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87話 風凛館(ふうりんかん)の影 ― 消された動線

登場人物紹介


れい

私立探偵。冷静沈着で観察力に優れる。

感情を表に出すことは少ないが、事実と向き合う姿勢は一貫しており、事件の核心を静かに突いていく。

朱音の保護者的存在でもある。


朱音あかね

玲と行動を共にする少女。

鋭い直感と記憶力を持ち、現場の「違和感」に誰よりも早く気づく。

無邪気な言動の裏で、事件解明に重要な証言をもたらす存在。


アキト

潜入・変装のスペシャリスト。

年齢不詳(自称19歳)。

配達員、清掃員、監査員、用務員など自在に姿を変え、館の裏側へ溶け込む。

軽い口調とは裏腹に、極限状況でも判断を誤らない。


橘 奈々(たちばな なな)

解析担当。

監視カメラ映像、ログ、出入り記録などを統合し、見えない流れを可視化する。

合理的だが、仲間との軽妙なやり取りも多い。


カイ

システム・セキュリティ担当。

ロック機構や制御盤、隠し通路の構造に精通している。

寡黙だが、要所で確実な技術力を発揮する。


藤堂とうどう

報道関係者。

事件の裏側を世に出す役割を担う。

玲たちから託された情報を、事実として社会に届ける。


小田切おだぎり りょう

風凛館の元関係者。

館の構造と運用を熟知し、その知識を利用して事件を仕組んだ張本人。

密室と監視の死角を作り出した計画の首謀者。


館長

風凛館の管理責任者。

事件後、館の在り方と自身の判断を省みることになる。


清掃員・佐々木(仮名)

館で長年働くベテラン清掃員。

日常業務の中で感じた違和感が、事件解明の糸口となった。


概要


歴史あるゲストハウス「風凛館」。

静かな夜に起きた不可解な事件は、館の構造、消えた映像、偽装された動線によって巧妙に隠されていた。


潜入する者、解析する者、記憶を辿る者。

それぞれの視点が重なったとき、

“ただの事故”として処理されかけた真実は、静かに姿を現す。


そして事件が終わったあとも、

館には確かに「影」が残っていた――

冒頭


【古民家・夜】


冷たい秋風が木々の葉を揺らし、静かな夜を包み込んでいた。リノベーションされた古民家は、伝統的な木組みを残しつつもモダンなインテリアが調和している。窓の外ではかすかに虫の声が響き、館内の暖かな明かりと対照的に、ひんやりとした空気が漂っていた。


来訪者たちは談笑したり、本を読んだり、ゆったりとした時間を過ごしている。階下の共有スペースからは、数人の声がかすかに漏れ聞こえ、夜の静寂にまじって小さな物音が響く。スタッフが客の要望に応えながら丁寧に館内を巡回し、穏やかなひとときを演出していた。


しかし、訪れた誰も感じることのない、館の奥深くに潜む秘密の気配が、静かな夜を暗く包んでいるのだった。


廊下の静寂を破るように、鋭い金属音が響き渡った。まるで重い鉄の棒が硬い床に打ち付けられたかのような冷たい響きだ。


「……っ!」


誰かが床に倒れ込む鈍い衝撃音が続き、かすかに苦しげな呻き声が漏れた。声はか細く、かすれた呼吸のように途切れ途切れだった。


館内にいたスタッフたちは一斉に駆け出す。


「ど、どうした!?誰か倒れたのか?」


声が飛び交い、緊張が走る。


「聞こえた?あの音……」


若い女性スタッフが顔をこわばらせながら言う。


「誰か、応答してくれ!」


玄関近くにいた男性が声を張り上げた。その先の廊下の奥から、かすかに呻き声が続く。


スタッフたちは息を飲み、足音を忍ばせながら音のする方向へ向かっていった。


【古民家・和室・夜】


若い女性スタッフは息を切らせながら、和室の扉の前に立っていた。手には震える指で携帯電話を握りしめている。


「館長、お願いです!中に誰かいるんですけど、扉が内側から鍵がかかっていて開けられません……!」


彼女の声は震え、焦燥が滲んでいた。


廊下の向こうから館長が駆け寄り、扉を見つめる。


「落ち着け。何があったんだ?」


スタッフは振り返り、言葉を詰まらせながらも続けた。


「さっき廊下で金属音がして、誰かが倒れたような音が……。それで急いで来たんですけど、中の様子が全然わからなくて……」


館長は少し深呼吸し、扉を何度か軽くノックしながら言った。


「大丈夫か?返事をしてくれ」


返事はなかった。


館長はポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。


「とにかく開けるぞ、みんな離れてくれ」


緊張が張り詰める中、館長がゆっくりと鍵を回し始めた。


扉がゆっくりと開くと、和室の中央に一人の男性が倒れていた。彼の顔は青ざめ、まるで息をしていないかのように静かに横たわっている。


館長が駆け寄り、男性の肩を優しく揺すった。


「……大丈夫か?」


しかし、男性はびくりとも動かず、冷たい沈黙が部屋を支配した。


スタッフの女性が震え声で言った。


「息をしてないみたい……誰か、救急車を呼んでください!」


館長は落ち着いた声で応えた。


「すぐに連絡する。お前はその場を動かすな、他のスタッフに知らせてくる。」


部屋に残された静けさの中、男性の無表情な顔が一層不気味に感じられた。


【玲探偵事務所・デスク・昼】


玲はいつものデスクに向かい、書類に目を通している最中だった。突然、受話器が鳴り、画面の時計は午後2時を示していた。


玲は息を整え、受話器を手に取る。


「はい、玲です。」


落ち着いた若い男性の声が、電話越しに静かに響いた。


「玲さんですか?岐阜県郊外のゲストハウス『風凛館』から電話しています。私、館のスタッフの佐藤と言います。昨夜、館内で男性が倒れているのを発見しました。警察が入っていますが、どうも不可解な点が多くて…ぜひ調査をお願いしたいのです。」


玲は受話器を握りしめたまま、静かに息を吐く。

「わかりました。すぐに向かいます。詳細を教えていただけますか?」


佐藤の声が少し緊張を帯びて、説明が続く。

「倒れていたのは和室の一角で、扉は内側から施錠されていました。スタッフが駆けつけた時には意識はなく、呼吸も確認できませんでした…。」


玲はすぐにノートを取り出し、メモを始める。

「なるほど…了解しました。館の構造や監視カメラの配置、スタッフの動線なども把握できれば、より正確に状況を分析できます。」


佐藤はうなずくように、電話越しに答えた。

「はい、準備しておきます。お気をつけていらしてください。」


玲は受話器を置き、深く頷いた。

「了解。では、すぐに出発します。」


机の上のファイルを整理し、探偵としての直感を研ぎ澄ませる。

外はまだ午後の明るさに満ちていたが、玲の心はすでに岐阜の館に向かっていた。


【玲探偵事務所・デスク横・午後】


玲が受話器を置くと、隣に座っていた朱音が身を乗り出し、目を輝かせた。


「ねぇねぇ、玲さん!また面白そうな事件なの?」


玲は微かに口元を緩め、朱音の髪をそっとかき上げる。

「うん、ちょっと複雑な案件みたいだ。岐阜の郊外にあるゲストハウスで、不自然な状況の男性が倒れていたらしい。」


朱音は目を丸くして、手を組んで息を飲む。

「倒れてたの?怖いよ、玲さん…。でも、なんで私たちが関わるの?」


玲はデスクの書類に視線を落としながら説明する。

「警察も現場には入っているけど、状況が妙でね。閉ざされた和室、施錠された扉…普通の事故じゃなさそうだ。」


朱音は眉をひそめ、机の端に手を置く。

「つまり、誰かがわざと…?」


玲は小さくうなずき、手元の資料をまとめながら付け加えた。

「そうかもしれない。だから僕たちで現場を調べて、何が起きたのか確かめる必要がある。」


朱音は身を乗り出したまま、少しワクワクしたような笑みを浮かべた。

「じゃあ、私も一緒に行っていい?」


玲は短く笑い、朱音の頭を軽く撫でた。

「もちろんだ。ただ、冷静に観察すること。感情に流されちゃダメだよ。」


朱音は深くうなずき、胸をわくわくさせながら椅子に腰を下ろした。

外の午後の光がデスクに差し込み、二人の間にほんのりと温かな空気が流れる。

――新たな調査の序章が、静かに始まろうとしていた。


【風凛館・玄関ホール・午前】


重厚な木製の扉が軋む音を立て、玲と朱音が館内に足を踏み入れる。

玄関ホールには、古いシャンデリアの光がやわらかく揺れ、壁面に掛けられた油絵やアンティークの家具が歴史の重みを感じさせた。


「すごい…まるで時間が止まったみたい」

朱音はつぶやきながら、目を輝かせて館内を見回す。


玲は冷静に周囲を観察し、スタッフに軽く会釈する。

「館の構造と人の流れを把握しよう。まずは玄関周辺の配置からだ。」


その時、アキトが別の扉からふらりと現れる。

今回は清掃スタッフの制服に身を包み、手には掃除用のバケツとモップを持っていた。

動作は自然で、まるでここで日常的に働いているかのようだ。


「……今回も、いろいろな人物に化ける必要がありそうだな」

アキトは小声でつぶやき、玄関の隅に体を潜める。


玲が朱音に向かって囁く。

「舞台は整った。ここからが本番だ。」


朱音は息を飲み、二人とアキトの背後で広がる館内をじっと見つめる。

静かな洋館の空気の中、未知の真実が少しずつ動き出そうとしていた。


【風凛館・廊下・午前】


玲は静かに朱音の横に立ち、壁のスマートロック操作パネルを見つめる。

「朱音、このシステム、通常の暗証コードだけじゃなく、出入りログまで記録されているね」


朱音は小さな指先でパネルを操作しながら頷く。

「うん……最後に開閉した時間が表示されてる。深夜の記録も残ってるみたい」


玲が視線を細め、壁沿いに設置されたセンサーやカメラの位置を頭の中で整理する。

「誰がいつこの廊下を通ったか、全部追える。重要なのは、音と光のタイミング。あれを使えば不審者の動きを再現できる」


朱音はタブレットを取り出し、スマートロックのログと館内の平面図を重ね合わせる。

「……この時間帯に通ったのはスタッフと宿泊客だけ。館内の動線から逸れた人物は、このパネル操作ログにはない」


玲は低く息をつき、朱音の横顔を見つめる。

「完璧だ。これで、誰が館内に侵入したのか、少しずつ浮かび上がってくる」


廊下に漂う静寂の中、二人の手元でモニターの光が微かに揺れ、館内の秘密の輪郭を浮かび上がらせていた。


【風凛館・共有スペース・午前】


アキトはカウンター越しに若い女性スタッフに近づき、軽く頭を下げる。

「おはようございます。ちょっとお聞きしたいんですけど、昨夜、館内で不審な音とか、倒れている人を見かけたりしましたか?」


女性スタッフは少し戸惑いながらも答える。

「え、ええと……廊下の奥の和室の方で、金属が倒れるような音がしたみたいで……でも、誰が倒れたのかは見ていません」


アキトはメモ帳を取り出し、素早く簡単に書き留める。

「なるほど……そのとき他にスタッフや宿泊客はいましたか?」


女性スタッフは肩をすくめる。

「夜勤のスタッフは一人だけで、宿泊客は部屋にいたと思います。音に気づいたのも私だけです」


アキトは頷き、微かに笑みを浮かべてカバンを直す。

「ありがとう。じゃあ、その時のこと、詳しく思い出したら教えてください。とても助かります」


女性スタッフは少し安心した表情で頷き、アキトは軽やかに歩き去る。

彼の目は常に館内の動線を追い、次の情報収集の糸口を探していた。


【風凛館・監視室・午前】


アキトは息を整えながら、小型のタブレットを取り出す。画面には館内の監視カメラ映像が並ぶ。


「よし……全カメラの死角と動線は把握済みだ」


彼はイヤホンを通して、監視室の音声を微細に拾い始める。

廊下の足音、遠くのドアの軋む音、時折響く冷蔵庫のモーター音まで、すべてが彼の情報源だ。


指先で画面をなぞり、動く影や人影を確認する。

「ここからなら、館内のどの部屋も把握できる……少しずつ、昨夜の異変の痕跡が見えてくるはずだ」


アキトは監視映像を分析しながら、心の中で次の行動を組み立てる。

「まずは人の動きを追い、次に倒れていた部屋の状況を直接確認……よし、午後までに情報を整理して舞の証言と照合する」


彼の表情は冷静そのものだが、目の奥には緊張感と集中力が静かに光っていた。


【風凛館・書斎・午前】


玲は紙片をひとつずつ手に取り、墨のにじみや折れ目、筆圧の跡を確認した。

「朱音、この紙はどうやら手書きのメモみたいだな。文字の向きや書き順から、誰が書いたかある程度推測できる」


朱音は紙片を指で軽く押さえながら、机の上に並べていく。

「玲さん、この破れ方……偶然じゃない気がします。何か、隠そうとした跡かも」


玲は眉をさらに寄せ、床に散らばった全ての紙片を並べ替える。

「墨のにじみや折れ目、破れ方……全部を総合すると、最後まで抵抗した痕跡が見えてくる。書き手の心理まで浮かび上がるかもしれない」


朱音が小さく息を飲む。

「こんなに細かい分析が……玲さん、さすがです」


玲は少し微笑むと、紙片を慎重に手で重ね、次の手を考え始めていた。

「まだ全貌は見えていない……でも、少しずつ真実の輪郭が見えてきた気がする」


【風凛館・玄関ホール・午前】


玲と朱音は、シャンデリアの下を静かに歩きながら、足音を最小限に抑えた。

「ここも、何か手掛かりがありそうだな」と玲が呟く。


朱音は目を細め、床のきしみや壁の微かな傷を観察する。

「家具の配置や床のきしみ方で、最近誰が通ったかもわかりそう……」


玲は壁際の古い傘立てに目を留める。

「この跡……誰かが急いで入ったときにぶつけたのかもしれない。微かな痕跡でも、動線は読める」


朱音が小さく息をつく。

「玄関だけでも、こんなに情報が詰まってるんですね」


玲は頷き、玄関の隅々に目を走らせる。

「建物は古いが、それだけ人の動きや証拠を留めやすい。ここから全体像を掴む手掛かりが出るかもしれない」


二人の視線は、玄関ホールに漂う静寂の奥に潜む“異変”を探して、ゆっくりと動いていった。


【風凛館・玄関ホール・午前】


その時、アキトが静かに廊下の影から現れた。

制服はすでに脱ぎ、普段通りの身軽な格好に戻っている。

手には小型のタブレットを持ち、館内の監視カメラ映像をチェックしている様子だ。


「異常なし……いや、微妙な動きか」アキトが小声で呟く。

朱音が反応して顔を上げる。

「アキトさん、何か見えたんですか?」


アキトはタブレットを指でなぞりながら説明する。

「スタッフの動線と音の記録から、倒れていた男性が最後に移動した可能性のある場所を割り出した。これを元に、他の部屋や廊下のチェックをすると効率がいい」


玲が頷き、朱音に指示を出す。

「じゃあ、君は紙片や書類の整理を続けて。アキトは館内の動線を確認、僕は館長やスタッフから話を聞く」


アキトは軽くうなずき、足音を立てずに廊下の奥へと消えていく。

その背中を見送り、玲と朱音は再び散らばった紙片に目を戻した。

館内の静寂の中で、微かな呼吸やきしみ音、遠くの時計の針の音までが、事件の手掛かりのように感じられた。


薄暗い玄関ホールに、調査の気配だけが静かに広がっていった。


【風凛館・廊下・午前】


アキトはゆっくりと廊下を歩きながら、手にしたメモ帳に目を落とす。

「絵の位置、距離、照明の角度……ふむ」


丸縁の眼鏡越しに、壁にかかった油彩や水彩の額縁を丁寧に見つめ、指先で軽く額縁の角をなぞるふりをする。

彼の視線は表面的な点検ではなく、裏の構造や設置方法、壁面の異常まで確かめるように細かく動く。


廊下の角を曲がるたび、静かに耳を澄ませ、先ほど倒れていた男性の足取りや、スタッフの移動音を頭の中で整理していく。

小さくメモ帳に書き込みながら、心の中で確認する。


「ここから先の廊下、カメラの死角があるな……うまく回り込めば情報が取れる」


まるで本当に点検員のように振る舞いつつ、潜入調査のための準備を進めるアキト。

館内の静かな空気の中で、その存在はほとんど気づかれず、しかし確実に事件の手掛かりを拾い集めていった。


【風凛館・2階廊下・午前】


朱音は小さな手を扉に添え、そっとノックした。

「……こんにちは。ちょっとお話、いいですか?」


声はかすかに震えていたが、柔らかく丁寧で、相手に威圧感を与えない。

玲は後ろで静かに見守りながら、朱音の表情や呼吸、肩の緊張を目で追う。


扉の向こうから、微かに物音が聞こえ、少しの沈黙のあと、年配の女性スタッフが顔をのぞかせた。

「……あの、どうかしましたか?」


朱音はにこりと笑い、両手を少し前に揃える。

「昨日、館内で倒れている人を見つけたって聞いたんです。少しお話を聞かせてもらえませんか?」


その声の柔らかさと小さな笑顔に、相手の女性は警戒心を緩め、肩の力を抜いたようにうなずいた。

朱音の可憐な聞き込みは、自然に情報を引き出す力を持っていた。


【風凛館・2階廊下・午前】


女性スタッフは少し戸惑いながらも、静かに扉を開けたまま朱音に向かって言った。

「ええと……あの、夜のことですか?本当に大変でした……」


朱音は膝を軽く折り、床ぎりぎりまで身をかがめるようにして聞く。

「どんな様子だったんですか?声は、誰のものだったんでしょうか……?」


玲は後ろから控えめにメモを取りつつ、朱音が引き出す情報の内容を確認する。


女性スタッフは一呼吸置き、手で胸元を押さえながら言葉を続けた。

「廊下で……男性の方が倒れていました。倒れた時は本当に静かで……でも、何か金属のような音が響いた気がします。誰かに押されたような……いや、でも、よく分からないんです」


朱音は頷き、さらにやさしい声で促す。

「大丈夫です。怖くなかったですか? もし何か覚えていることがあったら教えてください」


スタッフは小さく目を伏せながらも、朱音の真剣な眼差しに押され、少しずつ細部を語り始める。

「はい……廊下の端に、いつも見かけない影があったんです。光の角度で見えただけかもしれませんが……それと、非常灯が一瞬だけチカッと光って……」


朱音はその情報を漏らさぬよう、そっとノートにメモしながら微笑む。

「ありがとう……助かります」


玲は背後で静かに頷き、朱音の自然な聞き込みに感心する。

小さな声と笑顔が、館内の緊張をほぐし、確実に手がかりを引き出していた。


【風凛館・2階廊下・午前】


アキトは廊下の陰からゆっくり現れ、管理人風の帽子を深くかぶったまま、革靴の音を響かせながら歩く。

「……あ、皆さん、おはようございます」


玲と朱音は互いに視線を交わし、アキトの存在を確認する。朱音は小さく手を振る。

「おはようございます……あの、その、誰か来たんですか?」


アキトは軽く会釈し、少し柔らかめの声で答える。

「はい、私も館内の点検に来たんです。絵画や照明の位置を確認して回っていまして」


玲はそっとメモを取りながら、アキトの目の動きを観察する。

「点検ね……なるほど、怪しまれることなく廊下を歩けるわけか」


朱音は興味津々で訊ねる。

「点検って、絵の向きとかも見るんですか?」


アキトは少し笑みを浮かべ、帽子の縁を押さえながら答える。

「そうです、絵の角度、照明の照らし方、ほかにも気になるところがあればメモして……館の安全も守らなきゃいけませんからね」


玲は心の中で頷く。アキトの自然な振る舞いが、潜入調査を円滑に進める鍵になっていることを再確認する。


足音が遠ざかると、朱音は小声で呟いた。

「……不思議な人だな。見てるだけで落ち着くというか……」


玲は微笑みながら答える。

「そうだな、あの人は“潜入のプロ”だからな。目立たずに必要な情報を集めるのが仕事だ」


廊下には再び静寂が戻り、風凛館の奥深くで、小さな調査が静かに進んでいくのだった。


【風凛館・地下室前・午前】


アキトは足音を殺しながら扉の前に立ち止まる。手には小型のツールケース、もう片方の手は扉のノブに触れた。


「……ここか」


指先でノブの感触を確かめ、軽く回すと、わずかに鍵が掛かっていることを確認する。

彼は小声で自分に言い聞かせるように呟いた。

「焦らず、慎重に……誰も気づかないように」


耳に装着した小型イヤホンからは、監視室の音声が微かに流れ、地下室内部の気配が拾われている。アキトは音を頼りに、周囲の人間が近づいていないことを確認した。


「よし、潜入開始」


ツールケースから必要な器具を取り出し、扉の鍵を静かに解除。金属音は最小限に抑えられ、扉はゆっくりと開いた。


薄暗い地下室の空気が、アキトの顔をかすかに撫でる。

埃と湿気の匂い、古い木材の香り――ここに何が隠されているのか、すべてを目と耳で探る。


彼は低く息をつき、そっと一歩足を踏み入れた。

闇の中、わずかな光を頼りに、アキトの影が地下室の床に長く伸びる。


【玲探偵事務所・午前】


玲は椅子に腰を下ろし、ノートパソコンのキーボードを静かに叩く。画面には風凛館の内部図と、アキトの潜入予定ルートが表示されている。


「藤堂さん、状況報告……」


淡い青色のカーソルが点滅する中、玲は簡潔にメールを打ち込む。


件名:風凛館・調査状況


本文:

藤堂様


現在、風凛館内の潜入調査を開始しました。

アキトは管理人風に変装し、地下室前で待機中。

監視カメラやスタッフの動きは問題なし。

進展があり次第、随時報告します。



送信ボタンを押すと、短い送信音と共にメールは藤堂の受信トレイへ届く。

玲は軽く息をつき、次の行動に目を向けた。

「さて、アキト……次の動きを確認するか」


ノートパソコンの画面には、地下室内部の薄暗い監視映像と、潜入経路のマーカーがリアルタイムで表示されていた。


【玲探偵事務所・午前】


玲が画面を見つめると、受信トレイに新着メールの通知が表示された。件名は「Re:風凛館・調査状況」。


玲はクリックして開く。


本文には藤堂の落ち着いた文字が並んでいた。


「玲さん、了解。アキトの動きに注意してくれ。館内の音声や映像を逐次送ってもらえると助かる。

報道の準備は進めている。進展があればこちらでも随時確認する。

気をつけて。」


玲は画面を眺め、うなずく。

「了解、藤堂。すぐに映像を送信できるように準備しておこう」


彼の指先がキーボードに触れ、地下室の監視映像を選択する。

小さな画面の中で、アキトが管理人風の姿で慎重に歩みを進めるのが映っていた。

玲はモニターをじっと見つめ、状況を整理しながら次の指示を考えていた。


【玲探偵事務所・午前】


「……やっぱり、あの地下室の構造は怪しいね」


朱音が小さな声でつぶやく。手元の図面を指でなぞりながら、慎重に確認していた。


玲はうなずき、メモ帳の端に注意深く書き込む。

「アキトの位置も把握できたし、あとは彼が拾った情報と照合するだけだ」


朱音が少し顔を上げ、玲を見つめる。

「でも、どうしてあんなに自然に潜入できるの……?」


玲は微笑を浮かべながら答える。

「秘密は経験と観察力。あとは少しの運も必要だね」


朱音はそれに小さく笑い、再び資料に目を落とした。

室内には静かな集中の空気が漂い、窓の外の朝光だけが柔らかく差し込んでいた。


【玲探偵事務所・午前】


玲がデスクの端に置かれたスマートフォンを手に取ると、画面に奈々からの新着メッセージ通知が点滅していた。


「奈々からか……」玲はつぶやき、指で通知を開く。


メッセージには、館内の監視カメラ映像のスクリーンショットや、匿名通報のログ、異変があった部屋の位置情報が添付されていた。

「地下室付近で、異常な動きがあったようです。添付の映像を確認してください」


玲は画面に集中し、奈々が整理してくれた情報を頭の中で組み合わせる。

「なるほど……これなら、次の行動も見えてくる」


朱音が隣で覗き込み、小さな声で言った。

「すごい……奈々さん、いつも頼りになるね」


玲は微かに笑みを浮かべ、スマートフォンを机に置き、朱音とともに次の調査計画を練り始めた。


【奈々の作業室・午前】


薄暗い部屋に並ぶ複数のモニターが青白い光を放ち、橘奈々は画面に集中してキーボードを叩いていた。解析ソフトが膨大なデータを高速で処理し、彼女の指先はまるで止まることを知らないかのように動く。


「……このアクセス履歴、怪しいね」奈々は小声でつぶやき、画面上の複数のログを比較していく。


モニターの一角には館内のセンサー情報や、防犯カメラの映像が並んでおり、奈々は瞬時に関連性を見抜いてチェックを入れる。


画面を一瞥した奈々が口元に微笑みを浮かべ、耳にかけたヘッドセットから玲の声が届く。

「奈々、異常信号はどの程度確認できた?」


「はい、ほぼ解析完了です。ここに映っている人物の動きにパターンがあります。怪しいタイミングで扉が開閉しています」


玲の声がうなずくように響く。

「よし、アキトと沙耶にはそのルートを重点的に監視してもらうように伝えてくれ」


奈々はうなずき、再び指先を走らせる。膨大なデータの海を泳ぎながら、次第に事件解明への道筋が浮かび上がってくる。


【解析室前・午後】


奈々が解析室の扉を開けて出てくると、玲と朱音がすでに机を囲んで待っていた。

「お疲れ、奈々。進捗はどう?」玲が静かに問いかける。


奈々は軽く息を整え、真剣な表情で資料を広げながら答えた。

「解析はほぼ完了しました。館内のカメラ映像とセンサー履歴を突き合わせたところ、特定の人物の動きに不自然なパターンがありました」


朱音が目を輝かせて資料を覗き込む。

「へえ……誰が何をしていたのか、ちゃんとわかるんだね」


奈々は少し笑みをこぼし、モニターに映るデータを指でなぞる。

「ええ。しかも、その行動のタイミングと館内の異常信号が完全に一致しています」


玲がうなずき、次の指示を出す。

「じゃあ、アキトと沙耶にこの情報を共有しよう。あとは現場で細かく確認してもらう」


奈々は手元のタブレットにデータをまとめ、慎重に送信ボタンを押す。

「了解です。現場の動きが見えれば、次の一手がはっきりします」


三人の間に静かな緊張と信頼が流れ、解析室には事件解決への希望が少しずつ積み重なっていった。


【スタッフルーム前・午前】


アキトは黒いスーツに身を包み、きっちりとネクタイを締めていた。サングラスをかけ、背筋をピンと伸ばし、まるで別人のような風貌でスタッフルームの前に立つ。


軽く深呼吸をしてから、静かにドアをノックする。

「……失礼します。風凛館の外部監査員、斎藤です。スタッフの方とお話しできればと思いまして」


中から小さな物音がして、若い女性スタッフが顔を出す。

「え、あ、はい……どうぞ」


アキトは微笑みながら部屋に一歩踏み入れる。

「ありがとうございます。少しだけ、お時間をいただきたいのですが……館内で昨夜、男性が倒れていた件について、スタッフの皆さんから聞ける範囲で状況を伺えればと思います」


女性スタッフは緊張しながらも、ノートを手に立ち上がる。

「そ、それなら……館長が対応してくれたほうが、正確な情報が……」


アキトは軽く首をかしげ、柔らかい口調で続ける。

「もちろん、館長からの報告も確認させていただきます。ただ、現場で感じた小さな違和感や、館内で目にした不可解な点も知りたいのです。どんな些細なことでも構いません」


スタッフはうなずき、ゆっくりと口を開いた。

「実は……夜中に聞こえた金属音、最初は風のせいかと思ったんですけど、あの時間、誰も館内にいないはずなのに……」


アキトはメモ帳を取り出し、そっと書き留めながら視線を真剣に向ける。

「なるほど……その音の場所や、どの方向から聞こえたのか、覚えていますか?」


スタッフは手元のノートをめくり、少し考えてから答えた。

「ええと、廊下の奥の和室のあたりから……。でも本当に微かで、誰も確認できていません」


アキトはうなずき、さらに質問を重ねる。

「ありがとうございます。では、館内で普段と違う動きや、気になった人物の出入りなども覚えている範囲で教えてもらえますか?」


女性スタッフは少し戸惑いながらも、小声で続ける。

「そうですね……普段は見かけない方が、掃除や点検のふりをして歩いていたような……気がします」


アキトはペンを止めず、目を細めてその言葉を確認する。

「なるほど……貴重な情報です。ありがとうございます。おかげで全体像が少しずつ見えてきました」


スタッフはほっと息をつき、少し笑みを浮かべる。

アキトは静かに立ち上がり、深く一礼する。

「それでは失礼します。何か新しいことを思い出したら、また教えてください」


扉を出た後も、アキトの目は館内の細部を鋭く観察し続けていた。

聞き込みは終わったが、彼の潜入調査はまだ始まったばかりだった。


【厨房前・午前】


アキトは厨房のドアの前で立ち止まり、ゆっくりと深呼吸をした。手にしたノック音が静かな廊下に響く。


「トントン…」


包丁で食材を切るリズミカルな音が続く中、やがて中から低い女性の声が返ってきた。

「はい、どなたですか?」


アキトは落ち着いた声で応じる。

「外部監査の斎藤と申します。厨房の作業手順について、少しだけお話を伺いたくて…」


中から女性が身を乗り出す。制服姿の厨房スタッフ、川島が顔を見せた。

「外部監査ですか……はい、少しならお話できますけど、何か問題でも?」


アキトは微笑みを浮かべ、丁寧にうなずく。

「問題があるわけではありません。昨夜の館内での出来事に関わる小さな確認です。作業中に何か異変や、気になる点がなかったかを知りたいのです」


川島は包丁を脇に置き、手元のまな板に軽く置いた。

「異変……ですか。ええと、夜間の作業は通常のルーチン通りでしたし、音も特別変わったことはなかったと思います。でも……」


少し間を置き、川島は声を潜めた。

「でも、準備室の方からかすかに金属音が聞こえたような気がします。最初は落ちた鍋か何かかと思ったんですけど、誰もいなかったはずで……」


アキトはペンを取り出し、メモ帳に速やかに書き留める。

「なるほど、その音は何時ごろでしたか?そして方向は覚えていますか?」


川島は思い出すように眉をひそめ、答えた。

「ええと、夜の11時過ぎくらい。廊下の奥の準備室の方からでした。短く、何度か響いた感じです」


アキトはうなずきながら、さらに質問を重ねる。

「ありがとうございます。では、普段と違う館内の動きや、不審な人物の出入りも覚えていれば教えてください」


川島は小さく考え込み、口を開いた。

「そうですね……見慣れない人が清掃のふりをして歩いていたかもしれません。でもその方は厨房には入ってこなかったです」


アキトはペンを止めず、メモに書き込みながら視線を周囲に巡らせる。

「貴重な情報です。ありがとうございます。思い出したことがあれば、また教えてください」


川島は小さくうなずき、包丁を手に作業に戻る。

アキトは静かに厨房を後にし、廊下に戻ると、再び館内の細部を観察しながら歩き始めた。

聞き込みは順調に進んでいるが、館内に潜む秘密はまだ、完全には明らかになっていなかった。


【ロビー・午後】


アキトは薄暗いロビーの壁際にあるソファにゆっくり腰を下ろし、スマホを手に取った。

指先が画面を滑り、玲と朱音にメッセージを送る。


「現場確認完了。厨房の聞き込み終了。金属音の件、スタッフからも同様の証言あり。準備室方面が怪しい」


しばらくすると、朱音から返事が届く。

「ありがとう、アキトさん。舞もそばにいる?状況を落ち着かせつつ、証言を整理して」


続けて玲からも返信が来る。

「よくやってくれた。現場の情報を写真と合わせて共有して。後で解析チームと連携する」


アキトは軽く頷き、スマホに次のメッセージを打ち込む。

「了解。写真は添付済みです。舞はそばにいます。これから廊下の監視も兼ねて巡回開始します」


朱音の画面に小さなスタンプが送られる。

「ありがとう、アキトさん!気をつけてね」


玲も短く返す。

「慎重に。何か変化があればすぐ報告」


アキトはスマホをポケットに戻し、背筋を伸ばして廊下に目を向けた。

「さて、次は廊下の巡回だ」

館内の静けさを感じながら、彼は慎重に歩き出す。

すべての目は、まだ見えない何かを捉えようとしていた。


【廊下・午後】


アキトはゆっくりと廊下を進む。壁にかかる絵画や照明、換気口の位置まで目を配りながら、足音を最小限に抑えて歩く。


「何か異変はないか……」

心の中で呟きながら、耳にはイヤホンを通して奈々の解析室から届く低音のデータを受信する。廊下の微かな軋み、ドアの閉まる音、足元の床のきしみ……すべてが情報だ。


廊下の突き当たり、準備室の扉がわずかに開いているのを確認する。光は漏れていないが、室内の湿った匂いがかすかに漂う。


アキトは低く息をつき、そっと扉に近づく。手にした小型カメラを構え、ドアの隙間から室内を確認する。机の上には散らばった書類、椅子が倒れたままの状態。


「やはり、ここで何かがあった」

小さくつぶやくと、彼はピンマイクで玲に向けて報告を送る。

「準備室の状況確認完了。机上は乱れ、書類散乱。異常な気配あり。追跡対象の動線を監視中」


その直後、廊下の奥からかすかな金属音が聞こえる。アキトは立ち止まり、耳を澄ませる。微かな呼吸、床のきしみ、そして何かがゆっくりと移動する気配。


彼は影の中に身を潜め、次の瞬間に備えた。

すべては、この館に潜む真実を暴くための静かな駆け引きだった。


【廊下・午後】


アキトは壁にもたれかかり、静かに息を整えた。湿った空気が鼻腔をかすかに刺激する。手早くバッグからサングラスを取り出し、顔にかけると、視界がわずかに薄暗くなった。


「これで光に惑わされず、動きが確認できる……」

彼は小声で呟き、足元の音を最小限に抑えながら、廊下の奥を見据える。


廊下の突き当たりに、わずかに動く影があった。誰もいないはずの場所で、微かな足音が反響する。アキトは慎重に歩を進め、影の動きに合わせて呼吸を調整した。


ピンマイク越しに玲と奈々へ報告を送る。

「異常なし……影は確認。動きがあれば即座に追跡。準備室の監視継続中」


その瞬間、サングラス越しの視界に、わずかに揺れる紙の端が見えた。室内に残された痕跡が、次の手がかりを示している。


アキトは再び壁にもたれ、息を殺しながら次の瞬間に備えた。

館に潜む秘密を暴くための静かな戦いは、まだ始まったばかりだった。


【休憩室・午後】


アキトは軽く息を整え、休憩室のドアに手をかけてそっとノックした。

「すみません、ちょっといいですか?」

声は低く、しかしはっきりと響いた。


中からかすかな物音がして、数秒後に女性スタッフが顔を出す。

「はい、どなたですか?」


アキトは柔らかく微笑み、丁寧に名乗る。

「外部監査の斎藤と申します。休憩中すみません、ちょっとだけ作業環境や勤務中の様子についてお話を伺えればと思いまして」


スタッフは少し警戒したように眉をひそめるが、アキトの落ち着いた物腰に安心したのか、ゆっくりとドアを開けた。

「わかりました。短時間なら……どうぞ」


アキトは軽く頭を下げて室内に入り、持参したメモ帳を手に、周囲を見渡す。

「ありがとうございます。まず、通常の勤務中に気になることや、普段と違う出来事などがあれば教えてください」


スタッフは少し考え込み、口を開く。

「実は、夜間勤務の時に、誰もいない廊下から微かに音が聞こえることがあって……でも誰も確認できないんです」


アキトはメモを取りながら、声色を変えずに応じる。

「なるほど……その音の方向や時間帯に規則性はありますか?」


スタッフがうなずき、話しながら詳しく説明を続ける。アキトは時折、頷きながら注意深く観察し、表情や仕草からも情報を拾い集めていった。

聞き取りが終わると、アキトは静かに立ち上がり、丁寧にお礼を告げる。

「ご協力ありがとうございます。非常に参考になりました」


ドアを開けて室外に出ると、廊下の薄暗い光の中で、彼は再び観察者としての姿勢に戻った。

一瞬の聞き込みで得た情報も、館の秘密を解き明かす大切な手がかりになるのだった。


【監視室・夜】


室内は蛍光灯の白い光がぼんやりと広がり、窓の外はすっかり夜の闇に包まれていた。


玲はデスクに向かい、ノートパソコンの画面をじっと見つめている。指先は時折タッチパッドを軽く叩き、画面上の監視カメラ映像を切り替えていく。複数の角度から館内の様子を確認し、わずかな動きも見逃さないよう目を光らせる。男性らしい落ち着いた背筋が、椅子に座った姿勢からも伝わってくる。


朱音は隣の椅子に腰を下ろし、両手を膝の上に置いたまま、静かにアキトからの連絡を待っている。小さく息を整え、遠くの館内の物音も意識に取り込む。


やがてスマートフォンの通知音が柔らかく鳴った。アキトからのメッセージだった。


玲が画面を覗き込み、低めの落ち着いた声で朱音に言う。

「アキト、状況はどうだ?」


朱音も身を乗り出して画面を見つめる。


メッセージには簡潔に、館内の異変や気になる人物の動き、そして安全を確認するための指示が書かれていた。玲は瞬時に内容を理解し、画面上の監視映像と照らし合わせる。


「なるほど……この位置の動き、怪しいな」

玲が指で画面を指し示すと、朱音も頷いた。

「うん、アキトなら間違いなく見抜くはず」


二人は互いに視線を交わし、小さく息を吐く。夜の静寂の中、館の秘密を解き明かす緊張と期待が、室内の空気をひそやかに揺らしていた。


【監視室・夜】


アキトは監視室のドアを静かに閉めると、肩に掛けていたカバンを床に置いた。金属のバックルを外し、中から黒い布の塊や小物を取り出していく。


朱音が首をかしげながら、椅子から立ち上がった。

「……また変装するの?」


アキトは淡々と頷き、黒いキャップと作業用ベストを手に取る。

「さっきまでの格好じゃ、スタッフの動きが制限される。今度は裏口から入れる“清掃員”だ」


朱音は少し目を丸くしながらも、言葉を探した。

「そんなに変装して、館の人たちにバレないの……?」


アキトは軽く肩をすくめ、柔らかい声で応じた。

「プロの仕事だ。気づかれる前に情報を得る。それだけさ」


彼の手は正確で無駄がなく、キャップを深くかぶりベストを身に着けると、背筋をピンと伸ばした。まるで別人のように、監視室の薄暗さに溶け込む。


朱音は小さく息をつき、背後で静かに見守る。

「……アキト、本当にすごいね」


アキトはちらりと振り返り、微かに微笑む。

「仕事だからな。じゃあ、行くぞ」


彼は静かに廊下の影へと消え、館内の不穏な夜が再び動き出した。


【オフィス・夜】


玲はノートパソコンの画面を一瞥し、ゆっくりとデスクから立ち上がった。背筋を伸ばし、窓の外の闇を一瞬だけ確認する。


朱音が隣で小さく息をつき、玲の動きを見守った。

「もう行くの?」


玲は机の上に置かれた資料を軽く指先で押さえ、低く落ち着いた声で答える。

「現場は一刻を争う。モニターの映像とメールは君に任せる。状況が変わったらすぐ連絡してくれ」


朱音は少し緊張しながらも、うなずいた。

「わかった。気をつけて」


玲はゆっくりとコートを羽織り、ポケットに手を滑り込ませる。冷たい夜風が差し込む窓を背に、静かにオフィスを後にした。


机の上には、残された資料とパソコンの光だけが、淡く静かに揺れている。


【風凛館・厨房前廊下/夜】


アキトは廊下の角で立ち止まり、帽子を深くかぶり直した。軽やかな足取りで歩き出しながら、ポケットから取り出した小さなガムを噛む。


「よし、次は厨房のスタッフに話を聞く。みんな緊張してるけど、俺が親しげな配達員になれば、すぐ打ち解けられるはずだ」


そう小さく呟き、厨房の前に立つ。中からは、フライパンが当たる乾いた音と、換気扇の低い唸りが聞こえてくる。アキトは一度だけ呼吸を整え、軽くノックした。


「すみませーん、夜食の追加分、確認だけで」


返事を待たず、半歩だけ扉を開けると、白衣姿の女性スタッフが振り返った。目の下にうっすらと疲れが滲んでいる。


「配達?こんな時間に……ああ、さっき連絡あった分ね」


「はいはい、遅くなってすみません。今日は何かとバタバタしてますよね」


アキトは肩をすくめ、世間話の延長のような口調で続ける。女性は思わず苦笑した。


「ええ……正直、落ち着かなくて。こんなこと、今までなかったから」


アキトは自然に作業台の端に視線を向け、声を落とす。


「やっぱり、昨日の件ですか。廊下で倒れてたって……」


女性は一瞬、手を止めた。だがすぐに視線を逸らし、まな板の上の野菜を整えながら答える。


「詳しいことは、私たちも何も聞かされてないの。ただ……」


「ただ?」


「その時間帯、厨房を出入りしてた人が、普段より多かった気がして。点検だとか、確認だとか……」


アキトは頷きながら、何気なくメモ帳に指を添える。


「点検って、設備のですか?」


「ええ。でも、名前を名乗らない人もいて……忙しかったから、深く気にしなかったけど」


女性はそこで口をつぐみ、少しだけ唇を噛んだ。


「今思えば、変だったのかもしれません」


「ありがとうございます。助かります」


アキトはにこやかに礼を言い、扉を閉める前に振り返る。


「無理しないでくださいね。今日は特に、皆さん疲れてる」


その一言に、女性の表情がわずかに緩んだ。


厨房の扉が閉まると、アキトの目から親しげな色がすっと消える。廊下の薄暗がりの中で、彼は静かに息を吐いた。


点検を名目にした出入り。名を名乗らない人物。

断片は、確実につながり始めていた。


【ラウンジ・夜】


ラウンジは暖色の間接照明に包まれ、窓の外には冷たい夜の闇が広がっていた。

暖炉の火がぱちりと小さく弾け、革張りのソファに腰掛けた客たちは、低い声で談笑している。

その空気に溶け込むように、アキトは配達員風の上着を肩に掛けたまま、ドリンクカウンターの脇に立った。


「相変わらず、雰囲気はいい場所だね」


背後から、落ち着いた声がした。

振り返ると、グレーのジャケットに身を包んだ御子柴理央が、グラスを片手に立っていた。

一見すると、ただの知的な宿泊客にしか見えない。


「来たか、理央」

アキトは口元だけで笑う。

「ここ、客の警戒が一番薄い。雑談の中に本音が落ちてる」


御子柴は小さくうなずき、視線だけで周囲を一巡させた。

「さっき、暖炉の近くにいた年配の男性。昨夜、廊下で物音を聞いたらしい。

ただし“何も見ていない”と強調していた。記憶の言い回しが、少し不自然だ」


二人は自然な距離を保ったまま、ソファの客に近づく。

アキトが気さくに声をかけた。


「こんばんは。配達ついでに聞いたんですけど、昨夜この辺、結構騒がしかったみたいですね」


男性客は一瞬だけ視線を泳がせ、それから曖昧に笑った。

「いやぁ……風の音じゃないですか。古い建物ですし」


その横で、御子柴が穏やかにグラスを置く。

「確かに。けれど、音って記憶に残りやすい。

高い金属音だったか、低い衝撃音だったか……違いません?」


男性の指が、無意識にグラスを強く握った。

「……低い、音だった気がします。床に、何か落ちたような」


その言葉を、アキトは聞き逃さない。

「ありがとうございます。助かります」


二人はそれ以上踏み込まず、自然に距離を取った。

暖炉の火が揺れ、ラウンジのざわめきが元に戻る。


少し離れた場所で、御子柴が低く言う。

「やっぱり、“聞いている”。見てはいないけど、知っている」


「ああ」

アキトは静かにうなずいた。

「この館、まだまだ口を閉ざしてる人間がいる。

一つずつ、開けていこう」


二人は視線を交わし、再びそれぞれの役割へと溶け込んでいった。

ラウンジの穏やかな空気の裏で、真実は確実に輪郭を帯び始めていた。


【ラウンジ・深夜】


水無瀬透は画面から一瞬だけ視線を外し、暖炉の火を挟んだ向こう側を確認した。

赤い炎が揺れるたび、フードの影に隠れた彼の横顔が淡く照らされる。


「……この館、表向きは静かすぎる」

低い声でそう言い、指は止めない。


アキトはグラスを手に取り、あくまで宿泊客らしく肩の力を抜いたまま答える。

「客もスタッフも、どこか“聞かれたくない話”を抱えてる感じだな。空気が重い」


御子柴は暖炉の縁に腰掛け、さりげなく周囲の客に目を配りながら小さく息をつく。

「視線が合うと、すぐ逸らす人が多い。特に事件のあった和室に近い位置にいた客たちだ」


透のモニターに、新しいウィンドウが開く。

館内の簡易ネットワーク図と、深夜帯のアクセスログ。


「防犯カメラ、表向きは全部正常稼働。でも……」

彼は一つの時間帯を拡大する。

「事件の直前、地下配電盤に一瞬だけ負荷が集中してる。照明じゃない。鍵制御系だ」


アキトの目が細くなる。

「スマートロックか。内側から鍵がかかってた理由、見えてきたな」


御子柴が静かに問いかける。

「意図的に閉じ込めた?」


透は小さく頷いた。

「外部操作できる人間が、この館に“いた”か、“いる”」


暖炉の火がはぜ、静寂が一瞬だけ破られる。

ラウンジの奥で、グラスが置かれる乾いた音。


アキトは立ち上がり、背伸びをするふりをしながら低く言った。

「じゃあ俺は、もう一周“客”をやってくる。御子柴、さっき目を伏せた女性客、頼めるか?」


「任せて」

御子柴は柔らかな笑みを作り、自然な足取りで席を立つ。


透は最後に画面をロックし、フードを深くかぶった。

「俺は地下の回線をもう少し掘る。……この館、まだ何か隠してる」


三人は互いに視線を交わし、それ以上言葉を交わさずに散った。

暖炉の火だけが、何も知らない顔で静かに燃え続けていた。


【ラウンジ・深夜】


暖炉の火が低く揺れ、赤橙の光が絨毯に影を落としていた。

人影の少ないラウンジの片隅、ソファに座る女性は視線を伏せ、両手を膝の上で固く組んでいる。指先が、わずかに震えていた。


御子柴理央は、正面には座らない。

女性の斜め横、視界の端に入る距離を選び、同じ目線の高さで腰を下ろした。


「……こんばんは。急に声をかけて、ごめんなさいね」


低く、柔らかな声。

女性は小さく肩をすくめるが、顔は上げない。


「無理に話さなくていい。今日は“思い出せるところまで”で大丈夫です」


沈黙。

暖炉の薪がはぜる音だけが、間を埋める。


御子柴は、テーブルの上に置いたカップをそっと女性の方へ寄せた。


「温かいですよ。手、冷えてる」


女性は一瞬だけ迷い、カップに触れる。

その温もりに、指の力が少し抜けた。


「……あの日、あなたは“見た”んですね」


御子柴の言葉に、女性の肩がびくりと跳ねる。


「見た、というより……“気づいてしまった”。違いますか?」


ゆっくりと、女性の呼吸が乱れる。


「……私、関係ないと思ってたんです」

かすれた声が、ようやく零れた。

「ただの客で、ただ……あそこにいただけで……」


「ええ」

御子柴は否定しない。

「でも、記憶は正直です。意識が“見ないふり”をしても、残る」


女性の唇が震える。


「音が……変だった。倒れる音の前に、金属が……擦れるみたいな」

「それから、誰かの声。低くて……怒ってる、みたいな」


御子柴は、視線を向けないまま、静かに頷く。


「その声、知っている人のものに似ていましたか?」


しばらくの沈黙のあと、女性は小さく首を縦に振った。


「……でも、名前は言えません」

「言ったら……」


「大丈夫」

御子柴の声は、きっぱりと、しかし優しかった。

「あなたが直接言わなくても、真実は辿り着く。これは、そのための“確認”です」


女性の目に、うっすらと涙が滲む。


「……私、ずっと、夢に出てきてたんです」

「火と、暗い廊下と……倒れてる人」


御子柴は、ようやく女性の方を見た。

真っ直ぐではない、逃げ道を残した視線で。


「それは、忘れろという記憶じゃない」

「“伝えろ”という合図です」


女性は、ゆっくりと顔を上げた。

怯えと決意が、同居した表情。


「……私、協力します」

「もう……黙ってるの、嫌です」


御子柴は、静かに微笑んだ。


「ありがとう。――それで十分です」


暖炉の火が、少しだけ強く揺れた。

影の奥で、止まっていた時間が、確かに動き出していた。


【調査室・深夜】


調査室の中央に置かれた長机の上には、館内の詳細な間取り図が広げられていた。

壁際のモニターには、スマートロックの管理画面が青白く光っている。

玲はその間を視線で行き来させながら、ペン先である一点を示した。


「……問題はここだ。和室の前の廊下。事件当夜、この区画だけログが途切れている」


時刻表示は《23:41〜23:58》。

不自然な空白だった。


奈々がキーボードを叩き、ログの拡大表示を出す。

「通常なら、誰かが通れば必ず反応が残る。でもここだけ、まるで“最初から何もなかった”みたいに消されてる」


朱音は間取り図に顔を近づけ、小さな指で廊下と和室をなぞった。

「……この部屋、外から鍵をかけられないはずだよね?」


「ああ」

玲は短くうなずく。

「内鍵のみ。つまり――」


その瞬間、背後のドアが静かに開いた。


「つまり、“中にいた誰か”が鍵をかけた」


低い声とともに現れたのは、アキトだった。

清掃員のベストを脱ぎ、肩にかけたバッグを床に置く。


「厨房スタッフの証言、取れた。

事件の直前、深夜に“客じゃない誰か”が裏動線を使ってこの廊下に入ってる」


玲の目が鋭くなる。

「スタッフ?」


「それが違う。名簿にいない。

でも――館のシステムには、入館権限が一時的に付与されてた」


水無瀬がモニターに顔を上げ、静かに口を開いた。

「外部端末からのアクセスだ。

一回限り、しかも正規の認証コードを使ってる」


御子柴が腕を組み、目を伏せたまま言う。

「……内部の人間が、誰かに“鍵”を渡した可能性が高いわね」


調査室に、重い沈黙が落ちる。


朱音が小さく息を吸い、顔を上げた。

「じゃあ……亡くなった人は、一人じゃなかった?」


玲はゆっくりとペンを置いた。

「少なくとも、“一人で死んだ”わけじゃない」


間取り図の上、示された一点。

和室と廊下の境界線が、静かに意味を変えていく。


「ここが、“密室”じゃなかった証拠だ」


事件は、館の静けさの裏側で――

確実に、形を現し始めていた。


【同日・午後9時12分/風凛館・調査室】


調査室の中央に置かれた長机の上には、風凛館の詳細な間取り図が広げられていた。

紙の端は何度も折り返された跡があり、この数時間で何度も検討が重ねられたことを物語っている。

壁際の大型モニターには、スマートロックの管理画面が青白く光り、廊下や客室の開閉ログが時系列で並んでいた。


玲は腕を組んだまま、図面とモニターを交互に見比べていたが、やがてペン先で一箇所を軽く叩いた。


「ここだ。エレベーター前から、事件の和室までの導線……一番死角が多い」


朱音は椅子に座ったまま、両手を膝に置き、ゆっくりと目を閉じた。

まるでその場の空気を思い出すように、呼吸を整え、記憶の奥を辿る。


「……あっ」


小さく声を上げ、朱音は目を開いた。


「確か……黒いキャップをかぶった人がいた。エレベーターから降りてきて……」


彼女は指先で、間取り図のエレベーター位置をなぞる。


「そのまま、廊下の奥に消えてった。歩き方が静かで、でも迷ってる感じはなかった」


玲は視線を上げ、即座に問い返す。


「時間は覚えてるか?」


朱音は少し考え、窓の外の暗さを思い浮かべるように言った。


「夕食の片付けが終わった直後だったから……たぶん、八時半すぎ。九時前くらい」


その言葉に、モニター前に立っていた奈々が即座にキーボードを叩く。


「八時三十五分から九時の間……該当するスタッフのログ、今出す」


画面に新たな履歴が重なり、数件のアクセス記録が浮かび上がった。


玲は静かに息を吐き、低く呟く。


「客でも、正式なスタッフでもない可能性が高いな……」


朱音は不安そうに眉を寄せながらも、はっきりと頷いた。


「でも、間違いない。あの人……この館を、よく知ってる人だったと思う」


調査室に、再び張り詰めた沈黙が落ちる。

だがその沈黙は、真実へと近づくための、確かな一歩でもあった。


【206号室前・深夜 23時42分/風凛館・2階客室フロア】


廊下は静まり返り、足音がやけに響く。

アキトは片手にメモ帳、もう片手に館の業務用カードキーを持ち、206号室の前に立った。

ドアの表札には「清掃中」の札がかかっているが、夜のこの時間にその札が掛かっているのは不自然だ。


アキトは軽くノックをした。

「こんばんは、館内の設備確認で参りました。少しお時間よろしいですか?」


返事は、すぐにはなかった。


アキトはノックした拳を下ろさず、もう一度だけ、間を置いて扉を叩く。

その仕草は丁寧で、あくまで業務的だった。


「失礼します。カードキーの反応確認と、室内センサーの点検です。数分で終わりますので」


内側で、かすかに布が擦れる音がした。

続いて、誰かが息を潜めるような、浅い呼吸。


アキトの視線が、ドアノブの下――わずかに残る湿った足跡へと落ちる。

今夜、清掃が入った形跡はない。


数秒後。


「……今は、ちょっと」


低く、抑えた女性の声だった。

年齢は三十代前後。

緊張を隠そうとしているが、語尾がわずかに揺れている。


アキトは、すぐに一歩だけ後ろへ下がった。

威圧感を消すための距離だ。


「承知しました。では、廊下側のセンサーだけ確認して戻ります」

「ただ一つだけ。昨夜このフロアで、異音を聞かれませんでしたか?」


沈黙。


長い。

不自然なほどに。


やがて、ドア越しに小さな声が落ちてきた。


「……金属音。夜の一時過ぎ。和室の方から……」

「でも、気のせいだと思って……誰にも言ってません」


アキトの脳内で、時刻と位置が即座に結びつく。

発見時刻と、わずかにずれている。


「ありがとうございます。助かります」

「今夜はもう、お休みください」


そう言って、アキトは一礼する。

扉の向こうで、鍵が掛け直される音がした。


彼はその場を離れながら、胸ポケットのピンマイクに小さく息を吹きかけた。


「玲、聞こえるか」

「206号室の女性客。事件前夜一時過ぎ、金属音を確認。和室方向だ」


返答は、すぐに返ってきた。


『確認した。間取り図と照合する』

『……いい線だ、アキト』


アキトは、廊下の角で立ち止まり、帽子のつばをわずかに下げる。


この館は、まだ何かを隠している。

だが――

隠しきれてはいない。


静まり返った廊下を、彼は再び歩き出した。

足音は、相変わらず、静かだった。


【206号室前・深夜 23:18】


返事はなかった。


アキトはドアノブに手をかけることはせず、もう一度だけ、今度は少し間を置いてノックした。


「……失礼します。清掃記録とカードキーの確認だけです。すぐ終わりますので」


その瞬間、ドアの向こうで、かすかに――布が擦れるような音がした。


アキトの視線が細くなる。

耳を澄ましながら、メモ帳にさりげなく時刻を書き込む。


23:18 反応あり。


「……誰だ」


低く、警戒を含んだ男の声が返ってきた。


アキトは一瞬も間を置かず、気の抜けた調子に切り替える。


「すみませんねぇ、夜分に。上からでして。今日、スマートロックのログにズレが出てるんですよ。

この部屋、カードの反応が二回多いって出てまして」


沈黙。


ドア越しに、息を詰める気配が伝わってくる。


アキトは続けた。


「中にいらっしゃるなら、ドア開けなくてもいいです。

名前だけ確認させてください。こちらで記録合わせますから」


――ガチャ。


内鍵が、ほんのわずかに外れる音。


ドアは数センチだけ開き、隙間から男の片目が覗いた。

黒いキャップ、伏せた視線。朱音の証言と一致する。


「……俺は、客だ。何の問題もない」


「ええ、分かってます分かってます」


アキトは軽く笑い、相手の警戒心をなぞるように言葉を置く。


「ただ、ここ……本来は今日、誰も入らない部屋なんです。

清掃も昼に終わってる。なのに“清掃中”の札が出てるのは、ちょっと気になりまして」


男の喉が、ごくりと鳴った。


「……誰かに、頼まれただけだ」


「“誰か”?」


アキトの声は穏やかなままだったが、その一言だけ、わずかに低くなる。


男は答えなかった。


次の瞬間、館内放送のチャイムが遠くで鳴った。

タイミングを見計らったように。


アキトは一歩、半歩だけ下がる。


「分かりました。今日はここまでにします。

ただ……」


彼は男を真っ直ぐに見据え、静かに告げた。


「この館、今夜は“見られてます”。

不用意に動かない方がいい」


ドアが、勢いよく閉まった。


アキトは何事もなかったようにメモ帳を閉じ、廊下を歩き出す。

角を曲がったところで、イヤーピースに指を添え、小声で告げた。


「玲、奈々。

黒キャップの男、206号室。

今夜、鍵を“使われた側”じゃない。“使った側”だ」


短く息を吐く。


「……核心、近いぞ」


廊下の非常灯が、静かに彼の背中を照らしていた。


【206号室・深夜】


アキトは椅子に腰をかけ、ノートパソコンの画面をじっと見つめていた。

暗い室内、画面の青白い光だけが彼の横顔を照らす。

指先は静かだが、タイピングの音は確かに速く、そして迷いがない。


画面には、風凛館の内部ログが時系列で並んでいた。

スマートロックの解錠履歴、監視カメラの起動・停止、非常灯の点灯記録。


「……やっぱりな」


小さく呟き、アキトはログの一箇所を拡大する。

事件が起きたとされる時刻――22時17分。

本来、誰も入れないはずの206号室のドアが、管理者権限で一度だけ解錠されている。


「鍵は使ってない。カードも通してない。

……中からじゃない、“外”からだ」


アキトはイヤーピースに指を添え、低く声を落とす。


「玲、聞こえるか。206号室、管理ログに不自然な操作がある。

事件時刻ぴったりに、管理者権限で一瞬だけ解錠。

しかも、直後にログが部分的に上書きされてる」


一拍置いて、イヤーピース越しに玲の落ち着いた声が返る。


「内部犯行、確定だな。

その権限を持ってるのは?」


アキトは画面をさらに切り替え、館内スタッフの権限一覧を表示する。


「館長、夜間責任者、システム管理担当……

そしてもう一人。

“外部委託・保守点検”名義の臨時アカウント」


彼の目が細くなる。


「……事件の前日に追加されてる。

しかも、削除された形跡はない。

まだ、館の中に“いる”」


その瞬間――

廊下の奥で、かすかに床が鳴った。


コン……と、靴底が当たるような音。


アキトは即座にノートパソコンをスリープにし、椅子の背から静かに立ち上がる。

呼吸を整え、ドアの方へ一歩。


(来たか)


ドア越しに、人の気配。

ためらうような間。

そして――鍵に触れる、微かな金属音。


アキトの口元に、わずかに笑みが浮かんだ。


「……やっと尻尾を出したな」


206号室の夜は、まだ終わらない。


【206号室・深夜】


ドアの向こうで、かすかな気配がした。


足音――ではない。

もっと曖昧で、しかし確実に「誰かが立っている」とわかる、呼吸の間。


アキトはノートパソコンの画面を閉じることなく、ゆっくりと画面の明度を落とした。

室内はほぼ闇になる。

耳を澄ませば、ドア一枚隔てた先で、衣擦れの音が微かに揺れた。


(……立ち止まってる。ノックはしない。様子見か)


時計を見る。

01:42。


この時間帯、清掃員が部屋にいること自体は不自然ではない。

だが――“確認しに来る誰か”がいる理由は別だ。


アキトは立ち上がらない。

代わりに、椅子のキャスターをほんの数ミリだけ動かし、わざと床に小さな音を立てた。


カタン。


すぐに、ドアの向こうの気配が強まる。

影が、ドアの下の隙間をわずかに塞いだ。


「……」


アキトは低く、疲れた清掃員の声を作る。


「……すみません、今片付けてます。すぐ出ますんで」


返事はない。

だが、数秒後――影がわずかに後退した。


(よし……“いる”とは伝わった)


アキトは素早く動いた。


ノートパソコンを閉じ、バッグに滑り込ませる。

清掃用ベストを羽織り、キャップを深く被る。

最後に、ドア横の非常灯のスイッチを切り替え、室内を完全な闇にした。


そして――

ドアではない。


アキトは、カーテンの裏に隠された非常用サービスハッチに手をかけた。

昼間に確認しておいた、清掃動線専用の抜け道。


金属が鳴らないよう、指先に力を分散させ、静かに開く。


その瞬間。


ドアノブが、外からゆっくり回された。


ガチャ――。


同時に、アキトは身体を滑らせるようにハッチの中へ入り、扉を閉じた。

内部は人一人がやっと通れる狭さ。

配管の冷気が腕に伝わる。


ドアの向こうから、低い声。


「……まだか?」


返事はない。

代わりに、無人の部屋の静寂が返る。


数秒。

十秒。


やがて、舌打ち混じりの吐息とともに、足音が遠ざかっていった。


アキトは、ようやく息を吐いた。


(……間に合った)


ハッチの内部を静かに進み、別の清掃用通路へ抜ける。

その先には、非常階段。


非常灯の下、誰にも見られることなく、彼は夜の館内から外へと溶け出していった。


まるで――

最初から、206号室に誰もいなかったかのように。


【深夜・報道局編集室】


深夜の静けさに包まれた編集室。

唯一、デスクライトの淡い光が藤堂の顔を照らしていた。

彼は息を吐きながら、静かにノートパソコンの画面を開き、玲から届いたメールを慎重に読み始める。


画面に並ぶのは、風凛館の内部データ、スマートロックのログ、そして時刻付きの入退室記録。

指先が止まり、藤堂の眉がわずかに寄った。


「……やっぱりな」


低くつぶやき、ヘッドセットを首にかける。

時計は午前2時18分を指していた。


彼は別ウィンドウを開き、映像フォルダを呼び出す。

そこには、館内ラウンジの監視映像、地下通路の死角、そして“存在しないはずの清掃記録”が時系列で整理されている。


藤堂は一つひとつ確認しながら、独り言のように言った。


「事故じゃない。

 これは――“用意された静かな殺し”だ」


背後のガラス窓に、編集室の闇が映り込む。

この時間、局内に残っているのは彼一人。だが、孤独は感じなかった。


藤堂はスマートフォンを取り出し、短いメッセージを打つ。


〈受信・確認した。

 証拠、十分すぎる。

 夜明け前に、動く〉


送信を終えると、椅子に深く腰掛け、目を閉じる。

一瞬だけ、深く息を整えたあと、再び画面に向き直った。


原稿ソフトを立ち上げ、タイトル欄に指を置く。


「――風凛館・密室死の真相」


カタカタ、とキーボードの音が、静まり返った編集室に規則正しく響き始める。

誰にも気づかれない深夜、真実は、確実に言葉の形を取り始めていた。


やがてこの夜が明ければ、

“静かだった館”の名は、全国に知れ渡ることになる。


【風凛館・ロビー/翌朝 7:18】


朝の柔らかな陽光がガラス窓から差し込み、ロビーのソファを優しく照らしていた。

玲は腕を組みながら、静かに朱音の隣に腰を下ろす。朱音はまだ眠そうな目をこすりながらも、周囲に張りつめた空気を感じ取っているようだった。


「……人の動きが変わったな」

玲が低く言う。


ロビーの奥では、スタッフが小声で打ち合わせをしている。昨夜までの緊張とは違う、どこか“決着後”の気配が漂っていた。


「うん。隠してた人ほど、落ち着かなくなる時間帯だよね」

朱音はそう言って、カウンター脇に視線を向けた。


そのとき、エントランスの自動ドアが小さく音を立てて開いた。


「おはようございます」


聞き慣れた、少し気の抜けた声。

キャップを深くかぶり、館内清掃用のワゴンを押しながら、アキトが何食わぬ顔で入ってくる。


「……遅かったな」

玲が視線だけで迎える。


「夜勤明けの清掃員ってのは、こういう顔してないと怪しまれるんだよ」

アキトは肩をすくめ、ワゴンを壁際に寄せた。


朱音が身を乗り出す。

「中、どうだった?」


アキトは周囲に人がいないのを確認してから、小さく親指を立てた。

「206号室。スマートロックの履歴、改ざんの痕跡あり。時間は――」


彼は腕時計をちらりと見る。

「一昨日の夜、22時41分。ちょうど、被害者が和室に向かった直後だ」


玲の目が細くなる。

「館内ログと、藤堂が押さえた映像の時間帯と一致するな」


「それだけじゃない」

アキトは声をさらに落とした。

「黒いキャップの人物、厨房裏の非常動線を使ってる。表の廊下じゃない」


朱音がはっと息をのむ。

「……私が見た人だ」


一瞬、三人の間に静かな確信が落ちた。


そのとき、館内放送が控えめに流れる。

《本日、警察による追加の事情確認が行われます。関係者の方は、指示があるまでロビー付近で待機してください》


ロビーの空気が、ぴんと張りつめた。


「……始まったな」

玲が立ち上がる。


アキトは帽子のつばを指で押さえ、いつもの軽い調子で言った。

「じゃ、俺は“いない人”に戻る」


「ありがとう、アキト」

朱音が小さく言う。


アキトは一瞬だけ振り返り、柔らかく笑った。

「守るのが仕事だからさ」


彼はワゴンを押し、スタッフ用通路の向こうへと消えていく。

まるで最初から、そこにいなかったかのように。


ロビーには、朝の光と、静かな決着の気配だけが残っていた。


【厨房・午前8時過ぎ】


朝食のピークが少し落ち着き始めた頃。

厨房にはまだ湯気と香ばしい匂いが立ちこめ、フライパンの上でベーコンが小さく音を立てていた。


アキトは白い厨房スタッフ用の制服に身を包み、頭には深くキャップをかぶっている。

トレーに盛り付けた皿を手際よく並べながら、自然な調子で周囲に声をかけた。


「いやー、朝はやっぱり忙しいっすね。昨日の夜も大変だったんじゃないですか?」


隣でサラダを盛っていた若い女性スタッフが、肩をすくめて苦笑する。


「そうですね……ちょっと、いつもよりバタつきました」

「やっぱり? 夜勤の人、全員揃ってたんですか?」

「うーん……どうだったかな。私は早番だから、詳しくは……」


アキトはそれ以上深く踏み込まず、トレーを一枚持ち上げながら軽く笑った。


「ですよね。俺も昨日は途中から入ったんで、あんまり状況わかってなくて」

「そうなんですか。昨日は……」


言いかけて、女性スタッフは言葉を止める。

その様子を見逃さず、アキトはさりげなく別の話題に切り替えた。


「そういえば、この館って夜になると結構冷えますよね。地下とか特に」

「……ええ。あそこは、ちょっと……」


今度は、ベテランらしい中年の男性スタッフが会話に入ってくる。


「地下は夜間立ち入り禁止だ。清掃も昼間だけって決まってる」

「へぇ、そうなんですね。昨日、誰か降りた形跡とかあったりして?」


男性スタッフは一瞬、包丁を止めた。

だがすぐに再び作業を再開し、低い声で答える。


「……さあな。少なくとも、俺は見てない」


空気が、ほんのわずかに硬くなる。

アキトはそれを察し、深追いせずにトレーを持ち直した。


「そっか。変なこと聞いてすみません」

「いや……仕事、戻ってくれ」


「了解です」


アキトは軽く会釈し、料理を運ぶふりをしながら厨房を後にする。

その背中は忙しそうで、何ひとつ怪しいところはない。


だが――

すれ違いざま、彼の耳には確かに届いていた。


「……206号室の件、誰にも言うなよ」


小さく、しかし確かな囁き。


アキトは表情を変えずに歩き続けながら、心の中で静かに頷いた。


――やっぱり、核心はそこだ。


【午後・風凛館 二階応接室】


玲はメモに目を落としたまま、しばらく動かなかった。

アキトの癖のある筆跡。走り書きだが、要点だけは外さない。


「……厨房スタッフ、二名が“昨夜は裏口の施錠を確認していない”。

 それから、二十三時前後に“清掃員が一人増えていた気がする”か」


低く呟き、玲はゆっくりと息を吐いた。


応接室の窓際で、朱音がソファの背にもたれながら外を見ている。

庭の木々が風に揺れ、落ち葉が石畳を転がっていった。


「ねえ、玲」

朱音が振り返る。「清掃員って……アキトじゃないよね?」


「違うな。アキトなら“増えてた気がする”なんて曖昧な印象は残さない」

玲はメモを閉じ、机に置いた。


そのとき、控えめにドアがノックされた。


「失礼します」


入ってきたのは、御子柴だった。

淡いグレーのジャケットに身を包み、手にはタブレットを持っている。


「ラウンジで聞き込みしてた女性客、ようやく口を開きました」

彼は一瞬だけ視線を伏せ、続ける。

「昨夜二十二時半頃。“黒いキャップの男性”が、和室エリアからスタッフ用通路に入るのを見たそうです。

 従業員とは思えなかった、と」


朱音の目が見開かれた。


「それ……わたしが見た人と、同じかも」


玲は即座に立ち上がった。

「時刻と動線が一致する。――透は?」


「地下の管理サーバーに張り付いてます。スマートロックの履歴、もう少しで抜けるはずです」


そのタイミングを計ったかのように、玲のスマートフォンが短く震えた。


〈水無瀬〉

〈来ました。二十二時三十七分、和室前の電子錠が“管理用ID”で一度だけ解錠されています〉


玲は画面を見つめ、静かに言った。


「管理用ID……館内の人間しか持っていない鍵だ」


朱音は唇を噛みしめる。

「じゃあ、やっぱり……」


「内部の誰かが、黒いキャップの男を通した」

玲は目を細めた。「事故じゃない。最初から、仕組まれていた」


その頃――


【午後・風凛館 裏庭】


低い石垣の影から、作業用帽子を外しながらアキトが姿を現した。

厨房スタッフの制服はすでに脱ぎ、リュックに押し込まれている。


「……やっぱり、内部犯行の線が濃いな」


小さく呟き、彼はスマホを操作した。


〈アキト〉

〈厨房聞き込み完了。清掃シフト、昨夜だけ一名“臨時追加”あり。申請者の名前、後で送る〉


送信を終えると、彼は空を見上げた。

雲の切れ間から、午後の光が静かに差し込んでいる。


「さて……次は、誰の嘘を剥がす番だ?」


アキトは再び歩き出す。

まるで何事もなかったかのように、館の日常へ溶け込みながら。


【風凛館・午後/西側廊下】


玲が廊下に足を踏み出すと、磨かれた床に差し込む斜光の向こうで、ひとりの老紳士がゆっくりと立ち上がった。

白髪混じりのかつら、背中を丸めるように添えられた杖、わずかに引きずる足取り。

だが、その視線だけは――一瞬、鋭く玲を射抜いた。


「……やっぱり来たか」


低く、掠れた声。

だが、その声色の奥にあるのは、聞き慣れた調子だった。


玲は足を止め、周囲に人の気配がないことを確かめてから、小さく息を吐く。


「その格好、誰にも怪しまれてないな」

「お褒めにあずかり光栄です、探偵さん」


アキトは杖に体重を預けたまま、口元だけで笑った。

老館長然とした佇まいのまま、視線だけを廊下の奥へ流す。


「厨房、清掃、監視室。だいたい一巡した」

「で?」

「“事故”にするには、やけに手際が良すぎる。

 スマートロックのログ、非常灯のタイミング、薬品の扱い……

 素人じゃない。内部に“慣れてる人間”がいる」


玲は静かにうなずき、腕を組む。


「奈々と透の解析とも一致するな。

 館の構造を知ってる、なおかつ夜間の動線に詳しい人物……」


アキトは杖の先で、床をとん、と軽く叩いた。


「候補は絞れる。

 それと――被害者、最後に会ってた相手。

 “優しかった”って、皆口を揃えて言うんだよ」


「優しい、か」


玲の視線が細くなる。


「一番疑われにくい立場だな」

「そう。だから厄介だ」


遠くで、客の笑い声が微かに響く。

風凛館は、今日も何事もなかったかのように穏やかだ。


アキトはふっと息を吐き、再び“老館長”の表情に戻った。


「俺はもう少し、この格好で館をうろつく。

 夕方の動きが一番、本音が出る」

「無理はするな」

「それは無理な相談だな」


二人の視線が一瞬だけ交差する。

言葉は少ないが、意思は十分に通じていた。


アキトはゆっくりと踵を返し、杖をつきながら廊下の奥へと歩き出す。

その背中は、再び“ただの館の関係者”にしか見えない。


玲はその姿を見送りながら、静かに呟いた。


「……そろそろ、化けの皮が剥がれる頃だな」


午後の光が、長い廊下に影を落としていた。

真実へと続く影を、なぞるように。


【夜・風凛館 二階廊下】


玲とアキトが小声で状況をすり合わせていると、玲のポケットに仕込まれた小型イヤホンが、かすかに震えた。


「……玲、聞こえる?」


橘奈々の声だった。ノイズはほとんどなく、地下の解析室から直接つながっているのが分かる。


玲は表情を変えず、窓の外を眺めるふりをして応じる。

「聞こえてる。進展は?」


「館内のログ、さっき全部洗い直した。

 死亡推定時刻の前後二十分、スマートロックの管理サーバーに“手動上書き”が一度だけ入ってる」


アキトが杖をつきながら、わずかに眉を動かした。

「内部犯行か?」


「限りなく黒に近いグレー。

 しかも、その操作――職員IDじゃない。“館長権限”」


玲の視線が鋭くなる。

「亡くなった男性は、元・運営会社の人間だったな」


「ええ。さらに言うと……」

奈々は一瞬、言葉を切った。

「206号室の前の廊下、監視カメラが“ちょうどその時間だけ”フレーム落ちしてる。

 偶然じゃない」


アキトは口元を隠すように咳払いをし、低く笑った。

「随分と丁寧な仕事だ。……逆に、痕跡が綺麗すぎる」


「そう思う。だから」

奈々の声が、少しだけ強まる。

「次に動くなら、“館が一番静かになる時間”。

 午前二時から二時半。その間、裏の制御系にもう一度アクセスできる」


玲は短くうなずいた。

「十分だ。こっちは人を動かす」


「了解。アキト、また変装するでしょ?」

「言うまでもない」


「今度は“誰にも気にされない役”がいいわ。

 例えば――」


奈々の声が、淡々と告げる。

「――夜間ボイラー点検員」


通信が切れる。


廊下に戻った静寂の中で、アキトは杖を軽く床に打ち、にやりと笑った。

「だそうだ、玲。次は油と煤の匂いまみれだ」


玲はネクタイをわずかに整え、前を見据えた。

「真実に近づけるなら、悪くない」


二人は視線を交わし、何事もなかったかのように、それぞれ逆方向へ歩き出した。


夜の風凛館は、まだ何も語らない。

だが――確実に、追い詰められ始めていた。


【編集室・18時42分】


夕闇が街をゆっくりと染め上げる頃、《ニュースアーク24》の編集室は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

天井の照明は落とされ、点けられているのは藤堂のデスク上のスタンドライトだけ。白い光が、キーボードと資料の山を淡く照らしている。


藤堂は背もたれに軽く身を預け、ノートパソコンの画面を凝視していた。

そこに表示されているのは、数分前に届いた玲からの暗号化された調査報告。


「……風凛館、やっぱり内部犯か」


低くつぶやき、マグカップに残った冷めたコーヒーを一口含む。

館内動線、スマートロックのログ改変、清掃時間と死亡推定時刻のズレ。

どれも単体では事故に見えるが、並べると明確な“意図”が浮かび上がっていた。


藤堂は静かに指を動かし、重要箇所にマーカーを引いていく。

画面の隅には、アキトの行動ログと、奈々の解析結果の要約も添付されていた。


「……相変わらず、無茶するチームだな」


そう言いながらも、口元にはわずかな笑みが浮かぶ。

誰かが踏み込まなければ、永遠に闇に沈んだままだった真実。


藤堂は背筋を正し、新しい原稿ファイルを開いた。

タイトル欄に、ゆっくりと文字を打ち込む。


――「風凛館事件 “事故”の裏に隠された構造」


赤いカーソルが、静かに点滅する。


「……よし。あとは、こっちの仕事だ」


編集室の窓の外では、ネオンが一つ、また一つと灯り始めていた。

その光の向こうで、確かに“真実”は、動き始めていた。


【風凛館・調査室/午後8時過ぎ】


薄暗い部屋の中、天井の間接照明だけが静かに灯り、長机の上に広げられた資料の影を落としていた。

玲、朱音、奈々の三人は机を囲み、それぞれ無言で資料に目を落としている。

古い設計図、館内ログ、聞き取りメモ――空気は張り詰め、紙をめくる音さえやけに大きく響いた。


そのときだった。


コン、コン。


控えめなノック音が、重苦しい沈黙を破る。


「……失礼する」


扉が開き、ひとりの男が静かに足を踏み入れた。

細身で長身、無駄のない動き。グレーのジャケットに黒のインナー、首元まできちんと整えられた服装が、どこか無機質な印象を与える。

切れ長の目が一瞬で室内を見渡し、すぐに状況を把握したようだった。


「遅れてすまない。ミカド・ケイだ」


低く、感情を抑えた声。


奈々が顔を上げ、わずかに目を細める。

「……館のシステム担当、ですよね」


「正確には“元”だ。だが、この建物のセキュリティ設計と裏仕様は、今でも頭に入っている」


ミカドはそう言いながら、机の端に歩み寄り、スマートフォンと薄型端末を並べて置いた。

指先が迷いなく端末を起動し、青白い光が彼の顔を照らす。


「スマートロック、監視カメラ、バックアップサーバー。

この館は表向きより、ずっと複雑だ。

――そして、今回の“事故”は、偶然じゃない」


玲は腕を組み、ミカドを真っ直ぐに見据えた。

「どこまで分かってる?」


ミカドは一瞬だけ視線を上げ、静かに答える。


「ログは消されている。だが、消し方が雑だ。

内部を知っている人間が、焦って手を入れた痕跡がある」


朱音が思わず身を乗り出す。

「じゃあ……誰かが、わざと……?」


「可能性は高い」


淡々とした口調の裏に、確信が滲んでいた。


奈々は小さく息を吐き、キーボードに指を置く。

「じゃあ、ここからは本格的に“裏”を洗えますね」


ミカドは短くうなずいた。


「俺が案内する。

この館が、何を隠しているのか――全部だ」


調査室の空気が、わずかに変わった。

点と点だった情報が、線になろうとしている。

そして風凛館の静けさの裏に潜む真実が、少しずつ輪郭を帯び始めていた。


【深夜・風凛館/調査室】


ミカドは画面を一つ切り替え、時系列ログを拡大した。

細い指がトラックパッドを滑り、特定の行で止まる。


「……ここだ」


玲と朱音、奈々の視線が一斉にモニターへ集まる。


「事件が起きたとされる時刻、午前1時42分。

 本来、開くはずのない地下倉庫のスマートロックが――正規IDで解除されてる」


奈々が眉をひそめる。

「正規ID? ハッキングじゃないってこと?」


ミカドは小さく首を振った。

「外部侵入の痕跡はない。

 これは“登録済みの権限者”が開けたログだ。しかも――」


彼はさらにログを重ねる。


「同時刻、監視カメラの映像が37秒だけブラックアウトしている。

 完全遮断じゃない。意図的に“見せない”処理だ」


朱音が思わず息をのむ。

「じゃあ……中の人が……?」


「可能性は高い」

ミカドは淡々と答えた。


玲は腕を組み、低く息を吐く。

「事故じゃない。館の構造とシステムを知り尽くした人間の犯行だな」


その瞬間、玲のイヤホンに小さなノイズが走り、アキトの声が入った。


『……今、裏動線の清掃記録を確認した。

 その時間帯、一人だけ清掃ルートを外れてる』


奈々が即座に反応する。

「名前は?」


一拍置いて、アキト。


『記録上は“未入力”。

 でも――この館、そういう抜け道を使えるのは限られてる』


室内に、静かな緊張が満ちる。


ミカドは最後に一つ、画面を表示した。

そこには、館のスタッフ権限一覧。


「次は――この中から、嘘をついてる人間を探す」


朱音は小さく拳を握りしめ、はっきりと言った。


「……真実、もうすぐですね」


調査室のモニターの光が、四人の表情を青白く照らしていた。

事件は、核心へと踏み込もうとしていた。


【夜・風凛館ラウンジ】


アキトは落ち着いた足取りでラウンジの扉を開け、中へと歩み入った。

手には小さなケースをしっかりと握っている。中には、今夜の変装に使う帽子と眼鏡。


暖炉の火が静かに揺れ、赤橙の光が天井に淡く反射していた。

数組の宿泊客がソファに腰掛け、低い声で会話を交わしている。グラスの氷が触れ合う音、薪が弾ける音――どれもが、事件の気配を巧みに覆い隠していた。


アキトは一瞬だけ全体を見渡し、視線を伏せる。

そして、ラウンジ奥のカウンター近くへと自然に歩み寄った。


「……すみません、ここ空いてますか?」


声をかけた先には、目を伏せがちにソファに座る女性。

御子柴が先に接触していた人物だ。


女性は一瞬だけ顔を上げ、軽くうなずいた。

アキトは礼を言い、ほどよい距離を保って腰を下ろす。


「今日は、落ち着かない夜ですね」

独り言のように、しかし相手に届く声量で言う。


女性は少し間を置いて答えた。

「……ええ。こんな場所で、あんなことが起きるなんて」


アキトは暖炉の火に目を向けたまま、続ける。

「風凛館は静かでいい所だって聞いてました。

 だから、皆さん……驚いたでしょう」


女性の指先が、膝の上でわずかに強張る。

その変化を、アキトは見逃さなかった。


「昨日の夜……」

女性はぽつりと口を開いた。

「廊下で、誰かが急いで歩く音を聞いたんです。

 帽子を深くかぶっていて……顔は、よく見えなかったけど」


アキトは驚いた様子を装い、ゆっくりと女性の方を見る。

「それ、何時頃でした?」


「……二十二時半くらい。

 エレベーターの前で、一瞬だけ立ち止まって……

 それから、奥の廊下へ」


アキトは静かにうなずき、心の中で時間を刻んだ。

ミカドが解析していたログと、ぴたりと重なる。


「教えてくれて、ありがとうございます」

そう言って、軽く頭を下げる。


女性は戸惑いながらも、小さく息をついた。

「……誰かが、ちゃんと調べてくれてるなら……」


アキトは立ち上がり、ケースを手に取る。

「大丈夫です。

 ここで起きたことは、ちゃんと明るみに出ますから」


彼はそれ以上語らず、ラウンジの明かりの中へと溶け込んでいった。

残された女性は、しばらく暖炉の火を見つめたあと、

ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。


【裏庭・深夜一時過ぎ】


薄暗い裏庭の片隅で、アキトはカバンをゆっくりと開けた。

中から黒いフード付きパーカーを取り出し、素早く身にまとった。


周囲には誰もいない。

風凛館の裏手は、建物の影と植え込みに囲まれ、監視カメラの死角が点在している場所だった。


アキトはフードを深くかぶり、足音を殺して砂利の上を一歩踏み出す。

わずかに鳴る砂利の音に耳を澄まし、すぐに動きを止めた。


――問題ない。


彼は視線だけで裏口の非常扉を確認する。

清掃用具置き場に通じるその扉は、奈々が事前に送ってきた情報通り、三分間だけログが残らない仕様だ。


腕時計を見る。

秒針が、ぴたりと合った。


アキトは躊躇なく扉に手を伸ばし、カードキーをかざす。

小さな電子音。

扉が、音もなく数センチ開いた。


その瞬間――

館内から、誰かの足音が近づいてくる気配。


アキトは即座に身を翻し、植え込みの影に溶け込む。

呼吸を止め、気配を消す。


裏口のすぐ向こう、警備スタッフらしき男性が一人、扉を見回していた。

「……気のせいか」


そう呟き、踵を返す足音が遠ざかる。


完全に気配が消えたのを確認してから、アキトは再び裏口へ戻った。

今度は迷いなく、扉の隙間に身体を滑り込ませる。


扉は静かに閉じられ、闇が元に戻る。


数分後――

裏庭には、最初から誰もいなかったかのような静けさだけが残っていた。


風に揺れる木々の葉音だけが、深夜の空気に溶けていく。


そしてアキトは、次の“役”へと向かっていった。


【風凛館・裏口/22時18分】


アキトはフードを深く被ったまま、裏口の扉をノックした。

「トントン……」


数秒の沈黙。

館内の空調音だけが、微かに扉越しに漏れてくる。


やがて、内側から控えめな足音が近づいた。


「……はい?」


低く、警戒を含んだ男性の声。


アキトは一歩だけ距離を取り、声量を抑えて答える。


「夜間清掃の追加指示が出てまして。裏庭の照明、確認させてもらえますか。点検表、ここに」


軽くケースを持ち上げ、書類が入っている素振りを見せる。


内側で小さな舌打ち。


「……今さら?」


「ええ。非常灯、昨夜の件で全部洗い直しだそうで。長引くと、上がうるさいんですよ」


ほんの一瞬の沈黙のあと、鍵が外れる金属音がした。


ガチャリ。


扉が数十センチだけ開き、中から中年のスタッフが顔を出す。

疲労と苛立ちが滲んだ表情だった。


「……五分で終わらせてくれ」


「助かります」


アキトは軽く会釈し、視線を下げたまま中へ入る――

その瞬間、相手の胸元のネームプレートを正確に読み取っていた。


(――西條。厨房と夜間管理、両方に出入りしてる)


すれ違いざま、アキトは何気なく言う。


「しかし、あの部屋……今も封鎖中ですか?」


西條の肩が、ほんのわずかに強張った。


「……関係ないだろ」


「ですよね。失礼しました」


それ以上は踏み込まない。

だが、その一瞬の反応で十分だった。


アキトは裏庭へと向かいながら、耳元のマイクにごく小さく息を吹きかける。


「――玲。今の、取れたか?」


返答は、すぐには来ない。

だが、夜はもう、確実に核心へと近づいていた。


【裏口・深夜一時過ぎ】


返事は、すぐにはなかった。

裏口の向こうから聞こえるのは、遠くの換気扇の低い唸りと、誰かが足を引きずるような微かな音だけ。


アキトはノックした手をそのまま下ろし、わざと気の抜けた声を作った。


「……あれ? もう消灯でしたっけ。すみません、忘れ物しちゃって」


数秒の沈黙。

やがて、鍵の外れる小さな音がして、扉がほんの数センチだけ開いた。


「……誰?」


中から覗いたのは、館の夜勤スタッフの男性だった。目の下に濃い隈を作り、警戒心を隠しきれていない。


アキトは軽くフードをずらし、困ったように眉を下げる。


「配管点検の業者です。昼間、ロビーの裏で作業してたんですけど、工具箱を置き忘れちゃって。上の人に聞いたら、ここから入れるって」


「……今さら?」


「ですよね。でも、朝まで放置すると怒られるんで」


一瞬の間。

男性の視線がアキトの足元、次に手元のケースへと移る。


その間に、アキトはわずかに重心をずらし、逃げ道と照明の位置を確認していた。


「……五分だけだぞ」


「助かります」


扉が少し大きく開いた、その瞬間。

アキトは自然な動作で一歩踏み込み、肩をすぼめて中へ入る。


「今日は静かですね」


「客も少ないしな……」


男性が鍵を戻すのを横目に、アキトは何気なく壁の掲示板に視線を走らせた。

夜間清掃の配置表。

赤ペンで書き足された、見慣れない名前。


――やっぱり、動いてる。


「じゃ、すぐ戻ります」


「ああ」


アキトは軽く会釈すると、廊下の影へ溶け込むように歩き出した。

足音は消し、呼吸は浅く、しかし表情は最後まで“気のいい業者”のまま。


角を曲がった瞬間、フードの奥で小さく息を吐く。


「……これで、裏の動線は押さえたな」


イヤーピースに指先で触れ、声を落とす。


「玲、聞こえるか。裏口は夜勤スタッフ一人。配置表に不自然な追記あり。動いてるのは内部の人間だ」


返事を待たず、アキトは再び歩き出す。

誰にも気づかれず、痕跡も残さず。


夜の館はまだ眠っている。

だが、その静けさの裏側で、真実は確実に輪郭を現し始めていた。


【夜・風凛館 裏手通路】


制服に袖を通し、キャップを目深にかぶると、アキトの雰囲気は一変した。

先ほどまでの影のあるフード姿は消え、どこにでもいそうな“夜勤のゲストサービス要員”になる。


物置の影から一歩踏み出し、廊下の明かりが漏れる通路へと溶け込む。

足取りはゆっくり、急がず、しかし迷いもない。


「……あ、すみません。今から空き部屋のリネン確認、入りますね」


すれ違った年配の女性スタッフに、軽く会釈を添えて声をかける。

相手は一瞬だけアキトの名札に目を落とし、「ああ、よろしく」とだけ言って通り過ぎた。


疑念は、ない。


カートを押しながら、アキトは耳に仕込んだ小型イヤーピースに指先で触れる。

ほんの一瞬、呼吸を整えてから小さく囁いた。


「こちらルートマスター。ゲストサービスとして再侵入完了。

 館内の警戒は通常レベル。206号室周辺、まだ動きありそうだ」


返答はすぐには来ない。

だが、それでいい。


アキトはカートの上のタオルを一枚手に取り、何気ない動作で肩にかける。

そのまま、問題の廊下へと進路を向けた。


柔らかな照明、静かな絨毯。

この館は“穏やかさ”を装うのが、あまりにも上手い。


「……裏は、必ずある」


誰にも聞こえないほどの声で呟き、アキトは次の角を曲がった。

ゲストサービスの仮面の下で、視線だけが鋭く、獲物を探していた。


【深夜1時過ぎ/風凛館・給湯室前】


廊下の非常灯が、白く鈍い光を床に落としている。

給湯室の前、壁にもたれかかるように座っていた若い女性スタッフは、紙コップを両手で包み込み、ため息をついた。


その前を、清掃用カートを押しながらアキトが通りかかる。

足を止め、気づかれない程度に距離を保ったまま、柔らかな声をかけた。


「……夜勤、お疲れさまです。今日、忙しかったみたいですね」


女性は一瞬だけ顔を上げ、警戒するように視線を向ける。

だが、アキトの胸元のワッペンを見て、力が抜けたように息を吐いた。


「……ああ、ゲストサービスの方ですか。ええ、正直……いつもより、ずっと」


「やっぱり。表のラウンジ、やけに静かでしたから」


アキトはカートの持ち手に肘をつき、軽く笑う。

その仕草は、ただの雑談にしか見えない。


女性は紙コップを口に運びながら、ぽつりとこぼした。


「昨夜のこと、ですよね……。倒れた方の件」


「……何か、気になることありました?」


女性は一度、周囲を見回した。

廊下には誰もいない。

それを確認してから、声を潜める。


「正式には“急病”ってことになってますけど……変なんです。

その時間帯、廊下の清掃ログ、途中で切れてるんですよ」


「切れてる?」


「はい。本来なら、二十二時から一時間おきにチェックが入るはずなのに……

二十三時台だけ、まるっと抜けてて」


アキトの目が、ほんの一瞬だけ細くなる。


「機械トラブル、ですかね」


「……そう、言われました。でも」


女性は言葉を選ぶように唇を噛んだ。


「その時間、エレベーター前で……黒いキャップの人、見たんです。

スタッフじゃない。名札も、つけてなかった」


「お客さん、では?」


「だったらフロントに記録が残るはずです。でも……ない」


紙コップが、かすかに震える。


「……言わない方がいいって、上から言われてます。

でも……なんだか、怖くて」


アキトは一拍だけ間を置き、穏やかな声で言った。


「教えてくれて、ありがとうございます。

無理に思い出さなくていい。今夜は、ちゃんと休んでください」


女性は驚いたように顔を上げ、アキトを見る。


「……あなた、ただの清掃員じゃ、ないですよね?」


アキトは微笑み、キャップのつばを軽く下げた。


「ただの、気づきやすい人間なだけです」


カートを押し、静かに廊下を進んでいく。

背後で、女性が小さく息を吐く音がした。


廊下には再び、夜勤特有の静けさだけが戻っていた。


【夜・風凛館 二階 調査用客室】


スタンドライトの柔らかな光が、テーブルの上だけを静かに照らしていた。

窓の外では、夜風に揺れる木々の影がカーテン越しにゆっくりと動いている。


玲は背もたれに軽く体重を預け、朱音の手元を一度見てから、穏やかな声で切り出した。


「朱音。今日一日、館の中を歩いてみて……何か、引っかかったことはあるか?」


朱音はスケッチブックの上でペンを止め、小さく息を吸った。

すぐには答えず、思い出すように天井を見上げる。


「……うん。はっきりじゃないけど……」


ペン先で、無意識に紙の端をなぞりながら続ける。


「ラウンジの奥。暖炉のそばにあった時計……音がしてなかった。止まってるのに、誰も気にしてないみたいで」


玲の眉が、わずかに動いた。


「止まってた?」


「うん。でもね、不思議なのは……止まってる時間が、さっき奈々さんが言ってた“例の時間”と同じだったこと」


朱音はスケッチブックをくるりと回し、簡単な間取りと時計の位置を描いて見せる。


「それから……夜、廊下で会ったスタッフさん。

笑ってたけど、足音がね、片方だけ少し遅れてた。ケガしてるみたいな歩き方」


玲はゆっくりとうなずき、書類の端にメモを取る。


「よく見てるな」


朱音は少し照れたように肩をすくめた。


「……結菜の時も、みんな“気のせい”って言ったから。

だから、今回は……気のせいで終わらせたくない」


その言葉に、玲は一瞬だけ視線を伏せ、静かに言った。


「それでいい。気のせいの中に、真実は隠れる」


テーブルの外、廊下のどこかで、かすかに床の軋む音がした。

玲は顔を上げ、イヤホンにそっと指を当てる。


「……アキトも、同じ時間帯を追ってる。朱音の気づきは、無駄にならない」


朱音はスケッチブックを胸に抱き、こくりとうなずいた。


夜はまだ深い。

だが、少しずつ――館の沈黙に、ひびが入り始めていた。


【裏庭・喫煙所/22時18分】


裏庭の片隅、植え込みに半分隠れた小さな喫煙所。

冷たい潮風が吹き抜け、灰皿の中で火の消えかけた吸い殻がかすかに赤く灯っていた。

アキトは清掃スタッフのキャップを目深にかぶり、手にした紙コップを灰皿の縁に置く。


「夜は冷えますね」

さりげない声だった。


ベンチに腰掛けていた中年の男性スタッフが、ライターを閉じながら肩をすくめる。

「ここは海が近いからな。夏でも夜はこうだ」

もう一人、若い男性がスマホをしまい、ちらりとアキトを見る。


「清掃の人?この時間まで大変だね」

「ええ、今日は点検が多くて。……昨夜、何か変わったこと、ありませんでした?」

アキトは紙コップを持ち替え、何気なく視線を灰皿に落としたまま続けた。


中年の男が一拍置いてから、低く言う。

「変わった、ってほどじゃないが……二〇六の前、遅くまで人の気配があったな」

若い男が小さく頷く。

「清掃札が出てたけど、誰も入ってないはずの時間だった」


「誰か見ました?」

アキトの声は穏やかだったが、語尾だけをわずかに下げた。


「顔は見てない。フードを深くかぶってた」

「館の人じゃないと思う。カードキーの反応音、聞こえなかったし」

若い男が付け足す。


風が一段強く吹き、煙が流れる。

アキトは短く礼を言い、キャップのつばを整えた。


「助かりました。寒いので、無理なさらず」

去り際、背後でライターの音が一度だけ鳴った。


植え込みの影に戻りながら、アキトは小さく息を吐く。

二〇六、フード、カードキーなし。

点は、確かに線になり始めていた。


【夜・風凛館 裏庭 喫煙所】


夜十時を回った頃。

館の裏手、植え込みに半分隠れるように設けられた小さな喫煙所には、裸電球がひとつ、心許ない光を落としていた。

潮の匂いを含んだ冷たい風が流れ込み、煙草の煙が細く横へ流れていく。


アキトは清掃スタッフの制服姿のまま、壁にもたれて煙草に火を点けた。

その隣には、年季の入った作業着を着た男――坂本が、深く腰を下ろしている。

館で二十年以上働く、厨房担当の古参スタッフだ。


「……夜は冷えるな」

アキトが何気なく言うと、坂本は短く笑った。


「若いのはそう感じるかもな。俺はもう慣れた」

煙を吐き出しながら、坂本はアキトをちらりと見る。

「清掃の人間が、こんな時間まで大変だな」


「事件のあとで、館内の点検が増えてて」

アキトは肩をすくめ、視線を中庭の暗がりへ向けた。

「そういえば……坂本さん、厨房の設備って詳しいですよね」


坂本の指が、一瞬だけ煙草のフィルターで止まる。


「まあな。古い建物だし、増改築も多い。俺くらいしか把握してない所もある」


アキトは、さりげなく声のトーンを落とした。


「206号室のあたり、最近やけに換気の音が大きくて。厨房と繋がってるんですか?」


その言葉に、坂本は小さく息を吐いた。

夜風に混じって、苦い煙が揺れる。


「……ああ。やっぱり気づいたか」

彼は煙草を灰皿に押し付け、低い声で続けた。


「206の真下が、昔の調理補助室だったんだ。今は使ってないが、換気ダクトだけは厨房と一本で繋がってる。古い設計だからな」


「じゃあ、厨房の音や匂いが……」


「上まで抜ける」

坂本は短く言い切った。

「深夜に厨房で動けば、206には全部伝わる。逆も同じだ。あそこは、音も空気も逃げ場がない」


アキトは、驚いたふりで眉を上げる。


「そんな構造、知らない人多いでしょうね」


「そりゃそうだ」

坂本は苦笑した。

「図面にも細かくは残ってない。俺が新人の頃、先代の料理長に聞いただけだ」


数秒の沈黙。

遠くで波の音が、低く響いた。


「……誰かがそれを知ってたら」

アキトが独り言のように呟くと、坂本は何も答えなかった。


ただ、もう一本煙草に火を点けながら、ぽつりと漏らす。


「知ってるやつは、限られてる。だからこそ、厄介なんだよ」


その言葉を胸に刻み込みながら、アキトは静かに煙を吐いた。

夜の闇に溶けるように――次の一手を、すでに描き始めていた。


【夜・風凛館 裏庭喫煙所】


換気扇の低い駆動音が、夜気に混じって微かに響いていた。

アキトの問いに、古参スタッフの坂本は一瞬だけ視線を伏せ、煙を肺に溜め込む。


「……ああ。今さら隠すことでもないか」


坂本はゆっくりと息を吐き、紫煙が植え込みの影に溶けていく。


「206号室の真上だ。正確には、厨房の第二換気ラインが途中で分岐しててな。昔は貴賓室だったから、防音と換気をやたら強化してる」

「じゃあ、厨房で出た音や匂いが……」

「多少は上に抜ける。夜中なら、特に分かりやすい」


坂本は苦笑いを浮かべ、灰皿に吸い殻を押し付けた。


「だから俺は言ったんだ。“夜間の作業は控えろ”って。でもな……」

「聞かなかった?」

「聞く耳を持つ連中じゃなかったよ」


アキトは何気ない仕草で頷きながら、頭の中で配置図を組み立てていく。

厨房、換気ダクト、206号室――点が、静かに線へと変わった。


「……ありがとう、坂本さん。助かりました」

「詮索しすぎるなよ。ここは、知らない方が楽なことも多い」


そう言い残し、坂本は夜の館内へと戻っていった。


喫煙所に一人残されたアキトは、耳元のインカムに指を添える。


「玲、聞こえるか。重要だ。厨房の換気扇、206に直結してる」

一拍置いて、低く落ち着いた声が返る。

『了解した。……音も、匂いも、逃げ場はそこだけだな』


アキトは小さく息を吐き、闇に視線を向けた。


事件はもう、“密室”じゃない。

風凛館の静かな夜の下で、真実は確実に追い詰められていた。


【夜・風凛館 二階控室】


軽いノック音がドアから響き、玲は手を止めて視線を上げた。


「どうぞ」


静かに開いた扉の向こうに立っていたのは、作業着姿の男性だった。肩幅が広く、年季の入った手には油汚れが染みついている。昼間、厨房で見かけた古参スタッフ――坂本だ。


「……夜分にすみません。少し、お話を」


坂本は帽子を取って一礼し、室内に入る。扉が閉まると、外の物音はすっと遮断された。


「構いません。どうしましたか」

玲の声は低く、促すようだった。


坂本は一瞬、言葉を選ぶように視線を落とし、それからゆっくりと口を開いた。


「昼間……清掃の方が、換気のことで聞いてきたでしょう。あれで、少し思い出しまして」


「換気?」

朱音が顔を上げる。


坂本はうなずき、指で天井を指した。


「厨房の奥にある換気扇です。古い配管でしてね。今は使われてない系統が一本残ってる。あれが……206号室の真下を通ってるんです」


室内の空気が、わずかに張り詰めた。


「206に、直接?」

玲が確認する。


「正確には、床下を経由して壁裏に抜けてる。昔は物置だった部屋で、においがこもらないようにって設計らしいですが……改装のとき、完全には切られなかった」


坂本は苦い表情で続けた。


「強い臭いが出れば、換気扇を通じて、厨房側にもわずかに流れる。夜中なら……誰も気づかない程度に」


朱音の手が、ぎゅっとスケッチブックを握る。


「……だから、気づかなかったんだ」

小さな声だった。


玲は坂本をまっすぐ見据えた。


「このこと、他に知っている人は?」


「館長クラスなら、図面を見れば分かるはずです。でも……現場で覚えてるのは、俺くらいでしょうね」

坂本は静かに息を吐いた。

「言うべきか、ずっと迷ってました。でも……あの人の件で、黙ってるのは違うと思って」


「ありがとうございます」

玲は深くうなずいた。

「あなたの証言は、重要です」


坂本は少しだけ肩の力を抜き、帽子を手に取った。


「……役に立つなら、よかった」


扉が閉まる。


静寂の中で、朱音がぽつりと言った。


「206号室……換気、閉じ込められた空気……」

記憶を辿るように、目を細める。

「それ、結菜の絵と……つながってる気がする」


玲は頷き、テーブルの資料に視線を落とした。


「点が、線になり始めたな」


夜の風凛館で、真実は静かに輪郭を帯び始めていた。


【時間・場所】夜、風凛館・2階廊下


玲はアキトの後ろを歩きながら、額縁の影に注意を払い、足音をできるだけ小さくする。アキトは先頭に立ち、手に持った小型ライトで進路を軽く照らす。


「ここ、昔の改装で壁の配線が複雑になってるらしいな」玲が低い声でつぶやく。


アキトは足を止め、廊下の隅を指さす。「この先の換気ダクト、206号室の換気扇に繋がってる。厨房の古参・坂本さんから聞いた情報だ」


玲は眉をひそめる。「つまり、厨房から206に匂いや音が届く可能性があるってことか」


「そう。だから換気経路を確認しつつ、監視カメラの死角をチェックする」アキトは静かに頷き、慎重に前に進む。


廊下の先、古い木製のドアの前で二人は立ち止まり、互いに目で合図を交わす。廊下の静寂が、逆に緊張を増幅させていた。


【時間・場所】夜、風凛館・地下通路


玲が隠し扉を押し戻すと、わずかに軋む金属音が響く。


アキトは肩の力を抜き、淡々と作業員の制服を脱ぎ、清掃員用の古びたエプロンを身にまとった。手には湿ったモップをしっかりと抱え、床に水を撒くふりをして廊下をゆっくり進む。


「これで、誰にも気づかれずに206号室周辺の動線を確認できる」アキトは小声でつぶやき、頭の中で館内の監視カメラの死角と巡回ルートを再確認する。


廊下の奥から、かすかに夜勤スタッフの足音が近づいてくる。アキトはモップを押す動作を自然に見せながら、壁沿いに身を潜め、足音が通り過ぎるのを静かに待った。


玲はその様子をそっと観察し、「さすがだな……」と低くつぶやく。二人の呼吸だけが、静かな地下通路に溶けていった。


時間: 深夜0時15分

場所: 風凛館・地下通路の古びた扉前


玲が古びた扉の前に立ち、慎重に鍵穴を見つめながらつぶやいた。

「……ここを開ければ、206号室への道が見えるはずだ」


手元のライトで鍵穴を照らし、息を整える。冷たい空気が廊下に漂い、微かに湿った木の匂いが鼻をくすぐる。指先で鍵を軽く触れ、周囲の静寂を確認した。


玲は深呼吸をひとつしてから、鍵を静かに差し込み、ゆっくりと回した。


金属音が小さく響き、扉の向こうから微かに冷たい空気が漏れ出す。


「よし……行くぞ」


玲は肩越しにアキトを確認し、合図を送る。


アキトは頷き、深くフードを被り直して、背筋を伸ばしたまま扉の隙間から静かに中へと入っていった。


二人の影が薄暗い通路に溶け込み、床に落ちる足音はかすかにだけ響く。

廊下の奥、206号室への道が、今まさに開かれようとしていた。


時間: 23:15

場所: 風凛館・地下通路入口


玲はアキトの動きを確認しながら、地下通路へと慎重に足を踏み入れた。

冷たい空気が肌を撫で、湿った石壁の匂いが鼻をつく。


「……ここなら誰の目もない」


玲の声は低く、床に反響して小さく震えた。

アキトは黙って頷き、懐中電灯を軽く照らしながら前方の影を確認する。


二人は互いに距離を取りつつ、206号室の前まで進む。

扉の向こうには、先ほど朱音が目撃した“不自然な気配”がまだ漂っていた。


時間: 23:22

場所: 風凛館・地下通路・206号室前


玲とアキトが扉を見つめ、密かに作戦を確認していると、背後からかすかな革靴の足音が近づいてきた。

アキトは素早く影に身を隠し、玲は息を潜めながら振り返る。


「誰か……来る」玲の低い声が闇に溶けた。


足音は廊下の角で止まり、やや長く止まった後、ゆっくりと再び遠ざかる。

アキトは息を整え、静かに扉の前に戻ると、扉ノブに手をかけた。

誰にも気づかれず、206号室に侵入する準備を整える。


時間: 23:35

場所: 風凛館・地下通路・206号室前


「これが問題のロックか…」

カイは壁の木枠部分を一瞥し、慎重に手を伸ばして扉の構造を確かめる。

微かな金属の感触を指先で感じ取りながら、扉の仕組みを頭の中で組み立てる。


「よし、あとは慎重に…」

隣でアキトが静かに息を整え、待機する。

玲はノートパソコンでロック解除のシミュレーションを確認し、二人の動きを支援する準備を整えていた。


時間: 23:42

場所: 風凛館・2階廊下


アキトは素早くガイドツアースタッフの制服に着替え、胸の「ゲストサービス」バッジを確認した。

廊下の角を曲がると、ちょうど宿泊客の中年女性が通りかかる。


「こんばんは、館内のご案内を担当しております。少しお時間よろしいでしょうか?」

アキトは柔らかな笑みを浮かべ、自然な声で声をかける。


女性は一瞬驚いたように振り返るが、すぐに柔らかく微笑む。

「ええ、ちょっと気になることがありまして…」


アキトは相槌を打ちながら、さりげなく周囲の様子を観察する。

「どのあたりで不便を感じられましたか?施設のことでも、些細なことでも構いません」


女性は口ごもりながらも、ホテル内で見かけた怪しい影や物音のことを話し始める。

アキトは笑顔を崩さず、聞き取りを続けつつ、得た情報を小さくメモ帳に控える。


宿泊客との自然な会話を装いながら、館内の隅々まで注意を配るアキト。

これこそ、彼の巧妙な聞き込み作戦だった。


時間: 23:50

場所: 風凛館・2階廊下


女性が部屋へ戻るのを見送ったアキトは、再び廊下を進む。

足音は抑えめに、だが確実に廊下の空気に溶け込む。


角を曲がった先で、壁際に置かれた消火器や清掃用具を軽く確認しながら進む。

「……ここから206号室への通路は、かなり死角が多いな」

小声で自分に呟きつつ、視線は天井付近の防犯カメラの角度をチラリと確認する。


廊下の奥から、かすかな物音が聞こえた。

軽いドアの軋む音と、誰かの足音。

アキトは身を壁際に寄せ、息を潜める。


ドアの影から現れたのは、深夜巡回のスタッフ。

アキトは自然な笑みを浮かべ、軽く会釈する。

「お疲れ様です。遅くまで見回りですか?」


スタッフは微笑み返すが、アキトの正体には気づかない。

そのまま通り過ぎた後、アキトは静かに息を整え、206号室へ向かう足を再び進めた。


館内の影と光を読みながら、彼の夜の任務は続く――。


時間: 00:05

場所: 風凛館・地下206号室への通路


アキトは足音を抑えながら、一歩一歩慎重に進む。

薄暗い照明が天井の梁に反射し、床に長い影を落としている。


壁沿いに手を沿わせ、冷たさを感じながら歩く。

「……この通路、警備の目はあまり届かないな」

小声で呟き、視線は床と天井の防犯カメラ、そして通路の角を交互に確認する。


突然、遠くから金属がぶつかる音がかすかに聞こえる。

アキトは動きを止め、息を潜める。

通り過ぎる足音の先には、夜勤のスタッフの影。


微笑みを浮かべて軽く会釈すると、スタッフは気づかぬまま通り過ぎる。

アキトは影に紛れ、再び通路を進む。


冷たい空気と静寂の中、206号室への足取りは一層慎重になった。


時間: 00:07

場所: 風凛館・地下206号室


扉の向こうから漂う冷たい空気に、アキトは一瞬身をすくめる。

「……入るぞ」

小さく呟き、慎重に一歩を踏み出した。


室内は薄暗く、床には古びた木の板が並んでいる。

遠くの壁際には、埃をかぶった棚や箱が並び、影が不規則に伸びている。


アキトは足音を極力抑え、手にした懐中電灯を小さく振る。

光がわずかに揺れ、影の中にある物の輪郭を照らし出す。


「誰もいない……か」

扉のほうに耳を澄ませながら、ゆっくりと内部へ進む。

冷気が肌を刺すが、呼吸を整えながら、慎重に足を運ぶ。


時間: 00:08

場所: 風凛館・地下206号室


アキトの足音は、床板の軋む音とほとんど同化していた。薄暗い室内に差し込む懐中電灯の光が、埃で煙った空気の中で淡く揺れる。壁際の棚には古い書類や道具箱が無造作に積まれ、影が互いに絡み合うように伸びていた。


「……誰かいるのか?」

低くつぶやきながら、アキトは慎重に進む。手に握った懐中電灯の光が一瞬、床に散らばった小さな紙片を照らす。よく見ると、そこにはかすれた文字が記されており、いくつかは何者かの手によって破られていた。


部屋の奥から、かすかな冷気が立ち上るのを感じる。呼吸を整えながら、アキトは一歩一歩慎重に歩を進める。壁に沿って進むうち、懐中電灯の光が古びた金属製のキャビネットの角に触れ、鈍い光沢を放った。手を伸ばし、軽く触れて確かめる。そこには、古い施錠が施されており、鍵がかかっていた。


「……まだ、何も触らずに確認できるな」

囁くように呟き、アキトは身をかがめ、床に散らばる小さな破片や埃を避けながら、さらに奥へと進む。すると、部屋の中央に不自然に置かれた小さな箱が目に入った。埃に覆われているものの、かすかに新しい指紋が残っている。誰かが最近触れた痕跡だ。


慎重に近づき、懐中電灯の光をそっと箱の上に置く。指先が自然に蓋に触れた瞬間、微かな異音が室内に響いた。アキトは立ち止まり、耳を澄ませる。冷気の向こう、影の奥に、誰かの気配——それは人間の呼吸や動きではなく、ただ静かに潜む存在の気配だった。


「……これは、やはり仕組まれている」

小声でつぶやき、アキトは箱を開ける前にもう一度、周囲を注意深く観察する。影が揺れるたび、床の軋む音が微かに反響し、心拍が自然に上がる。しかし、彼の動きは決して慌てず、まるでこの冷たい空気と影に同化するかのように静かだった。


懐中電灯の光で箱の中を確認すると、中には古い書類と、一枚の写真が入っていた。写真には、この館の地下にかつて出入りしていた人物の姿が、薄暗い影の中で捉えられていた。誰かが意図的に残した痕跡であることは一目でわかる。


アキトは息を整え、ゆっくりと箱を元に戻す。振り返ると、部屋の入口付近に、ドア越しに立つ影があるのがわかった。誰かがこちらを見張っている——しかし、その存在に気づかれることなく、アキトは静かに一歩後退し、影の視線をかわすように床を踏みしめた。


影の動きを感じ取りながらも、彼は冷静さを失わず、ゆっくりと廊下への脱出口へ向かう。懐中電灯を手に握り、息を潜め、影の視界の外を慎重に選びながら進む。ほんの数秒の判断が生死を分けるような緊張感の中、アキトは静かに、しかし確実に、206号室から脱出する準備を整えていた。


時間: 00:15

場所: 風凛館・地下206号室


アキトは部屋の奥で静かに立ち止まり、影の気配を確認した。ドアの向こうには誰かが立っている。微かな呼吸音や足音から、相手が完全に眠っているわけではないことがわかる。しかし、彼の動きは決して慌てない。息を整え、周囲の音と影を頭の中で正確に把握する。


「……よし、行ける」

小声でつぶやき、アキトは床に散らばる紙片を踏まないように足をすべらせながら、ゆっくりとドアへ向かう。手には懐中電灯と小型カメラを持ち、片手でドアノブを軽く確認する。ノブはわずかに冷たく、触れた感触から鍵がかかっていないことを確認する。


影の視界を意識しながら、アキトはドアの端に体を寄せる。小さくノックする音さえ立てないように、床にかかる体重を微調整する。呼吸は浅く、慎重に。影が動く気配を感じ、ほんの一瞬、彼は壁の影に身を沈める。


「……今だ」

静かにドアを押し開き、わずかな隙間を作る。光の反射を最小限に抑えつつ、ドアの外の廊下を確認。足音はなく、影は動いていない。アキトは体を低く保ち、床に沿ってゆっくりと廊下に出た。


廊下は薄暗く、間接照明の光が微かに揺れている。アキトは一歩ずつ確実に、影の死角を選びながら進む。ドアの外に設置された監視カメラの角度も頭に入れており、カメラの死角を意識して動く。


数秒ごとに立ち止まり、周囲の気配を探る。足音ひとつ、息遣いひとつがすぐに露見する状況だが、アキトはまるで空気と一体化したかのように、音もなく歩みを進める。


ついに、地下の階段が視界に入る。ここまで来れば、後は表の廊下に出るだけ。彼は最後の一呼吸を整え、低い体勢のまま階段をゆっくりと上り始めた。階段の木材は軋みやすいが、体重のかけ方を微調整し、軋み音を最小限に抑える。


階段を登りきると、薄暗い廊下に出た。ここでようやく、影の存在から逃れられる距離に到達する。アキトは深呼吸をひとつし、懐中電灯を元のカバンに仕舞い込む。ゆっくりと帽子を深く被り直し、作業員としての姿勢を整えると、まるで最初からそこにいなかったかのように、廊下を通って次の任務へと向かった。


時間: 00:25

場所: 風凛館・裏搬入口


玲は鉄扉の冷たい表面に手を軽く置き、足跡をなぞるように視線を動かした。靴底の模様や泥のつき方から、数日前の足跡ではないことが瞬時にわかる。微かに乾いた音が廊下に響くたび、彼の視線はぴたりと止まる。


──カツ、カツ、と規則正しいリズム。革靴の甲に反射するわずかな光が、歩く人物の存在を示していた。玲は息をひそめ、体を鉄扉の影に寄せる。


「……誰だ」

低くつぶやき、耳を澄ませる。足音は間近に迫り、廊下の奥からこちらに向かってくる。扉の向こう側か、それとも自分の背後か、瞬時に判断しなければならない。


玲は慎重に視線を横にずらし、扉の隙間から薄暗い廊下を確認。シルエットが揺れ、動きが止まる。相手は気配を消そうとしているようだ。


「……動くな」

玲は小さく指先で合図し、背後に控えていたアキトも同じく静止する。互いに目配せし、相手の動きを観察。足音は再び近づき、鉄扉の前で止まったかに見えた。


一瞬の沈黙。心臓の鼓動が耳に響く。玲は手をゆっくりと扉に置き、必要であれば瞬時に閉じる準備を整える。足音はやがてゆっくりと遠ざかり、背後から別の音も混ざらず、廊下は再び静寂に包まれた。


玲は小さく息を吐き、肩の力を抜く。

「……やつは通り過ぎた」

彼の目は鉄扉の向こう、闇の奥に残る気配を見据え、次の一手を慎重に考えていた。


時間: 00:27

場所: 風凛館・裏搬入口


玲は影からゆっくりと姿を現した男を見据える。

油染みのついた厨房スタッフの作業服、深く下ろされたキャップのつば、すべてが不自然ではないが、警戒心を誘う。

歩みは一定で、こちらを意識しているのか、ただ廊下を通過しているだけなのか判断がつかない。


袖口からのぞく右手首には銀色の金属バンドの腕時計。

鈍い光を放ちながらも、くすみと細かな傷が全体に広がっている。留め具付近の一部は欠けており、まるで長年の酷使を物語るかのようだった。その腕時計をちらりと見た玲は、これが単なるスタッフではないことを直感する。


男はゆっくりと扉の影から出て、廊下の中心を横切る。足音は先ほどよりも微かになり、まるで意図的に音を殺して歩いているかのようだ。玲は体を低くし、手を扉の冷たい金属にそっと添えた。万が一の瞬間に扉を閉じる準備は整っている。


「……誰だ」

声は出さず、心の中で問いかける。男は立ち止まることなく進むが、玲の視線は腕時計に留まり続ける。その金属バンドのくすみ、欠けた留め具、すべてが何かを語っている――単なる偶然ではない、確かな手掛かりだ。


影の中で息をひそめながら、玲は次の一手を冷静に計算する。男の一挙手一投足から、行動パターン、目的、そして潜在的な危険を読み取る瞬間だった。廊下の静寂に溶け込むかのように、二人の存在が緊張感を帯び、夜はさらに深く染まっていく。


【23:15・風凛館・管理室】


カイは椅子に深く腰を掛け、ノートPCのタッチパッドを慎重に操作した。

「……まずは動線を整理するか」

机の端には印刷した現場写真と静止画キャプチャが整然と並べられている。指先で一枚ずつ写真をめくり、光の角度や人物の影の位置を確認する。

「206号室の扉、監視カメラの死角、通報までのタイムラグ……この三つを突き合わせれば、全体の流れが見えるはずだ」


カイは画面をスクロールさせながら、低くつぶやく。

「焦るな……落ち着け。手順通りに行けば、誰にも気づかれずに動ける」


静かな管理室にキーボードの軽い打鍵音だけが響き、カイの集中した呼吸が静寂を際立たせた。


【23:42・風凛館・西側廊下】


アキトは廊下の角に体を隠し、カバンから黒縁の大きな眼鏡と深くかぶれるキャップを取り出した。

「さてと……これでバッチリ変装完了だな」

低くつぶやき、スマホの画面を鏡代わりに自分の顔を確認する。キャップのつばで眉の位置を調整し、眼鏡の位置を微調整する指先は迷いがなかった。


「これなら誰にも気づかれないはず……」

アキトはカバンを肩に掛け直し、静かに廊下の影に身を隠したまま、次の行動を見定めていた。


【23:45・風凛館・地下厨房入口】


──ガチャリ。


アキトはゆっくりと扉を押し開け、中に足を踏み入れた。

薄暗い室内の壁際には、件の厨房スタッフ姿の男が椅子に腰掛けている。

蛍光灯の淡い光が彼の右手首に巻かれた銀色のバンドに反射し、かすかに鈍く輝いた。


アキトは息を潜めながら、足音を立てないように一歩ずつ近づく。

「……さて、どう動くか、様子を見極めるか」

小さくつぶやき、男の動きを慎重に観察した。


男はまだこちらに気づいていない様子で、肘を膝につき、視線を床に落としていた。

規則正しくはない呼吸。わずかに上下する肩。その沈黙が、かえって不自然だった。


アキトは一歩、距離を詰める。

床板がきしむ寸前で体重を抜き、気配を殺したまま声を落とした。


「……休憩中ですか?」


男の肩が、びくりと跳ねた。

一瞬の間。次の瞬間、男は顔を上げ、キャップのつばの影からこちらを睨む。


「誰だ」


低く、掠れた声だった。

右手が無意識に太腿の上をなぞり、問題の銀色の腕時計に触れる。


アキトは慌てた様子を一切見せず、軽く肩をすくめた。


「ゲストサービスです。館内確認で回ってましてね。

 こんな時間に厨房前で座ってる人がいたから、気になっただけです」


男はしばらく黙り込み、視線だけでアキトを測るように上下させた。

黒縁眼鏡、キャップ、ラフな立ち方。

どこにでもいる夜勤スタッフの一人――そう見えただろう。


「……ちょっと、頭を冷やしてただけだ」


「そうですか。最近、色々ありましたからね」


アキトは男の斜め前、あえて逃げ道を塞がない位置に立つ。

距離は保ったまま、視線だけを腕時計へと落とした。


「それ、ずいぶん年季入ってますね。珍しい型だ」


男の表情が、ほんのわずかに硬直した。


「……関係ないだろ」


「ええ、もちろん。ただ、206号室の換気系統を調べてたら、

 同じ金属片の傷跡が見つかったもので」


その言葉に、空気が一気に張り詰める。

男の指が、ぎゅっと腕時計を掴んだ。


「……何が言いたい」


アキトは静かに息を吸い、声をさらに低くした。


「もう、裏口は塞がれてます。

 今なら“事情聴取”で済む。逃げ場がなくなる前に、話したほうがいい」


沈黙。

蛍光灯が、じ、と小さく鳴る。


男はしばらく視線を泳がせ、やがて力なく椅子の背にもたれた。


「……あんた、ただのスタッフじゃないな」


アキトは微かに口角を上げた。


「ええ。よく言われます」


その瞬間、イヤーピースから微かなノイズ混じりの声が届いた。


「――アキト、裏搬入口を確保。逃走経路、完全に潰した」


玲の声だった。


アキトは男から目を離さず、小さく頷く。


「さあ。続きは、落ち着いた場所で聞きましょうか」


男は観念したように、ゆっくりと立ち上がった。


【23:47・風凛館 地下裏通路】


コンクリートの床に二人分の足音が低く反響していた。

天井を走る配管から、ときおり水滴が落ちる音がする。

アキトは男の半歩後ろを歩きながら、声のトーンを極力抑えて問いかけた。


「その隠し部屋には、どんなものがあるんだ? 何を隠している?」


男は一瞬だけ足を止めた。

キャップのつばの影に隠れた表情は読み取れない。

だが、右手首の銀色のバンドに、わずかな緊張が走るのをアキトは見逃さなかった。


「……あんた、知らずに首突っ込んでるな」

低く、乾いた声が返ってくる。


「隠してるのは“物”じゃない」

男は再び歩き出し、通路の奥を顎で示した。

「隠してるのは“痕跡”だ。人の動き、音、時間……全部だ」


アキトは歩調を合わせながら、さりげなく問いを重ねる。

「206号室と繋がってるって話も聞いたが?」


男の肩が、わずかに揺れた。

「……換気ダクトだ。厨房の裏を通って、あの部屋に直結してる」

「音も匂いも、全部あそこに逃げる。だから誰も気づかなかった」


「じゃあ、あの夜も?」

アキトの声は、雑談の延長のように軽い。


男は短く息を吐いた。

「……ああ。だから“事故”にできた」


その言葉が、裏通路の冷たい空気に重く落ちた。

アキトは内心で静かに確信する。


――繋がった。


彼はそれ以上踏み込まず、軽く肩をすくめた。

「なるほどな。古い館なら、そういう抜け道の一つや二つ、あっても不思議じゃない」


男はちらりと横目でアキトを見た。

疑念と安堵が入り混じった視線。


「……あんた、詮索しすぎるなよ」


「仕事柄さ」

アキトは口元だけで笑った。


二人の足音は、再び同じリズムで暗闇の奥へと溶けていった。


【時間:深夜 1時42分

場所:風凛館・旧館二階 調査用客室】


玲は顔を上げると、低く抑えた声で言った。

「戻ったか。……顔、無事そうだな」


アキトはドアをそっと閉め、内側から鍵をかける。

「なんとかね。気づかれずに戻れた。……ただ、厄介なのが一人いる」


朱音がスケッチブックを抱えたまま身を乗り出した。

「さっき言ってた、厨房スタッフの人?」


アキトは小さく頷き、壁にもたれかかる。

「右手首に銀色の金属バンドの腕時計。傷だらけで、留め具が欠けてる。

 裏通路でも、206の前でも見た。同一人物でほぼ間違いない」


玲はペンを指先で転がしながら、静かに視線を落とす。

「……厨房、換気、206。線が一本につながり始めてるな」


朱音は目を伏せ、記憶を探るようにゆっくりと言葉を選んだ。

「その人……歩き方が少し変だった。右足を、ほんの少しだけ引きずる感じ。

 エレベーター前で見た人と、同じだと思う」


室内に、短い沈黙が落ちる。

外では、風が古い窓枠を鳴らしていた。


アキトが静かに息を吐く。

「裏通路で、少しだけ話した。

 あの男、隠し部屋の存在を“知ってる側”だ。

 ただし、全部は知らされてない。使われてる」


「使われてる……か」

玲はゆっくりと立ち上がり、窓際に歩み寄った。

「だとしたら、鍵を握ってるのは別にいる」


朱音が顔を上げる。

「じゃあ……その人を追い詰めるんじゃなくて、揺さぶる?」


アキトは口元だけで笑った。

「さすが。

 正面から行けば逃げる。だから――“気づかせる”」


玲は振り返り、二人を見据えた。

「よし。夜明け前に一度、動く。

 奈々と透にも回線を開け。

 風凛館の“裏側”を、今夜で一気に照らす」


朱音は小さく、でもはっきりと頷いた。

「……うん。私、覚えてること、全部話す」


アキトはキャップを脱ぎ、椅子に置く。

「じゃあ俺は、もう一度潜る。

 次は“気づかれてもいい距離”までだ」


三人の視線が、自然とテーブル中央の間取り図へ集まった。

赤ペンで囲まれた「206号室」の文字が、蛍光灯の光を受けて、静かに浮かび上がっていた。


【時間:深夜2時過ぎ

場所:風凛館・システム室】


重たい扉が静かに閉まると同時に、システム室は外界から切り離された別の空間になった。

低く唸るサーバーの音が、規則正しい鼓動のように響いている。


男は一歩遅れて中へ入り、無意識に右手首を押さえた。

銀色の金属バンドが、モニターの光を受けて一瞬だけ強く反射する。


玲はその仕草を見逃さなかった。

だが何も言わず、淡々と室内を見回す。


「……ここが、館の中枢か」


アキトが低い声で言いながら、制御パネルの前に立つ。

カイはすでに端末に向かい、椅子を引いて腰を下ろしていた。


「ログはまだ残ってる。消したつもりでも、全部は無理だったみたいだな」


カイの指がキーボードを走る。

画面には時系列で並ぶ入退室記録、スマートロックの解除履歴、監視カメラの切り替えログ。


朱音は少し離れた位置で、それらを食い入るように見つめていた。

やがて、小さく息を吸う。


「……この時間。ここ、変」


画面に映る一点を、彼女は指差す。


「206号室のロックが一度だけ“内側から”解除されてる。でも、その直後に……別の経路で、もう一回」


玲が近づき、画面を覗き込む。


「換気ダクト経由か」


その言葉に、男の肩がわずかに跳ねた。


アキトはゆっくりと男の方を向く。

声は穏やかだったが、逃げ道はなかった。


「厨房の換気扇が206に繋がってるって話、坂本さんから聞いたよ。

あんたがそこを知ってた理由……もう説明してもらおうか」


男は数秒、唇を噛みしめていたが、やがて観念したように息を吐いた。


「……俺がやったのは、隠すためじゃない」


低く、かすれた声だった。


「“見せない”ためだ。

あの部屋にあったものを、誰にも」


玲は静かに言う。


「でも結果的に、人が死んだ」


男は目を伏せる。

銀色のバンドが、かすかに震えた。


カイが画面を切り替え、決定的なログを表示する。


「これで全部繋がった。

あとは――警察に渡すだけだ」


システム室に、重い沈黙が落ちた。


その中で、朱音だけが小さく呟いた。


「……やっぱり。

最初から、逃げ道は一つしかなかったんだ」


青白いモニターの光が、全員の顔を静かに照らしていた。


モニターの低いファン音が、一定のリズムで室内を満たしていた。

ラックの間を縫うように冷気が流れ、男は無意識に肩をすくめる。


玲は一歩前に出て、落ち着いた声で言った。

「ここだな。出入りの記録も、ロックの制御も、全部ここに集約されている」


カイはすでに端末の前に腰を下ろし、指を走らせている。

「ログは残ってる。ただ……意図的に“抜かれてる”時間帯がある。二〇六号室の前後だ」


男の喉が、かすかに鳴った。

アキトはその変化を見逃さず、さりげなく男の進路を塞ぐ位置に立つ。


「なあ」

アキトは柔らかい口調を崩さない。

「もう隠す段階は過ぎてる。あんたが動いた時間、換気ダクト、隠し扉……全部、繋がってる」


男は俯いたまま、しばらく沈黙した。

やがて、観念したように息を吐く。


「……俺は、命令されただけだ」

声はかすれていた。

「“あの部屋”を使えって。客にも、他のスタッフにも、気づかれないように」


朱音が一歩近づき、不安と強さが入り混じった目で男を見る。

「誰に言われたの?」


男は一瞬ためらい、そしてゆっくりと顔を上げた。

蛍光灯の光に照らされ、銀色の腕時計が鈍く光る。


「館の……外の人間だ。ここを、ただの宿だと思ってない連中だよ」


カイが小さく舌打ちし、画面を指さした。

「このアクセス、外部回線だ。しかも一度きり。使い捨て」


玲は静かにうなずいた。

「十分だ。あとは、こちらで引き取る」


アキトは男の肩に軽く手を置く。

「選択は間違ってた。でも、話したことは無駄にならない。安心しろ」


男は何も言わず、ただ小さく目を閉じた。


モニターの光が、淡く瞬く。

風凛館の静かな夜の裏側で、絡まり合っていた糸が、ようやく一本ずつほどけ始めていた。


【時間:午前1時32分

場所:風凛館・地下システム室】


アキトはグレーの作業着に身を包み、ヘルメットを深く被っていた。

薄く汗がにじむ額を手の甲で拭いながら、ゆっくりと制御盤の前に歩み寄る。


「……ここか」


低く呟き、壁一面に並ぶ配線と端末を見渡す。

ファンの回転音と、機械特有の低い駆動音が絶え間なく室内を満たしていた。


背後で、カイがノートPCを開き、即座に作業に入る。

「この館、見た目よりずっと複雑だ。表の管理システムと、裏で独立した制御系がある。

 206号室は……やっぱり、こっちに直結してる」


画面を操作する指が止まり、カイは一つのログを拡大表示した。


「事故の夜、206の換気系統と厨房の排気ラインが同時に切り替わってる。

 しかも、手動操作だ」


玲は腕を組み、静かにその画面を覗き込んだ。

「つまり、部屋の中で何が起きていたか……外から“調整”できた、ということか」


厨房スタッフ姿の男は、壁際で視線を落としたまま、小さく喉を鳴らした。

「……俺は、言われた通りにやっただけだ。

 “いつもの点検”だって……そう言われて」


アキトは振り返らずに言った。

「いつもの、ね。

 でも今回は、点検の時間でも手順でもなかった」


男は唇を噛み、観念したように続ける。

「指示はメモ一枚だった。

 “換気を切り替えろ。音は出すな。ログは残すな”って……」


その瞬間、奈々の声がイヤーピース越しに割り込んだ。

「今、カイの共有ログ確認した。

 そのメモ、書式が館内の正式書類と一致してる。でも、承認コードが偽造よ」


玲が静かに息を吐く。

「内部犯行……いや、内部を“使われた”」


アキトは制御盤の非常停止レバーに手をかけ、ちらりと男を見た。

「安心しろ。

 もう、ここで同じことは二度と起きない」


レバーが下ろされ、低い音とともにシステムが一時停止する。

モニターの表示が切り替わり、隠されていた制御経路が次々と可視化されていった。


「証拠は、全部そろったな」


玲の言葉に、誰も否定しなかった。

冷たい機械音だけが、静かにその結論を肯定していた。


【時間:深夜1時32分

場所:風凛館・管理室】


アキトはゆっくりと一歩踏み出し、最も古そうなモニターの前で立ち止まった。

画面には、粒子の荒い白黒映像で裏搬入口が映し出されている。


「……このカメラ、角度が微妙だな」


低く抑えた声で呟き、指先でモニターの縁を軽く叩く。

隣では、例の厨房スタッフ姿の男が落ち着かない様子で視線を泳がせていた。


「こ、ここは……普段あまり使われない映像です。夜間は自動で上書きされるはずで……」


男の言葉に、アキトは振り返らずに答える。


「“はず”ね。じゃあ聞くけど――上書きされなかった理由は?」


男は一瞬言葉に詰まり、喉を鳴らした。


「……システム室から、手動で保存指示が出てました。

その時間帯だけ、です」


背後で、カイがノートPCを操作する音が速まる。


「一致した。

保存指示が出たのは、事件発生の十二分前。端末IDは……これだ」


カイが画面を少し傾けると、玲が無言で歩み寄り、表示された英数字を覗き込んだ。


「館内スタッフ用じゃないな。

外部保守……いや、名義だけ借りた偽装IDだ」


玲の声は冷静だが、確信を帯びていた。


アキトはそこで初めて男の方を見た。

サングラス越しでも、男の瞳が揺れているのが分かる。


「……あんた、気づいてただろ。

ここが“ただの管理室”じゃないって」


男は唇を噛みしめ、やがて観念したように小さく息を吐いた。


「……換気ダクトです。

206号室と、この管理区画は……繋がってる」


その言葉に、朱音の証言と、靴跡、消えた時間が一気に線で結ばれていく。


玲は静かに頷いた。


「つまり――

音も、匂いも、映像も。

全部、ここから“操作できた”ということだな」


管理室に、機械音だけが低く響き続けていた。


【深夜1時12分/風凛館・裏搬入口付近の廊下】


アキトは足を止め、背後に人の気配がないことを確かめてから、マスクを顔に当てた。

ゴム紐を耳にかける動作は一瞬で、白いマスクは彼の表情を完全に隠す。


天井の非常灯が、一定の間隔で床を照らしている。

その光の切れ目に身を置きながら、アキトは低く息を吐いた。


「……ここから先は、見られたら終わりだな」


イヤーピース越しに、微かなノイズとともに玲の声が届く。


『裏搬入口、警備カメラは今ループに入ってる。三分だけだ、急げ』


「了解。三分あれば十分だ」


アキトは作業着の襟を正し、台車が置かれた通路へ自然な足取りで踏み出した。

足音は抑えすぎず、あくまで“夜勤の作業員”らしいリズムを意識する。


角を曲がった瞬間、向こうから懐中電灯の光が揺れた。

巡回中の警備員だ。


アキトは即座に台車の取っ手を握り、軽く会釈をする。


「お疲れさまです。換気ダクトの異音、確認に来ました」


警備員は一瞬だけ立ち止まり、アキトの胸元のワッペンに目を落とす。


「……ああ。今夜、多いな。気をつけて」


「はい。すぐ戻ります」


短いやり取り。

それだけで、すれ違う。


数歩進んだところで、アキトは心の中で秒数を数え始めた。

一、二、三――。


裏搬入口の扉が見える。

金属製のドア、その横に設置されたカードリーダー。


アキトはポケットから業務用カードキーを取り出し、ためらいなくかざした。


──ピッ。


低い電子音とともに、ロックが外れる。


その瞬間、イヤーピースから奈々の声が割り込んだ。


『今! 外の監視、完全に死角よ!』


「助かる」


アキトはドアを最小限の隙間だけ開け、身体を滑り込ませる。

冷たい夜気が一気に流れ込み、作業着の中を抜けた。


外に出た直後、彼は振り返らずにドアを閉める。

音を立てないよう、指先で制御しながら。


──カチリ。


ロックが戻る音。


アキトはフードを深く被り直し、闇に溶けるように裏庭の植え込みへと歩みを進めた。


「……よし。誰にも気づかれてない」


小さくそう呟き、彼は無線を切る。


その背中は、数秒後には夜の闇に完全に消えていた。


【時間:深夜1時42分

場所:風凛館・裏搬入口へ続くサービス廊下】


廊下の奥から、規則的な足音がゆっくりと近づいてくる。


コツ、コツ――

硬い靴底が床を打つ音は一定で、迷いがなかった。


アキトは足を止め、壁際に身を寄せる。

天井灯の切れかけた蛍光灯が一瞬だけ明滅し、影が長く伸びた。


「……来るな」


小さく息を殺し、マスクを顎まで引き上げる。

作業着の襟を整え、肩の力を抜いた。


足音は、さらに近づく。


「……こんな時間に誰だ?」


低く、警戒を含んだ男の声が、廊下に落ちた。

姿はまだ見えない。だが距離は、もう十メートルもない。


アキトは一歩だけ前に出る。

あくまで自然に、巡回中の作業員のように。


「お疲れさまです。換気系統の異音チェックで」


抑揚のない、事務的な声。

視線は合わせず、メモ帳に目を落としたまま続ける。


「206号室側から、微振動のログが出てまして」


足音が止まった。


数秒の沈黙。

空調の低い唸り音だけが、二人の間を流れる。


「……そんな報告、聞いてないが」


警戒は解けていない。

だが、完全に疑っているわけでもない。


アキトは軽く肩をすくめた。


「夜間は、だいたいそんなもんです。

 昼に回すと、客からクレームになりますから」


間を置き、さりげなく付け足す。


「坂本さんの指示です」


その名前に、相手の呼吸がわずかに変わった。


「……ああ。あの人か」


足音が再び動き出す。

今度は、アキトの横をすり抜ける形で。


すれ違いざま、作業灯の光が男の右手首を照らした。

銀色の金属バンド。

くすみ、細かな傷、欠けた留め具。


――間違いない。


アキトは心の中だけで頷く。


「異常があったら、無線入れます」


男はそれだけ言い残し、廊下の奥へ消えていった。


足音が完全に遠ざかったのを確認してから、アキトは静かに息を吐く。


「……よし」


ポケットのインカムに指を添え、ごく小さな声で囁いた。


「玲。対象、裏搬入口を通過。

 右手首のバンド、確認できた。間違いない」


返事は、すぐに来た。


『了解。無理はするな。戻れ』


アキトはマスクの下で、わずかに笑う。


「了解。……じゃあ、次の仕込みに行くか」


彼は再び歩き出す。

何事もなかったかのように、静かな廊下の闇へと溶け込みながら。


【時間:深夜 2時18分

場所:風凛館・裏搬入口へ続くサービス廊下】


アキトは呼吸を整え、カバンから取り出した変装用の帽子を深く被り直す。

つばの影が目元を隠し、表情は読み取れない。

足音が近づく中、彼は一歩だけ廊下の中央へ踏み出し、あくまで自然な調子で声をかけた。


「……あ、お疲れさまです」


足音の主――先ほど見かけた厨房スタッフの男が、ぴたりと立ち止まる。

蛍光灯の下、キャップの奥から警戒心を含んだ視線が向けられた。


「こんな時間にどうした?」

男の声は低く、探るようだった。


アキトは軽く肩をすくめ、作業員らしい疲れた笑みを作る。


「冷蔵庫の温度ログが飛んだって言われて。裏の制御盤、確認しろって」

「……あんたも夜勤か?」


「ええ。今日はツイてなくて」

冗談めかして言いながら、アキトは男の右手首に一瞬だけ視線を落とす。

銀色の金属バンド。傷だらけの留め具。

――間違いない。


男は鼻で短く息を吐いた。

「制御盤なら、この先だ。だが……」


一拍の沈黙。

空気がわずかに張りつめる。


「……余計なところは見るなよ」

男はそう言い残し、再び歩き出した。


アキトはその背中を追いながら、イヤーピースに触れ、ごく小さく息を落とす。


「玲。接触完了。例の腕時計の男だ。

 今、システム室方面へ誘導されてる」


返事は即座に返ってきた。


『了解。無理はするな。こちらはいつでも動ける』


アキトは小さくうなずき、声には出さずにつぶやく。


「……大丈夫。

 夜はまだ、俺たちの味方だ」


二人の足音が、冷たいサービス廊下の奥へと溶けていった。


【時間:午前1時47分

場所:風凛館・地下制御室】


制御盤は壁一面を占めるように設置され、無数のランプが規則正しく点滅していた。

低い駆動音が床下から響き、空気はひんやりと乾いている。


アキトは一歩前に出て、制御盤の前に立った。

指先で埃を拭い、刻印された番号を確かめる。


「……ここか」


小さく呟き、彼は振り返らずに声を落とした。


「カイ、電源系統。異常ログは?」


背後でキーボードを叩く音が速まる。

カイはモニターから目を離さず答えた。


「三日前の深夜一時台、ここだけ瞬断がある。

意図的に切ってる。復旧まで四分二十秒」


「十分だな」


アキトは制御盤のカバーを開け、内部の配線に目を走らせた。

その様子を、腕を拘束された厨房スタッフ姿の男が、青ざめた顔で見つめている。


「……これを使ったんだな」


アキトが男に視線を向ける。


「206号室のロック解除。

厨房の換気ダクトと連動させて、音も匂いも誤魔化した」


男は唇を噛み、しばらく沈黙したあと、かすれた声を絞り出した。


「……上からの指示だった。

俺は、言われた通りに……」


「“誰”だ」


玲の低い声が、制御室に響いた。

彼は制御盤の反対側に立ち、男を真っ直ぐに見据えている。


男は一瞬視線を逸らし、やがて観念したように口を開いた。


「長峰……元設備管理。

今はもう、表には出てない」


その名に、室内の空気がわずかに張り詰める。


カイが静かに告げた。


「ログ、全部抜いた。

これで言い逃れは無理だ」


アキトは制御盤のカバーを閉じ、深く息を吐いた。


「……終わったな」


玲は一歩踏み出し、男に淡々と言った。


「警察には、我々から連絡する。

君が協力したことも、事実として伝える」


男は力なくうなずき、肩を落とした。


制御盤のランプが、変わらぬリズムで点滅を続けている。

その光の下で、隠されていた真実だけが、ようやく白日のもとに晒されようとしていた。


【深夜二時三十分/風凛館・地下制御室】


玲はパソコンの画面に向かい、送られてきた映像を何度も再生していた。

薄暗い制御室には、制御盤のランプが一定のリズムで点滅し、低く唸る機械音が床下から伝わってくる。


「……ここだ」


玲は一時停止キーを押し、画面の一角を指差した。

廊下の天井近く、監視カメラの死角ぎりぎりを、黒い影が横切っている。


アキトは制御盤の前に立ち、腕を組んだままモニターを見下ろした。

「カメラは正常に動いてる。でも、映像のログが不自然だ。数分だけ、きれいに抜けてる」


カイがキーボードを叩きながら、低い声で応じる。

「制御盤側から上書きされてる。手動だ。しかも、かなり慣れてるやつの操作だな」


玲はマウスを操作し、別の映像に切り替えた。

制御盤の操作履歴が時系列で表示され、深夜一時五十八分の欄だけが、妙に空白になっている。


「この時間……」

玲は呟き、視線を上げた。

「206号室のセンサーが一度だけ切れてる」


アキトが静かに息を吐いた。

「偶然じゃない。あそこに繋がる換気と、この制御盤。全部、一本の線だ」


制御室の奥で、男が落ち着かない様子で視線を泳がせた。

銀色の腕時計のバンドが、制御盤の光を反射して鈍く光る。


「……俺は、言われた通りに動いただけだ」

男はかすれた声で言った。

「この盤を触れって。記録は消せって……」


玲は男の方を見ず、画面から目を離さないまま言った。

「誰に指示された?」


沈黙。

制御盤のランプが、ひとつだけ赤に変わる。


アキトが一歩前に出た。

「今なら、まだ取り返しはつく。全部話せ」


制御室の空気が、ひどく重く沈んだ。

機械音の向こうで、真実が静かに、しかし確実に輪郭を現し始めていた。


【時間:深夜1時10分

場所:風凛館・地下清掃員控室前】


アキトは手際よくカバンから帽子と眼鏡を取り出し、さっと身につけた。

黒縁の眼鏡をかけ、清掃員用のキャップを深く被ると、雰囲気は一気に“館内の裏方”へと変わる。


「これでまた別人、っと……」


小さく呟き、今度はくたびれた清掃員の制服を広げた。

胸元の名札には、油性ペンで手書きされた名前。


――田村。


アキトはその名を指でなぞりながら、静かに息を整える。


「今回は清掃員だ。しかも古参。

館内を知り尽くしてて、不審がられない立場……」


制服に袖を通し、鏡代わりのスマホ画面で最終確認をすると、彼は控室のドアを軽くノックした。


「お疲れさまですー。夜勤、入れ替わりの確認に来ました」


中から、少ししゃがれた声が返ってくる。


「ん? ああ……どうぞ」


ドアを開けると、そこにはモップを手入れしている年配の清掃員がいた。

白髪混じりの短髪、背中は少し丸いが、動きには無駄がない。


清掃員歴二十年以上――

館の裏側を知り尽くした“ベテラン”。


アキトは自然な笑顔で一礼した。


「田村です。今日、臨時で入りました。

先輩、長いですよね? この館」


男は一瞬だけアキトを見てから、ふっと鼻で笑った。


「まあな。改装前からいるよ。

この建物、見た目よりずっと古い」


アキトはさりげなく距離を詰め、雑談の延長のように切り出す。


「そういえば……

二階の二〇六号室の周り、夜になると妙に換気音が響くって聞いたんですけど」


男の手が、ほんの一瞬止まった。


「……ああ。あそこか」


低く呟き、モップを壁に立てかける。


「普通の客室じゃない。

昔の設備が残ってる場所だ。清掃も、俺たちしか入らない」


「換気、どこに繋がってるんです?」


アキトが静かに問うと、男は周囲を一度見回し、声を落とした。


「厨房の裏――

正確には、今は使われてない旧ダクトだ。

だから匂いも音も、妙に残る」


アキトの視線が、一瞬だけ鋭くなる。


「……なるほど」


男は肩をすくめた。


「触らないほうがいい場所ってのは、ある。

ここは“掃除して、見なかったことにする”のが仕事だ」


アキトは深く頷いた。


「勉強になります。ありがとうございます、先輩」


控室を出るとき、アキトは小さく息を吐いた。


――二〇六号室。

――旧ダクト。

――清掃員しか知らない動線。


点と点が、静かに一本の線へと繋がり始めていた。


【深夜1時20分/風凛館・地下清掃員控室前】


「おかしいな……普段の業務時間とは、明らかに違う空気だ」


低く呟いたアキトは、清掃員の制服の襟元を整え、控室の扉を軽くノックした。

中から聞こえてきたのは、少し掠れた、年配の男性の声だった。


「……開いてるぞ」


ゆっくりと扉を開けると、簡素な長机とロッカーが並ぶ控室の奥で、一人の男がモップを手入れしていた。

白髪混じりの短髪、使い込まれた作業着。胸元の名札には「森下」とある。

この館で長年清掃を担当している、ベテラン清掃員だ。


「夜分すみません。臨時で入った者です。今日、ちょっと館内が慌ただしいですね」


アキトが世間話のように声をかけると、森下は手を止め、ゆっくりと顔を上げた。


「……ああ。そりゃそうだ。こんな時間に“立ち入り禁止区域”を清掃しろなんて、初めて言われた」


「立ち入り禁止区域?」


アキトは何気ない調子を崩さず、帽子のつばを指で軽く押さえる。


「206号室の裏。あそこ、昔の換気経路が集まってるだろ。

厨房からも、地下の倉庫からも、全部あそこに繋がってる」


森下は声を潜め、周囲を一度だけ見回した。


「本来は、俺たち清掃でも入っちゃいけない場所だ。

なのに今夜は、“誰が通っても気にするな”って指示でな……正直、気味が悪い」


「誰が、ですか?」


「厨房の若いのや、見たことない作業服の男。

共通してたのは……そうだな、手首に金属のバンドをしてた」


その言葉に、アキトの視線がわずかに鋭くなる。


「詳しく、覚えてますか?」


「古いタイプの腕時計だ。留め具が欠けてた。

あれは……長年現場にいる人間じゃないと、気づかない違和感だ」


沈黙が一瞬、控室に落ちた。


アキトは小さく息を吐き、穏やかな声に戻す。


「ありがとうございます。助かりました」


森下は肩をすくめ、モップを再び動かした。


「……深入りするなよ。

この館は、掃除しなくていい“汚れ”を、抱えすぎてる」


控室を出たアキトは、廊下の薄暗がりで立ち止まり、ポケットのイヤホンに指を当てる。


「玲、聞こえるか。

206の裏、換気経路、金属バンドの男……全部、一本に繋がる」


夜の館は静まり返っていた。

だが、その静けさの奥で、確実に何かが動いていた。


【時間:深夜1時18分

場所:風凛館・地下管理室前廊下】


アキトは静かに清掃員の制服の袖を引き直し、深呼吸をひとつした。

管理室の扉は重厚で、古い建物特有の圧をまとっている。無理に触れれば、軋みが闇に響きかねない。


そのとき、背後から低く落ち着いた声がした。


「……その時間に、管理室かい」


振り向くと、廊下の非常灯の下に、モップを肩に担いだ男が立っていた。

白髪交じりの短髪、使い込まれた清掃カート。動きに無駄がない。


「夜勤の清掃担当です」

アキトは一拍も置かずに答え、軽く会釈した。

「排水音の点検で。上から連絡があって」


男は目を細め、アキトの胸元の名札を一瞬だけ確認した。


「……新人じゃないな。その歩き方は」


短い沈黙。

アキトはわずかに肩をすくめ、苦笑いを作る。


「ばれました?」

「十年以上、ここを磨いてりゃ分かるさ」


男はモップを立てかけ、低い声で名乗った。


「高梨だ。清掃の古株ってやつだな」


アキトはほっとしたように息を吐き、声のトーンを落とす。


「高梨さん。ちょうどよかった。聞きたいことがあるんです」

「……内容次第だな」


アキトは管理室の扉に目をやり、小さく顎で示した。


「最近、この周辺の監視カメラ。映像が飛んでるって話、ありませんか」


高梨の表情が、ほんのわずかに硬くなる。


「やっぱり、そこに気づいたか」


「事実ですか」


高梨は周囲を一度だけ確認し、声をさらに落とした。


「三回だ。深夜帯だけ、決まって十五分前後。

記録が“最初から無かった”みたいに消えてる」


「機械トラブルじゃない?」


「違うな」

高梨は即答した。

「清掃員は機械の音で分かる。

あれは“切られてる”。しかも、慣れた手つきで」


アキトの視線が鋭くなる。


「操作できるのは?」


「限られてる。管理、設備、それと……」

高梨は一瞬、言葉を選んだ。

「厨房側のダクト清掃に出入りできる人間だ」


「ダクト?」


「ああ。206号室の上を通ってる。

換気扇の点検口、知ってるやつは少ない」


アキトは静かに息を吸い、確信に近いものを掴む。


「……ありがとうございます。助かりました」


高梨はモップを取り上げ、背を向けた。


「俺は、見たものを“掃除”するだけだ」

「だがな」


一歩、歩き出してから、足を止める。


「ここは、人より先に“汚れ”が真実を知る場所だ。

踏み込みすぎるなよ」


高梨はそれだけ言い残し、廊下の闇へ溶けていった。


アキトは管理室の扉に手を伸ばす。

今度は、迷いはなかった。


「……奈々、聞いてたな」


イヤーピース越しに、小さく息を呑む気配が返る。

――点と点が、静かにつながり始めていた。


【時間:深夜1時32分

場所:風凛館・地下管理室前 廊下】


アキトは一瞬、足音に気づき振り返った。


「誰だ……?」


管理室の扉がゆっくりと閉まっていくのを見て、アキトは焦りを隠せず声を潜めて言った。


「しまった、見つかったか……急がないと。」


彼は慌てて周囲を見渡し、脱出経路を探り始めた。


アキトは一瞬だけ目を閉じ、耳を澄ませた。

足音はひとつ。規則正しく、迷いがない。こちらの存在を確信している歩き方だった。


「……落ち着け」


自分に言い聞かせるように、そう呟く。

管理室の扉は、最後まで閉まりきらず、わずかに隙間を残して止まっていた。誰かが“確認するために”閉めた──そんな中途半端さが、逆に不気味だった。


アキトは清掃用カートの陰に身を寄せ、帽子のつばをさらに深く下げる。

呼吸を浅く、足音と同じリズムに合わせて心拍を落とす。


カツ、カツ。


足音が近づく。

廊下の角を曲がれば、視線が交差する距離だ。


その瞬間、アキトはゆっくりとカートを押し出した。

タイミングは一度きり。相手の視界に入る“直前”でなければ意味がない。


「……あ」


低い声が漏れる。


現れたのは、作業服姿の男だった。

しかしその視線は、アキトの顔ではなく、カートの中身――清掃用具に一瞬だけ落ちる。


アキトは少しだけ肩を落とし、疲れた清掃員そのものの声色で言った。


「すみません。夜間清掃です。

この先、立ち入り制限かかってました?」


男は一拍、間を置いた。

視線が右手首に落ちる。銀色の金属バンドの腕時計が、蛍光灯を反射した。


「……ああ。

その先は今夜は使わない。戻っていい」


「了解です」


アキトは深く頷き、文句ひとつ言わず踵を返す。

背中に刺さる視線を感じながらも、歩幅も速度も変えない。


三歩。

五歩。

十歩。


角を曲がった瞬間、アキトは無音で息を吐いた。


「……セーフ」


だが、安心するには早い。

相手は“確認した”だけだ。疑念が消えたわけではない。


アキトは清掃カートを非常階段の手前で止め、インカムを指先で軽く叩いた。


「玲。今の男だが、右手首に銀色の金属バンド。

例の特徴と一致する。地下管理室付近を単独で巡回してる」


一瞬の間。


『……了解した』


イヤホン越しの玲の声は低く、即座だった。


『そっちは無理をするな。

こちらで動線を絞る。今は一度、完全に離脱しろ』


「了解」


アキトはインカムを切り、清掃員の背中のまま非常階段へと消えていく。

その足取りは、最後まで“何も知らない者”のものだった。


闇の中で、真実だけが、確実に一歩近づいていた。


【深夜1時12分/風凛館・管理室上部 換気ダクト内】


金属の内壁に背中を押しつけ、アキトは身動き一つせずに呼吸を整えた。

換気ダクトの中は想像以上に狭く、埃と古い油の匂いが鼻を刺す。胸が上下するたび、服と金属がわずかに擦れ、音が出そうになるのを必死に抑えた。


下から、管理室の床を踏みしめる靴音が響く。


「……確かに、さっき物音がしたんだよな」


別の男の声が応じる。


「換気口か? まさか人が入れるサイズじゃないだろ」


アキトは心の中で舌打ちした。

――入れるんだよ。ギリギリ、な。


彼はゆっくりと肘を引き、体重を分散させながら、音を殺してダクトの奥へと進む。

金属板がわずかに軋み、思わず動きを止めた。


下では、誰かが椅子を引く音がする。


「監視ログ、もう一回確認しろ。さっき一瞬、映像が飛んでる」


「……ああ、ほんとだ。消えてるな、ここ」


その言葉に、アキトの視線が鋭くなる。

――やっぱり、誰かが意図的に触ってる。


彼は片手でインカムを押さえ、喉を鳴らさないよう極限まで声を落とした。


「……玲、聞こえるか。管理室の真上だ。映像ログ、意図的に消されてる」


返答はすぐには来ない。

その代わり、ダクトの向こうから、微かに風の流れが変わった。


アキトは進行方向を定め、腹ばいのまま、ゆっくり、確実に進む。

一歩、また一歩。

下の声が遠ざかっていくのを感じながら。


「……もういいだろ。別の区画も見てくる」


靴音が離れていくのを確認し、アキトはようやく小さく息を吐いた。


「……助かった」


額の汗を袖で拭い、彼はダクトの先に見えた格子を見据える。

その向こうには、非常灯に照らされた裏廊下があるはずだった。


――もう少しだ。


彼は静かにネジを緩め、格子を外す準備に取りかかる。

その表情には、焦りの代わりに、確かな確信が宿っていた。


この館には、まだ隠されている“何か”がある。

そして、それはもうすぐ――表に引きずり出される。


【時間:深夜1時42分

場所:風凛館・管理室上部 換気ダクト内】


金属製のダクトの内側は、思った以上に冷たかった。

アキトは腹ばいになり、両肘で体を支えながら、わずかに身じろぎする。

換気口の格子越しに、管理室前の廊下が細長く見えていた。


――カツ、カツ。


足音が、はっきりと近づいてくる。


「佐々木さん、返事してくれ!」

先ほどの男とは別の、少し若い声だった。


「おかしいな……さっきまでこの辺にいたはずなんだが」

低い声が続く。二人いる。いや、もう一人増えた気配があった。


アキトは喉を鳴らしそうになるのを必死にこらえ、呼吸を極限まで浅くする。

耳の奥で、自分の心臓の音だけがやけに大きく響いていた。


(落ち着け……まだ見られてない)


換気ダクトは管理室から裏搬入口方向へ伸びている。

だが途中に、幅の狭い分岐があるはずだ。

清掃員用の古い設計図で見た記憶が、脳裏に浮かぶ。


下では、男たちが管理室の扉を調べ始めていた。


「鍵、閉まってるな」

「さっき誰か入った形跡は?」

「いや……ログ上は、ここ一時間、出入りなしだ」


一瞬の沈黙。

その沈黙が、かえって重くのしかかる。


「……換気口、確認したか?」

その一言に、アキトの背筋がひやりとした。


(来るか……?)


だが、別の男が舌打ち混じりに答える。

「こんな狭いとこ、人が入れるわけないだろ。清掃員だって無理だ」


アキトは、心の中で小さく息を吐いた。


その隙を逃さず、彼はゆっくりと、音を立てないように肘を動かす。

金属が擦れない角度を選び、体重を分散させながら、分岐点へ。


下では、足音が管理室から離れていく。

会話も次第に遠のいた。


「とりあえず他を当たろう。裏搬入口も確認だ」

「了解」


完全に足音が消えたのを確認してから、アキトはようやく深く息を吸った。


(……危なかったな)


分岐の奥は、さらに暗い。

だが、その先には裏庭に繋がる非常排気口がある。


アキトは静かに前へ進みながら、インカムのマイクに唇を近づけた。


「……玲。今、管理室を抜けた。少し手間取ったが、データは確保してる」

一拍置いて、低く続ける。

「この館、想像以上に“中”がきな臭い。気を抜くな」


返事は、まだ来ない。

だが、アキトの目にはすでに次の出口が映っていた。


【深夜 02:14/風凛館・裏手倉庫】


倉庫の中は、外気よりもさらに冷え込んでいた。

裸電球が一本、天井からぶら下がり、かすかな光で室内を照らしている。

木箱と古いリネンの棚が無秩序に積まれ、埃と油の混じった匂いが鼻を刺した。


アキトは扉を背に、静かに息を整えた。

胸の鼓動が、まだ早い。


「……思った以上に騒ぎになってきたな」


小さく呟き、周囲を見渡す。

床には、頻繁に人が通った形跡がある。

埃の薄い部分が、一直線に奥へと続いていた。


アキトはしゃがみ込み、その跡を指でなぞる。


「清掃用の動線じゃない……完全に“使われてる”通路だ」


倉庫の奥、棚の陰に不自然な隙間があった。

板張りの壁に見えるが、よく見ると金具が古い。


アキトは無線を口元に寄せ、極低音で囁く。


「玲、聞こえるか。裏手倉庫に隠し通路がある。換気口経由で出た先だ」


一拍置いて、イヤーピースから玲の声が返る。


『確認した。館の設計図には載っていない。完全な後付けだな』


アキトは口角をわずかに上げた。


「やっぱりか……206号室と繋がってる可能性が高い」


そのとき、遠くで扉の開く音と、人の声が重なった。


「この辺だ、確かに音がしたぞ」


「倉庫も見てみろ!」


アキトは即座に照明の紐を引き、電球を消した。

闇が落ちる。


「……時間切れだな」


彼は棚の影を滑るように進み、問題の壁に手をかけた。

力をかけると、わずかに沈む。


「……ビンゴ」


小さな金属音とともに、壁の一部が内側へ開いた。

冷たい空気が、細い通路から流れ出す。


足音が近づく。


「誰かいるぞ!」


アキトは迷わず身を滑り込ませ、扉を内側から閉めた。

暗闇の中、通路は一人がやっと通れる幅しかない。


「……あと一歩遅れてたらアウトだったな」


低く息を吐き、無線を入れる。


「今から隠し通路を進む。中で何が出てくるかは分からない」


一瞬の沈黙のあと、玲の声。


『無理はするな。だが――そこが核心だ』


アキトは頷き、闇の奥へと足を踏み出した。


その背後で、倉庫の扉が乱暴に開けられる音が響く。


しかし、もう彼の姿はそこにはなかった。

風凛館の裏に隠された“もう一つの動線”の中へ――

アキトは、完全に溶け込んでいた。


【深夜1時42分/風凛館・裏搬入口】


玲は薄暗い裏搬入口の前に立ち、懐中電灯の光を壁に向けてゆっくりと揺らした。

古いコンクリートの壁には、無数の擦れ跡と、何度も開閉された痕が残っている。


「……やっぱり、ここだな」


低く呟き、光を床へ落とす。

埃の上には、靴底の模様が不自然に途切れながら続いていた。


「清掃員の動線にしては、足跡が新しすぎる。しかも、出入りの回数が多い」


背後から、足音を殺したアキトが合流する。


「裏から人を出し入れするには、ここが一番都合がいい。監視カメラも死角が多いしな」


玲は一瞬だけ振り返り、静かに頷いた。


「問題は――誰が、いつから使っていたかだ」


懐中電灯の光が、壁の一部で止まる。

そこには、壁と同化するように設えられた、わずかな段差と金属の縁があった。


「……隠し扉だ」


玲はそう言って、指先で縁をなぞる。

冷たい感触が、はっきりとした輪郭を伝えてきた。


「表からは気づかない造りだな。古い設計図にも載ってなかったはずだ」


アキトが低く息を吸う。


「つまり、公式じゃない。後から“必要になって”作られた通路だ」


玲は懐中電灯を消し、闇の中で静かに言った。


「この館で起きたことは、表に見えているよりずっと根が深い。

……ここから先は、真実に一番近い場所だ」


二人は視線を交わし、無言のまま扉に手をかけた。

軋みを殺すように、ゆっくりと押し開ける。


闇の向こうから、冷えた空気が流れ出してきた。


「行こう」


その一言とともに、二人の影は再び、館の奥へと吸い込まれていった。


【時間:深夜1時12分/場所:風凛館・裏手倉庫】


薄暗い倉庫の中、アキトの指先だけが静かに動いていた。

工具が錠前に触れるたび、かすかな金属音が空気を震わせる。


「……硬いな。だいぶ古い型だ」


彼は息を殺し、耳を澄ませる。

遠くで風に揺れる木々の音。館内からは、かすかに配管を流れる水音だけが聞こえてくる。


「今のうちだ……」


カチ、と小さな手応え。

次の瞬間、錠前がわずかに緩んだ。


アキトは口元にかすかな笑みを浮かべ、最後のピンを押し込む。


「――開いた」


そのとき。


倉庫の外、裏搬入口の方から靴音が二つ、重なって聞こえてきた。

会話が、はっきりと耳に届く距離だ。


「……さっきの件、やっぱり管理室の方も確認した方がいいな」

「だな。用務員の佐々木、まだ見つかってないし」


アキトは即座に身を低くし、棚の影に身を滑り込ませる。

呼吸を整え、心拍を抑える。


「落ち着け……まだ気づかれてはいない」


足音が倉庫の前で止まる。

ドアノブが、ゆっくりと回される音。


「……ん?鍵、開いてないか?」


一瞬の沈黙。

その隙を逃さず、アキトは解錠した扉の隙間へ体を滑り込ませた。


暗闇の向こうに、冷たい空気が流れ込む。

隠し通路だ。


「今だ……」


次の瞬間、倉庫の灯りが点いた。


「誰かいるぞ!」


その声が響くより早く、アキトは通路の奥へと走り出していた。

背後で扉が乱暴に開かれる音がする。


「追え!奥に逃げた!」


だが、通路はすぐに曲がり角を迎え、闇が視界を遮る。

足音も、やがて壁に吸い込まれるように消えていった。


数十メートル進んだ先で、アキトは立ち止まり、息を整える。


「……ふう。間一髪だな」


彼は振り返り、暗闇の向こうにある館の気配を感じ取る。


「でも、確信した。

この館には“見せたくない動線”がある」


静かに帽子を被り直し、通信機に指を伸ばす。


「玲……聞こえるか。裏に、想像以上に深いものがある」


その声は低く、しかし確かな手応えを含んでいた。


【深夜2時18分/風凛館・裏手倉庫】


――カチリ。


鍵穴の奥で、確かな手応えが返ってきた。


アキトは一瞬だけ手を止め、周囲の気配を探る。

倉庫の中は静まり返り、換気扇の低い唸り音だけが、時間の流れをかろうじて伝えていた。


「……開いたな」


小さく息を吐き、工具を素早くしまう。

扉を押す力は最小限。木と金属が擦れる音すら、今は致命的だった。


扉の向こうには、細い通路が続いている。

壁沿いに走る配管、古い配線、そして床に残る複数の靴跡。


アキトはしゃがみ込み、ライトを落としたまま目を凝らした。


「新しい……二人分。いや、三人か」


指先で床をなぞり、靴底の溝を確認する。

厨房スタッフ用の滑り止め、そして一つだけ異なる、革靴の跡。


「やっぱり内部の人間だけじゃない」


イヤーピースに指を添え、低く囁く。


「玲、聞こえるか。裏手の倉庫から隠し通路に入った。

 複数人の出入りあり。革靴の足跡が混じってる」


一拍置いて、返答が返る。


『了解した。無理はするな。そっちの動線、こちらでも照合する』


アキトは口元だけで笑った。


「無理はしないさ。……その代わり、全部拾っていく」


彼は壁に身体を沿わせ、通路の奥へと溶け込む。

灯りは点けない。足音も殺す。


背後で、倉庫の扉が風に揺れて小さく鳴ったが、もう遅い。


闇の中で、真実へと続く線が、確かに見え始めていた。


【深夜1時42分/風凛館・臨時解析室】


薄暗い部屋に、プロジェクターの光が壁一面を照らしていた。

奈々が解析を終えた監視カメラのログと出入り記録が、時系列順に並んで映し出される。


「――ここ」

奈々はレーザーポインターで一点を示した。

「午前0時18分。206号室前の廊下カメラが、ちょうど90秒だけブラックアウトしてる」


玲は腕を組んだまま、低く息を吐く。

「故障じゃないな?」


「ええ。故障なら復旧ログが残る。でもこれは意図的な映像カット。しかも――」

奈々はキーボードを叩き、別の画面を呼び出した。

「制御盤へのアクセス履歴が、その直前に一回だけある。カードIDは……清掃員用」


朱音がスケッチブックを胸に抱え、小さく眉をひそめた。

「……じゃあ、あの時間に“清掃員”が近くにいたってこと?」


「正確には、“清掃員のIDを使った誰か”ね」

奈々は即答する。

「ID自体はベテラン清掃員の名義。でも、本人の動線と合わない」


映像が切り替わり、裏搬入口のカメラが映し出された。

フードを被った人物が、影の中を横切る。顔は映らない。


玲は画面を睨み、静かに言った。

「……腕」


奈々が拡大する。

鈍く光る、銀色の金属バンド。


「やっぱり」

玲の声が低く沈む。

「裏搬入口で見た男と同一人物だ。時計の傷、留め具の欠け方が一致してる」


そのとき、ドアが静かに開いた。

アキトが中に入ってくる。作業着のまま、額にうっすら汗をにじませている。


「今の話、聞こえた」

彼は壁の映像を一瞥し、苦笑した。

「……俺が追ってたやつだ。管理室から逃げる時、右手首を見た。間違いない」


朱音が顔を上げる。

「じゃあ、その人が……」


「206に入った」

アキトは短く言い切る。

「しかも、換気経路を知ってる。厨房と繋がってるやつだ」


奈々が小さく息をのむ。

「換気図、今出す」


図面が投影され、206号室と厨房裏の換気ラインが赤く結ばれた。

一瞬の沈黙。


玲はゆっくりと前に出て、皆を見渡す。

「整理する。

 映像を切った。

 206に入り、換気経路を使った。

 清掃員IDを使える立場。

 そして――時計に特徴がある」


アキトが静かに頷く。

「次は人だな。その条件を満たす人間を洗い出そう」


朱音はスケッチブックにペンを走らせ、ぽつりと言った。

「……あの人、急いでた。絵にすると、影が前に倒れてる」


玲はその言葉に、ほんの一瞬だけ目を細める。

「いい。時間がない。

 奈々、候補を三人まで絞れ。

 アキト、裏動線をもう一度確認。

 朱音――その“影”、続けて描いてくれ」


プロジェクターの光の中、四人はそれぞれの役割へと散った。


【後日談】


朱音の後日談


【同日・玲探偵事務所/夕方】


玲のデスクの横で、朱音はメモ帳を手に、椅子にちょこんと座っていた。

事件のまとめを書き終えたらしく、目をきらきらさせて顔を上げる。


「ねえ玲さん、あの隠し通路の仕掛け、最初に気づいたの私だよね?」

「ああ。あれがなかったら、もっと時間がかかってた」


その返事に、朱音は満足そうに胸を張る。


そこへ、タイミングを見計らったように、アキトがひょいと顔を出した。


「お、今日は探偵助手さんもご機嫌だね」

「アキトだ!」


朱音はぱっと立ち上がり、じっとアキトの顔を見つめる。

少し考え込むように首をかしげ、それから真顔で聞いた。


「ねえアキト。本当のところさ……何歳なの?」


一瞬、室内の空気が止まった。


「……は?」と玲。

アキトは少しだけ間を置いて、あっさり答えた。


「19だけど」

「…………は?」


玲の声が、今度ははっきりと裏返った。


「じゅ、19!? 嘘だろ」

「嘘つく意味ないでしょ」

「いや待て、お前……清掃員にも、監査員にも、館長にもなってたぞ」

「変装は年齢関係ないから」


朱音は「やっぱり!」と楽しそうに笑う。


「なんかそんな気がしてた! 動きが軽いもん」

「一番驚いてるのは俺なんだが……」


玲は額に手を当て、深くため息をついた。


「……世の中、わからんものだな」

「でしょ?」


アキトは肩をすくめ、いつもの調子で言った。


「まあ、年齢は秘密ってことで。次もまた、必要なら呼んでよ」


そう言って、来たときと同じように、気配を残さずドアの外へ消えていく。


朱音はその背中を見送りながら、小さく呟いた。


「19歳で、あれ……すごいね」

「……本当に、すごいな」


夕暮れの事務所に、二人の静かな笑い声が残っていた。

小田切のあとがき


 


 薄暗い留置施設の小さな面会室。

 窓の外はすでに夜に沈み、鉄格子越しの街灯の光が床に細い影を落としていた。

 時刻は、午後九時を少し回った頃。


 小田切 諒は、硬い椅子に腰を下ろしたまま、しばらく何も言わずに手元を見つめていた。

 組まれた指先が、わずかに震えている。


「……正直なところな」


 ようやく口を開いた彼の声は、思ったよりも低く、疲れ切っていた。


「最初は、ここまで大事になるとは思ってなかった。ただ……館を守りたかっただけなんだ」


 視線を上げずに、淡々と続ける。


「風凛館は、俺にとっては人生そのものだった。

 あの場所が評価されなくなって、客が減って、管理もずさんになっていくのを……ただ見ているのが、どうしても耐えられなかった」


 一度、言葉を切り、深く息を吸う。


「だから、やり方を間違えた。

 “仕組めば守れる”なんて、思い込んでたんだ」


 自嘲気味に、かすかに笑う。


「結果はこの通りだ。守るどころか、全部壊した」


 そのとき、面会室の扉が静かに開いた。


 入ってきたのは、地味なジャケットに眼鏡をかけた、どこにでもいそうな若い男。

 だが、その歩き方と、視線の鋭さだけが場違いだった。


「……またお前か」


 小田切は気づいたように顔を上げ、苦笑する。


「今度は何だ。面会人のふりか?」


 男――アキトは、肩をすくめて軽く笑った。


「まあ、そんなところです。

 最後に、ひとつだけ聞きたくて」


「聞くことなんて、もう残ってないだろ」


「それでも」


 アキトは椅子に腰掛け、真正面から小田切を見た。


「本当に、後悔してますか」


 数秒の沈黙。

 小田切は視線を逸らし、天井を仰いだ。


「……後悔してるさ。

 でも、それ以上に――」


 ゆっくりと、言葉を選ぶ。


「もっと早く、誰かに“助けてくれ”って言えなかった自分を、情けなく思ってる」


 アキトは何も言わず、ただ小さく頷いた。


「それを言えたなら、結果は違ったかもしれませんね」


「……ああ」


 短く答え、小田切は目を閉じる。


 アキトは立ち上がり、扉へ向かいながら振り返った。


「ここから先は、あなた自身の時間です。

 ちゃんと、向き合ってください」


 扉が閉まる直前、小田切は低く呟いた。


「……ああ。

 今度こそ、逃げない」


 静かに閉まる扉の音だけが、面会室に残った。


 それは、事件の終わりではなく――

 一人の男が、自分の罪と人生を受け入れる、始まりの音だった。

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