83話 牙を折る夜
玲探偵事務所関係者
•玲
冷静沈着な探偵。全体の指揮をとり、作戦立案と現場統率を担当。事件の真相解明に尽力。
•アキト
技術担当。ハッキングや潜入工作を得意とし、現地での情報収集やデータ奪取を担当。
•朱音(佐々木朱音)
探偵事務所のメンバー。鋭い直感と純粋な感性を持つ。事件の鍵となるスケッチを描く。
•影班(由宇・詩乃・安斎)
専門部隊。
•由宇:正確な射撃を担当。無表情で冷静。
•詩乃:煙幕や煙幕弾を使い敵の視界を奪う。毒物処理も得意。
•安斎:精神制圧と制圧行動を担当。筋肉質で頼れる存在。
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関係者・その他
•藤堂
報道のスペシャリスト。事件の報道を担当し、世論形成に影響を与える。
•現地警察
港湾コンテナヤードでの事件後、現場に突入し残党を逮捕。
【2025年6月4日・玲探偵事務所 午後8時02分】
港事件から、ちょうど一週間。
初夏の湿った夜風が、わずかに開けた窓から入り込み、事務所の古いブラインドを揺らしていた。
机に向かっていた玲のパソコンが、小さな通知音を立てる。
画面には、見覚えのある送信者名──ミナト。
添付されたファイル名は無機質な英数字の羅列。
件名だけが、短くも鋭く目を引いた。
「黒傘は死んだ──だが牙は残る」
玲は深く息を吸い、メールを開く。
現れたのは暗号化された物流マップ。
複数の都市名が薄く記されているが、ひとつ──東都だけが濃い赤で強調されていた。
背後から足音。朱音が湯気の立つコーヒーを持って近づき、机の上に置く。
「港はもう平気なんでしょ?」
玲は短くうなずきながら、画面から目を離さない。
その視線の先で、マップの赤い線がゆっくりと点滅していた。
【2025年6月5日・玲探偵事務所 午後10時47分】
机の上には、工具箱とノートパソコン、そして黒い作業服一式。
アキトは静かに手を動かしながら、作業員用ヘルメットの内側に小型カメラを仕込んでいく。
その脇では、玲と奈々がノートパソコンの画面を睨み、暗号化されたマップを解析していた。
「出たぞ、港の赤ルート」奈々がキーボードを叩く手を止め、画面を拡大する。
表示されたのは東都工業地帯から延びる物流ライン。そこには複数の倉庫番号と、密輸貨物と思しきコードが並んでいた。
玲が静かに頷く。「動きは今夜だな」
アキトは作業服の袖を通し、胸ポケットに偽造の作業員IDカードを差し込む。
「俺のルートマスターの権限はまだ生きてる。内部の作業員として潜り込み、現場の回線を探る」
朱音が不安げに彼を見つめるが、玲は首を横に振った。「お前は事務所での報告担当だ。スケッチで状況を整理してくれ」
最後にヘルメットを手に取ったアキトは、軽く息を吐く。
「行ってくる。今夜の“牙”を折るために」
【2025年6月6日・東都・工業港近くの物流倉庫街 午後10時02分】
港特有の湿った風が、錆びた鉄扉を低く鳴らしていた。
アキトは作業員用の制服とヘルメットを身に着け、無言で第4ゲートをくぐる。
周囲にはフォークリフトのエンジン音、鉄板の軋む音、そして港の夜を切り裂くような機械音が響く。
背中の小型無線機から、玲の低い声が届く。
「内部回線を見つけたら、すぐに映像を送れ」
「了解」短く答え、アキトは工具箱を肩に掛けた。
倉庫の奥では、数人の男たちが積み荷のリストを手に忙しく動き回っている。
表向きは輸出用の金属部品だが、暗号マップで示された赤ルートでは“別のもの”が混ざっているはずだ。
アキトは工具を取り出すふりをして壁際の配線盤を開け、中を覗き込む。
そこには通常の監視システムとは別に、外部へ伸びる細い光ファイバーケーブルが走っていた。
「……あったな」
ポケットの端末を接続し、数秒でデータを吸い上げる。
ちょうどそのとき、二人組の作業員が近づいてくる。
アキトは配線を点検しているふりを続けながら、耳に仕込んだ集音マイクのボリュームを上げた。
──「クロスが今夜来るらしい」
──「また“牙”か……」
不穏な単語が、ノイズ混じりの音声に乗って届く。
彼らが去るのを待ってから、アキトは端末を取り外し、静かに倉庫を離れた。
この情報が、今夜の作戦の鍵になる。
【2025年6月6日・東都・物流倉庫街 午後10時24分】
アキトは倉庫街の外れ、人気のない積み荷コンテナの陰に身を潜めた。
鉄の壁面が冷たく背中に伝わる。
手首の端末にケーブルを繋ぎ、先ほど抜き取った光ファイバーケーブルのデータを転送開始する。
通信先は、玲探偵事務所。
端末の画面に、暗号化パケットが高速で流れていく。
──【玲】「受信開始。……映像とログ、両方だな」
──【アキト】「中身を見ればわかる。急いだ方がいい」
事務所のモニターに映し出されたのは、取引予定時刻とコンテナ番号、そして赤くマークされた一行。
《第一の牙 22:55 東都港湾コンテナヤード》
玲は短く息を呑み、周囲のメンバーへ視線を走らせた。
「今夜だ。──第一の牙が動く」
テーブルの上に港湾ヤードの地図を広げ、即座に指示を出す。
「アキト、もう一度潜入してコンテナ位置情報を改ざんしろ。
影班は改ざん後のルートを叩く。
私は現場で指揮を執る。証拠の確保を最優先だ」
朱音は不安げに顔を上げた。
「わたしは……?」
「君はここでスケッチだ。現地映像を見ながら、状況を整理してくれ」
港の湿った夜が、すでに牙を剥き始めていた。
【2025年6月6日・玲探偵事務所 午後10時27分】
作戦ボードの前に、玲は全員を集めて立っていた。
壁には、アキトから送られた港湾コンテナヤードの俯瞰図が投影されている。
赤く印のついたコンテナが、脈打つように点滅していた。
「目標はこのコンテナ群。位置情報はアキトがすでに改ざん済みだ。
本来の受け渡し場所から引き離してある。奴らの動きは混乱するはずだ」
詩乃は腰のポーチから金属筒を取り出し、無言で確認する。
由宇はライフルのボルトを軽く引き、滑らかな金属音を響かせた。
安斎は腕を組み、俯瞰図から視線を外さない。
玲の指示は短く、しかし鋭かった。
「影班は現場周囲の封鎖と奇襲、私は突入の合図と証拠の確保を担当する。
アキトは内部から状況を流し続けろ。合図は一度きり──煙幕が上がった瞬間だ」
室内の空気が一段張り詰めた。
港の闇を切り裂く作戦が、あと数分で始まる。
【2025年6月6日・東都港湾コンテナヤード 午後11時46分】
ヤードの照明は最小限、薄黄色の灯りが霧の中で滲んでいた。
鉄の塊が迷路のように積まれ、金属と潮の匂いが濃く漂う。
その中央で、数人の男たちが低い声で言葉を交わしながら、コンテナの封印を確認していた。
屋上から全体を見下ろしていたアキトが、イヤピースに短く告げる。
「……全員、準備完了。目標コンテナはここだ」
その直後、闇を裂くように詩乃の煙幕筒が地面で弾け、白い霧が一気に広がった。
視界を奪われた武装警備員が慌てて叫び、足音が錯綜する。
「行くぞ」
由宇の低い声とともに、ライフルが三度乾いた音を立てた。
撃ち抜かれた銃が地面に落ち、敵は反撃の隙を失う。
安斎は煙の中を一気に突進し、幹部格と思しき男の腕を背後から捻り上げ、地面にねじ伏せた。
「……動くな」
その声は冷えた鉄のように響き、相手の抵抗を瞬時に奪った。
混乱の隙を縫い、アキトはすばやくコンテナ脇の事務用テントへ滑り込み、机の上の分厚い台帳を掴む。
埃と潮にまみれたその表紙には、確かに港湾会社の名前と見慣れぬ暗号番号が刻まれていた。
「確保──玲、送る」
アキトが台帳を胸に抱えたまま、玲のもとへ駆け寄る。
その瞬間、背後から複数のライトが一斉に照らし出した。
現地警察の突入部隊がヤードに雪崩れ込み、残った武装集団を次々と制圧していく。
玲は受け取った台帳を一瞥し、無線で全員に短く告げた。
「第一の牙──抜いた」
霧と潮風の中、コンテナヤードは静寂を取り戻しつつあった。
【同時刻・ヤード東ゲート側】
アキトは煙に紛れて貨物管理端末の前にたどり着いた。
セキュリティロックを解除する指先は、外の混乱とは別のリズムで正確に動く。
端末ラックの奥に手を伸ばし、埃をかぶった黒いケースを引き出す。
金属製の留め具を外すと、内部から厚い紙束の匂いがふっと漂った。
そこには分厚い取引台帳が一冊、無造作に置かれていた。
ページの間には、港湾会社の裏契約書と覚書のコピーが重ねられている。
文字はすべて手書きの走り書きで、インクのにじみが生々しい。
「……これだ」
アキトは低く呟き、ケースごと防水バッグに押し込む。
そのまま無線のスイッチを入れ、玲へ短く告げた。
「確保──“第一の牙”、抜いた」
玲の「よくやった。全員、離脱ルートに移れ」という指示が返る。
直後、別回線から軽快な声が混ざった。
《こちら現場報道班、藤堂です。速報をお伝えします──東都港湾コンテナヤードで発生していた武装取引の現場に、合同部隊が突入。容疑者数名を拘束し、違法契約書および暗号化された取引台帳を押収しました。現場は未だ混乱が続いていますが、第一の牙は完全に封じられた模様です。》
藤堂の声は落ち着いていたが、その裏に熱が宿っていた。
《なお、押収資料には“クロス”という名前が複数記されており、三都市ルートとの関連が注目されています。以上、現場からお伝えしました》
霧の奥からはまだ警笛と怒号が続いていたが、アキトは無言で港外へ歩き出した。
彼の背後で、報道用カメラの閃光が短く空を裂いた。
【2025年6月5日・東都港湾コンテナヤード 午後11時18分】
詩乃が投げた銀色のカプセルが、地面に軽い音を立てて転がる。
次の瞬間、化学反応の音とともに白煙が一気に噴き出し、視界を覆い尽くした。
「行くよ」
詩乃の低い声を合図に、由宇が影のように動く。
煙を切り裂くように駆け、正確な射撃で敵の銃を一丁ずつ弾き落とす。
乾いた銃声が響くたび、金属の落ちる甲高い音と、押し殺した悲鳴が夜気に溶けた。
その間に安斎が一歩で敵幹部との間合いを詰め、重い拳で武装を奪う。
怒号と衝撃音、そして倒れ込む気配。煙の中で影班の連携は寸分の狂いもなかった。
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【同時刻・東ゲート側】
アキトは貨物管理端末のラックから黒いケースを引き抜き、防水バッグへ押し込む。
「……これだ」
無線が小さく鳴る。
「確保──“第一の牙”、抜いた」
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【2025年6月5日・玲探偵事務所 午前0時14分】
テレビの画面には、現場からの生中継。
藤堂がヘルメット姿でカメラの前に立ち、背後では赤色灯が霧に滲んでいた。
《速報です──東都港湾コンテナヤードでの違法取引現場に、合同部隊が突入。容疑者を拘束し、暗号化された取引台帳と港湾会社の裏契約書を押収しました。現場は混乱の渦中ですが、“第一の牙”は完全に折られた模様です》
朱音はソファで膝を抱えたまま、じっと画面を見つめていた。
「……クロスって、あの名前」
沙耶が隣で小さく息を呑む。
藤堂の報道は同時にネットでも配信され、コメント欄は瞬く間に炎上状態になった。
《やっと摘発されたか》《三都市ルートって何?》《クロスって誰?》
疑問と憶測が交錯し、トレンドには「第一の牙」「クロス」「三都市ルート」の三つが同時に並んだ。
玲は黙ってリモコンの音量を下げ、作戦ボードに視線を戻した。
港は終わった。だが──まだ二つ、牙は残っている。
【エピローグ 2025年6月6日・玲探偵事務所 午前1時04分】
港湾コンテナヤードから戻ったメンバーは、深夜の事務所に静かに集まっていた。
机の上には、アキトが奪い取った厚い取引台帳と港湾会社の裏契約書が広げられている。
玲は疲れた目をこすりながら、デスクトップの画面をじっと見つめた。
画面には、すでに数千件を超えたSNSの書き込みがリアルタイムで流れ続けている。
《港湾会社と関係者の不正疑惑がネットで爆発的に拡散中──》
《関係者が内部から圧力をかけ、情報統制を強化し始めたとの噂も》
《匿名の脅迫メールや電話が多数、玲探偵事務所にも警戒呼びかけ》
沙耶が声を潜めて言った。
「ネットはもう止められない。……でも、あの契約書の相手、港湾会社の上層部には届かない。間違いなく圧力はここからだ」
玲は静かに頷き、立ち上がると窓の外を見つめた。
「まだ終わりじゃない。第一の牙を折っただけだ。これからが本当の戦いだ」
アキトが薄く笑みを浮かべ、台帳に手を伸ばしながら言った。
「次の牙──“中州ルート”の影は、もう動き始めている。今度はより慎重に動かないと」
詩乃が黙って頷き、由宇は拳を握り締めた。
深い闇の中、彼らの戦いはまだ続いている──。
【後日談】港事件から3日後
【玲 2025年6月9日・玲探偵事務所 午前10時12分】
玲は静かな探偵事務所のデスクに向かい、淡々と報告書を打ち込んでいた。
窓の外から差し込む初夏の柔らかな日差しが、事務所の中を穏やかに照らす。
だが、机の端に置かれた封筒には、重々しい警察の封蝋が押されている。
朱音がそっと差し出した新しいコーヒーを受け取り、玲は一息つく。
画面の片隅に映るニュース映像は、まだ事件の余波を伝えていた。
〈港湾会社不正疑惑報道、SNSで拡散中〉
〈大手関連企業が情報統制を強化〉
〈匿名からの脅迫メール、警察も調査へ〉
玲はゆっくりと窓の外を見やった。
公園の木陰では、子どもたちが無邪気に遊んでいる。そんな平和な光景が、現実の裏側の激しい戦いと対照的に映る。
「……しばらくは静かだといいな」
呟いた声は、自分自身への願いだった。
その直後、玲のスマートフォンが震えた。
画面には「匿名」の表示。内容は短いが冷徹な警告文。
「手を引け。次はもっと大きな牙が動く」
玲は深く息を吐き、封筒を見つめたまま拳を握りしめる。
この事件の終わりはまだ遠いことを、誰よりも知っているのだった。
【アキト 2025年6月9日・東都郊外のガレージ 午後2時45分】
ガレージの薄暗い空間に、工具のカチリと片付ける音だけが響く。
アキトは油まみれの手を拭いながら、慎重に最後のパーツをバイクに取り付けた。
壁際の作業机には、港で押収したハッキング用の端末が無造作に置かれている。
ディスプレイの画面には、赤い文字で「全回線切断済み」と冷たく点灯していた。
「港ルート、完全シャットダウン……」
声は低く、ほとんど囁くようだったが、その背後に潜む緊迫感は明らかだった。
ふと、背後の薄暗い影に目をやる。
先日から何度も感じていた「気配」が、今も消えずにここにある。
アキトはそっとバイクのエンジンをかけた。
静かに唸るアイドリング音がガレージの冷気を切り裂く。
その音が、静かな戦いの終わりを告げる合図にも、
新たな戦いの始まりにも聞こえた。
「これで、少しは落ち着けるだろうか……」
彼の言葉は、誰にも届かない祈りだった。
【影班(由宇・詩乃・安斎) 2025年6月9日・港の岸壁 午後5時20分】
夕焼けが海を茜色に染め、波間に赤い光の筋が揺れている。
岸壁に腰掛けた由宇は、静かに釣竿を握っていたが、その瞳は潮風に揺れる波面ではなく、遠くの影を鋭く見据えている。
少し離れた詩乃は、カメラを構えながら海面の揺らぎを捉えていたが、その指先は無意識に拳を強く握っていた。
「……本当に、何もない港になったな」
詩乃の声は風に消されそうなほど小さく、しかし言葉の重みは冷たく硬い。
安斎は二人の背後で腕を組み、港湾警備の巡回する影をじっと見つめていた。
視線の端に、一瞬、不自然な動きが過ぎったのを彼だけが見逃さなかった。
由宇は微笑みを浮かべず、低く呟いた。
「それでいい……だが、油断はできない。」
港の静寂は、表面上のものでしかなかった。
誰かがまだ見ている。まだ動いている。
三人の影は夕日に伸び、まるで夜の獲物を待つ影絵のように、長く黒く伸びていた。
【藤堂 2025年6月9日・報道局 午後8時02分】
夜のニュースが終わり、スタジオの照明が一つずつ静かに落とされていく。
薄暗くなった部屋の中、藤堂は机の上の原稿用紙をきちんと揃え、ゆっくりと片付け始めた。
ポケットから取り出した小さな紙片に目を落とす。そこには玲の筆跡で、冷静な文字が静かに刻まれている。
「牙は折られた──港は守られた」
藤堂はその紙を胸の内ポケットにしまい込み、背を伸ばして窓の外へと目を向ける。
夜景が煌めく街並みを見下ろしながら、彼の瞳は遠く、次の波を見据えていた。
「まだ終わっていない。油断できない。だが、今は守るためのニュースを流す番だ。」
薄暗い部屋の静けさと、港の静寂。
その間に潜む何か――誰かがまだ動き出すのを待っている予兆を、藤堂はひしひしと感じていた。
【朱音 2025年6月9日・事務所のソファ 午後10時33分】
朱音は静かにソファに腰掛け、膝の上に広げたスケッチブックに最後の一筆を加えた。
絵の中の港は、夜の静けさに包まれ、穏やかな灯りがぽつぽつと灯っている。
大きなクレーンも動きを止め、まるで長い戦いのあとにやっと訪れた安息を象徴しているかのようだった。
彼女はペンを持ち直し、港の片隅に小さく文字を書き添えた。
「黒傘は死んだ」
文字を書き終えると、朱音はペンをそっと置き、ゆっくりと息を吐いた。
カップに注がれた温かいココアを一口飲み、目を閉じてわずかな安らぎの時間を味わった。
すべてが終わったわけではないけれど、今だけはこの静かな夜を胸に刻んでいた。
【2025年6月9日・玲探偵事務所 午前9時42分】
玲のパソコンが短い着信音を鳴らした。
差出人は藤堂。件名は一言だけ──「港」。
メール本文には、シンプルな報告が書かれていた。
件名:港
例の報道は国内外で拡散。
世論は「港湾浄化」を支持。
一部の関係筋から圧力が来ているが、ニュースは消さない。
……あとは、君の言う『第二の牙』を待つだけだ。
― 藤堂
玲は無言でメールを閉じ、デスクの端に置いた封筒(押収台帳)に視線を落とした。
その指先が、ほんのわずかに机を叩く。
「……急ぐ必要がありそうだな」




