは視線を走らせ、ある一つの映像に目を奪われた。
複数並ぶモニターの中央に映し出されているのは、見慣れすぎた風景――朱音が毎朝通る小学校の正門前だった。
登校時間帯を示すタイムスタンプ。
ズーム倍率。
死角の位置。
すべてが、意図的に揃えられている。
「……ふざけるな。こんな所まで、もう手を伸ばしてやがるのか」
奥歯を噛みしめ、アキトは即座に端末を取り出した。
指先が迷いなく朱音の名前を選択する。
発信音が一度、二度。
【同時刻/市内・住宅街】
「……はい?」
少し眠そうで、それでも明るい朱音の声が返ってくる。
その声を聞いた瞬間、アキトの胸の奥に張りつめていたものが、わずかに緩んだ。
「朱音、俺だ。今どこだ」
『え? 今、家の前だよ。もうすぐ学校――』
「今日は行くな」
被せるように、低く、しかし強い声で言う。
「理由は後で話す。今すぐ家に戻れ。誰か知らない人が近くにいたら、絶対に近づくな。いいな」
一瞬の沈黙。
『……アキト? 何かあったの?』
「ある。だから頼む」
朱音は短く息を吸い、そしてはっきりと答えた。
『わかった。戻る。玲さんにも連絡する?』
「俺からする。朱音は、ドアを閉めて、誰が来ても出るな」
『……うん』
通話が切れる。
アキトは端末を下ろし、再びモニターを睨みつけた。
正門前の映像は、何事もない日常を装ったまま、静止している。
「――次の一手を、完全に間違えたな」
低く呟き、彼は玲の番号を呼び出した。
この“黒い車”の影は、もう大人たちだけの問題ではない。
朱音を、絶対に巻き込ませない。
その決意だけが、赤く点滅するモニターの中で、確かに燃えていた。
【深夜1時32分/倉庫地区・地下管制通路】
アキトは壁際に身を寄せ、端末を耳に当てた。非常灯の赤が煙に滲み、通路の奥で金属音が微かに反響している。
親指で回線を叩くと、呼び出し音は二回で途切れた。
「……玲だ。」
低く落ち着いた声。アキトは息を整え、短く要点だけを投げる。
「見られてる。管制室の映像に、朱音の学校が映ってた。クロスラインが動いてる。」
一拍。向こうで紙の擦れる音がして、玲の声がさらに沈む。
「位置は?」
「倉庫地区、旧湾岸側。非常灯が落ちた。追手は六以上、煙幕で時間は稼げる。」
「了解。奈々に回す。朱音の周辺は即時で遮断、影班を回す。」
アキトは視線を走らせ、赤く点滅するモニターを睨んだ。
「……俺はここを抜ける。証拠、持ち帰る。」
「無理はするな。相棒だろ。」
短い言葉に、アキトは口角をわずかに上げた。
「任せろ。」
通話を切ると同時に、遠くで足音が重なる。
アキトは端末をしまい、煙の向こうへ一歩踏み出した。
【深夜1:42/港湾地区・地下管制通路】
『……聞こえるかしら、アキト、ルミナ』
低く、甘さを帯びたその声が、イヤーピース越しに滑り込んできた瞬間、空気が一段冷えた。
ルミナは足を止め、壁際に身を寄せながら小さく舌打ちする。
「……シルフィード?」
アキトは即座に周囲を見渡し、スティックを下げたまま低く応じた。
「拘束中のはずだろ。どこから繋いでる」
『ふふ……拘束? あれは“形式”でしょう』
通信越しでもわかるほど、彼女は余裕を崩さない。
『あなたたちが今いる通路、三つ先の分岐……右を選んだら、朱音の学校に繋がる回線が“完全に”開くわ』
アキトの表情が一瞬で険しくなる。
「……脅しか?」
『忠告よ』
シルフィードの声が、少しだけ低くなった。
『クロスラインは、もう動いている。止めたいなら――急いだ方がいい』
ブツリ、と通信が切れる。
地下通路に残ったのは、非常灯の赤い光と、二人の荒い呼吸だけだった。
ルミナが小さく息を吐き、アキトを見る。
「……どうする?」
アキトは拳を握りしめ、即答した。
「右だ。罠でも関係ない」
彼はインカムに指をかけ、短く告げる。
「玲、聞いてるな。朱音が狙われてる。クロスラインが本格的に動き出した」
赤い非常灯の下、二人は再び走り出す。
守るべきものを、今度こそ失わないために。
【深夜2時17分/湾岸地区・港湾格納施設前】
夜霧は厚く、街灯の光が乳白色に滲んで広がっていた。
アキトとルミナは、港の外れに佇む巨大な格納施設を見上げる。外壁は黒光りする金属パネルで覆われ、冷たい海風を受けて鈍く反射していた。
上空では、数機の監視ドローンが規則正しい軌道を描きながら旋回している。
アキトはコートの内側で通信端末を確認し、低く息を吐いた。
「……警備レベル、想定以上だな。シルフィードの言ってた“クロスライン”の中枢ってのは、伊達じゃない」
ルミナは片膝をつき、床面に残る微かなタイヤ痕を指でなぞる。
「新しい。さっきまで動いてた車両ね。搬入口は……あそこ」
彼女が視線を向けた先、格納施設の側面に設けられた大型シャッターが、わずかに隙間を残している。
その奥から、低く唸る機械音が断続的に漏れていた。
アキトは目を細め、朱音のスケッチを思い出す。
黒い車、歪んだライン、そして必ず描かれていた“港”の文字。
「……間違いない。ここが次の山場だ」
ルミナは静かに立ち上がり、フードを深く被る。
「行きましょ。見張りを一体ずつ落とせば、三十秒で中に入れる」
アキトは短く頷き、闇に身を溶かすように歩き出した。
霧の向こうで、ドローンの赤い光が一瞬だけ強く瞬く。
その光はまるで――
彼らの侵入を、すでに誰かが見ているかのようだった。
【深夜2時18分/港湾地区・巨大格納施設 内部】
施設内部は、まるで巨大な地下駐車場を思わせた。
天井に等間隔で並ぶ無機質なLEDライトが、鈍い光沢を帯びた黒塗りの車列を冷たく照らしている。
数十台はあろうかという無音の車両が整然と並び、そのすべてが同じメーカー、同じ塗装、同じ車体番号の一部を持っていた。
アキトは思わず息を呑んだ。
足音が反響しないよう、靴底に神経を集中させながら一歩踏み出す。
「……全部、同じだ。色も、型も、ナンバーの刻印位置まで」
低く呟いた声が、広い空間に吸い込まれていく。
ルミナは車列の間を縫うように進み、しゃがみ込んで一台のバンパーを覗き込んだ。
指先で金属をなぞり、わずかに目を細める。
「偽装用じゃないわね。これは“部品単位”で管理されてる」
「部品単位?」
「ええ。入れ替え前提。事故車にも、逃走車にも、すぐ化けられる」
アキトは歯を食いしばり、視線を走らせた。
ここにあるのは車ではない。
追跡を欺き、記録を消し、人の運命を運ぶための“道具”だ。
そのとき、奥の壁面でかすかな駆動音が響いた。
低く、規則的な機械音。
ルミナが即座に身を低くする。
「……来る」
アキトは通信機に指をかけ、囁くように告げた。
「玲、聞こえるか。黒いセダンの巣だ。数が……異常だ」
返事を待つ間、LEDの光の下で黒い車列は沈黙を保ち続けていた。
まるで、次の“夜”に走り出す瞬間を待つ獣の群れのように。
【深夜二時十分/港湾地区・格納施設内部】
二人は無言で背中を合わせ、互いの呼吸を合わせるように一瞬だけ肩をぶつけ合った。
四方から迫る黒服の警備兵。重いブーツの足音、装備が擦れる金属音が、反響して近づいてくる。
アキトは小さく息を吐いた。
肩を落とし、わざと視線を泳がせ、指先に微かな震えを走らせる。
「……数が多いな。どうする?」
不安を滲ませた声。
だがその瞬間、ルミナは気づいた。
アキトの足運び――重心は低く、間合いは正確。完全に“逃げ腰”の人間のそれではない。
次の瞬間。
アキトの表情から、迷いが消えた。
「――位置、把握」
低く、別人のように冷たい声。
彼の視線が一瞬で周囲をなぞり、死角、射線、遮蔽物を瞬時に計算する。
最初の警備兵が角を曲がった、その刹那。
アキトの身体が滑るように前へ出た。
鈍い衝撃音。
スティックが鳩尾に叩き込まれ、声を上げる間もなく男が崩れ落ちる。
「な――っ」
二人目が反応した瞬間、アキトはすでに背後に回っていた。
関節を極め、床へ叩き伏せる。
「初心者のフリは、ここまでだ」
淡々とした声。
ルミナが思わず口角を上げる。
「……やっぱりね。最初からおかしいと思ってた」
残る警備兵たちが一斉に動こうとした、その時。
アキトは一歩前に出て、静かに告げた。
「来い。全員まとめて相手する」
薄暗い格納施設の中央で、
黒い車列を背に、アキトは完全に“本性”を解放していた。
【深夜 02:18/港湾地区・クロスライン格納施設 内部】
施設の奥、男の端末が最後の断末魔のように短くノイズを吐き、完全に沈黙した。
直後、赤い警告灯が激しく回転し、壁面に埋め込まれた緊急シャッターが一斉に降りていく。
重金属が擦れ合う低音が、巨大な空間を震わせた。
「……全館ロックダウンか」
アキトは小さく舌打ちし、即座に周囲を見渡す。
規則正しく並んでいた黒塗りのセダンの列が、赤色灯に照らされ、不気味な影を床に落としていた。
背中合わせのまま、ルミナが低く息を吐く。
「やっぱりね。中枢を潰した瞬間に、全部閉じる仕組み……趣味が悪い」
足音。
一方向ではない。四方から、複数。
アキトはあえて肩の力を抜き、わずかに姿勢を崩した。
まるで判断に迷う“素人”のように。
「……どうする? 出口は全部塞がれた」
その声色は弱気に聞こえたが、ルミナは気づいている。
アキトの視線が、すでに天井、車両下、非常通路の位置を正確になぞっていることを。
ルミナは小さく笑った。
「ほんと、性格悪いわね。……でも、嫌いじゃない」
次の瞬間、闇の奥から黒服の警備兵が姿を現した。
ヘルメット越しの視線が、一斉に二人を捉える。
「侵入者発見――」
言葉が終わる前に、アキトが一歩、前に出た。
「……よし。初心者は、ここまでだ」
低く呟いた直後、彼の動きが一変する。
迷いのない踏み込み。
スティックが空気を裂き、最前列の警備兵の武器を正確に弾き飛ばした。
同時に、ルミナの手元から転がった小型装置が床に滑る。
「伏せなさい」
次の瞬間、白煙が爆ぜ、視界が一気に塗り潰された。
赤い警告灯と煙の中。
クロスラインの闇の核心で、二人の反撃が始まった。
【深夜 02:18/港湾地区・黒塗り車両格納施設 内部通路】
——その時。
非常灯の赤い回転光が、二人の影を断続的に壁へ映し出していた。
重いシャッターの向こうでは、警備兵たちの足音と怒号が鈍く反響している。
アキトが振り返り、短く息を整えながら言った。
「……なあ、ルミナ。さっきから動きが鈍い。怪我か?」
ルミナは一瞬だけ足を止め、煙の残る通路の奥を見つめたまま、小さく息を吐いた。
その横顔は、いつもの軽口を叩く女盗賊のものではなかった。
「違うわよ」
低く、しかし不思議と穏やかな声だった。
「……あたしがこの業界を離れた理由、言ってなかったわね」
アキトが何も言わずに視線を向けると、ルミナは肩をすくめ、わずかに笑う。
「結婚したの。もう、命を賭けるのは一人分でいいって思ったから」
赤い光が、彼女の指先に光る細い指輪を一瞬だけ照らした。
「守りたい“帰る場所”ができるとね……無茶はできなくなる」
アキトは一拍置いてから、静かに言った。
「……それでも、戻ってきた」
ルミナは視線を逸らさず、きっぱりと答える。
「家族がいるからよ。だからこそ――ここで終わらせる必要があった」
遠くでシャッターを叩く衝撃音が響く。
ルミナは再びフードを深くかぶり、いつもの調子でナイフを構えた。
「安心しなさい。まだ死ぬつもりはないわ。……帰らなきゃ怒られるもの」
アキトは短く笑い、スティックを握り直す。
「了解。じゃあ――全員ぶち抜いて、無事に帰ろうぜ」
赤い非常灯の下、二人は再び背中を合わせ、迫る闇へと踏み出した。
【深夜1時42分/港湾地区・地下格納施設 内部通路】
非常灯の赤い光が、ゆっくりと通路を舐めるように揺れていた。
遠くでは警報が断続的に鳴り、鉄とコンクリートの反響が耳に残る。
アキトとルミナは、半壊した制御盤の影に身を寄せていた。
一瞬の静寂。その隙間に、ルミナが短く息を吐く。
「……ここを抜けたら、私は戻らないわ」
低く、しかし迷いのない声だった。
アキトは視線を外したまま、ぽつりと返す。
「この業界を去った理由……結婚、だったな」
ルミナは小さく笑った。自嘲でも照れでもない、静かな肯定。
「ええ。命の値段を知ってしまったから。
自分一人の命じゃ、なくなったのよ」
一拍、沈黙が落ちる。
非常灯が明滅し、影が二人の足元で重なる。
「……子供は?」
自分でも、なぜ聞いたのかわからなかった。
だが、ルミナは驚くことなく答えた。
「上が七歳。下が五歳」
その声は、戦場にいる者のものではなかった。
ただの母親の声だった。
「だからね、アキト。
今日は“助っ人”まで。無茶はしない」
ルミナはワイヤーのリールを静かに固定し、通路の先を見据える。
その横顔は、かつて影を駆けた女盗賊のものと、確かに重なっていた。
アキトは小さく頷き、低く告げる。
「……了解だ。必ず、生きて帰ろう」
赤い非常灯の下、二人は再び並び立つ。
それぞれに、守るべき“帰る場所”を胸に抱きながら。
【深夜2時17分/湾岸エリア・高架道路下】
夜の街を、二台のバイクが無音に近い速度ですり抜けていく。
街灯の光が等間隔に路面を照らし、そのたびに二つの影が伸びては消えた。
先行する一台はアキト。
無駄のない姿勢でハンドルを握り、風圧すら計算に入れた走りで車列の隙間を縫っていく。
その背後、わずか数メートル。
ルミナのバイクが寸分違わぬラインをなぞった。
「……静かすぎるわね」
インカム越しの声は低く、だが冗談めいた響きはない。
「嵐の前ってやつだ」
アキトは視線を前に固定したまま答える。
「この先で分岐だ。右に入る」
二台は同時に体を倒し、高架の影へと消えた。
コンクリートの壁が音を吸い込み、エンジン音はさらに薄れる。
「ルミナ」
一拍置いて、アキトが続ける。
「……戻れるなら、今だ」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、彼女の声がはっきりと返ってきた。
「今さら何言ってんの」
軽く笑い、しかし言葉は揺れていない。
「守るって決めたの。家族も、あの子も……あんたも」
アキトは答えなかった。
代わりにアクセルをわずかに開き、前方の闇を切り裂く。
高架の先、港湾地区の赤い警告灯が滲むように瞬いている。
そこが、次の戦場だと告げるように。
二台のバイクは速度を上げ、夜の奥へと消えていった。
【深夜/港湾地区・廃格納施設 内部】
男は無言のまま、地面へ一枚の写真を放った。
コンクリートの床を滑り、写真はルミナの足元で止まる。
ルミナの視線が落ち、その一瞬だけ瞳が大きく見開かれた。
「……これは……!」
写っていたのは、穏やかな昼下がりの公園。
夫の隣で笑う二人の子ども――上の子が七歳、下の子が五歳。
風に揺れる木々まで、ありありと記憶に重なる光景だった。
アキトが一歩前に出る。
写真と男を交互に睨み、低く噛み殺した声で言う。
「脅しのつもりか」
男は肩をすくめ、暗闇の奥で薄く笑った。
「確認だよ。君が“まだ戻れるかどうか”のな」
ルミナはゆっくりと息を吐き、写真を拾い上げる。
その指は一瞬だけ震えたが、すぐに止まった。
「……覚悟は、とっくに済ませてる」
写真を胸元にしまい、顔を上げる。
その目に迷いはなかった。
「家族に手を出すなら――ここで、全部終わらせる」
アキトが隣に並び、短く頷く。
「俺が前に出る。ルミナ、背後は任せた」
非常灯の赤い光が二人の影を重ね、
闇の奥で男の笑みが、すっと消えた。
【深夜 23:48/湾岸高架下・第七物流道路】
アスファルトを叩くエンジン音と、タイヤが悲鳴を上げる摩擦音が夜の街を切り裂いていく。
高架のコンクリート柱が連続する暗がりを抜けるたび、街灯の光が断続的に路面を照らし、影が激しく流れた。
二台のバイクが、まるで獲物を追い詰める獣のように黒いセダンへと距離を詰めていく。
先行するアキトのバイクが左へ大きく振れ、逃げ道を塞ぐように回り込む。
その動きを察した黒いセダンが急ブレーキをかけ、車体が横滑りした。
「今だ、ルミナ!」
アキトの叫びと同時に、後方からルミナのバイクが鋭く加速する。
低く身を伏せた彼女の視線は、ただ一点――黒い車の後輪だけを捉えていた。
「……逃がさない」
短く呟き、ハンドルを切る。
二台のバイクは完璧な連携で挟み込むように黒いセダンを追い詰め、高架下の行き止まりへと追いやった。
ブレーキ音が甲高く響き、ついに黒い車は急停止する。
エンジンの唸りだけが、重く、低く、その場に残った。
アキトはバイクを降り、ゆっくりと歩み寄る。
ルミナもまた反対側から距離を詰め、逃げ場を完全に断った。
「……終わりだ」
アキトの低い声が、高架下の闇に吸い込まれていった。
【深夜 23:48/湾岸高架下・港区外縁部】
アキトはルミナの肩越しに視線を送り、低く小声で指示した。
「右側の路地、侵入ルート確保……俺は前から押さえる。曲がり角で合流だ」
ルミナは短く頷き、スロットルをわずかに絞る。
バイクは影のように右へ流れ、街灯の死角へと溶けた。
アキトは前方へ加速する。
高架の柱が連なる暗がりで、黒いセダンのテールランプが一瞬、赤く脈打った。
「――逃がすかよ」
アキトはハンドルを切り、車線を詰める。
エンジン音が低く唸り、距離が一気に縮まった。
次の瞬間、黒いセダンが急減速。
前方に狭い曲がり角――その先は、倉庫街へ続く袋小路。
【23:49/倉庫街入口・曲がり角】
影から飛び出したのは、ルミナだった。
横合いから路地を塞ぐようにバイクを滑り込ませ、ブレーキを強く踏み込む。
「……チェックメイト」
黒いセダンは進路を失い、甲高いブレーキ音を上げて停止した。
夜霧の中、二台のバイクが挟み込む形でエンジンを落とす。
静寂。
ただ、冷たい海風だけが、倉庫の壁を舐めるように吹き抜けていた。
アキトはバイクを降り、ゆっくりと一歩踏み出す。
視線は、閉ざされた黒い車内へ。
「――降りてこい。ここで終わりだ」
【深夜 02:18/港湾地区・旧高架下路地】
黒い車のエンジン音は止まったまま、路地には静寂だけが漂っている。
湿ったコンクリートの匂いと、遠くで鳴る波の音が微かに混じり合っていた。
アキトは呼吸を整えながらも、警戒を解かない。
背中を低くし、物陰に身を寄せたまま、視線だけで路地の奥をなぞる。
「……不自然だな」
低く呟いた声は、闇に吸い込まれるように消えた。
車内に人の気配はない。だが、それが“いない”ことを意味するとは限らない。
アキトは指先でイヤーピースに触れ、ほとんど息だけで囁いた。
「ルミナ、聞こえるか。車内、空っぽの可能性が高い。囮だ」
数秒の沈黙。
その後、微かに布が擦れる音とともに、落ち着いた声が返る。
「……同感。上、見て」
その瞬間、アキトの視界の端で、わずかな影が動いた。
路地を跨ぐ非常階段、その手すりの上――
月明かりを背に、黒い影が静かに立っていた。
「……やっぱり、上か」
アキトはゆっくりと体重を後ろ足に移し、いつでも跳べる姿勢を取る。
逃げ場を塞ぐ配置。
そして、この沈黙そのものが――宣戦布告だった。
闇の中で、誰かが低く笑った気配がした。
【深夜 23:58/港湾地区・高架下に続く裏路地】
緊張が張り詰める路地で、ルミナはふっと微笑み、サングラスを軽く掛け直した。
その仕草は余裕を装っているようでいて、実際には神経を極限まで研ぎ澄ませている合図だった。
「……止まったまま、ってのが一番イヤなのよね」
小さく呟き、彼女は足音を殺して一歩前に出る。
黒い車は路地の中央に沈黙したまま佇み、エンジンの熱だけがまだ微かに空気を歪ませていた。
アキトは車両の正面側に位置取り、壁に背を預けたまま低く息を整える。
視線はフロントガラス、タイヤ下、そして周囲の建物の影へと素早く走った。
「中にいるか、もういないか……どっちにしても、罠の匂いが濃い」
その瞬間――
カツリ、と乾いた音が路地の奥で鳴った。
ルミナの表情が一変する。
笑みは消え、獲物を捉える盗賊の目になった。
「……来るわ」
ほぼ同時に、黒い車の後部座席のドアが、きしむような音を立ててわずかに開いた。
中は闇に塗り潰され、何も見えない。
アキトは一歩、前に出る。
握った拳に、力が込められた。
「出てこい。
ここまで来て、黙って終わりってのはナシだろ」
夜霧が流れ込み、路地の空気が一段冷えた。
静寂の中で、次に動くのが誰なのか――
その一瞬を、二人は逃さず見据えていた。
【02:41/港湾地区・旧貨物ビル地下通路】
薄暗い通路を、アキトとルミナは言葉を交わさず進んでいた。
天井の低い配管から滴る水音が、静寂を不規則に切り裂く。
壁面は冷たい金属で覆われ、二人の足音がわずかに反響した。
アキトは一歩ごとに呼吸を整え、視線だけで前方と側面を確認する。
その動きには一切の無駄がなく、まるで闇そのものに溶け込むようだった。
ルミナは半歩後ろ、影を踏むように歩く。
先ほどの微笑みは消え、表情は母であり、元影班である女のものに戻っている。
「……この通路、図面より長いわね」
小さく、だが確信を持った声。
「囮だ。奥に本命がある」
アキトは立ち止まらず、低く答えた。
その瞬間、前方の闇がわずかに揺れた。
金属が擦れる、微かな音。
アキトは即座に拳を上げ、制止の合図を送る。
ルミナは一瞬で呼吸を殺し、背中合わせの位置に滑り込んだ。
非常灯の赤い光が、通路の奥でぼんやりと脈打つ。
そこに浮かび上がる、複数の影。
「来るわね」
ルミナの声は、驚くほど静かだった。
「……ああ。ここからが本番だ」
闇の向こうで、誰かが一歩、踏み出した。
【深夜2:18/港湾地区・地下管制施設 通路】
管制室のドア前で、ルミナが小声で囁いた。
「中に二人……いや、奥にもう一人。呼吸が浅い。警戒してる」
アキトは壁に背を預け、耳を澄ませる。
ドア越しに聞こえるのは、微かな電子音と、不規則な足取り。
彼は頷き、指を二本立てて合図した。
「三秒で入る。閃光は使わない。静かに」
ルミナは短く息を整え、手首のワイヤーを緩める。
「了解。右をもらう」
アキトがドアノブに手をかけ、数を刻む。
――三、二。
一。
ドアが音もなく開き、二人は影のように滑り込んだ。
管制室の中央、モニターの青白い光に照らされて、男が振り向く。
その瞬間、ルミナのワイヤーが走り、アキトの一撃が息を止める。
床に倒れる音は、ほとんど響かなかった。
アキトは即座に端末へ向かい、画面を走査する。
並ぶ映像、航路、車両ID――その中に、見覚えのある番号。
「……あった。黒いセダン。複数運用、同時刻発進」
ルミナが肩越しに覗き込み、低く呟く。
「クロスライン……まだ生きてるわね」
アキトは一瞬だけ目を閉じ、通信を開いた。
「玲、聞こえるか。核心に触れた。――黒い車は“囮”だ。本命は別ルートにいる」
管制室の非常灯が、赤く脈打つ。
次の局面が、静かに、しかし確実に動き出していた。
【深夜 02:18/港湾地区・格納施設 管制室前通路】
ルミナの手首の通信機が小さく震え、微かな振動が指先に伝わった。
彼女は一瞬だけ動きを止め、視線を落とす。
次の瞬間、ノイズ混じりの回線が開き、静寂を切り裂くように声が流れ込んできた。
『……久しぶりね、ルミナ。まだそんな危ない橋を渡っているなんて』
低く、冷ややかで、どこか愉しむような響き。
間違いない――シルフィードの声だった。
アキトは即座に一歩前へ出て、低く問いかける。
「位置を把握してるってことか。監視網はまだ生きてるな」
『ええ。あなたたちの呼吸の数まで、ね』
ルミナは小さく舌打ちし、壁に背を預けたまま通信機に指を当てる。
「……趣味の悪い歓迎ね。人の家族を覗く癖は直した?」
一瞬の沈黙。
だが次に返ってきた声は、さらに冷たかった。
『守りたいものができた人間ほど、動きは読みやすいものよ』
アキトの表情が一段階、鋭くなる。
彼はルミナにだけ聞こえる声で言った。
「……挑発だ。乗るな。時間を稼いでる」
『さすがね、アキト。無駄に真っ直ぐなだけじゃない』
通信がふっと途切れ、再び通路には機械音と二人の呼吸だけが残った。
ルミナは短く息を吐き、アキトを見る。
その瞳に、迷いはなかった。
「……行こう。ここで止まる気は、最初からない」
アキトは無言で頷き、管制室のドアへと手を伸ばした。
重く閉ざされた扉の向こうで、すべての“黒い車”の真実が待っている。
【深夜二時十分/港湾地区・地下管制施設前】
ルミナは扉に手をかけたまま、動けずにいた。
冷たい金属の感触が掌に伝わり、微かに震える指先がそれを強く握り締める。
非常灯の赤い光が、彼女の横顔を断続的に照らし出す。
唇がわずかに噛み締められ、呼吸が乱れているのがはっきりと分かった。
「……家族が……」
声はかすれ、喉の奥で絡むように震えた。
「家族が巻き込まれるなんて、絶対に許せない……」
その言葉は、怒りというよりも必死な誓いだった。
守るべきものがある者の、切実な叫び。
アキトは一歩近づき、何も言わずに彼女の横に立つ。
視線は扉の向こう、敵が待つであろう管制室へと向けたまま。
「……大丈夫だ」
低く、しかし迷いのない声。
「ここまで来た。俺たちで終わらせる。
誰にも、これ以上指一本触れさせない」
ルミナは一瞬だけ目を閉じ、深く息を吸った。
次に目を開いたとき、その瞳には揺らぎはなかった。
「……ええ。行きましょう」
扉にかけた手に力がこもる。
金属が軋む音が、静まり返った通路に小さく響いた。
赤い非常灯の下、二人は無言で頷き合う。
その先に待つものが何であれ、もう退く理由はなかった。
【深夜1時42分/港湾地区・格納施設 管制室】
男の声は、感情の温度を一切持たずに管制室へ染み渡った。
薄暗い照明の下、無数のモニターが淡く揺れ、赤い警告灯が断続的に回転している。
「私の命令で拘束された。逃げ出すなら、彼らの命も危うい。あなたがここで成功することが、唯一の救いになる」
ルミナの指が、扉の縁を強く掴んだ。
爪が白くなるほど力がこもり、喉の奥で押し殺した息が震える。
「……脅しのつもり?」
声は低く、かすれていた。
男はゆっくりと椅子から立ち上がり、背を向けたままモニターを切り替える。
そこに映し出されたのは、見慣れすぎた光景だった。
住宅街の一角。
玄関先で笑う小さな影が二つ。
その後ろで、困ったように微笑む男。
ルミナの呼吸が、一瞬止まった。
「……やめろ」
「事実を見せているだけだ」
男の声は淡々としている。
「あなたは優秀だ。だからこそ、ここまで辿り着けた。――そして、だからこそ選ばれた」
一歩、アキトが前に出た。
暗がりの中、その視線だけが鋭く光る。
「ルミナは駒じゃない」
低く、揺るがない声。
「家族を盾にして動かすなら、それは交渉じゃない。脅迫だ」
男はようやく振り返った。
薄い笑みが、唇の端に浮かぶ。
「この世界では、違いは些細なものだよ」
沈黙が落ちる。
警告灯の回転音だけが、やけに大きく響いた。
やがて、ルミナはゆっくりと息を吸い、顔を上げた。
その瞳にあったのは、恐怖ではなく――決意だった。
「……わかったわ」
静かな声。だが、確かに芯がある。
「でも、条件がある」
男が眉をわずかに動かす。
「私の家族に、二度と手を出さない。
それと――」
ルミナは一歩、管制室の中央へ踏み出した。
アキトと視線を交わし、ほんの一瞬だけ、頷く。
「あなたの“クロスライン”。
ここで、全部終わらせる」
非常灯の赤が、二人の影を長く床に引き伸ばした。
それは、逃げる影ではない。
踏み込む者の影だった。
【深夜1時12分/港湾地区・管制室】
アキトは一歩前に出て、男とルミナの間に立つように位置を取った。
薄暗い室内で非常灯が赤く脈打ち、壁一面のモニターには港の各所が無機質に映し出されている。
「……随分と回りくどい趣味だな」
アキトの声は低く、感情を抑え込んでいた。
男は椅子に腰掛けたまま、わずかに口角を上げる。
「趣味ではない。合理性だよ。人は“守りたいもの”を握られた瞬間、最も従順になる」
ルミナの指が、わずかに震えた。
だが彼女は拳を強く握りしめ、視線を逸らさない。
「……あたしを甘く見ないで。家族を守るためなら、あたしは――」
「命令にも従う?」
男が静かに言葉を重ねる。
空気が張りつめ、アキトは一瞬だけルミナの横顔を見た。
その瞳には、恐怖よりも怒りが宿っている。
「ルミナ」
短く名を呼ぶ。
それだけで十分だった。
ルミナは小さく息を吸い、いつもの軽口とは程遠い、覚悟を帯びた声で答える。
「わかってる。……ここで折れたら、一生後悔する」
次の瞬間、アキトの視線がモニターの一角に走った。
一台の黒いセダン。
ナンバーの末尾、朱音のスケッチに描かれていた特徴と一致している。
「見つけたぞ」
アキトが低く告げると、男の表情が初めて僅かに歪んだ。
「……ほう」
「あんたが“合理的”なら、次に来る行動も読める」
アキトはゆっくりと構えを取り、静かに続ける。
「ルミナの家族を守る道は一つじゃない。
――あんたを、ここで止める」
赤い非常灯の下、三者の影が床に重なった。
静寂の奥で、運命の歯車が音もなく噛み合い始めていた。
【深夜 02:14/港湾地区・地下管制室前通路】
アキトはルミナに軽く手を向け、指先で「右」と示す。
通路の先、配管の影が幾重にも重なり、死角が生まれている。
ルミナは一瞬だけアキトの目を見て、すぐに頷いた。
同じく手で「カバーしろ」と返し、呼吸を殺す。
赤い非常灯がゆっくりと明滅し、二人の影が壁に伸び縮みする。
遠くで機械の低いうなりが鳴り、金属が冷たく軋んだ。
アキトは一歩、音を立てないように踏み出す。
床の感触、空気の流れ、わずかな振動——すべてを読み取る。
(来るなら、今だ)
ルミナは右側の制御盤に身を寄せ、ワイヤーのグリップに指をかけた。
その横顔には迷いはない。ただ、守るべきもののための強さだけが宿っている。
通路の奥で、靴底が金属を踏む音がひとつ、はっきりと響いた。
アキトは低く、ほとんど息だけで囁く。
「……接触まで、三秒」
闇が、静かに動き出した。
【深夜 02:41/港湾地区・地下格納施設 管制室前通路】
ルミナの囁きが消えると同時に、通路の空気が一段冷たく張り詰めた。
アキトは一歩だけ前に出て、床に落ちる非常灯の赤い光を避けるように身を低くする。
耳を澄ませば、管制室の奥から微かな電子音と、誰かの呼吸音が混じって聞こえてくる。
(いるな……一人じゃない)
アキトは拳を軽く握り、合図を送る。
二本の指を折り、ゆっくりと開く――「三秒」。
ルミナは無言で頷き、背中合わせに位置を取った。
その横顔は冷静そのものだが、指先だけがわずかに震えている。
「……二秒」
アキトが心の中で数える。
通路の壁に設置された監視カメラが、かすかに火花を散らして完全に沈黙した。
「……今だ」
二人は同時に動いた。
アキトがドアを押し開けると、管制室の内部に溜まっていた熱気と電子機器の匂いが一気に流れ出す。
室内には赤い非常灯、並ぶモニター、そして中央の操作卓に立つ――黒いコートの男。
男は振り返り、薄く笑った。
「来ると思っていたよ。アキト……そして、ルミナ」
その視線が、迷うことなくルミナを射抜く。
「家族の居場所は、もう確認したか?」
ルミナの喉が、わずかに鳴った。
「……あんたが指一本でも触れたら」
低く、抑えた声。
その奥に、怒りと恐怖が渦巻いている。
アキトは一歩前に出て、男とルミナの間に立った。
「交渉相手を間違えるな。ここは管制室だ。逃げ道はない」
男は肩をすくめ、端末に手を伸ばす。
「逃げる? 違うな。これは“選択”だ」
モニターの一つが切り替わり、映し出されたのは――夜の住宅街、見覚えのある家の前。
ルミナの息が止まる。
アキトは歯を食いしばり、視線を逸らさなかった。
(時間がない……だが、まだ手はある)
彼はルミナの方を見ず、静かに言った。
「……信じろ。俺が必ず、終わらせる」
ルミナは一瞬だけ目を閉じ、そして、はっきりと頷いた。
その瞬間――
管制室の奥で、別のモニターが不自然にノイズを走らせ始めた。
誰かが、介入している。
闇の中で、状況は再び動き出そうとしていた。
【深夜 02:17/港湾地区・地下格納施設 管制室前通路】
二人が管制室の扉に手をかけた、その刹那――
背後の闇から、かすかな足音が一つ、確実なリズムで近づいてきた。
アキトは瞬時に動きを止め、指先だけでルミナに合図を送る。
「……来る」
ルミナは呼吸を殺し、壁際に身を寄せたまま、視線だけで距離を測った。
通路の非常灯が赤く明滅し、影が伸び縮みする。
足音は一つ。だが、迷いがない。
「……一人、でも油断するな」
アキトがほとんど無音で囁く。
次の瞬間、影が曲がり角から姿を現した。
黒い戦闘服、顔は覆面。手には短銃――だが銃口はまだ上がっていない。
その“躊躇”を、アキトは見逃さなかった。
床を蹴る音すら抑え、アキトは一気に距離を詰める。
同時にルミナが反対側から踏み込み、肘で相手の腕を弾いた。
鈍い衝撃音。
短銃が床を滑り、男の息が詰まる。
「……静かにして」
ルミナが低く告げ、スタンロッドを男の脇腹に押し当てた。
短い電撃。
男は声を上げる間もなく崩れ落ち、床に伏す。
数秒の沈黙。
アキトは周囲を一瞥し、異変がないことを確認してから小さく息を吐いた。
「……今のうちだ」
ルミナは一度だけ拳を握りしめ、すぐに扉へ向き直る。
「……行こう。ここで止まったら、全部無駄になる」
二人は同時に管制室の扉を押し開けた。
赤い非常灯に照らされた室内。
無数のモニターが壁一面に並び、その中央――
ゆったりと椅子に腰かけた“誰か”の背中が、静かに浮かび上がっていた。
「……よく来たわね」
振り返らずとも分かる、その声。
シルフィードだった。
「ここまで辿り着けたのは評価するわ、アキト。ルミナ」
甘く、しかし逃げ場のない響き。
アキトは一歩前に出て、視線を鋭くする。
「……終わりにしよう。家族を解放しろ」
わずかに、椅子が軋む音。
シルフィードがゆっくりと立ち上がり、モニターに映る一枚の映像を切り替えた。
そこには――
無事だが、明らかに監視下に置かれたルミナの家族の姿。
ルミナの喉が、かすかに鳴る。
「……選びなさい」
シルフィードは微笑む。
「正義か、家族か。それとも――両方?」
赤い非常灯の下、三人の影が重なり、交錯する。
決断の瞬間が、静かに迫っていた。
【深夜2:41/港湾地区・格納施設 司令室】
アキトとルミナは、息を殺したまま扉の内側へと滑り込んだ。
司令室の空気は張りつめ、機械の低い駆動音と電子音だけが静かに漂っている。
黒服の男たちはまだ二人に気づいていない。
五人全員がモニターに集中し、交差点、港、倉庫街、そして――一瞬だけ映ったのは、小学校の正門前だった。
アキトの喉が、無意識に鳴る。
(……やはり、ここが中枢か)
ルミナは視線を走らせ、指で素早くカウントを刻む。
三、二、一――。
アキトは腰のスティックをわずかに引き出し、床を蹴った。
「――動くな」
低く、しかし鋭い声が司令室に落ちる。
同時に、ルミナが側面から飛び出し、一人の背後を取る。関節を極め、口を塞ぎ、音を殺して床へ沈めた。
「何だ――!」
振り向いた男が声を上げるより早く、アキトの一撃が顎を捉える。
短く、確実な動き。訓練された影の戦いだった。
数秒後。
司令室に立っていた五人の男は、全員が床に伏していた。
警告音が不規則に鳴り、モニターの一部が赤く点滅する。
ルミナは荒く息を吐き、端末へと駆け寄る。
「……あった。クロスラインの制御系、ここが核ね」
彼女の指が震えながらも、操作は正確だった。
だが次の瞬間、スピーカーからノイズ混じりの声が流れ出す。
『――よく来たわね、二人とも』
司令室の照明が一段階落ち、中央モニターに女の顔が映し出される。
白い仮面は外され、赤い唇がゆっくりと弧を描いた。
「シルフィード……!」アキトが低く唸る。
『安心して。今この瞬間、あなたたちの位置は外部に漏れていないわ』
『その代わり――選択の時間よ』
画面が切り替わり、二つの映像が並ぶ。
一つは、この施設の爆破解除コード。
もう一つは、ルミナの家族がいる部屋の監視映像。
ルミナの顔から、血の気が引いた。
「……っ」
アキトは一歩前に出て、モニターを睨みつける。
「お前の狙いは何だ、シルフィード」
画面の向こうで、彼女は楽しげに微笑んだ。
『簡単よ。クロスラインを止めるか――守りたいものを選ぶか』
『あなたたちは、いつも“正しい選択”をするものね?』
司令室に、重苦しい沈黙が落ちる。
機械音だけが、時間を刻むように響いていた。
ルミナは唇を噛みしめ、静かに呟く。
「……アキト。私、迷わない」
彼女の目には、恐怖よりも強い決意が宿っていた。
その横で、アキトは拳を握りしめる。
(――この夜で、必ず終わらせる)
闇の奥で、新たな選択の幕が、静かに上がろうとしていた。
【深夜 02:14/港湾地区・地下格納施設 司令室】
閃光と銃声が交錯する中、アキトは一瞬耳を塞ぎ、壁際に身を低くした。
鼓膜を叩く反響音が遅れて押し寄せ、鼻腔に焦げた火薬の匂いが広がる。
「動くな——!」
短い怒号。
次の瞬間、ルミナの投げたスモークが床に転がり、白煙が一気に膨張した。視界が奪われ、モニターの光が霞んで滲む。
アキトは呼吸を整え、煙の切れ目を読む。
足音は三、右。金属音、銃の切り替え——二、正面。
一拍置いて、彼は踏み出した。
低い姿勢のまま、最短距離。
肘打ちが顎を捉え、相手が崩れる。続けざまにスティックが手首を叩き、銃が床に落ちる乾いた音。
「左、来る!」
ルミナの声。彼女は影から影へと滑り、ワイヤーを放つ。鋭い音と同時に一人が引き倒され、機器に激突した。
警告音が甲高く跳ね上がる。
赤灯が回転し、司令室の空気がさらに重くなる。
アキトは中央のコンソールへ飛び込み、キーボードを叩いた。
「ログを切る。外部回線遮断——今だ!」
最後の一人が銃を構える前に、ルミナが背後から制圧。
床に伏せた男の息が荒く、やがて静まる。
煙が薄れ、モニターの群れが露わになった。
そこには——黒いセダンの隊列、港から市内へ伸びるルート、そして朱音の通学路を示す赤いマーキング。
アキトの喉が鳴る。
「……ここまで把握してやがるのか」
ルミナは歯を食いしばり、短く言った。
「終わらせよう。今度こそ」
赤灯の回転が止まり、非常音が沈黙する。
司令室に残ったのは、二人の呼吸音と、次の一手を選ぶための静寂だけだった。
アキトの耳に再び無線越しの低く冷たい声が響いた。
「ふふ……やっとここまで来たか、二人とも。だが、君たちに真実を知らせるのは今しかない。私が動いたのは、ただの混乱のためではない。すべては――ルミナの家族を守るための試練だ。」
一瞬、銃声が途切れた。
非常灯の赤い光の中で、ルミナの動きがわずかに止まる。
「……試練?」
震えを必死に押し殺した声だった。
モニターの一つが切り替わり、見覚えのある映像が映し出される。
住宅街の一角。玄関先で子どもが笑い、振り返る女性の横顔。
確かに“無事”を示す、現在進行形の映像だった。
「安心しなさい。彼らは今、この瞬間も守られている」
シルフィードの声は、どこまでも落ち着いている。
「だが、あなたがここで立ち止まれば、その保証は消える」
ルミナは唇を噛み、拳を強く握りしめた。
感情が爆発する寸前で、アキトが一歩前に出る。
「……人の家族を賭け札にして、守るだと?」
低く、怒りを抑えた声。
「ふざけるな。そんなやり方で信じろってのか」
短い沈黙。
その後、シルフィードは小さく笑った。
「信じなくていいわ、アキト。ただ――“越えなさい”。
影の世界で生きる者が、本当に守るべきもののために、どこまで踏み込めるのか」
通信が一方的に遮断され、無線は砂嵐のようなノイズに変わる。
同時に、司令室奥のシャッターが重々しく開き始めた。
ルミナは深く息を吸い、アキトを見た。
その目には、恐怖よりも覚悟が宿っている。
「……行く。ここで止まったら、一生後悔する」
アキトは一瞬だけ目を閉じ、そして頷いた。
「背中は預けろ。家族も、お前自身も――必ず守る」
二人は無言で並び、開ききった通路の闇へと踏み出した。
赤い警告灯が回り続ける中、次なる“試練”が静かに牙を剥いていた。
【深夜 02:14/港湾地区・地下施設 司令室】
戦闘の残響がまだ空気に滲んでいた。
焼けた金属の匂いと、焦げた配線の微かな煙が、司令室の薄暗い照明の下を漂っている。
アキトは壁際に身を寄せたまま、ゆっくりと顔を上げた。
その視線の先で、ルミナもまた無言でこちらを見ていた。
言葉はない。
だが、互いの目が合ったその一瞬で、すべてが伝わる。
――次は左。
――三秒後に動く。
――合図は要らない。
アキトは小さく息を吸い、床に落ちた影の位置を視界の端で測る。
同時に、ルミナの指先がわずかに動いた。
次の瞬間。
二人は、まるで事前に振り付けられていたかのように、同時に動いた。
アキトが前へ踏み込み、視線を引きつける。
その背後を滑るように、ルミナが死角へと回り込む。
「――今」
それは声にならない合図だった。
アキトが身体を沈めた刹那、ルミナの投げたスモークが床を転がり、白い霧が一気に広がる。
混乱する男たちの声が上がるより早く、二人はそれぞれの役割を果たしていた。
遮断、制圧、無力化。
一切の無駄がなく、互いの動きが寸分違わず噛み合っている。
数秒後。
司令室には、再び静寂が戻った。
アキトは息を整えながら、肩越しにルミナを見る。
ルミナは短く息を吐き、ほんのわずかに口角を上げた。
「……まだ鈍ってないでしょ?」
「十分すぎる」
アキトはそう返し、端末へと視線を移した。
二人の間に、もう説明はいらなかった。
かつて同じ闇を生きた者同士。
今もなお、その呼吸は完璧に重なっていた。
【深夜二時三十分/港湾地区・地下施設最深部】
重厚な鉄扉が、ぎしりと低い音を立てて二人の前で静かに開かれた。
閉ざされていた空間から、冷え切った空気がゆっくりと流れ出し、金属と機械油が混じった匂いが鼻を刺す。
アキトは一歩前に出て、スティックを構えたまま内部を素早く見渡した。
薄暗い室内には非常灯だけが赤く点灯し、壁一面に設置されたサーバーラックが規則正しい影を落としている。
「……最深部だな」
低く呟くと同時に、ルミナが背後から静かに並んだ。
彼女の呼吸は落ち着いているが、指先だけがわずかに震えている。
「ここに、全部ある……」
ルミナは唇を噛み、視線を奥の制御卓へ向けた。
「クロスラインの中枢。車両、指令、脅迫……全部」
制御卓の中央モニターが、まるで二人を待っていたかのように淡く光を強める。
そこに映し出されたのは、複数のウィンドウと――一つの静止映像。
小学校の校門前。
笑顔で手を振る、ルミナの子供たちと、その隣に立つ夫。
ルミナの喉が、ひくりと鳴った。
「……大丈夫だ」
アキトは画面を見据えたまま、低く、しかしはっきりと言った。
「ここまで来た。もう、向こうの思惑どおりにはならない」
その瞬間、室内スピーカーからノイズ混じりの声が流れ出す。
聞き覚えのある、冷たく、余裕を含んだ声。
『選択は常に、覚悟のある者にしか与えられない』
「……シルフィード」
ルミナが吐き捨てるように呟く。
アキトは一歩前に出て、制御卓に手を伸ばした。
「聞いてるなら言っておけ。試練だろうが何だろうが――」
一瞬、言葉を切り、鋭い視線をモニターに向ける。
「俺たちは、奪われる側じゃない」
ルミナはその横で、ゆっくりと深呼吸をした。
そして、かつて影として生きた女の目で、静かに頷く。
「終わらせよう、アキト。
家族のためにも……この闇そのものを」
赤い非常灯の下、二人は同時に制御卓へと手を伸ばした。
静寂の奥で、システム起動音が低く鳴り始める。
――ここが、すべての分岐点だった。
【深夜2時17分/港湾地区・地下管制ブロック最深部】
黒幕の声が、無機質な司令室に冷たく反響した。
スクリーンの光に照らされたその顔は半分が影に沈み、表情の輪郭だけが浮かび上がっている。
まるで最初から、ここまで辿り着くことを見越していたかのようだった。
「ふふ……ここまで来た勇気は認めてやろう。だがな、覚悟はあるのか?
お前たちのその小さな正義は、たった一瞬で粉々になるぞ。」
アキトは一歩前に出た。
銃口も、刃も向けない。ただ、真っ直ぐにスクリーンを見据える。
「覚悟なら、もうできてる。
誰かの弱さを利用して動く奴を、俺は見逃さない。」
その横で、ルミナが小さく息を吸い、静かに言葉を重ねた。
「……家族を守るために、何でも飲み込めって?
そんな“試練”、私は認めない。守るなら、正面から守る。」
一瞬、スクリーンの向こうで沈黙が落ちた。
ノイズが走り、黒幕の口元がわずかに歪む。
「……相変わらずだな、ルミナ。
だからこそ――選ばれた。」
次の瞬間、警告音が一段と鋭く跳ね上がり、
司令室の奥の床が低く唸りを上げて動き始めた。
「来るぞ!」
アキトが叫ぶ。
ルミナは即座に構え、短く応じた。
「ええ。――最後まで付き合うわ。」
二人は背中を預け合い、迫り来る闇へと視線を向けた。
この先に待つ真実と対峙するために。
静かな決意だけが、赤い非常灯の下で確かに燃えていた。
黒幕の威圧感が漂う重厚な空間の中、アキトはルミナの横に立ち、肩越しに静かに声を落とした。
「ルミナ……ずっと言えなかったけど、俺は……お前と一緒に戦いたかった。ここまで来て気づいたんだ。お前を信じ、守りたいって。」
ルミナは一瞬だけ目を伏せ、それから静かに息を吸った。
重厚な空間に満ちる黒幕の気配にも、もはや視線を向けない。
「……ばかね、アキト」
低く、かすれた声だったが、その言葉には確かな温度があった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、まっすぐにアキトを見る。
「私はもう、守るものがあるって言ったでしょう。
だから怖い。でも……それでも」
ルミナは一歩だけ前に出て、アキトと肩を並べた。
指先が、ほんの一瞬だけ彼の袖に触れる。
「一人で戦うより、背中を預けられる相棒がいる方がいい。
それが、あなただっただけ」
赤い警告灯が二人の影を重ねて揺らす。
黒幕が小さく嗤った気配が、スクリーン越しに伝わってきた。
「……感動的だな。だが選択は一つだ。
進めば、すべてを失う」
アキトは前を見据えたまま、静かに答える。
「違うな。
俺たちは“守るために”ここまで来た」
ルミナがわずかに口角を上げる。
「ええ。奪わせない。家族も、未来も――この場で終わらせる」
二人の視線が重なった瞬間、言葉はもう必要なかった。
次の瞬間、同時に床を蹴り、決戦の闇へと踏み出す。
それは、
信頼と覚悟で結ばれた――本当の“相棒”の一歩だった。
【深夜二時十七分/港湾地区・地下管制区画 最深部】
黒幕はゆっくりと立ち上がった。
背後の大型スクリーンが唸るように光量を上げ、無数の黒いセダンの位置情報が赤い点となって浮かび上がる。
暗い部屋の空気が一層張り詰め、冷たい金属の匂いが喉の奥に刺さった。
「感情で動くのは嫌いじゃない」
黒幕は淡々と続ける。
「だが、それは最も利用しやすい弱点でもある」
ルミナの指先が、わずかに震えた。
だが彼女は一歩も退かず、視線を逸らさない。
「家族を盾にして“正義”を語るなんて……」
低く、噛み殺した声。
「それで支配したつもり?」
黒幕は小さく笑った。
「支配? 違うな。選択肢を与えているだけだ。従えば守られる。逆らえば失う。それだけの話だ」
その瞬間、アキトが一歩前に出た。
足音は小さいが、はっきりと空間を切り裂く。
「……もう十分だ」
静かだが、芯の通った声。
「あんたは“仕組み”のつもりだろうが、人は部品じゃない。ルミナも、その家族もだ」
黒幕の視線が、初めてアキトを正面から捉えた。
「ほう……」
わずかに目を細める。
「では聞こう。君に、この盤面をひっくり返す手はあるのか?」
アキトは答えなかった。
代わりに、ルミナと一瞬だけ視線を交わす。
言葉はいらない。
その目が、すでに「行動」を示していた。
非常灯が赤く脈動する。
カウントダウンのように。
この場所で、
“黒い車”の真の意味が――
そして、それぞれの覚悟が、今まさに試されようとしていた。
【深夜1時47分/港湾地区・地下格納施設 最深部】
黒幕の目が、闇の奥で静かに光った。
非常灯の赤い明かりが、わずかに揺れながらその瞳を照らし出す。
無機質な光を反射したその眼差しには、怒りも焦りもない。ただ、徹底的に計算された冷たさだけが宿っていた。
まるで獲物の動きを一瞬で見極める捕食者のように、黒幕はアキトとルミナを順に見据える。
「……いい目をしているな」
低く、乾いた声が空間に落ちる。
その声には、余裕と支配者の自信が滲んでいた。
黒幕の瞳が細められた瞬間、空気が一段階冷えたように感じられる。
視線だけで圧をかけるその存在感は、言葉以上に二人の神経を締め付けた。
アキトは無意識に一歩前へ出る。
ルミナもまた、視線を逸らさずに黒幕を正面から捉える。
赤い光の中で、黒幕の目だけが異様なほど鮮明に輝いていた。
それは、この場のすべてを掌握している者の目だった。
【深夜2時17分/港湾地区・地下施設最深部】
黒幕は低く冷笑を浮かべ、部屋の奥の扉をゆっくりと開いた。
重い蝶番が擦れる音が、静まり返った空間に不吉に響く。
扉の向こうには、薄暗い廊下が一直線に延びている。
天井の非常灯が等間隔に赤く瞬き、冷たい影を床に落としていた。
わずかな光に照らされ、数歩先に――人影がひとつ、確かに見える。
「……来い」
黒幕の声は抑揚がなく、命令とも誘いとも取れない響きを帯びていた。
アキトは一歩前に出て、無意識にルミナの位置を肩越しに確かめる。
ルミナは何も言わず、ただ短く息を整え、視線で「行ける」と返した。
人影が、ゆっくりとこちらを向く。
逆光の中で表情は判別できない。ただ、その佇まいだけで――
尋常ではない気配が、廊下全体を支配しているのがわかった。
「歓迎しよう」
黒幕が背後で静かに告げる。
「そこに立つのは、君たちが追い続けてきた“答え”だ」
赤い非常灯が一段、強く明滅した。
その瞬間、アキトは確信する。
――ここが、すべての始点であり、終点だと。
冷たい空気の中、二人は無言で歩き出した。
足音が、廊下の奥へと吸い込まれていく。
薄暗い廊下の先、かすかな光に照らされてルミナの家族が姿を現した。
「ルミナ……!」
声を震わせて父親が叫ぶ。
その瞳には、長い緊張から解き放たれた安堵と、まだ拭いきれない恐怖が混じっていた。
母親は涙をこらえ、片手で口元を押さえながら一歩前に出る。
「無事だったのね……本当に……」
震える声とともに、細い笑みがこぼれる。
弟が小さく体を震わせ、鎖につながれたまま一歩踏み出そうとする。
「お姉ちゃん……!」
その瞬間、ルミナは思考よりも先に体が動いていた。
アキトの制止の声が届く前に、彼女は数歩駆け出し、膝をついて弟を抱きしめる。
「……大丈夫。もう平気だから」
震える背中に腕を回し、何度もそう囁く。
だが、背後から低く冷たい拍手の音が響いた。
「感動的な再会だ」
黒幕の声が、空気を切り裂くように廊下に広がる。
「だが忘れるな。ここは私の舞台だ。主役が感情に溺れるのは、あまり美しくない」
アキトは一歩前に出て、ルミナの前に立つ。
「……約束が違う。家族は解放するって言ったはずだ」
黒幕は肩をすくめ、薄く笑った。
「条件付き、だ。私が欲しいのは“選択”だよ、アキト」
視線がルミナへと移る。
「家族を連れて帰るか、それとも――この真実と共に沈むか」
ルミナはゆっくりと立ち上がり、涙を拭った。
その瞳に、もはや迷いはなかった。
「……アキト」
小さく、しかしはっきりとした声。
「私は、もう逃げない。家族も、仲間も、全部守る」
アキトは一瞬だけ目を閉じ、深く息を吸う。
そして、静かに頷いた。
「了解だ、相棒」
重苦しい沈黙の中、非常灯が赤く瞬き続ける。
この場所で、すべてが決着する――そんな予感だけが、冷たい空気に満ちていた。
【深夜1時42分/港湾地区・地下管制施設 最奥部】
ルミナの声は震えていなかった。
それは恐怖を押し殺した強さではなく、すでに覚悟を越えた静けさだった。
黒幕はその様子を眺め、喉の奥で低く笑う。
「ほう……いい目になったな。だが、その覚悟がどこまで通じるか――試してみる価値はある」
一歩、前へ。
彼の足音が金属床に重く響く。
その瞬間だった。
アキトが、半歩だけ前に出る。
ルミナを庇うように、しかし自然に。
「――そこまでだ」
低い声。だが、はっきりと空気を断ち切る力があった。
黒幕の視線が、ゆっくりとアキトへ向く。
「まだやるつもりか? 君一人で、何が変わる」
アキトは答えない。
代わりに、ルミナと一瞬だけ視線を交わす。
言葉はいらなかった。
ルミナは小さく頷き、指先で家族の方へ合図を送る。
同時に、彼女の手首のデバイスが無音で起動した。
――その刹那。
施設全体の照明が一気に落ちる。
完全な闇。
次の瞬間、非常灯が断続的に点滅し、赤い光が空間を切り裂いた。
「なに――!」
黒幕の声が、初めて焦りを含む。
その背後で、重い拘束具が外れる音。
ルミナの家族を縛っていたロックが解除されていく。
「今だ!」
ルミナが叫ぶ。
アキトは迷わず踏み込んだ。
一直線に、黒幕の懐へ。
金属音、衝撃、そして短い呻き声。
床に転がる端末が火花を散らす。
赤い非常灯の下、黒幕は膝をついていた。
その目から、さっきまでの余裕は消えている。
「……読んでたさ」
アキトは息を整えながら、静かに告げる。
「お前の“試練”も、脅しも。全部な」
ルミナは家族の元へ駆け寄り、強く抱き寄せた。
震える肩に、確かな温もりが戻る。
「もう大丈夫……」
そう囁く彼女の声は、ようやく人間らしい安堵を帯びていた。
赤い光の中、黒幕は歯噛みしながら呟く。
「……これで終わりだと思うな」
アキトは振り返らずに答える。
「終わりだよ。少なくとも――今夜はな」
遠くで、警告音が完全停止する。
施設は、静寂を取り戻しつつあった。
だがそれは、
すべてが終わった静けさではない。
新たな夜の始まりを告げる、
ほんの、ひと呼吸前の沈黙だった。
【深夜2時18分/港湾地区・地下格納施設最深部】
非常灯の赤い光が断続的に明滅する中、黒服の男たちが一斉に距離を詰めてきた。
重たいブーツ音が床を叩き、空気が一気に張り詰める。
ルミナは一歩前に出ると、視線だけで敵の配置をなぞる。
人数、間合い、武器――そのすべてを一瞬で把握し、呼吸を整えた。
「こっちに来るなら、覚悟して!」
最初の一人が振り下ろしたスタンバトンを、ルミナは体を沈めてかわす。
その勢いのまま相手の懐へ潜り込み、肘を鳩尾へ叩き込んだ。鈍い音と共に男が崩れ落ちる。
背後から迫る二人目。
ルミナは床を滑るように回転し、ナイフの柄で相手の手首を打ち抜いた。
武器が弾かれ、次の瞬間には蹴りが顎を捉える。
「甘い……!」
三人目が銃口を向けた刹那、ルミナは壁を蹴って軌道をずらし、煙幕弾を床に投げた。
白い煙が一気に広がり、視界が遮断される。
その中で聞こえるのは、短い悲鳴と倒れる音だけだった。
煙が薄れた時、床には無力化された黒服の男たちが転がっている。
ルミナは肩で息をしながらも、すぐに家族の方へ視線を向けた。
恐怖はまだ消えていない。
だが、その背中ははっきりと語っていた。
――もう、誰にも奪わせない。
――私は、戦うことを選んだ。
赤い非常灯の下、ルミナは静かに次の敵へと身構えた。
【深夜/港湾施設・地下管制区画】
夫は目を見開き、息を呑んだ。
鉄と火薬の匂いが漂う中で、目の前にいる“妻”の姿が、彼の知る日常の彼女とはまるで違って見えた。
「……ルミナ……こんなに強かったのか……」
その呟きは、驚きと誇り、そしてかすかな恐怖が入り混じっていた。
ルミナは一瞬だけ家族の方へ視線を投げる。
だが、微笑むことはしなかった。
ただ、はっきりと、揺るがない声で言う。
「ごめんね。隠してた。でも――」
彼女は三つ目の敵を床に叩き伏せ、素早く距離を取る。
息一つ乱れていない。
「私は、家族を守るために“これ”を選んだの」
黒服の男が背後から迫る。
その気配を感じ取った瞬間、ルミナは振り返りもせず、肘打ちを叩き込んだ。
鈍い音とともに男が崩れ落ちる。
アキトがその背をカバーしながら低く声をかける。
「――迷いは消えたな」
「ええ」
ルミナは短く答え、家族の前に立つように一歩踏み出した。
それは、盾の位置だった。
母親は涙を流しながら、震える声で言う。
「……無事で、生きてて……それだけでいい……」
ルミナはほんの一瞬だけ、視線を落とし――
そして、はっきりと頷いた。
「約束する。必ず、全員で帰る」
赤い非常灯の下、
かつて“影”として生きた女は、今この瞬間、
母であり、妻であり、戦う者として立っていた。
そして黒幕のいる闇の奥へと、
迷いのない足取りで踏み出していく。
【深夜/港湾地区・格納施設内部】
子どもたちの無邪気な声が、戦闘の緊張を一瞬だけ和らげた。
「ママ、すごい! どうしてこんなに強いの?」
ルミナは一瞬だけ振り返り、柔らかな笑みを浮かべる。次の瞬間には視線を前へ戻し、迫る黒服の動きを正確に捉えた。
「強いんじゃないわ」
低く、しかし確かな声だった。
「守るって決めたから、動けるだけ」
アキトが一歩前に出て、家族の前に盾のように立つ。
「ルミナ、後ろは俺が見る。今だ」
頷き合うより早く、二人は同時に踏み込んだ。
ルミナの動きは無駄がなく、最短距離で敵の懐へ入る。手首を取り、体勢を崩し、床へ叩き伏せる。
アキトは逆側から圧をかけ、残る敵の進路を塞いだ。
数秒後、床に伏す黒服たちのうめき声だけが残る。
夫は静かに息を吐き、ルミナを見つめた。
「……帰ってきてくれて、ありがとう」
ルミナは家族の前に膝をつき、子どもたちを抱き寄せる。
「ごめんね。待たせた」
アキトは背後を警戒しながら、短く告げた。
「脱出ルートは確保した。外は安全だ」
赤い非常灯の下、家族は一歩ずつ出口へ向かう。
ルミナは最後に振り返り、静かに言った。
「もう、影に戻るつもりはない。ここで終わり」
重い扉が閉じ、夜の冷たい空気が流れ込む。
その先には、確かに“帰る場所”が待っていた。
黒幕は冷ややかな笑みを浮かべたまま、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
靴底が床を擦る音が、異様なほど大きく響いた。
ルミナは家族を背に庇うように立ち、三つ刃を低く構える。
その視線は一切揺れていなかった。
「……あんたは勘違いしてる」
ルミナは静かに、しかしはっきりと言い切る。
「私は“止めに来た”んじゃない。――終わらせに来たの」
黒幕の眉がわずかに動く。
その瞬間だった。
アキトが一歩前に出る。
銃も構えず、ただ真っ直ぐに黒幕を見据え、低く告げた。
「お前の計画は、もう破綻してる。
外の管制は玲が押さえた。逃走ルートも、資金ラインも、全部だ」
黒幕の笑みが、初めて歪んだ。
「……ほう?」
「家族を人質に取れば、人は迷うと思ったか?」
アキトは一瞬、ルミナの横顔を見る。
「確かに迷ったさ。でもな――」
ルミナが一歩踏み出し、言葉を継ぐ。
「守るものがある人間は、迷っても折れない」
次の瞬間、非常灯が一斉に消え、完全な闇が落ちた。
――短い沈黙。
そして、鋭い衝撃音。
黒幕の身体が床に叩きつけられる音が、鈍く響いた。
再び灯った非常灯の下、黒幕は拘束され、膝をついていた。
ルミナの三つ刃が、その喉元すれすれで止まっている。
「チェックメイトよ」
ルミナはそう告げ、刃を引いた。
背後で、子どもたちが安堵の声を漏らす。
夫は静かにルミナの背中を見つめ、深く息を吐いた。
アキトは通信機を叩く。
「――こちらアキト。黒幕確保。家族も無事だ」
返ってきた玲の声は、いつも通り落ち着いていた。
『了解した。……よくやった』
ルミナは一瞬だけ目を閉じ、家族の方を振り返る。
その表情は、もう“影班の女盗賊”ではなく――
ただの、家族を守り抜いた母の顔だった。
【深夜/港湾地区・格納施設最深部】
ルミナの言葉が落ちた瞬間、空気が張り詰めた。
黒幕は一歩、また一歩と床を鳴らしながら近づく。その背後で非常灯が赤く明滅し、長い影が歪んで伸びた。
「美しいな……その覚悟。だが覚悟だけで守れるほど、世界は優しくない」
低い声と同時に、黒幕の指がわずかに動く。
次の瞬間、天井裏から金属音が降り注ぎ、黒服がさらに三人、家族の背後へ回り込もうとする。
「させない!」
アキトが一歩前に出て、スティックを床に叩きつける。衝撃音と同時に黒服の動きが一瞬止まる。
「ルミナ、左は俺が抑える!」
「了解!」
ルミナは家族の前に立ち、身体を半身に構えた。視線は鋭く、呼吸は静かだ。
最初の男が飛びかかる。
ルミナは腕を絡め、勢いを利用して床へ叩きつける。次の瞬間、蹴りを放ち、二人目を壁へ沈めた。
「ぐっ……!」
黒幕はその様子を眺めながら、口元を歪める。
「母は強い、か。だが――」
銃口がゆっくりと、子どもたちの方へ向けられる。
その瞬間、ルミナの目が凍りついた。
「……やめろ」
声は低く、震え一つない。
アキトが一瞬で距離を詰めるが、間に合わない――
だが。
「そこまでだ」
静かな声が、管制室に響いた。
モニターが一斉に切り替わり、施設外周の映像が映し出される。警察車両と無数の赤色灯。
黒幕の表情が、初めて僅かに歪んだ。
「……ほう」
アキトが口角を上げる。
「玲の読みは正確だったな。お前が“全部見せたがる”タイプだって」
ルミナはその隙を逃さない。
一瞬で踏み込み、黒幕の手首を打ち落とす。
銃が床に転がり、乾いた音を立てた。
「終わりよ」
黒幕は床に押さえつけられながら、低く笑った。
「……いい母親だ。だが忘れるな、影はまだ残っている」
ルミナは答えない。
ただ、家族の方を振り返る。
子どもたちは涙と笑顔を混ぜた顔で、必死に頷いていた。
夫は静かに、深く頭を下げる。
「……ありがとう。無事でいてくれて」
ルミナは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「当たり前でしょ。私は――母親だから」
赤色灯の光が、ゆっくりと部屋を満たしていく。
長い夜は、ようやく終わりを迎えようとしていた。
【深夜 02:47/港湾地区・地下格納施設 最深部】
鉄扉を押し開ける重い音と同時に、冷たい空気が一気に流れ込んだ。
「――動くな」
低く、しかしよく通る声が戦場を制した。
踏み込んできたのは、御子柴理央だった。
黒のロングコートの裾が揺れ、鋭い視線が瞬時に空間全体を走査する。
倒れた黒服。
銃を構える敵。
ルミナを庇うように立つアキト。
その背後で怯えながらも必死に身を寄せ合う家族。
理央は一切迷わず、即座に指示を飛ばした。
「アキト、右壁沿い。二秒後に制圧」
「ルミナ、家族を後方へ。三歩下がって床伏せ」
「黒服、残存三。――左から来る」
言葉が終わる前に、理央は小型端末を操作する。
次の瞬間、天井の補助照明が一斉に切り替わり、黒服側だけが逆光に包まれた。
「今だ」
アキトが即座に動き、
ルミナは家族を抱き寄せるようにして庇う。
数秒の交錯。
乾いた衝撃音と短い悲鳴が響き、黒服たちは次々と床に伏した。
沈黙。
理央は最後まで残っていた黒幕に視線を向け、淡々と言い放つ。
「……詰みだ。君の盤面は、ここで終わり」
黒幕は歯噛みしながらも、それ以上動かなかった。
理央はゆっくりとルミナの方へ歩み寄る。
その声は、先ほどまでの戦場指揮とは違い、静かで現実的だった。
「ルミナ。家族は無事だ。だが、ここに戻るのは危険すぎる」
一拍置き、理央ははっきりと告げる。
「君たちの住まいはこちらで確保する」
「――玲のロッジだ。しばらく、そこで生活しろ。命令だ」
ルミナは一瞬だけ驚いた表情を見せ、
次の瞬間、深く息を吐いて静かに頷いた。
「……了解」
アキトはその横で、ようやく肩の力を抜いた。
冷たい地下施設の奥で、
戦いは終わり、次の“日常”への道が、静かに開かれ始めていた。
【深夜二時過ぎ/港湾地区・地下管制施設 最深部】
御子柴は携帯型の解析機器を片手で操作しながら、視線だけで黒幕の動きを牽制していた。
端末の画面には高速で流れる暗号列と、赤く点滅する警告表示。
「……来るな。こいつ、司令塔の中枢データを遠隔で自壊させる気だ」
短く吐き捨てるように言い、指先の動きがさらに速くなる。
「解除コードを解析中。残り二十秒――いや、十五」
アキトは即座に一歩前へ出て、黒幕との間に立った。
ルミナは家族を背に庇い、三つ編みの影を揺らしながら低く構える。
「理央、時間は稼ぐ」
「助かる。十秒あれば十分だ」
黒幕が舌打ちし、背後の非常扉へ下がろうとした瞬間、御子柴の声が鋭く響いた。
「――止まった。通信遮断、データ保全完了。これで詰みだ」
解析機器の画面が静止し、赤い警告灯が一つ、また一つと消えていく。
施設全体を包んでいた緊張が、わずかに緩んだ。
御子柴は端末を収め、ゆっくりとルミナとその家族に視線を向けた。
「状況は把握した。君たちはもう表には戻れない。安全を最優先する」
一拍置いて、淡々と、しかし有無を言わせぬ声で告げる。
「――君たちの住まいはこちらで確保する。
当面は、玲のロッジに移動しろ。監視と保護は影班が担当する」
ルミナは一瞬だけ驚いたように目を見開き、やがて小さく息を吐いた。
「……了解。借りは、必ず返す」
御子柴はわずかに頷き、視線をアキトへ移す。
「アキト、ここから先は後処理だ。だが――」
その目に、ほんの僅かな信頼の色を宿しながら続けた。
「今回の判断、間違っていない。よくやった」
冷たい地下施設の空気の中で、確かに“守られた未来”の気配が、静かに芽吹いていた。
【23:45/港湾地区・格納施設内】
御子柴理央は腰のホルダーから小型の解析機器を引き抜き、手のひらサイズの端末を起動した。
淡い青白い光が端末から漏れ、周囲の電波や内部通信が一斉に捕捉される。
「黒幕の司令塔は遠隔操作でデータを破壊しようとしている。解除コードを解析中」
理央は端末の画面を一瞥し、冷静かつ迅速に指示を出した。
「ルミナ、家族をここから安全な場所に誘導。アキト、背後の敵をカバー。迅牙、月影、安斎、前方の侵入経路を封鎖。君たちの住まいはこちらで確保する――玲のロッジに移動させろ。」
ルミナは深く頷き、家族の手を握り直す。
「わかった……絶対に守る」
アキトも視線を固め、端末の解析状況を確認しながら戦闘位置に就いた。
「解除コード、頼む……」
解析機器が微かな振動を伴い、青白い光が瞬き、周囲の電子機器の動きが理央の指示に応えるかのように反応し始めた。
【23:50/港湾地区・格納施設内・格納庫前通路】
御子柴理央の指先は、光るホログラム上を迷いなく走っていた。
解析画面には黒幕の通信網が赤い線で浮かび上がり、残る暗号化ブロックはあと二つ。
空気は張り詰め、秒針が耳の奥で響くような緊張感が施設内を支配している。
その瞬間、静かだが確実な足音が通路の床に響いた。
玲が深くフードを被り、落ち着いた足取りで格納庫へと現れた。
「状況は把握した。理央、解除は任せる。アキト、ルミナ、家族の安全は最優先だ」
その声に、戦闘中の影班や家族たちの意識が一瞬引き締まる。
玲の目は冷静でありながらも、周囲の敵や障害物すべてを把握しているかのように鋭く光っていた。
「黒幕の動きを封じる。これ以上の混乱は許さない」
玲はゆっくりと構えを取り、緊張感あふれる戦場に静かなる決意を示した。
【23:52/港湾地区・格納施設内・格納庫中央】
次の瞬間、黒幕の足元の床パネルが静かに開き、複数の自動防衛ドローンが低く唸りを上げながらせり上がった。金属質の駆動音が重なり、薄暗い格納庫の空気を鋭く切り裂く。銃口が一斉にルミナ、アキト、御子柴理央、そして玲へと向けられ、わずかな動きも許されない緊張感が場内を支配した。その瞬間、背後の通路から低く響く命令声が鋭く響く。
「狙撃班、展開完了。視界をロック、射線を確保せよ」
影のように現れたK部門の狙撃班は、黒装束に身を包み、精密なスコープを覗き込む手元の動きはまるで時間が止まったかのように正確だった。彼らの息遣いさえも抑制され、呼吸のリズムすらも戦術に組み込まれているかのようだ。
玲は静かに前に一歩踏み出し、床に膝をつかず、しかし身体全体の重心を自在に調整しながら、狙撃班へ指示を飛ばした。声は低く、冷静でありながらも部下の意識を戦場に鋭く集中させる圧力を帯びていた。
「射撃許可は私の合図までなし。冷静に。絶対に誤射は許されない。各自、位置を維持し、視界を切らすな。ドローンは一瞬の隙を狙う。風圧、反射光、振動、すべて計算に入れること。理央、解析画面の暗号解除と連携して、動きが確認でき次第、即座に封じろ。アキト、ルミナ、君たちは前面の防衛線の圧力を最低限に抑えつつ、家族と自分の位置を守れ」
床を這う赤い非常灯が、緊張で硬直した影を淡く照らし、格納庫全体がまるで巨大な戦場の模型のように整然と浮かび上がった。ドローンの機体が金属の光をわずかに反射し、まるで無数の目を持った獣のように動き出す。
玲は深く息を吸い込み、耳元でかすかに流れる無線音を確認する。全員の意思と動きを一点に集中させ、瞬間の判断で状況を制御するためだ。目の前に立ちふさがる無数の機械、そして黒幕の冷笑すらも、彼にとっては計算の範囲内。冷たい鋼鉄と人間の意志がぶつかり合うこの瞬間、玲の瞳だけが静かに燃えていた。
「全員、準備完了だ。今夜、この一瞬を逃すな……動け、狙撃班。」
その声に応えるかのように、K部門の狙撃班が床に這い、視界を固定し、引き金に指をかけた。格納庫は一瞬の静寂に包まれ、次に訪れる嵐を待つだけだった。
【23:55/港湾地区・格納施設・格納庫中央】
重く響く金属音が格納庫の静寂を切り裂いた。壁面のパネルがゆっくりと開き、内部から黒光りする装甲に覆われた大型機械が姿を現す。六本の脚を持つその機体は、まるで生き物のように地面を踏みしめながら、低く唸るような駆動音を響かせる。砲口の金属が赤い非常灯に反射し、光がギラリと鋭く輝いた。
「……これは……単なる防衛ドローンじゃない」アキトの低い声が、息を詰めた空間に響く。
玲はゆっくりと体を前に傾け、狙撃班の視線を確認しながら冷静に指示を飛ばす。
「理央、解析を優先。黒幕の指示系統を遮断できるタイミングを計れ。アキト、ルミナ、前方圧力は最低限で抑えろ。狙撃班、射線を機体の関節に集中。絶対に装甲の弱点を外すな」
格納庫の床を踏みしめる機体の六脚が、金属の重低音を響かせ、振動が床を伝う。冷たい光がその装甲表面で反射し、威圧感は増すばかりだ。まるで鉄の獣が人間の意思を試すかのように、ゆっくりと前進を続ける。
玲は指示を小声で続ける。
「狙撃班、射撃は私の合図まで待て。無理に撃つな。理央、通信網の遮断完了と同時に、全力で封じろ。敵は一瞬の隙でも反撃する。全員、意識を一点に集中」
一瞬の静寂の後、機体の砲口がゆらりと揺れ、赤い光がちらつく。周囲の金属パイプやラックに反射して、格納庫の空間全体に威圧感が広がった。アキトは微かに息を整え、ルミナは手首の装置を操作し、理央は解析機器に集中する。
「全員、準備はいいか……行くぞ」
玲の低く硬い声が響くと、狙撃班の指先が引き金にかかり、格納庫全体が次の戦闘に向けて静かに、しかし確実に動き始めた。巨大な六脚兵器と人間たちの緊張が、重厚な夜の闇の中で対峙していた。
【0:12/港湾地区・格納施設・格納庫中央】
大型兵器が最後の動きを止め、金属の軋む音と共に火花を散らしながら静かに沈黙した。轟音の余韻が格納庫内に残る中、アキトはゆっくりと息を整え、荒い呼吸を耳元で感じながらも目を素早く周囲に走らせた。
「ルミナ、理央、家族は……大丈夫か?」
彼の問いかけに、ルミナは深く頷き、理央も小さく笑みを浮かべる。家族も恐怖から解放されたかのように、安心の表情を取り戻していた。
アキトの目に一瞬、鋭い驚きが走る。大型兵器の威圧感と、想定外の静寂に一瞬だけ心が揺れたのだ。だが、その感情はすぐに安堵へと変わる。手首の汗を拭い、肩の力を抜きながら、彼は深く息を吐いた。
「……これで、ひとまず終わったか」
ルミナは家族を抱きしめ、理央は端末の画面を確認しながら、残るデータの解析に集中する。格納庫内には静かな勝利の余韻が漂い、夜の冷たい空気の中で、小さな安堵の光が差し込んだ瞬間だった。
アキトは視線を前方の大型兵器に向け、沈黙する鉄の塊を見つめながら、静かに呟いた。
「……これで、みんな無事だ。」
【0:15/港湾地区・格納施設・格納庫中央】
沈黙を破るように、格納庫の奥から重厚な金属音が響き渡った。視線を向けたアキトたちの前に現れたのは、先ほどの大型兵器をはるかに凌ぐ人型戦闘機だった。
全身は漆黒の装甲で覆われ、両腕には高出力のプラズマブレードが冷たく光を放つ。微かに唸る動力音と共に、戦闘機はゆっくりと前進する。頭部のセンサーは赤く点滅し、まるで獲物を探す生き物の眼のように、首をゆっくりと左右に傾けた。
「……これは……」アキトは思わず息を飲む。
ルミナは家族を背後に下げながら、短く息を吐いた。「……前回とは比べ物にならない……」
御子柴理央は解析端末を素早く操作し、戦闘機のシステムを解析しようとする。モニター上には、装甲強度と武装パターン、センサー範囲が瞬時に表示され、赤く危険を示すフラッシュが点滅した。
「……くそ、こいつ、一瞬たりとも隙を見せない」アキトが低く呟く。
格納庫の冷たい空気の中、人型戦闘機の鋭いプラズマブレードが微かに振動し、赤い光が床に映り込む。緊張が一気に最高潮に達し、アキトたちは無言で構えを整える――次の瞬間、戦闘が始まることを直感していた。
【0:17/港湾地区・格納施設・格納庫中央】
その言葉通り、ルミナたちは初手から防戦一方だった。壁、床、天井――零号機のプラズマブレードが無慈悲に軌跡を描き、火花が飛び散る。ルミナは家族を背後に庇いながら、息を切らしつつも必死に身を翻す。
「くっ……やはり、単独では……!」アキトの声も床に反響する。
その瞬間、格納庫の入口が激しく開き、一人の男が静かに現れた。全身は黒と銀の戦闘スーツで覆われ、肩から腰にかけては最新式の戦術装備が装着されている。冷たい眼光が零号機を一瞥し、淡々と歩を進めるたびに床の金属板がわずかに鳴る。
「……来たか」アキトが小声でつぶやく。
男の名は白銀透也、通称“撃墜王”。高度な戦闘解析能力と圧倒的な反射神経を持つスペシャリストで、零号機を一対一で撃破するために送り込まれた最後の切り札だった。彼の指先が空中で軽く動くと、ホログラム状の戦闘解析が瞬時に展開され、零号機の動きがすべて可視化される。
「……君たちは守る必要がある。後は任せろ」透也は低く告げ、冷静な足取りで戦闘区域に踏み込む。その存在だけで、圧倒的な空気の支配力を放ち、零号機の赤いセンサーが僅かに揺らぐ。
戦局は、ここで一気に変わろうとしていた。
【0:18/港湾地区・格納施設・格納庫中央】
透也は一歩踏み出すと、零号機の周囲を冷静に観察した。赤く光るセンサーの動き、プラズマブレードの軌跡、機体の微妙な傾き……すべてが透也の頭の中で瞬時に解析される。
「――まずは脚部の動力ラインだな」彼の低い声がわずかに響く。
透也の指先が空中で素早く動くと、ホログラムが輝き、零号機の弱点が赤くマーキングされる。瞬間、機体は攻撃モードを検知し、プラズマブレードを振るおうとするが、透也は一歩も動じない。
「ここだ」透也は静かに呼吸を整え、ブレードを構える。
高速の連動攻撃が零号機に向かって放たれる。刃が光を切り裂く音と金属が衝突する鋭い音が響き渡る。零号機は予想外の攻撃パターンに一瞬だけ防御を乱され、その隙に透也はプラズマブレードの反動を利用して、脚部動力ラインを狙った正確な斬撃を叩き込む。
「っ……!」零号機が僅かに体勢を崩し、火花が飛び散る。
ルミナはその瞬間、家族を安全な位置に押しやり、アキトも透也の背後から敵の注意を引くために小さく体を動かした。
「……これで、いける!」透也は冷静ながらも力強く告げる。次の攻撃パターンを予測し、零号機の動きを完全に封じる構えだ。
格納庫内に張り詰めた緊張感が、一瞬だけ透也の存在によって和らぎ、希望の光が差し込んだかのようだった。
【0:19/港湾地区・格納施設・格納庫中央】
透也は一歩前に踏み出すと、零号機の反応速度を冷静に測った。赤く点滅するセンサーが向けられ、プラズマブレードの輝きが暗闇に鋭く切り込む。
「こいつ……動きは早いが、意外とパターンは単純だな」透也は低く呟き、瞬時に次の攻撃予測を頭の中で組み立てる。
零号機が再び刃を振りかざす瞬間、透也は体を低く沈め、プラズマの閃光を寸前でかわす。火花が飛び散り、冷たい空気が鋭い音と共に震える。
「狙いは脚部、動力ライン……これを潰せば動きが鈍る」透也は瞬時に判断し、ブレードを正確に繰り出す。
鋭い衝撃と共に零号機の脚部装甲が切り裂かれ、機体が一瞬揺れる。赤い警告灯が点滅し、制御系統の一部に異常が出たことを示す。
「これで動きを封じる……いや、まだ油断はできない」透也は息を整え、次の連続攻撃に備える。
ルミナは家族を押しやりながら、透也の攻撃タイミングに合わせて黒服の敵を牽制する。アキトも隙を見て零号機の注意を引き、完璧な連携で戦場を制御する。
「この瞬間を逃すな……!」透也は冷静ながらも内に秘めた力を爆発させ、刃を次の弱点へと滑らせた。プラズマブレードの先端が零号機の胸部装甲を深く切り裂き、内部から火花と蒸気が立ち上る。
零号機が轟音と共に一歩後退し、初めてその圧倒的な威圧感の中にひびが入ったかのように見えた。
【0:21/港湾地区・格納施設・格納庫中央】
零号機が一歩後退した隙に、透也は冷静に次の攻撃を構える。全身を覆う漆黒の装甲の隙間を見極め、内部の動力ラインを正確に狙う。
「ここで決める……!」透也の声は低く、だが確固たる決意が込められていた。
ブレードが光の軌跡を描き、零号機の胸部に鋭く突き刺さる。金属とプラズマの接触音が響き、内部から火花と蒸気が迸る。零号機の動きが一瞬鈍り、赤く点滅していたセンサーが激しく揺れる。
ルミナはその隙に家族を後方へ押しやり、安全を確保する。アキトは零号機の注意を引き、素早く背後に回り込む。
「これで……動けなくなるはず!」透也はブレードを引き抜き、即座に装甲の裂け目から電撃を流し込む。内部の回路が短絡を起こし、零号機が大きく揺れた。
「くっ……こんな……!」黒幕の声が通信越しに響くが、既に零号機の制御は透也の手に委ねられていた。
零号機は最後の力を振り絞って一撃を放つも、透也は寸分の狂いもなくかわし、その隙に決定的な一撃を加える。胸部装甲が割れ、中の動力コアが露出する。
アキトが素早くコアを破壊し、零号機は轟音と共に完全に停止した。赤い警告灯が消え、冷たい蒸気だけが薄暗い格納庫に漂う。
透也は深く息をつき、周囲を確認する。ルミナの家族は無事で、アキトも安全な位置にいる。戦闘は終わった——だが、黒幕はまだ逃げている。
「……さて、次はあの黒幕だな」
透也は冷静に告げ、戦場の中心で立ち上がった。
【0:35/港湾地区・格納施設・格納庫中央】
ルミナは深く息をつき、拳を解きながら夫と子どもたちのもとへ駆け寄った。
「大丈夫? 怪我はない?」彼女の声には安堵と少しの震えが混ざっていた。
夫はかすかに笑みを浮かべ、握り返す手に力を込める。
「ああ……お前が守ってくれた。ルミナ……ありがとう」
子どもたちは母の胸に飛び込み、泣きながらも安心した表情を浮かべる。
「ママ、怖かったけど、すごいよ!」弟が小さく声を弾ませる。
「ルミナ、やっぱりママは最強!」姉も興奮を抑えきれず、手を握りしめる。
ルミナは一瞬、戦闘で張り詰めた体を緩め、家族の顔を順に見つめた。
「もう大丈夫……これからは絶対に、誰にも傷つけさせない」
アキトは静かにその場に立ち、家族を見守るルミナの背中をそっと押すように視線を送った。
「よくやった、ルミナ……本当に、よくやった」
御子柴理央も落ち着いた声で状況を確認する。
「君たちの安全は確保した。だが、この施設にはまだ危険が残っている。速やかに全員を避難させる」
ルミナは家族の手を取り、慎重にその場を後にする。背後で停止した零号機の冷たい影が、静かに廃墟の中で息を潜めているかのようだった。
【0:38/港湾地区・格納施設最深部・中央制御室】
瓦礫の崩落音が断続的に響く中、御子柴理央は巨大な制御装置の前に立ち、迷いなく携帯端末を接続した。
割れた床から立ち上る粉塵が赤い非常灯に照らされ、空気は焦げた金属の匂いを帯びている。
「黒幕の残した通信網……まだ生きているな」
理央の指先が走るたび、ホログラム上に複雑な回線図が立体的に浮かび上がる。
蜘蛛の巣のように張り巡らされた回線の中心には、脈打つように点滅する中核ノードがあった。
「ここで潰す。奴の“意思”を、完全に断ち切るために」
背後で、玲が低く息を吐く。
「遠隔バックアップは?」
「三系統確認。すでに二つは遮断済み。残り一つが厄介だが……」
理央は一瞬だけ目を細め、端末の出力を最大に引き上げた。
制御装置全体が低く唸り、床下から振動が伝わってくる。
「強制同期、侵入完了。——今だ」
次の瞬間、ホログラムの中心が赤から白へと反転し、鋭い警告音が鳴り響いた。
だが、それも長くは続かない。
「通信遮断。記録消去開始。自己再構築ルーチン……強制停止」
最後のキーを叩いた瞬間、制御装置の光が一斉に落ちた。
回線図は霧が晴れるように消え、室内には非常灯だけが静かに残る。
理央は端末を下ろし、短く告げた。
「終わった。黒幕はもう、ここから何も動かせない」
アキトが小さく息をつき、拳を緩める。
「……これで、本当に決着だな」
瓦礫の向こうで、遠くサイレンの音が重なり始めていた。
この夜に張り巡らされていた“影”は、確かに、今ここで断ち切られた。
【0:52/港湾地区・格納施設外】
崩壊する施設を背に、冷たい冬空の下で仲間たちは再会を果たした。
遠くで金属が軋む音が断続的に響き、黒煙が夜空へと溶けていく。
アキトは膝に手をつき、肩で息をしながらも苦笑した。
「……生きて外に出られただけでも奇跡だな。今日は厄日だと思ってたけど、帳消しにしてやる」
理央は端末を閉じ、視線を空へ向ける。
「内部通信は完全に遮断。黒幕の残した“意思”も、これで終わりだ。もう追跡はできない」
ルミナは夫と子どもたちを強く抱きしめ、震える息の合間に言葉を絞り出した。
「もう離さない。絶対に……二度と、こんな目には遭わせない」
夫は彼女の背に手を回し、静かにうなずく。
「帰ろう。みんなで、家に」
その少し離れた場所で、玲は男らしい低い声で通信を切った。
「K部門、現場終了。残存脅威なし。救護と封鎖を引き継げ」
彼は仲間たちに一瞥を送り、短く付け加える。
「……よくやった。全員だ」
夜風が一瞬、強く吹き抜ける。
だがその冷たさは、確かに終わりを告げる合図だった。
彼らは互いの無事を確かめ合いながら、静かに、確かな一歩で闇を後にした。
【23:47 / 港湾倉庫跡】
「アキト、全員無事か?状況を報告しろ」
玲の落ち着いた声だった。長年の経験が滲む低音に、緊張がわずかに和らぐ。アキトは肩越しにルミナと理央、家族の無事を確認しながら応える。
「……全員無事です。ルミナの家族も確保済み。零号機も制圧完了」
玲は机の端に置かれた通信機を握り、冷静に口を開く。
「よし。これで黒幕の行動は封じた。だが、今回の件で動いた勢力はまだ全貌を掴み切れていない。港湾施設のデータ、あの黒い車、シルフィードの動き……すべて精査する。アキト、ルミナ、理央、君たちはまず安全な場所に待機しろ」
アキトは深く頷き、ルミナは家族を守るようにそっと抱きしめた。理央は端末を握り、既に解析を開始している。
「……了解しました。全員、無事に帰還。これで一段落ですね」
玲は視線を遠くの夜景に向け、冬の冷たい風が差し込む倉庫跡の暗がりを見つめる。
「だが、夜はまだ長い……俺たちの戦いは、まだ終わっていない」
静かな空間に、玲の決意を秘めた声だけが響き渡った。
【23:55 / 港湾施設周辺】
ルミナは夫と子どもたちの手をしっかり握り、震える呼吸を整える。
アキトは背後を確認しながら、低く声をかけた。
「ここからは安全だ。みんな、急いでこっちに」
夜霧が立ち込める中、薄暗い光の下で待機していた御子柴理央、玲、そして影班のメンバーが静かに姿を現す。
理央は解析端末を抱えながらも、全員の無事を確認し、短く頷いた。
「全員揃ったな。これで一時的には安全圏だ」
ルミナの子どもたちはまだ小さな手を母親にぎゅっと握り、目を大きく見開いて辺りを見渡す。
「ママ、怖かった……でも、守ってくれたんだね!」
ルミナは微笑みながら肩を抱き寄せ、静かに答えた。
「うん、大丈夫。もう怖くないよ。みんなでここから先は一緒だから」
アキトは風に吹かれた髪を整え、緊張を解きつつも、周囲を鋭く見回す。
「ここから先も油断はできない。夜はまだ終わっていない――だが、今は無事を喜ぼう」
薄明かりの下、仲間たちの影が長く伸びる。冷たい風の中に、わずかな安堵と絆の温もりが漂った。
【00:12 / 古びた寺院】
夜霧が濃く立ち込め、冷たい空気が静かに寺院の廊下を包む。
薄暗い灯籠の揺らめく光に、血に染まった御堂の姿が浮かび上がる。
床に横たわるその亡骸は、精密に仕掛けられた罠や戦闘の跡を物語っていた。
鋭く光る瞳はもう失われ、静寂だけが冷たく支配する。
御子柴理央はすぐそばで解析端末を操作し、微かに息を吐いた。
「……これで全ての指令網は破壊された。黒幕の意思は完全に断たれた」
ルミナは倒れた御堂を一瞥し、握りしめた拳をゆっくりと解く。
「……終わったんだね……」
アキトは深く息を吸い込み、静かに立ち上がる。
「ようやく……ここで全て終わった」
寺院の石畳に響く足音だけが、夜霧の中にひそやかに消えていく。
冷たい風が吹き抜ける廃寺に、つかの間の静寂と安堵が漂った。
【00:18 / 古びた寺院外】
夜霧の漂う境内で、アキトは無線機を耳に当て、低く落ち着いた声で報告する。
「こちら、アキト。現場制圧完了。御堂の指令網も完全に破壊。状況は安定。」
ルミナも隣で端末を操作しながら応答する。
「了解。ルミナです。家族は無事で確保済み。混乱はもうないわ。」
御子柴理央が冷静に解析端末を見つめつつ、無線に口を開く。
「理央です。残留データも全て消去。追跡不能状態にしました。」
間髪入れず、服部一族の迅牙の声が応える。
「迅牙、こちら。状況把握。現場周囲の警戒も解除。全員無事だな?」
アキトは一瞬、深く息を吐き、夜霧に包まれた寺院の屋根を見上げる。
「そうだ、全員無事。これでひとまず、任務は完了だ」
ルミナは微かに笑みを浮かべ、家族に目をやる。
「これでやっと……心から安堵できる」
無線を通じ、互いの安否を確認し合う声が夜霧の中で静かに交わされ、緊張の一夜がようやく幕を下ろす。
【00:45 / 古びた寺院境内】
玲は夜霧に包まれた境内で、仲間たちを静かに見渡した。
アキトの決意が滲む鋭い眼差し、ルミナの家族を守る覚悟、御子柴理央の冷静沈着な佇まい。影班の成瀬、桐野、安斎たちは、戦闘後もなお気を緩めず身を固めている。
そして、服部一族の玄真と紫苑の鋭い眼光が、辺りの暗闇に潜む可能性を見逃さないかのように光った。
玲は深く息をつき、低く口を開く。
「……みんな、よくやった。今夜の成果は、確かに我々全員の力だ」
アキトが拳を握りしめ、ルミナは微かに頷く。理央は解析端末を片手に冷静に頷き、影班も互いに視線を交わして確認する。
玲はその全員を見渡し、静かに心の中で誓った。
「ここで終わりではない。だが、今は……この瞬間を、共に生き抜いた証として刻もう」
夜霧の中、仲間たちの影が互いに寄り添い、寺院の境内に穏やかな静寂が訪れる。
【02:15 / 市内廃ビル群】
薄暗いビルの谷間に、玲は静かに足を止めた。手には朱音のスケッチ、そして天音の占術結果を示す紙片が握られている。
「ここだ……候補地点は間違いない」
アキトは背後で拳を握り、ルミナは家族を安全圏に待機させつつ、静かに頷く。御子柴理央は解析端末を手に、黒幕候補の通信網を再度チェックし、微かな電波の揺らぎを確認する。
影班の成瀬、桐野、安斎は互いに目線を交わし、無言で潜入ルートを確認する。服部一族の玄真と紫苑は、周囲の建物影を警戒しつつ、精密な動きを見せる。
玲は低く声を落とし、全員に指示を出す。
「手分けする。アキト、ルミナ、理央は正面。影班は側面と屋上、服部一族は周囲の封鎖を担当する。隙を作るな、連絡は常に無線で」
アキトが静かに拳を掲げ、ルミナは家族を守る覚悟を胸に一歩を踏み出す。
御子柴理央が端末を操作しながら、解析データを共有する。
夜の廃ビル群に、潜入部隊の静かな影が次々と伸びていく。
【21:15 / 街外れの安全確保ポイント】
子どもたちは無邪気な笑顔を浮かべ、ルミナの周りをくるくると駆け回る。
小さな手が母の腕にそっと触れ、ルミナは思わず微笑み返す。
「ママ、こっち来て!」
弟の声が明るく響き、姉妹も笑いながら母の周りで輪を作る。
ルミナは膝をつき、優しく抱き上げる。
「ふふ、元気いっぱいね。でも今日はもう安全だから、安心して」
アキトは少し離れた位置からその光景を見守る。
肩の力を抜き、微かな笑みを浮かべる。
「……家族を守るって、こういうことか」
冬の夜風が頬を撫で、薄暗い空の下で小さな笑い声が平和に溶け込んでいく。
瓦礫や戦いの残骸は遠く、今この瞬間だけは、誰もが安堵の中にいた。
【22:10 / 玲探偵事務所】
玲は薄暗い事務所の中、デスクライトに照らされた机の前に座り、新たな依頼書をじっと見つめていた。
机の上には、前回の事件で使用した資料や解析レポートが整然と並ぶ。
「……次はどんな事件だろうか」
玲は低く呟き、ペン先で紙の端をそっとめくる。
静寂だけが部屋に満ち、紙をめくる音が静かに響く。
窓の外の夜景は淡く光り、街のざわめきが遠くに聞こえる。
玲は深く息をつき、肩を少し落としながらも、鋭い目で依頼書の文字を追った。
「油断は禁物……だな」
その静かな夜の事務所で、新たな夜が始まろうとしていた。
【ルミナのあとがき】
――この物語を書き終えて、改めて自分の歩んできた道を思い返しました。
私はかつて、この世界から離れて家族のもとへ戻りました。あの頃はただ、守るべきものが家族だけだと思っていました。でも、今回の事件を通じて気づいたんです。守るべきものは、目の前にいる人だけじゃなく、信じ合える仲間、そして正義のために動く全ての人々だと。
戦うことは決して簡単ではありません。恐怖や迷いもあります。でも、家族を思う心と仲間を信じる心があれば、私たちはどんな困難にも立ち向かえる。あの夜、そしてあの戦いの中で、私は自分自身の強さと覚悟を改めて知ることができました。
読んでくださった皆さん、どうか覚えていてください。たとえ状況がどんなに厳しくても、大切なものを守ろうとする意志は、必ず力になります。
――ルミナ




