88話 月影に舞う怪盗 ― シルフィード事件録 ―
登場人物紹介
玲
冷静沈着な探偵。状況を俯瞰し、常に最善手を選ぶ判断力の持ち主。影班や服部一族とも信頼関係を築き、事件の裏に潜む“次の波”を見据えている。
アキト
玲の相棒。変装・潜入の達人で、軽い口調とは裏腹に高い実力を持つ。年齢不詳だが実は19歳。どんな場面にも「ふらっと」現れる存在。
朱音
鋭い感性と想像力を持つ少女。スケッチブックに描く絵が事件の本質を捉えることも多い。自称・結界師。玲とは血縁関係はないが、強い信頼で結ばれている。
奈々(なな)
情報解析担当。監視ログやデータの矛盾を洗い出すスペシャリスト。感情を表に出さないが、仲間への信頼は厚い。
怪盗シルフィード
白い仮面と黒いマントを纏う女怪盗。華麗な動きと周到な計画性を持つが、単独犯ではなく、背後に別の勢力が存在する。
小田切 諒
事件の表の首謀者。冷静沈着で皮肉屋。すべてを失ってなお、不気味な余裕を失わない。
館長
宝石展の責任者。事件後、警備体制と展示の在り方を根本から見直す決意を固める。
藤堂
報道キャスター。事件の真相を世に伝えた人物。言葉の重みと責任を誰よりも理解している。
紫苑
服部一族のまとめ役。厳格だが義に厚く、一族と影班の橋渡しを担う。
迅牙
服部一族の忍び。“影追い”の異名を持つ追跡の達人。
月影
服部一族の戦闘要員。三つ刃を操る冷徹な剣士。
成瀬由宇
影班の一員。暗殺・索敵担当。無音の動きと鋭い観察眼を持つ。
桐野詩乃
影班の痕跡消去担当。足跡ひとつ残さない完璧な仕事ぶりを誇る。
安斎柾貴
影班の精神制圧担当。見えない圧で相手の行動を封じる。
神薙
影班の狙撃手。寡黙で正確無比。
ルミナ
影班と繋がりを持つ女盗賊。自由奔放だが義理堅い助っ人。闇に生き、闇に消える。
この事件は終わった。
だが――
月影に舞う“次の怪盗”の気配は、まだ消えていない。
冒頭
時刻:22時18分
場所:展望ラウンジ・特別展示室 外周回廊
展示室の外周を巡る回廊は、照明を落とされ、非常灯だけが床に淡いラインを描いていた。
ガラス越しに見える宝石の輝きが、逆にこの空間を不自然なほど暗く感じさせる。
警備主任の山崎は、耳元のインカムに指を当て、小さく息を整えた。
「各ポイント、異常はないか」
『東側通路、異常なし』
『搬入口、問題ありません』
淡々と返ってくる報告に、山崎は一瞬だけ眉をひそめる。
――静かすぎる。
それが、長年現場に立ってきた彼の直感だった。
その頃、展示室の天井近く。
ダクトの影に溶け込むように、黒い人影が静止していた。
怪盗シルフィード――
女性とは思えぬほど無駄のない動きで、彼女は天井構造を見渡す。
指先に装着された薄型デバイスが、警備センサーの配置をホログラムで投影していた。
「……赤外線、床から二十センチ。圧力センサーはケースの周囲だけ」
彼女は小さく呟き、唇に微かな笑みを浮かべる。
「展示に気を取られすぎね。上は、がら空き」
シルフィードは細いワイヤーを伸ばし、音を立てないよう慎重に体重を預けた。
空中で一度静止し、呼吸を止める。
次の瞬間、彼女の体は羽のように滑り、展示室の梁の影へと移動する。
一方、展示室内。
警備員の佐藤が、ふとガラスケースの反射に違和感を覚えた。
「……主任」
声を潜め、山崎に近づく。
「今、天井……何か、動いたような」
山崎は即座に視線を上げた。
だが、見えるのは完璧に設計された天井装飾と照明だけ。
異常は、ない。
「気のせいじゃないか?」
そう言いながらも、彼はインカムに短く指示を出す。
「天井センサー、再チェック。感度を一段上げろ」
その瞬間――
展示室の照明が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
「……今のは?」
佐藤の声がわずかに震える。
梁の上で、シルフィードは静かに着地し、心の中でカウントを取っていた。
三、二、一。
照明は元に戻り、展示室は再び完璧な静寂を取り戻す。
誰も気づかない。
そのわずかな“間”に、彼女はすでに次の一手を打ち終えていた。
「警備システム、同期完了……」
シルフィードは宝石の並ぶガラスケースを見下ろし、囁く。
「さあ――本番は、これから」
その視線の先で、宝石たちは何も知らず、ただ美しく光を放っていた。
午後六時三十分
場所:都内高層ビル・展望ラウンジ併設展示フロア
エレベーターの扉が静かに開き、柔らかな絨毯の感触が足裏に伝わった。
玲は周囲を一瞥し、来場者の流れと警備員の配置を無言で確認する。スーツ姿の来客、ドレスアップしたカップル、そして一定間隔で立つ警備員たち――表向きは、何一つ異変のない宝石展の夜だった。
「警備、思ったより厚いですね」
隣を歩くアキトが、小声で言った。今日は黒縁眼鏡に落ち着いた色のジャケット、どこにでもいる来場者の一人にしか見えない。
「未遂があった直後だからな。だが――」
玲は展示室中央のガラスケースに目を向ける。
「警備が厚い場所ほど、別の“薄い場所”が生まれる」
アキトは小さく笑った。
「なるほど。怪盗シルフィードが狙うなら、正面突破じゃない」
二人が立ち止まった先、最大の展示ケースには、今夜の目玉である深紅のルビーが鎮座していた。複数のセンサー、床下の圧力感知、天井の赤外線。説明パネルには、誇らしげに「最新鋭の警備システム」と書かれている。
「最新鋭、ね……」
アキトがぼそりと呟く。
「こういうの、だいたい“人の目”が盲点になるんですよ」
その瞬間――
玲のイヤーピースが、かすかに震えた。
『こちら奈々。今、会場周辺のネットワークに不自然なパケットの揺らぎが出てる』
奈々の声は低く、淡々としている。
『ドローン制御系統に似た信号。まだ確証はないけど、外部からの侵入を試してる可能性が高い』
玲は視線を落とさず、小さく応じた。
「時間は?」
『早ければ、三十分以内』
アキトはそのやり取りを聞き、静かに息を整える。
「じゃあ、そろそろ僕の出番かな」
玲は一瞬だけ彼を見る。
「無理はするな。今回は“捕まえる”より、“正体を掴む”のが優先だ」
「了解」
アキトは軽く手を振り、来場者の流れに紛れるように歩き出した。
その背中は、数歩進んだだけで、もうどこにいるのかわからない。
展示室の天井近く、ガラス越しに見える夜景が、静かに瞬いていた。
その光のどこかで――
すでに、彼女は動き始めている。
玲はルビーのケースを見つめ、低く呟いた。
「来るぞ……怪盗シルフィード」
【時間:同日 午後三時二十分
場所:玲探偵事務所・応接室】
玲は一歩中へ入り、静かにドアを閉めた。外の喧騒が遮断され、応接室には張り詰めた沈黙が落ちる。
「お待たせしました」
玲がそう告げると、ソファに腰掛けていた松田真理子は背筋を伸ばし、丁寧に頭を下げた。
「いえ……こちらこそ、急なお願いにも関わらず時間をいただいてありがとうございます」
淡いグレーのスーツに身を包んだ彼女の指先は、膝の上でわずかに強張っている。緊張を隠そうとしているのが、逆に伝わってきた。
玲は向かいの席に腰を下ろし、穏やかな声で切り出す。
「宝石展の件ですね。未遂とはいえ、相当巧妙な手口だったと聞いています」
その瞬間、応接室の扉が軽くノックされた。
「失礼します」
入ってきたのはアキトだった。黒のジャケットにラフなシャツ、しかし足取りと視線には無駄がない。彼は玲の隣に自然に立ち、松田に軽く会釈した。
「こちらは相棒のアキトです。現場対応と潜入調査を担当します」
「相棒……」
松田は一瞬驚いたように目を瞬かせたが、すぐに小さくうなずいた。
「心強いです。正直、警備会社だけでは限界を感じていて……」
アキトは柔らかく微笑みながら椅子に腰を下ろす。
「怪盗シルフィード、ですよね。派手な名前とは裏腹に、かなり現実的な手口を使うタイプだ」
松田の表情が引き締まった。
「やはり、ご存じでしたか」
「ええ。ドローン、電波攪乱、内部動線の把握。単独犯じゃない可能性も高い」
アキトの言葉に、玲が静かに補足する。
「内部協力者、もしくは事前に警備データが漏れている。どちらにしても、表に出せない事情があるから、私たちに依頼が来た……そうですね?」
松田は一瞬、視線を伏せたあと、覚悟を決めたように口を開いた。
「はい。実は、警備システムの一部が、私の管轄下にある部署で管理されていました。もし情報漏洩が事実なら……」
言葉を詰まらせる松田に、アキトは穏やかな声を向ける。
「大丈夫です。真実を明らかにするのが、俺たちの仕事ですから」
玲も静かにうなずく。
「今夜も展示は続きます。時間は多くありません」
松田は顔を上げ、二人をまっすぐ見据えた。
「どうか、力を貸してください。宝石だけじゃなく……この件で、誰かが傷つくのは、もう見たくないんです」
玲は迷いなく答えた。
「引き受けます。アキト、準備は?」
アキトは立ち上がり、軽く肩を回す。
「いつでも。相棒と一緒なら、なおさらね」
応接室に、静かな決意の空気が満ちていった。
事件は、すでに動き始めている。
【時間:同日 15:40
場所:玲探偵事務所・調査室】
玲は椅子に腰を下ろしたまま、スクリーンに映し出された警備配置図から視線を外さず、低く言った。
「警備員の動線は一見すると完璧だ。だが――この通路と、この展示室の角。ここに、わずかな“間”がある」
隣で腕を組んでいたアキトが、一歩前に出て画面を覗き込む。
彼の目は軽いが、その奥は鋭かった。
「人の配置は万全でも、機械に頼りすぎてる。監視カメラが“見てるつもり”になってるポイントですね」
玲は頷き、映像を一時停止する。
深夜帯の警備映像。警備員が視線を落とした、ほんの数秒。
「この瞬間だ。人は油断していないつもりでも、必ず隙を作る」
アキトは口角を少し上げた。
「怪盗シルフィードが狙うなら、ここですね。
高所、死角、そして“観客が美しさに見惚れる時間帯”」
玲はゆっくりと椅子から立ち上がり、窓の外に目を向けた。
午後の光がビルの隙間に落ち、都会の影を長く伸ばしている。
「今回、表で動くのは俺だ。依頼主との調整と、公式警備の補強」
「そして――」
アキトは自然に続きを受け取った。
「裏は僕ですね。
警備員、スタッフ、来場者……必要なら“誰にでも”なります」
玲は一瞬だけ、苦笑した。
「相棒としては、頼りすぎるくらいだ」
アキトは軽く肩をすくめる。
「光栄です。
じゃあ、僕はまず展示スタッフの名簿と、警備会社の下請け情報を洗います。
“怪盗”は、人の繋がりから入り込む」
玲はメモ帳を閉じ、決意を込めて言った。
「今夜は前哨戦だ。
必ず動きがある。――見逃すな」
アキトはすでにスマホを操作しながら、ドアへ向かっていた。
「了解。
今夜の宝石より、輝く真実を盗み出しましょう」
ドアが静かに閉まり、調査室には再び、機械音と緊張だけが残った。
【時間:22時45分
場所:都心・高層ビル群に囲まれた宝石展会場前 路上】
夜の街灯に照らされ、宝石展会場の正面エントランスは静まり返っていた。
ガラス張りの外壁に反射する光が、警備用の赤外線センサーの位置をかすかに浮かび上がらせている。
アキトは黒いコートの襟を指先で整え、警備員のバッジを軽く叩いた。
無線機に手を添え、低く短く息を整える。
「……こちら、外周担当。異常なし」
耳元のイヤーピースから、玲の落ち着いた声が返ってくる。
「了解。風向きは?」
「問題ない。人通りも予定通り減ってきてる。
それより――」
アキトは視線をさりげなく展示室上階へ向けた。
高層階の非常灯が一瞬、わずかに明滅したように見えた。
「北側、三十階付近。照明が一瞬揺れた。
ただの瞬断かもしれないけど、念のため記録しといて」
「確認する」
数秒後、玲の声が少し低くなる。
「……監視ログ上も、今の瞬間だけ電圧が落ちてる。
偶然にしてはタイミングが良すぎるな」
アキトは口元だけで小さく笑った。
「だろ?
怪盗さん、挨拶代わりに様子見ってところか」
そのとき、背後から足音が近づく。
アキトは一瞬で表情を切り替え、警備員らしい無機質な顔つきになる。
「お疲れさまです」
声をかけてきたのは、同じ制服を着た若い警備スタッフだった。
「異常ありませんか?」
「ええ、今のところは。
風が冷えるんで、交代の時間までは中で待機しても大丈夫ですよ」
自然な口調、無駄のない間。
相手は疑う様子もなく、軽く会釈して去っていった。
足音が遠ざかったのを確認し、アキトは小さく息を吐く。
「……相変わらず、現場は緊張感が違うな」
「楽しんでるだろ」
イヤーピース越しに、玲の声にわずかな笑みが混じる。
「バレた?」
「長年の相棒だからな。声で分かる」
アキトは肩をすくめ、再び展示室を見上げた。
「でも、今回は相手も相当だ。
ドローン、ハイテク侵入、内部撹乱……どれか一つでも欠けたら失敗する」
「だからこそ、こちらがいる」
玲の声は静かだが、迷いがない。
「アキト、外から頼む。
俺は中で“見えない違和感”を追う」
「了解。
じゃあ俺は“見られない動き”を潰す」
二人の言葉は短く、それで十分だった。
夜の風がコートの裾を揺らす。
アキトは帽子の影に視線を隠し、ゆっくりと歩き出した。
宝石よりも鋭く、
警報よりも静かに――
事件は、すでに動き始めていた。
【時間:21時47分
場所:都心・高層ビル内 宝石展 特設展示フロア】
アキトは展示フロアの外周をゆっくりと歩きながら、ガラスケースに反射する来場者の姿を視界の端で追っていた。
足取りは一定、背筋は自然に伸び、まさに「慣れた警備員」のそれだ。
(……動線は想定どおり。監視カメラの死角は――)
彼はさりげなく立ち止まり、腕時計に目を落とすふりをして天井の隅を確認する。
そこには、事前に玲と洗い出した“わずかな空白”があった。
「……やっぱり、ここだな」
小さく息を吐き、インカムに指を添える。
声は極力低く、周囲に溶け込むように。
「こちらアキト。展示フロア異常なし。だが、北側ケース上部に監視の薄いポイントあり。想定どおりだ」
耳元で、すぐに玲の落ち着いた声が返ってくる。
『了解した。無理に動くな。相手が動くのを待つ』
「了解」
アキトは短く応じ、再び歩き出す。
すれ違う来場者の会話、靴音、遠くで鳴るエレベーターの到着音――
すべてが“日常”を装っているが、その裏で確実に何かが進行している気配があった。
展示ケースの前で立ち止まる一人の女性。
高級そうなコートに、指先まで計算された所作。
アキトは一瞬だけ視線を送り、すぐに興味のない警備員の顔に戻す。
(怪盗シルフィード……か。まだ確信はないが)
彼は何事もなかったかのように巡回を続けながら、内心で気を引き締めた。
「――今夜は、長くなりそうだな」
そう呟いた声は、展示室のざわめきに溶け、誰の耳にも届くことはなかった。
【時間:23時47分
場所:東京・高層ビル宝石展会場 展示室裏通路】
アキトは呼吸を整えながら、通気口の真下で足を止めた。
展示室から漏れる照明が、金属製のダクトに細い光の線を落としている。
(……いる。間違いない)
耳を澄ますと、微かに布が擦れる音。
次の瞬間、通気口から吹き出す風に混じって、かすかな人の気配が動いた。
アキトは音を立てないよう、ゆっくりと片膝をつく。
警備員の無線に指先で触れ、ボタンは押さずにそのまま低く囁いた。
「玲、展示室北側。通気口だ。――来るぞ」
返事はない。だが、それでいい。
玲なら、この一言で十分に状況を理解する。
通気口の影が、ふっと揺れた。
次の瞬間、黒い影が音もなく床へと降り立つ。
マントが静かに波打ち、照明を避けるように影の中へ溶け込む。
アキトはあえて動かなかった。
相手の視線が、こちらをかすめて通り過ぎるのを感じる。
(冷静だ……相当慣れてる)
怪盗シルフィード。
噂どおり、動きに一切の無駄がない。
影が一歩踏み出した、その刹那――
アキトは床に落ちていた警備用の小型ライトを、わざと足で転がした。
カラン、と乾いた音。
「……?」
シルフィードの動きが、ほんの一瞬止まる。
その隙を逃さず、アキトは警備員としての声色で、自然に言った。
「そちら、巡回ルート外です。
この時間、立ち入りは禁止されていますが」
影の中から、低く、どこか愉しげな声が返ってきた。
「……へえ。
気づかれるとは思わなかったわ」
マントの奥で、彼女の瞳が細く光る。
「あなた、ただの警備員じゃないでしょう?」
アキトは一歩だけ前に出て、静かに答えた。
「仕事熱心なだけですよ。
――今夜は、ここまでにしてもらえませんか」
数秒の沈黙。
やがて、シルフィードは小さく笑った。
「いいわ。今日は様子見。
でも――次は、もっと上手くやる」
風が再び吹き抜け、影は通気口の向こうへと消えていった。
アキトはその場に立ったまま、深く息を吐く。
「……やっぱり、簡単な相手じゃないな」
その直後、無線が静かに震え、玲の声が入った。
「捕まえられなかったか?」
アキトは小さく笑って答えた。
「ええ。でも、顔と癖は掴みました。
次は、こっちの番ですね」
展示室の宝石たちは、何事もなかったかのように静かに輝き続けていた。
【時間:23時18分
場所:都心・高層ビル内 宝石展 展望ラウンジ展示室】
通気口の縁にかけられた白い手袋が、床に触れた。
続いて、音も立てずに一人の人物が展示室へと降り立つ。
黒いマントは重力に逆らうように一瞬宙を舞い、すぐに床へ吸い込まれるように静まった。
白いマスクの奥から、冷静な視線がガラスケースをなぞる。
「……相変わらず、過剰な警備ね」
怪盗シルフィードは小さく息を吐き、ケース中央に鎮座するダイヤモンドへと目を留めた。
宝石はスポットライトを受け、まるで挑発するかのように眩い光を放っている。
その瞬間――
「そこまでだ」
低く、落ち着いた声が展示室に響いた。
シルフィードの肩が、わずかに揺れる。
背後、柱の影からゆっくりと姿を現したのは、警備員姿のアキトだった。
その目は鋭く、しかし感情を読ませない。
「通気口から入るとは思ってた。でも、風向きまでは計算に入れてなかったみたいだな」
シルフィードはくすりと笑い、マントの端を指でつまんだ。
「……あなた、ただの警備員じゃないわね」
「よく言われる」
アキトは一歩、距離を詰める。
同時に、展示室の照明がわずかに明るさを増した。
柱の反対側から、静かな足音。
「ここまでだ、シルフィード」
現れたのは玲だった。
黒いスーツに身を包み、手にはタブレット端末。画面には警備システムの制御画面が表示されている。
「通気口の開閉、照明の制御、監視カメラの死角。すべて把握済みだ」
シルフィードは二人を見比べ、静かに息を整えた。
「探偵と……その相棒、というわけね」
アキトが肩をすくめる。
「相棒ってのは、悪くない呼び方だ」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、シルフィードの足元から微かな煙が立ち上った。
「――っ、スモーク!」
だが、煙が広がるより早く、展示室の換気が最大出力で作動する。
煙は渦を巻きながら天井へ吸い込まれていった。
玲が淡々と告げる。
「その手も、もう読んでいる」
シルフィードは立ち止まり、やがて小さく笑った。
「……今回は、あなたたちの勝ちね」
白いマスクの奥で、彼女の瞳が細められる。
「でも覚えておいて。宝石より価値のある“秘密”が、この街にはまだたくさん眠っているわ」
アキトは一瞬だけ、その言葉を咀嚼するように目を細めた。
「その時は、また会うことになるな」
シルフィードはゆっくりと両手を上げた。
展示室に、警報が静かに鳴り始める。
赤いランプが回転し、遠くで警備員たちの足音が近づいてきた。
玲は息を吐き、呟く。
「……事件は未遂で終わった、か」
アキトは宝石ケースを一瞥し、静かに答えた。
「いや。盗まれなかっただけで、十分すぎる成果だろ」
二人の視線の先で、怪盗シルフィードは何も言わず、ただ微笑んでいた。
【23:48/宝石展会場ビル・屋上】
月明かりが冷たくコンクリートを照らし、夜風が高層ビルの縁を吹き抜けていた。
屋上の端に立つ怪盗シルフィードは、すでに体を斜めに構え、次の跳躍先――隣接するビルの影を見据えている。
黒いマントが風を孕み、羽のように広がった。
「待て――っ!」
背後から、息を切らしたアキトの声が夜に響く。
警備員の制服姿のまま、彼は数歩遅れて屋上へ飛び出してきた。
胸が大きく上下しながらも、その視線は逃げる相手から一瞬も逸れていない。
シルフィードは振り返らず、くすりと笑った気配だけを残す。
「残念。今夜はここまで、相棒さん」
その声は低く、どこか楽しげだった。
「宝石は無事だ。逃げる必要はないはずだろ!」
アキトが距離を詰めようと踏み出した瞬間、シルフィードは屋上の縁へと軽やかに駆け出した。
躊躇は一切ない。
まるで夜そのものに身を預けるかのように、彼女は宙へと舞う。
「くっ……!」
アキトは思わず手を伸ばしたが、指先が掴んだのは、風に翻るマントの端だけだった。
布はするりと抜け落ち、次の瞬間、シルフィードの姿は闇に溶けていく。
遠くで、ワイヤーが張る微かな音。
そして、隣のビルの屋上に着地する影。
アキトは屋上の縁に立ち、夜景の向こうを睨みつけた。
東京の街は何事もなかったかのように輝き、無数の光が瞬いている。
「……逃げられた、か」
そのとき、イヤーピースから聞き慣れた声が届いた。
『無理はするな、アキト』
玲の低く落ち着いた声だった。
『宝石は守られた。それに――相手の動きは十分に掴めた』
アキトは小さく息を吐き、夜空を見上げる。
「ああ。手口も、ルートも……次は、そう簡単にはいかない」
遠ざかる風の中、どこかでシルフィードがこちらを見下ろしている気がした。
挑戦的で、楽しむような視線。
アキトは帽子のつばを押さえ、静かに笑った。
「怪盗シルフィード……次は、必ず捕まえる」
月明かりの下、追う者と逃げる者。
その静かな攻防は、まだ始まったばかりだった。
【時間:22時47分/場所:高層ビル 展望ラウンジ・宝石展示室】
玲は無線を切ると同時に、床を蹴って展示室の奥へと駆け込んだ。
照明は落とされ、非常灯だけが宝石ケースを淡く照らしている。
ガラスの中で、ルビーとダイヤが静かに光を返していた。
「朱音、下がれ」
低く抑えた声で告げると、玲は朱音の肩に手を置き、背後へと引き寄せる。
朱音は名残惜しそうに宝石から目を離しながらも、素直に一歩下がった。
「……来たんだね。怪盗シルフィード」
朱音の声は小さかったが、妙に確信めいていた。
玲は視線を展示ケースから天井へと走らせる。
通気口のカバーが、わずかにずれている。
「予告通りだ。時間も、場所も、完璧に合わせてきた」
そのとき、展示室の空気がわずかに揺れた。
風でも空調でもない、人の動く気配。
「——玲」
無線から、アキトの息の混じった声が飛び込んでくる。
「屋上だ。シルフィードは逃走中。……いや、違う。囮だ」
「囮?」
玲の眉がわずかに動いた瞬間だった。
——カツン。
展示室の反対側、床に落ちた小さな金属音。
同時に、ガラスケースの鍵部分が、静かに解錠される音が重なった。
朱音が息を呑む。
「……二人、いる」
玲は即座に理解した。
シルフィードは単独犯ではない。
屋上で派手に姿を見せた“彼女”は視線を集める役。
本命は——ここだ。
「朱音、下がって。絶対に動くな」
玲はそう言い残し、ケースの前に立つ。
手はコートの内側に忍ばせたまま、視線だけで空間を制圧する。
「そこまでだ」
静かな声だったが、展示室の空気が一気に張り詰めた。
闇の中から、細身の影が一歩、光の中へ踏み出す。
黒いグローブ、静かな足取り。
顔はフードに隠れているが、その仕草にはプロの余裕があった。
「……さすが探偵。気づくのが早い」
低い声が響く。
玲は一歩も動かず、淡々と言った。
「屋上で派手に飛ぶのは好きだが、宝石を持って跳ぶのは苦手だろう。
だから、地上担当を用意した。違うか?」
影は小さく肩をすくめた。
「半分正解、かな」
その瞬間——
展示室の照明が、すべて落ちた。
完全な闇。
朱音が息を詰める。
だが、次の瞬間。
非常灯が再点灯し、視界が戻る。
そこにはもう、宝石も、影も、いなかった。
玲は静かに息を吐き、無線に向かって言った。
「……アキト。盗られた」
一拍置いて、無線の向こうでアキトが笑う気配がした。
「いや。盗らせた、だろ?」
「……何?」
「展示室のダイヤ。
あれ、すり替えたのは三十分前だ。今持っていったのは——」
屋上から吹き抜ける夜風の音に、アキトの声が重なる。
「——高精度の偽物。
本物は、もう安全な場所にある」
玲は一瞬だけ目を閉じ、そして小さく笑った。
「……やっぱり、相棒だな」
朱音がきょとんとした顔で二人を見比べる。
「え? じゃあ、シルフィードは?」
玲は展示室の出口へ歩き出しながら答えた。
「今夜は、逃がす。
でも——」
足を止め、闇の先を見る。
「次は、必ず捕まえる」
展示室には、宝石の代わりに、静かな決意だけが残っていた。
【深夜 23:48/宝石展会場・警備室】
アキトは警備室の椅子に腰を下ろし、モニターに映し出されたビル全体の間取り図へと視線を集中させていた。
青白い光が彼の横顔を照らし、複数の画面には数分前の映像が繰り返し再生されている。
「……やっぱり、無駄がない動きだ」
低く呟きながら、タブレットを操作する。
怪盗シルフィードが屋上へ抜けた直後の映像、非常階段のカメラが一瞬だけノイズを走らせ、その次のフレームではすでに人影が消えている。
「カメラの切り替えタイミングを完全に把握してる。
しかも、この角度……」
アキトは指で画面の一部を拡大した。
「ここ、警備側が“安全”だと思い込んでる死角だ」
背後で、警備室のドアが静かに開く音がした。
玲だった。スーツのジャケットを片手に持ち、息を整えながら中へ入ってくる。
「何かわかったか」
「はい」
アキトは即座に画面を切り替え、間取り図と監視映像を並べた。
「シルフィードは、展示室から屋上へ一直線じゃない。
一度、空調用のメンテナンス通路を経由してます。
公式の図面には載ってない、旧設計のまま残ってるルートです」
玲は腕を組み、じっと画面を見つめた。
「……内部構造に相当詳しいな」
「ええ。
それともう一つ」
アキトは映像を止め、ある瞬間を指差す。
「この一瞬、足を止めてる。
風向きと月明かりを確認してるんです。
あの人、逃げること自体を“演出”として計算してます」
玲は小さく息を吐いた。
「怪盗、か」
「はい。
でも――」
アキトはタブレットを伏せ、静かに言った。
「次は、こちらの番です。
同じ手は、二度も通じない」
警備室の外では、遠くでパトカーのサイレンが微かに響いていた。
事件はまだ終わっていない。
だが、確実に次の一手へと動き始めていた。
【時間:22時47分
場所:宝石展会場・警備室】
玲は監視モニターから一瞬も目を離さなかった。
屋上カメラの映像には、月明かりを背に、黒いマントを大きく翻す怪盗シルフィードの姿がはっきりと映っている。
「……速いな」
低く呟きながら、玲は指先で再生速度を落とした。
シルフィードは躊躇なく屋上の縁へと向かい、まるで夜空に溶けるかのように軽やかに身を躍らせる。
「ジャンプポイント、北西側……想定より一階分低い」
隣でタブレットを操作していたアキトが、すぐに反応した。
「ビル間の距離、約七メートル。普通なら無謀だけど……あの動き、補助装置を使ってる可能性が高いですね」
玲は短く頷き、無線に手を伸ばす。
「屋上チーム、聞こえるか。シルフィードは北西側へ移動中。次の着地点は隣のオフィスビルだ」
無線の向こうで、息を整える声が返ってくる。
『了解。こちらからも視認した。……くっ、もう跳んだ!』
モニターの中で、シルフィードの姿が一瞬、闇に消えた。
次のカメラが自動で切り替わり、隣接ビルの屋上が映し出される。
そこには――すでに着地し、振り返るシルフィードの姿。
白いマスク越しでも分かる、余裕を含んだ視線。
彼女は一瞬、カメラの存在を見抜いたかのようにこちらを見上げ、軽く手を振った。
「……挑発してるな」
玲は苦く笑い、椅子から立ち上がった。
「でも、逃げ切ったつもりになるのは早い」
アキトが小さく笑みを浮かべる。
「ええ。ルートはもう見えました。次は、こちらの番ですね」
警備室の静寂の中、モニターに映る夜景だけが淡く揺れていた。
怪盗と探偵――その静かな攻防は、まだ終わっていなかった。
【時間:23時47分
場所:高層ビル・宝石展会場 非常階段前】
非常口の赤い誘導灯が、シルフィードの白いマスクを不気味に照らしていた。
彼女は一瞬だけ振り返り、背後の気配を確かめる。
「……やっぱり、追ってきたわね」
低く、余裕を含んだ声が闇に溶ける。
その直後、重たい足音が階段に響いた。
アキトが非常口の扉を押し開け、息を整えながら姿を現す。
「そこまでだ、シルフィード。逃走ルートは読めてる」
マントが揺れ、彼女はくすりと笑った。
「へえ。警備員にしては、随分と勘がいいじゃない」
アキトは一歩前に出るが、距離はまだある。
シルフィードはすでに非常階段の手すりに手をかけていた。
「でもね――」
彼女は軽やかに階段を飛び降り、途中の踊り場で体を反転させる。
「“読める”のと、“捕まえられる”のは、別よ」
アキトは無線に指を当て、低く告げた。
「玲、南側非常階段。シルフィードが降下中だ」
無線越しに、すぐに玲の声が返る。
『了解。展示室側を封鎖する。無理はするな、アキト』
「無理はしないさ」
アキトはそう呟き、階段を駆け下りる。
だが、踊り場に差し込む風が一変した。
――バシュッ。
ワイヤーが伸び、シルフィードの身体が一気に宙へ引き上げられる。
「なっ……!」
アキトが見上げた時には、彼女はすでに上階の非常窓へと滑り込んでいた。
窓際で、シルフィードは振り返る。
月明かりを背に、白いマスクが静かにこちらを向く。
「いい相棒を持ったわね、玲探偵」
その名を口にした瞬間、アキトの目が鋭くなる。
「……俺たちを知っているのか?」
シルフィードは答えない。
ただ、マントを翻し、夜の闇へと身を投じた。
風だけが残り、非常階段には再び静寂が戻る。
アキトは無線を握りしめ、深く息を吐いた。
「……逃がした。でも、何も掴めなかったわけじゃない」
彼の視線は、床に残された小さな金属片に落ちていた。
宝石ではない。だが――怪盗が落とした、確かな“痕跡”。
「次は、必ず捕まえる」
その声は静かだったが、確かな決意を帯びていた。
【時間:23時58分
場所:高層ビル・屋上非常階段付近】
煙幕が薄く広がる中、非常灯の赤い光が断続的に点滅していた。
視界は悪い。それでも、アキトの足取りに迷いはなかった。
「……左だ」
彼は低く呟き、床をかすめるような微かな靴音に意識を集中させる。
煙の向こう、わずかに空気が切り裂かれる感触――マントが翻った証拠だった。
「やっぱり、逃げ足は速いな」
アキトは一気に距離を詰める。
非常階段の手すりに手をかけ、二段飛ばしで駆け下りる影が見えた。
その瞬間、無線が短く鳴る。
「アキト、こちら玲。屋上南側、出口に向かっているのが映っている。気をつけろ」
「了解。……挟み撃ちにする」
アキトは呼吸を整えながら、階段の踊り場で足を止めた。
あえて追う足音を消し、影の中に身を溶かす。
次の瞬間――
「っ!」
階下から、シルフィードが気配に気づいたように一瞬立ち止まった。
白いマスクが振り返り、鋭い視線が暗闇を切り裂く。
「……警備員じゃないわね」
低く、冷静な声。
アキトは影から姿を現し、帽子のつばを指で押し上げた。
「ご名答。俺は“裏方”だ」
二人の間に、緊張が張り詰める。
非常灯の赤い光が、二つの影を交互に照らした。
シルフィードは小さく息を吐き、口元――マスクの下で、笑った気配がした。
「ここまで追ってくるなんて……さすがね」
「褒め言葉として受け取っておく」
次の瞬間、彼女は手首を返し、再び煙幕を放つ。
だが――
「もう一度は通用しない」
アキトは迷わず踏み込み、煙の中へ飛び込んだ。
足音、気流、距離感――すべてを頼りに。
二つの影は、夜のビルの奥へと消えていく。
宝石展の静寂を破った追跡劇は、いよいよ核心へと近づいていた。
【時間:23時48分/場所:宝石展会場ビル・非常階段前の通路】
アキトは息を潜めたまま、壁の影に身体を預けた。
照明は非常灯だけが点々と灯り、通路の奥は薄闇に沈んでいる。
――コツ、コツ。
ヒールが床を打つ乾いた音が、一定のリズムで近づいてきた。
迷いのない歩調。焦りも、乱れも感じられない。
(……さすがだな)
アキトは心の中でそう呟き、わずかに視線を動かした。
黒いマントの裾が、通路の角から一瞬だけ覗く。
シルフィードは振り返らない。
追跡されていることを、すでに承知しているかのようだった。
アキトは無線のスイッチに指をかけ、低い声で囁く。
「玲、こちら非常階段前。対象は南側ルートを選択した。……速いが、余裕がある」
無線の向こうで、玲の落ち着いた声が即座に返ってくる。
「了解。屋上への直通は封じた。下へ降りるしかないはずだ」
「上出来だ」
アキトは口元だけで小さく笑い、再び動き出した。
足音を完全に消し、気配を壁に溶かす。
シルフィードが非常口のドアに手をかけた、その瞬間。
「――逃げ道は、そこだけじゃないだろ?」
低く、しかしはっきりとした声を投げかける。
シルフィードの肩が、ほんのわずかに揺れた。
白いマスク越しに、鋭い視線だけがこちらを向く。
「……警備員にしては、随分と静かね」
その声は冷たく、どこか楽しげだった。
アキトは一歩、光の中へ踏み出す。
警備員のバッジが、非常灯の光を受けて鈍く光った。
「俺は“相棒”でね。
今夜は――ここまでだ、シルフィード」
通路の空気が、一気に張り詰めた。
【時間:23時58分
場所:宝石展会場ビル・地下非常通路】
薄暗い通路の先で、シルフィードは足を止めた。
ヒールの音が、ぴたりと途切れる。
白い仮面が、ゆっくりとこちらを向く。
その奥の視線は、闇の中でも不思議なほどはっきりとアキトを捉えていた。
「……まだ追ってくるなんて」
低く、落ち着いた女の声。
焦りも苛立ちもない、むしろ楽しんでいるかのような響きだった。
アキトは壁際から一歩だけ前に出る。
距離を詰めすぎず、逃げ道を塞ぐ位置取り。
「ここまで来たら、話くらい聞いてもらおうか。
怪盗シルフィード」
シルフィードは小さく肩をすくめた。
「名前を呼ばれるのは、あまり好きじゃないの。
それに――」
彼女の視線が、アキトの足元から胸元へ、ゆっくりと這い上がる。
「あなた、警備員じゃないでしょう?」
アキトは表情を変えない。
闇に溶け込むように、静かに息を整える。
「相棒に言われるんだ。
“バレる時は、たいてい目線でわかる”ってね」
シルフィードはくすりと笑った。
「なるほど。観察力は本物、か。
でも残念――」
彼女は背後の非常階段に、ちらりと視線を投げる。
「捕まる気はないの」
その瞬間、シルフィードの手元で小さな光が弾けた。
床に落ちた閃光弾が、白い光を走らせる。
「っ――!」
アキトは即座に腕で視界を遮り、身体を低くする。
だが、次に響いたのは、ヒールの音ではなかった。
風を切る音。
マントが翻る、かすかな布擦れ。
光が収まった時、通路の先にはもう誰もいない。
アキトは静かに息を吐き、無線に指をかけた。
「……玲。逃げられた。
でも、動線は掴んだ。次は――」
通路の天井、換気ダクトの奥で、微かな振動が消えていく。
「次は、こっちの番だ」
アキトはそう呟き、闇の奥へと足を踏み出した。
【時間:23時48分
場所:高層ビル地下・非常通路】
非常灯の淡い赤が、コンクリートの壁に長い影を落としていた。
シルフィードは歩みを止め、アキトの数メートル手前で立ち止まる。
「……追ってくると思ってたわ」
仮面の奥から、低く澄んだ声が響いた。
「警備員にしては、動きが綺麗すぎるもの」
アキトは一歩も引かず、静かに息を整える。
視線は相手の足元、重心、呼吸のリズムへと向けられていた。
「怪盗シルフィード。
派手に消えるのは得意でも、最後まで踊るつもりはなかっただろ?」
シルフィードは小さく肩をすくめた。
マントの裾が、わずかな風で揺れる。
「ふふ……さすが。
でも、今夜は“未遂”よ。宝石も、私も」
その瞬間、彼女の手首がわずかに動く。
非常灯が一斉に落ち、通路は闇に沈んだ。
「っ……!」
だが、アキトは動じない。
闇の中で、布が擦れる音、空気の流れ、足音の間隔だけを頼りに前へ出る。
「甘いな。
この距離なら――」
金属音。
シルフィードのヒールが床を蹴るのと同時に、アキトの手がマントの端を掴んだ。
「……捕まえた」
一瞬、互いの呼吸が重なる。
だが次の刹那、シルフィードは身を翻し、マントを捨てるようにして後方へ跳んだ。
非常灯が復旧し、赤い光が戻る。
そこに立っていたのは、マントを手にしたアキトだけだった。
通路の奥、非常口の扉が揺れ、閉まる音が遅れて響く。
アキトは静かに息を吐き、無線に指をかけた。
「……玲。
逃げられた。でも、次はもう――終わりだ」
非常灯の下、彼の瞳だけが、静かに燃えていた。
【深夜 23時47分/宝石展会場 地下非常通路】
煙幕はゆっくりと、しかし確実に濃度を増していった。
空気は重く、肺に吸い込むたびに冷たい粒子が喉を刺す。
非常灯の赤い光は煙に溶け、壁も床も境界を失っていく。
アキトは足を止めなかった。
視界を失っても、彼の意識は周囲の「気配」に集中している。
「……音が、近い」
自分の呼吸を抑え、床に伝わる微細な振動に神経を研ぎ澄ます。
ヒールが床を打つ、乾いた、一定のリズム。
焦りのない歩調――それが、逆に不気味だった。
非常灯の赤が一瞬、揺らいだ。
その向こうで、白い仮面が浮かび上がる。
「……追ってくるなんて、熱心ね」
シルフィードの声は低く、柔らかく、煙の中を滑るように届いた。
仮面越しでも分かるほど、彼女は楽しんでいる。
アキトは壁に背を預け、低く答える。
「舞台はもう終わりだ。ここは出口じゃない」
「そう? 私はまだ――」
ヒールが一歩、また一歩と近づく。
煙の向こうで、マントが微かに揺れる気配。
「――クライマックスのつもりよ」
その瞬間、煙の流れが変わった。
通気口から吹き込む空気が、わずかに煙を押し流す。
アキトは動いた。
床を蹴る音すら殺し、一気に間合いを詰める。
シルフィードは一瞬だけ反応を遅らせた。
「っ――!」
仮面の白が揺れ、マントが翻る。
だが、彼女はすぐに体勢を立て直し、軽やかに後退した。
「さすが……警備員さんじゃないわね」
「その呼び方は、もう通用しない」
アキトは一歩も引かず、視線を逸らさない。
非常灯が明滅する。
煙の中で、二人の影が重なり、そして離れた。
どちらが先に動くか――
それは、ほんの一瞬の沈黙のあとだった。
【時間:23時48分/場所:高層ビル地下・非常通路】
玲は壁際に背を預け、呼吸を限界まで落としながら一歩ずつ前へ進んでいた。
古い非常灯が赤く点滅し、その光が煙に溶けて、視界は数メートル先さえ曖昧だ。
足裏に伝わる床の感触だけが、今この場所に自分が立っている証拠だった。
耳元の小型イヤーピースが、かすかにノイズを伴って震える。
「……玲、聞こえる?」
夜鷹――アキトの声だ。低く、落ち着いているが、その奥に緊張が滲んでいる。
玲は唇を動かさず、喉の奥だけで応える。
「聞こえている。そっちはどうだ」
「シルフィードは俺の正面方向。煙の中をゆっくり動いてる。たぶん……わざとだ」
一瞬の間。
「追われてる感覚を、楽しんでる」
玲は視線を細め、前方の闇に意識を集中させた。
確かに、逃走者の動きではない。足音が消えない。隠す気配すらない。
「挑発しているな」
玲は低く言った。
「注意を俺たちに引きつけて、別の出口を使うつもりか」
「その可能性は高い。でも――」
アキトの声が、ほんのわずかに強まる。
「今は、俺を見てる。玲、右側の分岐、三歩先。床の段差がある」
玲は言われた通り、足を止め、そっと体重を移した。
確かに、靴底に微かな段差が触れる。
「確認した」
その瞬間、煙の向こうで、コツ……コツ……と、はっきりしたヒール音が響いた。
近い。確実に、距離を詰めてきている。
白い仮面が、赤い非常灯の光を受けて、ぼんやりと浮かび上がる。
シルフィードは足を止め、楽しげな声を響かせた。
「ふふ……二人とも、息がきれいね。隠れても、わかるわ」
玲は拳を握り、壁から半歩だけ身を離した。
「怪盗シルフィード。ここまでだ」
仮面の奥で、彼女が微笑んだ気配がした。
「それは、捕まえてから言う台詞でしょう?」
イヤーピース越しに、アキトの声が静かに重なる。
「玲、合図で行く。三秒後――」
玲は一度だけ、深く息を吸った。
煙の向こう、舞台は整った。
【時間:23時48分
場所:高層ビル地下・非常通路】
暗闇の中、夜鷹は呼吸を止め、狙いを定めた。
照準の先、煙の向こうで揺らめく黒いマントが、ほんの一瞬だけ輪郭を見せる。
「……距離、十二メートル」
低く抑えた声が、玲のイヤーピースに届く。
その声には焦りはなく、ただ状況を正確に切り取る冷静さだけがあった。
玲は壁際に背を預けたまま、視線を前方に固定する。
非常灯の赤い光が煙に滲み、通路はまるで別世界のように歪んでいた。
「無理はするな。確保より、動きを止めろ」
玲の指示に、即座に応答が返る。
「了解」
その直後だった。
煙の奥から、コツ……コツ……と、ヒールが床を叩く音が、はっきりと響いた。
シルフィードは姿を隠すことなく、ゆっくりと前に進んでくる。
白い仮面が非常灯の光を反射し、闇の中に不気味に浮かび上がった。
「追う側が、必ずしも有利とは限らないのよ」
仮面越しの声は、余裕すら感じさせる響きだった。
その瞬間、煙を裂くように、低い発射音が鳴る。
夜鷹の放った特殊弾が床に着弾し、金属音とともに白い火花が散った。
シルフィードの足取りが、わずかに止まる。
「――っ」
床に広がるのは、滑り止めを無効化する制圧用の薬剤。
ヒールがわずかに滑り、彼女の体勢が崩れた。
「今だ!」
玲の声と同時に、通路の反対側からアキトが飛び出した。
煙を切り裂くように駆け、迷いなく距離を詰める。
シルフィードは即座に身を翻すが、動きは一拍遅れた。
アキトの手が、黒いマントの端を掴む。
「観念してもらう。ここまでだ」
その声は低く、しかし確かな重みを持っていた。
煙の中、二人の影が重なり合い、非常灯が大きく揺れる。
そして――通路に響いたのは、ヒールでも足音でもない、拘束具の金属音だった。
夜のビルは、ようやく静寂を取り戻し始めていた。
【時間:23時48分
場所:宝石展ビル・地下非常通路】
足音と煙の中で視界はほぼゼロ。
玲は壁際に背中を預け、呼吸を殺したまま耳を澄ませていた。
非常灯の赤い光が煙に滲み、通路の輪郭を歪ませている。
そのとき――
ポケットの中で、短く、規則的な振動が走った。
玲は一瞬だけ眉を動かし、胸元の通信端末をそっと押す。
「……こちら玲」
イヤーピース越しに、低く抑えた声が流れ込んできた。
影班――夜鷹だ。
『状況確認。煙幕内、シルフィードの動線を補足した』
玲は視線を動かさず、声だけで応じる。
「位置は?」
『地下通路中央部。非常階段Bへ向かう足取り。ヒール音、一定。速度、落としてる……こちらを誘っている可能性あり』
玲は小さく息を吐いた。
「やはり、遊んでるな」
『もう一つ。屋上側、脱出用ワイヤー未使用。まだ館内に留まるつもりだ』
玲の口元に、わずかな緊張が走る。
「アキトは?」
一拍の間。
『追跡継続中。煙の中でも距離は保ってる。無理はしていない』
「……了解」
玲は壁から離れ、膝をわずかに曲げた。
靴底が床に触れる音すら消すよう、重心を低く保つ。
「影班、もう少しだけ“音”を拾ってくれ。足取りと呼吸。癖が分かれば十分だ」
『了解。――玲、気をつけろ。あれは逃げてるんじゃない』
夜鷹の声が、ほんのわずかに低くなる。
『舞台を作ってる』
通信が切れる。
玲は視線を前方の闇に向け、静かに一歩、踏み出した。
煙の向こう――
非常灯の赤い光の中で、白い仮面が、かすかにこちらを振り返った気がした。
ヒールが床を打つ音が、ひとつ。
そして、間を置くように、もうひとつ。
「……来い、シルフィード」
玲は低く呟き、闇の中へ溶け込むように進んだ。
【深夜二十三時四十分/高層ビル地下非常通路】
非常灯だけがぼんやりと足元を照らす暗闇の中、成瀬由宇は壁際に背を預けたまま、微動だにせず通路の奥を見据えていた。
漆黒の戦闘服は光をほとんど反射せず、彼の存在そのものが闇に溶け込んでいる。
「……風向きが変わった」
喉を震わせる程度の低い声。
耳元のインカムに、かすかなノイズが返る。
『了解。煙幕、三十秒後に薄くなる』
奈々の声は冷静で、状況を正確に切り取っていた。
由宇は一度だけ、ゆっくりと瞬きをする。
煙の向こう、わずかに布が擦れる気配。
ヒールが床を叩く、乾いた音――間隔は一定。焦りはない。
「……演じてるな」
由宇の視線が、わずかに下がる。
非常灯の赤い光に、白い仮面の輪郭が一瞬だけ浮かび上がった。
その瞬間、インカムが短く鳴る。
『由宇、前方五メートル。シルフィード、減速』
『アキト、右側通路にいる。挟める』
「了解」
由宇は壁から静かに体を離した。
足音はない。呼吸も、ほとんどない。
床を踏む重心の移動すら、煙に吸われて消えていく。
シルフィードが、ふっと立ち止まった。
「……誰かいるわね」
仮面越しの声は、楽しげですらあった。
だが次の瞬間――
由宇の影が、赤い非常灯の縁を切り裂くように前へ出る。
「――動くな」
短く、低い声。
それだけで空気が凍りついた。
シルフィードの肩が、わずかに揺れる。
驚きではない。計算違いを測る、微細な反応。
その背後、煙の中からもう一つの影が現れる。
「観念してもらおうか。ここは、もう舞台袖だ」
アキトの声だった。
変装を解いたその目は鋭く、逃走経路を完全に塞いでいる。
玲の声が、遅れてインカムに重なる。
『……挟み込み、完了だ』
由宇は一歩、距離を詰めた。
その動きに、無駄は一切ない。
「終幕だ、怪盗」
赤い非常灯の下、白い仮面がゆっくりとこちらを向く。
煙の中で、シルフィードは小さく笑った。
「……ええ。今回は、あなたたちの勝ちね」
その声が消える頃には、
闇に溶けていた影たちが、確かな“形”をもって、彼女を包囲していた。
【時間:午前1時42分
場所:高層ビル地下・非常通路】
非常灯だけが赤く瞬く地下通路に、ひんやりとした空気が溜まっていた。
煙幕はすでに薄れつつあったが、視界はまだ完全には戻らない。
乾いた布が、床をなぞる。
――サッ、サッ。
その音だけが、異様なほどはっきりと響いていた。
桐野詩乃は膝をつき、床に残されたわずかな痕跡に目を凝らしていた。
黒い手袋をはめた指先で、布を折り返しながら、足跡の縁を正確になぞる。
「……靴底、ゴム混じり。市販品ね」
低く抑えた声は、誰に向けたものでもない独り言だった。
床に残る微細な粉塵、靴底がこすれた方向、体重移動の癖。
詩乃はそれらを一瞥しただけで理解し、ためらいなく布を滑らせる。
拭う。
確認する。
もう一度、角度を変えて拭う。
完璧に消えるまで、決して次へ進まない。
「……これで、追跡不能」
最後に布を軽く振り、床を見渡す。
そこには、つい数分前まで確かに存在していた“誰かの逃走”の痕跡は、もうどこにも残っていなかった。
背後で、成瀬由宇の低い声が響く。
「終わったか」
詩乃は立ち上がり、布を静かに畳みながら頷く。
「ええ。ここを通った“事実”そのものを消したわ」
由宇は通路の先を一瞥し、わずかに口元を緩めた。
「相変わらずだな」
「痕跡はね、残した瞬間に“裏切る”のよ」
詩乃はそう言って、布をポケットに収める。
非常灯の赤い光が、彼女の紫の瞳に一瞬だけ反射した。
次の瞬間、三人の影は音もなく動き出す。
まるで最初から、
この通路で何も起きなかったかのように。
【時間:午前0時48分
場所:展望ラウンジ地下・非常用通路】
闇に包まれた地下通路で、安斎柾貴は壁際に背を預け、ゆっくりと呼吸を整えていた。
非常灯は数メートル先で赤く瞬き、湿った空気が肌にまとわりつく。
「……騒がしいな」
低く、抑えた声が闇に溶ける。
彼は目を閉じ、掌を軽く開いた。
次の瞬間、安斎の周囲の空気が、ほんのわずかに揺らいだ。
目に見える変化はない。音も、光もない。
だが確かに、“何か”が放たれている。
――精神制圧。
彼の意識が静かに広がり、通路の先に潜む複数の気配を捉える。
焦り、緊張、疑念。
人の心が発する微細なノイズが、波紋のように伝わってくる。
「……三人。警備員が二、一般人が一」
安斎は小さく呟き、掌をわずかに握り込んだ。
見えない圧が、じわりと通路を満たす。
それは痛みでも恐怖でもない。
ただ、“考える力”を鈍らせ、判断を遅らせるための干渉。
通路の奥で、誰かが足を止める気配がした。
「……あれ? 何しにここに来たんだっけ……」
くぐもった声が響き、続いて靴音が乱れる。
別の人物が壁に手をつき、深く息を吐いた。
「ちょっと……頭、ぼーっとする……」
安斎は目を開けず、静かに制圧を維持する。
「大丈夫だ。眠くなるだけだよ」
その声は、誰に向けたものでもない。
彼自身が、波動の強度を調整するための確認だった。
数秒後、足音はゆっくりと遠ざかっていく。
警戒心は薄れ、目的意識は霧散していく。
通路に再び、静寂が戻った。
安斎はゆっくりと掌を下ろし、深く息を吐く。
「……よし。道は空いた」
イヤーピースに指を当て、低い声で告げる。
「影班、通過可能。今のうちに動け」
非常灯の赤い光が、彼の冷静な横顔を一瞬だけ照らした。
そして次の瞬間、安斎の気配は、闇の中へと溶けるように消えていった。
【時間:午前0時12分
場所:宝石展会場・地下通路】
闇に包まれた通路の奥から、コツ……コツ……と、一定の間隔で足音が響き始めた。
それは慌てたものではなく、迷いもない。
まるで、この暗闇そのものを熟知している者の歩みだった。
成瀬由宇は壁に背を預けたまま、視線だけを足音の方向へ向ける。
非常灯の赤い光が、彼の灰色の瞳に一瞬だけ反射した。
「……来る」
低く、短い声。
それを合図に、通路に散っていた影班の空気が一段階、引き締まる。
桐野詩乃はすでに床から立ち上がり、音もなく一歩下がっていた。
白い手袋の指先には、痕跡を消し終えた静かな確信だけが残っている。
安斎柾貴はゆっくりと目を閉じ、深く息を吸った。
次の瞬間、彼の立つ位置を中心に、目には見えない圧が空気を震わせる。
――ざわり。
通路の温度が、わずかに下がった気がした。
足音が、ぴたりと止まる。
「……っ」
闇の向こうで、誰かが短く息を詰まらせた気配が伝わってくる。
安斎の精神制圧が、相手の思考の輪郭をゆっくりと曇らせていく。
「ここは……どこだ……?」
かすれた声が、空間に落ちる。
自分がなぜここにいるのか、何をしに来たのか――
その“芯”だけが、静かに削り取られていく。
成瀬は無言のまま、一歩だけ前に出た。
床を踏む音すら、ほとんど聞こえない。
「動くな」
淡々とした声。命令でも脅しでもない。
事実を告げるだけの、冷えた声だった。
闇の中、相手の影がゆっくりと崩れ落ちる。
膝が床に触れる音が、小さく響いた。
桐野はすぐさま距離を詰め、倒れ込む影の周囲を確認する。
薬品も、発信機もない。
――完全に、無力化された。
「処理、完了」
短い報告に、成瀬は小さく頷いた。
非常灯の赤い光の下、地下通路は再び静寂を取り戻す。
まるで、最初から誰も通っていなかったかのように。
影班は、何も残さず、音も痕跡も連れ去っていった。
そしてその闇は、再び展示会場の“裏側”として、何事もなかった顔で息を潜めるのだった。
【時間:23時58分/場所:高層ビル地下・非常通路】
紫苑の低い声が消えると同時に、通路の空気が張り詰めた。
非常灯の赤い光が壁に滲み、影がゆっくりと揺れる。
成瀬由宇は無言のまま、壁際から半歩だけ前に出た。
靴底が床に触れる音すら立てず、視線だけで通路の奥を射抜く。
桐野詩乃は最後の一拭きを終え、布を畳むと静かに立ち上がった。
床には、もはや人の気配を示すものは何一つ残っていない。
安斎柾貴は目を閉じ、呼吸を深く整えた。
彼の周囲の空気が、わずかに重くなる。
「……来る」
安斎の低い呟きと同時に、闇の奥から足音が止まった。
次の瞬間、誰かが息を詰めた気配が伝わる。
成瀬は一瞬だけ詩乃に視線を送る。
詩乃は無言で頷き、腰を落とした。
「今だ」
紫苑の短い合図。
安斎の掌が、ゆっくりと前に向けられる。
目には見えない圧が、通路を満たしていく。
――息が詰まる。
闇の中で、誰かがよろめいた気配がした。
足音が乱れ、壁に手をつく鈍い音が響く。
「……な、なんだ……」
かすれた声が漏れた瞬間、成瀬が一気に距離を詰めた。
相手が反応する前に、肩口を押さえ、体勢を崩す。
同時に詩乃が背後へ回り、的確に関節を極めた。
抵抗は一瞬で途切れる。
安斎の圧が、静かに引いていく。
通路には、再び静寂だけが残った。
紫苑は周囲を一瞥し、低く告げる。
「確保完了。次の区画へ移る」
影は音もなく散り、
地下通路は、何事もなかったかのように闇へと戻っていった。
【時間:23時47分
場所:高層ビル地下・非常通路】
紫苑はゆっくりと手を上げ、闇の中に合図を送った。
その動きは最小限で、影の一部がわずかに揺れただけに見える。
次の瞬間、通路の空気が変わった。
成瀬由宇は壁際から一歩、音もなく前に出る。
呼吸は浅く、視線は一直線に通路の奥――黒いマントが消えた方向へ向けられていた。
「……距離、二十。まだ気づいてない」
イヤーピース越しに、囁くような報告が流れる。
桐野詩乃は床に片膝をつき、最後の一筋の足跡を布でなぞった。
非常灯の赤い光が、彼女の白い手袋を淡く染める。
「痕跡、完全消去。追跡不能よ」
その背後で、安斎柾貴が静かに目を閉じた。
深く、ゆっくりと呼吸を整えるたび、通路の空気がわずかに重くなる。
見えない圧が、波紋のように広がっていく。
「……精神反応、捕捉。相手、集中力が落ち始めてる」
安斎の低い声が、確信を帯びて響いた。
そのとき――
カツ……カツ……
ヒールが床を打つ音が、煙の奥から微かに近づいてくる。
リズムは乱れていない。だが、わずかに間が伸びていた。
紫苑は一瞬だけ目を細める。
「……今だ」
再び、手が静かに動く。
由宇が影の中を滑るように前進し、
詩乃が側面の非常扉へと溶け、
安斎の圧が、通路の逃げ場を塞ぐ。
そして――
煙の向こう、白い仮面がふっと揺れた。
シルフィードは立ち止まり、首を傾げる。
何かがおかしい、と本能が告げている。
だが、もう遅かった。
「包囲完了」
紫苑の声が、静かに闇を切った。
非常通路の灯りが、ひとつ、またひとつと点灯する。
逃げ場は、どこにもなかった。
幕は、静かに――しかし確実に、下ろされようとしていた。
闇の中、乾いた銃声が一発だけ響いた。
その瞬間、シルフィードの手元で小型ドローンが火花を散らし、床に転がった。
【時間:午前0時18分
場所:高層ビル地下・非常通路】
乾いた銃声の余韻が、煙と闇に吸い込まれていく。
床に転がった小型ドローンは、なおも微かに火花を散らし、やがて完全に沈黙した。
非常灯の赤い光の中、白い仮面の奥でシルフィードが一瞬だけ目を細める。
驚きはない。むしろ、状況を楽しむかのような静けさがそこにはあった。
「……見事ね」
低く、澄んだ声が通路に落ちる。
闇の左右から、影がにじむように現れる。
成瀬由宇が無音で距離を詰め、桐野詩乃はすでに足元の痕跡を消し終えて立ち上がっていた。
安斎の呼吸が、わずかに整う。
「ドローンは無力化完了。逃走ルート、封鎖済みだ」
紫苑の低い声が、通信に乗って流れる。
その瞬間、空気が変わった。
安斎の放つ精神制圧が、霧のように通路を満たす。
圧迫感が、確実に、逃げ場を削っていく。
シルフィードは一歩、後ろへ下がった。
ヒールが床を打つ音が、今度はやけに大きく響く。
「……ここまで、か」
白い仮面に手をかけるが、由宇の影がそれを許さない距離にある。
通路の奥から、足音が一つ増えた。
煙を割って現れたアキトが、静かに立ち止まる。
「観念したほうがいい。
今夜の“舞台”は、ここで終わりだ」
仮面の奥で、シルフィードが小さく笑った。
「……ええ。
でも、次はもっと派手にやるわ」
非常灯がちらつく。
その赤い光の中で、影班は確実に包囲を狭めていった。
夜は、まだ深い。
【時間:深夜 23時48分
場所:高層ビル地下・非常通路】
煙がゆっくりと薄れ、闇の輪郭が少しずつ戻り始める。
非常灯の赤い光が床を舐めるように照らし、その中央で安斎の指先が、ほんのわずかに動いた。
次の瞬間だった。
空気が、ふっと歪む。
目には見えない圧が、通路全体を静かに満たしていく。
安斎は低く息を吐き、視線を前方へ固定したまま呟いた。
「……制圧、開始」
その声は小さく、しかし確実に通路に染み込む。
波紋のように広がる精神干渉が、煙の残滓とともに空間を満たしていった。
シルフィードは一歩踏み出そうとして、わずかに体勢を崩す。
白い仮面の奥で、呼吸が乱れたのがはっきりと分かった。
「……っ」
声にならない息が漏れる。
足が重い。思考が、糸に絡め取られたように鈍っていく。
壁際に身を潜めていた成瀬由宇が、その変化を見逃さなかった。
音もなく前へ出ると、影から影へと滑るように距離を詰める。
「今だ」
短い合図。
桐野詩乃が一歩前に出て、床に残った最後の足跡を素早く拭い去りながら、低く言った。
「逃走経路、完全に消しました。ここから先は……ない」
非常灯の下、シルフィードの肩が小さく揺れた。
抵抗しようとした腕が、途中で止まる。
安斎の視線が、静かに彼女を捉える。
「安心しろ。眠るわけじゃない。ただ……考える余地を、少し借りるだけだ」
シルフィードは、力の抜けたように壁にもたれかかった。
白い仮面が、カツン、と軽い音を立てて壁に触れる。
その様子を少し離れた場所から見ていた玲は、無線のスイッチを入れ、短く告げた。
「――確保完了だ」
イヤーピース越しに、アキトの安堵した息が返ってくる。
「了解。さすが影班だな……派手さはないけど、完璧だ」
地下通路には、再び静寂が戻った。
宝石展の喧騒も、煙も、すべてが嘘だったかのように。
非常灯の赤い光の中、影班の面々はすでに次の動きに備え、無言で配置を解いていく。
夜は、まだ終わらない。
だが――この一幕は、確かに幕を下ろした。
【時間:午前0時38分
場所:都心・高層ビル群/宝石展会場ビル屋上】
冷たい夜風が一段と強まり、屋上に張りつめた緊張を煽った。
非常灯の赤い光がコンクリートの縁をかすめ、紫苑は一歩前へ出て、静かに手を下ろす。
「全員、動くな。距離を保て。――逃走経路を塞げ」
短く、迷いのない指示だった。
成瀬由宇は無言で頷き、影から影へと滑るように移動する。足音は風に溶け、存在そのものが夜に溶解していく。
神薙はライフルを下ろさず、スコープ越しにシルフィードを捉え続けていた。
照準の中心で、白い仮面がわずかにこちらを向く。
「……距離、三十メートル。風、右から」
低い声がインカムに落ちる。
その瞬間、シルフィードがふっと笑った。
仮面越しでも分かる、余裕を含んだ仕草だった。
「今夜は、ここまでかしら」
彼女は軽やかに一歩下がり、屋上の縁に立つ。
マントが大きく翻り、夜景の光を一瞬だけ遮った。
紫苑が即座に判断する。
「安斎」
呼ばれた名に応じ、安斎柾貴は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
彼の視線がシルフィードを捉えた瞬間、空気がわずかに歪む。
見えない圧が、静かに、しかし確実に広がっていく。
シルフィードの動きが一瞬だけ鈍った。
踏み出しかけた足が止まり、バランスを崩しかける。
「……っ」
短い息が漏れる。
その隙を逃さず、成瀬が屋上を横切る。
だが、完全に距離を詰める前に、シルフィードは身を翻した。
「――また、会いましょう」
次の瞬間、彼女の足元で小型装置が弾け、強烈な閃光が走った。
「目を閉じろ!」
紫苑の声が響く。
白光が夜を裂き、視界が一瞬奪われる。
風が渦を巻き、マントの布音だけが耳に残った。
数秒後、光が収まったとき――
屋上の縁には、もう誰の姿もなかった。
神薙が舌打ちをする。
「……取り逃がしたか」
紫苑は夜空を見上げ、ゆっくりと息を吐いた。
「いや。顔も動きも、十分に掴んだ」
成瀬が屋上の縁を確認しながら言う。
「次は、逃げ場はないな」
遠くでサイレンの音が重なり始める。
夜はまだ終わらない――だが、確実に、包囲網は狭まっていた。
シルフィードが軽やかに地面へと着地した瞬間、ヒールがアスファルトを打つ乾いた音が夜に響く。
その直後、路地の奥の闇がわずかに揺らぎ、ひとりの影がすっと現れた。
「……待ってたぜ、シルフィード。」
低く、押し殺した声。現れたのはアキトだった。
【深夜二十三時四十分/高層ビル裏路地】
シルフィードは足を止めなかった。
アスファルトに落ちたヒールの音が、一定のリズムで夜に刻まれる。
「待ってた、か……光栄ね」
白い仮面の奥で、くすりと笑った気配がした。
月明かりを背に、彼女は振り返らないまま言葉を投げる。
「でも、あなたが出てくるのは少し遅かった」
アキトは一歩だけ距離を詰める。
闇に溶けるような足取りで、呼吸すら乱れていない。
「逃げ道は、もう読んでる。
屋上、非常階段、ドローン回収ポイント……全部だ」
「ふふ。探偵の相棒ってやつ?」
シルフィードは肩越しに振り向いた。
仮面の下の視線が、まっすぐアキトを射抜く。
「でもね――“読める”と“捕まえられる”は別よ」
彼女が指を鳴らす。
その瞬間、路地の奥に設置されていた非常灯が一斉に落ち、闇が深くなる。
同時に、風を裂くようなワイヤー音。
アキトは即座に地面を転がり、頭上をかすめる鋼線をかわした。
「……やっぱり一筋縄じゃいかないな」
立ち上がると同時に、イヤーピースに低く告げる。
「玲、シルフィードは南側路地。
跳躍用ワイヤーあり。まだ余裕がある」
『了解。影班、配置は完了してる。無理はするな』
通信が切れる。
シルフィードはすでに数メートル先。
しかし、逃げる速度がわずかに落ちている。
アキトはそれを見逃さなかった。
「――宝石は、まだ取ってないな」
その一言で、彼女の足が止まる。
静寂。
夜風だけが、二人の間を通り抜けた。
「……さすがね」
シルフィードはゆっくりと振り返る。
「今回は“様子見”。
でも覚えておいて。次は、もっと派手にやるわ」
そして、闇に溶けるように後退する。
その直後――
路地の両端に、影が静かに現れ始めていた。
包囲は、すでに完成している。
アキトは帽子のつばをわずかに下げ、低く呟いた。
「次はない。今夜で、終わりだ」
【時間:23時48分
場所:高層ビル裏手・非常階段脇の路地】
シルフィードは一切振り返らず、路地を一直線に駆け抜けた。
濡れたアスファルトを蹴るヒールの音が、夜気に鋭く弾く。
「……っ!」
息を吐く間もなく、視界の先に金属製のフェンスが迫る。
常人なら減速する距離だ。だが、彼女は違った。
助走も躊躇もなく、踏み切りの瞬間に身体を沈める。
その刹那――夜風が、不自然なほど強く吹き抜けた。
風が彼女の背を押した。
いや、押したのではない。呼応したのだ。
シルフィードの身体は、まるで重力から一瞬だけ解放されたかのように軽くなる。
手すりに指一本触れることなく、しなやかな軌道で宙を舞い、フェンスの上を越えた。
風が渦を巻き、コートの裾と長い髪を持ち上げる。
その動きは跳躍というより、滑空に近い。
着地は静かだった。
足裏が地面に触れた瞬間、風は嘘のように収まり、再び夜の冷気へと溶けていく。
「……さすがだな」
フェンス越しに追いついたアキトが、低く息を吐く。
その目は驚きよりも、確信を帯びていた。
「今の動き……ただの怪盗じゃない。
服部一族――“風使い”か」
シルフィードは、ようやく足を止めた。
ゆっくりと振り返り、白い仮面越しにアキトを見据える。
「……知っている人が、まだいたとは」
声は落ち着いていて、余裕すら滲んでいる。
夜風が再び吹き、二人の間をすり抜けた。
「追跡はここまでにしておいた方がいいわ、相棒さん」
「次に風が味方するとは限らないもの」
そう言い残すと、彼女は再び闇へと身を投じた。
風が一度だけ、名残惜しそうに唸り――
シルフィードの姿は、完全に夜へと溶けて消えた。
残されたアキトは、フェンスの向こうを見つめたまま、小さく息を整える。
「……面白くなってきた」
風の残り香だけが、静かな路地に漂っていた。
【時間:23時58分/場所:東京湾岸地区・高層ビル群裏路地】
路地の終端、ネオンの淡い光が冷たく揺れている。
雨上がりのアスファルトは濡れて黒く光り、遠くを走る車の音が反響していた。
シルフィードは一瞬も立ち止まらず、フェンスを越えた先の路地へと着地する。
ヒールが地面に触れた瞬間、まるで風が弾けたかのように、彼女の周囲の空気が揺らいだ。
「……やっぱり、速いな」
背後でアキトが低く呟く。
だが、その声には焦りはない。彼はすでに、彼女の“次の動き”を読んでいた。
シルフィードは振り返らない。
だが、仮面の奥で、わずかに口元が緩む。
「追ってくるとは思ったわ。……あなた、ただの警備員じゃない」
彼女が走りながら言うと、夜風がその声を引き裂く。
アキトは距離を詰めすぎず、一定の間合いを保ったまま応じた。
「そっちこそ。宝石より、スリルが目的って顔してる」
ネオンの下、シルフィードは急に進路を変え、狭い非常階段へと飛び込んだ。
金属製の階段を踏む音が、連続して乾いたリズムを刻む。
次の瞬間、彼女は手すりを蹴り、壁を一度だけ踏んで方向を変える。
まるで風に押し上げられるような動きだった。
「……服部一族の“風”か」
アキトが確信を込めて呟く。
シルフィードは屋上へと続く最後の扉の前で、初めて立ち止まった。
ゆっくりと振り返り、仮面越しにアキトを見据える。
「知ってるなら話が早いわ。今夜は、ここまで」
彼女が指を鳴らすと、突風のような気流が二人の間を走り抜ける。
一瞬、視界が揺らぎ、ネオンの光が歪んだ。
次に風が収まった時、そこに彼女の姿はなかった。
アキトは静かに息を吐き、夜空を見上げる。
「……逃げられた、か。でも」
彼はイヤーピースに指を添え、低く告げた。
「玲。怪盗シルフィードは“服部一族”。次は必ず、こちらの読み通りに動く」
夜の街は、何事もなかったかのように喧騒を取り戻しつつあった。
だが、その裏で――新たな追走劇の幕が、静かに上がったのだった。
【時間:深夜二時三十分】
【場所:都心・高層ビル群裏手の路地/屋上縁】
白い閃光が完全に消え、夜の輪郭が元に戻る。
路地に落ちるネオンの光が、アスファルトを冷たく染めていた。
屋上の縁に立つ紫苑は、ゆっくりと一歩前に出て、見下ろすようにシルフィードを捉える。
その声は低く、鋼のように静かだった。
「甘いな、シルフィード。俺たち服部一族の忍びに――
一瞬の隙も見逃せる者はいない」
シルフィードは足を止めたまま、わずかに肩越しに視線を上げる。
仮面の奥の瞳が、月明かりを受けて細く揺れた。
紫苑は続ける。
その声には、怒りではなく“線を引く”冷徹さが滲んでいた。
「だが――二度と言うな」
「その名を、お前の逃走劇の演出に使うな」
屋上の風が強まり、紫苑のコートの裾が鋭くはためく。
「服部一族の名は、
盗みを誇るための称号でも、
観客を煽るための舞台装置でもない」
一瞬の沈黙。
路地の奥で、アキトが静かに息を整えながら構えを取る。
「生き残るために、影に徹する覚悟を持つ者だけが名乗るものだ」
その言葉に、シルフィードは初めて小さく息を吐いた。
笑ったのか、それとも諦観か――仮面の下は見えない。
「……なるほど」
低く、女の声が返る。
「噂以上ね。影班の指揮官」
紫苑の視線は一切揺れない。
「評価はいらない」
「ここから先は――逃げるか、終わるかだ」
その瞬間、路地の両端に影が落ちた。
成瀬由宇が無音で着地し、
桐野詩乃はすでに退路の痕跡を消し終えている。
背後では、安斎の気配が静かに圧を放っていた。
完全包囲。
シルフィードはゆっくりと両手を広げ、夜風を受ける。
「……ふふ」
「やっぱり、簡単には終わらせてくれないのね」
紫苑は短く告げた。
「当然だ」
「これは“捕り物”じゃない――
因縁の清算だ」
ネオンが瞬き、風が止む。
次の一秒で、夜は再び動き出そうとしていた。
【深夜二十三時四十二分/東京・再開発地区 路地裏】
紫苑が名を告げた瞬間、夜の空気が張り詰めた。
「……そこまでだ、シルフィード。
我が一族の“影追い”――迅牙だ。」
その声に、初めてシルフィードの動きが止まった。
路地の奥、ネオンの光を背にした彼女は、ゆっくりと振り返る。
白い仮面の奥の視線が、屋根の上に立つ紫苑を正確に捉えた。
「……影追い、迅牙?」
低く、どこか楽しげな声音が闇に溶ける。
「随分と古い名を持ち出すのね。まさか、まだ生き残りがいたとは。」
紫苑は一歩も動かず、冷ややかな目で見下ろしたまま答える。
「名を軽々しく口にするな。お前のような盗賊が知る価値はない。」
その瞬間――
路地の側面、非常階段の影がわずかに揺れた。
アキトが音もなく姿を現し、シルフィードの退路を塞ぐ。
警備員の変装はすでに解かれ、忍び装束のまま、鋭い視線を向けていた。
「前も後ろも、もう道はない。」
アキトが静かに告げる。
「風を操るのは得意でも、影に追われるのは初めてだろ。」
シルフィードは小さく肩をすくめ、くすりと笑った。
「……面白い夜ね。探偵に忍びに、影班まで総出なんて。」
そして、仮面の奥で視線が鋭く細まる。
「でも――捕まる気は、まだないわ。」
その足元で、風が再び渦を巻き始める。
コンクリートの隙間を抜けるような冷たい気流が、路地全体を包み込んだ。
紫苑が即座に指示を飛ばす。
「迅牙、動くな。風の起点を読め。逃がすな。」
夜の路地で、忍びと怪盗の最後の駆け引きが始まろうとしていた。
【23:48/都心・高層ビル群裏路地〈非常階段下〉】
シルフィードの足が、ほんのわずかに止まった。
夜気に混じる気配が、先ほどまでとは明らかに違う。逃走経路として計算していた闇が、すでに“管理された闇”へと変わっている。
屋根の縁、非常階段、路地の出口――
視線を走らせるたび、見えない糸が絡みつくような圧を感じた。
「……封鎖、か」
低く呟いたその瞬間、胸の奥に冷たい違和感が広がる。
呼吸はできる。視界も澄んでいる。だが、踏み出そうとする意思だけが、奇妙に鈍る。
闇の中から、安斎が一歩、姿を現した。
ダークグレーのロングコートが夜風に揺れ、その青い瞳は感情の波を一切映していない。
「抵抗する意思がある限り、制圧は続く」
淡々とした声だった。脅しでも挑発でもない、事実の通告。
見えない圧が、さらに一段、深くなる。
足先から思考へと、静かに沈み込むような感覚。
シルフィードは小さく息を吐き、初めて安斎の方を正面から見た。
その白い仮面の奥の視線が、わずかに細められる。
「……なるほど。噂以上ね、影班」
その言葉に応えるように、路地の影がわずかに動いた。
退路だったはずの暗がりに、成瀬由宇の気配が重なり、音もなく距離を詰めている。
逃げ道は、確かに――
すべて、塞がれていた。
【深夜1時17分/東京・高層ビル群に挟まれた路地裏屋上】
迅牙は静かに頷き、鞘に収まった短剣の柄にそっと手をかける。
「ここで終わらせる。覚悟しろ――」
だが、その瞬間、シルフィードが俊敏に動いた。
彼女は足首のホルスターから小型の閃光弾を素早く抜き取り、迷わず屋根の瓦に叩きつける。
「これで目をくらませるわ!」
閃光弾が瓦に叩きつけられた瞬間、白い爆光が夜を引き裂いた。
視界が一瞬で焼き潰され、屋上全体が昼のように明るく染まる。
「――っ!」
迅牙は即座に視線を伏せ、腕で顔を庇った。だが、そのわずかな一拍の隙を、シルフィードは逃さない。
爆光の中、彼女は地を蹴った。
ヒールとは思えぬ軽さで屋根を駆け、身を低く滑らせるように迅牙の間合いをすり抜ける。
「速い……!」
迅牙が体勢を立て直した時には、すでに遅かった。
シルフィードのマントが翻り、風を裂く音だけが残る。
「安斎!」
紫苑の声が響く。
次の瞬間、空気が変わった。
安斎の精神制圧が、爆光の残滓に紛れるように広がる。
だが――
「……無駄よ」
シルフィードの声は、どこか愉しげだった。
彼女は屋上の縁に足をかけ、振り返らずに告げる。
「精神干渉、確かに見事。でも――私には“風”がある」
夜風が一気に渦を巻いた。
彼女の足元から、まるで意思を持つかのように風が立ち上がり、精神制圧の波を押し流す。
「服部の忍びたち……いい狩りだったわ」
その言葉を最後に、シルフィードは夜へと身を投げた。
ビルとビルの狭間を縫うように、白い軌跡が一瞬だけ走り――消える。
静寂が戻った屋上で、紫苑は歯噛みした。
「……逃げられたか」
迅牙は短剣から手を離し、低く息を吐く。
「いや。風の癖、動線、すべて把握した」
安斎が静かに告げる。
「次は、彼女の“逃げ場”はない」
冷たい夜風が、再び屋上を吹き抜けた。
追う者と、追われる者。
この夜は終わったが、狩りはまだ続いていた。
【深夜23時48分/都心・宝石展ビル裏手 路地に面した屋上】
屋根下から、鋭い気配を放つ別の影が跳び上がった。
細身でしなやかなその動きは、まるで空気を切り裂く黒い刃のように鋭い。
「シルフィード、逃げろ!」
低く力強い声が闇を震わせる。
その瞬間、迅牙が反射的に前へ出た。
だが、影は着地と同時に床を蹴り、信じられない速度で間合いを詰める。
金属が擦れる短い音。
迅牙の短剣と、影の手に握られた細身の刃が一瞬だけ火花を散らした。
「……っ、こいつ……!」
迅牙が歯を食いしばる。
動きが速い。
力任せではなく、完全に“殺し”の軌道だけをなぞる合理的な動き。
紫苑が屋根の縁から鋭く叫ぶ。
「迅牙、深追いするな! 目的は時間稼ぎだ!」
その言葉通り、影は迅牙を押し切ることなく、距離を保ったまま横へ跳ぶ。
同時に、別方向でシルフィードが身を翻した。
夜風を裂き、白いマントが大きく広がる。
彼女は屋根の端へ走り、ためらいなく虚空へと踏み出した。
「――っ、逃がすな!」
下からアキトの声が響く。
だが、遅かった。
シルフィードの足元で、空気が歪む。
風が一気に収束し、彼女の身体を包み込むように渦を巻いた。
次の瞬間、彼女の姿はふっと輪郭を失い、夜の闇へ溶けるように消え去った。
残されたのは、揺れるマントの端切れと、風が通り抜けた後の静寂だけ。
影もまた、シルフィードが消えたのを確認すると、無駄な動き一つなく後方へ跳躍した。
ビルの影へと身を投じ、その姿は完全に闇に紛れる。
屋上に、重い沈黙が落ちる。
紫苑はゆっくりと息を吐き、夜空を見上げた。
「……逃がしたか。」
無線越しに、玲の低い声が返る。
『だが、収穫はあった。動き、癖、仲間の存在……次は逃がさない。』
紫苑は静かに頷いた。
「ええ。今夜は“顔合わせ”だ。――本番は、これからだな。」
冷たい夜風が再び屋上を吹き抜け、
戦いの余韻だけが、静かにそこに残っていた。
【深夜 23時48分/東京・高層ビル群に囲まれた裏路地 上空・屋上縁】
月影は静かに三つ刃を構え、その刃先を闇にきらりと光らせた。
「無駄な抵抗はやめろ。ここで終わらせる。」
冷たい夜風が二人の間を吹き抜け、ビルの谷間で低く唸る。
月影の足取りは静かだが、踏み出す一歩一歩に確かな殺気が宿っていた。
その背後、屋根の端に立つシルフィードは一瞬だけ振り返る。
白い仮面の奥で、わずかに目を細めたのが分かった。
「……ふふ。あなたが来るとは思ってなかったわ、月影」
軽く息を吸い、シルフィードは屋根の縁を蹴る。
その動きはためらいがなく、夜風を味方につけたかのように滑らかだった。
月影が低く舌打ちする。
「逃がすか――!」
三つ刃が宙を裂き、月明かりを反射して一直線に飛ぶ。
だが、シルフィードは空中で体をひねり、紙一重でかわした。
刃は背後の配管に突き刺さり、乾いた金属音が響く。
「相変わらず、鋭いわね。でも――」
シルフィードは着地と同時に煙幕を投げつけ、路地と屋上の境界を一気に白く覆い尽くす。
視界が奪われる中、ヒールがコンクリートを打つ軽やかな音だけが遠ざかっていった。
煙の向こうで、月影は足を止め、静かに構えを解く。
風に揺れる煙の流れを読み取りながら、低く呟いた。
「……まだ終わりじゃない。必ず追いつく」
夜の東京に、再び静寂が戻っていった。
【深夜二時四十三分/都心・再開発地区ビル群 屋上】
月影の声が夜気を切り裂くと同時に、屋上の空気が張り詰めた。
非常灯の赤い光が、彼の三つ刃の輪郭を鈍く浮かび上がらせている。
シルフィードは一瞬だけ口元を歪めた。仮面の奥で、その瞳が細く笑う。
「……随分と、物騒な歓迎ね」
そう呟くや否や、彼女は踵を返し、屋上の縁へと一気に駆け出した。
月影の刃が閃く。風を裂く音と共に、三つ刃が牽制するように宙を走る。
だが、シルフィードの動きはそれを予測していたかのように滑らかだった。
身を低く沈め、刃の軌道を紙一重でかわし、その勢いのまま屋上の縁を踏み切る。
「――っ!」
一瞬、重力が彼女の身体を掴む。
だが次の瞬間、外套が大きくはためき、風を捉えた。
下方の路地から、アキトがその光景を見上げて息を呑む。
「……また、風を使った……!」
シルフィードは隣のビルの外壁へと吸い込まれるように降下し、
配管を足場に、音もなく着地した。
屋上では、月影が舌打ちをし、素早く周囲を見渡す。
「逃がしたか……」
その背後で、低く落ち着いた声が応じた。
「いいや」
闇の中から、紫苑が姿を現す。
視線はすでに次の逃走経路を読んでいた。
「まだ、終わっていない。
シルフィードは――必ずもう一度、姿を見せる」
冷たい夜風が吹き抜け、
屋上に残されたのは、張り詰めた緊張と、微かな勝負の余韻だけだった。
【深夜 23時48分/都心・宝石展会場裏 路地上方の屋根】
月影の刃が鋭く振り下ろされ、シルフィードの肩をかすめた瞬間、黒い衣装に赤い染みが滲んだ。
「……っ」
短く息を呑む音だけが、夜風に紛れて落ちる。
だがシルフィードは声を上げなかった。痛みを噛み殺し、屋根の縁を蹴って距離を取る。
月影は一歩踏み込み、視線を逸らさず低く告げた。
「動きが鈍ったな。終わりだ、シルフィード」
その背後、瓦の影から別の気配が重なる。
迅牙が静かに着地し、逃走経路を完全に塞いだ。
「包囲は完了だ。これ以上は――」
言葉を遮るように、シルフィードはゆっくりと立ち上がった。
月明かりに照らされ、白い仮面の奥の瞳が細く笑う。
「……なるほど。噂通りね、影班」
彼女は傷ついた肩を一度だけ押さえ、次の瞬間には姿勢を低くした。
夜風がマントを大きく翻す。
「でも――」
足元に落とされた小型球体が、かすかに音を立てて転がる。
「捕まるつもりは、最初からないわ」
閃光と同時に、風が爆発するように吹き荒れた。
視界が白に塗り潰される中、迅牙が歯噛みする。
「風……っ!」
光が収まった時、屋根の上には瓦の破片と、微かに残る風の余韻だけが残っていた。
シルフィードの姿は、もうどこにもない。
月影は刃を下ろし、夜空を睨む。
「……逃げたか」
無線越しに、玲の落ち着いた声が入る。
「こちら玲。負傷は?」
「軽傷だ。だが――相手は想定以上に厄介だ」
月影は静かに刃を納めた。
「次は、必ず仕留める」
夜の街は何事もなかったかのように静まり返り、
ただ月だけが、すべてを見下ろしていた。
【時刻:23時48分
場所:都心・宝石展会場近隣ビル屋上】
玲の指示が無線を通じて、夜の闇に溶け込む影班全員に行き渡った。
「影班、準備を。シルフィードの動きを封じる。迅牙、月影、安斎、詩乃、連携を崩さずに前進。絶対に隙を作るな。」
その声は低く、しかし一切の迷いがなかった。
迅牙は屋根の縁に沿って身体を低く保ち、風の流れを読む。
シルフィードが踏み込めば、どの方向へ跳ぶか――すでに頭の中で軌道は描かれていた。
月影は一歩、また一歩と間合いを詰める。
三つ刃の切っ先はわずかに角度を変え、逃走経路そのものを塞ぐ位置へ。
安斎は静かに目を閉じ、精神制圧の圧をさらに高めた。
恐怖ではない。判断力を鈍らせ、瞬時の選択を誤らせるための“静かな重み”が、屋上全体を覆い始める。
詩乃はすでに背後へ回り込み、足音ひとつ残さず床をなぞる。
万が一の逃走、転身、その痕跡すら残させない配置だった。
シルフィードは肩の傷を指先で押さえながら、ふっと小さく息を吐いた。
血の温かさよりも、包囲網の完成度に舌打ちする。
「……見事ね。ここまで読まれるなんて」
白い仮面の奥で、視線が一瞬だけ玲を捉える。
「でも――“捕まる”とは、まだ言ってないわ」
次の瞬間、彼女の足元で風が巻いた。
だが、迅牙が動く方が早かった。
空気の歪みを断ち切るように踏み込み、逃走の初動を正確に潰す。
「――終わりだ、シルフィード」
月影の声が重なり、三つ刃が完全に進路を塞ぐ。
安斎の圧が頂点に達した瞬間、シルフィードの動きが一瞬、確かに鈍った。
玲はその様子を見据え、静かに告げる。
「これ以上の無理はしない方がいい。
今夜は――君の負けだ」
夜風が吹き抜け、宝石展会場の光が遠くで瞬いた。
長い追跡の末、ついに“怪盗シルフィード”は、影の中で完全に包囲されていた。
【深夜二十三時四十分/高層ビル屋上・非常階段付近】
月影の刃が振り下ろされた直後、夜風が血の匂いをわずかに運んだ。
シルフィードは一歩退き、肩を押さえながらも体勢を崩さない。その瞳はまだ逃走経路を探っていた。
だが――影が、もう一つ増えた。
非常階段の手すりを軽やかに越え、闇から滑り出るように現れた女。
黒の軽装、無駄のない動き。影班の女盗賊、ルミナだった。
「ここまでだよ、お姫様。」
低く囁くと同時に、ルミナは一気に間合いへ踏み込み、シルフィードの手首を正確に取る。
抵抗の兆しを読むより早く、拘束具が噛み合う乾いた音が夜に響いた。
「……っ」
シルフィードが息を呑む。
屋上を包囲していた迅牙と月影が一斉に間合いを詰め、安斎の視線が静かに逃走の意志そのものを縫い止める。
詩乃はすでに足元の痕跡を消し終え、何事もなかったかのように一歩下がっていた。
玲が一歩前に出る。
「終わりだ、シルフィード。これ以上の無駄な動きは勧めない。」
その声に、ルミナは肩をすくめて小さく笑った。
「……ったく、あたしは家族がいるんですからね。借りはこれでチャラ、でしょ?」
そう言って、玲にだけ軽く視線を投げる。
次の瞬間、ルミナの姿は夜風に紛れるように後退し、非常階段の闇へと溶けていった。
残された屋上には、拘束されたシルフィードと、静かに任務完了を確認する影班の面々だけが立っていた。
夜はまだ深い。
だが、この追跡劇は――確かに、ここで幕を下ろした。
【翌朝・午前九時過ぎ/服部一族・臨時本部(都内郊外の古民家改装施設)】
朝の淡い光が障子越しに差し込み、広間の畳に静かな影を落としていた。
夜の戦闘の緊張が嘘のように、空気は張り詰めながらも落ち着きを取り戻している。
迅牙、月影、安斎、詩乃、そして他の服部一族の面々が円を描くように座り、その中央に玲が立っていた。
玲は一人ひとりの顔を静かに見渡し、深く息を整えてから口を開く。
「昨夜の一連の出来事で、シルフィードを捕らえたのは確かに大きな成果だ。」
低く、しかしよく通る声が広間に響く。
「だが、彼女は単独で動いていたわけではない。あの動き、装備、そして撤退支援――背後には、まだ我々が把握していない勢力が存在する可能性が高い。」
安斎がわずかに視線を伏せ、月影は腕を組んだまま微動だにしない。
詩乃は静かに頷き、床に落ちた光の筋を見つめていた。
玲は続ける。
「今回の件で終わりだと思わないことだ。水面下では、必ず次の動きが始まっている。今後も警戒を怠ることなく動く必要がある。」
一瞬の沈黙の後、玲の視線が再び一族全体を捉える。
「今後も協力して、この事件の全貌を明らかにしよう。影と影が交差する場所で、我々が目を逸らせば、真実は簡単に闇に紛れる。」
その言葉に、迅牙が静かに頷いた。
「了解しました。影追いは続けます。」
月影も短く答える。
「次は逃がさない。」
朝の風が廊下を抜け、障子をかすかに揺らした。
戦いは終わったようでいて、まだ始まったばかりだ――
その事実を、そこにいる全員が無言のまま共有していた。
【翌朝 午前9時半/都内・服部一族が使用する非公開会議室】
柔らかな朝の光が障子越しに差し込み、室内には静謐な空気が満ちていた。
畳の中央には低い卓が置かれ、その周囲に服部一族と影班の面々が静かに腰を下ろしている。
紫苑はゆっくりと顔を上げ、深く息をついてから静かに言った。
「玲殿、そして影班の皆さん――昨夜は本当にありがとう。
服部一族にとっても、今回の件は見過ごせぬ事態だった。これからも互いに助け合い、守り合っていきたいと思う。」
その言葉に、場の空気がわずかに和らぐ。
玲は軽く頷き、穏やかながらも芯の通った声で応じた。
「こちらこそ。今回の件は終着点ではありません。
シルフィードの背後にいる存在――それを追うには、あなた方の力が不可欠です。」
紫苑の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「承知しました。我ら服部一族、“影”としての務めを果たしましょう。」
障子の外で、風に揺れる木々がかすかに音を立てる。
夜の激闘を越えた者たちは、すでに次の戦いを見据えていた。
静かな朝の中、新たな協力関係が、確かにここに結ばれた。
【翌朝 午前9時30分/玲探偵事務所・応接スペース】
朝の柔らかな陽光がブラインド越しに差し込み、静かな事務所に穏やかな空気が戻っていた。
ソファに腰掛けた朱音は、スケッチブックを胸に抱きしめながら、少し照れたように微笑う。
「……ねぇ玲さん。昨日みたいな場面でも、もっとちゃんと役に立てるようになりたいなって思って」
その言葉に、向かいのデスクで資料を整理していた玲が顔を上げる。
穏やかな眼差しで朱音を見つめ、静かに答えた。
「十分すぎるほど助けられてるよ。君の直感と判断がなければ、あの場はもっと混乱していた」
朱音は一瞬きょとんとした後、ぱっと表情を明るくした。
「ほんと? えへへ……私、まだまだだけど……結界師として、ちゃんと自分の役割を果たしたいんだ」
その様子を少し離れた場所で見ていたアキトが、コーヒーカップを手に近づいてくる。
「血の繋がりとか関係なくさ。ここにいるって決めた時点で、もう仲間でしょ」
朱音は驚いたように目を瞬かせ、すぐに力強く頷いた。
「うん!」
玲は小さく息を吐き、どこか安堵したように微笑む。
「そうだな。家族じゃない。けれど――背中を預けられる存在だ」
朝の事務所には、事件後とは思えないほど、静かで確かな絆の気配が満ちていた。
【翌日 午後九時三十分/都内テレビ局・報道スタジオ】
スタジオの強いライトが、藤堂の引き締まった表情を照らしていた。
背後の大型モニターには、昨夜の高級ホテル屋上と規制線の映像が静止画で映し出されている。
藤堂は原稿を手にしていたが、視線は一度も落とさず、カメラの奥――画面越しの視聴者を真っ直ぐに見据えていた。
「――今夜、我々は一つの真実をお伝えしなければなりません」
スタジオの空気が、わずかに張り詰める。
「昨夜、市内の高級ホテル屋上で発生した一連の事件は、当初“侵入未遂事件”として扱われていました。しかし、その後の調査により、これは単なる窃盗や愉快犯ではなく、複数の人物が関与した、極めて精密に計画された大規模な犯行であることが判明しました」
藤堂は一拍置き、言葉を選ぶように続ける。
「監視システムの死角、警備動線の把握、逃走経路の確保――そのすべてが事前に計算されており、偶然では説明できない点が数多く確認されています」
モニターには、ぼかしの入った屋上図と、時系列で並ぶ映像キャプチャが切り替わる。
「現在、警察および関係機関は、事件の全容解明に向けて捜査を進めています。なお、現場で確保された人物については、捜査への影響を考慮し、詳細は伏せられています」
藤堂は原稿を軽く持ち直し、声を落ち着かせた。
「私たちがこの事実を伝える理由は一つです。
この事件は、決して“遠い世界の出来事”ではない。高度化する犯罪は、いつ、どこで、誰の身近に起きてもおかしくない――その現実を、今夜、皆さんと共有したいのです」
カメラの赤いランプが、静かに点灯したまま揺るがない。
「続報が入り次第、改めてお伝えします。以上、報道部・藤堂でした」
原稿が静かに机に置かれ、スタジオには一瞬の沈黙が落ちた。
だがその沈黙の裏で、事件はまだ終わっていないことを、藤堂自身が誰よりも理解していた。
【翌日 午前10時/玲探偵事務所・応接スペース】
玲はソファに腰を下ろしたまま、ふと窓の外へ視線を向けた。
冬の光が薄く差し込み、街のざわめきが遠くに聞こえる。
ガラス越しに見える街は、昨夜の緊迫が嘘のように穏やかだった。
だが玲の胸の内には、まだ整理しきれない違和感が静かに残っている。
「……終わった、とは言えないな」
低く漏れた独り言に応える者はいない。
テーブルの上には、昨夜の現場写真、影班からの簡潔な報告書、そして服部一族の紋が入った封筒が並んでいた。
シルフィードは確かに捕らえられた。
だが、彼女の動き、装備、連携――どれを取っても“単独犯”とは思えない精度だった。
玲はゆっくりと背もたれに身を預ける。
「背後の糸を引いている存在……必ずいる」
そのとき、事務所の奥から軽い足音が近づいた。
アキトがマグカップを二つ手にして現れ、何も言わずに一つを差し出す。
「考え込む時の顔してますよ、相棒」
玲はわずかに口元を緩め、カップを受け取った。
「隠れている者ほど、次は必ず動く。昨夜は、その“予告編”だ」
アキトは窓の外を一瞥し、静かに頷いた。
「なら、次はこっちが先に動く番ですね」
湯気の向こうで、二人の視線が交差する。
それは安堵ではなく、次なる局面を見据えた者だけが持つ、静かな覚悟だった。
冬の街は変わらず動き続けている。
そしてその影で、新たな物語もまた、確かに動き始めていた。
午後三時二十分――玲探偵事務所・応接室。
窓越しに差し込む冬の光が、室内の埃を静かに照らしていた。
玲はソファに深く腰を下ろし、組んだ指先を見つめながら、ゆっくりと息を吐く。
「一つ終わった、か……いや、区切りがついただけだな」
その言葉に応えるように、デスク脇で資料をまとめていたアキトが肩をすくめる。
「シルフィードは捕まった。でも、背後の糸はまだ切れてない。……次は、もっと面倒そうですよ」
玲は小さく笑った。
「だからこそ、相棒がいる。悪くないだろ?」
アキトは一瞬きょとんとした後、照れ隠しのように視線を逸らす。
「そういうの、急に言われると調子狂いますって」
そのやり取りを少し離れた場所で聞いていた朱音は、スケッチブックを胸に抱えたまま、静かに二人を見る。
昨夜描いた“結界の痕”が、まだページに残っている。
「……ねえ。次は、もっと早く気づけると思う。嫌な予感も、空気の歪みも」
玲は立ち上がり、朱音の前に立って穏やかに頷いた。
「それでいい。無理はするな。でも――君の直感は、確かに役に立っている」
朱音はぱっと顔を明るくした。
窓の外では、いつもの街の日常が何事もなかったかのように流れている。
だが、その裏側で動く影と、まだ名を持たぬ敵の気配は、確かに残っていた。
玲は窓の向こうを見据え、静かに告げる。
「事件は終わった。でも物語は、まだ続く」
アキトがドアノブに手をかける。
「次の依頼、来そうですね」
「ああ。――準備しておこう」
冬の光の中、三人の影が重なり、そしてそれぞれの未来へと伸びていった。
後日談
【数日後・都内/玲探偵事務所】
玲はデスクに肘をつき、新聞を畳んで静かに置いた。
一面には「怪盗シルフィード事件、黒幕含め関係者送検」の文字が躍っている。
「……ようやく、一区切りか」
低く呟き、玲は窓の外へ視線を移した。
昼下がりの街はいつもと変わらず、人々は事件などなかったかのように行き交っている。
机の上には、今回の事件で使われた資料の束。
警備網の穴、ドローンの改造履歴、影班と服部一族の動線――
すべてが整理され、ファイルに収まっていた。
「派手な怪盗も、結局は人の手で捕まる……だが」
玲はファイルを閉じ、指先で軽く叩く。
「裏で糸を引いていた連中は、まだ完全には見えていない」
そのとき、背後でドアが静かに開く音がした。
「考え込んでますね、相棒」
振り返ると、アキトがコーヒーを片手に立っている。
いつもの軽い調子だが、その目は事件の余韻をしっかりと捉えていた。
「世間的には解決だ。でも俺たちの仕事は、表に出ない“続き”を追うことだろう?」
玲の言葉に、アキトは小さく笑う。
「ですね。まだ風の匂いが残ってる」
玲は再び窓の外へ目を向け、静かに言った。
「次に動くのは、誰だ……?」
冬の光が事務所に差し込み、二人の影を床に長く伸ばしていた。
事件は終わった。
だが、物語はまだ終わっていない――。
アキトの後日談
【数日後・都内某所/玲探偵事務所・キッチンスペース】
アキトはマグカップにコーヒーを注ぎ、気楽な調子で肩を回した。
立ち昇る湯気に顔を近づけ、深く息を吸う。
「……やっぱ事件の後のコーヒーは、ちょっとだけうまいな」
壁際の棚には、使い慣れた変装用の眼鏡や帽子がきれいに並べ直されている。
昨夜までの緊張感が嘘のように、事務所には静かな時間が流れていた。
窓の外では、朝の街がいつも通りに動いている。
誰もが、あの夜の屋上で何があったのかを詳しくは知らない。
アキトはマグカップを片手に窓辺へ歩き、少しだけ口元を緩めた。
「怪盗に忍びに影班……いやあ、派手だったよなぁ」
だが、その声には自慢も誇張もなかった。
むしろ、淡々とした現実感が滲んでいる。
「……でも、捕まえるべき相手は捕まえた。
それでいい」
ふと、机の上に置かれた玲の資料が目に入る。
次の案件らしい、まだ白紙のファイル。
アキトはそれを一瞥してから、コーヒーを一口飲み干した。
「さて、と。
次はどんな顔で潜り込むかな」
そう呟き、いつもの軽い足取りで棚に向かう。
新しい帽子を手に取り、鏡の前で軽く被ってみせた。
鏡の中の青年は、相変わらず年齢不詳で、どこか掴みどころがない。
だがその瞳の奥には、確かな覚悟と経験が静かに宿っていた。
「相棒がいる限り、俺は何度でも化けるさ」
アキトはそう小さく言って、再び日常へと溶け込んでいった。
【数日後・午後/都心近くの小さな公園】
朱音はベンチに腰掛け、膝の上にスケッチブックを広げていた。
冬の名残を含んだ風が木々を揺らし、乾いた葉音が静かに耳をくすぐる。
鉛筆の先が、さらさらと迷いなく動く。
夜の屋上。白い仮面の人物。
その背後、闇の中に立つ複数の影――玲、影班、そして必死に走るアキトの姿。
「……やっぱり、あの夜は忘れられないな」
朱音は小さく呟き、ページの端にそっと影を描き足した。
恐ろしかったはずなのに、不思議と手は震えない。
怖さよりも、目に焼き付いた“瞬間”を残したい気持ちの方が強かった。
「相変わらず、いい集中力だな」
ふいに背後から、気の抜けた声が落ちてくる。
朱音が顔を上げると、ベンチの横にアキトが立っていた。
ラフなコートにニット帽。事件の時とは打って変わって、どこにでもいそうな青年の姿だ。
「アキト! またふらっと来たでしょ」
「ひどいな。散歩の途中に、たまたま天才画家を見つけただけだよ」
アキトは覗き込むようにスケッチブックを見て、軽く目を丸くした。
「……屋上か。しかも、ちゃんと“あの位置”だ」
「うん。あの時、ここから月が見えたでしょ。だから、ここは外せなかった」
朱音は照れたように笑い、スケッチブックを閉じた。
「事件は終わったけどさ」
アキトはベンチの背に腰を預け、空を見上げる。
「多分、また何か起きる。そういう世界だ」
朱音は一瞬だけ考えてから、はっきりと頷いた。
「うん。でもね、その時は――また描くよ。
怖いだけじゃないって、ちゃんと残したいから」
アキトは少し驚いたように朱音を見て、それから柔らかく笑った。
「頼もしいな。じゃあ、その時も俺は――」
「ふらっと現れるんでしょ?」
「お見通しか」
二人の笑い声が、公園の静けさに溶けていく。
冬の空は高く澄み、次の物語が始まる余白を、静かに残していた。
【事件終結から三日後・深夜/玲探偵事務所・解析ルーム】
奈々はモニターに映る最終報告書を確認し、静かに保存ボタンを押した。
ファイル名の横に表示された更新日時を一瞬だけ見つめ、小さく息を吐く。
「……これで一区切り、ですね」
部屋にはサーバーの低い駆動音と、外を走る車のかすかな音だけが残る。
宝石展の警備ログ、シルフィードの行動解析、背後勢力の断片的なデータ――
どれも完全とは言えないが、“見えないまま終わらせる”ことだけは避けられた。
そのとき、背後でドアが軋む音がした。
「まだ起きてたんですか、奈々さん」
振り返ると、アキトが紙コップを二つ手に、いつもの気の抜けた調子で立っていた。
今日は変装もなく、ただの事務所の相棒の顔だ。
「ええ。あなたこそ、もう帰ったかと思いました」
「報告書が気になって。ほら、差し入れです」
奈々は一瞬ためらってから受け取り、わずかに口元を緩めた。
「……相変わらず、タイミングだけは一流ですね」
アキトは肩をすくめる。
「一流は言い過ぎです。ただ、事件が終わった後の空気が好きなだけで」
奈々は再びモニターに目を向け、消えたファイル一覧を見つめながら呟いた。
「今回も、全部は見えませんでした。でも……
“誰かが消そうとした真実”は、確かに残せた」
「それで十分ですよ」
アキトはそう言って、窓の外の夜景に目をやる。
「次が来るまで、少し休みましょう」
奈々は小さく頷き、モニターの電源を落とした。
暗くなった画面に映る二人の影が、静かに重なっていた。
事件は終わった。
だが、次の“違和感”は、もうどこかで息を潜めている。
【数日後・夕方/宝石展が行われていた美術館・館長室】
館長は大きな窓の前に立ち、静かに展示室を見下ろしていた。
ガラスケースはすでに元の配置に戻され、警備員たちが規則正しく巡回している。その光景を確認しながら、館長は背後に立つスタッフへと穏やかに告げた。
「今回の件で、我々の慢心がどれほど危険だったか思い知らされた。
警備体制は全面的に見直す。展示は“見せること”以上に、“守ること”が重要だ」
スタッフは緊張した面持ちで深く頷き、メモを取る手に力を込めた。
そのとき――
館長室のドアが、ノックもなく軽く開く。
「失礼しまーす。まだ立て込んでました?」
気の抜けた声とともに現れたのは、作業員風の服装にキャップを被った青年だった。
一見すると備品点検のスタッフにしか見えない。
館長は一瞬だけ目を細め、すぐに小さく息を吐いた。
「……君か。相変わらず、現れ方が自由だな」
アキトは肩をすくめ、室内を軽く見渡す。
「いやぁ、ついでです。警備動線、ちゃんと改善されてるか気になって」
館長は再び窓の外へ視線を戻し、低く答えた。
「君たちのおかげでな。
あの夜がなければ、ここはもっと大きな損失を出していたかもしれん」
アキトは帽子のつばを指で押さえ、少しだけ真面目な声になる。
「ならよかった。宝石も、人も、無事なのが一番ですから」
その言葉に、館長はわずかに口元を緩めた。
「……礼は、また改めて言おう。表には出せないが、感謝している」
「それで十分です」
アキトは軽く手を振り、来た時と同じように音もなくドアへ向かう。
「じゃ、俺はこれで。
次は“事件”じゃなくて、普通の展示で会えたらいいですね」
ドアが閉まり、館長室には再び静けさが戻った。
館長はもう一度、眼下の展示室を見下ろし、小さく呟く。
「……普通、か。それがどれほど貴重なことか、ようやく分かったよ」
夕暮れの光がガラスケースに反射し、宝石たちは静かに、しかし確かに輝きを取り戻していた。
【数日後・都内拘置施設 取調べ棟 面会室】
小田切は鉄格子越しに天井を見上げ、静かに笑った。
白い蛍光灯の光が、無機質なコンクリートに冷たく反射している。
「……結局、全部ひっくり返されたか」
自嘲気味に呟き、視線を前へ戻した、その時だった。
カツ、と乾いた足音。
面会室の扉が開き、場違いなほどラフな青年が入ってくる。
黒縁の眼鏡、地味なジャケット。
どこにでもいそうな“一般人”の姿――だが、小田切の目がわずかに細まった。
「……あの時の清掃員か」
アキトは肩をすくめ、軽い調子で答える。
「さすがですね。ここまで来ると、もう隠す意味もないか」
椅子に腰を下ろし、鉄格子越しに小田切を見据える。
「あなたの計画、綺麗でしたよ。
警備の死角、偽装記録、実行犯との距離の取り方……
でも一つだけ、計算に入ってなかった」
小田切は薄く笑った。
「……何だ?」
「“人の目”です」
アキトは指で自分の眼鏡を押し上げる。
「完全犯罪って、だいたい誰かが“見てる”。
気づかれないと思ってるのは、本人だけなんですよ」
数秒の沈黙。
やがて小田切は、肩の力を抜くように息を吐いた。
「……若いな、お前」
「十九です」
さらっと答えるアキトに、小田切は一瞬だけ目を見開き、苦笑した。
「はは……世代交代、か」
アキトは立ち上がり、扉へ向かう。
その背に、小田切が低く声をかけた。
「一つ聞かせろ。
――次に狙うのは、俺じゃないんだろう?」
アキトは振り返らず、軽く手を振った。
「さあ。
でも“見てる人間”は、これからも増えますよ」
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
小田切は再び天井を見上げ、今度は声を出さずに笑った。
(……なるほど。
あれは捕まるべくして捕まったわけだ)
白い光の下、鉄格子の影が静かに揺れていた。
【後日談/深夜二時・湾岸倉庫街外れ】
月明かりの下、フードを被った影がひとつ、静かに立ち止まっていた。
倉庫の屋根から滴る水音と、遠くを走るトラックの低いエンジン音だけが夜を満たしている。
ルミナはフードの奥で小さく息を吐き、拘束用ワイヤーを丁寧に畳んだ。
仕事は終わった。
それ以上でも、それ以下でもない――彼女はそう割り切るタイプだった。
「……やっぱり、後処理まで完璧だな」
背後から、気の抜けた声がした。
気配を感じ取っていたにもかかわらず、ルミナは振り返らない。
「褒めても何も出ないわよ」
路地の陰から現れたのは、地味なジャケットにニット帽、どこにでもいそうな青年――アキトだった。
変装は相変わらず自然で、街に溶け込みすぎている。
「いやぁ、つい感心してさ。影班の“女盗賊”が、こんなきれいに足跡を消していくんだから」
ルミナは肩をすくめ、月を仰いだ。
「家族がいるの。無駄に目立つわけにはいかないでしょ」
その声には、冗談めいた軽さと同時に、確かな覚悟が滲んでいた。
アキトは少しだけ真面目な顔になる。
「今回も助かった。玲も、表では言わないけど感謝してる」
「でしょうね。あの人、そういうタイプだもの」
ルミナはフードを深く被り直し、一歩、闇へと足を踏み出す。
その背中越しに、ふっと笑った。
「次は“助っ人”じゃなくて、ただの通りすがりでいいわ」
「了解。じゃあ、その時は気づかないふりしとく」
軽口を交わしながら、二人の距離は自然と離れていく。
やがてルミナの姿は、月明かりの届かない暗がりへと溶け込んだ。
残されたアキトは、しばらくその場に立ち、夜風に帽子を押さえながら呟く。
「……家族、か。守る理由がある人間は、やっぱり強いな」
倉庫街に再び静寂が戻る。
だが、この夜に交差した影たちの物語は、まだ完全には終わっていなかった。
【翌朝・東京都郊外/服部一族の拠点・中庭】
朝靄がまだ残る中庭で、紫苑は一族の者たちを前に静かに立っていた。
夜の戦いの痕跡はすでに片付けられているが、空気にはまだ緊張の名残が漂っている。
紫苑は一人ひとりの顔を見渡し、低く、しかしはっきりと告げた。
「昨夜の件で、我らは大きな役目を果たした。だが同時に、影の世界はまだ動いている。慢心するな。己の技と覚悟を、常に磨き続けろ」
一族の者たちは無言で頷き、それぞれの持ち場へと散っていく。
その背中を見送った紫苑の背後から、砂利を踏む軽い足音がした。
「いやぁ、相変わらず締めるところはきっちり締めますね」
振り返ると、縁側の柱にもたれるようにアキトが立っていた。
ラフな服装に無防備な表情だが、どこか気配が読めない。
紫苑はわずかに目を細める。
「……いつからそこにいた」
「今の一言、ちょうどいいところで」
アキトは肩をすくめ、軽く笑った。「皆さん、いい顔してましたよ」
紫苑は小さく息を吐き、視線を空へ向ける。
「お前も、相変わらず掴みどころがないな。だが――昨夜は助かった」
「それはどうも」
アキトは照れたように頭をかき、「また必要なら呼んでください。影でも、表でも」
紫苑は静かに頷いた。
「その時は、正式に迎えよう。服部の名に恥じぬ者としてな」
アキトは一瞬だけ目を丸くし、すぐにいつもの調子で笑った。
「重いですねぇ。でも、悪くない」
朝の光が二人の間に差し込み、影と光が静かに交差していた。
【数日後・夕方/玲探偵事務所】
玲のスマートフォンが、静かな事務所で震えた。
窓の外では、冬の夕焼けがビルの隙間を赤く染め、街の喧騒が遠くに滲んでいる。
画面には、またしても“匿名”の表示。
玲は一瞬だけ目を細め、それから静かに端末を手に取った。
不用意に開かず、指先で机を軽く叩く。あの夜の屋上、煙、白い仮面、影班の連携――すべてが脳裏をよぎる。
「……まだ終わりじゃない、か」
ロックを解除すると、短い文章が表示された。
『シルフィードは氷山の一角だ。
次は“宝石”ではなく、“人”が狙われる』
玲は息を吐き、スマートフォンを伏せる。
背もたれに深く身を預け、天井を見上げた。
「忠告のつもりか。それとも、宣戦布告か」
そのとき、背後でドアが軽く軋んだ。
振り返ると、いつの間にかアキトが立っている。手にはコンビニの紙袋。
「また、嫌な顔してますね。コーヒー、飲みます?」
玲は小さく苦笑し、椅子から立ち上がった。
「ああ。どうやら次の依頼が、もう来たらしい」
アキトは紙袋を机に置きながら、冗談めかして肩をすくめる。
「休む暇、なさそうですね。相棒としては、腕が鳴ります」
玲は窓の外、暮れゆく街をもう一度見つめた。
光と影が入り混じるその景色の向こうに、まだ見ぬ事件の気配を感じながら。
「……行くぞ、アキト。
影がある限り、俺たちの仕事は終わらない」
夕暮れの事務所に、コーヒーの香りが静かに広がっていった。
朱音のあとがき
夜のことを思い出すと、今でも胸の奥が少しだけざわっとする。
白い仮面、煙の匂い、屋上を吹き抜けた冷たい風。
怖かったはずなのに、不思議と嫌な記憶じゃない。
あの夜、私はただ見ていただけだった。
でも「見る」ということにも、意味があるんだって知った。
誰かの背中、迷い、決断――
それを感じ取ることが、次の一歩につながることもある。
スケッチブックに描いた影たちは、みんな少しずつ違う。
強い人、優しい人、黙って前に立つ人。
アキトは相変わらず突然現れて、何でもない顔で去っていくけど、
その背中はちゃんと絵に残した。
私はまだ未熟で、できることは少ない。
それでも、あの夜の光景を忘れない限り、
きっとまた役に立てる時が来ると思ってる。
次にページをめくる時、
そこにはもっとたくさんの線と、迷いのない色を描けますように。
――朱音




