85話 「真実の光の向こうで」 ―夜明け前の報道と探偵の足跡―
藤堂
報道関係者。全国ニュースや特番の取材・編集に携わる。
事件の真相を伝える使命感と、夜勤明けでも仕事をやり抜く根性を持つ。
アキト(ルートマスター)
潜入・作戦担当で、事件の黒幕的立ち位置でもあるルートマスター。
冷静沈着で戦術眼に優れ、仲間との日常では柔らかい一面も見せる。
玲
探偵。IQ300を誇り、事件現場や心理の微細な兆候を見逃さない。
後日談では直接登場しないが、藤堂やアキトの行動の背景にある事件の“真実”の中心人物。
佐々木朱音
玲の協力者で少女探偵。事件の手がかりをスケッチに残す。
後日談では直接登場しない。
柾木悠人
過去の事件や資料管理を担当する協力者。
後日談では直接登場しない。
沙耶
チームの精神的支柱。直感や観察力で事件をサポート。
後日談では登場なし。
冒頭
【深夜/東京湾岸・非公開作戦室】
壁際の古びた時計が、コチ、コチ、と静かな秒針の音を刻んでいた。
それはまるで、迫り来る局面を告げるカウントダウンのように、室内の神経を少しずつ削っていく。
薄暗い照明の下、円卓の中央には港湾地区の航空地図と、旧中央取引所の設計図が広げられていた。
赤と青のマーカーが幾重にも重なり、侵入ルート、警備の巡回ライン、ブラインドスポット、緊急脱出経路が緻密に書き込まれている。
ここは会議室ではない。戦場を切り取った、縮尺付きの現実そのものだった。
エアコンは低く唸り続けているが、真夏特有の湿気は完全には拭えない。
背中に滲む汗が、緊張のせいなのか、それともこれから始まる事態への予感なのか、誰にも区別はつかなかった。
玲が、卓上のペンを静かに置いた。
その指先が、地図の一点を正確に捉える。
「ここだ。旧中央取引所の地下通路」
一拍置いて、低く続ける。
「資料上は“閉鎖済”。だが実際は、生きている」
赤い円で囲まれたその場所は、古い貨物用エレベーターの裏手。
設計変更の隙間に埋もれ、誰の記録からも消えたスロープ通路だった。
「黒城が狙っているのは、その先だ」
玲の視線が、図面のさらに奥をなぞる。
「“第零保管室”。正式登録前に封印された、設計図の眠る場所」
アキトが地図に身を乗り出し、短く息を吐いた。
「地下二階経由か……」
一瞬、視線を上げる。
「つまり、まだ港を離れていない」
誰も否定しなかった。
沈黙が落ちる。その静けさを切り裂いたのは、影班の由宇だった。
「正面突破は論外だ」
装備を確認しながら、淡々と告げる。
「夜明け前に裏手から潜入する。接触は最小限」
銃のマガジンを差し直す音が、乾いた金属音として響く。
そこには迷いも誇示もない。生き延びてきた者だけが持つ、研ぎ澄まされた静けさがあった。
詩乃が端末を操作しながら口を開く。
「監視カメラは三重構成。港湾局と旧取引所のシステムが統合されてる」
一瞬だけ指を止め、続ける。
「でも、切り替えの瞬間に十秒だけ死角ができる。セクター8から12へ移行する、その隙」
玲は頷いた。
集まる視線を受け止め、はっきりと言葉を落とす。
「目的は設計図の確保と、黒城の行動封じだ」
声に余分な感情はない。
「交戦は避ける。これ以上、血を増やす理由はない」
全員が、無言でうなずいた。
戦う理由は復讐ではない。
真実を、未来へ持ち帰るためだ。
そのとき、玲のスマートフォンが震えた。
机の上で短く鳴動し、画面に通知が浮かぶ。
――匿名送信者:動画ファイル。
玲は一瞬だけ眉を動かし、再生する。
映し出されたのは、灯りの乏しい倉庫の一角。
中央に立つ男が、こちらを見据えていた。
黒城修也。
スーツ姿のまま、薄く笑う。
『次は港で会おう、玲』
一拍置き、低く。
『……終わらせに来い』
映像はそこで途切れた。
再び、作戦室に沈黙が戻る。
玲はスマートフォンを伏せ、静かに息を吐いた。
「全員、準備に入れ。作戦開始は午前四時二十分」
そして、アキトを見る。
「第一潜入はお前だ。今回のルートマスターを任せる」
アキトは迷わず頷いた。
「了解」
短く、確かな声で。
「俺が道をつくる」
秒針の音が、再び静かに響き始めた。
決戦まで、残された時間はもう多くない。
時間:夜明け前
場所:港町・旧中央取引所 裏手倉庫通路
夜明け前の港町は、蒸し暑い風と潮の匂いに満ちていた。
東の空がわずかに赤みを帯び始めているにもかかわらず、古びた倉庫群の影はまだ深く、旧中央取引所の裏手は夜の名残に沈んでいる。
――この街が目を覚ます前に、終わらせる。
物陰から、気配だけが切り取られるように人影が現れた。
靴底が地面に触れる音はなく、監視カメラの首振りの癖をなぞるように、死角だけを選んで進む。
鉄製の裏口扉の前で立ち止まり、ポケットから小型の特殊工具を取り出す。
電子ロックの端子に触れた瞬間、内部構造を読むように指先がわずかに動いた。
カチリ。
乾いた音は、夜気に吸い込まれる。
扉が静かに開くと同時に、黒いジャケットを脱ぎ捨て、別のコートを羽織る。
作業員用のシャツ、擦れた名札、首元に忍ばせた通信端末。
胸元には「民間警備会社・再調査部門」と記された身分証。
一見すれば、夜間点検に紛れ込んだ調査員だ。
――搬入業者は目立つ。
――だが、調査員なら裏手を通っても不自然じゃない。
心の中でルートを再確認する。
警備の交代時間。巡回の間隔。照明が一瞬落ちる区画。
人の心理が緩む“境目”だけを、正確に踏み抜く。
ここから先は、設計図の内側。
地図に描かれていない、だが確かに存在する通路。
彼は一度だけ足を止め、暗闇の奥を見据えた。
――道は、もうできている。
そう確信した瞬間、再び歩き出す。
静かに、確実に。
誰にも気づかれぬまま、作戦の第一幕は始まっていた。
【時間:夜明け前/場所:旧中央取引所・地下二階通路】
金属の匂いと、長年閉じ込められていた塗料の乾いた気配が、肺の奥に残った。
靴底が床に触れるたび、わずかな反響が通路の奥へと吸い込まれていく。
地下二階。
本来は倉庫管理用の通路だったはずだが、今はほとんど使われていない。
壁面の案内板は色褪せ、「保管区画A」「立入制限区域」の文字が半ば剥げ落ちている。
天井の蛍光灯は三本に一本の割合で沈黙し、点いている灯りも不規則に瞬いていた。
アキトは足を止め、呼吸を落とす。
音は敵だ。ここでは、視線よりも先に気配が察知される。
腰元の通信端末が、微細な振動で合図を送ってきた。
音声は出ない。振動のパターンだけで、情報が伝えられる設定だ。
――監視カメラ、予定通り一基停止。
――次の死角、十五秒。
心の中でカウントを刻みながら、彼は壁際に身体を沿わせる。
通路の角を抜けた先、床の色がわずかに変わっている地点が見えた。
設計図で確認していた“継ぎ目”。
表向きは閉鎖されたはずの旧搬送路への入口。
アキトはしゃがみ込み、床に手を当てる。
冷たい。だが、その冷え方が均一ではない。
一枚だけ、周囲と違う反応を返す金属板。
「……やっぱり、塞いだだけか」
声には出さず、指先で留め具を探る。
磁気式。旧式だが、雑な処理だ。
工具を使うまでもなく、角度をずらすと、かすかな手応えとともに板が浮いた。
その下に現れたのは、さらに下へ続く細い階段。
空気が一段、冷たくなる。
アキトは一瞬だけ立ち止まり、上を振り返った。
戻る道は、もう頭に入っている。
だが、進む先――そこだけは、まだ“地図の余白”だ。
「……行くぞ」
そう、心の中で告げる。
この先にあるのが設計図か、それとも黒城自身か。
どちらであっても、引き返す選択肢はなかった。
彼は静かに一段目へ足を下ろし、闇に身体を溶かしていった。
【時刻:午前4時12分
場所:旧中央取引所・地下二階 保管区画前】
アキトは足を止め、呼吸を一段落とした。
鋼鉄製の観音扉は、長年動かされていないせいか、表面に薄く錆が浮いている。
だが、鍵周辺だけが不自然に新しい。最近、誰かがここを“使った”証拠だった。
耳元のインカムに、微かなノイズが走る。
「……こちら、内部侵入完了。地下二階、目標扉前に到達」
返事はすぐに来た。
低く、落ち着いた声。
「了解。時間は予定通りだ。周囲の反応は?」
アキトは視線だけで周囲を確認する。
監視カメラは停止中。だが、それは“停止させられている”だけだ。
いつでも復帰できる状態――つまり、誰かがこの空間を見張っている。
「静かすぎる。嫌な感じだ」
そう呟きながら、腰のツールケースを開く。
磁気解除ユニット。指紋偽装パッド。
そして、最後に取り出したのは、薄いプレート状のデバイスだった。
「黒城は、この先だな」
誰に言うでもなく、そう確信する。
この扉は、単なる保管庫の入口じゃない。
“選ばれた者”だけが辿り着くための、チェックポイントだ。
アキトは観音扉の中央にプレートを当て、静かにカウントを取る。
――三。
――二。
――一。
カチリ、と低い音。
ロックが外れる感触が、指先に伝わった。
「……開くぞ」
扉に手をかけた、その瞬間。
インカム越しに、別の声が割り込んだ。
「待て、アキト」
一瞬、動きが止まる。
「今、港湾側のカメラが一斉に瞬いた。
誰かが――お前と同じルートを“逆から”辿ってる」
アキトは、ゆっくりと息を吐いた。
口元に、わずかな笑み。
「つまり……黒城も、同じ場所に向かってるってことか」
沈黙。
その沈黙が、肯定だった。
「上等だ。
なら、ここが“終点”だな」
アキトは、今度こそ観音扉を押し開けた。
隙間から漏れ出すのは、冷え切った空気と、古い紙の匂い。
設計図が眠る部屋。
そして――
黒城修也が、必ず現れる場所。
闇の奥へ、一歩。
運命の舞台へ、足を踏み入れた。
【午前4時11分/旧中央取引所・地下二階 主通路】
通路に響いた金属音は、一瞬で空間の性質を変えた。
静寂は引き裂かれ、空気が張りつめる。
火花が散ったのは、床に転がされていた古い鉄パイプが蹴り上げられた瞬間だった。
それを合図にしたかのように、影がひとつ、照明の切れ目から浮かび上がる。
「……来ると思っていたよ」
低く、乾いた声。
コンクリートに反射して、実体よりも近くに聞こえる。
アキトは足を止めない。
一歩、半歩、呼吸の間隔と同調させながら距離を詰める。
視線は真正面ではなく、相手の肩、腰、そして影の揺れ――重心の移動だけを追っていた。
「港を離れていない。地下を使う。
そして、必ず“ここ”を通る」
声を発した人物――黒城修也は、ゆっくりと拍手する。
「相変わらずだ。人を見るより先に、道を見る」
黒城はスーツ姿のまま、壁に背を預けていた。
手には武器らしいものは見えない。だが、その立ち方自体が“罠”だった。
アキトは鉄骨の支柱の影に身体を滑り込ませる。
空調ダクトから流れる風向きが変わった。
誰かが、上階で非常換気を切り替えた――由宇か、詩乃だ。
(今だ)
次の瞬間、アキトは床を蹴った。
低く、鋭く、無駄のない踏み込み。
だが――
「遅い」
黒城の声が、背後から聞こえた。
アキトは即座に身体を捻り、肘で空を切る。
拳がかすめたのは、わずかに残る残像だけ。
「……空調を読んだな」
「当然だ。君が“読む”ことは、こちらも読む」
二人の距離は、再び数メートルに開いていた。
互いに息は乱れていない。
だが、空間そのものが、すでに戦場として完成している。
黒城は指先で、背後の観音扉を示した。
「設計図は、そこだ。
だが――君が欲しいのは“紙”じゃない」
アキトは視線を逸らさずに答える。
「お前のルートを、ここで断つ」
一瞬、黒城の口元が歪んだ。
それは笑みとも、諦観ともつかない表情だった。
「いいね。その覚悟。
だが忘れるな――ルートというものは、ひとつ潰しても、別の道が必ず残る」
そのとき、アキトのイヤーピースに微かなノイズが走る。
『――地下二階、反応あり。複数。
黒城、時間を稼ぐ気だ』
玲の声だった。冷静で、しかし緊張を孕んでいる。
アキトは、ゆっくりと息を吐いた。
「……了解」
視線を戻す。
「ここで終わらせる。
お前がどれだけ道を用意していようと――」
アキトは一歩、前に出た。
「今度は、俺が“出口”を塞ぐ」
地下通路の照明が、同時に落ちる。
闇の中、二つの気配だけが、確かに対峙していた。
【午前4時32分/旧中央取引所・地下二階 第零保管室】
鍵が外され、重たい扉が軋む音を立てて開く。
アキトは一歩だけ中へ踏み込み、すぐに立ち止まった。
室内は想像以上に狭く、だが整然としていた。
壁一面に設置された耐火キャビネット。天井近くまで積み上げられた金属製の書架。
中央には、低い作業台と旧式の端末がひとつ。
蛍光灯は生きておらず、非常灯だけが青白い光を落としている。
――確かに、ここだ。
アキトは作業台に近づき、手袋のまま端末に触れた。
スリープ状態の画面が一瞬だけ揺れ、数字とファイル名が浮かび上がる。
「……改ざん前のオリジナル。港湾再開発、旧取引所、地下通路……全部揃ってる」
誰に聞かせるでもなく、低く息を吐く。
ここにあるのは、単なる設計図ではない。
都市の裏側で行われてきた取引と隠蔽、その“証明そのもの”だった。
背後で、微かな足音。
アキトは振り返らない。
代わりに、腰の通信端末を起動する。
「玲、到達した。第零保管室。黒城の言ってた“核心”はここだ」
返事は一拍遅れて返ってきた。
『確認した。データ確保を最優先。黒城は――近い』
その言葉が終わる前に、室内の空気が変わった。
拍手。
ゆっくりと、わざとらしい音が、暗がりの奥から響く。
「さすがだよ、アキト」
低く、落ち着いた声。
陰から現れたのは、スーツ姿の黒城修也だった。
照明の死角に立ち、逃げ道を塞ぐ位置。
その立ち位置だけで、彼が“待っていた”ことが分かる。
「君なら、ここまで辿り着くと思っていた。……いや、来てもらわなきゃ困る」
アキトはゆっくりと振り向いた。
視線は黒城を捉えたまま、距離と構造を測る。
「誘導したのは、あんただ。動画も、ルートも」
黒城は小さく笑った。
「誘導? 違うな。選択肢を用意しただけだ。
君が“正しい道”を選ぶと、最初から分かっていただけで」
彼は一歩、前に出る。
その足取りに迷いはない。
「設計図を持ち出せば、世界は少しだけ綺麗になる。
だが同時に、多くの人間が沈む。……それを背負えるのは誰だ?」
アキトは答えない。
代わりに、端末からデータの転送を開始する。
「背負うかどうかは、俺が決めることじゃない」
黒城の目が、わずかに細められた。
「そう言うと思った。だから――」
次の瞬間、保管室の非常灯が一斉に落ちた。
闇が、すべてを飲み込む。
金属音。
空気を裂く気配。
アキトは即座に身を低くし、作業台を蹴って距離を取る。
暗闇の中でも、構造は頭に入っている。
柱、壁、死角――すべてが地図のように浮かび上がる。
「……やっぱりだ」
彼は小さく呟いた。
黒城修也は、“対話”のためにここへ来たのではない。
最後の分岐点を、ここに用意しただけだ。
――だが。
通信端末が、再び短く震えた。
『時間は稼げ。こちらも動いてる』
玲の声だった。
アキトは、口元だけで笑う。
「了解。……この舞台、最後まで付き合ってもらう」
闇の中で、二人の足音が交錯する。
真実を巡る最終局面は、すでに始まっていた。
【午前4時06分/旧中央取引所・地下零層】
無音で現れた黒装束の一団は、まるで影そのものだった。
足音も、衣擦れの音すらない。
ただ、空気の圧がわずかに変わる。
先頭に立つ紫苑は、短く息を吐き、指を一本掲げたまま周囲を見渡す。
「抵抗は想定内。だが、排除は最小限でいい。目的は“回収”だ」
その合図と同時に、数名が散開した。
一人は通路奥へ。
一人は天井のダクトへ。
残りは、保管室前の制圧ラインを無言で形成する。
アキトは物陰から状況を一瞥し、口角をわずかに上げた。
――来たか。
予測はしていた。
黒城が一人で終わらせる気はないことも、
そして“別の勢力”が、真実ごと回収に来ることも。
通信端末を耳元に当て、囁く。
「……影が出た。服部一族だ」
一瞬の沈黙。
すぐに、低く落ち着いた声が返る。
『了解。想定ルートBへ移行。設計図は最優先で確保しろ』
玲の声だった。
アキトは視線を保管室内へ戻す。
棚に並ぶ書類の束。
金属ケースに封じられた設計図。
そして、奥の壁際――黒城が“最後に触れた痕跡”。
「時間がないな……」
そう呟いた瞬間、通路の奥で短い衝突音がした。
鈍い打撃音。
抑え込まれる呼吸。
紫苑の部下が、何者かを静かに制圧したらしい。
紫苑は一歩前に出て、保管室の中を見据える。
「……まだいるな。ルートマスター」
その言葉に、アキトの背筋がわずかに緊張する。
影と影が、同じ舞台に立った。
だが、彼はもう“追う側”ではない。
アキトは設計図のケースを掴み、内ポケットに滑り込ませた。
同時に、あらかじめ仕込んでいた小型発信器を棚の影に落とす。
――選択肢は、ひとつじゃない。
紫苑が踏み込んだ、その瞬間。
「……悪いな」
アキトは低く呟き、床を蹴った。
非常灯だけが灯る非常通路へ、音もなく身を滑らせる。
背後で紫苑の声が飛んだ。
「追うな。――“道を読め”。罠だ」
服部一族の動きが一瞬止まる。
その隙に、アキトの姿は完全に闇に溶けた。
地下零層に残されたのは、
回収された“偽物の痕跡”と、
まだ終わっていない戦いの気配だけ。
真実は、すでに次の場所へ向かって動き出していた。
【時間】早朝・午前七時すぎ
【場所】都内某所 報道局ビル・編集室
編集室の照明は、夜明けの自然光とは質の違う白さで、無遠慮に室内を照らしていた。
壁に掛けられた時計の秒針が、淡々と時間を刻んでいる。
藤堂は椅子に深く腰を沈めたまま、モニターに映るデータから視線を外さなかった。
ジャケットの前は開いたまま、シャツの襟は少しだけ乱れている。徹夜の疲労は隠しきれていないが、それ以上に、画面の向こうに並ぶ情報が彼の神経を張り詰めさせていた。
USBメモリの中身。
旧中央取引所の設計図、港湾地区の非公開取引記録、黒城の名が記された内部通信ログ。
どれもが、ひとつ表に出れば社会を揺らすだけの重さを持っている。
藤堂は、静かに息を吐いた。
「……全部、揃ったな」
独り言のような低い声。
だがその響きには、覚悟が滲んでいた。
背後で、編集室の扉が小さく開く音がする。
振り返ることなく、藤堂は言った。
「チェックは三重に。名前は伏せろ、だが事実関係は一切ぼかすな。
これはスクープじゃない。“記録の回収”だ」
返事は短く、しかし迷いはなかった。
藤堂は再びモニターに向き直り、マウスをクリックする。
送信準備中の原稿データ。そのタイトル欄には、仮の文字が打ち込まれている。
《旧中央取引所・非公開記録流出の経緯について》
真実は、誰かの意志によって隠されることもある。
だが同時に、誰かの意志によって、必ず掘り起こされる。
藤堂は画面を見つめたまま、わずかに口角を上げた。
「……舞台は、整った」
外では、完全に朝が始まろうとしていた。
【午前七時二十分/都内・報道局スタジオ】
「皆さま、おはようございます。本日は通常のニュース番組を一部変更し、臨時の報道特集をお送りします」
落ち着いたアナウンサーの声が、スタジオ内に静かに広がった。
背後の大型モニターには、夜明け直後の港湾地区の空撮映像。警告灯を回す車両、規制線、そして無言で立ち尽くす作業員たちの姿が映し出されている。
「本日未明、旧中央取引所跡地の地下施設において、大規模な不正取引に関わる設計図および改ざん記録が発見されました。関係当局は――」
原稿を読む声は一定の調子を保っているが、その言葉の一つひとつは重い。
“偶発的な事故”として処理されるはずだった事象が、今この瞬間、公の事実として姿を現しつつあった。
カメラが切り替わり、解説用のパネルが表示される。
複雑に絡み合った企業名、ダミー会社、そして矢印で示された資金の流れ。
その中心に、赤い枠で囲まれた名前が一つ、浮かび上がる。
「専門家によりますと、今回の件は単独犯行ではなく、長期間にわたり構築された“構造的犯罪”である可能性が高いとのことです」
スタジオの空気が、わずかに張り詰めた。
スタッフの誰もが、イヤーピース越しに飛び込んでくる追加情報に神経を尖らせている。
「なお、関係者の一部はすでに事情聴取を受けており――」
その先の言葉は、視聴者にとっては“続報”でしかない。
だが、この放送の裏側で、いくつもの人生が静かに軌道を変え始めていた。
モニターの端に、小さくテロップが入る。
――《提供資料:匿名》
その文字を、誰かが見つめていることを、画面の向こうの誰も知らない。
【時間】夜明け直前
【場所】旧中央取引所・地下ホール
鉄骨がむき出しの天井から、低い風鳴りのような音が落ちてくる。
外界から切り離されたこの空間では、時間の感覚が曖昧だった。
封鎖された年月が積もり、空気は重く、呼吸のたびに胸の奥に沈んでいく。
中央に立つ影は、微動だにしない。
足元に散らばる設計図の紙片が、誰かの靴先に踏まれて擦れた。
「……ここまで来るとは思わなかったよ」
低く、落ち着いた声。
それは敗北の色を含んでいない。むしろ、確認に近い響きだった。
「港も、取引所も、全部“想定内”だ。君たちは、用意された道を正しく歩いた」
一歩、前に進む足音。
鉄骨の床が鈍く鳴る。
「だが――その先は、誰にも描けない」
設計図の一枚が拾い上げられ、軽く振られる。
そこに記された線は、都市の未来を象るはずだったもの。
だが今は、過去の野心の残骸でしかない。
「都市は理屈で動く。人も同じだ。恐怖、欲、保身……それを理解すれば、道は自然に一本に収束する」
短い沈黙。
遠くで、何かが軋む音がした。撤収の合図か、それとも包囲の気配か。
「君たちは勝ったと思っているだろう。でも違う。
これはただの“区切り”だ。物語は、まだ終幕じゃない」
その言葉に、空気が一段、冷えた。
「……終わらせるよ」
静かな声が返る。
怒りでも、憎しみでもない。
ただ、揺るぎのない断定。
「ここで止める。これ以上、道を踏み荒らさせない」
一瞬だけ、影の口元が歪んだ。
それが笑みだったのか、諦観だったのかは分からない。
「なら、見届けよう。
誰が“最後に立っているか”を」
その瞬間、ホールの照明が一斉に点灯した。
白い光が闇を切り裂き、逃げ場のない現実を浮かび上がらせる。
鉄骨の影が床に落ち、設計図の上を交差する。
過去と現在、計画と意志。
そのすべてが、この地下で交わろうとしていた。
【時間】夜明け直前
【場所】旧中央取引所・地下ホール
直後、無線に微かなノイズが走り、落ち着いた声が割り込んだ。
「こちら紫苑。地下ホール制圧確認。……ルートマスターは、アキトか?」
一瞬の間。
玲は黒城から視線を外さぬまま、イヤーピースに指を当てる。
「そうだ。今回の導線はアキトが組んだ。
紫苑――協力してくれ。黒城はまだ“次の一手”を隠している」
無線の向こうで、短く息を吐く音。
「了解した。服部側の残党は押さえている。
だが、この男……素直に終わる顔じゃない」
紫苑の声と同時に、地下ホールの空気がわずかに張り詰めた。
黒城はゆっくりと口角を上げ、散らばった設計図の一枚を靴先で踏みつける。
「ずいぶんと役者が揃ったじゃないか。
探偵に、影の部隊、そして“新しいルートマスター”……」
低い笑い声が、広いホールに反響する。
「だが、勘違いするな。
設計図を奪えば終わりだと思っているなら――それは、まだ“入口”だ」
玲は一歩前に出た。
足音が、やけに大きく響く。
「入口でも出口でも同じだ。
お前の計画は、ここで止まる」
黒城の視線が、天井の暗がりへと一瞬だけ流れる。
それを、玲は見逃さなかった。
「……紫苑、上を警戒しろ。
黒城は“空間”を残している」
無線越しに、即答が返る。
「了解。全班、天井・裏動線を再確認。
ルートマスター、こちらでも導線を共有する」
数秒後、別の声が重なる。
落ち着き払った、聞き慣れた声。
「玲、聞こえるか。
――次の分岐、見えた」
地下のさらに奥、かつて図面にも存在しなかったはずの非常通路。
アキトの声が、静かに続く。
「黒城は逃げ道を“一本”だけ残してる。
だが……それは、逃走じゃない。
誰かを道連れにするためのルートだ」
玲は、ゆっくりと息を吸った。
「なら、答えはひとつだ」
視線を黒城に戻し、はっきりと言い切る。
「その道は――ここで、閉じる」
夜明け前の地下ホール。
光のないはずの空間で、すべての駒が、ついに盤上に揃った。
【夜明け前/旧中央取引所・地下二階 左翼狭所通路】
通風パネルが、かすかな金属音を立てて外された。
アキトは身を翻すようにダクトから滑り出ると、即座に体勢を低くする。
左翼の狭所通路は、想像以上に細かった。
人ひとりがようやく通れる幅。天井には剥き出しの配線、壁面には旧式の消火配管。
足を踏み外せば、音が反響する構造だ。
アキトは呼吸を一段落とし、耳を澄ませる。
遠くで、かすかな足音。
複数――だが統率は甘い。
(黒城の私兵……焦ってるな)
インカムに、極低音で囁く。
「左翼通路に出た。黒城の背後、取れる」
一拍遅れて、玲の声が返る。
「了解。正面は紫苑が押さえてる。三十秒だけ“間”を作る」
その直後、別回線に紫苑の短い指示が割り込む。
「正面班、視線固定。――今だ」
アキトは壁に背を預け、通路の影に溶け込む。
靴底を床に滑らせるように進み、配管の影で一度止まる。
通路の先、地下ホールへ続く開口部。
そこから、低く苛立った声が漏れていた。
「……遅い。まだか」
黒城だ。
アキトは一瞬だけ目を伏せる。
頭の中で、距離、角度、照明の死角を組み直す。
(五歩。照明の切れ目。右に半身。声を出す必要はない)
そのとき、朱音の声が、玲の回線越しに小さく混じった。
「……今、背中が、描けた」
アキトは、わずかに口角を上げた。
「――もらう」
次の瞬間。
彼の身体は影から影へと滑り、左翼狭所通路を抜けて、地下ホールの縁へと踏み出していた。
【時間:夜明け直前/場所:旧中央取引所・外周 港湾側】
夜明けが港の輪郭をゆっくりと滲ませ始めた頃、紫苑は取引所の外壁に背を預け、微動だにせず立っていた。
黒の忍装束は夜気に溶け込み、呼吸の白ささえ意識的に抑えられている。
無線が、耳元でかすかに震えた。
「外周、第一ブロック制圧完了。搬入口、封鎖確認」
短く、乾いた報告。
紫苑は顎を引くように一度だけ頷いた。
「そのまま配置維持。警備車両が来ても、接触は避けろ。こちらから姿を見せる必要はない」
彼の視線の先では、服部一族のメンバーたちが影のように動いていた。
屋根伝いに移動する者、港湾側のフェンス裏で伏せる者、監視塔の死角に静止する者。
誰ひとりとして無駄な動きはない。
「第二ブロック、完了。監視カメラ系統、物理遮断済み」
「第三ブロック、排水路ルート確保。逃走経路、潰しました」
報告が重なるたび、取引所は外側から静かに“閉じられて”いく。
警報は鳴らない。悲鳴もない。
ただ、都市の一角が、誰にも気づかれぬまま孤立していく。
紫苑は低く息を吐いた。
「……上出来だ」
その瞬間、別の回線が割り込んできた。
聞き慣れた、落ち着いた声。
「こちら玲。内部は進行中だ。アキトがすでに背後に回っている」
紫苑は一瞬だけ目を閉じる。
「了解。ルートマスターはアキトだな」
「そうだ。今回は、彼が道を引いている。協力してくれ」
「最初からそのつもりだ」
紫苑は視線を上げ、取引所の屋上へと目を向けた。
夜と朝の境界線。
光が差し込む前の、ほんのわずかな時間。
「外は完璧に塞いだ。黒城は、もう出られない」
無線の向こうで、わずかに安堵した気配が伝わってくる。
「助かる。――終わらせよう」
紫苑は無言で通信を切り、右手を静かに上げた。
その合図ひとつで、服部一族の動きが完全に止まる。
まるで、巨大な獣が息を潜めたかのように。
「……夜明けだ」
誰にともなく、そう呟く。
やがて訪れる朝は、すべてを照らすだろう。
真実も、罪も、そして――選ばれた結末も。
午前/都内テレビ局・報道フロア
明るくなり始めた東京湾岸の空を背に、報道フロアは慌ただしさを増していた。
ガラス越しに差し込む朝の光が、編集卓に積まれた資料の角を白く縁取る。
モニターには、未明に送られてきた映像のサムネイルが静止したまま並んでいる。
旧中央取引所、地下ホール、設計図、そして黒城の姿。
指先でページをめくる音だけが、しばし空間を支配していた。
「……ここまで揃っているとはな」
低く呟く声は、疲労よりも覚悟の色を帯びている。
違法建設の設計図。改ざん前の原本データ。内部告発者の音声。
そして決定打となる、港湾利権と政治資金の流れを示す相関図。
一つひとつを確認するたび、報道としての“重さ”が増していく。
背後で、サブデスクが息を呑んだ。
「……これ、出せますか?」
数秒の沈黙。
だが迷いはなかった。
「出す。いや、出さなきゃならない」
資料の束を机に置き、立ち上がる。
その動作に合わせるように、周囲の空気が引き締まった。
「速報枠を押さえろ。通常編成は全部止める」
「タイトルは――そうだな……“再開発の闇・地下に眠っていた真実”でいこう」
編集室の奥で、カウントダウン用のタイマーがセットされる。
スタジオでは、キャスターが原稿を受け取り、深く息を吸った。
モニターの隅に表示された時刻が、切り替わる。
――放送開始まで、三十秒。
画面の中で静止していた黒城の顔が、ふっと闇に沈む。
代わりに映し出されたのは、夜明けの港と、旧中央取引所の外観。
「……これで終わりじゃない。だが、始まりにはなる」
誰に向けた言葉でもなく、ただ事実に向けて。
赤いランプが点灯する。
「本日は通常のニュースを変更し、特別報道をお伝えします――」
その声が、全国へと流れていった。
【早朝/港湾地区・作戦室】
照明を落とした作戦室には、電子機器のかすかな作動音と、首を振る扇風機の低い唸りだけが満ちていた。
外はすでに白み始めているはずだが、窓は遮光され、ここだけが夜の底に取り残されている。
中央の円卓には、港湾地区一帯の地図と、旧中央取引所の詳細な見取り図。
狭い通路、封鎖された搬入口、地下フロアの構造。赤と青のマーカーが幾重にも引かれ、何度も書き換えられた痕跡が残っている。
玲は卓上に両手をつき、静かに全体を見渡していた。
「黒城は、正面から逃げる気はない。追い詰められるほど、地下へ潜る」
指先が、地図の最下層――“第零保管室”へと落ちる。
「だから、ここを押さえる。逃走じゃない。……自分で終わらせるために、あそこへ行く」
短い沈黙。
誰も異を唱えなかった。
アキトが視線を上げる。
「通路は二系統。だが片方は、意図的に“生かされてる”。誘導用だ」
「ルートマスターの癖だな」
玲は小さく息を吐いた。
「選択肢を残して、選ばせる。逃げ道じゃない。“舞台”を用意する」
由宇が装備を確認しながら言う。
「なら、先に立つのはアキトだ。あの狭所は、他じゃ無理だ」
アキトは頷き、ゴーグルを手に取った。
「背後は俺が取る。紫苑たちは外を完全封鎖。黒城は……一人にする」
詩乃が端末を操作し、静かに告げる。
「監視網、五分後に完全にこちらのものになる。その瞬間が、最後の幕」
扇風機が一度、きい、と音を立てて止まり、また回り出す。
玲は最後に言った。
「無駄な交戦はしない。だが、引き返しもしない。
――終わらせる」
その言葉を合図に、全員がそれぞれの持ち場へと散っていった。
円卓に残された地図だけが、これから起きるすべてを、無言で待っていた。
【報道局・午前7時】
「続いてのニュースです。先日未明、港湾地区旧中央取引所にて、違法建設及び不正資金洗浄に関わる重大事件が発覚しました」
画面には港湾地区の倉庫群、赤色の封鎖テープが貼られた取引所の外観、警察と捜査関係者の姿が映し出される。
「警察当局は現場の安全確保を優先しつつ、関係者からの事情聴取を行っています。事件の規模は甚大で、未解決のまま過去に放置されていた建造物内での不正が明らかになったとのことです」
映像は被害物件の内部に切り替わる。散乱する設計図、破壊された端末、そして資料を押さえる捜査員の手元が映る。
「現場に残された証拠によれば、違法建設の設計図、改ざんされた取引記録、複数の関係者の証言が、今回の捜査で確認されました。詳細な解析は今後発表される予定です」
藤堂は画面の端でメモを見つめ、静かに追記する。
「真実を明るみに出すため、全容解明には時間を要しますが、市民の安全確保が最優先されます」
スタジオの画面は港湾地区全景に戻り、朝の光が赤く水面に反射する中、報道は次のニュースへと移る。
【SNS・午前8時】
画面に次々と流れる投稿。港湾地区旧中央取引所の事件が話題となり、ハッシュタグ「#旧中央取引所事件」「#都市の歪み」が瞬く間にトレンド入りしていた。
「旧中央取引所、実は地下にあんな構造が……どこの映画だよ」
「告発した人、命大丈夫なのか?めちゃくちゃリアルだった」
「“見えない都市の歪みを見た”ってキャッチ、どこかの記者が天才」
「こういうの、今まで見過ごされてたんだよな……」
リツイートやいいねが次々と増え、動画クリップの再生回数は数万回を突破している。
映像には、地下通路の狭隘さ、封鎖された搬入口、そして設計図や端末を押さえる捜査員の手元が一部切り取られて映し出されていた。
「港湾地区の未公開施設、こんな構造になっていたとは……」
投稿者のコメントが流れるたびに、一般市民の間に衝撃と驚きが広がっていく。
SNS上の反応は、ニュース番組の速報よりも速く、事件のインパクトを拡散させていた。
【港湾地区・旧中央取引所裏手・午前4時20分】
港の空が、わずかに群青色へと変わりはじめていた。夜と朝がせめぎ合う、この数分だけの静寂。街がまだ眠っているその隙を突くように、アキトは身をかがめて建物裏手の狭い通路を進む。
黒のジャケットの上に羽織った作業員風コート。胸元には「民間警備会社・再調査部門」の名札。黒手袋とキャップで顔の輪郭を隠し、懐には小型の通信端末と暗視ゴーグルを忍ばせている。
「搬入業者か、もしくは点検員……どちらに見せるかが鍵だ」
心の中で静かに確認しながら、アキトは足音を最小限に抑え、地面のわずかな砂利の感触を覚えつつ進む。壁沿いの影を巧みに使い、監視カメラの死角を縫う。
電子ロックの前に立ち、ポケットから取り出した特殊工具を素早くセットする。カチリ、と金属音。数秒の緊張。ドアがわずかに開くと、アキトは息を潜めて一歩ずつ内部へ滑り込んだ。
「……ここからが本番」
静寂の中、地下への階段を確認し、影の奥に消えるその姿には、熟練のルートマスターとしての冷静な判断力と緊張感が漂っていた。
【港湾地区・旧中央取引所周辺・午前4時15分】
薄明かりの港湾地区、蒸し暑い夏の夜明け前。倉庫街の雑然とした影の中で、アキトは黒い車の陰に身を隠しながら、身の回りの装備を手早く整えていた。
黒のジャケットの下には作業員風のシャツ。胸元には偽造名札を装着し、ポケットには暗視ゴーグルと小型通信端末、手首には軽量のマグネット式ナイフを巻き付ける。靴底の摩擦音も最小限に抑えられる仕様だ。
「監視カメラの死角……ここなら問題ない」
無言で確認を取りながら、懐に忍ばせた小型ツールを手にする。電子ロック解除器具、配線チェック用の小型ドローン、静音型ライト。全てが一つの動作で取り出せるよう配置されている。
息を落ち着け、影に溶け込むように立ち上がると、倉庫の裏口へ向けて一歩ずつ歩を進めた。夏の湿気が肌にまとわりつき、静かな緊張感をさらに濃くする。
「……行く」
その低い呟きとともに、アキトは黒鉄の扉へと静かに接近した。
【港湾地区・旧中央取引所裏口・午前4時17分】
扉前でアキトは立ち止まり、まず周囲を再確認する。倉庫街の静寂の中、遠くで波の音と空調の低い唸りだけが響く。人影はなく、警備員もまだ巡回ルートに入っていない。
ポケットから取り出した小型工具を、電子ロックの隙間に差し込む。数秒後、カチリと微かな音がして、扉の施錠が解除された。
「よし、通れる」
黒の作業着に着替えた姿で、アキトは静かに扉を押し開ける。開口部のわずかな隙間から湿った倉庫内の空気が流れ込み、金属と古い塗料の匂いが鼻をかすめた。
足音を立てないよう、かかとをわずかに浮かせながら一歩ずつ中へ。薄暗い倉庫内には、埃の漂う空気と、遠くで響く小さな機械音だけが残っている。
アキトは壁沿いに身を寄せ、暗視ゴーグルを取り出して装着した。視界に広がるのは、わずかに点灯した蛍光灯の光が差す狭い通路と、鋼鉄製の観音扉。その奥に眠る“第零保管室”への道筋が、彼の脳裏に正確に描かれる。
「……準備完了」
低く息を吐き、アキトは無音のまま地下通路へと滑り込んだ。壁に沿って進む足取りは熟練のそれで、わずかな振動も周囲に伝わらない。通路の湿ったコンクリート、錆びた鉄骨、折れた配線。全てを把握しながら、一歩ずつ、目的地へ――。
【港湾地区・旧中央取引所・地下2階通路・午前4時15分】
コンクリートの冷たさが、靴底を通してじんわりと体に伝わる。湿った空気の中、わずかに漂う鉄と塗料の匂いが、静まり返った地下空間を支配していた。
アキトは暗視ゴーグル越しに周囲を確認する。照明はほとんど消えており、壁や配管の影に隠れた監視機器や障害物が、ゴーグルのモノクロ映像に浮かび上がる。
足音を立てぬよう、かかとをわずかに浮かせながら、壁沿いを滑るように進む。
手には特殊工具と、通信用の小型端末。背中には作業員風に偽装したコートがかかり、胸元には偽造IDが固定されている。
「死角は……この通路だけ」
心の中で確認し、呼吸を整える。目標は奥の鋼鉄製観音扉――そこに、黒城が残した“真実”が眠る第零保管室がある。
通路の角を曲がり、足元の障害物を確かめながら慎重に進むアキト。静寂の中、彼の呼吸と衣擦れの音だけが、この地下にわずかに響く。
「……もうすぐだ」
地下の暗闇に溶け込みながら、アキトは次の行動を見据えて進む。
【旧中央取引所・地下ホール・午前4時30分】
深い闇の中、黒城の姿が浮かび上がる。黒装束に身を包み、端末と散乱した設計図の上に立つその姿は、まるで地下空間そのものを支配しているかのようだった。
鋭い眼光がアキトの動きを捕らえる。壁の影から静かに覗き込む彼の姿に、黒城の目は一瞬で注がれた。
アキトは息を殺し、微動だにせず背を壁に預ける。通路の空気は重く、湿気と鉄の匂いが鼻腔を刺激する。
「……やはり、奴がいる」
心の中で確認しつつ、足元の障害物を慎重に避けながら、黒城の背後へ回る狭所通路へと体を滑らせる。
緊張が空間を張り詰めさせ、わずかな衣擦れの音も闇に吸い込まれる。
地下ホールに漂う沈黙の中で、二人の視線が鋭く交差する。
【旧中央取引所・地下ホール・午前4時30分】
深い闇の中、黒城の姿が浮かび上がる。黒装束に身を包み、端末と散乱した設計図の上に立つその姿は、まるで地下空間そのものを支配しているかのようだった。
鋭い眼光がアキトの動きを捕らえる。壁の影から静かに覗き込む彼の姿に、黒城の目は一瞬で注がれた。
アキトは息を殺し、微動だにせず背を壁に預ける。通路の空気は重く、湿気と鉄の匂いが鼻腔を刺激する。
「……やはり、奴がいる」
心の中で確認しつつ、足元の障害物を慎重に避けながら、黒城の背後へ回る狭所通路へと体を滑らせる。
緊張が空間を張り詰めさせ、わずかな衣擦れの音も闇に吸い込まれる。
地下ホールに漂う沈黙の中で、二人の視線が鋭く交差する。
【旧中央取引所・地下保管室・午前4時32分】
重い金属扉が背後で軋む音を立てながら閉じ、外の気配は完全に遮断された。
その瞬間、地下室内に広がったのは、圧迫感を帯びた静寂だけだった。
アキトは息を殺し、壁際に身を潜める。暗視ゴーグル越しに黒城の姿を確認すると、男は散乱した資料と設計図の前で静かに動いていた。
小さな呼吸の音すら、耳に突き刺さる。
アキトの指先は、狭所通路へ通じる通風パネルの位置を正確に探り当てていた。
「……ここからだ」
心の中で呟くと、彼は微動だにせず、黒城の背後へ回る最短ルートを慎重に選ぶ。
扉の向こう、外界の雑音は完全に消え、地下空間の冷気と静寂が、二人の距離感をさらに緊張させていた。
【旧中央取引所・地下保管室・午前4時34分】
アキトは通風パネルに手をかけ、静かに外して内部に潜り込む。
狭く、湿った空気が肺にまとわりつく。鉄骨の影に沿いながら、壁際を滑るように進む。
視界の端で、黒城が資料をめくる手の動きが光に反射する。
彼の背後に回るには、わずかな気配も許されない。
アキトは呼吸を整え、慎重にステップを刻む。
小石が床に触れ、かすかに鳴る音も、暗視ゴーグルの緑色の光が拾ってしまうかもしれない。
「……あと数歩で、背後だ」
その瞬間、黒城の視線がふと上がる。
アキトは動きを止め、影の中に身を隠す。
金属扉の軋む音も、遠くの機械の低い唸りも、この緊張の中では音楽のように鮮明だった。
背後に回るまでの時間は、静寂に押しつぶされそうになるほど長く感じられた。
【旧中央取引所・地下保管室・午前4時36分】
アキトは壁沿いに身を寄せ、黒城の背後へ慎重に移動する。
影の中で微かに体を低くし、手元のナイフを握り直す。
黒城は資料をめくりながら、紙面に目を凝らしている。
その手元の動きが一瞬止まった隙に、アキトはさらに一歩、影の奥へ滑り込む。
暗視ゴーグル越しに、床のわずかな反射や鉄骨の輪郭を追う。
ほんの僅かな光の差異が、黒城の位置を示す目印となる。
「……今だ」
息を殺し、アキトは資料のすぐ背後まで回り込む。
彼の存在は、まだ黒城には気づかれていない。
静寂は、戦いの前の凍りついた空気のように、二人を包んでいた。
【旧中央取引所・地下保管室・午前4時37分】
スモーク弾が床に転がると、白い煙が瞬く間に保管室を満たした。
視界が歪む中、アキトは黒城の背後に忍び寄る。
金属音は、床に仕掛けた簡易トラップが作動した音だった。
鉄製の板がわずかに傾き、黒城の足元で小さく軋む。
黒城は一瞬だけ視線を下に落とす。
その瞬間、アキトは刃を握り、最短距離で背後から接近する。
「……逃さない」
息を殺し、計算された動作で距離を詰める。
罠に気づいた瞬間にはもう遅い――それが、アキトの“ルートマスター”的戦術だった。
【旧中央取引所・地下保管室・午前4時38分】
黒城の手が反射的に動く。
だが、アキトは事前に読み切っていた。
黒城が手にしたナイフの動線に沿って、床の振動板が微妙に傾き、体勢を崩させる。
「……なっ!?」
黒城の低い唸り声が、スモークと鉄の匂いの中に響いた。
視界のわずかな揺らぎを利用して、アキトは素早く距離を詰め、片手で黒城の手首を制し、もう一方の手で背後から軽く押す。
スモークの向こうで、黒城の足が空を蹴るように宙をかすめ、バランスを崩した。
アキトはその瞬間、黒城を制圧する体勢を整え、密着したまま安全に床に押し倒す。
「これで……終わりだ」
地下保管室に、短く、しかし確実な沈黙が訪れた。
床板の小さな軋みと、煙が薄れていく音だけが残る。
【旧中央取引所・地下保管室・午前4時40分】
アキトは低く身を構え、暗視ゴーグル越しに黒城を睨む。
床の振動、壁に反射する足音、スモークの濃淡――すべてが計算のうえにある。
「……やっと会えたな、黒城」
声は抑えられているが、鋭い響きが空間に染み渡る。
黒城は片眉を上げ、淡い笑みを崩さず、ゆっくりと手を広げた。
「お前が来るのは読んでいたよ、アキト。だが、ここで終わるとは思うな」
防弾装甲の下からわずかに動く装備。
その瞬間、アキトは微動だにせず、次の一手を待つ。
地下の暗がりに、二人だけの緊張が張り詰めたまま漂う。
【旧中央取引所・地下保管室・午前4時42分】
アキトは静かに右手を伸ばし、腰の側面から小型装置を取り出す。
それは光学迷彩と連動した微小ドローン。黒城の死角に忍ばせ、動きのデータを即座に解析させるためのものだ。
「――これで、動きを読む」
暗視ゴーグル越しに、ドローンのカメラ映像が頭上のHUDに投影される。
黒城の装甲の隙間、武装の重量、足の運び――すべてリアルタイムで計算され、アキトの脳に伝わる。
黒城は、床に落ちた破損端末を軽く蹴り上げる。
「計画通りにはいかないようだな……」
アキトの指先がわずかに動く。
彼の周囲にはほとんど音がなく、ただ二人の呼吸と、湿ったコンクリートに吸い込まれる足音だけが響いた。
「……次の瞬間が勝負だ」
アキトの心中で計算が終わり、体が次の動作に同期する。
闇と鉄骨の迷路の中で、静かなる戦いのカウントダウンが始まっていた。
【旧中央取引所・地下保管室・午前4時45分】
黒城が一歩踏み出すと同時に、アキトは腰の側面から発光信号を小さく放つ。
瞬間、ドローンが床に散らばる破損端末の陰から滑り出し、黒城の背後へと侵入。
「これで終わりだ――」
黒城は振り返る間もなく、アキトの計算通りの位置で足元をすくわれる。
微細なワイヤートラップが起動し、黒城の動きを制限。装甲の間に仕込まれた軽量衝撃装置がわずかな電撃を流す。
黒城の体が一瞬、硬直する。
そして次の瞬間、彼は膝をつき、床に崩れ落ちた。
アキトは息を整えながら、ゆっくりと黒城に近づく。
手元の端末でデータを即座に吸い上げ、設計図と不正記録を確保。
これで、長く続いた黒城の計画は、完全に止められたのだ。
「――勝負、着いた」
湿った地下空間に、静かな達成感が広がる。
外では夜明けの光が港湾地区を淡く染め始めていた。
【編集室・午前7時30分】
蛍光灯の光が無機質に照らす編集室。
夜勤明けの記者やスタッフが慌ただしく動く中、藤堂は静かにデスクに腰を下ろしていた。
モニターには今朝のニュース速報が繰り返し流れる。
「旧中央取引所、密輸拠点の可能性」
「不審火の原因は調査中」
「地元企業関係者が拘束」
藤堂はヘッドセットを耳に当て、手元のUSBメモリから映像を再生。
そこには、玲たちが確保した設計図やデータ、そして黒城の潜入行動の痕跡までが収められていた。
「……これは大スクープになる」
声には抑えきれない興奮が滲む。
同僚のスタッフが近づき、画面を覗き込む。
「藤堂さん、この映像……本当に港湾地区で起きたことですか?」
「間違いない。全て、今回の取材で押さえた事実だ」
藤堂はモニターの映像を一瞥し、再び手元の資料に目を落とす。
細部まで解析されたデータが、ニュース原稿として完璧に整えられることを、彼は理解していた。
「さあ、全国放送だ……」
外では、東京湾岸の朝日が港を淡く照らし始めていた。
街はまだ目覚めたばかりだが、今回の事件は、間違いなく人々の記憶に刻まれるだろう。
【編集室・午前8時】
スタジオの照明が明るく点灯し、全国放送のニュース番組が始まる。
藤堂はカメラの前に座り、原稿を手元に置き、深呼吸してから画面を見つめる。
「おはようございます。本日は緊急特集として、港湾地区旧中央取引所で発覚した重大事件についてお伝えします」
モニターには、玲たちが押さえた設計図、散乱する端末、そして封鎖された地下通路の映像が映し出される。
藤堂の声は落ち着いているが、内容の重大さが自然と視聴者に伝わる。
「今回の調査で明らかになったのは、違法建設や不正資金の隠匿行為、そしてそれを操作した組織の存在です。警察当局も捜査に着手しています」
スタジオの大型スクリーンには、港湾地区の夜明け前の映像が映し出され、現場の静寂と緊張が伝わる。
「関係者からの証言や押収された資料によって、事件の全貌が徐々に明らかになりつつあります」
藤堂は画面を一瞥し、次の映像に切り替える。
そこには、黒城の潜入痕跡や、玲たちが回収した証拠の詳細が映されていた。
「本日午前、関係者の拘束も確認され、事件の全容解明が進められています。視聴者の皆様には、続報をお伝えしてまいります」
放送室の空気は緊張感に包まれる。
東京湾岸の朝日が港を照らし、街が目覚める中、全国の視聴者がこの一連の事件に釘付けになっていた。
【編集室・午前8時15分】
藤堂の指先はキーボードの上で正確に動き続ける。
一連の映像、証拠写真、押収資料――それらを整理し、編集し、全国放送用のニュースファイルへと変換していく。
「よし……全件アップロード完了」
小さなクリック音が室内に響く。
サーバーの中でデータが整列し、全国各地の放送局へと流れていく。
画面には、港湾地区旧中央取引所の夜明け前、散乱する端末や設計図、そして監視カメラに映った黒城の痕跡が次々と表示される。
「これで……全国に、真実が届く」
藤堂の瞳には緊張と覚悟が混ざる。
夜が明け、街が静かに目覚めるその瞬間、彼の指先が止まらない限り、事件の全貌は隠されることなく、全国の人々の目に映し出される。
外の空気には、蒸し暑い夏の香りと、港の潮風。
だが室内には、真実が拡散する冷たい光だけが満ちていた。
【編集室・午前8時20分】
藤堂の操作で全国の放送局へ送られたニュースデータは、瞬時に先輩ディスク――局内外の編集担当者やニュースデスクの端末にも届いた。
「受信確認。映像・音声・資料、すべて揃っているな」
先輩ディスクの一人が淡々と操作パネルを叩く。
画面には港湾地区旧中央取引所の映像が再生され、散乱する端末、設計図、そして黒城の影が映る。
「速報で全国に流す。視聴者には事実だけを届ける」
各デスクから指示が飛び交い、即座にニュース原稿が整えられる。
カメラは既に編集済みの映像を回し、ナレーションはライブで流される準備が整った。
「よし、放送開始」
モニターの光が一斉に点灯し、テレビ画面の中で藤堂の報道映像が全国へと届けられる。
ニュース原稿は正確無比に、しかし緊迫感をもって読み上げられた。
視聴者の目に映るのは、港湾地区旧中央取引所の全貌と、違法建設・不正資金流用の証拠、そして関係者の行動記録。
藤堂は画面を見つめ、深く息を吐く。
「これで……真実は、もう隠せない」
外の港町には夏の朝の光が差し込み始め、全国の家庭に、長い間覆い隠されていた事件の真実が、一気に届こうとしていた。
【玲探偵事務所・午後4時】
玲は窓際の机に肘をつき、山積みの資料を前に静かに考え込んでいた。
朱音はスケッチブックを広げ、先日の現場で見た光景や人物の姿を描き写している。
「……ねえ、玲さん。あの人、もう来ないの?」
朱音の小さな声に、玲は目を細めて答える。
「黒城か? もう動けないはずだ。今回の件は終わった」
背後では、瀬名が解析用の端末に向かい、残されたデータを整理していた。
細かい数値やログを眺めながら、彼女は淡々とメモを取り、時折口元で小さく呟く。
「計画通りにはいかなかった部分もあるけど……全体としては制御可能だったわね」
玲はその言葉に軽く頷く。
事務所の静寂に、わずかに扇風機の羽根が回る音だけが響いていた。
遠くの港から聞こえる波音や、街のざわめきが、平穏の証のように感じられる。
「さて……これからが本当の整理だ」
玲は資料の山に手を伸ばす。
事件の痕跡は残っている――だが、もう彼らの目の前には、平穏な日常が広がっていた。
【玲探偵事務所・夕暮れ】
オレンジ色の西日が、事務所の壁や床を柔らかく染めている。
窓際には朱音が座り、今日見聞きしたことを小さな声で繰り返しながらスケッチブックに描き続けていた。
玲は椅子にもたれ、深く息を吐く。
「事件はひとまず終わった……だが、世界はまだ変わらない」
瀬名は解析端末の最後のログを閉じ、淡々と整理を終える。
「残されたものは整理しておかないとね。次に備えるために」
玲は静かに窓の外を見やる。
港の風がカーテンを揺らし、遠くの波音が微かに聞こえる。
沈黙の中に、平穏が少しずつ戻ってくるのを感じた。
「……朱音、また描いておくんだな」
朱音は顔を上げ、小さく頷いた。
「うん。忘れないように」
玲は最後の資料に目を落とし、静かに机の上で手を組む。
今日の戦いは終わった――だが、記憶と証拠は、未来へと繋がっていく。
窓の外、夕陽が港の水面を朱色に染める。
玲探偵事務所には、ようやく落ち着いた時間が流れ始めた。
――幕。
【玲探偵事務所・夕暮れ後】
アキトは軽い足取りで事務所に入り、背中のリュックを下ろすと、窓際の椅子に腰かけた。
「玲、少し休んでると思ったら、まだ資料整理か」
玲は書類に目を落としたまま、淡く笑む。
「事件は終わったが、記録は残しておかないと。忘れられた真実は、いつか誰かを傷つける」
朱音はスケッチブックを抱え、窓の外の夕陽を描いていた。
「アキトさん、また一緒に調査に行く?」
アキトは肩をすくめ、少し照れくさそうに答える。
「まあ、呼ばれればね。でも今は……こういう時間も悪くない」
瀬名は解析端末を閉じ、静かに二人を見守る。
「玲さん、過去のデータも整理し終われば、もっと楽になるはずです」
玲は書棚に視線を移し、微かに頷く。
「そうだな……整理は終わりがないけれど、少しずつでも前に進むしかない」
港の風が窓を通り抜け、紙片や資料をそっと揺らす。
玲は窓の外の夕陽を見つめながら、胸の奥で静かな決意を固める。
過去の事件、封印された真実――
それらを抱えながらも、明日へ向かう準備を、彼は着実に整えていた。
了解です。それを踏まえて修正します。
⸻
【紫苑・後日談】
山の奥、杉木立に囲まれた静かな集落。
夕暮れの風が梢を渡り、小さな焚き火の炎を揺らしていた。
紫苑は焚き火のそばに座り、黒装束の袖を整えながら、静かに炎を見つめていた。
「……こんな日が来るとはな」
声は低く、落ち着いているが、どこかほっとした響きもあった。
遠くから足音が近づく。
アキトがふらりと現れ、焚き火の光に照らされた紫苑の横に腰を下ろす。
「休める時間も、そう多くはないな」
紫苑は微かに肩をすくめ、炎に手をかざす。
「それでも……こうして静かな夜は悪くない」
二人の影が揺れる焚き火の中で、過去の戦いの余韻と、これから向かう未来への決意が静かに交差していた。
【橘奈々・後日談】
地下へ降りる階段を抜けた先、ひんやりとした空気に包まれた分析室。
壁面を埋め尽くすように並んだモニターが、同時に複数の映像とデータを映し出している。
中央のデスクでは、橘奈々がヘッドセットをつけ、手元のキーボードを軽やかに叩いていた。
「……ふう、やっとひと段落」
小さく息をつきながら、奈々は画面上の情報を整理する。
背後から、静かな足音。アキトがふらりと現れ、椅子の背に手をかける。
「また新しい案件か?」
奈々は一瞬だけ視線を上げ、微かに笑む。
「ええ、でも今回は少し余裕があります。アナタが来たから手伝ってもらうかもね」
アキトは椅子に腰をかけ、指でデスクの端をトントン叩きながらにやりと笑う。
「手伝うって、奈々。前回は俺が操作ミスで君に怒鳴られたんだぞ」
「今回は大丈夫。機械が人間を怒鳴ることはないから」
アキトは肩をすくめて、「それもそうだな」と笑う。
奈々はキーボードを打ちながら、ふと顔を上げてからアキトに言う。
「でも、どうしても雑談しながらじゃないと作業が進まないんですよね、私」
「雑談……俺たち、仕事の合間にいつもゲームの話ばかりしてたじゃん」
「そう。でも今回はデータをゲームキャラに例えて分析してみます?」
「それは…楽しそうだな。奈々、君の発想は天才的だ」
笑い声が分析室に響き、モニターの青白い光と混ざり合う。
二人の軽口と冗談が、緊張感の残る空間をやわらかく包み込む。
「じゃあ始めますか、本番」
「ええ、準備は万端です」
過去の事件を振り返りつつ、未来へ向けて再び動き出す二人。
【沙耶・後日談】
海風に吹かれながら、沙耶はひとりベンチに座っていた。
白いスニーカーのつま先は砂浜の方を向き、膝の上に置いた両手は、小さな貝殻をいじるようにして静かに動いていた。
指先でなぞるその表面の感触が、やけに鮮明に伝わってくる。
背後から、砂を踏む音。アキトがふらっと現れる。
「また海見に来たのか?」
沙耶は驚いたように顔を上げ、少しだけ眉をひそめる。
「うるさいな、来るなら来るって言ってよ」
「それじゃサプライズにならないだろ」
アキトは無邪気に肩をすくめて笑う。
沙耶は貝殻を一つ、手のひらに転がしながら小さくため息をつく。
「……こういう日も、悪くないね」
「悪くないって……君、普段は戦場の真ん中にいる人だろ?」
「だからこそ、こういう時間は必要なの」
アキトは砂浜に腰を下ろし、遠くに揺れる波を眺めながらつぶやく。
「俺は……君のその切り替え、羨ましいな」
「羨ましいって、何よ。ちょっとは褒めてるんだろうけど、変な言い方」
少しの沈黙が海風に溶け、二人の間を柔らかく満たす。
アキトが砂を蹴り、軽く笑う。
「よし、じゃあここからは二人で貝殻コレクション始めるか」
沙耶は思わず吹き出す。
「……本当に、君は変な奴ね」
ぎこちないけれど、確かに楽しげな笑い声が、静かな浜辺に響いた。
――事件の後も、二人の時間は少しずつ、だが確実に動き続けている。
【アキト・後日談】
工具箱の蓋を音もなく閉じると、アキトは背筋を伸ばして立ち上がった。
夏の夕暮れはまだ明るく、裏路地の電線の向こうに、薄橙色の空が広がっていた。
「今日も作業は順調か?」
後ろから声がした。振り返ると、橘奈々がヘッドセットを外しながら立っている。
「順調だ。君のデータ解析もバッチリだろう?」
「当たり前でしょ。あなたの現場と私の画面がうまく噛み合えば怖いものなし」
アキトは工具箱を肩に掛け、軽く笑う。
「相変わらず口は達者だな。だが、頼もしい」
「頼もしいって……まあ、悪くないかもね」
二人の間に、少しだけ間が流れる。
「夕飯はどうする?このまま帰る?」
「いや、このまま路地の角を曲がって、屋台のたこ焼きでも買って帰るか」
「またそれ?でも……いいわね。夏の夕暮れに屋台って、ちょっと青春っぽいし」
アキトは肩をすくめて微笑む。
「じゃあ決まりだ。俺たちのささやかな日常、確保していこう」
裏路地に、工具箱と二人の影がゆっくりと伸びる。
事件の喧騒は遠く、今はただ、静かで、少しだけ温かい時間が流れていた。
【藤堂・後日談】
ニューススタジオの照明が落ち、ビル全体が夜の静寂に包まれても――
藤堂の机だけはまだ灯っていた。モニターには、朝の特番や未整理の映像素材が映り続けている。
「まだ仕事か……」
背後から声がした。振り返ると、アキトがふらりと立っている。
「お疲れ様、藤堂。元気出せよ」
「……元気? 見ろよ、この山積みの素材を」
「だから、こういう時はコーヒーでも一杯だろう」
「それができれば苦労しないっての!」
アキトは笑いながら机の上に手を置き、軽く藤堂の肩を叩く。
「無理に笑わなくてもいい。でもな、こうして夜中に頑張ってるお前は……確実に世界を動かしてる」
「……うるさいな。でも、少しは救われるかもな」
二人の間に、ささやかな静寂が流れる。
「じゃあさ、明日も一緒にモニター見守るか?」
「……ま、悪くないな」
アキトは笑みを残し、夜のスタジオに溶けていく。
藤堂は再びモニターに視線を落としながらも、わずかに肩の力が抜けていた。
事件も報道も、日常も――すべてが、少しずつ前に進んでいるのを感じながら。
黒城のあとがき
港湾地区旧中央取引所――かつての闇を閉じ込めたその地下空間は、今や静寂だけが支配している。
黒城修也――都市再開発の指揮者であり、事件の核心に立った男――は、最後の瞬間まで冷静さを失わなかった。だが、彼の計画は、ルートマスターであるアキトと玲たちの的確な行動によって阻まれた。
黒城は表舞台から消えることになる。しかし、この事件が残したものは、単なる勝敗以上に大きい。地下の密室に隠された違法の証拠、改ざんされた設計図、そして操作された人の心理――すべてが、人間社会の不確実さを浮き彫りにした。
ルートマスターとしてのアキトの能力は、この事件でも圧倒的だった。人の心理と物理の両面を読み解き、最小の動きで最大の効果を生む。だが、物語の後半で見せた藤堂との日常的なやり取りや、仲間との掛け合いが示すのは、ただの計算者ではない人間的側面だ。冷徹と温かさ、計画と感情が同居する男――それがアキトである。
そして藤堂――報道の最前線で真実を伝える者――の存在も忘れてはならない。事件の幕間に流れる情報の整理、全国への発信、そして観る者の心に刻まれる“真実の光”は、報道が持つ力の証左だ。
本作が描いたのは、単なる事件の解決ではない。
人の心、心理の駆け引き、正義と保身の間で揺れる選択。そして、誰かが残したルートを辿ることでしか見えない真実。
黒城が描いた野望と、アキトが操った“ルート”――その交錯は、現実と紙一重の緊張感を生んだ。
読者には、この物語を通じて、人間の計算と偶然、そして意志が織りなす複雑な世界を感じてほしい。
事件は終わった。
しかし、そこに残された影と光は、まだどこかで揺れている。




