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84話 霧港(きりみなと)の残響

登場人物紹介


れい


玲探偵事務所所長。

冷静沈着で判断力に優れ、近接戦闘能力はS級。

戦場では常に最前線に立ち、仲間を導く存在。

過去の経験から「守る覚悟」を選び続けている。



アキト


玲の相棒。

元・裏の世界のルートマスターで、現在は現場指揮と潜入・追跡を担当。

状況判断と地形把握能力に長け、今回の事件で大きく成長を遂げた。

不器用だが、誰よりも仲間と朱音を想っている。



成瀬なるせ 由宇ゆう


影班所属、戦闘・狙撃担当。

寡黙で感情を表に出さないが、仲間への信頼は深い。

遠距離・近距離ともに隙のないオールラウンダー。

静かな殺気と正確無比な判断が特徴。



桐野きりの 詩乃しの


影班所属、爆薬・毒物・解除専門。

冷静な分析力と迅速な手さばきで、数々の危機を未然に防ぐ。

口数は少ないが、由宇やアキトとの軽い掛け合いには人間味が垣間見える。



紫苑しおん


服部一族の長老、服部半蔵の末裔。

白髪の老忍でありながら、圧倒的な存在感と技量を誇る。

アキトに修行を提案し、厳しさとユーモアを併せ持つ師。

朱音には「じぃじ」と呼ばれている。



朱音あかね


佐々木家の少女。

純粋な感性と鋭い直感を持ち、無意識の言動が真実への鍵になることも。

彼女の存在が、大人たちの心を人間らしい方向へ引き戻している。



黒城くろしろ


港湾地区を牛耳る黒幕。

冷酷かつ狡猾で、何度追い詰められても必ず影に消える男。

表向きは終わった事件の裏で、次の火種を静かに仕込んでいる。



奈々(なな)


玲の事務所所属、解析・情報処理担当。

暗号解読、通信解析のスペシャリスト。

戦闘には立たないが、彼女の存在が作戦成功率を大きく左右する。



藤堂とうどう


現場を追う報道記者。

ライブ中継で市民の目を現場に向け、闇に光を当てる存在。

真実を伝える覚悟を持つが、その代償も理解している。

【2025年・午後11時30分・都心裏通り】


人影は帽子の影から、ライブホールの裏口をじっと見つめていた。

鉄製の扉の隙間から漏れる光が、濡れた地面に細く伸びる。

「……まだ動きはないか」低く独り言をつぶやく。


耳に差したイヤホンから微かな振動が伝わり、手元の端末に赤い点が点滅する。

「予定通りか……」人影は指先で端末の画面をなぞり、情報を素早く確認する。


風に煽られたビニール袋が擦れる音に、わずかに肩をすくめる。

だが視線は裏口から一歩も外れない。ドアノブの影、光の反射、時折漏れる人の声――全てを見逃すまいと凝視する。

「よし……そろそろか」人影は小さく息を整え、行動の瞬間を待った。


【2025年・午後11時32分・都心ライブホール前】


アキトは周囲の人々に溶け込みながら、視線を素早く巡らせる。

「……やはり、反応がある」低くつぶやき、手元の端末を覗き込む。

赤く点滅するアイコンが、裏口付近の位置を正確に示している。


耳元のイヤホンから、短く鋭い電子音が断続的に届く。

「信号源はあの扉の向こうか……」

アキトは人混みに紛れながら、一歩ずつ裏口へ近づいていく。


背後から誰かが通り過ぎる気配。

「大丈夫……気づかれていない」自分に言い聞かせるように呟く。

手には小型カメラと工具を忍ばせた作業用バッグ。

「ここからだ……ルートを切り開くのは、俺の仕事だ」


影に潜むまま、アキトは扉の鍵穴をちらりと確認し、次の動きを静かに計算する。


【2025年・午後11時45分・探偵事務所内】


アキトはバッグを机の下に滑り込ませ、端末を取り出す。

「……映像は正常、信号も確認済み」低く呟き、ディスプレイに映るライブホール裏口の監視映像を確認する。


玲が椅子から立ち上がり、画面越しにアキトを見つめる。

「端末の反応は?」

「裏口付近の信号が断続的に……微弱ながら生きてます」アキトは淡々と答える。


奈々がノートパソコンを開き、暗号化された地図を指でなぞる。

「赤ルートは間違いない。動きは今夜」

アキトはヘルメットを手に取り、作業服の袖を整える。

「俺のルートマスター権限を使って潜り込む。現場の回線を押さえれば、全ての流れが見える」


朱音が心配そうに見上げる。

「無理はしないで……」

玲は静かに首を横に振った。

「お前の仕事は報告。スケッチで状況を整理してくれ」


アキトは軽く息を吐き、ドアの方を振り返る。

「行ってくる。今夜の“牙”を折るために」


【2025年・午後1時42分・受信】

差出人:久我くが 恒一こういち

件名:【至急・極秘】監視・護衛依頼/篠宮リオ


――――――――――


玲 探偵事務所

御中


突然のご連絡、失礼いたします。

大手音楽事務所〈KUGA ENTERTAINMENT〉取締役の久我と申します。


本件は外部への口外厳禁を前提としてご相談いたします。


当社所属アーティスト

篠宮リオ(しのみや・りお)

に対し、ここ一週間で三通の脅迫状が届いております。


内容は単なる誹謗中傷の域を超えており、

・ライブ当日の楽屋動線

・ステージ転換の時間

・警備員の交代タイミング

など、内部情報を把握していなければ知り得ない情報が含まれています。


次回の単独ライブは

【2025年◯月◯日・東都ライブホール】

既にチケットは完売、当日の混乱は絶対に避けねばなりません。


警察への相談も検討しましたが、

現時点では「具体的犯行予告」としての立件が難しく、

表沙汰にすることで逆に事態を悪化させる懸念があります。


つきましては、

・ライブ当日までの事前監視

・当日の会場内外の護衛・不審者の洗い出し

・必要であれば水面下での情報収集

を、貴事務所に依頼したく存じます。


報酬、条件については即時協議可能です。

一刻の猶予もありません。


このメールを読まれましたら、

可能であれば本日中に直接お会いしたい。


何卒、ご検討ください。


――――――――――

KUGA ENTERTAINMENT

取締役

久我 恒一


――――――――――


玲は画面を見つめたまま、低く呟いた。

「……内部に“牙”がいるな」


【2025年・午後6時15分・東都裏通り】


低く響くライブホールの低音ビートが、壁を通して足元まで震わせる。

だが裏通りには人影はなく、風に煽られるゴミ袋のビニール音だけがやけに大きく響いた。


ビルの影、街灯の届かない場所に一つの人影。

帽子を深くかぶり、顔は見えない。じっとライブホールの裏口を見つめ、呼吸を整えている。


「……音、拾った」

手首の端末が小さく震え、赤い点滅が現れた。微弱な信号音が規則的に耳に届く。


アキトは静かに足を動かし、群衆のざわめきに紛れながらも、信号の発信源を目で追った。

「ライブ開始まで、あと45分……間に合うか」


路地の奥で、影の中に潜むアキトの目が、ゆっくりと赤く光る端末のアイコンを凝視していた。


【2025年・午後9時30分・港区倉庫街】


倉庫の影に身を潜め、アキトは手首の端末を確認した。

「……信号はここだ」


無言で肩のバッグから工具を取り出し、薄暗い倉庫の扉に目を走らせる。

端末の赤い光が暗がりにわずかに反射し、アキトの目を鋭く光らせた。


「港の夜は長い。だが、動きは最小限に抑える」

彼の声は低く、風にかき消されそうになる。


背後には、玲が持つモニターがわずかに光り、倉庫の俯瞰映像と赤く点滅するルートを映し出している。

「アキト、準備は?」玲の冷静な声がイヤピース越しに届く。


「完了。内部に潜入する」

アキトは黒い作業服の袖を整え、ヘルメットを深くかぶる。

「俺の専門は潜入と追跡――今日の任務は“牙を折る”ことだけだ」


雨に濡れたアスファルトを踏みしめ、彼は静かに倉庫の入り口へと歩を進めた。


【2025年・午後10時・港区裏通り】


アキトは路地の暗がりに身を沈め、足音を最小限に抑えながら進む。

耳にはライブホールから漏れる低音のビートが届くが、彼の注意はそれより微細な振動に向けられていた。


「……信号はあの扉の奥か」

ポケットの端末が短く振動し、画面の赤いアイコンが点滅する。

指先で操作し、微弱な電波の発信源を特定する。


周囲を見渡し、アキトは小さく息を吐いた。

「ここから先は静かに……手順通りだ」


黒い作業服に身を包み、ヘルメットの内側に仕込んだ小型カメラで周囲を確認しながら、彼は裏口の錆びた扉に近づく。

その目は、暗がりの向こうに潜む危険を逃さず、僅かな光の変化も捉える。


「潜入開始――情報は俺の目で押さえる」

低く囁くように呟き、アキトは静かに扉に手をかけた。


【2025年・午後10時15分・港区裏通り】


由宇は路地の影に身を潜め、静かに周囲を観察する。

「左右の通路はクリア……先に進む」

低く囁き、漆黒の戦闘服が闇に溶け込む。


詩乃は後方で無言のまま頷き、手元の小型デバイスで監視カメラの稼働状況を確認する。

「センサーはまだ生きてる……でも数秒のタイミングで抜けられる」


安斎は少し離れた位置からチームをサポートし、暗視ゴーグル越しに周囲の微かな動きを監視していた。

「無線はオフ、通信は俺のリレー経由だけ。外部には気づかれない」


由宇は壁沿いに静かに前進し、扉の前で一度立ち止まる。

「ここが入口……中の動きは?」

詩乃が端末を操作し、扉内のモーションセンサーを解析する。

「二名の警備……視界の死角を確認。カバーできる」


アキトの潜入と連携し、由宇・詩乃・安斎の影班は、一歩一歩慎重に倉庫内部へ進む。

鉄の床板がわずかに軋むが、三人の動きは音を吸い込むように静かで、闇の中でほとんど溶け込んでいた。


「よし、このルートで奥へ」

由宇の指示に、詩乃と安斎は無言で応じ、影班の潜入はさらに深く、港湾倉庫の核心部へと進んでいく。


【2025年・午後10時30分・玲探偵事務所】


スクリーンには、港区旧倉庫街を中心に飛び交う無線電波の解析結果が映し出されていた。

赤い点は強い信号を示し、青や緑の点は微弱なビーコンやセンサーの位置を表している。

波形グラフは絶えず変動し、特定の周期でパルスが現れることが確認できる。


玲は低くつぶやく。

「……この周波数帯、何者かが通信を偽装している。通常の港湾端末では出せないパルスだ」


沙耶は腕を組み、スクリーンをじっと見つめながら分析する。

「赤い点は旧倉庫街の三か所……繰り返し信号が送受信されている。潜入者が接近したら即座に反応するだろう」


玲は指先で画面の赤い点をなぞり、データを拡大する。

「信号の間隔は6秒……このタイミングで障害物を使えば、外部に感知されずに進入できる」


沙耶が眉をひそめ、椅子に少し前傾する。

「つまり、我々が動くタイミングを正確に合わせる必要がある。小さな遅れでも即座に警報が鳴る」


画面の下部には、電波強度と履歴データがリアルタイムで表示されており、過去24時間のパルスの増減も確認できる。

玲は深く息をつき、静かに指示を出す。

「由宇、詩乃、安斎……この情報をもとに港倉庫への潜入ルートを計画する。タイミングは正確に」


沙耶が頷き、スクリーンの赤い点をもう一度確認する。

「了解……影班の動きに合わせ、電波の死角を突く」


【2025年・午後11時15分・港区旧倉庫街付近】


アキトは路地の暗がりに身を沈め、耳を澄ます。湿った空気の中、微かな機械音と足音が混じる。

「……周囲に不審な動きはない」アキトは低く呟き、手元の端末で前方の電波解析データを確認する。


成瀬由宇はアキトの背後10メートルほどの距離を取り、影のように静かに進む。

「振り返るな。足音を立てずに追尾」由宇は無線で詩乃へ指示を送る。


桐野詩乃は由宇のさらに後方に位置し、腰のポーチから小型の暗視スコープを取り出す。

「了解……目視と暗視で前方を監視、異常があればすぐ知らせる」


三人の間には言葉はほとんど交わされない。だが、無線から零れる微かな信号音だけで互いの位置を確認している。

アキトの動きは静かだが確実で、倉庫街の迷路のような路地を迷わず縫い進む。


由宇が短く息を吐き、視線を端末画面に落とす。

「信号強度……赤点の範囲内だ。このまま進めば倉庫の死角に入れる」


詩乃は暗視スコープを覗きながら、微動だにせず前方を観察。

「通路の角を過ぎるまで動くな。警戒は最大で」


三人は無言のまま、湿った夜気に包まれた路地を慎重に進んでいく。


【2025年・午後10時30分・玲探偵事務所】


玲は資料の束を前に指先でページをめくりながら、低く呟いた。

「佐藤誠……この男、裏で何をしている」


沙耶が画面の横に立ち、眉をひそめる。

「口座の送金履歴だけでも相当怪しい。しかもライブ関連の費用とは全く関係ない額が動いてる」


モニターの解析画面に、財務データと送金履歴が連動して表示される。

玲はマウスを動かし、送金先を赤でマーキングする。

「東都の未登録企業……ここがハブになっている。詐欺、横領、恐喝……すべてこのネットワークに繋がる」


机の隅でノートを開く安斎が、無言で解析用のタブレットを操作。

「各取引の時間帯と端末位置を照合すれば、現場とリンクする動きが見えるはずです」


玲は短く頷き、さらに資料を指差す。

「港湾コンテナの動きとこの送金パターンが重なる。動きの全貌を暴くには、影班の協力が必要だ」


沙耶が深く息をつき、スマートフォンを操作する。

「了解。由宇、詩乃、安斎……準備は整った。佐藤誠を追跡するルートを確保する」


玲は画面に映る佐藤誠の顔写真を見つめ、冷静だが鋭い声で告げる。

「この男の悪事、必ず暴き出す」


【2025年・午前1時15分・港区裏通り】


アキトは路地の壁際に沿って、影に紛れるように身体を低くする。

「……音を立てずに進め」自分に囁くように息を吐く。


暗がりの先に置かれた段ボール箱をかすめるように回避し、足の裏全体で地面を感じながら、一歩一歩を慎重に置く。

「鉄板やパイプ……音を拾う素材には触れない」


後方の微かな足音にも耳を澄まし、振り返らずに距離を測る。

影の濃い部分では、僅かに身体を壁に押し付けて安定させる。


ポケットから取り出した小型端末で前方の監視カメラの位置を確認し、光の届かない死角を選びながら、アキトはさらに奥へと進む。

「ゆっくり……焦らず……」


カン、カン……。鉄パイプに当たる音を再び感じながらも、アキトは呼吸を整え、足音を完全に消すように進んでいった。


合図もなく、両脇の非常扉から黒ずくめの男たちが飛び出した。

武器はスタンロッド、伸縮式警棒、鉄パイプ。六人が半円形にアキトを囲み、路地を完全に塞ぐ。


 【2025年・午前1時18分・港区裏通り】


アキトは壁際に身体を寄せ、足を止める。

「……予定外だ」短く呟き、視線を前方の男たちに集中させる。


伸縮式警棒を握る一人が低く唸る。スタンロッドの先端がわずかに光を反射し、鉄パイプの重い音が路地にこだまする。

アキトはゆっくりと両手を開き、相手の動きを読みながら微動だにせず立つ。


「逃げる気はない……まずは間合いを取る」心の中で冷静に指示を出す。

路地の壁に背を預けつつ、相手の半円を利用して一瞬の死角を探す。


暗がりに溶ける影と、自分の呼吸のリズムだけが、緊張した空気の中で微かに聞こえる。

「一歩でも動けば、すぐに喰われる……」

アキトの目が鋭く光り、次の行動を見極めるため、全神経が研ぎ澄まされていた。


【2025年・午前1時19分・港区裏通り】


「アキト!こっちだ!」由宇の低い声が煙の中で響く。

詩乃が手早く手を伸ばし、アキトの腕をしっかり掴む。


「気を抜くな、煙だけじゃない。背後にも来るかもしれない」由宇が咳き込みながらも冷静に指示を出す。

アキトは頷き、由宇に続き、壁沿いに身を低くして前進する。


路地の暗闇に白い煙が渦巻き、男たちの足音が右往左往する。

「詩乃、カバーを!」由宇が短く叫ぶと、詩乃は腰の小型装置から微かに閃光を放ち、敵の視線を一瞬逸らす。


アキトはその間に由宇の手をしっかり握り、路地奥の死角へ滑り込む。

「ここまでだ、残りは俺が……」アキトの声は低く、だが力強い。

影班の二人が両側から守り、敵の追撃を封じる形で、アキトは無事に次の位置へと移動できた。


【2025年・午前7時12分・テレビスタジオ】


藤堂はカメラに向かって軽く頷き、落ち着いた声で画面越しの視聴者に語りかけた。


「おはようございます。本日、特別報道として港区旧倉庫街で発生した事件の映像をお届けします。映像は、当局の監視カメラに記録されたものです」


大型モニターには、白い煙に包まれる路地、黒ずくめの男たちが取り囲む様子が映し出される。


「ご覧の通り、標的とされたのは潜入スペシャリスト・アキト氏。影班による迅速な支援により、現場での被害は最小限に抑えられました」


藤堂は一息置き、手元の資料をめくる。


「さらに、調査の結果、事件の裏にはライブ運営関係者・佐藤誠氏が関与していたことが判明。資金の流れは不正口座を通じて行われ、今回の襲撃事件に繋がっていた可能性があります」


画面が切り替わり、アキトが影班とともに路地奥へと移動する映像にズームイン。


「今回の迅速な対応により、犯行の全貌が明らかになりつつあります。影班、そして現場での連携が、犯罪の連鎖を未然に防いだ事例として、専門家からも高く評価されています」


藤堂は最後に画面を見据え、視聴者へ静かに締めくくった。


「この事件は、港区の安全と市民生活に大きな影響を与えかねないものでした。私たちは今後も、現場からの正確な情報を皆様にお届けしてまいります」


【2025年・午後2時・玲探偵事務所 会議室】


玲は円卓に置かれた地図に指を滑らせながら、低く、しかし怒りを滲ませて口を開いた。


「佐藤誠の行動は、もはや個人の利得を超えた犯罪です。アキトが危険に晒されたのは、あの男のせいだ」


アキトは椅子に座ったまま、拳を軽く握りしめる。

「……無茶はさせるな。だが、俺も黙っていられない」


玲は深く息を吐き、資料の束を前に置く。

「送金記録と監視映像を照合すれば、佐藤の関与は確実に立証できる。時間の無駄は許されない」


朱音が小さく声を上げる。

「玲さん、でも危険が増すばかり……」


玲は眉をひそめ、目を鋭く光らせた。

「危険は承知だ。しかし、放置すれば他の無関係な人間も巻き込まれる。ここで止めなければ」


アキトが椅子から立ち上がり、地図に手を伸ばす。

「俺が現場を押さえる。影班と連携すれば、佐藤の動きも抑えられる」


玲は頷き、アキトの背中を見つめながら言った。

「頼む。アキト、お前の判断に全てを託す」


重苦しい空気の中、円卓に広がる資料が、次なる行動を決意させる鍵となった。


【同日・午後2時30分・黒城アジト 会議室】


黒城は壁に投影されたテレビ画面をじっと見つめ、指先で机の端を軽く叩いた。

画面には、港区旧倉庫街での監視カメラ映像とともに、藤堂の落ち着いた声が響く。


「……佐藤誠の資金流用と旧倉庫街での不審行動が確認されました。関係者は警察の追跡下にあり、未然に事件は防がれました」


部下の一人が小さく咳払いをする。

「……このままでは、計画が……」


黒城はゆっくりと振り向き、低く、しかし鋭い声で言った。

「沈めろ。情報は漏らすな。誠の件は、表向きでは俺たちの責任じゃないことにする」


もう一人の部下が震える声で答える。

「……でも、あの映像と送金記録が公になれば……」


黒城の瞳が冷たく光った。

「公になれば、俺たちも動く。今は耐えるしかない。全て計算通りだ」


沈黙が会議室を支配し、壁のスクリーンだけが赤く点滅する佐藤誠の名前を映していた。


【同日・午後3時・ニューススタジオ】


藤堂はスタジオの照明を背に、封筒の中身を確認する。

手書きのメモには、簡潔にこう書かれていた。


「佐藤誠の資金流用ルートを追跡。旧倉庫街での襲撃映像と照合済み。被害拡大の兆候なし」


奈々が解析した取引ログのデータも添えられており、複数の匿名口座間での送金経路が色分けされていた。

藤堂はその場でメモを読み上げ、スタッフに目配せする。

「これを、ニュース枠の特別報道として差し込みます。準備はいいか」


背後の入り口から、アキトが静かにスタジオに現れる。

作業服姿ではなく、私服の上着にフードを被り、周囲に溶け込むような足取りで。


藤堂は一瞬目を向け、軽く頷いた。

「タイミングは完璧だ。君の情報も、今夜の放送で生かす」


アキトは無言でデスク脇に立ち、モニターの解析画面を注視する。

「……行こう」


藤堂は封筒の中の手書きメモをそっとポケットに収め、カメラの前へ向かった。


【同日・夜・事務所前路地】


停電で闇に沈んだ裏通り。

アキトは腰のホルスターを軽く触れ、由宇と詩乃に視線で合図する。


「……周囲は囲まれてる」アキトの声は小さく、だが冷静さを失わない。

由宇は無言で頷き、詩乃も戦闘体勢を整える。


「俺は……戦闘は得意じゃない。あくまで潜入と変装、情報収集だ」アキトは低く告げ、影のように壁際へ身を隠す。

由宇が短く返す。「わかってる。俺たちがカバーする」


路地の暗がりで、複数の足音がゆっくりと近づく。

アキトは呼吸を整え、目の前の黒い影を一瞬でスキャンする。

「逃げ道は……右の路地、二つ目の鉄扉まで」


詩乃が軽くうなずき、煙幕用の小型カプセルを手に取る。

「準備は整った。あとは合図次第」


アキトは頷き、耳元の通信機に軽く触れる。

「行くぞ」


闇の中、三人は音もなく動き出した。

潜入と変装のスペシャリスト、そして影班の連携が、静寂の路地に溶け込んでいく。


【2025年・夜・狭い会議室】


玲はテーブルの端に手を置き、全員の視線を順に捉える。

「状況はさらに悪化している。黒城が港周辺に動きを見せている。被害者の安全確保を最優先とする」


沙耶が息をのみ、朱音は手元の資料を握りしめる。

奈々が淡々と画面をスクロールしながら、分析結果を報告する。

「港周辺の監視映像、異常な車両の接近を複数確認。予測ルートから逸脱する動きもあります」


玲は視線をモニターに移し、藤堂のライブ映像を一瞬凝視した。

「……藤堂にも危機が迫っている可能性がある。俺が行く」

その声は低く、揺るぎない決意を帯びていた。


由宇が軽く眉を上げ、詩乃は無言で頷く。

「あなたが行くのか……」沙耶の問いに、玲は短く答える。

「潜入と連携は俺の役目だ。情報も現場で最適化する」


部屋の空気がさらに引き締まる。

夜の港に、玲の決意が静かに波紋を広げる――。


【同日・夜・報道特番スタジオ】


藤堂は机の上の原稿を差し替えながら、イヤモニ越しに玲の低く落ち着いた指示を聞く。

「次のブロックで佐藤誠の資金ルートを報じる。映像は準備できているか?」


「はい、差し込みました」

声は落ち着いていたが、どこか機械的な正確さがある。藤堂の横で映像データを操作するスタッフ――実は変装したアキトだった。黒いジャケットと眼鏡で素早く身を隠し、スタジオの喧騒に紛れている。


藤堂はモニター越しにスタッフの動きを確認し、微かに頷く。

「了解。再生スタート。視聴者には、この資金の流れと旧倉庫街での動きを正確に伝える」


アキトは手元のキーボードを静かに叩き、映像と音声の切り替えを完璧に操作する。

「……差し込み完了。映像、再生中」


藤堂の瞳がスクリーンに吸い込まれる。そこには佐藤誠の口座と送金記録、旧倉庫街での監視カメラ映像が次々と映し出され、スタジオ内の緊張感が一層増す。


「視聴者には、単なる事件ではなく、背後の資金ルートと人物関係まで正確に伝える。全て、この瞬間にかかっている」


アキトは微動だにせず、黒子のようにスタジオの片隅で任務を遂行する――玲の指示通り、現場と報道の連携は完璧だった。


【同日・夜・報道特番スタジオ】


藤堂は原稿の端を揃え、視線だけでカメラ位置を確認した。

「……了解。次は三十秒押しで入る。図表、フルスクリーンだ」


「はい」

低い声で応じたスタジオスタッフが、スイッチャー卓の横に立つ。

黒いパーカー、首から下げたスタッフパス。

その手つきは落ち着きすぎるほど正確で、ケーブルの取り回しに一切の無駄がなかった。


藤堂は一瞬、その横顔を盗み見る。

「――映像、差し込みのタイミング。俺の合図で」


「了解です。……呼吸、二拍遅らせてください」

スタッフはそう言って、音声卓のメーターを微調整した。


藤堂の眉がわずかに動く。

「随分、放送を分かってるな」


「昔、少しだけ」

短く答えたその声は、イヤモニ越しの雑音に溶けた。


次の瞬間、フロアディレクターのカウントが入る。

「……三、二――」


藤堂がカメラに正対する。

「続いて、佐藤誠氏の資金ルートについて新たな事実が判明しました」


背後の大型モニターに、送金フローのCGが展開される。

矢印が港区旧倉庫街へと収束し、赤く強調表示された。


その間、スタッフは無言で一歩下がり、イヤーピースに指先を当てる。

「(小声)玲、こちら“問題なし”。映像、予定どおり出てる」


返答はない。

だが、スタッフは気に留める様子もなく、次の合図を待つ。


藤堂が続ける。

「これらの送金は、正規の業務とは無関係であり――」


その瞬間、スタジオの照明が一瞬だけ揺らいだ。

ほんの一拍。だが、スタッフは即座に反応する。


「電圧、微低下。非常電源、スタンバイ」

低く、しかし確実に指示を飛ばす。


フロアディレクターが目を見開く。

「誰だ、今の判断――」


スタッフは振り向かず、淡々と告げた。

「放送、止めさせないためです」


藤堂は原稿を読み上げながら、確信する。

この距離、この判断、この声。


「……アキトだな」

唇だけでそう呟くと、スタッフはほんの一瞬、口角を上げた。


「バレましたか。――でも今は“名もなきスタッフ”でお願いします」


藤堂は視線をカメラに戻す。

「了解だ。……今夜は、最後まで行く」


その背後で、変装したアキトはスタジオ全体を見渡し、

電源盤、出入口、天井のカメラ位置を一つずつ頭に刻み込んだ。


――黒城が動く。

なら、ここは最前線だ。


赤いオンエアランプが、変わらず点灯し続けていた。


【同日・深夜/探偵事務所】


「待て」

低く、しかしはっきりとした声が闇の中で響いた。


由宇の手がドアノブで止まる。

視線が一斉に声の主へ向けられた。


「正面から出れば、向こうの思う壺だ」

玲は一歩前に出て、窓の外の気配を素早く読み取る。

足音の数、間隔、影の動き──包囲は完成している。


詩乃が小さく舌打ちした。

「外、最低でも八。裏にも回ってる。煙、使う?」


「使うな」

玲は即答した。

「ここは住宅地だ。派手にやれば一般人を巻き込む」


奈々が端末を叩きながら、震える声で言う。

「電源……完全に切られてる。非常回線も死んでます。外部との連絡、ゼロです」


沈黙が落ちる。

その中で、事務所の奥から、控えめな足音が一つ近づいてきた。


「……悪い、少し遅れた」


闇の中から現れたのは、黒いパーカーにキャップを被った青年。

アキトだった。


「アキト……!」

奈々が息を呑む。


「スタジオを抜けるのに時間食った」

彼は肩をすくめるが、視線はすでに状況を把握している。

窓、ドア、天井裏への視線の走らせ方が早い。


玲は一瞬だけ目を細め、それから短く言った。

「来るなと言ったはずだ」


「藤堂が狙われる可能性があるって言われたら、無視できない」

アキトは苦笑し、腰の小型ツールケースを確認する。

「戦闘は無理だ。でも、抜け道を作るくらいならできる」


由宇が低く問いかける。

「何か案があるのか」


「ある」

アキトは床を指差した。

「このビル、昔の配管図を見た。床下に旧メンテナンス用の空間がある。倉庫街側まで繋がってるはずだ」


詩乃の目が細くなる。

「時間は?」


「三分で開ける。五分で全員通せる」

アキトははっきり言い切った。

「ただし、その間、外の注意を逸らしてほしい」


由宇が一歩前に出る。

「俺がやる」


「私も」

詩乃が無言で銀色のカプセルを指先で転がす。


玲は一瞬、全員の顔を見渡した。

そして、短く頷く。


「──よし。由宇と詩乃が外を引きつける。アキト、床を開けろ。奈々は内部ログを全消去、証拠だけ持って行け」


「了解」

全員の声が重なった。


次の瞬間。

由宇がドアをわずかに開き、詩乃が床に何かを転がす。


カチリ。


白煙が、闇の向こうで膨れ上がった。


「行け!」

玲の声と同時に、アキトは床板にツールを差し込み、音を殺して外した。


湿った地下の空気が、ひやりと立ち上る。


「……ここだ」

アキトが小さく言う。


そのとき、外で怒号が上がった。

黒城の部下たちが、完全に罠に気づいた合図だった。


だが、すでに遅い。


影と影が、闇の下へと消えていく。

静まり返った事務所に残ったのは、白煙の匂いと、わずかに軋む床の音だけだった。


【2025年】


アキトは瞬時に体を低くして、影に身を沈める。

「……くそ、包囲されてる」

耳の通信機から由宇の声が冷静に響いた。

「動くな。こっちが先に制圧する」


闇の中、黒ずくめの男たちが四方からゆっくりと進む。伸縮式警棒や金属パイプの先端が、街灯に反射して冷たく光った。

アキトは息を殺し、作業員用のヘルメットで顔を覆ったまま、わずかに手を動かす。


由宇が低く指示する。

「煙幕投下、詩乃――左から援護」

薄暗い路地に、詩乃が素早く銀色のカプセルを蹴り込む。小さな金属音の後、白煙が一気に立ち込め、視界を覆った。


「視界奪った……今だ!」由宇の声に合わせ、アキトは瞬間的に黒ずくめの男たちの間を滑り抜ける。

詩乃は後方をカバーし、伸縮式警棒で近づく敵の攻撃を阻む。


「アキト、こっち!」由宇が右手を差し伸べ、アキトを安全な路地の奥へと導く。

湿ったコンクリートに足音一つ立てず、三人は暗闇に消えていく。


アキトは心臓の鼓動を抑えつつ、通信機に囁く。

「了解……行くぞ、次のポイントへ」


【同時刻・】


奈々が青ざめた顔で叫ぶ。

「全回線ダウン! 通信も衛星リンクも遮断されています!」

玲はすぐさま窓の外を確認し、暗闇に浮かぶ複数の影を認めた。

「黒城だ……狙いは分断と殲滅」

由宇が即座に武器を手に取り、短く息を整える。

「詩乃とアキト、完全に切り離されたな」


【2025年・事務所】


玲は深く息を吸い、低く呟く。

「ここは俺たちに任せろ……影班が動く」


由宇は無言で机の下から特殊装備を取り出す。

「アキト、ここは戦闘のプロに任せろ。俺たちが突破口を作る」


詩乃が肩越しに由宇を見上げる。

「煙幕は準備済み、照明弾も手元にある。狭い廊下を完全に制圧できるわ」


玲はホルスターからハンドガンを抜き、窓の外を鋭く見据える。

「奴らの動きを予測する。こちらが先手を取れば、被害は最小限に抑えられる」


由宇は静かに足音を殺しながら扉に向かう。

「……行くぞ」


詩乃もアキトの背後を固め、無言のまま待機する。

路地の影で、戦闘のスペシャリストたちは一瞬の隙も見逃さず、室内に迫る敵を迎え撃つ態勢を整えた。


【2025年】


アキトの背後から、低い声が響く。

「……ようやく孤立したな」

振り返ると、黒城の部下たちが半円状に取り囲んでいた。

金属バット、折り畳み警棒、刃物──

暗闇に鈍く光る。

アキトは呼吸を整え、足元の水たまりを蹴って距離を取った。


【2025年・港区裏路地】


アキトは低く唸るように息を吐き、手首の端末で微弱光を確認する。

「……奴ら、数は多いが焦るな」


背後の闇から、静かな足音が近づいた。

「遅れてすまない……アキト」

声の主は真影しんえい。黒衣に身を包み、まるで影そのもののように路地を滑る。


アキトは驚きつつも視線を合わせる。

「真影……ここは任せた」


真影は軽く頷き、両手に忍具を握る。

「敵の視界を奪い、最短で切り抜ける。あとは任せろ」


瞬間、真影の投げた小型煙玉が地面で炸裂し、白煙が路地を覆う。

金属バットを構えた黒城の部下たちは咳き込み、視界を失い後退する。


アキトはその間に距離を詰め、路地奥の安全地帯へ滑り込む。

「……これで助かったか」


真影は煙の中で静かに立ち、アキトを守る影の盾となった。

「焦るな、次の動きは俺が作る」


湿った夜風が二人の周囲を通り抜け、路地に漂う緊張をわずかに和らげた。


【2025年・港区裏路地】


白煙が徐々に薄れる中、黒城の部下たちは手探りで前進する。

真影は静かにその動きを読み、身を低くして水たまりの陰に潜む。

「数、まだ増えてる……だが無駄だ」


アキトは深呼吸をひとつ。

「……ここで立ち止まるわけにはいかない」


背後から短い笛の音。

由宇と詩乃が接近してきた合図だ。

「アキト、こっちだ」由宇の声は落ち着いているが、緊張が含まれていた。


真影は忍びの動きで前方の数名を押さえつつ、アキトを安全な出口まで導く。

「後は任せろ。俺が遮蔽を作る」


アキトは由宇と詩乃の元へ滑り込み、肩越しに真影を見る。

真影は片手で煙玉を再び投げ、残る敵の視界を完全に遮る。

「これで追撃は防げる。さあ、行け」


三人は路地の先にある建物の影へと素早く移動し、息を整える。

雨上がりのアスファルトに反射するネオンが、彼らの緊張した顔を淡く照らしていた。


アキトは小さく笑みを浮かべる。

「……やっぱり、忍者は頼りになるな」


真影は無言で頷き、夜の闇に再び溶け込んでいく。

路地に残された敵の咳き込みと足音が、やがて遠ざかり、静寂が戻った。


由宇が低く言った。

「次は黒城本体だ……行くぞ」


湿った夜風が三人を包み込み、港区の闇を切り裂く新たな戦いの幕が上がろうとしていた。


【舞台裏搬出口付近・2025年】


アキトは呼吸を整えつつ、濡れた床に反射する微かな光を頼りに前進する。

「……この通路を抜ければ、裏口だ」


真影は壁際で影のように身を潜め、低く告げる。

「一人ずつ潰す。お前は陽動、俺が仕留める」


アキトは小さくうなずき、深呼吸して暗がりに飛び込む。

すぐ後ろから二人の黒ずくめの男が追いかけてきた。


――その瞬間、天井から影が降りた。

光を吸い込む闇の中、冷たい刃が喉元をかすめる。

鈍い音と共に男たちは床に崩れ落ち、呻き声も消える。


アキトはわずかに息を整え、身を低くして通路の奥へと進む。

真影は何事もなかったかのように、暗い通路の影に溶け込む。

「……頼りになるな」アキトの小さな呟きに、夜風だけが応える。


【ライブホール外・裏路地・2025年】


アキトは濡れた路地を小股で進みながら、わざと足音を響かせる。

「……こっちに気を向けさせる」


背後のゴミ袋が金属にぶつかり、かすかなカランという音。

敵の黒ずくめの男が勢いよく飛び出し、ナイフを振り上げる。


だが、瞬間、背後から影が伸び、男は思わずバランスを崩す。

アスファルトに倒れ込むと、静かに動かなくなる。


真影が冷静に立ち上がり、アキトに低く告げた。

「三人目。残りは……少なくないな」


アキトは息を整え、影を頼りに路地をさらに奥へ進む。

濡れた路面に映る二人の影は、夜に溶け込みながら、確実に敵を制圧していた。


【市街地・消えた街灯の下・2025年】


停電で暗闇に沈む交差点。信号も街灯も消え、周囲は闇の海と化している。

遠くでクラクションが鳴り、足音や金属がぶつかる軽い音が断続的に響く。


真影は路地の角で静かに身を潜め、左手で短く手信号を出す。

「ここは俺が抑える、先に進め」


アキトがわずかに頷き、路地を先に進む。

背後から迫る男の影が見え、ナイフを振り上げる瞬間、真影の手が滑るように伸びた。


男の首筋にかかる刃物の反対側を掌で押さえ、軽くひねる──骨の軋む小さな音が闇に吸い込まれる。

男はその場に崩れ落ち、路地の陰に静かに沈んだ。


真影は無言のまま姿勢を正し、周囲を一瞥してから、次の標的に向けて歩き出す。

闇の中、彼の動きは影そのものであり、瞬時に敵を制圧する“S級忍者”の技が確実に証明されていた。


【交差点・非常灯の赤光・2025年】


アキトは暗闇の路地で息を整え、次の行動を探る。

背後では真影が静かに路地を制圧し、足音ひとつ立てずに立っていた。


ふと、反対側のビル屋上に目をやると、黒いシルエットが赤い非常灯に照らされて浮かび上がった。

長身で背筋の伸びたその姿──黒城だ。

その目線はアキトのいる交差点を正確に捉えている。


「……来たか」アキトは低く呟き、腰のホルスターに手をかける。

「黒城……単独じゃない」真影が背後から静かに警告する。


その瞬間、路地の角から玲が駆け込んできた。

「アキト、大丈夫か!?」

玲は息を荒げながらも冷静さを失わず、アキトの視線を受け止める。

「状況は把握。黒城は屋上にいる……こちらは影班と合流済み」アキトが応じる。


赤い非常灯の光に、三人の影が交差し、緊張の時間が交差点を支配していた。

背後の街路灯の消えた暗闇と、屋上の黒城の存在──夜はまだ明けない。


【交差点・非常灯の赤光・2025年】


黒城は屋上から跳び降り、交差点の中央へ滑り込む。

その動きは俊敏で、赤い非常灯の光を反射する黒い衣装が暗闇に溶け込む。


アキトと真影、そして玲は即座に連携を取り、周囲を取り囲む。

「行くぞ!」真影が低く指示し、影班の由宇と詩乃も同時に路地の両側から制圧にかかる。


黒城は反撃を試みるが、真影の瞬間移動のような動きにより腕を絡め取られる。

由宇が後方から飛び込み、腰に手錠を差し出す。

アキトは黒城の両手を押さえ、玲は素早く結束バンドを固定する。


「終わりだ……黒城」玲が冷たく告げると、黒城の抵抗はわずかに震える程度で止まった。

赤い非常灯に照らされる中、背筋を伸ばした黒城は静かに膝をつき、完全に拘束された。


三人は互いに視線を交わし、周囲の影を警戒しながら、黒城を安全な車両へと移動させる準備を整えた。

夜風に混ざる緊張の残り香の中、港区の闇に一つの決着が刻まれた。


【2025年・取調室】


薄暗い取調室の空気は重く、雨音だけが静かに響いていた。

机の上にはまだ湯気の立つコーヒーカップと、乱れのない資料の束。


取調室の奥から、黒いスーツをまとった男がゆっくりと姿を現す。

玲──刑事や諜報の現場経験を積んだ“取調べのスペシャリスト”。

眼鏡の奥で光る瞳は、相手の呼吸、微細な仕草、言葉の端々を一瞬で読み取る。


「座ってもらおうか」玲の声は静かだが、部屋の空気を圧する力を持っていた。

アキトや影班が緊張で固まる中、玲は椅子に腰掛け、手元の資料を開き、紙の端に指を置いた。


「君の動き、資金の流れ、港での行動──すべて把握している。

この場では逃げ場はない。正直に話すか、こちらから聞き出すか──選ぶのは君だ」


雨音とコーヒーの香りの中、相手の微かな動揺が玲の視線に吸い込まれていく。

ここから、すべてが明らかになる時間が始まった。


【2025年・山奥の集落】


夜霧に包まれた集落の門をくぐると、松明の炎がゆらりと揺れ、淡い光を地面に落としていた。

玲は足音を殺しながら、冷たい山の空気を胸いっぱいに吸い込む。虫の声さえ遠く、静寂が濃く重なっていた。


中央にそびえる母屋──古びた欅造りの建物──の縁側に、紫音が座していた。

服部一族の長老であり、服部半蔵の末裔。長い年月を経た風格と、研ぎ澄まされた視線が、月光に淡く浮かぶ。


玲は少し間を置き、低い声で告げた。

「久しぶりだな、紫音……ここで何をしていた」


紫音はゆっくりと顔を上げ、落ち着いた声で答える。

「……待っていたのだ、あなたが来るのを」


夜霧と松明の炎の間で、二人の間に微かな緊張が漂う。

母屋の軒先に落ちる影が揺れ、静かな山奥の夜は、これから始まる服部一族の知略と対話の舞台となった。


【2025年・早朝・山奥稽古場】


霧に包まれた山の稜線が、うっすらと白み始める。

湿った稽古場の中央に立つアキトの足首には鉛の重り、両手首には細い麻縄が巻かれていた。呼吸は荒く、汗が首筋を伝う。


紫音はその前に静かに立ち、腕を組みながら観察する。

「動きは焦らず、重さを体に刻め。重力に逆らうのではない、重力と同期せよ」


アキトは短くうなずき、鉛の重みを感じながら蹴りを打つ。

「はい……」


「次は呼吸だ。力を抜き、麻縄の感触を手首に馴染ませる。戦場では、拘束もまた武器となる」


アキトは息を整え、縄の抵抗を意識しながら前後にステップを踏む。

「……縄も、重りも、敵になる……」


紫音は微かに笑みを浮かべた。

「そうだ、理解したな。これが初日の試練だ。己の動きを鈍らせるものすべてを、体の一部として受け入れるのだ」


霧の山に、鉛の音と縄の摩擦音が静かに響く。

アキトの目には決意が宿り、早朝の湿気が肌を刺す中、修行の時間がゆっくりと始まった。


【2025年・早朝・山奥稽古場】


──一時間後。


湿った稽古場に鉛の匂いと汗の香りが漂う中、膝をついたアキトの前に紫音が立つ。

「まだ形になっていない。だが……黒城に一撃でも届くには、この先十倍は動け」


紫音は木刀を肩に担ぎ、静かに背を向ける。足元の霧が白く揺れ、稽古場は一瞬の静寂に包まれる。


その背中に、玲の声が低く響いた。

「……これを、俺は10分で身につけたぞ」


アキトは額の汗を拭いながら、紫音の言葉を噛み締め、重りと麻縄を体に感じたまま立ち上がる。

霧の中、木刀の影がゆらりと揺れ、修行の朝はさらに深まっていった。


【2025年・早朝・山奥稽古場】


濃い霧がまだ稽古場を覆っている。

紫音は地面に一本の竹竿を突き立て、冷たい朝の空気の中、アキトの前に静かに立った。


「竹の動きを感じろ。相手の意図は、剣よりも早く動く」


アキトは息を整え、足元の重りと手首の麻縄を意識しながら、視線を竹竿の一点に集中させる。

霧に霞む光の中、竹竿が微かに揺れ、周囲の音すら吸い込まれた静寂の中で、アキトの呼吸だけが確かに響いていた。


【2025年・早朝・山奥稽古場】


合図と同時に、紫苑が竹竿を構える。

アキトは踏み出す──

が、その瞬間、紫苑の足がアキトの軌道を踏み潰し、肩口に軽く衝撃が入った。


「はい、死んだ」

「……はやっ!」


紫苑は間髪入れず、再度構える。

アキトは前傾姿勢で一気に詰めようとするが、紫苑の腰の回転と踏み込みで逆に押し返される。


「お前は間合いに入る前に呼吸を読まれている。黒城はもっと速いぞ」


額の汗を拭う暇もなく、紫苑は唐突に口を開いた。

「玲はこれ、20秒で習得したぞい」

「……マジかよ」

「お前は半日かかるな」


アキトが顔をしかめながら竹竿を握り直すと、紫苑は肩を揺らして笑った。

「さあ、もう一度だ。今度は声に出して呼吸を数えろ。呼吸と動きが合えば、竹も刀も怖くない」

「……声? 呼吸を数えるって、忍者修行じゃなくて体育の授業かよ」

「それができなきゃ、黒城を一撃で止めることはできんぞ」

「くそ、負けてたまるか!」


霧に包まれた稽古場で、竹の衝突音と笑い声が静かな山に響き、朝の空気を震わせた。


【2025年・早朝・山奥稽古場】


薄暗くなった稽古場。

竹竿が横たわり、霧が立ち込める中、紫苑は深呼吸をして身構えていた。


「じぃじー!」

ソファの影から駆け出した朱音が、紫苑の腰に飛びつく。

「……お、おう?」と紫苑は少しよろけながらも、目を細めて笑った。


アキトはその光景を見て、ふっと緊張がほどけるのを感じた。


そしてすぐ、紫苑は立ち上がり、真影を見据えた。


「じゃあ、今度はお前の技術を試す時だ」


真影は無言でうなずき、二人は静かに間合いを取った。

真影がまず竹竿を構える。

アキトは一歩前へ踏み込む。

間合いを潰そうとするアキトの動きを、真影は鋭く読んで動きを封じた。

呼吸の合間を狙い、アキトは何度も足を出すが、真影の巧みな足捌きにことごとくかわされる。


【2025年・早朝・山奥稽古場】


「くっ……真影、読まれすぎだ!」

「読んでるんじゃない、殺気を感じ取ってるだけだ」


アキトは息を整え、竹竿を握り直す。

「いや、殺気って言われても……お前、笑ってるだろ」

「笑ってる? いやいや、真剣勝負だぞ」

「勝負に見えないんだよ、そこが問題なんだ!」


真影は竹竿を軽く振り、風を切る音を立てる。

「ほれ、足をもっと使え。間合いに入る前に呼吸を意識だ」

「うお……呼吸か、呼吸を数えろって?」

「数えるんだ、声に出してみろ」

「一、二、三、……って、忍者修行じゃなくて体育だなこれ」

「それでいい。動きと呼吸が同期すれば、竹も刀も怖くない」


アキトは一歩前へ踏み込み、真影の動きを読もうと必死に目を凝らす。

「……読めねぇ!」

「読めるまで踏み込み続けろ。倒れたら起きてまた来い」

「え、倒れる前提!? さすがS級……」


霧の中、竹の衝突音と笑い声が交互に響き、稽古場は戦闘訓練というより、二人の掛け合い劇場のような空気に包まれた。

アキトは汗だくになりながらも、真影の言葉に思わず笑いが漏れる。

「……くそ、笑わせやがる!」

「笑うのも呼吸の一部だ、忘れるな」


朝霧に光が差し込み、竹竿の先端がかすかに輝いた。二人の修行は、まだまだ続きそうだった。


【2025年・深夜・港区路地】


アキトは濡れたアスファルトに靴先を押し付け、静かに足を進める。

「……異常なし、後方も安全」

イヤホン越しに由宇の低い声が届く。


霧の中、アキトの影がゆらりと伸びる。

ポケットの端末が短く震え、赤い点が点滅する。

「……来たな」アキトは小さく息を吐き、身を低くする。


その瞬間、路地の奥から複数の黒い影が近づいてきた。

金属の擦れる音、軽く跳ねる足音──

アキトは背筋を伸ばし、呼吸を整える。

「後は……真影に任せる」


背後の屋根から、黒衣の影が滑り降りる。

「遅れてすまない」真影の低い声が霧に溶け、敵の動きを押さえるように路地を支配した。


【2025年・深夜・旧市街路地】


アキトは黒のフードを深く被り、石畳の上を静かに歩く。

足音はわずかに石に反響するが、霧がそれを吸収するかのように広がっていく。


「後方も確認済み……異常なし」

由宇の声がイヤホン越しに届く。低く、落ち着いている。


角を曲がると、かすかに動く影。

「……気配あり」アキトは息を潜め、影の奥に手を伸ばす。


その瞬間、屋根の上から滑り降りる黒衣の影。

「遅れてすまない」真影の声が霧に溶け、路地の緊張を一気に支配する。

アキトは素早く身を低くし、目で合図する。

「……任せた」


路地は再び静寂に包まれるが、両者の呼吸と微かな衣擦れの音だけが、夜の街に緊張を刻み込む。


【2025年・深夜・廃工場奥】


男は後ろ手に両手を縛られ、腕は肩の高さまでねじり上げられている。

細い麻縄が手首の皮膚に食い込み、少しでも動くと痛みが走る。

胴体はもう一本の縄で胸と腰のあたりを巻かれ、鉄骨の梁に固定されている。

足首も絡め取られ、完全に身動きが封じられた状態だ。


「……くそ……」男が低く呟くが、縄の締め付けで声はかすれてかすかにしか聞こえない。

鉄の冷気が肌に伝わり、汗と埃が混じった匂いが周囲を支配している。


遠くの扉が開く音に、男の瞳が一瞬揺れる。

「……来たか」


【2025年・深夜・廃工場奥】


足音が廃工場の奥に吸い込まれるように近づく。

錆びた鉄骨や機械の残骸に反響し、金属音が微かに混ざる。


縄で縛られた男は身を固くし、肩越しに暗闇をうかがう。

「……誰だ?」低くかすれた声が響く。


影がゆらりと鉄骨の間を横切り、やがて足元に立つ。

薄暗い光の中で、姿は黒ずみ、顔の表情はほとんど見えない。


「……もう動くな」低く告げる声に、男の肩がピクリと震えた。

縄の締め付けが痛みを増す。

冷たい空気の中、次の瞬間が静かに訪れるのを、二人は互いに見据えていた。


【2025年・深夜・廃工場奥】


沈黙を切り裂くように、背後の鉄製ドアがゆっくりと開いた。

冷たい光が差し込み、埃が舞う。


そこに現れたのは、凛とした佇まいの男――服部一族の長、紫苑だった。

白髪をきっちりと結い上げ、長衣を身にまとい、静かで圧倒的な威圧感を放っている。


男は縄で縛られたまま、目を見開き、低くつぶやく。

「まだ……忍者が存在するのか……?」


紫苑は淡々と足を進め、縄で縛られた男を見下ろす。

「存在する。そして、お前のような者を放置するためではない」

男の背筋に冷たい汗が走り、場の空気が一層張り詰めた。


【2025年・深夜・廃工場奥】


紫苑は男を鋭い眼光で見据え、次にアキトへと目を移した。

「アキト、お主は先の訓練の成果を見せてみよ」


アキトは深く息を吸い、足元の瓦礫を踏みしめる。

濡れた床の感触を確かめるようにわずかに体重を移し、拳を握り直す。

「分かりました、師匠……」


軽く一歩踏み出すと、動きは流れるように滑らかになった。

訓練で身につけた竹竿の間合いと、半蔵流の呼吸の読みを応用し、目の前の縄で縛られた男の動きに反応する。


男がわずかに体を揺らすと、アキトは瞬時に距離を詰め、背後から制圧の姿勢を取る。

その動作は訓練の成果そのもので、以前のようなもたつきは一切ない。


紫苑は穏やかに微笑み、低く言った。

「よい……お主の体が、心と呼吸を覚えている」


アキトは静かに頷き、次の動きを警戒しつつも、自信を滲ませて立ち続けた。

男の表情に恐怖が広がり、縄の中で身を固くする。


「これで……お前の息の根を止める術も、理解したか」

紫苑の声が静かに響き、廃工場の奥に緊張の波紋を広げた。


【2025年・深夜・廃工場奥】


男は一瞬だけ視線を逸らし、唇を強く噛みしめた。

喉が鳴り、乾いた呼吸音が闇に滲む。

しかし、紫苑の低く腹に落ちる声には、逆らえば命そのものを削られると直感させる圧があった。


「……あの女だ」


しぼり出すように吐き出された言葉に、冷え切っていた空気がさらに一段階、温度を失う。

アキトの指先がわずかに強張った。


紫苑の眉が、ほんの一瞬だけ動く。

それだけで、男は続きを言わずにはいられなかった。


「芸能事務所の内部だ……派閥争い。表じゃ“育成方針の違い”だの言ってるが、裏は金と席の奪い合いだ」

男は荒い息の合間に言葉を吐き捨てる。

「上層部の命令で……邪魔な存在を、潰せって……」


アキトが一歩、音もなく前に出る。

「標的は誰だ。名前を言え」


男は一瞬ためらい、紫苑の視線を感じて諦めたように首を垂れた。

「……篠宮リオ。あのライブが、最後になるはずだった」


その名が落ちた瞬間、廃工場の奥で何かが沈んだ。

紫苑は静かに目を閉じ、数秒だけ沈黙を置く。


「人の夢を、盤上の駒のように扱うか」

低い声が、冷えた鉄骨に反響する。

「して、その“あの女”とは誰ぞ」


男は震える声で答えた。

「久我の……副社長だ。表じゃ温厚で通ってるが、裏で全部仕切ってる」


アキトは思わず舌打ちを噛み殺した。

「……やっぱり中枢か」


紫苑はゆっくりと目を開き、アキトを見る。

「よい。これで線は一本に繋がった」

そして男へと視線を戻し、静かに告げた。

「命は取らぬ。だが、お主の名も行き場も、すでに消えたと思え」


男の顔から血の気が引く。


紫苑は背を向け、歩き出した。

「アキト。戻るぞ。次は“刃”ではなく、“光”で斬る段じゃ」


アキトは一瞬だけ男を見下ろし、低く言った。

「運が良かったな。喋ったからだ」


二人の足音が遠ざかるにつれ、廃工場には再び、重い沈黙だけが残った。


【2025年・深夜・廃工場奥】


紫苑とアキトは、縄で縛られた男の証言を受け止め、静かに背を向けた。

「行くぞ、アキト」

「はい」


二人は慎重に足音を殺し、廃工場の湿った床を踏みしめながら出口へ向かう。

しかし、その瞬間――


背後で小さな金属音が響き、男の体が床に崩れ落ちる。

口封じのために、誰も予期できぬ素早さで、男はその場から消された。


アキトは咄嗟に振り返る。

「……!?」

紫苑は微動だにせず、静かに言った。

「これが……闇の力というものだ。油断は命取り」


廃工場内には、男が倒れた衝撃音だけが虚しく残る。

霧と影が交錯し、緊張は解けることなく、夜の闇に二人の背中だけがゆっくりと消えていった。


了解です。では男性として描写を調整します。



【2025年・廃工場外】


銃声の余韻が壁に反響し、湿った夜気に混ざって鈍い振動が伝わる。

玲は立ったまま首をわずかに傾け、周囲の音に意識を集中させた。

「……複数だ。足音が重い」


奈々が端末の光を頼りに辺りを確認しながら、低く告げる。

「数は……少なくとも四人、重装備です」


由宇が壁際に身を寄せ、指先で銃のトリガーを確かめる。

「油断は禁物だ。玲、指示を」


玲は深く息を吸い、男性らしい落ち着いた声で答えた。

「影班、前方と側面を抑えてくれ。私は中央から抜ける」


霧の夜に、足音と影が交錯し、緊迫の瞬間がゆっくりと迫っていた。


【2025年・廃工場外】


霧が立ち込める路地に、かすかな物音が混ざった。

突然、建物の陰から黒い装束の一団が現れる。

──服部一族の戦闘部隊だ。


全員が漆黒の装束に身を包み、手には忍具や短刀、折りたたみ式の棒を携えている。

その動きは一糸乱れず、影のように静かに地面を踏みしめながら前進する。


紫苑が低く告げた。

「来たか……。アキト、お前は私たちと合流する」


アキトは短くうなずき、戦闘部隊の列に滑り込む。

由宇と詩乃も警戒を緩めず、左右に分かれて隊列を補助する。


霧の夜に忍び寄る黒装束の影──廃工場外の緊張感は、一層鋭利な刃物のように空気を切り裂いていた。


【2025年・留置所】


薄暗い独房の中、鉄格子越しにわずかな光が差し込む。

黒城は手錠に繋がれ、背もたれに寄りかかるように座っていた。

耳には、外から伝わるかすかな囁き──

「……男はもう、処理された」


黒城の目が鋭く光る。

「……なるほど、計画は順調か」

口角がわずかに上がるが、その表情には冷たい怒りと焦燥が交錯していた。


留置所の静寂に、わずかな鉄格子の軋む音だけが響く。

黒城は拳を握りしめ、次の行動を思案していた。


【2025年・事務所】


夜明け前、静寂の中で事務所の蛍光灯が白く光る。

玲は椅子に深く腰を下ろし、指先でスマートフォンとメモリカードを触れながら、静かに息を吐く。

「……これで全て確認できる」


由宇は壁際に立ち、腕を組みながら画面を見つめる。

「動きは把握した。あとは整理だけだな」


朱音はテーブルの端に座り、疲れた目を細めながらも、スマートフォンの画面に映る情報を指先でなぞる。

「黒城の計画……これ、全部明るみに出るんだね」


アキトは作業服のまま椅子に腰掛け、無言で機材を眺める。

「……これで、誰も犠牲にさせない」


テーブル上の機材は冷たいが、そこに集った者たちの意思は確かで熱かった。

外の夜明けがわずかに窓を白く染め、戦いの終焉と新たな始まりを告げていた。


【2025年・山間の稽古場】


月明かりが樹々の隙間からこぼれ、濃い霧が地面を這う。

湿った空気の中、遠くで虫の声が静かに響く。


アキトは霧に包まれた稽古場の中央に立ち、呼吸を整えた。

足首には鉛の重り、両手首には細い麻縄。先日の紫苑の指導を思い返しながら、動きを確認する。


紫苑が木刀を肩に担ぎ、低く声をかける。

「息を整え、間合いを読むんだ。黒城の動きはここで練習した倍の速さだぞ」


アキトは頷き、足を踏み出す。鉛の重みを感じながらも、体幹を意識して竹竿に近づく。

霧の中、竹竿が淡く光を反射し、アキトの目は鋭く一点に集中する。


「……これで、奴に一撃を届かせる」

小さくつぶやき、アキトは竹竿に向けて踏み込みを始めた。


竹竿に向けて踏み込むアキトの動きは、先日の稽古よりも確実に速くなっていた。


紫苑は微動だにせず立ち、木刀を軽く構える。

「呼吸がまだ乱れている。間合いを読むよりも、まず自分の動きを安定させろ」


アキトは一瞬止まり、深く息を吸う。

足首の重りが地面に沈み込む感覚を意識し、体幹を微調整する。


再び踏み込み、竹竿の先端に指先が触れる──しかし紫苑は寸分も動じず、わずかに体をねじり、アキトの手首をかわす。


「くっ……!」

息を弾ませながらも、アキトはすぐに姿勢を戻す。


紫苑は木刀をゆっくり降ろし、目を細めて笑った。

「その調子だ。だが、次は俺の竹刀の速度を読めるか試してやる」


アキトは自然と笑みを浮かべ、再び間合いを取り直した。

霧の中、二人の呼吸と竹竿の緊張が、稽古場に静かに響き渡る。


【2025年・深夜/港区旧倉庫街・暗い廊下】


玲は男の腕をしっかりと掴み、ナイフの刃を押さえたまま低く言った。

「静かにしろ……動けば、自分を傷つけるだけだ」


男は呻きながらも必死に抵抗を試みる。

「くっ……離せ……!」


玲は微動だにせず、鋭い目で男を見据える。

「俺が離すと思うか? 一歩でも動けば終わりだ」


背後から由宇が駆け寄り、低く囁く。

「玲、廊下の奥にもう二人、気を付けろ」


玲は頷き、男を押さえたまま闇に身を潜める。

「分かった……まずここを抜ける」


廊下に響くのは、わずかな呼吸と男の低い呻きだけ。

冷静さと瞬時の判断力──影班の戦術が今、現実の闇で試されていた。


【2025年・午前3時17分

別邸内部・北棟廊下】


ナイフが床を滑り、乾いた金属音を立てて壁に当たった。


玲は男の腕を極めたまま、感情のない声で言った。

「動くな。次に息をするタイミングを間違えたら、骨が折れる」


男は歯を食いしばり、喉の奥で掠れた声を漏らす。

「……く、くそ……」


その瞬間、廊下の奥から複数の足音が重なり合って迫ってきた。

人数は三、いや四。足取りが揃っていない。焦りと殺意が混じった音だ。


玲は男を壁に叩きつけ、気道を一瞬だけ締める。

意識が落ちる寸前を見極め、床に転がした。


「遅い」


自分に向けた言葉だった。


胸の奥で、紫苑の声がはっきりと蘇る。

――迷うな。次は、一撃で落とせ。


玲の目から、ためらいが消えた。


角を曲がった瞬間、最初の男が飛び出してくる。

玲は半歩だけ踏み込み、相手の懐に入った。


肘。

喉仏。

膝。


三つの動作は呼吸一つ分で終わる。

男は声すら上げられず、床に崩れ落ちた。


二人目が警棒を振り上げる。

玲は受けず、流し、距離を詰める。


手首を取り、捻り、肩を支点に体重を乗せる。

鈍い音。

警棒が床に落ち、男は関節を押さえて転げた。


三人目が一瞬ためらった。

その“間”が致命的だった。


玲は目を合わせたまま、低く告げる。

「逃げるなら今だ」


だが男は動けない。


次の瞬間、玲の踵が鳩尾に突き刺さり、男は空気を吐き出して沈黙した。


廊下に残ったのは、荒い呼吸音と、床に転がる三つの影だけ。


玲は静かに背筋を伸ばし、周囲を確認する。

心拍数は一定。呼吸も乱れていない。


「……これが“一撃”か」


呟きは、誰に聞かせるでもなかった。


そのとき、無線が短く震え、由宇の声が割り込む。

「玲、北棟制圧完了。残存反応なし」


玲は視線を闇の先に向けたまま答える。

「ああ。こっちも終わった」


そして一瞬だけ、親友の顔が脳裏をよぎる。

アキトがここにいたら、きっと言うだろう。


――やりすぎだって。


玲は口元をわずかに緩め、踵を返した。

本気を出す必要がある夜は、まだ終わっていなかった。


【2025年・別邸 二階書斎 午前4時29分】


重厚な扉の鍵をピッキングで解除し、玲とアキトは暗い書斎に足を踏み入れた。

机の上には整理された書類と、高価な革張りの椅子。壁には監視カメラの映像が映るモニターが並び、赤い点滅が部屋を照らしている。


【2025年・書斎】


玲は机に置かれた資料の山に目を走らせながら、低くつぶやいた。

「ここに……取引の全容が隠されている」


アキトは背後の扉を見張り、耳をすませる。

「動きはあるか?」

玲が素早く手元のタブレットを操作し、モニターに映る人物の動きを確認する。

「数名の影……監視員だ。だが、ここまで侵入してくることは想定外だろう」


玲は息を整え、机の端に置かれたペンを握りしめる。

「ナイフより、このペンで……いや、拳でもいい。迷っている暇はない」


アキトが肩越しに覗き込み、低く応える。

「わかった。行くぞ」


玲は深呼吸し、暗がりに潜む影に目を据えた。

一瞬の隙も見逃さず、全身の感覚を研ぎ澄ませる。


刹那――足音が近づき、モニターの赤い点滅が瞬く。

玲は拳を固め、アキトと同時に前へ踏み出した。

「……これで決める」


【2025年・別邸廊下】


成瀬由宇は拳銃を片手に、薄暗い廊下を低く進む。

奥から三人の警備員が、規則正しい足音を刻みながらこちらに迫ってくる。


「……来るな」


成瀬由宇は瞬時に判断し、壁際に身を潜める。

警備員たちが廊下の中央を通り過ぎようとした瞬間、彼は静かに動き、片手で壁を蹴り反動を利用する。


一人目の腕をねじり、肩に衝撃を与えて膝を折る。

二人目は背後から首を締めつつ床に押さえつける。

三人目が振り返った瞬間、成瀬由宇は一歩詰め、拳で顎を打ち意識を奪った。


三人とも床に倒れ、微かな呻きと重い呼吸だけが残る。

成瀬由宇は再び身を低くし、暗い廊下に沈黙が戻る。


「これで奥に進める……」


【2025年・別邸 地下管制室】


アキトがモニターを確認し、眉をひそめた。

「由宇たち、複数接近中の反応が増えてる」


玲は即座に視線を上げ、低く言う。

「数は?」


「……七。二方向から。通路Bと階段側」

アキトは指先で拡大表示を切り替え、赤点の動きを追った。

「由宇は単独だ。援護は間に合わない」


玲は一瞬だけ目を閉じ、短く息を吐く。

「……任せるしかない」


【同時刻・別邸 西側廊下】


成瀬由宇は照明の切れた廊下に身を沈め、壁の陰で呼吸を整えた。

足音は近い。重装の靴底が床を叩く音が、規則的に迫ってくる。


「……三、四……」


由宇は音の数を数え、警備の間隔を読む。

先頭が角を曲がった瞬間、由宇は低く滑り出た。


一人目の手首を銃ごと掴み、肘を逆に折る。

鈍い音。男は声を上げる前に床へ沈む。


二人目が振り向いた瞬間、由宇は壁を蹴って距離を詰め、喉元に肘を叩き込む。

息が詰まり、崩れ落ちる。


残りが銃口を上げかけた刹那、由宇は消火器を引き抜き、床に叩きつけた。

白煙が廊下を満たし、視界が奪われる。


「くそ、前が──」


声が途切れた。

由宇の影が煙の中を横切り、背後から首を締め落とす。

もう一人は膝裏を蹴られ、倒れたところを床に押さえ込まれた。


由宇は音もなく立ち上がる。

「……残りは上か」


【同時刻・別邸 中央階段】


階段の踊り場。

由宇は手すりの影に身を伏せ、上階から降りてくる足音を待った。


一人、二人。

タイミングを測り、由宇は手すりを越えて落下するように踏み込む。


最初の男の肩に着地し、そのまま体重をかけて床に叩き伏せる。

二人目が叫びかけた瞬間、由宇の拳が鳩尾に沈み、声は空気に溶けた。


残る一人が後退したが、由宇は間合いを詰め、足を絡めて転ばせる。

銃が床を滑り、由宇の靴先がそれを止めた。


「……静かに寝てろ」


短く告げ、由宇は最後の男を落とす。


【2025年・別邸 最奥警備区画前】


由宇は扉の前に立ち、耳を当てる。

中には一人。呼吸は浅く、緊張している。


由宇はノブに手をかけ、一気に踏み込んだ。


数秒後、扉の向こうは静まり返る。

由宇は床に倒れた警備員を一瞥し、通信機に触れた。


「……通路制圧。目的の部屋に到達した」


その声は淡々としていたが、背中には確かな疲労と、揺るぎない集中が宿っていた。


【午前4時36分・別邸一階南廊下】


地下から上がってきた由宇と詩乃、二階から降りてきた玲とアキトが合流する。

背後から迫る足音と怒声──

増援の警備員が押し寄せてくる。


 【2025年・別邸内部二階廊下】


由宇は拳銃を片手に前方の警備員を正確に制圧し、床に倒れる影を確認すると、すぐ詩乃が背後から伸縮警棒を振るい、二人目の警備員の動きを封じる。


「玲、右側!」


玲は瞬時に反応し、飛びかかってきた三人目の警備員を組み伏せ、ナイフを奪い取る。

アキトは変装した作業員の動きで残りの警備員を誘導しつつ、手際よく後方から抑え込む。


床に倒れた警備員たちの呻き声を聞きつつ、4人は息を乱さず、次の扉へ目を向ける。

「奥に進むぞ」由宇が低く告げ、全員が無言で頷く。


足音が後ろから迫る中、4人は間合いを保ちながら、互いにカバーし合い、暗い廊下をさらに奥へと進む。


【2025年・別邸二階廊下】


灰色の仮面は無言で廊下を滑るように進む。由宇はわずかに視線を動かし、敵の足の軌道を読み取る。


「詩乃、左をカバー」


詩乃が即座に反応し、暗がりから伸縮警棒を振り出す。由宇はその隙に一歩踏み込み、仮面の右手首を掴み、腕を極めて背後に回す。


仮面が刃物を振ろうとする瞬間、玲が低く飛びかかり、肩口から制圧。アキトは素早く足元を抑え、仮面を床に倒す。


「完全に動きを封じた」由宇の声に、詩乃が頷く。

灰色の仮面は床に崩れ、四人の視線は次の進路へと静かに向けられた。


床に残る敵の体の影が、静寂の中でかすかに揺れる。


【2025年・別邸二階・重厚な金属ドア前】


詩乃は携帯端末をドアの読み取り口に接続し、細いコードを差し込む。端末の画面には三重構造のロックシステムが複雑に表示され、赤い数字が秒単位でカウントダウンしている。


「……解除まで、あと七秒」


端末の光が詩乃の顔を白く照らし、指先は静かにだが正確にコマンドを打ち込む。


アキトが肩越しに覗き込み、低く呟く。

「三重構造……この緊張感、堪らんな」


由宇は手元の銃口を軽く確認し、背後の廊下に目を配る。

玲は腕組みをしたまま、冷静に周囲の音を探る。


端末が最後のコマンドを受け付けると、ドアのロック機構が静かに解かれる音が響いた。


「解除……完了」詩乃の声に、全員の肩の力がわずかに抜ける。

重厚なドアはゆっくりと開き、内部の闇が彼らを迎えた。


【2025年・別邸二階・資料室】


薄暗い資料室。無数の棚と金属ケースが並び、埃と紙の匂いが混ざった重い空気が漂っている。


玲は最奥の金庫の前に立ち、手袋をはめた指でダイヤルを慎重に回す。金庫の扉がカチリと音を立て、わずかに開いた。


「……来たな」


中から黒い耐火ケースを取り出し、机に置く。蓋を開けると、中には一枚のメモリカードと、数枚の古びた写真が整然と並んでいた。


アキトが端末を取り出し、慎重にメモリカードを接続する。

「……解析開始」


詩乃が棚の影から手元の小型カメラで室内を監視しながら、低く告げる。

「万が一の侵入者にも対応できるよう、通路を封鎖しました」


由宇は肩越しに室内を見渡し、拳銃を軽く握り締める。

「ここから先は俺たちの領域だ」


玲はメモリカードのデータを確認しつつ、静かに言った。

「この情報を解析できるのは、御子柴理央しかいない……だが、その前に全ての安全を確保する」


資料室の奥で、モニターに映る複雑なファイル構造を前に、全員の視線が固まった。


【2025年・探偵事務所・会議室】


夜の湿った空気が、窓の外から静かに流れ込む会議室。テーブルの中央には、資料室で回収されたICレコーダーが無造作に置かれていた。


ドアが静かに開き、御子柴理央が姿を現す。肩にかけた薄手のコートが揺れ、落ち着いた足取りでテーブルに近づいた。


「……状況は把握しています」

御子柴はICレコーダーを手に取り、端末に接続する。モニターには波形がゆっくりと表示され、微細な音声信号が解析され始めた。


「ここから抽出できるのは、肉声だけでなく背景音も含めた全情報です。微細な環境音からも、現場の状況をほぼ再現できます」


玲が資料を指さし、低く問いかける。

「今回の事件に関連する人物の声、判別できるか?」


御子柴は静かに頷き、解析ソフトの細かい設定を操作する。

「……可能です。ただし、時間をかけて精密に処理する必要があります。雑音を除去し、声紋と一致させれば、相手の動きまで推定可能です」


アキトが端末の横で腕を組み、少し緊張した表情で見守る。

「じゃあ、このICレコーダー一つで、黒城の指示や佐藤誠のやり取りも丸裸にできるってことか」


御子柴は淡々とした口調で答えた。

「……ええ。準備は整いました。あとは解析を開始するだけです」


会議室の空気が一瞬、静謐な緊張に包まれた。全員の視線がICレコーダーと御子柴に集中する。


【2025年・別邸外周】


湿った海風が夜気を冷やす。波の音が遠くで砕け、薄闇の中、別邸の白い壁が月光を鈍く反射していた。防犯灯の光が規則正しく巡回し、外周の柵には赤外線センサーが張り巡らされている。


物陰から現れたのは、影班の一員でありセキュリティ解析のスペシャリスト、桐野詩乃。黒い装束に身を包み、軽くしゃがみ込むと赤外線センサーの微かな反応を端末で読み取る。


「……センサーは三層構造、巡回間隔は五秒ごと。侵入可能な隙間は二か所」

詩乃は低くつぶやき、端末を覗き込みながら手元の小型レーザーでセンサーラインを示す。


アキトが隣にひそみ、息を潜めながら訊ねる。

「じゃあ、そこを抜ければ警報には引っかからない?」


詩乃は小さく頷き、指先で壁際のルートをなぞる。

「……ただし、屋外監視カメラも稼働中。映像解析用の妨害装置を先に仕掛ける必要がある」


玲が遠くから静かに声をかける。

「時間は少ない。動きは慎重にな」


桐野はほのかに笑みを浮かべ、暗闇の中で端末を操作し始めた。

「任せなさい。影班のやり方、見せてあげます」


【2025年・別邸地下資料室】


スピーカーから再び低い声が漏れた。

『……例の“資料”は湾岸地区の別邸に移した。二十三日の深夜、輸送する』


一瞬、室内の空気が張り詰める。

湿ったコンクリートの壁に、音声が反響してわずかに歪んだ。


続いて、聞き覚えのある声が重なる。

『手筈は同じだ。監視網は私が操作する──』


「……やっぱりだ」

玲が低く吐き出すように言い、視線を御子柴へ向ける。


御子柴はICレコーダーの波形を拡大しながら、冷静に告げた。

「声紋一致率、九八パーセント。佐藤誠……それと、この二人目」

画面を切り替え、別のデータを表示する。

「黒城の側近、通信担当の男です。監視網を“操作する”という発言、裏付けが取れました」


詩乃が壁際で腕を組み、目を細める。

「湾岸地区の別邸……やっぱり、あそこが最終保管場所ね」


アキトはスピーカーに近づき、再生を止めた。

「輸送は二十三日の深夜。つまり、時間は……」


「四十八時間弱だ」

玲が即座に引き取る。

「その前に動く。資料の確保と、関係者の身柄確保。どちらも同時進行だ」


一瞬の沈黙。

遠くで、別邸の外周を巡回する防犯灯のモーター音が微かに響く。


御子柴が淡々と続けた。

「この音声があれば、単なる噂じゃ終わりません。報道、捜査、全部を一気に動かせる」


玲は頷き、仲間たちを見渡す。

「藤堂にも回す。だが――」

視線が鋭くなる。

「黒城は、必ず最後の一手を打ってくる。油断するな」


アキトが小さく笑い、肩をすくめた。

「派手なのは苦手だけど……潜り込むのは、得意分野だ」


詩乃は端末を閉じ、闇の向こうを見据える。

「じゃあ、影の出番ね」


資料室の薄暗がりの中で、次の夜に向けた歯車が、静かに回り始めていた。


【2025年・湾岸別邸前サーバー室】


低温の空調音が静かに響く中、玲は金属ケースを抱え込み、背中のホルスターに素早く固定した。冷たい金属の感触が服越しに伝わり、思わず肩に力が入る。


アキトがそっと肩越しに訊く。

「……ここからどう動く?」


玲はラックの青いランプを確認し、端末に指を滑らせる。

「監視網の操作は遠隔で受け持つ。詩乃、屋外センサーとカメラ、君に任せる」


桐野詩乃は影のように立ち上がり、手元の小型端末で赤外線とカメラ映像を確認する。

「了解。湾岸別邸の周囲、全て掌握しました」


玲は低く息をつき、背中のケースを軽く叩く。

「……深夜の輸送までに、全て封鎖する。黒城も佐藤誠も、ここに手を出せないようにする」


アキトが頷き、夜霧の中へ溶け込むように準備を整える。

「やるしかないな……」


遠く、湾岸の灯りが薄く揺れ、深夜の作戦開始を告げる静けさが漂っていた。


【2025年・湾岸別邸地下補給通路】


地下補給通路は、海水の匂いと錆の匂いが混ざる湿った暗闇に包まれていた。床に打ち込まれた鉄板が、アキトの足音と背後から迫る複数の足音を鈍く反響させる。


アキトは壁際に身を寄せ、背後から近づく影を察知する。

「……来たな」


二人組の警備員が階段を下りてくる。距離は10メートル。アキトは深呼吸し、息を整えてから瞬間的に飛び出した。


最初の男に肘を打ち込み、腰を一気に押し込む。男は金属板に倒れ込み、呻き声を上げる間もなく、床に倒れた。


もう一人がナイフを振り上げるが、アキトは身を低く滑らせ、片手で腕を掴む。捻る力を加え、ナイフを床に叩き落とす。


「ふ……よし」


背後にもう一組の足音。アキトは振り返らず、蹴りで通路を塞ごうとするが、相手は二人がかりで突進。


瞬間、背後から由宇が現れ、両手で二人を制圧。男たちは音もなく倒れ、通路は再び静寂に包まれた。


アキトはわずかに息を整え、壁に寄りかかる。

「……これで後方は安心だな」


湿った鉄の匂いの中、地下補給通路には静けさが戻った。


【2025年・埠頭】


荒い息を吐きながら、玲たちは人気のない埠頭にたどり着いた。海から吹きつける潮風が、火照った体を刺すように冷やす。


波止場に停めた無灯火のワゴン車の横で、奈々が素早く端末を展開する。青白い画面が手元を照らし、湿った海風に揺れる紙片のように光が反射する。


「……受信ログがここまで来てる」


端末画面には、湾岸別邸への輸送経路と複数の監視カメラの稼働状況がリアルタイムで映し出される。赤い線が港湾の道路を縫うように走り、移動中の車両が点滅している。


奈々は指先で画面をなぞりながら解析する。

「23日の深夜、車両はこのルートで別邸に到着する予定……衛星リンクも一時的に遮断される。監視網の盲点はこことここ」


玲が横で頷く。

「なら、ここを押さえれば安全に接近できるな」


奈々は小さく息を吐き、さらに細かく経路をシミュレーションする。

「護衛と警戒位置も想定済み。おそらく三回の交差点チェックで迂回させる……よし、作戦開始まであと15分」


端末から微かな音が鳴り、赤いアイコンが点滅する。埠頭の静寂に、緊張感が一層濃く漂った。


【2025年・事務所】


夜明け前の静けさが漂う事務所。窓の外はまだ闇に沈み、街のざわめきも聞こえない。蛍光灯の白い光が、疲弊した面々の顔を容赦なく照らしていた。


玲はデスクに肘をつき、深く息を吐く。指先で書類の端を押さえ、視線は無意識にモニターへと向かう。画面には、昨夜の埠頭作戦のログや端末解析結果が残っている。


「……全て、予定通りだな」


奈々が端末を片手に、肩越しに画面を覗き込む。

「監視網の盲点も確認済みです。黒城の残党もこの範囲には入っていません」


アキトは椅子に深く腰掛け、肩越しに窓の外の暗がりを見つめる。

「……でも、まだ安心はできない。何かの拍子で動き出すかもしれない」


由宇は拳銃の手入れをしながら、短く頷く。

「備えは万全だ。ここで休むのも悪くない」


静寂の中、机の中央に置かれた黒城のスマートフォンとメモリカードが、まだ戦いの余韻を伝えるように微かに光を反射していた。


【2025年・事務所会議室】


会議室の空気は重かった。テーブルには、数時間前の別邸突入で確保した黒いデータ端末が置かれている。


奈々は端末のタッチパネルに指を滑らせ、暗号化されたデータの解析を開始する。小さな端末が微かに振動し、画面上に複雑なコード列が流れる。


「……よし、突破完了」


指先を止めずに操作しながら、奈々は淡々と報告する。

「暗号は最新のAES256。内部に分散保存されていた複数のファイルを統合しました」


玲が端末を覗き込み、眉を寄せる。

「……想定以上に情報量が多いな。ここから重要な箇所だけ抽出する」


アキトは腕を組み、画面を凝視する。

「俺たちの標的に関わる部分はどこだ?」


奈々は一瞬、解析結果を確認し、静かに答える。

「送金記録、監視カメラ映像、内部メモ。これで黒城の指示系統と資金ルートを完全に把握できます」


由宇が椅子にもたれ、銃の手入れを中断して画面に視線を送る。

「……これで動きが読みやすくなるな。準備は整った」


端末の光が会議室の暗さをほんの少しだけ和らげ、夜明け前の緊張感がさらに深まる。


【2025年・事務所会議室/夜明け前】


沈黙を破ったのは、アキトだった。

「じゃあ、裏口を潰して、物資ごと押さえるしかない」


全員の視線が一斉に集まる。

アキトは端末を引き寄せ、奈々の解析画面を横から操作した。


「黒城の表ルートはもう死んでる。だから使うのは必ず“影の動脈”だ」


画面が切り替わり、港湾、倉庫、都市高速、下水管理線までを含んだ立体マップが浮かび上がる。

赤い線と青い線が複雑に絡み合い、その一部だけが淡く点滅していた。


「ここ」

アキトは迷いなく一点を指す。

「公式記録には存在しない搬入口。港湾保守名目で残された旧補給ルートだ。三年前から誰も使ってないことになってる」


玲が低く息を吐く。

「……だが、実際は生きている」


「そう」

アキトはわずかに口角を上げた。

「物流ってのはな、一度通した道は簡単に捨てられない。特に裏の連中は」


奈々が即座に補足する。

「このルート、通信ログと一致します。一定間隔でセンサーだけが動いている。人の出入りは隠蔽されてる」


由宇が静かに立ち上がる。

「つまり、裏口は警戒が薄い」


「いや、逆だ」

アキトは首を振った。

「薄い“ふり”をしてる。だから――」


彼は指を滑らせ、複数の矢印を重ねた。

「物資は必ず分散する。正面は囮、裏は実働。潰すなら、この合流点だ」


画面中央、赤と青の線が一点に収束する場所が白く強調表示される。


玲はその表示を見つめ、ゆっくりと頷いた。

「……ルートマスターの読みだな」


アキトは端末を閉じ、椅子から立ち上がる。

「俺が道を切る。迷わせて、詰まらせて、逃げ場を消す」


詩乃が小さく笑う。

「物流を戦場に変える人間は、そう多くない」


アキトは肩をすくめた。

「戦場じゃない。――帰り道をなくすだけだ」


蛍光灯の白い光の下、地図の一点が静かに点滅を続けていた。

そこが、黒城の“最後の出口”になることを、誰も疑っていなかった。


【2025年・深夜/旧市街 路地網】


玲探偵事務所の裏口を飛び出して変装したアキトは、夜の湿った空気を切り裂くように路地へと駆け込んだ。

靴底がアスファルトを叩く乾いた音が、暗がりに短く反響する。


帽子のつばを深く下げ、肩をすくめるようにして歩調を落とす。

走るのは最初の数十メートルだけ。

その先は――“地図の中”。


アキトは一瞬足を止め、路地の分岐を見渡した。

古い自販機、閉店した酒屋、電柱に絡まる無数の配線。

頭の中で、奈々が送ってきた物流マップと裏動線が重なる。


「……ここだ」


独り言のように呟き、右ではなく左へ。

人通りのない裏道、さらにその裏。

表の通りでは警戒が強まっている時間帯だが、このルートは違う。


ゴミ集積所の影に身を滑り込ませ、壁に貼られた配送業者の古いステッカーを指でなぞる。

それは、かつて彼が“ルートマスター”として管理していた流通網の名残だった。


耳元のインカムが微かに鳴る。

『アキト、今どこ?』

玲の低い声。


「予定通り。裏口のさらに裏だ」

短く答え、足を止めない。


古い排水路を跨ぎ、フェンスの切れ目を抜ける。

鍵の壊れた勝手口、荷捌き用のシャッター、監視の死角。

すべてが、かつて自分が設計した“逃げ道”だった。


アキトは唇の端をわずかに上げる。

「……ルートは、人より正直だ」


角を曲がった先、物資搬入用の倉庫裏口が見えた。

明かりは落ちているが、内部の動線はまだ生きている。

人と物が動く限り、必ず“流れ”は残る。


アキトは袖口から小型端末を取り出し、指先でコードを走らせた。

画面に、緑のラインが次々と浮かび上がる。


「裏口、押さえる。物資も、人も――逃がさない」


低く呟いたその声は、夜の路地に溶けることなく、確かな決意として残っていた。


【2025年・深夜/港湾へ続く大通り】


黒城の背中が、街灯の列を縫うように遠ざかっていく。

信号を無視して飛び出した車がクラクションを鳴らし、夜の大通りが一瞬だけ騒然とした。


アキトは足を止めない。

呼吸を整えながら、片手で無線のスイッチを入れる。


「――見つけた。黒城だ」


イヤーピース越しに、すぐ玲の声が返ってくる。


『確認した。位置は?』


アキトは視線を切らず、走りながら答える。


「大通りを北から南へ。港湾方面に向かってる」

「速度、かなり上げてるな……徒歩じゃない、車を拾う気だ」


『了解。由宇と詩乃を港側に回す』

『アキト、お前は無理するな。追跡だけでいい』


アキトは短く笑った。


「それ、俺の専門外じゃないだろ」


路肩に停まっていた配送トラックの影に滑り込み、再び走り出す。

人混み、信号、路地――

黒城は街を知り尽くしている動きだったが、アキトの目は一度も見失わなかった。


「……右だ」


黒城が港湾道路へ入った瞬間、アキトは小さく呟く。


無線を押し、低く告げた。


「目標、港湾第六ブロックへ進入」

「ルートは……一本しかない。袋小路だ」


一拍の沈黙。

そして、玲の声が静かに響いた。


『――よし』

『影班、展開完了。あとは閉じるだけだ』


アキトは走りながら、夜の港を見据えた。

遠くでクレーンの赤い警告灯が点滅している。


「終点だな、黒城」


潮の匂いを含んだ夜風が、背中を強く押した。


【2025年・港湾エリア】


アキトは背後の倉庫の影に身を潜め、無線で玲に低く報告する。

「目標、港湾地区に到達。周囲の監視は薄い。速度が上がってます」


遠くに浮かぶクレーンの赤色灯が、黒城の逃走経路を赤く点滅させる。

アキトはすぐさまスマートフォンを操作し、港湾内の通行経路と監視カメラの死角を確認する。

「玲、北岸ルートに誘導できます。準備は?」


玲は声を低く絞り出す。

「影班と合流させろ。港湾の暗部から追い詰める。止めろ、絶対に」


アキトは短く頷き、霧の中へと姿を消す。

濡れたアスファルトが靴底に貼り付き、夜の港湾に足音だけが響く。

黒城の逃走は、ここで最後の局面を迎えようとしていた。


【2025年・別邸周辺】


霧が淡く庭を覆い、月明かりが瓦屋根に反射する中、玲は低く息を吐いた。

「影班、各自配置につけ。アキト、ルートはお前に任せる」


アキトはポケット端末を操作し、別邸周囲の死角と警備パターンを確認する。

「了解。正面入口は無人、北側の窓から侵入可能。狙撃班との連携も完了」


成瀬由宇は静かに銃口を下げ、桐野詩乃は暗視ゴーグル越しに庭を見渡す。

「異常なし……だが、警戒は怠るな」由宇が低く呟く。


玲は短く頷き、深呼吸して刀の柄に手をかけた。

「今夜はここで決める。黒城を確保する」


アキトが足元のマップを指でなぞり、低く声を出す。

「全員、タイミングを合わせて動く。3分後、侵入開始」


庭の霧がわずかに揺れ、静寂が戦場のように張り詰める。

月光の下で、影班とS級スペシャリストたちの連携が一瞬で結ばれ、決戦の夜が始まろうとしていた。


【2025年・港区倉庫内】


蛍光灯の明滅が、コンテナの影を不規則に揺らす中、黒城は低く笑った。

「通信妨害は完了……これで奴らの連携も切れる」


アキトは素早く床に這い、端末で信号源を解析する。

「……やつ、干渉波を送ってる。位置は北側、コンテナ13の裏だ」


由宇は拳銃を構え、詩乃は煙幕弾を取り出す。

「通信遮断されても動じるな。目視と足音でカバーする」由宇が低く指示。


玲は刀を握り、暗い倉庫の奥をじっと見据える。

「全員、黒城の動きを封じる。各自、間合いを詰めろ」


霧のように舞う埃の中、S級スペシャリストたちは無言で散開し、影班とアキトが一糸乱れぬ動きで黒城の包囲を形成する。

古い倉庫の中に、緊張と覚悟だけが濃密に漂っていた。


【2025年・第7倉庫・中央コンテナ群 深夜0時25分】


アキトが背後の気配を感じ、振り向いた瞬間、黒城の拳が頬を掠めた。

反射的に下がり距離を取るが、黒城はすでに懐へ詰めてくる。

「港の王様ごっこは、ここで終わりだ」

アキトは低く吐き捨て、踏み込みざまにジャブを放つ。


 【2025年・港区倉庫内】


黒城が一歩踏み込み、アキトの懐に飛び込む。アキトは腰を沈め、体をひねって黒城の腕を捉えた。

「ここで終わりだ」低く吐き捨て、踏み込みながら繰り出したジャブが、黒城の腹部を捉える。


黒城は一瞬よろめくが、すぐに反撃を試みる。アキトは冷静に視線を送り、反射神経で黒城の右腕を制し、背後に回す。

「今だ!」詩乃の合図と共に、由宇が飛び込み、黒城の足を払う。


アキトは黒城を床に押さえつけ、ジャブの連打で動きを封じる。

黒城の腕を固定しながら、端末を一瞬確認する。無線の途切れた状況でも、距離とタイミングは正確に計算済み。


床に倒れた黒城は抵抗できず、アキトの腕の下で動きを止める。

「動くな……今夜は終わりだ」アキトの声に冷徹さが滲み、倉庫内の霧と埃が静かに揺れる。


【2025年・港区倉庫内】


玲は爆薬を抱えて走る黒衣の男に目を据え、低く呟く。「止める」

一瞬で間合いを詰める玲の背後には、影班の成瀬由宇と桐野詩乃が連携を取り、動線を封じる。


成瀬由宇は静かにナイフを抜き、足元に飛び込んだ男の動きを制する。

「その場に止まれ」声は低く、威圧感だけで男の足を止める。


詩乃は手際よく爆薬を抱えた男の背後に回り、装置の解除コードを解く。

「……解除完了」小声で報告すると同時に、玲は跳躍して男の動きを封じた。


S級スペシャリストの三人は互いの呼吸を合わせ、瞬時に制圧を完了させる。

「無駄な動きは許さない」玲の低い声が倉庫内に響き、黒衣の男は完全に動きを止めた。


【2025年・ニューススタジオ】


藤堂は防弾ガラス越しに倉庫内を見据え、淡々としかし緊迫感を込めてマイクに向かう。

「視聴者の皆さん、現場は現在、非常に危険な状況です。倉庫内では複数の襲撃者と警備部隊の間で激しい近接戦が繰り広げられており、爆発物の存在も確認されています」


モニターには倉庫の外から撮影された映像が映し出され、煙と閃光の中で動く影が確認できる。

「警察や専門部隊も駆けつけていますが、現場は依然として混乱しており、接近は極めて危険です」


藤堂は目線をカメラに戻し、低く語りかける。

「皆さん、安全確保を最優先に。続報が入り次第、随時お伝えします」


背後ではスタッフが映像や音声を切り替え、ライブ配信の緊張感がスタジオ内に充満している。


【2025年・別邸書斎】


重厚な扉の蝶番が悲鳴を上げ、外れた金具が床に転がる音が響く。

書斎の奥、サーバーラックの前と中央のテーブル上には、黒い耐火ケースが置かれている。


だが、その前に立ちはだかったのは黒城だった。背筋を伸ばし、冷たい瞳でアキトたちを睨む。

「……遅かったな」


玲は低く息を整え、拳を握る。

「ここで止める」


アキトは無線で影班に合図を送り、距離を詰めつつも周囲の動きを警戒する。

「黒城、動くな。これ以上の抵抗は無駄だ」


背後のサーバーラックの赤いランプが淡く点滅し、静寂の中に戦慄が走る。

黒城は指先で微かに金属ケースに触れ、意味ありげに微笑む。

「お前ら、本気で俺を止められると思ってるのか?」


玲は間合いを詰めながら、冷静に応じる。

「止める。ここで、全て終わらせる」


アキトも一歩前に出て、ルートマスターとしての眼差しで黒城を捉える。

「俺たちの勝ちだ」


床に散らばる金具の音と、静かに息を吐く4人の影。緊張が書斎を包み、最後の決戦の瞬間を告げていた。


【2025年・別邸書斎】


アキトは着地と同時に体勢を低く保ち、間髪入れず踏み込んだ。

黒城は即座に距離を取ろうとするが、その動きは一拍遅い。


「――読めてる」


アキトの声が低く響く。

黒城の反撃の拳が飛ぶ。しかしアキトは半身で受け流し、袖口を掴んで軸を崩した。


床に散った金具を踏み、黒城の足がわずかに滑る。

その瞬間を逃さず、アキトは肩から体重を乗せて体当たりした。


鈍重な衝撃音。

二人の身体がサーバーラック脇の机にぶつかり、書類が宙を舞う。


「ちっ……!」


黒城は歯を食いしばり、肘で突き上げる。

だがアキトは修行で叩き込まれた動きのまま、呼吸の切れ目に潜り込み、黒城の手首を絡め取った。


「間合いに入る前に――呼吸を読む」


紫苑の声が、脳裏で重なる。


アキトは一歩踏み替え、捻りを加える。

関節が悲鳴を上げ、黒城の拳から力が抜けた。


「ぐ……っ」


黒城の膝がわずかに落ちる。

その背後から、静かな足音。


「終わりだ」


玲が間合いに入った瞬間、容赦のない一撃が黒城の鳩尾に突き刺さる。

空気が吐き出され、黒城の身体がくの字に折れた。


アキトはそのまま腕を背中へ回し、床へ押し倒す。

金属床に叩きつけられた音が、書斎に重く響いた。


「……一人一人が、強くなったな」


黒城は苦しげに笑うが、もう立ち上がれない。


玲は黒いケースに視線を移し、短く告げる。

「確保する。これで全てだ」


赤いランプが静かに点滅するサーバーラックの前で、

長い夜の決着が、確かに近づいていた。


【2025年/港湾地区・深夜】


割れた窓から吹き込む海風が、倉庫内の埃と火薬の匂いを一気に攫っていった。

床に散ったガラス片が、余韻のように微かに音を立てる。


アキトは窓際まで駆け寄り、身を乗り出す。

下では、闇に溶けるように黒城の影が港の構造物の間へ消えていくのが見えた。


「……逃げやがった」


悔しさを噛み殺すような声だった。


少し遅れて、玲が背後に立つ。

割れた窓枠を一瞥し、静かに言う。


「いい。今夜の目的は達成している」


成瀬由宇が倉庫の奥から戻り、肩に付いた埃を払った。

「爆薬は全て無力化。追跡は可能だが、港の死角が多すぎる」


桐野詩乃も端末を閉じながら頷く。

「黒城の言っていた“別の場所”、多分ブラフじゃない。データを残してる」


アキトは拳を握り、ゆっくりと息を吐いた。

「……だったら次は、逃げ場を全部潰す」


その声に、玲がわずかに笑みを浮かべる。


「ルートマスターの顔だな」


遠くでサイレンの音が近づき始め、倉庫の外が赤と青の光で揺れた。

今夜は終わった。

だが、黒城との決着は、まだ先に続いている。


玲は無線を入れる。

「全班へ。撤収準備。次は――こちらから狩りに行く」


夜明け前の港に、静かな決意だけが残っていた。


【2025年・港湾地区倉庫/夜明け直前】


サイレンの赤色灯が、濡れたアスファルトに滲む。

玲は割れた窓の縁に立ち、港の闇を見下ろしていた。黒城の姿は、もうどこにもない。


「……逃げ足だけは一流だな」

低く呟く玲の背後で、アキトが肩で息をしながら近づく。


「でも、持ってた“切り札”は全部潰した」

アキトは倉庫内を見回し、床に転がる信号発生器の残骸を蹴った。

「次は、もう派手には動けないはずだ」


成瀬由宇が血の気配すら残さず戻ってくる。

「外周、制圧完了。追跡は困難。港の監視網も切られてる」

淡々とした報告に、桐野詩乃が端末を閉じて頷いた。


「爆薬、全部無力化。残留毒素もなし」

その声に、張り詰めていた空気がようやく緩む。


少し離れた場所で、藤堂がカメラを下ろした。

「……これで今夜は終わり、か」

報道の顔ではない、疲れた記者の声だった。


玲は振り返り、全員を見渡す。

「終わってない。黒城は逃げた。だが――」

一拍置き、静かに続ける。

「今夜で、主導権はこちらに移った」


海の向こうが、わずかに白み始めていた。

夜を越えた港に、冷たい風が吹き抜ける。


アキトはその風を受けながら、拳を軽く握る。

「次は、俺たちが追う番だな」


誰も否定しなかった。

それぞれが、次の戦いを静かに思い描きながら、夜明けの気配の中に立っていた。


【2025年・港湾倉庫 地下通路】


地下へ続くコンクリート階段を駆け下りると、湿った空気と油の匂いが肺にまとわりついた。

天井の配管から落ちる水滴が、一定の間隔で床を叩いている。


由宇は一歩前に出て、拳銃を低く構えたまま視線だけで通路の先をなぞった。

詩乃は背中合わせの位置を保ち、指先で小型センサーを操作する。


「足跡、複数。新しい」

詩乃が囁く。


「黒城か?」

由宇の声は低く、感情を削ぎ落としている。


「……違う。護衛。逃走用の捨て駒ね」


通路の奥、薄暗がりがわずかに揺れた。

次の瞬間、鉄パイプを握った男が飛び出してくる。


由宇は一切ためらわなかった。

踏み込み、銃床で顎を打ち上げ、崩れた体を壁に叩きつける。

骨がぶつかる鈍い音。男は声も出せず崩れ落ちた。


同時に、反対側からもう一人。

詩乃の足元から白い煙が弾ける。


「目、潰すよ」


視界を焼く刺激臭の中、詩乃は滑り込むように距離を詰め、喉元に短刃を当てた。

一瞬の沈黙の後、男は力を失って床に沈む。


由宇は通路の先を確認し、静かに息を吐いた。


「……下は制圧完了だ」


詩乃は通信機に指を当てる。

「玲、地下クリア。黒城はいない。逃走経路はさらに下か、海側」


返答はすぐに来た。

『了解。港側を封鎖する。二人はそのまま出口を潰せ』


由宇はわずかに口角を上げ、通路の闇を見据えた。


「逃げ道、全部塞ぐぞ」


詩乃は頷き、再び背中を預け合う。

二人の影は、湿った地下通路の奥へと静かに溶けていった。


【2025年・港湾地区/裏航路】


コンテナの側面には、黒く塗り潰されかけた白い刻印が並んでいた。

一見するとただの管理番号だが、よく見れば不自然に揃いすぎている。


「──三本線と、欠けた円……」


黒城は立ち止まらず、指先でその印をなぞる。


縦に並ぶ三本の細線。

その右下に、意図的に欠損させた円環。

さらに下部には、肉眼では判別しづらいほど小さな逆三角形。


港の照明が揺れ、刻印の影が歪む。


それは“荷”の種類を示す符号だった。

武器でも、麻薬でもない。

「記録」「データ」「人間関係」──燃やせば跡形もなく消える類のもの。


貨物船のエンジン音が一段低くなり、出航準備に入る。


黒城は口元だけで笑った。


「……玲、お前らが追ってた“真実”だ。

 同じ刻印を見つけたら、もう遅いと思え」


次の瞬間、タラップが引き上げられ、

刻印の並ぶコンテナを積んだ船は、霧の海へと滑り出していった。


港には、波音と油の匂いだけが残された。


【2025年・港湾倉庫 南側階段踊り場】


非常灯の赤が、コンクリートの壁ににじむように揺れていた。

階段を塞ぐように展開する精鋭部隊は、四人。

黒い戦闘服に身を包み、視線も呼吸も揃っている。


「……私兵じゃないな」

玲が低く言い、足を止めた。


成瀬由宇が一歩前に出る。

「動きが軍寄り。合図で来る」


桐野詩乃は壁際に身を寄せ、静かに呟いた。

「毒も爆薬もなし。純粋に“止める”気ね」


次の瞬間、先頭の男が手をわずかに上げた。


――合図。


四方向から一斉に踏み込む足音。

狭い踊り場に殺気が弾ける。


「来る!」

玲が叫ぶより早く、由宇が前に滑り込んだ。


由宇の拳が、最初の男の喉元を正確に打ち抜く。

声にならない音を残し、男が崩れる。


同時に、別方向から振り下ろされた警棒。

玲は半身で受け流し、肘を相手の顎へ叩き込む。

鈍い衝撃音。男の視界が跳ね、壁に叩きつけられた。


「数を減らす!」

玲の声に、詩乃が応じる。


詩乃は床を滑るように移動し、相手の膝裏に低く蹴りを入れる。

体勢を崩した瞬間、関節に正確な圧。

「……はい、終了」


残る一人が距離を取り、短刀を構えた。

呼吸が浅くなるのが、暗闇でも分かる。


由宇が一歩、踏み出す。

「訓練通りだな。だが――」


由宇の姿が、一瞬ぶれた。


次の瞬間、男の背後に回り込んだ由宇の腕が、首を絡め取る。

抵抗は三秒。

力が抜け、男は静かに床へ沈んだ。


踊り場に、再び静寂が戻る。

遠くで、貨物船のエンジン音が低く唸っていた。


玲は息を整え、階段の先を見据える。

「黒城は、もう港に出てる」


由宇が短くうなずく。

「追える」


詩乃が端末を確認しながら言った。

「刻印のコンテナ……行き先、割り出せるわ」


玲は一瞬だけ目を閉じ、次の指示を決める。

「行くぞ。ここからが本番だ」


四人は再び動き出し、階段の闇へと溶けていった。


【2025年・第5ドック/深夜】


夜の海は低い霧に覆われ、港灯だけがぼんやりと光を放っている。

玲たちが到着したとき、第5ドックではすでに異変が始まっていた。

貨物ヤードの奥、コンテナ群の一角から赤い警告灯が断続的に漏れ、複数の男たちが怒号を飛ばしながら荷を移動させている。


玲は一瞬で状況を読み取った。

「……積み替えだ。時間稼ぎのための陽動じゃない、本命がここにある」


アキトが双眼端末を覗き込み、低く息を吐く。

「コンテナ番号一致。さっきの船と同じ刻印だ。黒城の逃走ルートと合流する気だな」


由宇は拳を鳴らし、足元のコンクリートを踏みしめた。

「精鋭が残ってる。数は少ないが、質は高い」


詩乃はすでに手袋を嵌め直し、静かに笑う。

「赤い光……起爆系か、化学物質。どっちでも、触らせない」


その瞬間、コンテナの影から一人がこちらに気づき、叫んだ。

「来たぞ! 排除しろ!」


次の刹那、港に乾いた銃声が走る。


玲は迷わず前に出た。

「由宇、左を制圧。詩乃、右のコンテナ群を止めろ。アキト――」


「動線、作る」

アキトはすでに走り出していた。フォークリフトの死角、照明の切れ目、逃げ場と遮蔽物。そのすべてを瞬時に頭の中で結び、最短距離を描く。


由宇は低く踏み込み、敵の懐に一気に潜り込む。

銃口が上がる前に肘を叩き落とし、喉元へ掌底。

男は音もなく崩れ、次の瞬間には別の影が沈んでいた。


詩乃はコンテナの扉に跳びつき、赤く点滅する装置を確認する。

「……やっぱり。即席だけど、雑じゃない」

指先が踊り、配線が外れる。

「解除。三十秒遅かったら、ここ一帯ごと吹き飛んでた」


その奥、霧の向こうで、黒城のシルエットが一瞬だけ見えた。

振り返りもせず、船の方へと消えていく背中。


玲は拳を強く握り、低く言った。

「……逃がさない。次は、必ず終わらせる」


港灯が揺れ、霧の中でサイレンが鳴り始める。

戦いは終わっていない――ただ、次の局面へ進んだだけだった。


【2025年・第5ドック/港湾貨物ヤード】


由宇の銃声が霧を裂いた直後、玲は即座に手信号を切る。

前進、右展開――無言の号令。

アキトが低く息を吸い、走り出す。


「左、二。右奥、影あり」


玲の短い指示に、詩乃がうなずく。足元を滑るように移動し、コンテナの陰から小型の投げ物を転がした。

鈍い破裂音。白い煙が一瞬だけ膨らみ、敵の視界が切れる。


その隙を逃さず、玲が踏み込む。

肘、掌底、回し受け――流れるような連撃で一人を沈め、反転して次の男の銃口を外へ弾いた。


「甘い」


低い声と同時に、男の膝が崩れる。


高所では、由宇が再装填を終えていた。

スコープ越しに見えるのは、統一刻印のコンテナと、退路を探す黒衣の影。


「逃がさない」


引き金。

また一人、屋上の縁から姿が消える。


アキトはコンテナの列を縫い、走りながら地形を読み切った。

「玲、奥に抜け道。船へ繋がってる。三十秒で塞げる」


「了解。詩乃、左を抑えろ。由宇、上は任せた」


霧の中、四人の動きが一つに重なる。

それぞれが強くなっていた――

そして今、港の夜は、確実に彼らの側へ傾き始めていた。


【2025年・廃ビル屋上】


夜風が吹き抜け、割れたコンクリートの破片がかすかに転がる音を立てていた。

屋上の縁に並ぶ非常用ライトが、点いたり消えたりを繰り返し、不安定な光で男たちの影を引き伸ばす。


通信機を持った男が、低く息を吐いた。

「……第二区画、コンテナは全て積載完了。トレーラー、今から動かせます」


覆面の影は、無言で夜の街を見下ろしていた。

その視線の先には、港湾とは逆方向へ伸びる高速道路。

霧に紛れるように、黒塗りのトレーラーが静かにエンジンを唸らせている。


「港の方は?」

覆面の下から、くぐもった声が落ちる。


「派手にやり合ってます。影班も、玲探偵事務所も、全部あっちに釘付けです」

男は自信ありげに笑った。

「黒城さんの読み通りですよ。あれだけの戦力をぶつけられたら、誰も――」


言葉が、途中で途切れた。


通信機のスピーカーから、突如としてノイズが走る。

次の瞬間、別の周波数が割り込んだ。


『……こちら、ルートβ。未確認の追跡を確認』


男たちの表情が一斉に強張る。

覆面の影が、ゆっくりと首を傾けた。


「未確認、とは?」


返答は一拍遅れた。

『……単独です。車両一。速度、異常に速い』


覆面の男は、短く息を吐いた。

「……やはり、抜けてきたか」


そのとき、屋上の非常灯が一斉に消えた。

闇が、完全に降りる。


次の瞬間――

背後の非常階段から、乾いた足音が一つだけ響いた。


「予定通り、ってのは――」


低く、落ち着いた声。

男たちが振り向くより早く、影が踏み込む。


「“相手が気づかない”場合に限る」


月明かりを背に、姿を現したのは、変装を解いたアキトだった。

その瞳は、港で黒城を追い詰めた時と同じ――

冷静で、逃げ道をすべて計算し尽くした光を宿している。


覆面の男が、歯を食いしばる。

「……ルートマスター、か」


アキトは一歩、前に出た。

「悪いな。この道――」


夜風が吹き抜ける。

背後の階段から、さらに足音が重なる。


「俺が最初に潰したルートだ」


霧の向こうで、次なる包囲が、静かに完成しつつあった。


【2025年・港湾第5ドック/防衛ライン最終区画】


霧を裂いて、黒城の影が滑り込む。

港灯の逆光を背に、黒城は両手を軽く広げて立った。


「どうした。さっきより目がいいじゃないか、アキト」

「……逃げ足だけは一流だな」


アキトは半歩だけ前に出て、重心を低く落とす。

背後ではコンテナ同士がぶつかる鈍い音。戦場はまだ生きている。


玲は一瞬だけ視線を横に走らせ、距離と配置を確認した。

「アキト。正面は任せる。私は右を切る」


「了解」


黒城が笑った。

「二対一? ずいぶん評価してくれる」


次の瞬間、黒城が踏み込む。

重たい一撃。拳が風を割る音が、霧の中で膨らんだ。


アキトは受けずに流し、肘を合わせる。

「——っ!」


衝撃が腕に残るが、踏みとどまる。

黒城は間合いを潰す動きが異常に速い。


「修行、したな」

「させられただけだ」


黒城の蹴りをかわした瞬間、玲が横から入った。

低い姿勢からの一閃。狙いは脚。


黒城は後退し、コンテナに背が触れる。

一瞬、逃げ道が消えた。


玲が低く告げる。

「終わりだ、黒城」


だが、黒城は肩で息をしながらも、不敵に口角を上げた。

「……残念だが、それはまだ先だ」


足元で、小さな金属音。

黒城が蹴り飛ばしたのは、煙幕弾だった。


白い煙が一気に広がる。


「チッ——!」


視界が奪われた刹那、黒城の気配が消える。


アキトが叫ぶ。

「左だ!」


玲は即座に反転し、拳を叩き込む。

手応えはあったが、致命ではない。


黒城は霧の向こうへ跳び退き、声だけを残した。

「次は“本命”で会おう。港は、まだ終わってない」


足音が遠ざかる。

霧が薄れたとき、そこに黒城の姿はなかった。


アキトが荒い息を吐く。

「……逃がした」


玲は拳を握りしめ、静かに言った。

「いい。今夜の目的は果たした。だが——」


視線を、港のさらに奥へ向ける。

「本当に守るべきものは、これから動く」


遠くで、別ルートの警報が鳴り始めていた。

戦いは、まだ終章に入ったばかりだった。


【2025年・港から二キロ離れた廃工場】


崩れかけた屋根の隙間から、月明かりが斜めに差し込んでいた。

鉄骨に絡みついた蔦が風に揺れ、どこかで水滴が落ちる音が響く。


玲は一歩前に出て、静かに構えを取る。

アキトは半歩後ろで呼吸を整え、視線だけで周囲の退路を確認していた。


黒城はゆっくりと首を回し、二人を交互に見据える。

口元には、まだ余裕の笑みが残っている。


「玲……噂以上だな。あの港で、よくあそこまで持ちこたえた」


「無駄話は終わりだ」

玲の声は低く、冷えていた。

「ここで終わる。逃げ場はない」


黒城は肩をすくめる。

「それを決めるのは、いつも最後に立ってる奴だ」


次の瞬間、黒城が床を蹴った。

踏み込みは鋭く、一直線に玲へ――だが、その軌道にアキトが割り込む。


「させるか!」


アキトの前蹴りが黒城の腹部を捉える。

鈍い衝撃音。

黒城は後退するが、体勢を崩さない。


「成長したな、坊主」

黒城は血の滲む口元を拭い、低く笑う。

「だが……まだ甘い」


玲がその隙を逃さなかった。

一気に距離を詰め、肘、掌底、膝――無駄のない連撃。

黒城の防御を削り、壁際へと追い詰める。


鉄骨に背中を打ちつけ、黒城が息を吐く。

その表情から、ようやく余裕が消えていた。


「……なるほど。三段構え、か」


「違う」

玲は一歩踏み込む。

「積み重ねだ。仲間と、時間と、覚悟の」


アキトが横に並び、短く言う。

「もう、逃がさない」


黒城は二人を見上げ、しばし沈黙した後、低く息を吐いた。

そして――不意に笑った。


「そうか……なら、ここまでだな」


その言葉と同時に、工場の外から複数の足音とライトの光が迫る。

包囲網が、完全に閉じた。


玲は無線に一言だけ告げた。

「目標確保。終わった」


黒城は抵抗せず、両手をゆっくりと上げた。

月明かりの下、その影はもはや逃げ場を持たなかった。


【2025年・早朝/玲探偵事務所・解析室】


朝日の淡い光がブラインドの隙間から差し込み、室内の埃を金色に浮かび上がらせていた。

徹夜明けの静けさの中、端末の冷却ファンだけが低く唸っている。


モニター前に座る奈々が、指先を止めずに告げた。

「……出ました。内部メールの完全ログ。削除痕も復元できてます」


画面には、幾重にも転送された指示書と、暗号化された送金データ。

アキトが肩越しに覗き込み、息を呑む。

「これ……芸能事務所の“表”の口座じゃない。ダミーを三つ噛ませてる」


玲は腕を組み、静かに画面を見据えていた。

「黒城が動いた理由が、ようやく一本に繋がったな」


奈々が別のウィンドウを開く。

「この人物……表向きはプロデューサー。でも裏で、脅迫と事故偽装を担当してる」


そこに表示された名前を見て、由宇が低く笑った。

「囮に港を燃やして、本命は別ルート。らしいやり口だ」


詩乃は解析結果の一文を読み上げる。

「“次の処理対象は、告発を検討中の内部関係者”……日時、三日後」


一瞬、部屋の空気が張り詰めた。


アキトが拳を握る。

「まだ終わってない、ってことか」


玲はゆっくりと椅子から立ち上がり、テーブルに置かれたUSBを手に取った。

朝の光が、その金属表面に反射する。


「終わらせるさ。今度こそ、逃げ場のない形で」


静かな声だったが、その言葉には確かな決意が宿っていた。

外では、街が何事もなかったかのように動き始めている。


だが――

このデータが示す先に、次の戦場が待っていることを、全員が理解していた。


【2025年・港湾地区外れ/地下室】


鈍い照明の下、配線の影が床に絡み合う。

玲は一歩踏み込み、壁際の端末に視線を走らせた。


「……起動中だ。タイマーじゃない、常時待機の遠隔」

低く告げる声に、空気が張りつめる。


アキトが膝をつき、床を這うケーブルを指で追った。

「分岐が多すぎる。爆薬用と通信中継、あと――偽装ログだな。切り間違えたら、全部飛ぶ」


背後で、静かな足音。

奈々が端末を抱えて現れ、即座に状況を把握した。


「通信、外部に二本。片方はダミー、もう片方が本命」

奈々は画面を二度叩き、淡々と言う。

「三十秒で遮断できる。けど、その間は――」


「守る」

玲が短く言い切る。


その瞬間、天井の換気口が軋み、金属音が落ちた。

影が二つ、床に転がる。


アキトが身を翻し、低姿勢のまま距離を詰める。

「来たな」


玲は踏み込む。

一人目の腕を叩き落とし、肘を顎へ。

二人目はアキトが足を刈り、壁に叩きつけた。


「二十秒」

奈々の声が冷静に響く。


端末のランプが赤から橙へ変わる。

通信ログが凍りつき、遠隔の反応が途切れていく。


「……遮断完了。再接続は不可」

奈々は息を吐き、画面を閉じた。


地下室に、静寂が戻る。

玲は爆薬の配線を見下ろし、呟く。


「黒城は、まだ終わらせる気がない」

アキトが立ち上がり、薄く笑った。

「なら、こっちもだ。次は――逃がさない」


【2025年・湾岸地下施設前】


赤色灯が回転し、コンクリートの壁に不規則な影を投げかけている。

規制線の向こうで警察官たちが無線を飛ばし、銃を構えたまま出入口を固めていた。


藤堂はスマートフォンを高く掲げ、低い声で語り続ける。

「現場は現在も緊迫状態です。警察と民間協力チームが共同で、地下施設の制圧と安全確認を進めています。未確認の爆発物があるとの情報も――」


その背後、一般人の立ち入りが遮断された暗がりで、玲は静かに状況を見渡していた。

冷えた空気を吸い込み、耳に届く微かな電子音に意識を集中させる。


「……まだ終わってないな」


隣で奈々が端末を操作しながら、小さく頷く。

「ええ。地下ネットワークが生きてる。誰かが、外から繋ぎ続けてる」


由宇は壁際に背を預け、出口方向を鋭く睨んだ。

「黒城本人じゃない。けど……近いな。逃げ道を残してる」


詩乃が床に膝をつき、配線の一本に指先を添える。

「この系統、港の予備電源と直結してる。切れば、向こうも止まる」


玲は短く息を吐き、全員を見回した。

「いいか。ここで潰す。黒城が何を燃やそうとしていようと――ここが最後だ」


その瞬間、地下室の奥で、かすかな駆動音が唸りを上げた。

静止していた端末の一つが、自動起動する。


画面に浮かび上がったのは、転送カウントダウン。


00:01:30


奈々が叫ぶ。

「転送開始まで九十秒!」


由宇が即座に動き、通路の奥へ視線を走らせた。

「来るぞ。向こうも、時間稼ぎに出る」


藤堂のライブ映像の向こう、コメント欄が一気にざわめく。

だが地下の空気は、凍りつくほど静かだった。


玲は拳を握りしめ、一歩前に出る。

「――全員、配置につけ。ここからが本番だ」


【2025年・早朝/玲探偵事務所・臨時解析室】


玲はテーブルの端に立ち、モニターに映し出された解析結果から目を離さずに言った。


「……黒城は、単なる実行役じゃない」


低く抑えた声が、部屋の静寂に沈む。


モニターには、複数のフォルダが並び、タイムスタンプ付きのメール、送金履歴、音声ログの波形が重なって表示されていた。

奈々がキーボードを叩くたび、情報が整理されていく。


「音楽事務所内部の派閥争い。その裏で、黒城は“処理係”として雇われていた。

 表に出ないための、切り捨て役だ」


アキトは腕を組み、画面に映る金額の桁を見て眉をひそめた。


「……これだけの金を動かせるなら、個人じゃない。

 スポンサーがいる」


「ええ」

奈々が頷く。

「送金ルートは三重に分散。でも、最終的に辿り着く先は同じ。

 事務所理事会の“影の口座”よ」


一瞬、誰も言葉を発さなかった。


窓の外では、朝の光が街を照らし始めている。

だが、この部屋の中だけ、夜がまだ終わっていないようだった。


玲はゆっくりと振り返り、全員を見渡す。


「黒城は逃げた。

 でも――証拠は、ここに揃っている」


指先でUSBメモリを軽く叩く。


「次は、こちらから仕掛ける。

 裏で糸を引いている連中を、表に引きずり出す」


アキトが短く息を吐き、口角をわずかに上げた。


「……ようやく、本丸か」


その言葉に、由宇が壁際で静かに頷き、詩乃は端末を閉じる。


夜明けは、始まりを告げる合図だった。

黒城という刃は消えたが、

その背後にある“構造”を断ち切る戦いが、今まさに動き出そうとしていた。


【2025年・港湾地区倉庫外/夜明け直前】


霧が足元を這い、倉庫の輪郭を曖昧に溶かしていた。

玲はコンテナの陰から静かに一歩踏み出し、無線を切ったまま周囲を見渡す。


「……来るな」


低く呟いた直後、霧の向こうで金属が擦れる音がした。

由宇が即座に気配を察知し、指を二本立てて合図を送る。


「右、三。動きが揃いすぎてる」


詩乃がしゃがみ込み、床に指先を当てる。


「足取りが重い。装備も多い……精鋭ね」


アキトは倉庫の出入口と海側の導線を一瞬で頭に描き、短く言う。


「正面は囮。裏の排水路から回り込んでくる」


玲は頷き、霧の中へ視線を投げた。


「由宇、上を取れ。詩乃は排水路を封じる。アキト、動線管理。私は正面を受ける」


次の瞬間、霧を裂いて黒い影が現れた。

統一された動き、無駄のない足運び。

先頭の男が低く叫ぶ。


「行け!」


玲は迷わず踏み込み、間合いに入った瞬間に拳を叩き込む。

衝撃が骨に伝わり、男が崩れ落ちる。


同時に、上空から乾いた音。

由宇の放った一撃が、背後の敵を次々と沈めていく。


排水路側では、詩乃がワイヤーを張り、突入してきた二人を絡め取った。


「動かないで。呼吸止まるわよ?」


アキトは霧の中を走りながら叫ぶ。


「左から来る! 退路、今塞いだ!」


倉庫前は一瞬で制圧された。

倒れ伏す敵の向こう、霧の奥にはもう動く影はない。


玲は息を整え、倉庫を見据える。


「……これで終わりじゃない。黒城は必ず、次の一手を打つ」


夜明けの光が、ゆっくりと霧を薄め始めていた。


【2025年・午後/山間のロッジ】


午後の陽光がロッジの窓を柔らかく照らし、朱音の横顔を金色に縁取っていた。

彼女はじっと外を見つめ、遠くで揺れる木々の葉の音に耳を澄ませている。


縁側では、アキトが黙ったまま木製の手すりに肘をつき、視線を山の向こうへ投げていた。

その表情には、昨夜までの激闘の痕跡と、まだ終わっていないという覚悟が混じっている。


「……まだ、終わってない顔だな」


背後から、玲の声。

アキトはわずかに肩をすくめた。


「黒城は逃げた。久我も……表に出たのは一部だけだ」

「ええ。でも、“見せる”段階には来た」


玲はポケットから小さな端末を取り出し、画面を朱音の方へ向ける。

そこには、久我修一の名前と、押収された通信ログの要点が整理されていた。


朱音はそれを一瞥し、少し首を傾げる。


「この人……こわい人?」

「朱音にとっては、もう“遠い人”だよ」


玲はそう言って、視線を外へ戻した。


そのとき、ロッジの奥から静かな足音が近づく。

紫苑だった。


長衣の裾を揺らしながら、彼は朱音の隣に腰を下ろす。


「山はな、全部を語らん。だが、嘘もつかん」

「じぃじ、どういう意味?」


朱音が首を傾げると、紫苑は目を細めて笑った。


「悪い芽は刈られ、残ったものは育つ。お前たちは……よくやった」


その言葉に、アキトは小さく息を吐いた。

初めて、胸の奥に溜まっていた緊張がほどけた気がした。


遠くで、鳥が羽ばたく音。

山の静けさが、ゆっくりとロッジを包み込んでいく。


だが――

玲は、その静寂の奥に、まだ消えていない“次の気配”を感じ取っていた。


物語は、一区切りを迎えただけ。

本当の決着は、これからだ。


【エピローグ/2025年・港湾地区】


港湾地区の夜は、海霧に包まれて静かに眠っていた。

逮捕され、表向きにはすべてが終わったはずだった。


岸壁に係留された巡視艇の赤色灯が、一定のリズムで霧を染める。

その光を背に、玲は少し離れた防潮柵にもたれ、海の向こうを見つめていた。


「……終わった、ように見えるだけだな」


低く呟くと、隣に立つアキトが肩をすくめる。


「派閥、裏ルート、別口の資金洗浄。

 黒城ひとりで片づく話じゃないって顔してる」


「それでも、今夜は区切りだ」


玲はそう言って、ポケットから端末を取り出す。

画面には、解析済みのデータの一覧と、まだ未接続の断片が残っていた。


少し離れた場所では、成瀬由宇と桐野詩乃が静かに装備を外している。

二人とも言葉は少ないが、互いに無事を確認する視線だけで十分だった。


「次が来るな」

由宇が短く言う。


「来るでしょうね」

詩乃は手袋を外しながら、淡々と答えた。

「でも、来るなら来るで。準備はできてます」


そのやり取りを背に、玲は最後に港を振り返る。

霧の向こう、コンテナ群の影はすでに静まり返っていた。


——だが、完全な静寂ではない。

どこかで、まだ火種は息を潜めている。


「帰ろう」


玲の一言で、全員が歩き出す。

それぞれの疲労と、それぞれの覚悟を胸に。


夜明けはまだ遠い。

だが確かに、彼らは一歩、前へ進んでいた。


そして——

朱音の描いた、あの歪んだ港のスケッチが、

後に“始まりの記録”と呼ばれることを、

この時、誰もまだ知らなかった。


【2025年・港湾地区 第5ドック/深夜】


コンテナの影に月光が差し込み、薄暗いドックの奥で一人の男が立っていた。

黒いコートの裾を揺らし、煙草の煙を夜風に溶かす――黒城。


足元の海は静かだった。さざ波が鋼鉄の桟橋を舐め、遠くでブイが低く鳴る。

黒城は煙草を指先で弾き、海へ落とした。


「……派手にやり過ぎたな」


背後、コンテナの陰から微かな足音。

黒城は振り返らない。


「で、確認は済んだか」


影の中から、抑えた声が返る。

「はい。第七倉庫の件は“収束”。久我も表では終わりです。世間はそれで納得するでしょう」


黒城は口元だけで笑った。

「世間、か。便利な言葉だ」


彼はポケットから小さな端末を取り出す。

画面には、別ルートで動いていたコンテナ番号と、すでに“受領完了”の文字。


「燃えたのは囮。壊れたのも表の顔。

 本命は――最初から、ここにはなかった」


影の人物が一歩近づく。

「玲たちは、気づくでしょうか」


「気づくさ」

黒城は肩をすくめた。

「だから面白い。追う理由が、まだ残る」


遠くで、パトカーのサイレンがかすかに響く。

夜明けは近い。


黒城はコートの襟を立て、闇へと歩き出した。

足音は霧に溶け、ドックには再び静寂だけが残る。


終わった事件の、その裏側で――

物語は、まだ終わっていなかった。


【2025年・港湾地区 第5ドック】


玲の通信機が短く震え、耳元で低い電子音が弾けた。


「第5ドックに黒城。……それと、火種が複数。最終局面に入るぞ」


通信を切った玲は、ゆっくりと息を吐いた。

潮の匂いを含んだ風がコートの裾を揺らし、遠くでコンテナ同士がぶつかる鈍い音が響く。


「やっぱり、終わっちゃいなかったか」


隣でアキトが苦笑し、ナックルを握り直す。

その目には、逃げも迷いもなかった。


「黒城は囮だった。久我も、あの輸送も……全部、ここに繋がってたってわけだ」


玲は視線をドック奥へ向ける。

霧の向こう、コンテナの影に、確かに“気配”があった。

静かすぎる。人が潜んでいる空気だ。


「由宇、詩乃。配置は?」


通信に応じ、少し間を置いて由宇の声が返る。


『屋上確保。狙撃角度は取れる。ただし、下にいる数が多い。黒城一人じゃない』


『爆薬反応も複数あります』と詩乃が続けた。『時間を稼がれたら、港ごと吹き飛ぶ』


玲は小さく舌打ちし、決断を下す。


「アキト、ルートを切り替える。正面からは行かない」

「了解。裏のクレーン下、死角がある」


二人は視線を交わし、同時に動き出す。


その瞬間――


闇の奥から、低く嗤う声が響いた。


「さすがだな、玲。ここまで来るとは思ってなかった」


霧の中から、黒城が姿を現す。

コートの内側には起爆装置、背後には黒装束の男たち。

その目は、敗者のそれではなかった。


「これは終わりじゃない。――選べ」

黒城は腕を広げ、港を示す。

「俺を止めるか。この街を守るか」


玲は一歩前に出た。

声は低く、揺れない。


「選ぶ必要はない。両方、潰す」


アキトが隣で笑った。

「最終局面だな」


霧の中、緊張が張り詰める。

港湾地区、第5ドック。

すべての因縁が、ここに収束しようとしていた。


【2025年・港湾地区 第5ドック】


高圧灯の白い光が、濡れたコンクリートを刺すように照らしていた。

照明塔の下、黒城は両手をポケットに入れたまま、余裕のある足取りで一歩前に出る。


「遅かったな、玲」

低く、よく通る声。

「ここまで来るのに、ずいぶん時間を使ったんじゃないか?」


玲は足を止め、静かに距離を測る。

背後ではアキトが半身を引き、由宇と詩乃が左右に散開する。


「終わりだ、黒城。逃げ道は塞いだ」

玲の声は冷静だったが、芯に鋼の重さがあった。


黒城は小さく笑い、顎で海側を示す。

闇の向こうで、貨物船のシルエットがゆっくりと動いている。


「逃げ道? 勘違いするな」

「これは“選択肢”だ。俺が消えるか、お前らが火種を抱えたまま戻るか──な」


その瞬間、アキトの無線が短く鳴った。

奈々の声が割り込む。


『玲、ドック周辺のコンテナ……複数に起爆信号。タイマー、最短で三分』


黒城の笑みが深くなる。

「ほらな。派手な花火は嫌いか?」


玲は一瞬だけ目を閉じ、そして開いた。

迷いはなかった。


「由宇、詩乃。分担。爆薬を止めろ」

「アキト、お前は黒城を逃がすな」


「了解」

由宇の返事は短く、次の瞬間には影が走り出していた。


アキトは一歩前に出て、黒城と正対する。

「今度こそ、終わらせる」


黒城は肩をすくめる。

「成長したな。……だが、まだ足りない」


踏み込んだのは同時だった。

金属音が夜気を裂き、拳と拳がぶつかる。


遠くで、解除コードを叩く音と、無線越しのカウントダウン。

港の夜は静まり返り、その中心で、最後の決着が動き出していた。


【2025年・早朝/玲探偵事務所】


事件の余韻は、まだ事務所の空気に重く残っていた。

窓の外では朝の光がビルの隙間を縫い、街が何事もなかったかのように動き始めている。


玲はデスクに肘をつき、冷めかけたコーヒーを一口含んだ。

苦味が舌に残る。


黒城――

港の照明の下で浮かべた、あの薄い笑み。


「……終わってないな」


独り言のように呟いた瞬間、通信機が短く震えた。

画面には見慣れた名前。


〈久我〉


久我は生きていた。

玲は視線を落とし、指で応答する。


「玲だ」


通信の向こうで、久我修一の声が一拍遅れて届いた。


『港湾の裏ルート、洗い直した。表に出てない資金と人の流れがまだ残ってる』

『黒城個人じゃない。もっと深いところだ』


玲は目を閉じ、ゆっくり息を吐く。


「……やっぱりか」


デスクの端には、黒城から押収した資料のコピー。

その中に、まだ解析が終わっていない暗号化ファイルが一つだけ残っていた。


「久我。そっちは?」


『動ける。向こうも、次を仕掛ける気だ』


玲は静かに立ち上がり、コートを手に取る。

窓に映った自分の目は、疲労の奥で鋭さを失っていなかった。


「なら――次はこっちから行く」


通信を切ると、事務所の奥から足音が近づいてくる。

振り返ると、アキトが眠そうな目をこすりながら立っていた。


「……まだ続く顔してるな」


玲はわずかに口角を上げる。


「勘がいい。準備しろ、ルートマスター」


アキトは一瞬だけ目を見開き、すぐに笑った。


「了解。どうせ静かな日常は性に合わない」


事務所の蛍光灯が、二人の影を床に長く伸ばす。

港で消えたはずの火種は、まだ闇の奥で燻っていた。


そして――

次の夜は、もうすぐそこまで来ていた。


【2025年・早朝/市内公園】


柔らかな朝日が木々の隙間から差し込み、芝生に淡い影を落としていた。

朱音はスケッチブックに向かい、色鉛筆を慎重に走らせている。描かれているのは、名も知らぬ小さな花――だが、その花弁は不思議なほど丁寧に重ねられていた。


紫苑はその隣に腰を下ろし、膝に手を置いたまま黙って眺める。

しばらくして、低く穏やかな声で言った。


「……この花、強いのう」


朱音は驚いたように顔を上げる。

「え? ちっちゃいよ?」


紫苑は目を細め、朝日に照らされた花の絵を指で示した。

「地面に近い。踏まれやすい。風も強い。

それでも、真っ直ぐ咲いておる。――こういうのを“折れぬ”と言う」


朱音は少し考えてから、にこっと笑った。

「じゃあね、この花、みんなだよ」


「みんな?」


「うん。玲さんも、アキトも、由宇さんも、詩乃さんも。

それから……じぃじも」


一瞬、紫苑の動きが止まった。

次の瞬間、喉の奥で小さく笑う。


「……わしまで入れるとは、贅沢な花じゃ」


朱音は照れたように鼻を鳴らし、再び色鉛筆を動かす。

紫苑は空を見上げた。霧はすでに晴れ、青が静かに広がっている。


遠くから足音。

振り向くと、少し眠そうな顔のアキトと、コーヒーを片手にした玲が歩いてきた。


「もう描いてるのか、早いな」

アキトが声をかける。


朱音は胸を張ってスケッチブックを掲げた。

「完成までもうちょっと!」


玲は紫苑に軽く会釈し、朱音の絵を覗き込む。

「……いい絵だ。余計なものがない」


紫苑は静かに立ち上がり、二人に向き直った。

「終わったようで、終わっておらん。

だが――守るべきものは、ここにちゃんと残った」


玲は朱音を一瞥し、ゆっくりとうなずく。

「ええ。だから次も、勝てます」


朝日が四人の影を、芝生の上に長く伸ばしていた。

港の夜に散った火種は、まだどこかで燻っている。

それでも――この静かな朝は、確かに“続き”を約束していた。


【2025年・港湾地区/コンテナヤード奥】


潮風が地図の端をわずかに揺らした。

黒城は指先で赤い印の一つをなぞり、低く息を吐く。


「……ここも、もう“静か”じゃなくなる」


外ではクレーンの警告灯がゆっくりと回り、遠くで汽笛が一度だけ鳴った。

黒城は地図を畳み、耐火ケースに収める。金具が噛み合う乾いた音が、空洞のようなコンテナに響いた。


足音。

しかし近づかない。見張りの合図だ。


黒城はコートの襟を立て、闇へ視線を投げる。

その口元に、わずかな笑みが浮かんだ。


「次は……“守る側”が選べ」


照明が一つ、また一つと消える。

コンテナヤードは再び霧に沈み、赤い印だけが、まだ誰にも見えない火種として地図の裏に残された。


【2025年・黄昏/港湾地区・護岸】


背後で、靴底が小石を踏む音がした。

振り返らずとも分かる気配だった。


「黄昏に立つと、ろくなこと考えない顔だな」


玲の声は、潮騒に溶けるほど静かだった。

アキトは肩をすくめる。


「考えないと、置いていかれるだろ。俺は、もう迷子は御免だ」


玲は隣に立ち、同じ海を見る。

夕陽が水面を裂き、オレンジ色の道を引いていた。


「守れたか、じゃない」

玲は短く言う。

「守り続ける。選んだなら、それだけだ」


アキトは一度だけ頷いた。

護岸の向こう、港のクレーンが静止したまま影を落としている。

戦いの痕跡は、すでに日常に溶け始めていた。


遠くで、無線が一瞬だけ鳴る。

由宇の短い報告、詩乃の確認、奈々の淡々とした解析完了。

いつもの、終わりの合図。


「……次は?」

アキトが訊く。


玲は海から視線を外し、街の灯りへ向けた。

「次は、来させない。影は、踏ませない」


風が強くなり、波が護岸を打つ。

その音の中で、二人は同時に歩き出した。

港は夜へ、街は明日へ――

そして、まだ語られていない物語は、確かに続いていく。


【深夜・臨時詰所】


深夜の詰所は、薄いランプの光だけが机の上を照らしていた。

由宇は無言で分解した拳銃のパーツを丁寧に磨き、油を差す。

金属同士が触れる、かすかな音だけが静寂を満たしている。


隣で詩乃はケースを開き、注射器型の解毒剤と小瓶を順に並べていた。

手袋越しの指先が正確に動く。


由宇が視線を送る。

「……手元、荒れてないか」


詩乃は顔を上げずに答えた。

「問題なし。あの程度じゃ、眠くもならないわ」

一拍置いて、口元だけで笑う。

「由宇の狙撃のほうが、よっぽど派手だった」


そのとき、軋む音とともに扉が開いた。

湿った夜風と一緒に、アキトがふらっと入ってくる。


「おーい、生存確認」

肩を回しながら、二人を見渡す。

「……相変わらず、物騒な夜会だな」


由宇は手を止めずに言った。

「終わってないからな」


詩乃がちらりとアキトを見る。

「無傷、とは言えない顔ね」


アキトは頬の擦り傷を指でなぞり、軽く笑った。

「勲章だろ。今回は全員、生きて帰った」


由宇がゆっくりと拳銃を組み上げ、テーブルに置く。

「……黒城は逃げた。次は、もっと静かに来る」


アキトは壁にもたれ、天井を見上げた。

「だろうな。でも――」

視線を下ろし、二人を見る。

「その時も、俺たちは揃ってる。それで十分だ」


詩乃はケースを閉じ、静かに立ち上がる。

「じゃあ、少しだけ休みましょう。次に備えて」


ランプの光の下、三人の影が重なった。

外では、遠くの港の汽笛が低く鳴っていた。


【2025年・服部一族本拠地/母屋・囲炉裏の間】


焚かれた囲炉裏の炎が、ぱちりと音を立てて爆ぜた。

煤で黒ずんだ梁と土壁が赤く染まり、揺れる火影が古い歴史を刻むかのように動いている。


紫苑は腰を下ろしたまま、集まった一族の者たちに低く、しかしよく通る声を投げかけていた。

「今宵の働き、皆ようやった。無駄に血を流さず、役目を果たした。それで十分じゃ」


緊張がほどけた空気の中、誰かが湯飲みを置く音がする。

そのとき――


襖が、きぃ、と小さく鳴いた。


「……邪魔するぞ」


間の抜けた、だが聞き慣れた声。

皆の視線が一斉に入口へ向く。


そこに立っていたのは、革ジャンを肩に引っかけたままのアキトだった。

夜風に晒されたのか、髪は少し湿り、頬にはまだ疲労の色が残っている。


「おう、来たか」

紫苑がちらりと目だけを向け、口元をわずかに緩めた。

「珍しいのう。修行中に逃げ出すかと思っとったが」


「ひでぇな」

アキトは苦笑しながら囲炉裏のそばに腰を下ろす。

「一応、挨拶くらいはしとこうと思ってさ。……全部、終わったんだろ?」


紫苑は一拍置いてから、囲炉裏の火を見つめたまま答えた。

「終わったものもあれば、続くものもある。世の理じゃ」


「相変わらず含みのある言い方だ」

アキトは鼻で笑い、掌を火にかざす。

「でも……まあ、今回は負けてねぇってことでいいか?」


紫苑はようやくアキトを正面から見た。

その目は厳しくもあり、どこか誇らしげでもあった。

「生きて立っとる。それだけで上出来じゃ。あとは――次じゃな」


「次、ね」

アキトは囲炉裏の炎を見つめ、静かに息を吐いた。

「逃げる気はないよ。……もう」


紫苑はふっと短く笑った。

「なら、座っていけ。夜は長い」


囲炉裏の火が、二人の影を並べて壁に映す。

その影は、師と弟子であり、戦を越えた同じ側の人間のものだった。


【2025年・未明/留置所】


鉄格子の向こう、薄暗い蛍光灯が低く唸っていた。

湿ったコンクリートの匂いと、消毒薬の残り香が混ざり合う。


黒城は壁に背を預けたまま、動かない。

手錠は外されているが、逃げ場のない静けさが彼を囲っていた。


そのとき――

足音がひとつ、通路に響く。


ゆっくりで、気配を隠そうともしない足取り。


黒城は視線だけを動かした。

鉄格子の前に立ったのは、革ジャンの男だった。


アキト。


「……見舞いか?」

黒城が口の端を歪める。


アキトは答えず、しばらく黙って黒城を見下ろしていた。

蛍光灯の光が、その瞳に冷たい影を落とす。


「港、失敗したな」

アキトが淡々と言う。


「失敗?」

黒城は小さく笑った。

「一つ潰れただけだ。世界は、まだ続いてる」


アキトは一歩だけ近づく。

鉄格子越しに、二人の距離が詰まる。


「続かせねぇよ」

低く、しかしはっきりと。


黒城の笑みが一瞬だけ消えた。

代わりに浮かんだのは、興味深そうな目。


「お前……強くなったな」

「前は、こんな目してなかった」


アキトは肩をすくめる。

「守るもんが増えただけだ」


数秒の沈黙。

遠くで看守の足音が反響する。


黒城は天井に視線を戻し、ぽつりと言った。

「次に会うときは、立場が逆かもしれねぇぞ」


アキトは踵を返しながら、振り返らずに答える。

「その時は――」


足音が遠ざかる。


「今度こそ、終わらせる」


鉄格子の向こう、黒城は何も言わなかった。

ただ、薄暗い天井を見つめたまま、静かに笑っていた。


【2025年・深夜/玲探偵事務所・作戦室】


円卓の上には、港湾地区の大判地図と「旧中央取引所」の見取り図が広げられている。

紙の端を押さえる重り代わりの弾倉が、無言の緊張を物語っていた。


影班の成瀬由宇と桐野詩乃、玲、そしてアキトが集まり、資料に目を落とす。


由宇が地図の一角を指でなぞる。

「取引所地下、搬入口が三つ。表は完全封鎖されてるが、裏の排水路は生きてる」


詩乃が端末を操作しながら淡々と続ける。

「赤外線センサーの配置、ここ。旧式だけど、数が多い。無力化には三分……いや、二分で足りる」


玲は腕を組み、地図全体を俯瞰していた。

「黒城が次に動くなら、ここだ。港を囮にしたのと同じ手口……表で騒がせて、核心は地下」


アキトが軽く息を吐き、ペンで別ルートを書き足す。

「だったら、正面から行く必要はない。

ここから入って、ここで分断。全員が“一人で戦える”前提なら、突破できる」


一瞬、沈黙。


由宇が口元だけで笑った。

「ずいぶん信頼されたもんだな」


「事実だろ」

アキトは視線を上げずに答える。

「昔なら無茶だった。でも今は違う」


詩乃が小さく肩をすくめる。

「……生存率、悪くないわ」


玲は最後に地図を指で叩いた。

「決まりだ。旧中央取引所。

今夜で、黒城の“逃げ道”を全部潰す」


全員が静かにうなずく。


作戦室の時計が、深夜二時を告げる音を立てた。

その音は合図のように、次の戦いの始まりを告げていた。


【2025年・夜/玲探偵事務所・作戦会議室】


円卓の上には、港湾地区の大判地図と「旧中央取引所」の見取り図が広げられている。

影班の由宇と詩乃、玲、そしてアキトが集まり、資料に目を落としていた。


玲は地図の端を指先で押さえ、低く言った。

「黒城は表に出てきた。つまり、ここから先は“捨て身”だ」


由宇は椅子に浅く腰掛け、腕を組んだまま視線を動かさない。

「旧中央取引所……地下に搬入口、上層に監視拠点。港より閉じてる分、逃げ道は少ない」


詩乃が端末を操作し、見取り図に赤い点を打っていく。

「でも罠は多い。化学系は使ってくる。換気系統、怪しい」


アキトは一歩引いた位置から全体を見渡し、地図に新しい線を引いた。

「正面から行けば、向こうの思う壺だ。

 裏の旧水路――ここ、生きてる。俺が通す」


玲がちらりとアキトを見る。

「戻ったな、ルートマスター」


アキトは肩をすくめ、苦笑した。

「今夜だけだ。……次で終わらせる」


一瞬、沈黙が落ちる。

その静けさを切るように、由宇が口を開いた。

「黒城は、必ず“誰か”を狙ってくる。情報じゃなく、人だ」


詩乃が静かに頷く。

「だからこそ、私たちは全員で行く」


玲は円卓に手を置き、はっきりと言った。

「これは追撃じゃない。決着だ」


照明の下、四人の影が地図の上に重なる。

赤く記された旧中央取引所が、静かに次の舞台を主張していた。

あとがき ――黒城


物語の幕を、ここまで見届けてくださってありがとうございました。


この物語は、「事件」そのものよりも、

人がどこで選び、どこで目を逸らしたのか――

その“わずかな角度”を描くことから始まりました。


完全犯罪を成立させるのは、天才ではありません。

誰かの悪意でも、狂気でもない。

ほんの少しの正義、ほんの少しの保身、

そして「自分は関係ない」という安堵です。


ルートマスターは、世界を壊しません。

彼はただ、壊れる方向を提示するだけです。

選んでいるのは、いつも“人間自身”。


玲は、それを知っているからこそ、

決して完全には勝てない。

朱音は、それを知らないからこそ、

それでも前に立つことができる。


描かれなかった台詞、

語られなかった真相、

封を切られなかった手紙。


それらは、物語の欠落ではありません。

**意図的に残された“余白”**です。


舞台が終わったあと、

客席に残る静けさの中で、

ふと自分自身の選択を思い返したなら――

この物語は、あなたの中でまだ続いています。


最後までお付き合いいただき、

本当にありがとうございました。


また、別の舞台でお会いしましょう。


――黒城

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