86話 「忘れられない友へ」
登場人物一覧
◆ 舞( まい)
地方中学校の中学生。亡くなった親友・結菜の事件を追う繊細で真面目な少女。
◆ 結菜
舞の親友。学校のトイレで亡くなる事件の被害者。
◆ アキト
玲のチームのメンバー。変装の名人で、弁当配達員や清掃員などに変装して潜入調査を行う。
◆ 玲
探偵事務所のリーダー。冷静で分析力に優れる探偵。
◆ 橘 奈々(たちばな なな)
玲のチームの情報分析担当。SNSやデジタル証拠の解析が得意。
◆ 沙耶
玲のチームのメンバー。人間観察に長け、感情面のサポートを担う。
◆ 長峰
市立東が丘中学校の教頭。事件の黒幕として浮上。
◆ 藤堂
匿名で取材を続ける報道記者。事件報道を担当する男性。
【2025年9月12日(金) 午後5時47分/地方中学校・旧校舎 北東側女子トイレ】
放課後のチャイムが鳴り終わってから、およそ30分が経っていた。
夕焼けが赤く窓を染める旧校舎は、まるで時間から取り残された遺跡のように、静まり返っていた。
廊下に足音はない。
水道の蛇口からぽたり、ぽたりと水音だけが響く。
北東側、女子トイレ。
古びた扉がわずかに開いており、そこからうっすらと、人の気配が滲み出ていた。
「……っ、誰か……っ」
かすれた声が、かすかに漏れる。
個室の一つ、床に広がるのは水ではなかった。
血だ。
その中央で、制服姿の少女がうずくまっている。白いブラウスは、胸元から赤く染まっていた。
口元に浮かんだ微笑みは、誰にも届かないまま消える。
トイレの鏡には、指でなぞったような血の文字が一つ──
「あの子のうわさを、信じた?」
次の瞬間、照明が一度だけ、チカリと明滅した。
そして再び、旧校舎は沈黙に戻る。
第1の事件は、静かに幕を開けた。
【2025年9月13日(土) 午前9時02分/玲探偵事務所】
秋の気配がわずかに感じられる朝。
窓の外では通り雨が路面を濡らし、光が反射してまぶしかった。
商店街の通行人もまばらで、街はまだ、土曜日の静けさを引きずっていた。
玲探偵事務所の扉が、軋むような音を立てて開いた。
「……あの、すみません」
現れたのは、制服姿の少女。
肩までの髪をピンで留め、目の奥に疲れたような、でも消えていない意志の光を宿していた。
彼女の名前は――三枝舞。
昨日、地方中学校で起きた事件の「被害者」とされる結菜の親友だ。
応対に出た沙耶が、すぐに柔らかく声をかける。
「いらっしゃい。玲に話してみる?」
うなずいた舞は、濡れた靴を脱ぎ、差し出されたタオルを受け取る。
わずかに震える手。
だが、視線だけは、まっすぐだった。
応接テーブルの向こう、書類を整えていた玲が顔を上げる。
「三枝舞さん……だったね。どうぞ、話してくれるかな」
少しの沈黙のあと、少女は口を開いた。
「……結菜は、自殺なんかしてない。そう言い残して、死ぬような子じゃないんです。
なのに、学校も警察も、みんな簡単に納得してる。おかしいと思わないんですか……?」
玲は、机の上のタブレットを指先でなぞり、モニターに切り替える。
地元ニュースでは、昨夜の事件が“事故”として短く扱われていた。
「私、調べてほしいんです。あのトイレで、結菜に何があったのかを……。
“噂”のことも……関係あるかもしれません」
玲はしばらく黙って舞を見つめ、やがて、うなずいた。
「分かった。依頼として正式に受けよう。……これは、早めに動いた方が良さそうだな」
その言葉と同時に、奥の部屋で奈々がノートパソコンを立ち上げ、沙耶がそっと舞の隣に座った。
アキトの姿はまだない。だが――玲の目は、すでに次の一手を考えていた。
中学校で起きた、不可解な死と“噂”の影。
それはまだ、序章にすぎなかった。
【2025年9月13日(土) 午前10時21分/玲探偵事務所・会議室】
橘奈々は複数のディスプレイの前で、指先を止めることなく動かしていた。
細かく動く視線の先には、匿名掲示板のスレッド履歴、SNSのトレンドグラフ、そして地図アプリの位置履歴分析。
ひとつひとつの点が、少しずつ線を描こうとしていた。
「……投稿主、複数いるように見えて、実際は一人か二人でループ投稿してるわね。
時間帯の偏りと文体にクセがある。これ、煽る目的でやってる可能性高い」
彼女の分析に、傍らの沙耶がうなずいた。
「でも、それを真に受けて信じちゃう子もいる……結菜さんみたいに。
こういうの、ただの“噂”で済ませられないわね」
そこへ、ドアが静かに開いた。
玲が入ってくると、会議室の空気が引き締まった。
背後には、道具箱を肩に下げたアキトも立っている――だが、その格好はいつもの黒ジャケットではない。
ごく普通の、近所の弁当屋の配達員の姿だった。
「――全員、そろってるな」
玲は壁際のホワイトボードに歩み寄り、黒ペンでざっと学校の見取り図を描いた。
「事件が起きたのは旧校舎、北東側の女子トイレ。
だが“噂”は、それより前から広がっていた。
ここに何かある。生徒たちが恐れて口を閉ざしてる何かが」
ペン先を止め、後ろを向いて話し続ける。
「奈々、引き続きSNS上の動向とログの解析を。
沙耶、舞と一緒に生徒の聞き取りを進めてほしい。表情や言いよどみ――そういう小さなサインを逃すな」
玲の視線がアキトに向く。
「アキト。お前は“弁当屋の兄ちゃん”として午前中は配達で入れ。
午後には生徒に扮して潜入。あえて“あの話を知ってる風”にふるまえ。
所々で情報を拾い、煽っている存在をあぶり出せるはずだ」
アキトは小さく笑い、工具箱を肩に担ぎ直す。
「了解。“普通のお兄ちゃん”は任せてくれよ」
玲は最後に、一枚のプリントをテーブルに置いた。
そこには、複数の生徒と教員の名前、そして“結菜の残した記録”と記されたデータの断片が記されていた。
「――この事件、“偶然”じゃない。
むしろ、“仕組まれたような形跡”がいくつも見える」
玲の低い声に、誰もが無言でうなずいた。
外では雨がやみ、曇り空からわずかに陽が差し始めていた。
だが、その光の下で、学校という舞台にまた“次の幕”が上がろうとしていた。
【2025年9月13日(土) 午前11時15分/市立春野川中学校・職員室】
重い沈黙が、職員室の空気を押しつぶしていた。
蛍光灯の光だけが静かに机の上の書類を照らす中、教員たちは誰も言葉を発さなかった。
無理もない。
昨日の“あの件”――北東側旧校舎女子トイレで発見された異常と、それに続く匿名の通報――が、
すでに市教委にも報告され、校内対応を越えた騒ぎになりつつあるからだ。
教頭の長峰康成は、誰よりも深く椅子にもたれかかっていた。
額にはかすかに汗が浮かび、手元の書類をじっと睨んでいる。
その視線の先には、印刷された「結菜」の名前と、生徒指導記録のコピー。
「……警察の介入は、まだ避けられる状況です。だが、報道が先行すれば終わりだ」
と、教頭の隣で話すのは生活指導担当の南先生。
若手でまじめだが、今回の件に関してはまだ動揺を隠せていない。
「匿名掲示板やSNSの情報、もう拡散され始めています」
「“呪われたトイレ”とか、“結菜が戻ってきた”とか……」
その言葉に、場の空気がさらに沈む。
そんな中、ドアが控えめにノックされた。
入ってきたのは、校長に案内された一組の男女――玲と沙耶だった。
「ご挨拶が遅れました。玲探偵事務所の玲と申します。
市の依頼を受けて、校内調査に協力することになりました」
玲は静かに頭を下げ、沙耶もそれに倣う。
教員たちが視線を交わすなか、長峰が低く声を発した。
「……この件は、生徒たちに余計な不安を与えず、速やかに収束させたい。
“外部”に調査を任せること自体、異例中の異例だと理解していただきたい」
「ええ、もちろん」玲は短く答える。「私たちの目的は、“恐怖”ではなく、“事実”を確認することです」
その言葉に、誰かが小さく息をついた。
春野川中学校――表向きは静かな地方の公立校。
だがその内側では、噂が毒のように広がり、生徒たちの心を蝕み始めていた。
玲は職員室の窓の外、校庭で走る生徒たちに一瞥を送りながら、心の中で呟いた。
「始めるか。静かな炎のなかにある、“本当の声”を拾うために」
【2025年9月16日(火)午前11時28分/市立春野川中学校・職員通用門前】
弁当箱を詰めた大きな保温ケースを両腕で支えながら、アキトは職員通用門をくぐった。
白いキャップに青い作業エプロン、軽く汗をにじませた額をぬぐいながらも、表情はにこやか――
完璧な「近所の弁当屋の兄ちゃん」になりきっていた。
「毎度どうもでーす!」
笑顔で声を張り、挨拶を交わすと、門のそばで警備をしていた年配の守衛が顔をほころばせる。
「ああ、いつもご苦労さん。あんた、ほんと元気だねぇ」
「いやー、昼前は配達ラッシュですからね。こちらの先生方には、うちの唐揚げ弁当、人気で助かってます」
何でもない日常のやりとり。
だがアキトの視線はすでに周囲を走査していた。
(監視カメラの死角……通用門横の茂み、あそこからなら構内裏手の様子が見える)
(昨日の報告書によると、“第二の事件”があったのは放課後の理科準備室前――
だとすれば、出入りを確認できる別ルートがあるはずだ)
笑顔の裏で情報を組み立てながら、アキトは歩く。
裏手の通路を抜け、職員玄関の脇にケースを置くと、
「あ、すみません、注文の追加ですか?」と現れた事務員に明るく応対。
だがそのすぐ後、アキトの動きはごく自然に切り替わった。
人目のない物陰へ入り、小型のボイスレコーダーとピンマイクを確認。
そして、制服の入ったリュックを取り出すと――わずか数分で変装を終えた。
「……午後からは“生徒”か」
鏡に映るのは、黒髪をきっちり整え、制服を着崩さず着た“転校生風の少年”。
名札の名は“南アキヒロ”。
これが、玲から渡された今回の潜入用偽名だ。
「さてと――昼休みの校内観察と、放課後の通路確認、やることは山積みだな」
そう呟き、アキトは校舎内へと溶け込んでいった。
まるで、何事もない一日を始める一人の“生徒”のように。
だが――
その背後では、まだ誰も知らない「第三の波」が、じわじわと校内に広がり始めていた。
【2025年9月16日(火)午後7時42分/市立春野川中学校・旧校舎2階・第二理科室】
甲高い悲鳴が、静まり返った旧校舎の廊下に反響した。
「きゃあああっ!!」
その声は夜間巡回中だった警備員の耳にも届いた。――いや、正確には、警備員の姿をしたアキトの耳に、だ。
制服の上から支給された青いベスト、胸元には「夜間警備員・三谷」と書かれたネームプレート。
懐中電灯を片手にしていたアキトは、悲鳴が聞こえた瞬間、即座に走り出していた。
「旧校舎、二階だな……!」
長い廊下を踏み鳴らすように駆け抜ける。
午後7時を回ったこの時間、校内にいるのは清掃員と数名の教職員だけのはずだった。
(“誰か”が鍵を使って侵入したか? いや、鍵は……昼に確認したときはまだ保管庫に――)
走りながら、アキトは昼間の動線を即座に頭の中で再構築する。
そして、第二理科室の前にたどり着くと――
バンッ、と勢いよく開いた扉の奥、室内には呆然と立ち尽くす女生徒が一人。
その視線の先には――机に伏せられたまま、動かない男子生徒の姿があった。
「おい、大丈夫か!」
アキトは瞬時に状況を把握し、生徒に声をかけながら近づく。
被害者は三年生、吉田圭吾。
机に顔を伏せたまま、意識がなかった。右手にはスマホが握られていた。
「……脈はある。意識は……失ってるだけか?」
毒物反応を疑い、アキトはすぐに持参していた簡易検査スティックをポケットから取り出した。
水筒の中身を採取し、反応を確認――わずかに赤変。
(微量の睡眠導入剤……いや、違う。これは学校内でも調達可能な成分だ)
後ろで震えていた女子生徒に、アキトはやや低く落ち着いた声で言う。
「君、名前は?」
「……み、三年の、佐野……美優です……。わ、わたしが来たとき、もう……」
「わかった、大丈夫。彼は命に別状ない。外に出て、職員室へ連絡を。すぐに救急車を手配するんだ」
アキトの冷静な口調に、少女は何度も頷きながら廊下へ駆けていった。
アキトは懐中電灯の光で室内をくまなく照らす。
誰かが意図的に仕掛けた形跡――そして、机の隅に残された折り畳まれた紙切れに気づいた。
開くと、そこには短く、手書きでこう書かれていた。
「結菜は――許してなんて言ってなかった」
アキトの眉がわずかに動く。
(……これは、明らかに“見せたい”誰かが置いたものだ)
そのとき、ポケットの中の無線が軽く震えた。玲からだ。
「アキト、現場の映像を確認した。美優の前に、誰かが理科室に入っている。姿は不明。
例の紙とスマホ、証拠として回収を」
「了解。……だが、これは“第三のメッセージ”だな。結菜を巡る“事件”はまだ終わっていない」
そう呟いたアキトの眼差しは、夜の校舎の奥――
そのさらに先に潜む、真相へと鋭く向けられていた。
【2025年9月16日(火)午後9時12分/玲探偵事務所・分析室】
「……これは、仕組まれてる。完全に」
ディスプレイに映る旧校舎の映像を睨みながら、橘奈々が低く呟いた。
その後ろでは、玲が腕を組み、じっと画面を見据えていた。
「詩乃、現場に向かってくれ」
玲――冷静沈着な男の声は、状況を整理しながらもどこか鋭さを帯びていた。
詩乃は無言でうなずき、銀色の検査キットを携えて静かに立ち上がる。
「分析は任せて。中途半端な“噂”が、ここまで人を動かすなんて、面白くもない」
玲は頷き、モニターに映るメモを指さした。
「“結菜は――許してなんて言ってなかった”。
誰かが彼女の名を使って、第二、第三の事件を起こそうとしている。
これは明らかに仕組まれた“流れ”だ」
彼の声は低く落ち着いていたが、その目は冷たく燃えていた。
【2025年9月17日(水)午後3時20分/市立東ヶ丘中学校・裏庭ベンチ】
昼休みの終わりを知らせるチャイムが、校舎の中からかすかに響いた。
人目につきにくい裏庭のベンチに、三枝舞はぽつんと座っていた。
セーラー服のポケットに突っ込んでいた手をそっと出す。
その手のひらには、小さなスマートフォンと、付箋が一枚。
――「見つけたら、お願い。みんなに、本当のことを。」
亡くなった結菜のスマホ。
指紋認証は解除されていたが、画面には複雑なロックパターンがかかっている。
舞は目を伏せ、唇を噛んだ。
「そのまま、自然にしてて」
横に誰かが腰掛ける気配。
視線を上げると、作業帽を深くかぶった青年が微笑んでいた。
――弁当屋の配達員。けれどその声に、舞はすぐ気づいた。
「……アキトさん?」
「声、出さない。カメラがある。校舎の影でなら、少しは話せる」
彼の声は静かだったが、どこか張り詰めたものを含んでいた。
アキトは、腰をかがめてベンチ下の落ち葉を払うふりをしながら、小声で続けた。
「第二理科室で“何か”が見つかった。
詩乃さんが今、中に入って調査を始めてる。
毒物の可能性がある。……けど、それだけじゃない」
舞は驚きの表情でアキトを見つめた。
彼はそれには目もくれず、一定のリズムで作業を続けていた。
「“事故”じゃない。誰かが動いてる。結菜さんの死と、昨日の件――繋がってる」
「……私、スマホのロックを……」
震える指先で、舞は結菜のスマートフォンをアキトの方へそっと差し出した。
「まだ開けられてない。でも、中に何か……何かある気がして」
アキトは頷きながら受け取り、無線イヤホンのスイッチを入れた。
「奈々に回す。パターン解析は得意分野だ。君はそのまま、何もなかったように戻って」
そう言って彼は、何気ない笑顔を浮かべながら立ち上がった。
「こっちは任せて。……昼はもう終わりみたいだ」
そしてアキトは、弁当箱の空ケースを肩にかけ、校舎の陰へと消えていった。
⸻
【同時刻/市立東ヶ丘中学校・旧校舎2階・第二理科室】
静まり返った旧校舎の廊下を、桐野詩乃は音も立てずに歩いていた。
制服の上に白衣を羽織り、ポーチから金属製の検査キットを取り出す。
第二理科室のドアをそっと押すと、きしむような音が返ってきた。
薄暗い室内に入り、床に残る白いチョークの粉、棚に散らばる薬品瓶、
そして――前日の事件の痕跡が、まだそのまま残っていた。
詩乃は手袋をはめ、空気中の粒子と粉末の採取を始めた。
毒性反応テスターの針が、微かに振れる。
「やっぱり……普通の薬品じゃない。
これ、仕込まれてたものね」
小さく呟く声に、冷静さと怒りが混ざっていた。
「二人目が出る前に、止める。……間に合わせるしかないわね」
彼女の手は迷いなく動き、分析装置が静かにデータを蓄積していく。
【2025年9月17日(水)午後4時02分/玲探偵事務所・分析室】
カタカタカタ――
橘奈々の指が、キーボードの上を軽やかに、しかし途切れることなく走っていた。
複数のディスプレイには、ロック画面の再構築パターン、クラウド同期の試行ログ、そして暗号化解除ツールの進捗が表示されている。
その中央に映るのは、三枝結菜のスマートフォンのインターフェース。
「パターンロックは変則型。感覚で引いた形ね……数字との連携はなし、指の圧力も低い。生前、誰かに“見られる”ことを意識してた……」
独り言のように呟きながらも、その声にはいつもの冷静な調子があった。
奈々は椅子に背を預け、モニターの一つに向けて手を伸ばす。
指でスライドした線が――複雑な軌道を描いて、ようやく緑の点灯と共に画面が開いた。
「……開いた」
その瞬間、背後のインターホンが低く鳴った。
映像モニターに映る、黒いロングコート姿の男。
「……安斎さん?」
彼女が静かに玄関ドアのロックを解除すると、影班・安斎柾貴が一歩、部屋の中へと入ってきた。
「スマホ、受け取った。アキトの指示で、届けに来た」
彼は無駄な挨拶をせず、手にしていたセキュリティケースを奈々の机の上に置く。
そこには、結菜のスマートフォン本体と、充電バッテリー、それにSIMトレース用のサブユニットがきっちり収められていた。
「それと、詩乃から伝言。第二理科室で“数種類の毒物反応”が出たらしい。
揮発性と経口性、両方が混在していた」
「……多層的に仕掛けてるってことね」
奈々は顎に指を当て、スマホの内部フォルダを開いた。
メモアプリ、ボイスメモ、未送信のメッセージ。
「ログを見ると……死の前日に下書きされていたものがある。宛先は……舞、ね」
ディスプレイには、結菜の書きかけのメッセージが映し出される。
⸻
『舞へ
たぶん、これを見てる時、私はもう――
でも、私は諦めてないよ。あの人たちがしたこと、全部……』
⸻
「……この子、わかってたんだ。自分が狙われてることも、記録を残す必要があるってことも」
奈々の眼差しがわずかに曇る。
だがすぐに彼女は視線を戻し、画面上の文字を一つひとつ、冷静に読み取っていく。
「この中に、“鍵”があるはず。玲さんに繋げる」
背後で静かに扉が閉まり、安斎の足音が遠ざかる。
そして部屋には再び、キーボードの打鍵音だけが響き始めた。
【2025年9月17日(水)午後5時19分/市立東が丘中学校・美術室準備室】
薄暗い準備室の中、乾きかけた油絵の匂いと、石膏像の石粉が混ざる独特の空気が漂っていた。
棚には画材やスケッチブック、使用されなくなった粘土の残骸が積まれ、夕暮れの光が窓の隙間から差し込んでいる。
その一角で、背筋をまっすぐ伸ばして立つ男がいた。
淡いグレーのスーツに、ネイビーのシャツ。胸ポケットにはペンと細身のスケッチ棒。
控えめな眼鏡をかけ、髪を七三に整えたその男は、まるで美術大学の講師のような落ち着きを漂わせていた。
――だが、その正体は「玲探偵事務所」潜入担当のアキトだった。
彼は壁に立てかけられた過去の生徒作品に視線を走らせ、誰もいない部屋で小さく独りごちる。
「……“あのモチーフ”が、こんな形で使われるとはな」
その時だった。
ガラガラ――。
準備室の扉が開き、入ってきたのは年配の男性教師。
髭をたくわえ、手には出席簿を抱えている。美術担当の間宮先生だった。
「君、何してるんだ?」
アキトはゆっくりと振り向き、微笑を浮かべる。
「ああ、すみません。間宮先生ですね。
本日、教育委員会からの依頼で来た“臨時のデッサン講師”、高井です。中等美術教育の調査も兼ねてまして」
彼はスーツの内ポケットから、見慣れないクリアファイルを取り出した。中には、精巧に作られた派遣依頼書とIDパス。
間宮がそれに目を通し、やや面倒そうに頷く。
「ああ、君か。連絡は受けてる。急な話だったが、こちらも助かるよ。
ちょうど来週、コンクール出品の最終チェックがあるもんでな」
「お役に立てれば光栄です。……ところで、美術部の子たち、最近どんなテーマを?」
さりげなくアキトが探ると、間宮は机の上の資料を見ながら答える。
「“心の風景”ってやつだ。抽象的すぎて困ってるが……三枝舞って子なんかは、なかなかいい線いってたよ。友達のことでいろいろあったそうだが、気丈に描いてる。…亡くなった結菜って子の影響もあるのかな」
アキトの目が一瞬だけ鋭くなる。
「三枝舞さん……なるほど」
間宮は首を傾げたが、アキトはすぐに柔らかな笑みに戻る。
「準備室、少しお借りしても?あまり外には顔を出さずに、あくまで“静かに”観察させていただきたいと思いまして」
「構わんさ。こっちも余計な口出しされるより楽だからな」
軽く手を挙げて間宮が去ると、扉の向こうに再び静寂が訪れる。
アキトは資料棚から一冊の古いスケッチ帳を手に取る。
表紙には、かすれて読めない名前――しかし、その中に挟まれたページの一つに、見覚えのある“モチーフ”があった。
それは、三枝結菜が生前描いていた「鏡の中の自画像」。
「……ここにも、“あの痕跡”が」
アキトはそっとページを閉じ、ポケットのイヤホンを耳にあて、玲に通信を送る。
「こちらアキト。準備室にて接触完了。……絵に、“コード化されたメッセージ”が仕込まれてる可能性あり。今夜、さらに調べてみる」
返答は静かに入る。
『了解。……詩乃の検査結果も届いた。動くぞ、アキト』
アキトの笑みが、ほんのわずかに鋭さを帯びた。
【2025年9月17日(水)午後10時37分/市立梶ノ木中学校・美術室準備室】
校内の灯りはすでに落ち、非常灯の緑がかすかに廊下を照らしていた。
正門の警備員が最後の見回りを終えた頃、旧校舎側の窓がわずかに軋んで開いた。
そこから忍び込んだのは、玲探偵事務所の調査員――アキト。
変装を解き、漆黒の作業ジャケットに着替えると、彼はライトを極限まで絞り、音を立てずに美術室準備室へと進んだ。
「よし、警備記録の時間差も確認済み。8分は動ける」
アキトは事前に見つけていた古いスケッチブックを開く。
それは結菜が描いたとされる「心の風景」。だが、ページの端には目視ではわからないかすかな数字の列が塗りの中に潜んでいた。
彼は持参した可視光フィルター付きカメラでスケッチを撮影し、暗号分析アプリに転送する。
「やっぱりな……画像のRGB階調に変化。絵の中に“埋め込み型コード”。しかも、これ…ハッシュ化されたURL?」
モニターに浮かび上がったのは、匿名アップロード型のファイル保管先――
そして、そこには一枚の証拠画像が眠っていた。
『誰かに追い詰められている結菜のメッセージ写真』
画面の端に写るのは、職員用のネームプレート。
薄暗い中でも、それが「長峰」と読めた。
アキトは息を呑み、すぐに玲たちへデータ転送を開始する。
「これで決まりだ。……でも、何で結菜は、こんな方法を?」
そのとき――背後から、かすかな足音が近づいた。
⸻
【同日・午後10時48分/市立東が丘中学校・美術室】
「……アキト、そこにいるの?」
美術室の戸が静かに開かれ、制服姿の舞が現れた。
驚いたアキトが振り返ると、舞は薄く笑い、懐からスマホを取り出す。
「玲さんに聞いたの。……アキトさんが、今日ここで調べるって」
「連絡入ってたのか。……危ないぞ、舞。夜の校舎は鍵も施錠も操作されてる。見つかれば補導されかねない」
「……でも、あたし、逃げたくなかった」
震える声で、舞がスケッチブックを差し出す。
「これ、結菜が最後まで描いてたの。……ロッカーの奥に隠れてて、誰にも見せてなかった。
先生たちには“忘れ物”って言ってあるけど……本当は、あたしにだけ見せたかったんだと思う」
アキトはそれを受け取り、丁寧にページをめくる。
描かれていたのは、鏡の中の少女。
鏡の外では微笑んでいるが、鏡の内側の少女は、涙を流していた。
その右隅には、結菜のかすれた走り書き。
「見て。信じてくれる、誰かがいるなら」
アキトの喉が詰まる。
「……舞」
「結菜が、何をされてたのか……知りたい。でも、知ったら、もっと辛くなるのかなって……」
アキトはそっと舞の肩に手を置いた。
「知ることで痛みが増えることはある。……でも、“知らないまま”では、守れないものがある。
玲さんも、奈々さんも、俺たちは“守るために知る”。それが俺たちのやり方なんだ」
舞は小さく頷いた。
「ありがとう……」
アキトは再び通信を繋ぐ。
「こちらアキト。舞と接触、証拠の“原本”も受け取った。解析は進行中。……奈々の追跡と、詩乃の毒物鑑定の結果、頼む」
⸻
【同時刻/玲探偵事務所・分析室】
「受信完了。……このスケッチ、やっぱり“暗号アート”になってるわ。舞ちゃんの証言とも合う」
橘奈々はディスプレイに目を走らせながら、詩乃から届いた毒物検査のデータを重ねる。
「……両方、同じ“出どころ”の可能性高い。しかも職員室のロッカー、長峰の私物から“同一成分”の微量反応」
玲の声が静かに響く。
『アキト、あとは“直接聞く”だけだ。……長峰に』
【2025年9月18日(木) 午後6時41分/東が丘中学・旧校舎 地下備品室】
暗く、湿った空気が漂う地下の一角。蛍光灯のちらつく非常灯が、古びた机や棚の影を長く落としていた。
「来ると思っていたよ、君が。」
教頭・長峰健司は背を向けたまま、静かに口を開いた。スーツの上着は脱ぎ、ワイシャツの袖を折っている。背筋はまっすぐに伸びていたが、どこか追い詰められた者の気配が滲んでいた。
「やはり、あなたでしたか。」
低く落ち着いた声で答えたのは玲。背後には沙耶と舞が控えている。舞は手にしていたスマートフォンを固く握りしめていた。
「……私が結菜を殺したとでも?」
長峰がようやく振り向く。額に汗をにじませながらも、その目は冷静を保っていた。
「いいえ、あなたが“直接”手を下したとは言っていません。ただ、彼女を“死なせた状況”を意図的に作った」
玲の声に、舞がかすかに息を飲んだ。
「君たちは、何も知らない。あの子がどれだけ危うい立場にいたか。あの『写真』を投稿しようとしていたら、学校全体が炎上していたんだ」
「その“火”を握りつぶすために、火種ごと壊した。そういうことですね?」
静かに詰める玲の後ろから、パタンと扉が閉まる音がした。
「……!」
長峰が振り向くと、扉の前に立っていたのは、保守業者の制服を着た男――アキトだった。
「道具の交換、済ませましたよ。あとついでに録音も」
アキトが軽く胸元のインカムを叩く。
「おまえ……!」
長峰が一歩踏み出しかけた瞬間、アキトの表情が一変した。無駄のない動作で左足を引き、視線をそらさぬまま一言。
「……動かない方がいい。あと5秒で校内のWi-Fi経由で録音データがアップロードされる」
その言葉に、長峰はピタリと足を止めた。
「結菜さんのスマホのデータ。彼女が残した音声メモも復元済みです。SNSトラッキング、校内の監視映像、あなたの動きを裏付けるものもすべて。……もう、逃げ道はありません」
奈々の声が、玲のイヤーピースを通じて響いた。
「録音データ、報道局と保護者弁護士に送信完了」
沙耶が舞の肩をそっと抱く。
「あなたの親友の真実、ちゃんと伝わったよ」
舞は涙ぐんだまま、唇を引き結んだ。震えながらも前を見据えたその目は、確かに強さを湛えていた。
玲は静かに、長峰に言った。
「今度こそ、本当の“責任”を果たしてもらいます」
長峰はしばらくの間、誰にも聞こえないほどの小さな声で何かを呟いた。そして力なく崩れ落ちるように、その場に膝をついた。
【2025年9月19日(金) 午後6時00分/都内・民間放送局《ニュースアーク24》報道スタジオ】
照明が淡くスタジオを照らし、カメラの赤ランプが点灯する。
キャスター席に座る男の声だけが、落ち着いたトーンで流れた。
「本日取り上げるのは、市立東が丘中学校で発生した二つの事件についてです。事件の真相を追う中で、多くの声が消され、見過ごされてきました」
背後の大型モニターに映るのは、夕日に染まる校舎の映像。生徒たちの影がゆっくりと揺れている。
「被害者の一人、結菜さんはSNSでいじめの告発を試みました。しかし、その声は封じられ、やがて彼女は命を落としました。もう一人の被害者、翔太さんの死もまた、単なる事故ではありませんでした」
監視カメラ映像の一部がモニターに映り、教頭の長峰健司の姿が映る。
「内部告発と取材により、長峰教頭の管理体制の問題点が明らかになりました。職場内の圧力や過去の不祥事の隠蔽が絡み合い、事態は悪化していたのです」
モニターに映る匿名の関係者の声がかぶさる。
「学校の名誉を守るため、真実は闇に葬られそうになっていました」
音声が切り替わり、結菜さんのスマートフォンから復元された音声メモが流れる。
「……誰も聞いてくれないなら、私が伝えるしかない……」
声の震えが胸を締めつける。
「これらの情報は、民間の探偵事務所の調査により明るみに出ました。彼らは、事件を事故に見せかけようとする力に抗い、真実を掘り起こしたのです」
最後に、祈りを捧げる生徒たちの姿が映し出され、画面はフェードアウトした。
「私たちは、彼らの声を社会に届け続けます。ここに真実があります」
男の声は、どこか厳しく、そして静かな決意に満ちていた。
【2025年9月19日(金) 午前10時14分/市警本部・取調室】
窓もない灰色の部屋。
壁際に置かれた録音機器が、規則正しい回転音を立てている。
金属製の机の上には、長峰の震える手と、冷え切った紙コップの水だけがあった。
刑事の問いかけに、長峰はしばらく沈黙していた。
やがて、項垂れたまま、かすれた声で口を開く。
「……全部、俺のせいだ。
あの時、見逃せば良かったんだ。そうすれば……あの子は――」
視線は机の一点を彷徨い、言葉は自分の喉の奥で絡まった。
刑事が促すと、長峰は重く息を吐き、続けた。
「二年前の不祥事……俺の判断ミスだ。
あれで教育委員会からの信頼を失い、現場では監視の目が光るようになった。
もう二度と、失敗は許されない……そう言われた。だから……揉み消した。
見なかったことにすれば、学校の名誉は守られると思ったんだ」
机の下で、長峰の膝が細かく震えていた。
「でも、結菜が……SNSに書いた。
“あの人は知ってるのに、助けてくれない”って。
あのままじゃ……俺が終わる。学校も、俺も……全部終わる。
だから……止めるしかなかった」
刑事の眉がわずかに動いた。
長峰は、力なく笑った。
「正義なんて……現場にはない。
あるのは、数字と評判だけだ。俺は、それにしがみついて……」
言葉はそこで途切れ、部屋には録音機器の回転音だけが残った。
⸻
【同日午後/匿名報道】
《ニュースアーク24》の特集番組では、長峰の名前は出されなかった。
画面には、影のかかったシルエットと変えられた声が流れる。
「もう二度と失敗は許されない――そう言われていた。だから、真実を隠した」
ナレーションが続く。
「供述によれば、動機の背景には、過去の不祥事と組織的な圧力があったといいます」
映像は、薄暗い校舎の廊下、そして黒い封筒を机に置く誰かの手元に切り替わる。
名は伏せられ、ただ「教育関係者」とだけ字幕が出た。
その声も姿も、匿名のままだった。
【2025年9月21日(月)午後3時/市立東が丘中学校・体育館】
報道陣が体育館に集まり、フラッシュの音が途切れることなく響いていた。
壇上に立つ校長は、原稿を手に、重い沈黙ののち、深く頭を下げた。
「このたびの一連の出来事により、生徒および保護者の皆さまに多大なご心配とご迷惑をおかけしましたことを、心よりお詫び申し上げます」
その声は震えていたが、原稿から目を離さない。
脇には数名の教員が並び、顔を固くしてカメラのシャッター音に耐えていた。
最前列には、記者証を首から下げた男たちがずらりと並ぶ。
その中で一人、腕を組んだまま無言でメモを取る男がいた――藤堂だ。
彼の視線は、壇上の校長ではなく、その背後に置かれた長机へと向けられていた。
机には、生徒たちが描いたポスターや作文が無造作に置かれ、その一番上に――事件で名誉を傷つけられた結菜の名前が、薄く消されたまま残っていた。
校長が再び頭を下げた瞬間、藤堂は静かに立ち上がり、体育館の出口へ向かう。
彼は会見そのものよりも、“その後に流すべき映像”をすでに決めていた。
⸻
【同日午後5時42分/ニュースアーク24・編集室】
暗い編集室の中、藤堂はヘッドセットを耳にかけ、モニターの映像を切り替えていく。
机の上には、旧校舎の廊下を歩く足音だけを拾った音声ファイルと、匿名インタビューの映像。
「名前は出さない。だが、視聴者が“何があったか”を理解できるようにする」
モニターには、体育館での校長の会見映像の後、静かに結菜の笑顔の写真が映し出された。
その下には、淡い文字でこう書かれる。
――一人の声を、かき消してはならない。
藤堂は最後に送信ボタンを押し、椅子の背にもたれた。
外では夕暮れが街を赤く染め、ビルの谷間に夜の気配が忍び寄っていた。
彼の表情には、満足も怒りもなかった。
ただ、事実を世に送り出す者の、冷ややかな使命感だけが残っていた。
【2025年9月21日(月)午後3時/市立東が丘中学校・体育館】
報道陣が体育館に集まり、フラッシュの音が途切れることなく響いていた。
壇上に立つ校長は、原稿を手に、重い沈黙ののち、深く頭を下げた。
「このたびの一連の出来事により、生徒および保護者の皆さまに多大なご心配とご迷惑をおかけしましたことを、心よりお詫び申し上げます」
その声は震えていたが、原稿から目を離さない。
脇には数名の教員が並び、顔を固くしてカメラのシャッター音に耐えていた。
最前列には、記者証を首から下げた男たちがずらりと並ぶ。
その中で一人、腕を組んだまま無言でメモを取る男がいた――藤堂だ。
彼の視線は、壇上の校長ではなく、その背後に置かれた長机へと向けられていた。
机には、生徒たちが描いたポスターや作文が無造作に置かれ、その一番上に――事件で名誉を傷つけられた結菜の名前が、薄く消されたまま残っていた。
校長が再び頭を下げた瞬間、藤堂は静かに立ち上がり、体育館の出口へ向かう。
彼は会見そのものよりも、“その後に流すべき映像”をすでに決めていた。
⸻
【同日午後5時42分/ニュースアーク24・編集室】
暗い編集室の中、藤堂はヘッドセットを耳にかけ、モニターの映像を切り替えていく。
机の上には、旧校舎の廊下を歩く足音だけを拾った音声ファイルと、匿名インタビューの映像。
「名前は出さない。だが、視聴者が“何があったか”を理解できるようにする」
モニターには、体育館での校長の会見映像の後、静かに結菜の笑顔の写真が映し出された。
その下には、淡い文字でこう書かれる。
――一人の声を、かき消してはならない。
藤堂は最後に送信ボタンを押し、椅子の背にもたれた。
外では夕暮れが街を赤く染め、ビルの谷間に夜の気配が忍び寄っていた。
彼の表情には、満足も怒りもなかった。
ただ、事実を世に送り出す者の、冷ややかな使命感だけが残っていた。
【2025年9月22日(火)午後6時14分/玲探偵事務所・共同室】
窓の外、夕焼けが街を赤く染めている。
ビルの壁面が淡く朱色に照らされ、車のテールランプが川のように連なっていた。
ソファに腰を下ろした玲は、湯気の立つコーヒーカップを片手に、窓越しにその光景を見ていた。
机の上には、事件に関するファイルがきちんと積まれ、ひとつだけ未整理の封筒が置かれている。
それは舞から届いた「結菜の描いた絵」で、まだ誰も封を切っていなかった。
奈々はノートPCを閉じ、深く息を吐く。
「SNSの炎上はほぼ収束しました。匿名の支援コメントも増えてます」
沙耶はカップに残った紅茶を揺らしながら、少しだけ微笑む。
「結菜ちゃん、これからはきっと自由に笑えるわ」
その傍ら、アキトはいつの間にかソファの端で寝転び、スマホを胸に置いたまま目を閉じていた。
昼も夜も潜入と変装を繰り返した疲れが、今になって押し寄せてきたのだろう。
「……よくやったな」
玲の低い声が、共同室に柔らかく響く。
その声に、アキトはうっすら片目を開け、眠そうに笑った。
「次はもうちょっと楽な潜入、頼みますよ」
窓の外、夕日はゆっくりと沈み、街に夜の色が広がっていく。
事件は終わった。だが、それぞれの胸にはまだ、言葉にできない余韻と、少しの温もりが残っていた。
【同時刻/報道局本社・編集室】
蛍光灯の白い光が、深夜のように静まり返った編集室を照らしていた。
大型モニターには、市警本部での取調室映像の静止画と、体育館での記者会見の写真が並んでいる。
藤堂はデスクに肘をつき、ゆっくりとキーボードを叩いていた。
画面に流れる文字は、事実だけを淡々と並べたもの。
感情を煽る形容も、誰かの名前も、意図的にそこにはなかった。
──教頭による不正行為と、その隠蔽のための一連の工作。
──亡くなった生徒の名誉が回復されたこと。
──関係者の証言により、噂が事実として裏付けられたこと。
彼は指を止め、短く息をつく。
机の端には、旧校舎の窓から差し込む夕日の写真が置かれていた。
それは事件の最初の日、彼が取材の合間に撮ったものだ。
「名前を出さなくても、伝わるものはある」
誰に言うでもなく、小さくつぶやく。
最後の一文を打ち込み、送信キーを押す。
明日の朝刊と同時に、Web版が配信される。
記事は無署名。だが、関わった者なら、その文の呼吸と選んだ言葉から、藤堂の筆だと分かるはずだった。
タイトルは、シンプルに。
「東が丘中学事件簿」
【翌朝/市立東が丘中学校・正門】
秋の空気が澄みわたり、朝の光が正門のアーチをやわらかく照らしていた。
通学路を歩く生徒たちは、以前のような張り詰めた表情ではなく、少しずつ笑顔を取り戻している。
正門の横には、数名の教師が立っていた。
その中に、白衣の上にカーディガンを羽織った養護教諭――いや、変装したアキトの姿があった。
彼は穏やかな笑みを浮かべながら、一人ひとりの生徒に声をかける。
「おはよう、佐伯くん。今日も忘れ物ないね」
「おはよう、加奈ちゃん。昨日の体育、大丈夫だった?」
名前を呼ばれた生徒は、少し驚いた顔をしながらも、恥ずかしそうに頷いて校門をくぐっていく。
それは、この学校が以前よりも“個”をちゃんと見ようとしている証だった。
かつて旧校舎でささやかれた不穏な噂は、今ではただの「昔話」として静かにフェードアウトしていた。
教室の窓からは笑い声が漏れ、部活動の道具を抱えた生徒たちが軽口を叩き合う。
アキトは、教師たちの間でさりげなく位置を変えながら、生徒たちの様子を見守った。
その瞳には、事件解決後の小さな変化が確かに刻まれている。
そして、生徒たちが全員校舎へと吸い込まれていくと、彼は軽く帽子を下げ、静かにその場を離れた。
まるで最初から、そこにいなかったかのように――。
校舎に入ってすぐの廊下、昇降口横の掲示板。
そこには、先週までは存在しなかった新しい掲示が貼られていた。
白いA3用紙に、太いゴシック体でこう書かれている。
⸻
【生徒の皆さんへ】
・困っていることや、誰にも言えない悩みがあるときは、一人で抱え込まないでください。
・保健室、職員室、生徒相談室でいつでも相談できます。
・メール、電話、匿名メモでの相談も受け付けます。
相談窓口(24時間受付)
電話:-*
メール:***@higashigaoka-jhs.jp
⸻
紙の下端には、小さな文字でこう追記されていた。
「話すことが難しいときは、書くだけでも大丈夫です」
その下には、相談用のポストの場所と、専用投函ボックスの写真が添えられている。
掲示板の前には、立ち止まって読む生徒が数人。
「ねぇ、これって…」と顔を見合わせ、小声で話す姿もあった。
以前なら、こういう掲示は視界の端で流れてしまっただろう。
だが今は、少なくとも一部の生徒たちが、自分のこととして足を止めている。
その様子を、廊下の端から養護教諭の姿をしたアキトがさりげなく見守っていた。
視線だけで全てを確かめると、彼は再び静かに歩き出した。
【玲探偵事務所・共同スペース/玲】
夕暮れの光が、すりガラス越しに柔らかく室内へ差し込んでいた。
デスクの上には、使い込まれたマグカップと、数枚のメモ。
その横に置かれた厚いファイルの背表紙には、手書きで「結菜事案」と記されている。
玲はそれを静かに手に取り、ページを一度だけめくった。
現場写真、聞き取り記録、分析メモ――紙の一枚一枚に、誰かの声と表情が封じ込められている。
ファイルを閉じ、棚の奥に戻すときも、彼の指先はわずかに力を込めていた。
結菜の件は、終わった事件ではない。
それは、完全に解消されたわけではない「痛み」であり、それでも誰かが向き合い、少しだけ軽くなった「重み」だった。
窓際の椅子には、奈々がタブレットを抱えたままうとうとしている。
奥のソファでは沙耶が湯気の立つカップを両手で包み、ぼんやりと街の灯りを眺めていた。
アキトの姿はない――だが、きっと今も、どこかで別の顔をして動いているのだろう。
玲は棚の扉を閉じ、深く息を吐く。
この仕事は、事件を終わらせるためのものではない。
人が再び前を向けるよう、少しだけ背中を押すためのものだ――そう、彼は自分に言い聞かせた。
【玲探偵事務所・地下分析室/橘奈々】
薄暗い地下室の一角、冷気を含んだ空気が静かに流れている。
橘奈々は長い指先を滑らせ、複数のモニターに映し出されたデータの海を泳いでいた。
画面には匿名掲示板の書き込み数の推移、SNS上でのキーワードの増減、そして生徒たちの感情を数値化したメンタル傾向グラフ。
不穏な言葉が増える時間帯や、急激に跳ね上がる「不安」「恐怖」の指標が鮮明に浮かび上がる。
奈々は眉をひそめ、すばやく複数のウィンドウを切り替える。
「この動きは、事件の余波だ……だが、まだ油断はできない」
彼女の冷静な目が、画面のデータだけでなく、背後の静寂の中にまで鋭く光っていた。
ここで終わらせるわけにはいかない。真実はまだ、闇の中に潜んでいるのだ。
【学校裏手の花壇/アキト】
柔らかな午後の日差しが花壇を優しく照らしている。
アキトはじっと土に目を落としながら、手にしたジョウロからゆっくりと水を注いだ。
小さな花の芽が、しずくを受けてキラリと輝く。
その様子を見つめながら、アキトはふっと笑みを浮かべた。
「こんなに小さな命でも、ちゃんと育つんだな」
静かな風がアキトの髪をそっと撫で、周囲のざわめきをかき消すように広がっていく。
花壇の隅で咲く一輪の花が、まるで希望の象徴のように揺れていた
【港のベンチ/沙耶】
午後の柔らかな海風が沙耶の髪をそっと揺らしていた。彼女は港のベンチに腰かけ、手にしたカフェの紙コップをゆっくりと傾ける。潮の香りと焼きそばのソースの香ばしい匂いが混ざり合い、どこか懐かしい夏の終わりの風景が広がっている。
砂浜のすぐ近く、海の家の焼きそば屋台では、笑顔を絶やさずに手際よく焼きそばを作る若い店員がいる。白い帽子をかぶり、エプロンをつけたその青年は、時折こちらをちらりと見ては、沙耶に軽く会釈した。
彼――アキトだ。街の喧騒から離れたこの場所で、彼はまた別の顔を持っていた。
焼きそばの香りに包まれながら、沙耶は少しだけ目を細め、アキトの姿を見つめていた。
【報道局編集室/藤堂】
明け方の報道局は静寂に包まれていた。誰もいないはずの編集室の蛍光灯が、淡く光を放つ。薄暗い部屋の中で、ひときわ目立つのはパソコンの画面の明かり。キーボードを叩く軽やかな音だけが響いている。
若いバイトスタッフが真剣な表情で画面に向かっていた。白いシャツに黒のパンツ、控えめなイヤホンを耳に差し込み、編集作業に集中している。その背後には、報道デスクの藤堂がゆっくりと歩み寄り、静かにその姿を見守っていた。
アキト。
普段とは異なるこの場所での彼は、朝の静けさを切り裂くように確かな手腕を発揮し、藤堂の報道を支えていた。
【旧・中央公園の隅/舞】
秋風が頬を撫で、枯れ葉が静かに舞い落ちる。舞は薄く冷えた空気の中、ゆっくりとベンチに腰を下ろした。手の中には、まだ温かみを感じる結菜のスマホがあった。
画面を見つめるその視線はどこか遠く、過ぎ去った時間を思わせる。静かな公園の隅で、彼女の世界は結菜の残した記憶で満たされていた。
ふと、隣のベンチに目をやると、他校の制服を着た高校生が座っていた。柔らかな陽の光が彼の横顔を照らし、舞は思わず見とれてしまう。
「どうして、あんなにかっこいいんだろう……」
小さな声でつぶやくと、その高校生がこちらを見て、にっこりと笑いかけた。驚いた舞は慌てて視線をそらし、結菜のスマホを強く握りしめた。
心の奥でざわめく感情に気づきながらも、舞は静かに秋の午後を過ごした。
【メール受信/玲のスマホ画面】
件名:ありがとう、玲さん
玲さんへ
事件を解決してくれて、本当にありがとう。
結菜のことをちゃんと知ってもらえて、少しだけ心が軽くなりました。
まだ悲しみは消えないけれど、玲さんのおかげで前を向けそうです。
これからも、困っている人を助けてあげてください。
私はこれから、結菜の分まで強く生きていきます。
本当にありがとう。
舞




