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85話 選択の代償

れい


冷静沈着な探偵。旧中央取引所に絡む事件の指揮をとり、仲間への信頼とともに自身も成長していく。かつてはアキトを追っていた立場だったが、現在はその力を借りるまでに関係が変化。



■ アキト


変装と戦術指揮を自在に操る「ルートマスター」。地形と状況を完全に把握し、作戦の中枢を担う。黒城との対決では決定的な動きを見せ、作戦の要となった。



紫苑しおん


服部一族を率いる冷静な剣士。旧中央取引所での作戦では、夜明けとともに一族を率いて現場制圧に貢献。戦いの後は山間の集落に戻り、静かに修行と備えを続ける。



成瀬由宇なるせ ゆう


影班のメンバー。クールで物静かだが任務は確実にこなす。玲探偵事務所の作戦室でも存在感を放つ。



桐野詩乃きりの しの


毒物処理と痕跡消去のスペシャリスト。皮肉屋だが仲間への思いやりも強く、現場では鋭い判断力を見せる。



■ 橘奈々(たちばな なな)


玲探偵事務所の分析担当。複数のモニターとAIを駆使して情報処理を行う。常に冷静で、戦術支援の要でもある。



沙耶さや


感情と直感で動くチームの心の支柱。作戦が終わった後は海辺のベンチで静かに思いにふける姿も。



藤堂とうどう


報道局に所属する記者。名を明かさないが、その腕と信念で事件の真実を世に送り出す。旧中央取引所の事件でも決定的な一文を報じた。



黒城くろしろ


事件の黒幕。旧中央取引所に潜み、かつての汚職や記録隠蔽に関わっていた人物。アキトと玲の連携により追い詰められた。

【2025年8月3日 午前3時42分・玲探偵事務所・作戦室】


 壁際の古びた時計が、コチ、コチ、と静かな秒針の音を刻んでいた。

 それはまるで、戦いの時を告げる“カウントダウン”のようだった。


 薄暗い照明の下、円卓の中央には、広げられた港湾地区の航空地図と、旧中央取引所の設計図。

 赤と青のマーカー線がいくつも走り、侵入ルート、警備の巡回ライン、ブラインドスポット、緊急脱出経路……すべてが戦術図として描かれている。


 エアコンが低音を唸らせながら稼働していたが、それでも真夏特有の湿気がじわりと肌にまとわりついていた。

 空調の効いた室内のはずなのに、背中にはうっすらと汗が滲む。

 それは湿度のせいか、それとも――これから始まる決戦の予感か。


 玲が、卓上のペンを置いた。

 指先が静かに地図上の一点を指し示す。


「ここだ。旧中央取引所の地下通路。このポイント――“閉鎖済”とされているが、実際は……封鎖されていない」


 そこには小さく赤丸が記されていた。

 地図の右下、古い貨物用エレベーターの裏に隠された、誰も気づかないスロープ通路。


 玲の目は鋭く、だがどこか静かな闘志を秘めている。


「黒城が狙っているのは、そのさらに奥……“第零保管室”。設計図が眠っている場所だ」


 アキトが黙って地図を覗き込み、短く息をつく。


「地下2階経由……つまり、まだあの男は港を離れていないってことだな」


 彼の言葉に誰も反論しなかった。

 沈黙が数秒流れ――それを破ったのは、影班の由宇だった。


「正面突破は論外だ。夜明けまでに、裏手から潜入する」


 彼は無言で自分の装備を確認しながら、冷静に銃のマガジンを差し直す。

 その動作には、これまで何度も死地を潜ってきた者の無駄のない緊張感があった。


 詩乃がノート端末をスワイプしながら口を開いた。


「監視カメラは三重。港湾局と旧取引所のシステムが統合されてて、簡単にはいかない。でも……十秒間だけ、死角を作れる。セクター8から12へ移行する瞬間を狙って」


 玲はそれを聞き、頷く。

 チームの視線が自然と玲の元に集まる。


「目的は、黒城の動きを封じて設計図を確保すること。それ以外の交戦は避ける。余計な血は、もういらない」


 その言葉に全員が静かにうなずいた――戦う理由は復讐ではない。真実を、未来へつなぐためだ。


 そのとき、玲のスマートフォンが震えた。

 机の上でバイブレーション音を響かせながら、画面に小さな通知が浮かぶ。


 ――匿名送信者からの動画ファイル。


 玲は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに無言で再生する。

 そこに映っていたのは、灯りの少ない倉庫の一角。


 その中央に、あの男――黒城修也がいた。

 スーツ姿のまま、鋭い視線でカメラを睨み、低く笑う。


『次は港で会おう、玲。……終わらせに来い』


 その声は短く、そして切断された。

 静寂が作戦室に戻ってくる。


 玲はスマホを伏せ、ふっと息を吐いた。


「……全員、準備を。作戦開始は、午前4時20分。

 アキト、お前は第一潜入。今回のルートマスターは任せた」


 アキトは、迷いなく頷いた。


「了解。今回は……俺が道をつくる」


【2025年8月3日 午前4時27分・旧中央取引所 裏手】


 夜明け前の港町は、蒸し暑い風と潮の匂いに満ちていた。

 東の空がほんのりと赤みを帯び始めていたが、古びた倉庫群の中にある旧中央取引所の裏手は、まだ夜の静けさに包まれていた。


 ――この街が目を覚ます前に、終わらせる。


 アキトは物陰からすっと姿を現す。

 無音の足取りで監視カメラの死角を縫いながら、裏口の鉄製ドアに接近。

 ポケットから特殊工具を取り出し、数秒で電子ロックを解除する。

 カチリ、と小さな音。


 ドアを押し開けると同時に、アキトは着ていた黒のジャケットを脱ぎ、別のコートを羽織った。

 中に用意していた作業員風のシャツと名札、通信端末。

 「民間警備会社・再調査部門」の名義で登録された身分証を胸元に挿し込む。


 この施設の内部に残る少数の警備は、外部の臨時人員の出入りを許可されていた――

 だが、その“わずかな緩み”も、彼には十分だった。


 「搬入業者は目立つ。だが、調査員なら裏手を通るのも不自然じゃない」


 声に出さず、心の中で確認する。

 アキトは今やチームの“ルートマスター”。

 地形と人の流れ、警備の間合い、監視カメラの位置――すべてを把握し、誰よりも静かに、正確に潜入する。



【午前4時38分・旧中央取引所 地下通路】


 金属の匂いと古びた塗料の匂いが漂う中、アキトは無言で歩き続けていた。

 地下1階、そしてさらに降りた地下2階の通路――

 照明は古く、ほとんどの蛍光灯がちらついていた。まるで、そこがすでに“死んだ施設”であることを語っているかのように。


 だが、死んでいない。

 奥には“生きている何か”がある。


 アキトは手の端末を操作し、地下の気圧センサーと熱反応を確認した。

 静かに目を細める。


 「……黒城、いるな」


 反応はひとつ。

 だがその動きは、常人のそれとは明らかに違っていた。

 狭所を駆け、立ち止まり、消え、また現れる――まるで狩りを楽しんでいるような動きだ。



【午前4時44分・旧中央取引所 地下第零保管室 直前】


 アキトは壁沿いの通路を滑るように進み、やがて一枚の大扉の前にたどり着いた。

 鋼鉄製の観音扉。その先には“設計図”が眠る保管室。


 だが――その場に立つ前に、誰かの気配があった。


 「ようやく来たか、潜入の名手」


 低く、くぐもった声が、背後から聞こえる。


 アキトが振り返ると、そこにいたのは黒城修也だった。

 スーツのジャケットを脱ぎ、黒いシャツの袖をまくり上げていた。

 目だけが冷たく、笑っていない。


 「玲の駒にしては、動きが冴えてるじゃないか。……いや、もう“お前の手”で動いてるのか?」


 アキトは無言で身構えた。

 静かにスイッチブレードを抜く。


 「この道は、俺が選んだ。あんたを逃がす道は……もう、ない」



【午前4時49分・旧中央取引所 地下通路・戦闘】


 通路に鋭い金属音が響き、火花が散る。

 アキトの動きは、地形を熟知した者のそれだった。

 狭所では身を低くし、鉄骨の支柱を利用して相手の間合いを断つ。

 空調ダクトからの風を読み、黒城の背後をとる。


 「そこか!」


 黒城の拳が壁を砕く。だが、それすらもアキトは誘導の一部として使っていた。

 罠、構造物、反響音。

 ――すべてがアキトの武器になる。


 そしてその瞬間――


 「アキト!」


 背後から、玲の声が届いた。

 振り向かずとも、彼女が背中を守ってくれることは分かっていた。


 玲の放った閃光弾が黒城の視界を奪い、その隙にアキトが突進。

 ブレードの先が黒城の肩口を貫き、彼の膝が折れる。


 決着は、一瞬だった。



【午前5時02分・旧中央取引所 地下第零保管室】


 鍵が外され、重たい扉が軋む音を立てて開く。

 そこには確かに“真実”があった。

 過去の取引記録、設計図、改ざんされたデータのオリジナル――


 アキトが静かにUSBドライブにデータを移し終えると、玲が小さく呟いた。


 「今までは、あんたの背中を追ってた。でも……今は、手を借りてるんだな」


 アキトは、少しだけ笑った。


 「……たまには、頼らせてもらうさ」



【午前5時08分・旧中央取引所 外周】


 突如、無音で黒装束の一団が施設の周囲に現れる。


 紫苑が先頭に立ち、指を一本掲げる。


 「服部一族、制圧・撤収。残り三分で完了だ」


【2025年8月3日 午前7時10分・都内某テレビ局・報道編集室】


 編集室の照明は、夜明けの光よりも鋭くまぶしい。

 壁の時計が午前七時を指す頃、一人の男がPCモニターに目を落としていた。


 藤堂。

 ジャケットの下、シャツの襟はわずかに乱れている。

 徹夜明けの疲れを隠そうともせず、手元に届いたUSBメモリの中身に、静かに目を通していた。


 添えられていたのは手書きのメモ用紙――見覚えのある筆跡だった。

 《あとは、あんたの出番だ。俺たちは”現場”から退く。》


 藤堂はそれを一読し、口元に小さく笑みを浮かべた。


 「まったく……勝手に終わらせやがって」


 データの内容は明白だった。

 旧中央取引所内部で撮影された記録映像、黒城が裏で動かしていた金の流れ、虚偽申請された設計図の改ざんファイル。

 そして決定的なのは、黒城本人が関係者に指示を下している場面の音声だった。


 「これは……大きく波紋を呼ぶぞ」


 藤堂は椅子を回し、ニュース編集卓のスタッフに短く言い放った。


 「臨時特番に切り替えろ。――今すぐだ」



【2025年8月3日 午前8時00分・全国放送・特別報道番組】


「皆さま、おはようございます。本日は通常のニュース番組を一部変更し、臨時の報道特集をお送りします」


 カメラが静かに藤堂を映す。

 男は堂々とした声で語り始めた。語調は冷静だが、瞳には揺るぎない決意が宿っている。


「本日未明、都内旧中央取引所跡地にて、過去の都市開発事業に関わる重大な資料と証拠が発見されました。


 我々の調査、および協力者からの提供情報により、複数の官民関係者が不正資金の流用と改ざんに関与していた可能性が浮上しています。


 映像でご覧いただくのは、施設内部の隠し区画、そして押収された記録映像。証拠は明確であり、隠し通せるものではありません」


 藤堂の言葉はまっすぐに視聴者に突き刺さる。

 彼は資料の一枚一枚を掲示し、冷静に、事実だけを伝えた。


 最後にモニターへ表示されたのは、地下通路で撮影されたある人物の背中――

 装備を最低限に抑え、影のように駆け抜けるその男の姿。


 それは、名前を名乗ることのない協力者。

 だが、その動きは何より雄弁に、真実へ導く“現場の意思”を物語っていた。


「我々は知るべきだ。誰が、何を隠してきたのか。そして、この都市の未来を、どこに向けていくべきかを」


 報道の余波は、昼を待たずに広がり始める。

 SNSは騒ぎ、各局は後追いの報道に追われ、警察庁は早朝から緊急の記者会見を準備し始めた。


 だが、藤堂の仕事はすでに終わっていた。


 報道室の窓際、コーヒーを片手に彼は呟く。


 「……次は、どこだ。次の“声”が届くのは」


 また一つ、見えない正義が街の闇を切り裂いた。


【2025年8月3日 午前5時12分・旧中央取引所 地下ホール】


 鉄骨がむき出しの巨大空間――旧中央取引所の地下ホールは、封鎖された年月と闇をそのまま閉じ込めたように静まり返っていた。

 中央に立つのは黒城。かつての都市再開発の指揮者であり、いまは数々の罪の核心に立つ男。

 その足元には、破られた端末、散らばる設計図、そして彼の野望の残骸が転がっていた。


 四方を囲むように、玲、奈々、沙耶、柊啓一――それぞれが確保ポイントにつき、退路を塞いでいた。

 しかし、誰も油断はしていない。


 「……思ったより早かったな」


 黒城は静かに呟いた。だが、その目には焦燥がにじんでいる。

 額に汗を浮かべ、背後の脱出口に視線を送った瞬間――


 「無駄だ。背後の階段は封鎖済みだ」


 地下通路の陰から現れたのは、アキト。

 黒いパーカーの下には戦術ベスト。眼鏡を外し、コンタクト越しの鋭い視線が黒城を捉えていた。


 アキトは手元の小型端末でマップを確認すると、無線に短く命じた。


 「B3の換気シャフト経由、制圧完了。北側非常口に成瀬、南側通路に桐野配置済み。安斎、非常電源室へ移動開始」


 無駄のない、緻密な連携指示。

 ルートマスターとしての才覚が、現場を完全に制御していた。


 「動くな、黒城。君の選択肢はすでに一つだけだ」


 玲が静かに前へ出る。

 長いコートの裾が床を擦る音が、静寂の中に緊張を響かせた。


 「お前たち……俺を、潰すためだけにここまで……?」


 黒城の声はかすれていた。


 「違う」


 玲は首を振った。


 「俺たちは、すでに潰された“誰か”のために来た。――お前が見捨てた声の分だけ、ここにいる」


 一瞬の沈黙。そして黒城が叫ぶように銃を抜いた、その瞬間。


 「伏せろ!」


 アキトの指示が飛び、沙耶が横から煙幕弾を投げ込む。視界が白く染まった刹那、玲が地面を滑るように間合いを詰めた。


 銃声が一発、響く。


 だが、それは虚しく天井を撃ち抜いただけだった。

 煙の中から玲の腕が黒城の右手を捻り上げ、武器が床に転がる。


 「終わりだ、黒城」


 玲の声は、かつてないほど静かだった。



 直後、無線に紫苑の声が入る。


 「玲、こちら服部。3分以内に制圧完了、撤収準備入る。外は安全を確保済みだ」


 玲は応えながら、ふっと息をついた。


 「紫苑か……助かる」


 隣でアキトが再び端末を確認し、声を落とす。


 「設計図ファイル、確保。監視映像も全データ吸い上げ完了。メモは藤堂宛てに出した」


 「……完璧だな、アキト」


 玲はわずかに笑う。


 「昔は、お前を追ってばかりだった。今は……こうして、手を借りてるなんてな」


 「……あなたが、信じてくれるからですよ」


 アキトのその言葉に、玲は何も返さなかった。ただ、戦いの終わりに染まり始めた天井の光を見つめていた。


【2025年8月3日 午前5時05分・旧中央取引所 地下通路】


 アキトは背を壁に預け、暗視ゴーグル越しに通路の奥を確認した。湿気を含んだ空気の中、靴音ひとつすら慎重に制御する。

 すぐ右手には、さきほど見つけた通風パネル。ここから左翼の狭所通路へ抜ければ、黒城の背後へ回れる。


 「左壁のパネル、通路が繋がってる。そっちから黒城を挟み込む。玲、準備はいいか?」


 ≪問題ない。南側ルートは封鎖済み。啓一たちが位置についた≫


 玲の落ち着いた声が無線から返る。アキトは短く頷き、隣に控える沙耶と目を合わせた。


 「煙幕弾、念のためもう一つ準備を。桐野、後方監視を頼む。成瀬は非常階段の制圧、状況を見て合流してくれ」


 ≪了解。獲物は逃がさないわ≫


 桐野の静かな声に続いて、成瀬の声が無感情に入る。


 ≪階段ルート、排除完了。目標への接近を維持中≫


 すべてが、想定どおり。アキトは自らの配置図を一瞥し、かすかに息を吐いた。


 「……包囲完了まで、あと90秒」


 その言葉を合図に、潜入作戦は終盤へと突入する。



【2025年8月3日 午前5時15分・旧中央取引所 外周部】


 夜明けが港の輪郭を滲ませ始めた頃、紫苑は無言のまま取引所外壁を背に立っていた。

 黒の忍装束に身を包んだ服部一族のメンバーたちが、周囲の制圧と封鎖を次々に完了させていく。


 「地下ルート、完全制圧。外周の監視ドローン全機ジャミング済み。あと2分で撤収開始できる」


 紫苑は頷くと、通信機のスイッチを押した。


 「玲、全周囲制圧完了。制限時間内に撤収を」


 ≪助かる。あとはこちらで片付ける≫


 紫苑はその言葉に何も返さず、静かに踵を返した。



【2025年8月3日 午前6時12分・報道局 編集デスク・藤堂】


 明るくなり始めた東京湾岸の空を背に、藤堂は机上の資料を読み込んでいた。

 未明に届いた玲からのメモには、黒城の計画の概要、違法建設の設計図、証拠映像、複数の関係者の証言まで網羅されていた。


 藤堂は静かに眼鏡を外し、額を押さえる。

 「……これは、特集の一面じゃ済まないな」


 手元の端末でディレクターに連絡を入れながら、デスクの横に貼られたホワイトボードに一言だけ書き込む。


 > 『誰もが見えないと思った都市の闇。その中に、確かに目を凝らす者たちがいた』


 そして彼は、深く座り直すと、静かに口を開いた。


 「……じゃあ、やるか。これは俺の役目だ」


【2025年8月3日 午前3時57分・玲探偵事務所・作戦室】


 照明を落とした作戦室には、電子機器のかすかな作動音と、扇風機が首を振る音だけが響いていた。

 中央の円卓には、港湾地区一帯の地図と、旧中央取引所の詳細な見取り図が並ぶ。狭い通路、封鎖された搬入口、地下フロアの構造——赤と青のマーカーで埋め尽くされていた。


 玲は地図から視線を外すと、アキトの方を見た。

 「……ここから先は、君が主役だ」


 その声音に感情は少なかったが、確かに信頼があった。


 アキトはそれに短く頷くと、手元の暗視ゴーグルとマスクを確認しながら、淡々と答えた。

 「俺が行く。黒城が待つなら、なおさらだ」


 玲はわずかに目を細めた。

 「以前なら、俺がルートを示して君を導いていた……でも今は違う。君の判断が、チームを救う鍵になる」


 ふたりの間にあった沈黙は、ただの確認ではなく、次に進むための覚悟の静けさだった。


 その瞬間、無線機が短く鳴った。


 ≪外周監視網、完全遮断完了≫

 ≪服部一族、展開準備に入る≫


 玲は息を吐き、壁際の時計に視線を移した。午前4時——夜明けまで、もう1時間もない。


 「アキト、潜入開始」


 アキトは無言で立ち上がり、ヘッドセットを装着した。

 そして振り返らずに、作戦室を後にした。



【2025年8月5日・主要報道各社/全国ネットニュース】


 「続いてのニュースです。先日未明、港湾地区旧中央取引所にて、違法建設及び不正資金洗浄に関わる重大事件が発覚しました」


 「報道によれば、建築申請の不正操作、地下施設の違法改築、さらには政財界との癒着も疑われています」


 「今回の内部告発と調査資料を提出したのは、匿名の報道協力者及び民間調査機関。提供された証拠映像・設計図・音声記録により、関係各所の対応が迫られています」


 「また、複数の建設業者や行政職員が任意聴取を受けており、逮捕者が出るのも時間の問題とみられています」



【2025年8月6日・SNS/都市インフラ問題トレンド入り】


 「旧中央取引所、実は地下にあんな構造が……どこの映画だよ」

 「告発した人、命大丈夫なのか?めちゃくちゃリアルだった」

 「“見えない都市の歪みを見た”ってキャッチ、どこかの記者が天才」

 「こういうの、今まで見過ごされてたんだよな……」


 #旧中央取引所

 #設計図リーク

 #黒城とは誰か

 #見えない都市の闇

 #正義の告発者たち


【2025年8月3日 午前4時04分・旧中央取引所・地下通路入口】


 港の空が、わずかに群青色へと変わりはじめていた。

 夜と朝がせめぎ合う、この数分だけの静寂。街がまだ眠っているその隙を突くように、アキトは身をかがめて建物裏手の狭い通路を進んだ。


 革ジャンの襟を立て、深く呼吸を一つ。

 湿気と鉄の匂いが混じった空気が肺に入り、喉を焼くように重たい。


 地下通路入口。

 そこは誰の目にも止まらぬ死角、かつての業務用排気口を改造した密かな侵入口だった。アキトの肩には、小型のセンサー群とジャミング機能を備えた特殊装備が静かに輝いている。


 「アキト、聞こえるか」

 無線越しの玲の声は低く、しかし確かな信頼を含んでいた。


 「聞こえてる。今、通路の第一シャッター前。作動音はない。監視は切れてる」

 アキトは囁くように返し、左手で壁面を探る。

 あった。手のひらほどの鉄板の裏に、小さな電子パネルが埋め込まれている。


 起動。ピピッという音が鳴り、鋼鉄のシャッターが静かに開いた。


 「三分以内に内部の交差路まで進め。そこから先は、君の判断だ」

 玲の声はどこか、かつての自分が担っていた“ルートマスター”という役割をアキトに正式に委ねたようだった。


 「……了解。ルートは俺が切り開く。頼れるな、玲」

 アキトはわずかに笑い、そしてその笑みをすぐに消した。


 彼の中にあったのは、過去の敗北、失敗、そして救えなかった記憶。

 だからこそ、今度は——必ず到達する。


 アキトは身を沈め、シャッターの奥へと姿を消した。


 その背後で、再び無音の空気が支配する。


【2025年8月3日 午前4時10分・旧中央取引所 裏手倉庫街】


薄明かりの港湾地区、蒸し暑い夏の夜明け前。

倉庫街の雑然とした影の中で、アキトは黒い車の陰に身を隠しながら、身の回りの装備を手早く整えていた。


「搬入業者」の姿では、最近港の警戒が厳重になっており、目立ちすぎる。

そこで今回、彼が選んだのは「設備点検技術者」の身分だ。

作業着は灰色のつなぎ服に細かい工具箱、胸元には港湾管理局のIDバッジを模した偽造カードがきらりと光る。


額に汗を浮かべながらも、慣れた手つきでヘッドセットと軽量の暗視ゴーグルを装着する。

小型の検査機器を手に取り、周囲の動きを一度だけ見回した。


「……よし。これで通れるはずだ」

アキトは低く呟き、重い倉庫の扉に近づく。


入口のセキュリティパネルは、彼の特殊装備で一瞬にして無効化された。

警報は鳴らない。微かな電子音だけが彼の耳に届く。


薄暗い地下通路に足を踏み入れ、冷たいコンクリートの壁がひんやりと肌を撫でる。

湿った空気が重く、遠くで水滴が落ちる音が反響していた。


無線越しに玲の声が届く。

「アキト、状況は?」


「問題なし。監視は一時的に遮断済み。進行ルートを確保している」

アキトは冷静に返答しながら、壁に設置された古い配線箱を開けて中の状態を確認する。


突然、彼はバッグから細長い工具を取り出す。

内部の配線を手際よく操作し、さらに数分間だけ監視カメラの視界を遮る設定を加えた。


その間に再度、彼は変装を微調整する。

作業着のIDバッジはそのままだが、上着の袖をまくり、顔の汗を薄く拭い、視線を軽く下げることで、周囲の警戒心を和らげる。


「これで完璧だ」

アキトは低く言い、再び進み始める。


地下の迷路のような通路をゆっくり進みながら、アキトは頭の中で地図を組み立てていた。

黒城がいるとされる地下ホールへの最短ルート。狭く曲がりくねった廊下、複数の分岐点。

罠の可能性も排除できない。


そして、ついに薄暗いホールの入口が視界に入る。

そこに待ち構えていたのは、黒城の影。


アキトは一瞬動きを止め、冷静に無線で玲に報告した。

「黒城を確認。接触前。準備はどうだ?」


玲の応答が即座に返ってくる。

「了解。こちらも配置完了。二人で挟み撃ちに持ち込め」


その瞬間、潜入作戦は最終局面を迎えた。


【2025年8月4日 午前4時12分・旧中央取引所・外周】


真夏の夜明け前、群青色の空が東の地平線から白みを帯び始めている。

港湾地区の湿った空気に潮の香りが混じり、遠くの波音が静かに響いていた。


アキトは倉庫の影に身を潜め、装備バッグのジッパーをゆっくり開いた。

中から取り出したのは、灰色の作業着一式と、港湾地区設備保全課のIDバッジ。


今回の変装は「夜間点検技術者」という設定だ。

搬入業者の姿は目立ちすぎる。点検技術者なら不審がられずに敷地内を自由に動けるはずだった。


アキトは一枚一枚丁寧に服を着替え、IDバッジを胸に固定する。

作業着の袖をまくり、顔の汗を拭いながら、ポケットに工具箱と検査機器を収める。


「よし、これで完璧だ」

低い声で呟き、肩に装備バッグを担ぎ直す。


無線から玲の声が聞こえる。

「アキト、確認。ルートは確保している。焦らず慎重に行け」


「了解。侵入開始」

彼は冷静に答え、旧中央取引所の錆びた鉄扉を押し開けた。



【旧中央取引所・地下通路】


コンクリートの冷たさが肌に染みる地下通路。

アキトは暗視ゴーグル越しに周囲を警戒しながら、ゆっくりと進む。


「左壁の配電パネルを確認。通路は繋がっている」

無線越しにメンバーに指示を送る。


狭い通路の壁に設置された古い監視カメラは、彼の装備が妨害電波を送り、一時的に無効化されていた。



【旧中央取引所・地下ホール】


深い闇の中、黒城が姿を現す。

鋭い目つきがアキトを捕らえ、緊張が張り詰める。


「やっと来たか……アキト」

黒城の低い声が地下の冷気に吸い込まれる。


アキトは動きを止めずに、ゆっくりと構えた。


「この先は引き返せないぞ」

黒城が言葉を放つ。


「分かっている。ここで終わらせる」

アキトの声には揺るぎない決意が込められていた。



【最終決戦】


互いの呼吸が響く中、二人の影がゆらめく。

罠や狭所を熟知したアキトは黒城を巧みに追い詰める。

鋭い一撃を交わしながら、地下ホールの壁際を使って黒城の動きを封じていく。


「玲、援護頼む!」

無線に声を潜めて叫ぶ。


足音を立てて玲が駆けつける。

冷静に状況を分析し、黒城の攻撃をかわしながらアキトをサポートする。


二人の連携が、ついに黒城を制圧。

重苦しい沈黙の後、黒城は膝をついた。


アキトは息を整え、床に落ちた設計図を拾い上げた。


「これが証拠だ」

彼の声は静かだが、勝利の確信に満ちていた。


【2025年8月4日 午前4時24分/旧中央取引所・内部】


重い金属扉が背後で閉まり、外の気配は完全に遮断された。

扉が軋む音が止むと、静寂が一気に広がる。


薄暗い内部には、倉庫として使われなくなった鉄骨の骨組みと、積み上げられた古い木箱が並んでいた。

長年動かされていないのか、埃をかぶったまま沈黙している。

天井の蛍光灯はところどころが点滅し、不規則に明滅していた。


アキトは一歩、また一歩と慎重に進む。

足音はほとんど響かない。彼は足裏に吸音素材のインナーを仕込んでいた。


通路の角を曲がり、監視カメラの死角に入った瞬間、アキトは工具箱を静かに床に置いた。

左手でカバーを外し、中から折り畳み式のジャケットと別のIDバッジを取り出す。

「夜間点検技術者」から、次の身分へ――

「内部セキュリティ保守員」へ、再変装する。


数分後、鉄骨の間から現れたアキトは、制服の色が深緑に変わっていた。

背中にはさりげなく保守番号と企業ロゴが印刷されている。

顔には薄いメンテナンスマスク、首元には社章のついたネックストラップ。

「出入りしていた記録があっても、この姿なら怪しまれない」

そう計算した上での変装だった。


そのまま彼は、施設の奥へと静かに歩みを進める。

通路脇のドアには電子ロックが設置されていたが、アキトは躊躇なくジャケットの内ポケットから小型デバイスを取り出す。


《起動コード:LV-7》。

画面が点灯すると同時に、端末が自動でロックの周波数を解析し始める。

数秒後、電子音が鳴ってロックが解除される。


アキトはすぐにデバイスを仕舞い、ドアを開けた。


そこから先――

《地下通路》が始まる。


旧中央取引所の図面に記されていた、かつての地下資材庫へのアクセスルート。

その最奥に、黒城が潜伏している可能性が高い。


アキトは無線に指を添え、口を開く。

「玲、地下通路に入る。予定通りのルートを進行中。次の連携タイミング、4時35分で確認」


『了解、アキト。支援チームは北側通路に配置済み。無理はするな。』


「言われなくても」

短く答えると、アキトはすっと呼吸を整えた。


背後で扉が自動的に閉まり、再び静寂が戻る。

コンクリートの奥底で、気温がわずかに下がるのを感じた。


この先で、すべてが決まる。

彼は、わずかなためらいもなく――地下へと足を踏み入れた。


【2025年8月4日 午前4時31分/旧中央取引所・地下通路】


闇の中で、アキトの呼吸は一定だった。

浅く、静かに――無駄な音を立てないように。

わずかな吐息さえも、湿気を帯びたコンクリートの壁に吸い込まれていく。


足元の水たまりの深さ、壁の凹凸、天井の梁の位置――

すべてが、彼の頭の中で立体的な地図として描かれていた。

現地入りする前に玲が用意していた旧中央取引所の構造ファイル。

しかし、それだけでは足りない。

アキトは直前の数時間、実際の現地で周辺音、気圧、空気の流れを読み取り、頭の中で補正した「現場対応マップ」を独自に構築していた。


「……次の角の先、死角の通気ダクトに敵感知あり」

小さく呟くと同時に、右肩の装備からノイズ抑制型のスモーク弾を取り出し、通路の床に静かに転がした。

視界を完全に奪うのではなく、赤外線と音波の妨害を目的としたもの――それはアキトが個人的にチューンした装備の一部だった。


――「……いる。」


わずかな振動。空気の流れの異変。

アキトは即座に後ろへ跳び、壁際へ身を隠す。


次の瞬間、鈍い金属音と共に、何かがスモークの向こう側で動いた。

だが、それはアキトの“罠”だった。


「踏んだな……」


床に仕掛けておいた感圧式の微振センサーが反応する。

捕らえた音を解析する前に、アキトは手を伸ばし、壁際の管制パネルに小型端末を接続。

一時的に通路の照明を切り替え、“自分の見える波長”だけを点灯させた。


一気に有利となった視界の中、アキトは地を蹴って一気に進む。


スモークの先、敵のシルエットが一瞬見えた。

黒ずくめの男――黒城の配下か。


だがアキトは追わない。

追い詰めるのではなく、“追い込む”。

次の通路に、さらに別の包囲網を配置してある。


「玲、東側通路の分岐に一名。ここから北西に誘導する。最終隔離区画で挟み撃ちに」


『了解。紫苑側、制圧完了まであと3分。外からの応援は制限される。……アキト、慎重に行け』


「わかってる」


口調は静かだが、眼差しは鋭く研ぎ澄まされていた。


この地下通路は、アキトにとって“生きた迷宮”だった。

彼は単に地形を把握しているだけではない。

重力のかかり方、音の反響、相手の心理までを読み、罠と導線を自在に操る。


――黒城を、この空間に引きずり出すために。


湿った空気の中を、アキトはさらに進む。

足元の水音すら、まるで鼓動のように静かに鳴り続けていた。


もうすぐだ。

この先の隔離区画で――決着がつく。


【2025年8月4日 午前4時37分/旧中央取引所・地下ホール】


 鉄骨がむき出しになった広い地下空間。その中心に立つ男――黒城。

 黒いスーツの上に防弾素材を重ねたような装甲。目元だけが露出したその顔には、微かな笑みが浮かんでいた。


 「ようやく来たか。ルートマスター。」


 低く、湿った声がアキトの鼓膜を打つ。


 アキトは一歩踏み出す。

 足音が、コンクリートに反響した。背中から汗が一筋流れるが、目は一切逸らさない。


 「ここで終わらせる。あなたの仕組んだ偽装と記録改ざん、すべて公に出す。」


 黒城は肩をすくめた。


 「公に? できるものならな。」


 その瞬間、照明が点滅し、背後の扉から数名の影が流れ込んでくる。


 「……援護する。」


 玲の声が無線から届いたのはその直後だった。


 アキトは身を沈め、背後に展開する仲間たちの気配を確認する。


 「玲、今だ。左回廊の柱影に。狙撃支援、お願い。」


 「了解した。」


 銃声が一発、鋭く響いた。黒城の足元に火花が散る。牽制だ。


 アキトはその一瞬の隙を逃さず、黒城へと駆け出す。

 距離を詰める。黒城も応じてくる。鍛え抜かれた肉体が重くぶつかり合い、拳が風を裂いた。


 「……誰かに道を拓かれるだけの男かと思っていたが」


 黒城の拳がアキトの脇腹をかすめた瞬間、アキトは低く笑った。


 「今は俺が、道を創る番だ。」


 反撃の肘打ちが黒城の顎を打ち上げる。


 その瞬間、上方から新たな光――紫苑たち服部一族の制圧部隊が、通路上部から降下した。


 「遅れてすまない。」


 紫苑の淡々とした声とともに、黒城の退路は断たれた。


 アキトは一歩引き、息を整える。


 「終わりだ、黒城。」


 玲が横に並び、銃を構えた。


 「抵抗すれば、二秒で沈む。」


 黒城はゆっくりと両手を上げた。だがその目は、最後まで笑っていた。


 そして――その瞬間を見逃さず、藤堂が立ち上がる。

 近くの建物屋上から事件の全貌をカメラに収め、静かに録音を止めた。


 「これで、“正義”は公の場にさらされる。」


 誰にも気づかれぬまま、その手元には玲から渡された、たった一枚の報道用メモが握られていた。


【同日・午前8時12分/報道局本社・編集室】


 蛍光灯の光が無機質に照らす編集室。夜勤明けの記者やスタッフがバタつく中、藤堂は静かにデスクに腰を下ろしていた。

 騒がしいテレビモニターには、今朝のニュース速報がループして流れている。――「旧中央取引所、密輸拠点の可能性」「不審火の原因は調査中」「地元企業関係者が拘束」――。


 彼の前には、小さなクラフト封筒。名前はない。だが、それが誰からのものか、藤堂にはわかっていた。

 封筒を開くと、紙の擦れる音が、周囲の喧騒とは違う密やかな響きを立てる。


 中に入っていたのは、たった二つのもの。


 一枚のモノクロ写真。

 それは、夜明け前に撮られた――封鎖された旧中央取引所の正面玄関。

 警察線の奥で搬出される設計図ケース。

 立ち尽くす警備員たちと、それを見守る複数の背広の影。すべてが静止した瞬間を捉えていた。


 もう一つは、メモ。

 手書きの文字で、たった一文だけ。


 『真実は港に眠っていた』


 藤堂は一瞬、目を閉じた。

 その一文に込められた覚悟と告発の重さが、胸にのしかかる。

 そして再び目を開けると、静かにキーボードに指を置いた。


 「……書くさ。最後までな。」


 原稿の冒頭に、彼はこう記した。



【独占報道】旧中央取引所、裏で動いていた“隠された設計”――公的機関による情報操作の可能性も


 2025年8月4日未明、港湾地区旧中央取引所で、密かに隠されていた大規模な設計図と関連資料が押収された――。



 彼の指は止まらない。

 夜が明けたこの日、報道局のサーバーから、最初の“真実”が全国へと流れ出していく。


 そして――静かにその様子を見届ける、玲の姿が作戦室のモニター越しにあった。


【エピローグ/玲探偵事務所・夕刻】


 港の風が、ゆっくりとカーテンを揺らしていた。

 西日が斜めに差し込み、作戦室の壁を琥珀色に染めている。

 事件が収束してから数日――玲探偵事務所には、ようやく静かな日常が戻りつつあった。


 玲は深く椅子に腰掛け、手元の報告書に目を通していたが、ふと手を止めて、部屋の中に視線を向けた。

 アキトは工具箱の蓋を閉じ、ネジと配線をきちんと仕分けしている。その背中には疲れが見えるが、どこか晴れやかな空気も漂っていた。

 その向こうでは、由宇が詩乃に小さな紙袋を渡しながら、


 「毒入りじゃないってば。お祝い用のクッキーだって言ってるじゃん」

 「……食べさせる順番、逆だったら刺すわよ?」


 と、いつものような軽口を交わしている。

 詩乃の目つきは鋭いままだが、口元の緩みは隠しきれていなかった。


 玲は、そんな光景を黙って見つめ、小さく笑った。


 誰かが倒れて終わる戦いではなかった。

 情報と影、記憶と真実を巡る静かな争い――

 その果てに、こうして皆がこの部屋に揃っている。それだけで、十分だった。


 「……あとは紫苑からの報告を待つだけだな」


 玲の独り言に、アキトがうなずく。


 「もう動きはないって。服部一族が監視を続けてる」


 窓の外には、夕焼けを背景に飛ぶカモメの群れ。

 港のざわめきはまだ遠く、平和そのものの風景が広がっていた。


 玲は背もたれに体を預け、目を閉じた。


 “真実は港に眠っていた”


 あの日のメモの一文が、今も脳裏に焼きついている。

 眠っていたものは、もう目覚めた。

 ならば次に備えるだけだ――この街に再び影が落ちぬように。


 西日が沈みきる直前、誰かが言った。


 「……今日くらいは、ゆっくりしません?」


 「異議なし」とアキト。


 「なら、あたしがクッキー開けるわ」詩乃の手が、紙袋へ伸びる。


 そんな日常の、どこかほっとした笑い声が、部屋に静かに広がった。


 そして夕陽が沈みきる頃、玲はゆっくりと目を開けた。

 その眼差しの奥には、どこまでも冷静な光――それでも、わずかにやわらかい色が宿っていた。


【玲探偵事務所/玲】


 夕暮れのオレンジが、事務所のブラインド越しに差し込んでいた。

 薄く埃をかぶったファイルの山が、壁際の書棚に静かに積み上げられている。そこには過去の事件――未解決のまま宙に浮いた真実たちが、無言のまま眠っていた。


 玲はその前に立ち、一本のファイルに指をかけた。背表紙には、かつての依頼人の名前がかすれた字で残っている。

 今回の旧中央取引所の件が落ち着いた今、この静かな時間が、少しだけ現実味を帯びて感じられた。


 彼は棚から一冊を抜き取り、ゆっくりとページをめくった。

 裏付けの取れない証言、意味深な写真、そしてかすかな矛盾。それらが幾重にも重なり、事件を覆っていた。


 「……どれも、未だ終わっちゃいない」


 独り言のように呟いて、玲は背後の気配に気づいた。


 「アキトの調整終わったよ」

 そう声をかけたのは、由宇だった。詩乃の影も、その後ろにある。


 玲はファイルを静かに閉じ、元の場所に戻した。

 彼にとって事件の終わりとは、「解決」ではなく、「納得のいく形にたどり着けたか」だった。


 「……紫苑の報告はまだか?」

 椅子に腰を下ろしながら問うと、詩乃が答えた。


 「あと一時間ほど。現地で残党の確認中らしい」


 頷き、玲はデスクの引き出しを開けると、そこから古びたノートを取り出した。

 それは彼がまだ若かった頃――探偵として動き始めたばかりの頃から、事件の核心に触れるたびに書き記してきたものだった。


 「……人は、忘れる。でも、記録は残る」

 独り言のように呟いて、玲はノートの端に小さく書き足す。


 「港湾地区、取引所跡地。記憶の眠る場所。危機は去ったが、根は深い。再調査、要検討」


 夕焼けの色が、ノートの端を染めていた。

 どこまでも静かで、しかし、どこまでも続いていく予感の中で――

 玲は再び、記録の中に身を沈めていった。


【服部集落/紫苑】


 山の奥、杉木立に囲まれた静かな集落。

 夕暮れの風が梢を渡り、小さな焚き火の炎を揺らしていた。


 紫苑はその傍らに膝をつき、湯呑に注がれた番茶を静かにすする。

 火に照らされた横顔は、戦の緊張から解かれたものの、まだどこか遠くを見ていた。


 足元には、使い込まれた忍具が整然と並べられている。

 血を洗い、砥石で研がれた刃物たち。その横に横たわる一本の刀は、鞘ごと包まれ、もう出番がないことを悟ったように静かだった。


 「……終わったな」


 誰に言うでもなく、紫苑はぽつりと呟いた。

 今回の任務――旧中央取引所への強襲、そして黒城一派の制圧。

 その裏にうごめいていた陰謀は、ようやく光のもとへと引きずり出された。


 紫苑は懐から一通の報告書を取り出し、焚き火にかざす。

 封蝋を剥がすことなく、そのまま炎の中へ落とすと、文書はぱちぱちと音を立てて燃え上がった。


 「我らの仕事は、記されるべきではない。……ただ、守ったという事実だけでいい」


 彼の周囲には、弟妹たち――服部一族の若き忍たちが、静かに座していた。

 任務の中で負傷した者、心に痛みを抱えた者もいる。それでも、皆が紫苑の言葉に、ゆっくりと頷いていた。


 炎を見つめながら、紫苑はふと、港の夜を思い出す。

 旧中央取引所でのあの一戦。

 玲やアキトたち、異なる立場にいながらも共に戦った者たちの姿。


 「彼らは陽の下で動く者。……我らは影の中で支えるだけだ」


 それでいい、と紫苑は思った。

 光を求める者たちの背中を、闇の中から支える。それが自分たちの役目であり、生き方なのだと。


 茶を飲み干し、静かに立ち上がると、手入れの済んだ刀を背に回した。

 闇がまた、山を覆い始める。


 それでも紫苑の目には、確かに――微かな光が、映っていた。


【玲探偵事務所地下・分析室/奈々】


 地下へ降りる階段を抜けた先、ひんやりとした空気に包まれた分析室。

 壁面を埋め尽くすように並んだモニターが、同時に複数の映像とデータを映し出している。中央のデスクでは、橘奈々がヘッドセットをつけ、手元のキーボードを軽やかに叩いていた。


 「港湾側サーバー、まだ完全には沈黙してない。アクセス履歴、5日前にもう一度書き換え入ってる……たぶん、黒城側の最後の抵抗」


 呟くように言いながら、奈々はマウスを操作して一つのログを拡大した。

 脈打つように流れる暗号化された通信ログ。すでに解読はほぼ完了していたが、その“最後の一文”が、彼女の胸に重く残っている。


 『次は、誰が証人になる?』


 「……脅しかな、それとも警告?」

 奈々は小さく肩をすくめてから、別のウィンドウを開いた。玲から預かった音声ファイル、そして藤堂から提供された報道映像。すべてを時系列に並べ直し、最終報告のまとめに入る。


 上階では、夕食の支度が始まりかけていた。沙耶が誰かを呼ぶ声が、床越しに微かに響く。けれど奈々はまだ、椅子から離れない。

 「真実は明るみに出た。でも……記録は、残す人間の手に委ねられる」


 独り言のように言って、彼女はふと手を止めた。

 古い記録映像の中――かすかに映った一人の少年の後ろ姿。ブレて、ノイズ混じりのその画面を、何度も再生する。


 「ユウタ……」


 その名を呟いた瞬間、分析室の照明がわずかに瞬いた。

 そして、再生中の映像の右下に、“アクセス未登録ファイル”の表示が浮かぶ。


 奈々の目が鋭くなる。


 「……まだ、終わってないってこと?」


 彼女は指を再び動かし始めた。

 静かな地下室に、キーボードの音が響き続ける。

 真実を繋ぐ作業は、まだ終わらない。


【海辺のベンチ/沙耶】


 海風に吹かれながら、沙耶はひとりベンチに座っていた。

 白いスニーカーのつま先は砂浜の方を向き、膝の上に置いた両手は、小さな貝殻をいじるようにして静かに動いていた。指先でなぞるその表面の感触が、やけに鮮明に伝わってくる。


 朝からずっと空は晴れていたが、今は雲が西の空に厚く集まり、夕陽はにじむように水平線へ沈んでいく。


 「……あれだけのことが起きたのに、潮の匂いは変わらないんだね」


 誰に言うでもなく、呟く。

 黒城が拘束され、藤堂が真実を世に出し、紫苑たちが表から姿を消したあの日から、まだ三日しか経っていない。

 それでも沙耶にとっては、すでに遠い記憶のように思えた。


 「朱音には、もう怖い目にあってほしくない」

 小さく微笑んで、手の中の貝殻をそっとベンチの脇に置く。

 「由宇も詩乃も、あの子のために動いてくれた。玲も、奈々も……アキトも」


 小さく、肩をすくめる。

 「でも……私の役目は、たぶん、終わってないよね」


 ベンチの背にもたれ、海を見つめた。

 時折、水平線の向こうからカモメの鳴き声が聞こえる。波の音に紛れて、それはまるで“呼ばれている”ようにも聞こえた。


 彼女のバッグの中では、玲から渡された封筒が未開封のまま入っていた。そこにあるのは、次の任務の暗示か、それともただの感謝の言葉か。――まだわからない。


 「……潮が引いたら、きっと、何かが残る」


 立ち上がった沙耶のスニーカーが、砂を踏んで軽く沈む。

 貝殻はそのまま、夕陽に照らされて静かに残っていた。


【玲探偵事務所裏口/アキト】


 工具箱の蓋を音もなく閉じると、アキトは背筋を伸ばして立ち上がった。

 夏の夕暮れはまだ明るく、裏路地の電線の向こうに、薄橙色の空が広がっていた。


 旧中央取引所での潜入、紫苑たちの奇襲、黒城との対峙――

 そのすべてが、わずか数日前の出来事とは思えないほど遠く感じられる。

 戦いは終わった。少なくとも、表向きは。


 「終わったように見せるのが、次の始まりなんだよな」


 ぽつりと、誰にも聞かせるつもりのない言葉が口をつく。


 彼の役目は「潜入」でも「戦闘」でもない。

 状況を構築し、すべての道筋を描き、失敗すら計算に組み込んで最終結果を導く――

 それが、ルートマスターである彼の本質だった。


 裏口の扉に背を預け、ふと視線を落とすと、足元に誰かが置いたままにしていた紙コップのコーヒーがあった。もう冷えている。

 それでもアキトは、ためらわずに一口だけ飲み、空になったカップを手の中で転がした。


 「……玲は、もう次のファイルを見てるだろうな」


 鼻先にかかる前髪を乱暴にかき上げ、彼は再び空を見上げる。

 西の空には、明日への兆しが混じっていた。

 「次の作戦、もう始まってる」


 工具箱を手に、アキトは扉を開けて中へ戻る。

 その背中には、静かだが揺るがぬ決意が宿っていた。


 ルートは、まだ途中だ。


【報道局本社/藤堂】


 ニューススタジオの照明が落ち、ビル全体が夜の静寂に包まれても――

 藤堂の机だけはまだ灯っていた。


 キーボードを叩く指先は、時に止まり、また迷いながらも記事の一行一行を積み重ねていく。

 「旧中央取引所、極秘潜入の真相」「都市の闇に沈んだ記録」――仮タイトルのウィンドウがいくつも開いていた。


 だが、藤堂が今夜書いているのは「特ダネ」でも「スクープ」でもない。

 それは、読者に届く保証のない、あまりに個人的な「記録」だった。


 ――旧中央取引所の封鎖。

 ――黒城と名乗る男が握っていた、あまりに深い情報の数々。

 ――そして、“真実”を追いながら、それを明かすことに迷い続けた自分自身。


 彼は小さく息を吐き、デスクの引き出しから一枚の写真を取り出す。

 写っているのは、夜明けの港に並ぶ設計図のケースと、立ち尽くす一人の背中。

 その男の名を、藤堂は知らない。けれど――この背中の「覚悟」は、記者として痛いほど伝わってくる。


 ペンを走らせる。

 《都市は眠り続けるが、真実は波打ち際で目を覚ました》

 それが彼の書いた、静かな一行だった。


 書き終えると、藤堂は画面を見つめたまま、ふっと笑った。

 「これじゃ、誰にも信じられないな……」


 それでも、記事を保存する指は迷わない。

 消すことはできても、書かなかったことにはしない。

 記録者として、彼の戦いはまだ終わっていなかった。


 時計の針が、日付の境界を越える。

 新しい一日が始まる中、藤堂はただ静かに、次の行にカーソルを移動させた。

【玲探偵事務所/午後の静寂】


 午後三時。蝉の声が窓の外にぼんやりと響いている。


 玲は、事務所の郵便受けに混じっていた一通の封筒を静かに開いた。

 差出人の名はなかった。だが、その筆跡を見た瞬間、彼は誰からのものかを理解した。


 ――黒城。


 古びた万年筆で書かれた、その手紙は、静かな調子で語りかけてくるようだった。



玲殿へ


あの夜、私はようやく知ることができた。

自らの歩んできた道が、どれほど多くの影を落としてきたかを。


皮肉なものだ。最後に対峙したのが、君やアキトのような「若き者」たちであったことが、何よりも苦い真実だった。


私の行いが正しかったとは言わない。いや、言えない。

だが、私は私なりに、「記録の真実」と「組織の秩序」のはざまで、揺れていたつもりだった。


すべてを明るみに出す君たちのやり方が、正義であることは否定しない。

だがそれが、何か新たな影を生まないことを、願うばかりだ。


私はまもなく、裁きを受ける。

だが、真に裁くべきは法だけではないと知っている。

君たちがこの先、何を選び、何を守るのか――その「選択」が、この国の未来を決めていくだろう。


それを見届ける資格が、私にあるかどうかはわからない。

だが、ひとつだけ。


君たちは、もう後戻りはできない。

この道の先に、もっと深い闇が潜んでいる。


それでも進むなら――

せめて、己の手が汚れる覚悟を持って、進め。


黒城



 手紙を読み終えた玲は、しばしの間、沈黙した。


 窓の外では、陽射しが傾き、蝉の声も次第に遠ざかっていく。

 その手紙をファイルに挟むと、彼は机の上に手を置き、静かに目を閉じた。


 ――進むしかない。

 たとえその先に、黒城が見た以上の闇があろうとも。

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