86話 結菜事案 —暗号アートと校舎の影—
登場人物紹介
•玲
探偵。冷静沈着で状況判断に優れ、チームを統率するリーダー。過去の事件や未解決事案に対して強い執着を持つ。
•橘奈々(たちばな なな)
情報解析スペシャリスト。SNS・位置情報・匿名掲示板などを分析し、証拠の線を繋ぐ。冷静かつ機転の利く性格。
•沙耶
現場サポート・人間観察担当。依頼人や関係者の心理を読み取り、チームに情報を提供する。優しいが鋭い直感を持つ。
•アキト
潜入担当・ルートマスター。変装と潜入に長け、現場での情報収集・監視・作戦支援を担当。柔軟かつ機転の利く行動派。
•桐野詩乃
毒物処理・痕跡分析担当。現場での危険物や痕跡の専門家で、物理的証拠を即座に確認・解析する。女性。
•三枝舞
被害者・結菜の親友。事件の核心に近い証言者であり、真相解明に重要な情報を持つ。
•結菜
被害者。学校での事件の中心人物。スケッチやメッセージを通して真相の手がかりを残す。
•長峰
教師・事件関係者。証言は影に隠されるが、重要な情報を握る。
•仮装した校医・養護教諭(アキト変装時)
学校内で生徒への声かけや潜入任務を担う存在。
冒頭
【放課後・旧校舎・女子トイレ】
放課後のチャイムが鳴り終わってから、約30分が経過していた。
赤く染まる夕焼けが、旧校舎の窓ガラスを透かして廊下に落ちる。足音はなく、水道の蛇口からぽたり、ぽたりと水音だけが響いていた。
北東側の女子トイレ――古びた扉がわずかに開き、人の気配が滲んでいる。
「……っ、誰か……っ」
かすれた声が漏れる中、個室の一つの床に広がるのは水ではなかった。血だ。
中央でうずくまる制服姿の少女。白いブラウスは胸元から赤く染まっている。
口元に浮かんだ微笑みは、誰にも届かないまま消える。
トイレの鏡には、指でなぞったような血の文字──
「あの子のうわさを、信じた?」
次の瞬間、照明が一度だけチカリと明滅し、旧校舎は再び沈黙に戻る。
第1の事件――“トイレの花子さん”見立て殺人事件――は、静かに幕を開けた。
【玲探偵事務所・午前9時頃】
秋の気配が漂う朝、窓の外では通り雨が路面を濡らし、反射した光がまぶしい。商店街の人通りはまばらで、街は土曜日の静けさを残していた。
軋む音を立てて探偵事務所の扉が開く。
「……あの、すみません」
現れたのは制服姿の少女、肩までの髪をピンで留め、目の奥には疲れた光があるが消えてはいなかった。三枝舞――昨日、地方中学校で起きた事件の被害者、結菜の親友だ。
応対に出た沙耶が柔らかく声をかける。
「いらっしゃい。玲に話してみる?」
舞はうなずき、濡れた靴を脱ぎ、差し出されたタオルを受け取る。手はわずかに震えていたが、視線はまっすぐだ。
応接テーブルの向こう、書類を整えていた玲が顔を上げる。
「三枝舞さん……だったね。どうぞ、話してくれるかな」
少しの沈黙の後、舞は口を開いた。
「……結菜は、自殺なんかしてない。そう言い残して、死ぬような子じゃないんです。なのに、学校も警察も、みんな簡単に納得してる。おかしいと思わないんですか……?」
玲は机上のタブレットを指先でなぞり、地元ニュースを映し出す。昨夜の事件は“事故”として簡単に報じられていた。
「私、調べてほしいんです。あのトイレで、結菜に何があったのかを……。“噂”のことも関係あるかもしれません」
玲は舞をしばらく見つめ、やがてうなずいた。
「分かった。依頼として正式に受けよう。……これは早めに動いた方が良さそうだな」
その言葉と同時に、奥の部屋で奈々がノートパソコンを立ち上げ、沙耶が舞の隣にそっと座る。アキトの姿はまだない。しかし玲の目は、すでに次の一手を見据えていた。
中学校で起きた不可解な死と、“噂”の影――
それはまだ、序章にすぎなかった。
【玲探偵事務所・午前9時15分頃】
橘奈々は複数のディスプレイの前に座り、指先を止めることなくキーボードとマウスを操作していた。
「……SNSの書き込み、位置情報、掲示板の書き込み、すべてが少しずつ接点を示している……」
その視線は鋭く、集中の色を帯びている。匿名掲示板のスレッド履歴、SNSのトレンドグラフ、地図アプリの位置履歴――どれも単独では意味を持たない。しかし奈々は、それらを紡ぎ合わせる“人の動き”や“時間軸”を解析し、事件の輪郭を浮かび上がらせようとしていた。
「舞さんの証言と合わせれば……あのトイレ前後の動線も可視化できる」
奈々は高度なデータ分析スキルを持つ情報処理スペシャリストだ。個人の書き込みや微細なデータの乱れから、事件に関わる人物やタイミングのパターンを割り出すことができる。玲探偵事務所における“目に見えない手がかり”の解読者であり、不可解な事象の真実を浮かび上がらせる要となる存在だった。
「よし……これで、昨夜のトイレ周辺の人物動線を特定できる」
指先の操作が止まることはなかった。画面上の小さな点が、やがて事件解明のための線として繋がろうとしていた。
【玲探偵事務所・午前9時30分】
「奈々、引き続きSNS上の動向とログの解析を。
沙耶、舞と一緒に生徒の聞き取りを進めてほしい。表情や言いよどみ――そういう小さなサインを逃すな」
玲の視線がアキトに向く。
「アキト。お前は“弁当屋の兄ちゃん”として午前中は配達で入れ。
午後には生徒に扮して潜入。あえて“あの話を知ってる風”にふるまえ。
所々で情報を拾い、煽っている存在をあぶり出せるはずだ」
アキトは軽く頷く。
「了解。午前中は自然に校内を回る。午後からは……情報収集モードに切り替える」
沙耶が舞の隣でそっと笑みを浮かべる。
「大丈夫、舞さん。今日は私たちが守るから」
舞は小さく息を吐き、うなずく。
「……はい。お願いします」
玲は再び手元のタブレットに視線を戻す。画面に映る校舎内の地図、廊下の死角、監視カメラの角度……すべてを頭に叩き込む。
「よし。動きは各自に任せる。だが、全体の流れは俺が掌握する」
事務所の空気が、わずかに引き締まる。
事件解明への一歩が、今、静かに始まったのだった。
【中学校・職員室 午前10時】
重い沈黙が、職員室の空気を押しつぶしていた。
教師たちは互いの視線を避けるように座り、ノートや書類に目を落としている。
窓の外では、わずかに秋風が揺れる銀杏の葉を揺らしていたが、その音もこの空気には届かない。
玲は静かに椅子に腰を下ろし、手元の資料に目を通す。
「職員室には、何か隠されている――無意識の行動や言葉の端々に、事件の痕跡が出ているはずだ」
沙耶が舞の手を軽く握り、そっと囁く。
「大丈夫、舞さん。私たちがそばにいるから、落ち着いて」
舞は小さく息を整え、うなずく。
「……はい、お願いします」
橘奈々はタブレットを操作しながら、教師たちの発言や微細な表情の変化を記録する。
アキトは職員室の片隅に身を隠すように立ち、制服姿の生徒に紛れて観察を続ける。
玲の声が低く響く。
「各自、目を凝らせ。小さな違和感の積み重ねが、真実への糸口になる」
室内の空気は緊張で張り詰め、静かに、しかし確実に動き出していた。
【中学校・職員室 午前10時15分】
そんな中、ドアが控えめにノックされた。
「失礼します……」
入ってきたのは、校長に案内された一組の男女――玲と沙耶だった。
教師たちはちらりと視線を向けるが、誰も口を開こうとはしない。
校長が小さく会釈して説明する。
「こちらが、今回の件で調査を依頼された探偵の玲さんと、その助手の沙耶さんです。事情をお聞きください」
沙耶は軽く笑みを浮かべ、舞の隣に座りながら声をかける。
「安心してください。落ち着いて話せば大丈夫です」
玲は静かに教師たちを見渡す。
「職員室での出来事、昨日の午後からの動き、そして生徒たちの変化……どんな小さなことでも構いません。正直に教えてください」
室内には再び静寂が広がるが、張り詰めた緊張の中に、ほんの少しの期待と不安が交錯していた。
【中学校・職員室 午前10時20分】
教師たちは互いに視線を交わし、やや戸惑いながら口を開いた。
「……ええと、昨日の午後、結菜さんがトイレに入ったまま戻らなかったことに、最初に気付いたのは……私です」
と、クラス担任の女性教諭が静かに話し始める。
「最初は単なる体調不良かと思ったのですが、しばらくして呼んでも返事がなく、トイレを覗いたところ――」
彼女は言葉を止め、机の上で手を組む。
沙耶がそっと頷く。
「はい、そのまま包み隠さずで大丈夫です」
「……血です。床に血が広がっていて、結菜はうずくまっていました」
教師の声は低く、しかし震えていなかった。
玲はゆっくりとメモを取りながら、さらに細かい質問を投げかける。
「血の量や位置、服の状態、周囲の物の変化――すべて覚えている範囲で構いません」
教諭は少し息を吐き、目を伏せながらも詳細を話し始める。
「ブラウスの胸元から赤く染まっていて、手や髪にも血がついていました。床には小さな血の文字もあり……“あの子のうわさを信じた?”と、鏡に指でなぞった跡が」
沙耶がメモを取りながら、舞に視線を向ける。
「舞さん、ここで思い出せることはありますか? 小さなことでも構いません」
舞はしばらく黙り込み、目を細める。
「……結菜、最近、トイレで誰かに会ったって言ってました。噂のこと……怖い、って」
玲はペンを止め、静かに頷く。
「なるほど。では、その“噂”の内容、誰から聞いたかや、日時なども整理して教えてほしい」
職員室の空気は再び張り詰めるが、少しずつ事件の輪郭が浮かび上がり始めていた。
【中学校・職員室 午前10時25分】
その言葉に、誰かが小さく息をついた。
背後の席で机に肘をつき、額に手を当てる男子生徒――佐藤颯太だった。
彼の視線は床に落ち、肩をわずかに揺らしている。
沙耶がそっと近づき、低い声で問いかける。
「颯太くん……何か知っているの?」
彼はしばらく沈黙した後、かすれた声で答える。
「……結菜、最後にトイレで、誰かと話してた……でも、誰だか分からない」
玲がゆっくりペンを走らせ、目を上げて生徒たちを見渡す。
「君たち、目撃したことを正直に話してくれるか? 小さなことでも構わない」
颯太は少し息を整え、さらに言葉を絞り出す。
「……赤い傘を持った人が、トイレの前を通ったのは見た……でも、顔は見えなかった」
舞は手を握りしめ、声を震わせる。
「……それって、あの“噂”に関係ある人……?」
玲は静かに頷く。
「可能性は高い。だが今は焦らず、情報を整理することが先だ」
職員室に、微かな緊張と希望の混ざった空気が漂う。
小さな息遣いひとつも、事件の真相に近づく手掛かりとなる。
【中学校・職員玄関前 午前10時40分】
弁当箱を詰めた大きな保温ケースを両腕で支えながら、アキトは職員通用門をくぐった。
白いキャップに青い作業エプロン、軽く汗をにじませた額をぬぐいながらも、表情はにこやか――
完璧な「近所の弁当屋の兄ちゃん」になりきっていた。
通用門をくぐると、制服姿の生徒たちがちらりとこちらを見たが、特に警戒する様子はない。
アキトは小さく会釈し、手際よく保温ケースから弁当を取り出す。
「おはようございます! 本日のお昼は特製カレー弁当と鶏の照り焼きです!」
生徒の一人が笑顔で手を挙げる。
「今日のカレー、辛さは控えめでお願いします!」
アキトは柔らかく頷き、耳元で通信端末を確認する。
「午前中は“配達員”、午後からは生徒として潜入……計画通り」
小さな通用口を通り抜け、職員室前へ歩を進める。
背後で風に揺れる樹木の葉音が、緊張の一瞬を静かに包んでいた。
【中学校・職員玄関前 午前10時45分】
アキトは弁当を手渡す手を止め、自然な笑顔のまま声をかけた。
「ねぇねぇ、今そこで聞いたんだけど、なんか事件があったんだって?」
注文した生徒は一瞬、手元の弁当箱から目を上げ、少し戸惑いながらも口を開く。
「え、あ、うん……結菜さんのことだけど……なんか、トイレで倒れて……それで……」
アキトは軽く眉をひそめるそぶりを見せながらも、興味津々な声で続ける。
「そうなんだ。誰かが見たの? それとも噂だけ?」
生徒は小声で、周囲を気にしながら答える。
「うーん……ほとんど噂だと思う。誰も本当のことはわからなくて……でも、なんか“花子さんのうわさ”って関係あるみたいで……」
アキトは、耳元で通信端末をそっと操作し、奈々にリアルタイムで情報を送信する。
「ふむ……これで午前の情報収集、順調だな」
弁当を手渡す手はそのまま自然に動かしつつ、目は周囲の生徒たちの反応を鋭く観察していた。
【中学校・校庭沿い通路 午前11時05分】
アキトは配達ルートを進みながら、次の生徒に声をかける。
「そっちのクラスでも、なんか変わったこと聞いた?」
生徒は少し戸惑いながらも、低い声で囁く。
「昨日の夜、誰かがトイレに入って……って噂があったらしいです。結菜さんのことなんですけど……」
アキトは自然に眉をひそめるそぶりを見せつつ、笑顔を保つ。
「そうか、ありがとう。みんな怖がってるのかな?」
生徒は小さくうなずき、目をそらす。
「うん……変な噂が広まってるみたいで、誰もちゃんと話してくれなくて……」
アキトは心の中でメモを取りながら、視線を周囲に走らせる。
「なるほど……これは、表に出てこない“煽っている存在”をあぶり出すチャンスだな」
そのまま、彼は軽く手を振って次の教室へ向かう。
制服に紛れて潜む、情報収集の時間が静かに、しかし確実に進んでいった。
【中学校・裏通路 午前11時20分】
アキトは物陰に身を隠し、素早く制服へ着替えを済ませる。
リュックには、学校指定の体操着や靴、カバンもすっきりと収められていた。
小型ボイスレコーダーのスイッチを入れ、ピンマイクを胸元に装着。
「これで、聞き逃しなし……」と、低くつぶやく。
周囲に誰もいないことを確認すると、自然な歩幅で校舎内に溶け込む。
教室や廊下の間を縫うように移動し、あたかも本当に生徒の一人であるかのように振る舞う。
目の前には、まだ語られていない噂と、誰かが巧妙に操る情報の断片が散らばっている。
アキトはその一つひとつを拾い、静かに解析する準備を整えていた。
【旧校舎・南棟廊下 午後0時15分】
甲高い悲鳴が、静まり返った廊下に鋭く響く。
廊下の窓ガラスがわずかに震え、遠くの水道管からも微かな振動音が伝わった。
アキトは瞬時に体を低くし、背後の壁に身を隠す。
制服に身を包み、目立たぬように息を潜めながら、音の方向を見定める。
「……誰か、危険に巻き込まれている」
足元に置かれたリュックから、小型カメラとボイスレコーダーを取り出す。
彼は静かに操作を始め、校舎内で起きている異変をひとつひとつ記録していく。
廊下の端、影の中で何者かが身をひそめている。
その気配は不自然で、ただの生徒ではないことをアキトはすぐに感じ取った。
【旧校舎・南棟廊下 午後0時16分】
制服の上から支給された青いベスト、胸元には「夜間警備員・三谷」と書かれたネームプレート。
懐中電灯を片手に握りしめ、アキトは廊下を駆け抜ける。
甲高い悲鳴はすぐ先の教室から聞こえてくる。
ドアの前で一瞬立ち止まり、呼吸を整え、慎重にノブに手をかける。
「……落ち着け、焦るな」
小さくつぶやきながら、アキトは扉をゆっくり押し開ける。
教室の中は薄暗く、机や椅子が不自然にずれている。
床には濡れた跡や、何かが倒れた形跡が残されていた。
目を凝らすと、奥の角で震える少女の姿が見えた。
血の気はないが、恐怖に固まった目がアキトを見つめている。
「大丈夫、今すぐ安全な場所に連れて行く」
アキトは低い声で告げ、少女に手を差し伸べる。
【旧校舎・南棟教室 午後0時17分】
少女は一瞬、アキトの手を見つめたまま動けずにいた。
その瞳には、信じたい気持ちと恐怖が入り混じり、微かに涙が光っている。
アキトはゆっくりと膝を曲げ、目線を合わせる。
「大丈夫だ、ここから出よう。誰も傷つけない」
少女が小さくうなずくと、アキトはそっと腕を回し、背中を支えるようにして立たせた。
廊下へ出ると、甲高い悲鳴の原因だった物音はもう聞こえなくなっていた。
廊下の先には、すでに沙耶が待機している。
「無事ね。よくやったわ、アキト」
沙耶は少女を見守りながら、安心したように微笑む。
アキトは少女の手を握り返し、落ち着いた声で囁いた。
「さあ、ここから安全な場所へ行こう。話はそのあとだ」
背後では、旧校舎の影が静かに伸び、まるで事件の余韻をじっと見守っているかのようだった。
【旧校舎・職員室前廊下 午後0時20分】
玲は床に置かれた紙片を指でなぞり、眉をひそめる。
「……これは、仕組まれてる。完全に」
沙耶が静かに覗き込み、声を潜めて言った。
「誰かが、あの子たちを誘導して、証拠や目撃情報をコントロールしている……」
橘奈々はノートパソコンの画面に視線を落とし、複数のSNS投稿や掲示板のログを確認しながらうなずく。
「データの流れも偏ってます。特定の情報だけが意図的に拡散され、目撃証言は操作されている。背後に仕掛けた人物がいます」
玲は深く息をつき、手元のタブレットを操作する。
「舞、怖がらなくていい。俺たちが真実にたどり着くまで守る」
少女はかすかにうなずき、震える手を胸の前で組みなおす。
「……はい」
廊下の端から聞こえる微かな足音も、今は彼らを遮ることはできなかった。
誰かが仕組んだ“恐怖の影”を、玲たちはひとつずつ解き明かす覚悟を決めていた。
【旧校舎・廊下 午後0時35分】
昼休みの終わりを知らせるチャイムが、校舎の中からかすかに響いた。
アキトは物陰に身を潜めたまま、足音を殺して進む。制服に身を包み、あたかも生徒の一人であるかのように振る舞う。
「……時間だな」
廊下の角から、机に座る数人の生徒の視線がアキトに一瞬向く。だが彼は自然な仕草で背伸びをし、カバンの中から教科書を取り出す。
沙耶が小声で舞にささやく。
「見て、アキト君。あの動き……まるで本当にここにいる生徒のよう」
舞は息を飲みながらも、わずかにうなずく。
「……ええ、でも、どうして分かるの……?」
奈々はタブレットを操作し、校内Wi-Fiの接続情報やカメラの死角を確認しながら答える。
「動きが自然すぎるの。監視や周囲の反応をすべて計算してる。さすが“ルートマスター”ね」
玲は窓際で腕を組み、冷静に見守る。
「さあ、このチャイムが合図だ。次の接触点へ向かう。舞、準備はいいか?」
少女はゆっくりと頷き、手を固く握りしめる。
「はい……行きましょう」
校舎に再び静けさが戻る中、ほんのわずかに緊張の空気が流れ、物語の次の章が動き出した。
【旧校舎・中庭 午後0時38分】
アキトは舞にひそやかに近づき、ベンチ下の落ち葉をかき分けるふりをしながら囁く。
「校内カメラは死角を作ってる。でも、声は絶対に出すな。誰にも聞かれないように」
舞は目を大きく見開き、息をひそめる。
「……わ、分かった……」
アキトは目線を舞に合わせ、短く指先で指示を出す。
「俺が話すから、聞くだけでいい。状況も、噂も、順番に聞く」
舞はうなずき、ポケットから小さなメモ帳を取り出す。
アキトは手を伸ばし、そっとメモ帳を受け取る。
「これに、思い出したことや気になる点を簡単に書いておけ。あとで整理する」
舞は震える手でペンを握り、アキトの静かな視線に背中を押されるように少しずつ書き始める。
「……えっと、昨日の放課後、結菜さんが一人で……」
アキトは耳をそばに寄せ、低い声で囁く。
「いいぞ、そのまま順に。焦らず、誰にも気づかれずに……」
中庭の影に潜む二人。
校舎のざわめきは遠く、彼らだけの時間がほんの数分だけ流れた。
【旧校舎・中庭 午後0時40分】
アキトは舞のメモをそっと覗き込み、眉をひそめる。
「なるほど……噂だけじゃなく、彼女自身の行動も見えてきたな」
舞は小さくうなずき、手元のメモを握りしめたまま言う。
「でも……誰も信じてくれないかもしれない……」
アキトは静かに首を振る。
「大丈夫だ。証拠と順序を押さえれば、噂に飲まれた人間も理解できる」
影から、廊下を通り抜ける教師たちの足音がかすかに響く。
アキトは舞の肩に軽く手を置き、低く囁く。
「今は動くな。俺が全部拾う」
舞は息を整え、目をしっかりと開く。
アキトの存在が、恐怖と混乱の中でほんの少しだけ、安心をもたらしていた。
二人の間に、静かな緊張が張り詰める。
旧校舎の影の中で、彼らの調査は、まだ始まったばかりだった。
【旧校舎・廊下 午後0時45分】
桐野詩乃は音も立てず、静かに旧校舎の廊下を歩いていた。
制服の上に白衣を羽織り、腰のポーチから小型の検査キットを取り出す。
その姿は、まるで影そのもののように廊下に溶け込んでいた。
「……ここね」
彼女は床の小さな水たまりや机の縁、ドアノブを慎重に観察し、微量の液体をスポイトで採取する。光に透かして色や濁りを確認する。
「毒反応……被害者の周囲に意図的に撒かれた痕跡がある」
細い指で試薬を混ぜ、匂いを嗅ぎながら成分を推定する。
「量は微量で即効性はないけれど、確実に心身に影響を与えるタイプね」
廊下の影から微かに足音が近づく。詩乃は無言で身を低くし、次の痕跡へと視線を移す。
「巧妙……でも、私たちの目はごまかせない」
冷たい校舎の空気に、詩乃の緊張と冷静さが静かに張り詰める。
彼女の観察が、事件解明の鍵を握ろうとしていた。
【探偵事務所・解析室 午後1時10分】
カタカタカタ――
橘奈々の指が、キーボードの上を軽やかに、しかし途切れることなく走っていた。
複数のモニターには、SNSの書き込み履歴、掲示板の投稿ログ、学校周辺の防犯カメラ映像、そして位置情報の解析結果が並ぶ。
「舞のスマホの動き……ここで途切れている」
彼女は画面を指でなぞりながら、微細なズレを見逃さずに確認する。
「複数のアカウントから同時に情報が拡散されている……ただの噂じゃない。意図的に操作されてる」
ヘッドセット越しに沙耶と無線で連絡を取りながら、奈々はさらに解析を続ける。
「沙耶、聞き取りの結果と照らし合わせて。微妙な表情の変化や言いよどみ、ログの矛盾と組み合わせれば、動かぬ証拠になるはず」
奈々の眼差しはスクリーンに吸い込まれ、指先は止まることなく走り続けた。
彼女の冷静な分析力が、この事件の見えない糸を解きほぐそうとしている。
【探偵事務所・解析室 午後1時25分】
舞のスマホ画面に、結菜からの未送信メッセージが残っていた。
『舞へ
たぶん、これを見てる時、私はもう――
でも、私は諦めてないよ。あの人たちがしたこと、全部……』
舞は震える手で画面を握りしめる。
「……結菜、まだ、私に伝えようとしてくれてたんだ」
奈々が横から画面を覗き込み、眉をひそめる。
「未送信でも、残っているだけで手がかりになる。彼女が何を感じ、何を恐れていたのか……推測できる」
沙耶は舞の肩にそっと手を置き、柔らかく声をかける。
「大丈夫、舞。結菜の意思、私たちがつなぐから」
舞の瞳に、一筋の光が戻る。
彼女が握るスマホの小さな画面の中に、真実への糸が静かに繋がり始めていた。
【探偵事務所・解析室 午後1時28分】
玲がゆっくりと立ち上がり、地図や資料の広がる机に近づく。
「舞、結菜の言葉は確かに残っている。それをどう解釈するか、私たちが判断しなきゃいけない」
舞は小さくうなずき、唇を噛む。
「……あの人たちって……誰のことですか?」
玲は深呼吸してから、机の上の資料を指さした。
「学校関係者、同級生、もしくは“噂”を広めている誰か……直接的な加害者かもしれない。まずは順序立てて整理する」
奈々がディスプレイを操作しながら、次々に分析結果を表示する。
「位置情報、SNS投稿、掲示板の書き込み……結菜の行動パターンと一致するものを抽出中。可能性の高い人物リストが見えてきました」
沙耶は舞に目を向け、穏やかに話しかける。
「舞、怖がらなくていい。私たちが一緒にいるから。結菜の伝えたかったこと、必ず明らかにする」
舞の目に涙が光るが、ほんの少し強くなった。
「……うん、信じる。結菜のために、絶対に見つける」
玲は机に手を置き、静かに頷いた。
「じゃあ、始めよう。全ての痕跡を、残らず洗い出す――結菜の声を、ここに取り戻すためにな」
【準備室・午後2時15分】
舞がそっと息を吐き、棚の隙間に置かれた画材やスケッチブックを見渡す。
「……こんなところで、何をしているんだろう」
沙耶が舞の隣に立ち、静かに答える。
「痕跡はいつも、予想外の場所に隠れている。ここも、何かの手がかりになるかもしれない」
玲は部屋の奥、石膏像のそばで資料を広げながら言った。
「絵画室、彫刻室、どちらも手がかりが残されやすい。指紋や微細な痕跡、匂い……分析班に送れる範囲はすべて押さえる」
奈々は机に置かれたノートPCを操作し、静かに画面をスクロールする。
「過去の生徒の出入り記録、ここでの授業スケジュールもデジタル化されてます。微妙な時間差でも人物の動きが割り出せます」
舞は小さく頷き、手元のスケッチブックに軽く触れる。
「……結菜、ここで何か残していたのかな」
玲は少し微笑みながら、静かに答える。
「必ず見つける。残された痕跡を、一つずつ紡いで――結菜の声を取り戻すためにな」
【準備室・午後2時20分】
アキトは静かに棚の影から顔を覗かせる。
「舞、少しこちらに来てくれ」
舞は警戒しながらも歩み寄る。
「……何をするんですか?」
アキトは淡い笑みを浮かべ、控えめな声で答える。
「観察だ。ここで何が起きたか、どこに手がかりがあるか、まずは見極める」
胸ポケットのペンとスケッチ棒に指を添え、さりげなく机上の画材を触る。
「指紋、筆跡、痕跡……こうした微細な情報を拾うためだ」
玲は部屋の奥から小声で指示を出す。
「アキト、状況を確認しながら、舞の動きに注意。危険な兆候があればすぐ知らせろ」
舞は息を整え、少しだけ安心したように頷く。
「……わかりました」
アキトは静かに準備室の空気を見渡し、微かな物音にも耳を澄ませながら、慎重に足を進めた。
「結菜の声、見つけてやる――残された痕跡すべてを辿って」
ガラガラ――。
準備室の扉が開き、入ってきたのは年配の男性教師。
髭をたくわえ、手には出席簿を抱えている。
美術担当の間宮先生だった。
「君、何してるんだ?」
【準備室・午後2時25分】
アキトはすっと背筋を伸ばし、穏やかな笑みを浮かべる。
「間宮先生……ちょっと、舞さんの美術の補助をしていまして」
間宮先生は眉をひそめ、出席簿を抱えた腕を組む。
「補助? この時間帯に? しかも君、随分と……真面目そうだな」
舞が小さく肩をすくめながら、目を合わせる。
「……すみません、先生」
アキトは落ち着いた口調で続ける。
「いえ、問題はありません。ただ、ここで少し作業を手伝わせていただければと……」
間宮先生は少し考え込み、やがて口元を緩める。
「まあ……君が手伝ってくれるなら助かるな。舞も安心するだろう」
アキトは小さく頷き、そっと舞の肩に目を向ける。
「ありがとうございます、先生。安心してください、細心の注意を払います」
扉の向こう、外の廊下ではかすかな足音が響く。
アキトは視線を舞に戻し、慎重に準備を再開した。
「ここからが本番だ――結菜の痕跡、必ず見つける」
【準備室・午後2時30分】
アキトは手元のスケッチ棒を軽く回しながら、舞に小声で囁く。
「舞さん、今のうちに聞きたいことがある。結菜ちゃんが最後にいた場所や、誰と一緒にいたか――少しでも覚えていることを教えてほしい」
舞は肩を小さく震わせながら、そっと息を吐く。
「……最後に見たのは、職員室の前……それから、トイレに向かうのを見かけたの。あの人たち、結菜を……」
アキトは遮るように手を上げ、低く静かな声で続ける。
「落ち着いて。周りには誰も聞こえない。ゆっくりでいい、思い出せる限りで」
舞は少しうなずき、目を伏せる。
「……トイレの前に、二人の先生がいて……それから、廊下の隅で何かをしている子がいた。……でも、怖くて、それ以上は近づけなかった」
アキトは微かに眉を寄せる。
「なるほど……その情報はすごく大事だ。ありがとう、舞さん」
そして、そっと手元の小型カメラで準備室内を確認する。
「周囲は安全……次は、トイレの状況を確認する段階だ」
舞の肩に軽く手を置き、安心させるように言う。
「僕が一緒に行く。何があったのか、しっかり見届けよう」
廊下の向こうから、かすかな足音が再び近づいてくる。
アキトは視線を扉に向け、息をひそめたまま準備を整える。
「さあ、次の一歩だ――真実に近づく時間が、今、始まる」
【旧校舎・午後7時45分】
アキトは窓際で身をかがめ、静かに息を整えた。
背中には夜間警備員の制服がぴったりと馴染み、手には懐中電灯。
「誰も気づくな……」
彼は小声で自分に言い聞かせると、窓の外へと目をやる。
下の校庭には、もう誰の姿もない。足音ひとつ立てずに、計画通りに侵入できる状況だ。
アキトは懐中電灯を消し、暗闇に溶け込むように窓枠を乗り越える。
床に着地する瞬間も、息遣いは最小限。
まるで影のように、廊下の奥へと滑るように進む。
「……舞、もうすぐだ」
リュックの中で準備していた小型カメラとボイスレコーダーを確認し、彼は廊下の隅に身を隠す。
薄暗い非常灯の下で、静寂と緊張が交錯する。
校内に漂う、わずかな空気の動きさえも、アキトは見逃さない。
「これで全ての証拠を――確実に押さえられる」
彼の目は真剣そのものだった。
旧校舎に潜む“何か”を、確かに捕らえるための時間が、今まさに始まろうとしていた。
【旧校舎・準備室・午後7時50分】
スマホ画面に映る結菜のメッセージ写真を、アキトはそっと覗き込む。
画面には、彼女の震える指で残された文字と、焦りの滲む表情が写っていた。
その端、わずかに見切れる職員用のネームプレート――
「長峰……」
アキトは息を潜める。
この一枚の写真が示すのは、単なる恐怖の証言ではない。
校内の誰か――、少なくとも職員側の人物が結菜を追い詰めた可能性を示していた。
手元のボイスレコーダーをチェックし、ピンマイクの電源を入れる。
「この証拠は……絶対に逃すわけにはいかない」
彼の視線は、再び廊下の暗がりへと向く。
準備室の静寂と、校内に漂う微かな物音。
どちらも、結菜の無言の訴えを裏付ける手がかりとなるはずだった。
【旧校舎・準備室・午後7時52分】
アキトは慎重にスマホをポケットに収め、制服姿のまま廊下へと足を踏み出す。
非常灯に照らされる床は、昼間の活気を想像させないほど冷たく、静まり返っていた。
「舞、気をつけろ……」
小さな声で自分に言い聞かせるように呟き、物陰から物陰へと移動する。
廊下の先には、かすかに金属が擦れる音。誰かが足を滑らせたのか、それとも……。
アキトは息を潜め、音の出所を探る。
手には既に小型のカメラと録音機器が握られていた。
彼の任務は明確だ――結菜が残した痕跡、そして「長峰」の関与の証拠を、何があっても確保すること。
廊下の角を曲がると、暗がりの先にかすかな影が揺れた。
アキトは身を低くし、呼吸を整える。
次の一歩が、真実への扉を開く瞬間だった。
【旧校舎・美術準備室・午後7時55分】
舞は震える手で小さなスケッチブックを差し出す。
ページには淡い鉛筆線で描かれた、見慣れた教室や廊下、そして誰かの後ろ姿――不安げでありながらも凛とした佇まいが描かれていた。
「……結菜は、最後まで諦めなかったんだね」
アキトはそっとスケッチブックを受け取り、手を触れずにページをめくる。
鉛筆の線は微かに消えかかっていたが、描かれた風景や人物の動きには力強さが残っていた。
「誰にも見せなかった理由、わかる気がする……。彼女なりの、伝え方だったんだね」
舞の瞳が、かすかに光る。
「……あたし、ちゃんと守らなきゃ。結菜の言葉も、思いも」
アキトは頷き、静かに答えた。
「そうだ。証拠も、思いも、すべて残す。結菜の声を、消させない」
廊下の影は静まり返り、二人だけの時間が流れる。
だが、その背後には、まだ気配を隠した人物が――
長峰の存在が、二人の行動を影で見守っていた。
【玲探偵事務所・解析室・午後8時05分】
「毒物の痕跡は微量だけど確かに残ってる。結菜が触れたものに付着していた可能性が高い」
詩乃がスマートフォン越しに報告する。
「検出されたのは植物性の神経毒。市販の薬品には見られないタイプ。成分の組み合わせから、専門的な調製が必要ね」
奈々は頷き、スケッチブックの線と毒物の位置情報を重ね合わせる。
「……この線の引き方、毒の存在を示してる場所と一致してる。つまり、結菜は自分の身の危険と相手の特定方法を、あの“絵”に組み込んでたってことね」
舞は息を呑み、声を震わせる。
「……結菜、こんなふうに自分で証拠を残してたの……?」
アキトが静かに横に立ち、肩に軽く手を置く。
「そうだ。彼女は、誰かに消されることを前提に、自分の言葉と証拠を“見える形”に残したんだ」
奈々の指がキーボードを滑り、解析結果をグラフ化する。
「これで、結菜の“最後の意思”と、事件の構図が少しずつ可視化できる。舞ちゃん、君の証言が重要なカギになるわ」
舞は小さく頷き、震える手でスケッチブックを抱きしめた。
静寂の中、決意の光が瞳に宿る。
【旧校舎・地下資料室・午後9時15分】
アキトは静かに足を踏み入れる。
壁際に積まれた古い書類の間をかき分け、懐中電灯の光を滑らせる。
「……ここだ」
彼の指先が、埃をかぶった一冊のノートに触れる。
ページをめくると、結菜が残した手書きのメモや、学校内での不審な出来事を記した記録が散りばめられていた。
「舞ちゃん、この情報とスケッチを照らし合わせると、矛盾点や動線が見えてくる」
舞は息を呑み、アキトの指し示す部分をじっと見つめる。
「……あの時、ここで誰かが見てたんだ……」
アキトはうなずき、慎重にノートを手元に収める。
「結菜は、自分の身を守るために、こうして証拠を残していた。俺たちは、それを繋げて全貌を明らかにする」
地下の静寂の中で、二人の呼吸だけがかすかに響く。
過去の記録と“暗号アート”が交わる瞬間、事件の輪郭が少しずつ姿を現し始めた。
【旧校舎・地下資料室・午後9時20分】
アキトは懐中電灯を棚の隙間に差し込み、暗がりの奥に視線を走らせる。
その目は、埃に埋もれた一枚の紙に止まった。
「これか……」
慎重に拾い上げると、紙には結菜の筆跡で数字と記号が並んでいた。
ただの落書きに見えるが、アキトの目には規則性があることがすぐにわかった。
「舞、これは結菜のメッセージだ。普通の文字じゃない。パターンに沿って読めば、事件の核心に触れられる」
舞は手元のスケッチと紙を重ね、数字と記号を指で追う。
「……これ、あのトイレの配置図と同じ……」
アキトはうなずき、声をひそめる。
「そう。この暗号は、現場の証拠と直結している。誰が、どこで、何をしたのか。結菜は最後まで見抜いていた」
二人の間に、わずかな沈黙が流れる。
地下のひんやりとした空気が、まるで過去の事件そのものを包み込むようだった。
「さあ、舞。この手がかりをもとに、残りの証拠を照合しよう。犯人を突き止めるために」
舞は息を整え、頷いた。
「……はい。結菜のためにも、絶対に真実を明らかにします」
アキトは微かに笑みを浮かべ、懐中電灯の光を地下資料室の奥へ向けた。
その先には、まだ誰も知らない“真実の欠片”が静かに眠っていた。
【ニューススタジオ・午前7時45分】
藤堂はモニターに目を向けながら、ゆっくりとカメラに向き直る。
「まず、先週の旧校舎女子トイレで発生した不可解な死亡事件。被害者は三年生の結菜さん。現場からは明確な自殺の痕跡は見つかっておらず、学校側の発表と報道内容には大きな隔たりがあります」
映像が切り替わり、旧校舎の静まり返った廊下や血痕の残るトイレの写真が画面に映る。
藤堂は再びカメラを見据え、声を落とす。
「そして、結菜さんが残した手書きのスケッチやメッセージから、学校内で繰り返されていた恐怖の構造が浮かび上がってきました。私たちは、この“噂”と呼ばれる現象の背後にある真実を追います」
画面の隅には、匿名掲示板のスクリーンショットやSNSの書き込みが次々に表示される。
「見えない圧力、隠された証拠、無言の恐怖――これらすべてが、少女たちの言葉と行動に刻まれていました」
藤堂は一呼吸置き、静かに締めくくる。
「被害者の声なき声に、耳を傾けること。これこそが、事件の核心に迫る最初の一歩です」
スタジオ内の照明がわずかに揺れ、カメラの赤ランプが静かに点滅を続ける。
全国の視聴者の目が、この報道に集まっていた。
【取調室・午前10時】
長峰は肩をすくめ、机の上の紙コップをぎゅっと握る。
「……あの子、結菜さんのこと、なんて言えばいいんだろう……」
録音機器のランプが赤く点滅し、規則正しい回転音が部屋の静寂を支配する。
玲が机の向こう側に座り、静かに声をかける。
「落ち着いて、長峰先生。思い出せる範囲でいい。結菜さんと、校内で何が起きていたか、教えてくれませんか」
長峰は唇をかみしめ、しばらく目を伏せる。
やがて、震える声で口を開く。
「……あの子、女子トイレで……誰かに脅されていたみたいなんです。噂のこと、すごく怖がってて……」
沙耶がそっと長峰の隣に座り、目線を合わせる。
「大丈夫。私たちは、事実を明らかにしたいだけ。あなたが覚えていることを、少しずつ教えてくれればいいの」
長峰は深く息を吸い、机の上の紙コップを置くと、やっと目を上げた。
「……校内では、あの“噂”のことを知ってる人が、限られていたんです。結菜さんも、だから隠してた……」
録音機器の赤いランプが、静かにその言葉を記録し続けていた。
【ニューススタジオ・午後2時】
キャスター席の藤堂は、ディスプレイに目を落としながら穏やかに語りかける。
「本日の特集では、東が丘中学校で起きた不可解な事件の真相に迫ります。関係者の安全を考慮し、一部の証言者については声と姿を加工してお届けします」
映像には長峰のシルエットが映し出され、声は電子的に加工されて低く変えられていた。
「結菜さんが学校内で受けていた圧力や、噂の存在について、内部からの証言を元に検証します」
画面下のテロップには、「匿名取材協力者の証言」とだけ表示される。
視聴者には詳細な人物は伏せられつつも、事件の核心に迫る内容が淡々と流れていく。
スタジオ内の静かな緊張感の中で、藤堂はカメラ越しに視線を投げかける。
「我々は、見過ごされてきた声を、光の下に取り戻すために取材を続けています」
背後のスタッフも、静かにディスプレイの切り替えや音声調整に集中していた。
【体育館・午前11時】
壇上の校長は、額にわずかに汗を滲ませながら深く息をつき、集まった報道陣を見渡した。
「……このたびは、本校の生徒が巻き込まれた事件に関し、関係者の皆さまに深くお詫び申し上げます」
カメラのフラッシュが一斉に光り、記者たちのペン先が走る音が混ざる。
校長は一呼吸置き、原稿に目を落とす。
「事件の詳細については、警察の調査が進行中であり、私どもも全面的に協力しております」
報道陣のマイクが一斉に校長へ向けられ、質問が飛ぶ。
「生徒への安全対策はどうなっていますか?」
「再発防止策は具体的に何ですか?」
校長は落ち着いた声で応じる。
「学校としては、すべての生徒の安全を最優先に確保することを約束します。また、今後は教職員一同、監視体制の強化と安全教育の徹底を図ってまいります」
会見の間、体育館は報道の熱気と緊張感に包まれ、フラッシュが繰り返し光った。
校長の言葉は静かに、しかし確実に、学校としての責任と決意を伝えていた。
【編集室・午後2時】
藤堂は画面に集中しながら、ヘッドセット越しに静かな声を聞き取った。
「……廊下の奥、何かが動いている……」
指先でマウスを滑らせ、音声の波形を拡大する。微かな足音のリズム、すれ違うかすかな物音――それらをひとつずつ丹念に解析する。
隣のモニターには、匿名で送られてきた生徒の証言映像が映し出されていた。
藤堂はつぶやくように独り言を漏らす。
「ここか……確かに、誰かがここを通ってる……でも、普通の生徒じゃない……」
画面をスクロールしながら、データの時間軸を追う。
「この足音、廊下のどの位置で録られたか……微妙にズレがある。意図的に誤認させるように録音された可能性もあるな」
ヘッドセット越しに、編集室の静寂だけが耳に残る。
「……よし、これをもとに報道用の整理映像を作るか」
藤堂は静かに唇を引き結び、キーボードを軽く叩き始めた。
編集室の中、映像と音声が交錯し、事件の真実へ向けた小さな解析の光が灯されていく。
【編集室・夕方】
藤堂は椅子にもたれ、モニター越しに映像を確認しながら深く息を吐く。
外の夕焼けが室内に差し込み、淡い朱色の光が書類と機材の上を静かに滑っていく。
「今日も、いろいろあったな……」
つぶやきながら、彼はデスク上のUSBメモリを手に取り、再生ボタンを押す。
画面には、旧校舎で収集した映像や音声の断片が、淡々と流れていた。
ヘッドセットを耳にかけ、細かな雑音や足音、息遣いを確認する藤堂。
「ここ……誰かが隠れた形跡がある。確実に、何かが動いている」
窓の外の赤い空を背に、藤堂は静かにキーボードを叩き始めた。
映像と音声の断片を整理し、報道の形へと組み立てていく。
夕焼けに染まる街のざわめきと、編集室の静寂が、まるで対照的に重なっていた。
【編集室・夕方】
藤堂の指がキーボードを滑るたび、映像ウィンドウが次々に切り替わる。
廊下の足音、ドアの開閉音、微かな呼吸――すべてを解析し、事件の軌跡を追う。
「……ここか。舞と結菜の動線、完全に重なってる」
彼は小声でつぶやき、画面上のタイムスタンプを指で追う。
映像の断片を重ねることで、旧校舎内の見えない流れが、少しずつ形を持ちはじめた。
ふと、ヘッドセットの片耳からかすかな音。
「……ん?」
藤堂は反応し、音源を拡大。微かな紙の擦れる音と、靴音の余韻が残っている。
「これは……見落とせない」
赤い夕焼けが編集室を照らす中、藤堂の目はモニターに釘付けになった。
すべての断片が、事件の全貌を明かす鍵となる――
その確信が、静かな室内に静かに緊張感を生み出していた。
【編集室・深夜】
藤堂は椅子に深く腰を下ろし、モニターに映る映像をひとつずつ確認していく。
取調室の静止画には、長峰の緊張した表情や震える手が鮮明に映っていた。
体育館の会見写真には、壇上の校長の深く頭を下げた姿が、重苦しい空気ごと切り取られている。
「……ここに繋がるのか」
小さくつぶやき、藤堂は次の映像ファイルを選択。
静止画だけでは見えなかった動きや間合いを、音声とタイムラインで重ね合わせる。
机の上に散らばるメモ、ペンの跡、付箋紙の文字――
一見無秩序に見える断片が、編集され、解析されることで、事件の輪郭を少しずつ浮かび上がらせる。
「これで、皆が見落としていた事実が明確になる……」
深夜の静寂の中、藤堂の瞳は揺るがぬ決意で光っていた。
【校門前・朝】
「おはよう、今日も元気そうだね」
アキトは軽く頭を下げ、通学する生徒たちの肩にそっと手を置く。
「昨日の課題、わからないところあったら、いつでも聞いてね」
一人の女子生徒が小さくうなずき、恥ずかしそうに笑う。
別の男子生徒には、
「忘れ物がないか確認してね。落ち着いて行動すれば、いい日になるよ」
と、さりげなく声をかける。
誰もが無意識のうちに心をほどかれ、学校の空気がほんの少しだけ和らぐ。
アキトの声は優しく、しかし決して目立たず、彼の存在は安心感をそっと残すだけだった。
校門の外を歩く生徒たちの背中を見送りながら、アキトは静かに微笑んだ。
任務と日常が、今はそっと交わる瞬間だった。
――アキトの“ルートマスター”としての役目も、こうした小さな日常の中で、生徒たちの安全と未来を守るために、静かに続いていくのだった。
【校門前・朝】
「おはよう、今日も元気そうだね」
アキトは軽く頭を下げ、通学する生徒たちの肩にそっと手を置く。
「昨日の課題、わからないところあったら、いつでも聞いてね」
一人の女子生徒が小さくうなずき、恥ずかしそうに笑う。
別の男子生徒には、
「忘れ物がないか確認してね。落ち着いて行動すれば、いい日になるよ」
と、さりげなく声をかける。
誰もが無意識のうちに心をほどかれ、学校の空気がほんの少しだけ和らぐ。
アキトの声は優しく、しかし決して目立たず、彼の存在は安心感をそっと残すだけだった。
校門の外を歩く生徒たちの背中を見送りながら、アキトは静かに微笑んだ。
任務と日常が、今はそっと交わる瞬間だった。
――アキトの“ルートマスター”としての役目も、こうした小さな日常の中で、生徒たちの安全と未来を守るために、静かに続いていくのだった。
【校門前・朝・続き】
そして、生徒たちが全員校舎へと吸い込まれていくと、アキトは軽く帽子を下げ、静かにその場を離れた。
まるで最初から、そこにいなかったかのように――。
静寂が戻った校門前には、朝の光だけが柔らかく差し込み、日常の営みを静かに包んでいた。
アキトの存在は、生徒たちの背後で影のように守り続けている――その事実を、誰も意識することはなかった。
【生徒の皆さんへ】
・困っていることや、誰にも言えない悩みがあるときは、一人で抱え込まないでください。
・保健室、職員室、生徒相談室でいつでも相談できます。
・メール、電話、匿名メモでの相談も受け付けます。
相談窓口(24時間受付)
電話:-*
メール:***@higashigaoka-jhs.jp
困ったときは、遠慮せず頼ってください。あなたの声は、必ず誰かが聞いてくれます。
紙の下端には、小さな文字でこう追記されていた。
「※相談内容は秘密厳守。緊急の場合はすぐに警察や学校と連携します。」
その一文が、悩みを抱える生徒たちへの、ささやかな安心の印として添えられていた。
【玲探偵事務所・夕方】
夕暮れの光が窓から差し込み、机の上の資料を淡く照らしていた。
玲は椅子に腰を下ろし、深く息をつく。
「……結菜も、舞も。少しは安心してくれるといいんだけど」
沙耶が窓際でブランケットを肩にかけながら答える。
「玲さん、でも私たちが動いたことで、少しは変わったはずです。あの子たちの心に、今、光が差している」
アキトは窓の外を見つめ、静かに呟く。
「影の中で支えてきたけど、これで表の世界に一歩出られる。小さな日常が戻る瞬間だ」
奈々はディスプレイの前から顔を上げ、微笑む。
「情報も整理できたし、あとはこの日常を守るだけですね」
舞はスケッチブックを抱きしめ、つぶやいた。
「結菜……見守ってくれてるかな。私たち、頑張ったんだよね」
玲は立ち上がり、皆を見渡して静かに言う。
「終わったわけじゃない。けど、今日という日は、確かに前に進んだ――」
外では、校庭のブランコがゆらりと揺れ、夕暮れの風が校舎を撫でていく。
小さな光が、確かに影の隙間から差し込んでいた。
【玲探偵事務所・夕暮れ】
玲はファイルに目を落としながら、静かにペンを持ち上げる。
「……まだ、整理しきれない資料が残ってるな」
アキトが肩越しに覗き込み、軽く笑う。
「玲さん、そんな真剣な顔しても、コーヒー飲みながらの方が捗りますよ」
玲は顔を上げ、軽く眉をひそめる。
「……まだ午前中じゃないのに、コーヒーの話か」
アキトはデスクの端に手をつき、にやりと笑う。
「午前か午後かは関係ないですよ。仕事の合間には息抜きが必要です」
玲は小さくため息をつき、ペンを置く。
「……まあ、君がそう言うなら、少しだけ付き合おうか」
アキトは机の椅子を引き、マグカップを手に取りながら、
「じゃあ乾杯。今日も無事に終わったな」
玲は苦笑混じりにカップを手に取り、二人で軽くぶつける。
「……無事って言える日が、こんなに嬉しいものだとは思わなかったな」
アキトは笑みを残しながら窓の外を見やり、
「まだまだ事件は続くかもしれませんけど、こうして一息つける瞬間も大事ですよね」
玲も窓の外を見つめ、静かに頷く。
夕暮れの光が二人を包み、今日という日が、少しだけ長く、温かく感じられた。
【分析室・午後】
奈々は画面に集中しながら、指先でデータを次々に切り替えていく。
「ふぅ……やっと、あのSNSの解析が終わった」
アキトが入口から軽やかに現れ、肩越しに覗き込む。
「お疲れ様、奈々。まだ眼力残ってる?」
奈々はくすっと笑い、キーボードを軽く叩く。
「残ってますよ。あなたこそ、何しに来たんです?」
アキトは机の端に腰をかけ、手を広げて見せる。
「いや、ただ遊びに来た……わけじゃないですよ。報告のチェック係です」
奈々はモニターから目を離し、彼に向かって軽く頭を振る。
「チェック係? 毎回そう言って、ただコーヒー飲みに来るんじゃないですか」
アキトは笑みを浮かべ、モニターの隅に置かれたマグカップに手を伸ばす。
「まあ、半分はそうですね。でも、残り半分は……この部屋の雰囲気、誰かと共有したかっただけです」
奈々は肩をすくめて苦笑する。
「……だったら、もう少し静かにしてください。集中できません」
アキトは軽く手を挙げ、控えめに笑う。
「了解。でも、集中しつつ、ちょっとくらいおしゃべりしてもいいじゃないですか」
奈々はモニターに視線を戻しつつも、心なしか微笑んでいた。
「……じゃあ、ほんの少しだけ。データの海に浸かりながら、お話相手してあげます」
アキトは満足そうに頷き、二人の小さな会話が冷たい分析室に柔らかな空気を運んだ。
【裏路地・午後】
アキトは花壇の土に目を落とし、ジョウロから水を静かに注ぐ。
水滴が土に吸い込まれ、葉の先端にきらりと光る。
「……こういう時間も、悪くないな」
背後から声がした。アキトは振り返り、微笑む。
「お疲れさま。こんなところで何してるんだ?」
奈々が身を乗り出して覗き込む。
「植物に水やりですか? それとも、忍びの訓練?」
アキトは軽く肩をすくめ、ジョウロを置く。
「両方……かな。でも、本当に必要なのは、こうして静かに見守る時間かも」
奈々は腕を組み、少し笑みを浮かべる。
「見守るって……まさか、誰かの秘密任務ですか?」
アキトは口元にわずかに笑みを残す。
「秘密任務というよりも、ただの平和な午後です」
奈々はくすっと笑い、土の匂いを深く吸い込む。
「平和な午後か……珍しいですね、アキトさんらしい」
二人の間に、ほんの少しの沈黙。だがそれは、互いに安心できる時間の証だった。
水をやり終えたアキトは、軽く手を振って立ち上がる。
「さあ、次は事務所に戻るか。午後の仕事が待っている」
奈々はジョウロを片付けながら、笑みを残してうなずく。
「はい、ついて行きます」
花壇の緑と午後の光が、二人の背中を柔らかく包み込んだ。
【港・午後】
沙耶は海風に髪を揺らされながら、カフェの紙コップを手にゆったりと座っていた。
潮の香りと、屋台の焼きそばの香ばしい匂いが混ざり、夏の終わりを感じさせる。
「おや、沙耶。ひとりでのんびりか?」
アキトが軽やかに歩み寄る。
「……アキト。驚かさないでよ」
沙耶は小さく苦笑し、カップを少し差し出す。
「どうぞ、コーヒーでも」
アキトは受け取り、軽く一口。
「……うん、悪くない味だ」
沙耶は微笑みながら、砂浜を見つめる。
「変装も一段落したし、こうして海を眺めるのも久しぶりね」
アキトはベンチの端に腰を下ろす。
「うん。戦いのあとには、こういう時間も必要だ」
沙耶は肩をすくめて、からかうように言った。
「ほんとに、あなたってどこでも馴染むのね。忍者みたい」
アキトは軽く笑い、紙コップを差し出す。
「忍者……か。まあ、多少はね。でも今日はただの午後の散歩だ」
二人の間に柔らかな沈黙が流れる。潮風と波音だけが、穏やかに時間を刻んでいた。
そして沙耶は、小さく笑みを浮かべ、夏の余韻を噛みしめるように目を細めた。
【報道局・明け方】
藤堂は椅子に深く腰掛け、目の前のモニターに映る映像を黙々と確認していた。
編集室には、彼のキーボードを叩く軽やかな音だけが響く。
「おはよう、藤堂。まだ仕事中か?」
背後からアキトが現れる。
「……ああ、朝までかかるかと思ったけど、なんとか助かったよ」
アキトは机の端に軽く手を置き、にやりと笑う。
「そりゃ良かった。頑張りすぎもほどほどにな」
藤堂は少し肩をすくめ、笑みを返す。
「お前に言われなくても……でも、こうして見守ってくれてると、やっぱり少し救われるな」
アキトは肩をすくめ、軽く頭を下げる。
「まあな。ニュースを届けるってのも立派な任務だからな。お前は今日も世界を動かしてる」
藤堂はパソコンの画面に目を落としながら、わずかに肩の力を抜く。
「……ありがとう、アキト。助かったよ」
編集室には再び、淡い蛍光灯の光と、静かなキーボードの音だけが戻ってきた。
事件も報道も日常も――すべてが少しずつ前に進んでいることを、二人は静かに感じていた。
【公園・午後】
舞は枯れ葉を指先でそっと弾きながら、スマホの画面に目を落としていた。
「……結菜のこと、忘れられないよね」
背後から、アキトが静かに近づき、ベンチの隣に腰を下ろす。
「そりゃ、忘れられるわけないよな。でも、少しずつ前に進むしかない」
舞は小さくうなずき、スマホを握りしめた手をほどく。
「うん……でも、まだ怖いんだ。あの時のことを思い出すと、胸が苦しくなる」
アキトはベンチ越しに肩をすくめ、軽く微笑む。
「無理に忘れようとしなくていい。怖いって気持ちも含めて、全部受け止めるしかない。俺もそばにいるから」
舞はわずかに笑みを返し、深呼吸をひとつ。
「ありがとう……アキト」
二人の間に、ほんの少しだけ温かい静けさが流れる。
秋風が再び頬を撫で、落ち葉が舞い上がる。
過去の影はまだ消えないけれど、それでも――希望は、確かに足元にあった。
【結菜宅・夕方】
居間の窓から柔らかな夕陽が差し込み、仏壇の上に置かれた写真立てや花瓶を金色に染めていた。
舞はそっと足を止め、手を合わせる。
「結菜……」
背後からアキトが静かに歩み寄り、舞の隣に腰を落とした。
「一緒に手を合わせよう」
二人は並んで両手を組む。
深く息を吸い、そしてゆっくりと吐く。
沈黙の中、窓から差し込む夕陽だけが、室内を優しく包んでいた。
舞が小さな声でつぶやく。
「……少しだけ、安心した。こうして、話せる人がそばにいると」
アキトは軽くうなずき、優しく言った。
「結菜も喜んでると思う。君の気持ちも、ちゃんと届いてる」
その時、リビングの隅から、結菜の両親がそっと現れた。
母親は目に涙を浮かべながら、二人に向かって静かに言った。
「……ありがとう、舞、アキト。あなたたちが来てくれて、心から感謝しています」
父親も優しくうなずき、微笑みを添える。
「本当に、ありがとう。結菜もきっと安心してると思う」
二人は仏壇の前でしばらくの間、静かに手を合わせていた。
沈む夕日が部屋を橙色に染め、過去の悲しみを少しだけ柔らかく包み込んでいく。
【中学校・放課後】
校庭のフェンス越しに夕日が差し込み、赤く染まった運動場には子どもたちの笑い声が響く。
舞はベンチに座り、ノートに何かを書き込んでいた。
「……ふう」
と、ため息をつく舞の肩越しに、ふらりとアキトが現れる。
「お疲れ、舞。まだ課題やってるのか?」
舞は顔を上げ、にっこり笑う。
「アキト、来るなら手伝ってよ」
アキトは軽く肩をすくめ、ベンチの隣に腰を下ろした。
「まあ、君の集中力にはかなわないけどな。ヒントくらいなら出せる」
舞がくすっと笑い、ペンを握り直す。
「じゃあ、お願いします」
二人の間に、ささやかな時間が流れる。
校庭の遠くで遊ぶ生徒たちの声を背景に、過去の事件の影は薄れ、日常の柔らかな光が二人を包んでいた。
【舞・あとがき】
秋風が校庭の木々をそっと揺らす午後、舞はベンチに座り、手の中の結菜のスマホを見つめていた。画面には、もう二度と動かせない過去のやり取りや、最後のメッセージが静かに映る。
「結菜……本当に、色んなことを伝えたかったんだね」
小さな声でつぶやき、舞は指先でスマホの端をそっと撫でた。胸にぽっかりと開いた空虚と、同時に結菜の意志がまだ自分の中に生きている感覚。悲しさだけではなく、少しの強さと温かさも残っていた。
ふと背後に気配を感じる。振り返ると、変装を解いたアキトが穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「舞、気負わなくていい。結菜の思いは、もうちゃんと届いてる」
舞は小さく笑みを返す。
「うん……ありがとう、アキト。結菜のこと、忘れない」
空に舞う枯れ葉を見上げながら、舞は小さな決意を胸に刻む。結菜の残した“真実”と“声”を、自分の中で生かし続けることを――。
街は再び静寂を取り戻し、二人の足音だけが、柔らかい秋の光の中に溶けていった。




