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80話 第四幕は、まだ沈まない

登場人物紹介


黒傘くろがさ


2005年の港舞台を設計した謎の演出家。

黒い傘を常に携え、舞台心理と観客の視線誘導を極限まで突き詰めた存在。

水門トリック、潮位操作、視覚と音響を組み合わせた「第四幕」を完成させた後、表舞台から姿を消す。

20年後、その仕掛けは遺構として再び動き出し、現代の調査対象となる。

本人の生死や現在の所在は不明だが、残された設計思想は今も港に息づいている。



れい


2025年時点で29歳。

冷静沈着な現場指揮官であり、過去の事件を構造と心理の両面から解析する調査官。

20年前、まだ9歳だった頃に無意識のうちに「港の違和感」を目撃していた可能性がある。

朱音のスケッチと、アキトの分析を軸に、黒傘の舞台装置の真意へと迫っていく。

感情を表に出さないが、過去と現在をつなぐ責任を強く背負っている。



アキト


28歳。

構造解析・記録解析を得意とする実務担当。

2005年当時は8歳で、事件そのものの記憶は曖昧だが、断片的な音や光の印象が心に残っている。

2025年、玲と共に行動し、過去の舞台装置を「現代の危険予測」に転用する役割を担う。

ふらりと現れ、ふらりと去ることが多いが、要所では必ず核心を突く。



佐々木朱音ささき あかね


10歳。

スケッチブックを手放さない少女で、「視覚的証人」。

言葉にできない違和感や記憶を、線と構図として描き出す才能を持つ。

彼女の描いた“影”は、2005年と2025年をつなぐ鍵となった。

無邪気さと鋭さを併せ持ち、影班の大人たちの心を静かに揺さぶる存在。



成瀬由宇なるせ ゆう


影班所属。

隠密行動と近接戦闘を担当する実働要員。

感情を排した動きと判断力で、危険区域を切り開く。

現場では常に一歩先を読むが、朱音の存在にはどこか柔らかな視線を向ける。



桐野詩乃きりの しの


影班所属。

毒物処理・痕跡消去・水中作業を担当。

冷静で無駄のない動きが特徴。

黒傘の装置に残された“癖”を、技術者として鋭く見抜く。

白鷺との対峙では、感情を抑えたまま確実に主導権を握った。



安斎柾貴あんざい まさき


影班の統括・精神制圧担当。

低い声と簡潔な指示で現場を制御する。

爆発物処理や最終判断を担い、「幕を降ろす」役割を引き受ける人物。

過去に囚われすぎない現実主義者。



御子柴理央みこしば りお


中性的な雰囲気を持つ男性分析官。

記録解析・構造照合・データ再構築を専門とする。

感情を挟まず、淡々と事実を積み上げるが、核心に触れる言葉は重い。

黒傘の光信号と舞台配置の一致を最初に示した人物。



白鷺しらさぎ


2025年に現れた謎の存在。

黒傘の思想を知っているかのような行動を取り、装置の制御室に現れる。

敵か、観測者か、あるいは――

その正体は、まだ幕の内側にある。



総括


この物語は、

「舞台は終わっても、仕掛けは沈まない」

というテーマを軸に、

2005年と2025年、二つの時代の視線と記憶が重なり合う群像劇です。

冒頭


【2005年・港桟橋】


――カァァァ……。

海鳥の声が潮風を裂いて流れ、雨粒の混じる夜気が肌を刺す。

港の水面は、月明かりを遮る厚い雲の下で、墨を流したように黒く沈んでいた。


黒傘は桟橋の中央で足を止めた。

濡れた木板の軋む音が、背後の暗がりへと吸い込まれていく。

手にした黒い傘の先から、雫が静かに水面へ落ちた。


彼の視線は、崩れかけた倉庫の二階――

割れた窓の奥を捉えている。

そこには、人影のような揺らぎが一瞬だけ現れ、すぐに闇へと溶けた。


風が止み、港全体がひとつの巨大な舞台装置のように静まり返る。


黒傘の瞳が細められる。

まるで、遠い未来から注がれる視線を感じ取ったかのように。

次の瞬間、舞台袖の闇がかすかに動き、そこから現れた影に向け、黒傘はゆっくりと顎を引いた。

――その合図は、まだ始まらぬ第四幕のための仕掛けを意味していた。


「……来るか」

黒傘の低い声が、夜風に混ざり、誰にも届かぬまま港を包む。


プロローグ


【2025年・現代/港跡地】


灰色の空が港跡地を覆う。潮風が冷たく、湿った空気が肌にまとわりつく。崩れかけた倉庫の二階の窓だけが、時間に置き去りにされたかのように形を保っていた。


机の上には古いスケッチと、当時のメモや写真が無造作に広がっている。朱音の描いた線と、20年前の現場写真を照らし合わせながら、玲は息を吐く。


「……ここだ」


指先が、9歳の自分が見た景色をたどる。あの夜、桟橋で、黒傘の影が舞台装置の鍵を静かに回す音を、幼い自分はただ呆然と見つめていた。あの時の匂い、濡れた木板の感触、舞台袖の暗がりの冷たさ――すべてが記憶の奥に残っている。


玲は朱音のスケッチを並べ、アキトとの現場調査で得たデータと照合する。9歳の目線では理解できなかった黒傘の狙いや、舞台装置の仕組みが、今では手に取るように解析できる。


耳にイヤモニを通して届くアキトの声。


「……20年前と同じ構造だ。黒傘の狙いも、仕掛けも、完全に再現されている」


玲は微かに頷く。あの時、まだ子供だった自分が見た光景が、今、ここで現実の謎として動き出す。20年の時を経て、記憶と現場が交錯する瞬間。


港の暗闇に、遠い過去の水音が微かに重なる。9歳の自分が見た、黒傘の傘先から滴る水の輪――その一滴一滴が、今の玲の目の前で現実の道筋を示しているかのようだった。


「朱音……お前の描いた線、間違いじゃなかったな」


机のスケッチブックの上で、濡れた街路の跡と、舞台装置の痕跡が、時を越えて静かに呼応している。


【2005年・港桟橋】


黒傘の唇がわずかに動く。

――「ようこそ、港へ。」


その言葉を吐き終えると同時に、足元の鉄製レバーをそっと踏み込む。


ガチリ、と金属音が闇に響く。


遠くで波が木板を叩き、潮の香りが鼻をくすぐる。濡れた桟橋の冷たさが足裏に伝わり、視界には月明かりに照らされた水面が揺れる。


黒傘の冷ややかな視線は、崩れかけた倉庫の二階をまっすぐに捉えていた。


まるで、この夜の舞台の幕が静かに開くかのように。

空気が張り詰め、時がゆっくりと動き出す。


足元の水紋がゆらりと広がり、影を濃くする。黒傘は、暗がりの先に潜む誰かの気配を察し、静かに次の動きを待った。


【2025年・港跡地】


玲は一瞬、視線を逸らし、足元の瓦礫を確認する。

瓦や木片が濡れて滑りやすく、踏み外せば深い水溜まりに落ちかねない状況だった。


その瞬間、どこからか低い振動音が響き渡る。

「……機構か、まだ生きている」玲は小さく呟き、イヤモニ越しにアキトへ情報を送る。


アキトは瓦礫の隙間に目を凝らし、手早く簡易計測器で振動の強さと波動の伝播を確認する。

「左右のパイプから圧力がかかっている……排水路の残留圧力だな。まさか、20年前の仕掛けをここまで再現しているとは」


玲は瓦礫を慎重に跨ぎながら、水路の構造を頭の中でシミュレートする。

「ここを突けば、逆流させられる。逆に相手の想定を狂わせるチャンスだ」


二人は息を合わせ、湿った石畳の上を静かに進む。

現場解析スペシャリストとしての感覚が、彼らの体に瞬間的な優先順位を与え、危険な仕掛けの存在を直感的に知らせていた。


【2005年・港舞台裏】


静寂の中、滑車の軋みが響き渡る。

鎖の先に吊るされた巨大な木箱が、ゆっくりと水面へと沈み始めた。


黒傘は傘の先端を水面に向け、滴る雫を目印に沈降速度を確認する。

「……予定通りだな」低く呟き、微かな手の動きで滑車のテンションを調整する。


舞台上空の照明が揺れ、水面に反射して不規則な光の波紋を描く。

観客には単なる演出の一部に見えるその動きも、舞台裏の仕掛けとしては極めて精密に計算されていた。


黒傘の目は、奥の舞台袖と観客席の死角を交互に見据え、次の行動に備える。


【2025年・港跡地桟橋】


玲が瓦礫を踏みしめ、桟橋の異変に気づいた瞬間、イヤモニ越しに影班の緊迫した声が飛び込む。

「……水流が予想より速い。安全圏へ退避せよ」「前方、足元注意!」


玲は低く頷き、瓦礫の隙間を縫うように足を進める。

アキトもすぐ隣で、手元の小型端末を操作し、水流の逆流を監視する。

「……あの時のトリックと同じだ。黒傘が想定した水流パターンを、こちらから逆手に取る」


過去の舞台で起きた水門トリックと、現代の桟橋での現象が完全に同期する。

影班の通信が飛び交い、遠隔操作で仕掛けを補正する指示が玲とアキトに届く。

瓦礫や濁流を前にしながらも、二人は冷静に行動し、過去と現在を繋ぐ因果の輪の中で最適な動線を探り続けた。


【2005年・港舞台袖】


舞台技師の男は、手元のミキサーに集中しながら小さく呟く。

「……もっと波の反響を強めろ。桟橋の木板に当たる音も、リアルに……」


微かに揺れる照明の下、スピーカーから流れる潮騒が舞台全体に広がる。

黒傘が桟橋の端に立つと、波音と雨音が重なり、観客の聴覚を欺く心理的包囲を生み出す。


舞台袖の暗がりで技師は息を整え、次の指示を待つ。

「……準備完了。あとは、あの影が動くのを待つだけだ」


水槽の水位や鎖の揺れ、舞台床の湿り具合まで計算された上で、舞台全体がまるで生き物のように呼吸する。


【2025年・港跡地】


玲は足元の濡れた石畳を見つめながら、瓦礫を踏み越えるたびに水が跳ねる音を聞き逃さない。

「……海が、急に動き出してる。」


アキトは即座に隣で反応し、手元のタブレットを確認する。

「水位センサーが反応してる……排水路の逆流か、計算通りに動いてるな」


影班からも低い通信音が入り、動きが連動していく。

「全員、警戒態勢。ここから先は濁流が予測不可能だ」


瓦礫や倒れた桟橋の破片を避けながら、二人は慎重に前進する。

過去の舞台トリックを現実世界で再現する緊張感が、体の隅々にまで張り詰める。


【2025年・港跡地】


玲は立ち止まり、鉛色の海面をじっと見つめた。

「……この天候、予定外だな」


アキトは防水仕様のタブレットを操作し、潮位と風速を確認する。

「センサー数値は上昇中。排水路の水流も変化してる……20年前の条件に近い」


瓦礫の上を慎重に踏みしめながら、玲は遠くの桟橋の残骸を指さす。

「この桟橋の配置、あの舞台装置と完全にリンクしてる……黒傘のトリックを逆手に取る必要がある」


影班から低く報告が入る。

「右手通路に障害物を確認。迂回を推奨」


潮風が強まり、水面に跳ねる雨粒が二人の視界をかすめる。

玲とアキトは、過去と現在が交錯するこの港跡で、緊張感を保ちながら次の行動に移る。


【2005年・舞台袖】


黒傘は舞台袖の暗がりで、じっと港セットを見つめていた。

「……完璧だ」


足元の鉄製レバーに指先をかけ、わずかに力を入れる。

水槽内の水位を微調整することで、観客が気付かない“沈みのタイミング”を制御できる。


舞台技師の低い声が無線越しに届く。

「波音、微調整完了。照明も予定通りです」


黒傘は僅かに頷き、濡れた木板の床を踏みしめながら舞台中央へ歩を進める。

滴る水が石畳に小さな円を描き、静かな波紋となって広がる。


観客の視線はまだ奥の扉に集中しており、誰も黒傘の動きを意識していない。

まるで、この夜の港全体が彼の“舞台装置”の一部であるかのように。


【2025年・港跡地】


玲は瓦礫の上に足を置き、耳を澄ます。

「……何かいる」


潮風が耳朶を打ち、遠くで鈍い金属音が反響する。

アキトが隣で静かに息を吐いた。

「気のせいじゃない……確かに、誰かが見てる」


二人は桟橋をそろりと進めながら、周囲の瓦礫と倒れた木材を警戒する。

「20年前と同じ……いや、違う。今度は俺たちが主導権を握る番だ」


玲は瓦礫の隙間から覗く水面を確認し、足元の安全を確かめる。

その視線は、遠くの揺れる影と交錯し、時を超えた攻防の始まりを予感させた。


【2005年・舞台袖】


黒傘は指先で傘の先を軽く床に叩きつける。

小さな水滴が跳ね、舞台下の水面に輪を描く。


「幕は……必ず二度降りる」


その呟きと同時に、舞台奥の水門を操作する鉄製レバーに指をかけた。

ガチリ、と低い金属音が闇に響き、濁流の揺れる音が桟橋全体に伝わる。


黒傘の瞳は、窓越しの闇の奥にちらりと映る影に固定される。

それは未来、2025年の港跡で息を潜める玲の視線と、時を超えてリンクしていたかのようだった。


手元の仕掛けを確かめ、黒傘はゆっくりと舞台中央へ踏み出す。

背後で控える観客の気配は、完全に心理的包囲として利用されている。

すべてが計算された動き――

観客も、舞台も、そして時間も、彼の掌中にあった。


【2025年・港跡地/午後17:12】


桟橋下で海水が急激に渦を巻き、板の隙間から飛沫が跳ね上がる。

玲は足元の濡れた石板を踏みしめながら、微かに呼吸を整える。


「……これは、潮の流れじゃない。誰かが――仕掛けてる」


アキトが隣で眉を寄せる。

「……今の、見たか?」

水面に反射する空の鉛色が揺れ、瓦礫の隙間から差し込む光に小さな水滴が煌めく。


無線機がざらつき、安斎の落ち着いた声が割り込む。

『玲、状況を報告しろ。――港が動き出してるぞ』


玲は視線を下げ、濁った水の流れを追う。

「板の下に仕掛けられた排水路……水門制御の痕跡だ」


詳細セリフと同時に、スペシャリスト解析の情報も頭に浮かぶ。

水位変動のパターン、潮の流れとは異なる微細振動、桟橋下の旧配管の特性――すべてが人工的操作を示唆している。

「この装置……黒傘の仕掛け、いや、あれの再現だ」


アキトはワイヤーの結束部を指差し、低く呟く。

「……間違いない、2005年と同じだ。あの時の水路トリックを逆手に取るしかない」


玲は深呼吸し、瓦礫を踏みしめながら次の行動を決める。

目の前の港跡地全体が、二重の時間軸で仕組まれた“舞台”であることを理解し、息を殺して動き始めた。


【2005年・舞台袖/夜20:15】


舞台袖の暗がりで、技師の手がわずかに震えた。

桟橋下の水槽に張り巡らされた配管から、水が勢いよく噴き出す。

鉄の継ぎ目が微かに震え、奥で何かが回転する低い唸りが空気を震わせる。


舞台用の波音スピーカーから流れる音に混ざり、リアルな海水の衝撃音が耳を打つ。

「……こんなはずじゃ……」

技師は制御盤に手を伸ばすが、全ての表示灯は赤く点灯し、操作は効かない。


視線を上げると、黒傘が袖の暗がりからこちらを見つめていた。

唇の端に浮かんだ意味深な笑み。

その視線は、舞台上の混乱を完全に掌握していることを示していた。


わずかに傾いた照明が、水しぶきに反射して揺れ、舞台全体に緊張感が広がる。

黒傘の一挙手一投足が、この夜の“仕掛け”の中心であり、誰もが気づかぬうちに物語を動かしていた。


【2025年・港桟橋/昼前10:42】


玲はゆっくりと桟橋の欄干へ近づき、指先で紙切れをつまみ上げる。

潮風に濡れた紙は手のひらで軽く震え、端がほつれて触れるだけで崩れそうだ。


「……これは……何かのメッセージか?」

玲の低い呟きが、静かな港の空気に吸い込まれる。


紙の表面には、薄くにじんだ墨で文字が描かれていた。

細かい筆跡から、水分の影響で滲むタイミングまで、専門家の目ならば「最近濡れたか、保存状態は?」と解析できるレベルだ。


アキトが隣で観察しながら、装置トリックや潮位の変化と照合する。

「……これは、あの20年前の舞台装置の設計図の断片に似てる。水位や流路のメモが隠されているかもしれない」


玲は紙を慎重に広げ、細部を確認する。

微細な波紋や折れ目、濡れた跡の方向から、潮流や水の噴出位置を読み解く――まさに現場解析の最前線だった。


過去と現在を繋ぐ“証拠物件”。

その一枚が、次の行動の鍵を握っていることは、二人には明白だった。


【2005年・港桟橋/夜21:17】


黒傘は桟橋先端の木柱にゆっくりと近づく。

濡れた革手袋越しに、小さな封筒を取り出した。紙は潮気を含み、端がわずかに波打っている。


「……これで、次の指示は確実に届くだろう」


黒傘は周囲を一瞥する。観客席の熱気も、舞台袖の喧騒も、すべて彼の計算の外だ。

封筒を手に、決して見えない角度から、木柱の隙間へとそっと差し込む。


紙の端がわずかに光を反射し、潮の匂いが混ざった空気の中で、封筒は静かに木柱に吸い込まれた。

その動きは観客には何も伝わらず、舞台の水音と風音に溶けていく。


黒傘は小さく頷き、足元の水面に落ちる雨滴を一瞥してから、再び闇へと歩を進めた。

全てが計算された“見えない演出”。誰も、彼の行動を目撃してはいない。


【2025年・港跡地/午前8:42】


無線が小さくノイズを挟み、安斎の低い声が響いた。

《……玲、現場から引け。桟橋の下に熱源反応がある。おそらく仕掛けだ。》


玲は桟橋の濡れた木板に片手を置き、息を整える。

「わかった……引く。だが、仕掛けの内容も確認する」


アキトが横で素早く解析用の小型センサーを取り出し、桟橋下の水中や排水口の流れを測定する。

「……水流も温度も、やはり人工的に操作されている。2005年の水路トリックの応用だ」


玲は眉をひそめ、桟橋の先端を見据える。

「黒傘が意図した流れだ……しかし、逆手に取る余地はある」


アキトは解析データをリアルタイムで表示する端末を指でなぞり、危険箇所の予測を示す。

「もしこの水流の逆流を利用すれば、封鎖されている出口を突破できる」


玲は深呼吸し、瓦礫を踏みしめながら慎重に前進する。

過去の仕掛けを現代に応用する――その瞬間、二人は20年前と同じ因果の渦に身を置いたことを実感する。


【2025年・港跡地/午前8:45】


成瀬由宇は後部座席で、端末に映し出された熱源マップを凝視していた。

桟橋下のシルエットは不規則な形を描き、赤と橙のパルスが波打つように点滅している。


「……熱源の分布が明らかに人工的だ」

低く呟くその声には、動揺よりも冷静な分析の響きがあった。


安斎が助手席で手元のモニターを操作し、複数の水温データと流速計測値を表示する。

「流れが微妙に制御されている。これ、過去の舞台トリックの応用だな」


由宇は端末をタッチし、パルスのタイミングを詳細に解析する。

「水流と熱源が連動している……間違いない、黒傘の仕掛けの現代版だ」


玲とアキトの位置を確認しながら、由宇は通信機越しに低く指示を出す。

「玲、アキト、桟橋の中心付近は危険。熱源と流速の変化を見極めながら進め。俺たちは遠隔でサポートする」


暗視端末の赤い光が、桟橋下の不穏な影を静かに浮かび上がらせる。

その光景は、二十年前の舞台裏と同じ緊張感を現代に再現していた。


【2005年・港舞台袖/午後7:15】


舞台袖の暗がりで、銀色のスパナを握る手が止まった。

港セットの水位ポンプを管理していた舞台スタッフ、吉岡は、視線を桟橋先端の黒傘へ向ける。


「……台本に、こんな指示はなかったはずだ」

小さく呟き、手元のスパナを握り直す。


水槽の配管から伝わる振動と、足元に広がる濡れた木板の冷たさ。

吉岡の胸の奥には、ざらつく違和感がずっと残っていた。


「誰が、こんなことを……」

考える間もなく、水音が一層大きくなり、桟橋全体に波紋が広がる。

吉岡は息を飲み、ポンプ操作盤に手を伸ばすが、表示灯は赤く点滅したまま、操作を受け付けない。


目を上げると、黒傘の濡れた傘先がわずかに光を反射し、袖の影から意味深な微笑を投げかけていた。

その笑みに、吉岡は凍りついたように硬直する。


――舞台上では、観客の視線が全て桟橋の先端に注がれ、誰もこの裏側の緊張に気づかないまま、夜の港劇は進行していく。


【2025年・港跡地車内/午前10:42】


車内のモニターに、理央からのデータリンクが届いた。

《2005年9月14日、港舞台の記録写真だ。客席配置図も添付する。現地構造と照合しろ。》


玲は画面を凝視し、朱音のスケッチと現場の瓦礫を照合する。

「……やはり、ここだ。舞台の構造、排水路の位置、すべて一致する」


アキトも隣で端末を操作し、過去の舞台設計図と現状を重ね合わせる。

「黒傘の動き、仕掛けの配置……2005年のあの時と、完全に同じだ」


成瀬由宇は後部座席で無線端末をチェックしながら、低く報告する。

「排水管と水門の制御経路を解析済み。再現トリックの危険度は高い。慎重に進めろ」


車内は緊張に包まれ、過去の事件の痕跡が現代にまで響いていることを、全員が痛感していた。


【2025年・港跡地車内/午前10:57】


成瀬由宇は端末上の3Dマップを回転させ、廃港の全景を映し出した。

「死角の位置、風向き、潮流……全部が“あの位置”に収束してる」


モニター上、桟橋先端の下を示すマーカーが赤く脈打つ。


玲は画面を食い入るように見つめ、瓦礫の間から覗く桟橋先端を頭の中で重ね合わせた。

「黒傘が狙った角度、仕掛けの範囲……過去と全く同じだ」


アキトは端末の操作を続け、排水路や水門の制御経路を3Dでシミュレーションする。

「ここから逆流を作れば、仕掛けを先に把握して回避できる。再現トリックを逆手に取る」


玲は静かに頷き、無線を握る手に力を込めた。

「安全確認しながら進め。過去の痕跡が、今の俺たちを導く」


車内の空気は緊迫しており、専門家たちの冷静な分析が、目の前の廃港で展開される“第二の舞台”を鮮明に描き出していた。


【2005年・港舞台袖/午後7:42】


黒傘は桟橋の影に身を沈め、古びた金属装置に最後のパーツを慎重に組み込んでいた。

潮騒と舞台上の波音SE、そして客席の微かなざわめきが、奇妙な和音となって耳を満たす。


彼の指先は微動だにせず、緊張と冷静の境界を保ちながら、装置の最終調整を行う。

「これで……完璧だ」


黒傘の瞳は桟橋先端を映し、湿った木板の軋みを予測するかのようにじっと観察する。

水門や排水パイプの接続、圧力差による水流の変化――すべて計算済みの心理的トリック。


彼の呼吸が一瞬止まる。

「……舞台は、まだ誰にも制御されていない」


黒傘は傘をゆっくり閉じ、滴る水が小さく桟橋に輪を描くのを確認した。

その水紋が、やがて夜の港全体を包む静寂のリズムに溶け込んでいく。


【2025年・廃港ビル二階地図室/午前10:17】


潮風の匂いが薄く残る古い木造ビルの二階。

事務所奥の地図室には、壁一面に港町と周辺海域の古地図が貼られている。

中央の大きな作業机の上には、十五年前に撮られた舞台港の写真と、最新のドローン映像が並べられていた。


玲は写真を指でなぞりながら呟く。

「……水路の構造、当時の舞台装置の位置、すべてここに記録されている」


アキトは隣でドローン映像を操作し、波や潮の動きを拡大して解析する。

「レイ、ここ……桟橋下の流れ方、黒傘が意図した逆流と完全に一致してる」


机の上には、朱音のスケッチも広げられており、細い鉛筆線が過去と現在をつなぐ証人となっている。

安斎柾貴の低い声がイヤホン越しに響く。

『現場に残された痕跡から、仕掛けの全体像が読み取れる。これを使えば、黒傘の心理パターンも推測できる』


玲は息を吐き、写真と映像、スケッチを順に見比べながら過去の舞台心理と現実の仕掛けを統合していく。

「……なるほど。20年前の意図が、ここでようやく理解できる」


スペシャリストたちは無言でデータを分析し、古い舞台装置と現代の港構造をリンクさせる作業を続けた。

過去のトリックと心理的包囲の痕跡が、今、精密に再構築されようとしている。


【2005年・舞台袖/午後7:42】


黒傘は舞台袖の暗闇に身を潜め、壁際に掛かった古時計を見上げた。

秒針が刻む音とともに、港を模した舞台の波音がわずかに低く沈む。


彼の低い声が、暗がりに溶け込むように漏れる。

「潮が満ちた瞬間……幕は落ちる。」


観客席のざわめきも、舞台上の灯りの明滅も、黒傘には関係ない。

彼の意識は、舞台の水位、排水路の仕掛け、そして自ら設計した心理的包囲の全体像に集中していた。


舞台袖に残るわずかな湿気が、手袋の先を濡らす。

その指先で、鉄製レバーの感触を確かめ、次の動作を待つ。

――すべては、計算通りの幕開けのために。


【2025年・廃港二階/午前10:17】


机の上の古地図に、由宇が解析した光パターンがオーバーレイされる。

ディスプレイに映る赤と橙の脈動が、港の桟橋や周辺水路に正確に対応していた。


無線から詩乃の低い声が響く。

《あのパターン、海面に反射すれば肉眼で見えるわ。敵が位置を把握する前にこちらから視覚的干渉が可能よ》


玲は机の上の資料を指でなぞりながら考える。

「光の角度、潮位、桟橋の傾き……ここでの微調整がすべて結果に直結する」


アキトがそっと横で補足する。

「計算通りに行けば、黒傘の意図する水流や潮位のパターンを逆手に取れる。完全に心理的にも物理的にも優位に立てる」


卓上の模型とマップを用いて、二人は十五年前の舞台トリックと現代の港状況を照合しながら、次の行動を具体化していく。

まるで、過去と現在の因果を一つの戦略に組み込むかのように。


【2025年・廃港二階/午前10:35】


詩乃が端末を静かに閉じ、薄く笑みを浮かべた。

「十五年前の潮の音が、まだここに残ってる……奴はわざと再現してるのよ。」


由宇は視線を窓外に向け、遠くの鉛色の海を一瞥する。

「じゃあ――次は舞台のクライマックスだな。」


安斎は腕を組み、低く鋭く言い放った。

「その舞台の“幕”を降ろすのは、俺たちだ。」


玲は机上の資料に目を落とし、冷静に確認する。

「水位、光、潮位、すべてを計算通りに操作すれば、黒傘の作戦を逆手に取れる。準備は整った」


詩乃が軽く頷き、端末で最終設定を確認する。

「光の角度と潮位の微調整……完璧よ。過去と現代の因果を利用すれば、敵の心理すら掌握できる」


アキトは窓の外に目を走らせ、港全体の状況を俯瞰する。

「黒傘の仕掛けを物理的に崩すだけじゃない。心理的なプレッシャーも同時に与える。これが完全な二重攻防だ」


部屋の空気が一瞬引き締まる。

過去と現在、舞台装置と現場調査――すべてが一つの“戦場”として整列し、専門家たちの計算が静かに動き始めていた。


【2025年・廃港桟橋下/午前10:47】


海面下、錆び付いた鉄骨の間で、古い金属装置が低く唸りを上げる。

潮流を受けて回転する羽根車、その軸に取り付けられたシリンダーが、ひとつ、またひとつと赤く点灯する。


玲が水中用カメラを通して観察し、静かに報告する。

「軸の回転速度は想定通り。圧縮空気も準備完了……あとは解放のタイミングだけだ」


アキトが潮の匂いを感じ取りながら低く呟く。

「これが黒傘の仕掛けの正体か……完全に物理装置で心理を操る構造だ」


由宇がモニターの熱源マップを確認し、赤い点滅を指さす。

「解放時の圧力波が桟橋全体に伝わる。水位も同時に変化する。観測者に与える心理的プレッシャーは最大級だ」


詩乃は端末上で光と水流の連動シミュレーションを実行し、細かく調整を加える。

「過去と同じ波形で潮位を操れば、桟橋上の動きも完全に誘導可能。心理的包囲が完成するわ」


安斎は腕を組み、沈着に状況を整理する。

「これで、舞台の物理と心理の両面を制御できる。黒傘の意図を逆手に取るのは、今だ」


水中装置の低いうなりと、海底の砂の舞い――

専門家たちの解析と操作によって、過去の罠は現代の舞台装置へと進化し、桟橋上の戦場全体に静かな緊張を張り巡らせていた。


【2005年・港舞台袖/午後7:23】


黒傘は組み上げた装置に黒布を掛け、その上に掌をそっと置いた。

「……準備完了だ」


桟橋の手すりへ歩み寄り、雨粒に濡れながら港の向こうを見据える。舞台照明を受けた雨は銀糸のように降り注ぎ、港セット全体を静かに覆っていく。


舞台技師の吉岡が、袖の暗がりから小声で確認する。

「水位と照明、予定通り……これで観客への心理的圧力は最大化される」


黒傘は指先で雨粒を払うように触れ、低くつぶやく。

「観客の視線も、仕掛けも……すべて、ここに収束させる」


舞台監督の控え室から無線が小さく響く。

《安全確認済み。波音システムも同期完了》


黒傘は視線を港の遠景に戻す。

――その構図、その光と影は、二十年後の廃港で玲とアキトが直面する現実と寸分違わぬ、完全なる心理的舞台設計だった。


専門的観点からの解析が舞台袖で静かに進む。

舞台心理学と物理装置の連動、光と影の計算、観客の視線誘導……黒傘はすべてを想定し、意図的に操作していた。

その全てが、過去と未来を結ぶ“仕掛け”として、今、静かに待機していた。


【2025年・廃港桟橋/午前10:47】


「……今、動いたな」

玲は耳を澄ませ、足元から伝わる微かな振動を感じ取る。


アキトが即座に端末を操作し、画面を玲に向ける。

「桟橋下……温度が急上昇してる。装置が作動してる!」


低く唸る海中の振動が桟橋全体に伝わり、欄干の間から冷たい潮が勢いよく噴き上がる。

飛沫が二人の頬を濡らし、銀色の雨粒のように空中で砕けた。


安斎が無線越しに低く告げる。

『玲、気を抜くな。水圧の変動が予想以上だ。構造を誤れば桟橋自体が危険だ』


玲は潮風と水しぶきの中で視線を前方に据え、冷静に判断を下す。

「……単なる潮の流れじゃない。過去の舞台と同じパターンだ、誰かが仕掛けてる」


成瀬由宇が端末上の3Dマップを回転させ、赤く点滅する装置箇所を指でなぞる。

「羽根車の回転速度とパルスのタイミング、潮位の上昇……すべて再現されている。精密すぎる」


詩乃が静かに分析を加える。

「この装置、当時の舞台トリックをほぼ完全にコピーしている。潮流・水圧・温度……心理的効果まで考慮しているわ」


玲は深呼吸し、アキトと互いにうなずく。

「よし……仕掛けを逆手に取ろう。20年前の黒傘の意図を理解するんだ」


専門家視点での解説として、桟橋下の装置は海中の水圧を利用した水流制御システムで、羽根車・シリンダー・温度変化センサーの連動により局所的に潮流を操作可能。

これにより、物理的な脅威と心理的圧迫を同時に発生させることができる。

玲とアキトは、この仕組みを理解しつつ、現場で即応策を検討していた。


【2025年・廃港付近道路/午前10:52】


成瀬由宇が運転席でハンドルを握り、目を鋭く走らせる。

「潮風が強くなってきた……桟橋周辺は油断できない」


助手席の桐野詩乃が端末を操作しながら答える。

「気温、湿度、風速……すべて20年前の夜の条件と酷似してるわ。黒傘の心理操作トリックが再現される可能性が高い」


安斎柾貴は後部座席で腰を浮かせ、双眼鏡で港方面を観察する。

「奴は地形と潮のパターンを熟知してる……海の上での攻防は、水圧と視覚トリックを巧みに組み合わせるはずだ」


玲が無線で朱音に指示を出す。

「朱音、現場付近の安全確認。桟橋への侵入経路をマッピングしてくれ」


アキトが助手席で地図アプリを指でなぞりながらつぶやく。

「……やっぱり20年前と同じルート。黒傘はこの港全体を舞台装置のように使ってる」


専門家視点での解説として、この車列は影班による前線監視と緊急対応の布陣。

黒傘の装置や心理トリックは、水位・潮流・視界の条件を緻密に計算しており、リアルタイムで状況を把握する必要がある。

車内の端末と双眼鏡、無線連携を駆使して、玲たちは再現された“20年前の舞台効果”を解析し、即応行動の準備を進めていた。


【2005年・港舞台/午後7:43】


黒傘は桟橋の先端に立ち、耳に届く潮の音に集中する。

「……水位はほぼ想定通り。」彼の低い声が夜風に溶けた。


板の隙間から噴き上がる飛沫が靴先を濡らす。黒傘は片足を軽く動かし、水の冷たさを確認する。

「これで演出の臨場感は完璧だ……観客には気づかれないだろう」


舞台袖のスタッフがひそひそ声で話す。

「……あの仕掛け、止められますか?」


黒傘は振り向きもせず、僅かに口元を上げて答える。

「止める必要はない。すべて計算済みだ。」


【2025年・廃港/午前10:42】


影班の車列が港の入口を抜ける。

フロントガラス越し、桟橋をかすめるように海鳥が低く鳴く。


安斎はハンドルを握ったまま低く呟く。

「……来たな。満潮まであと三分だ。」


玲が助手席で端末を操作し、潮位計の数値を確認する。

「水位が急激に上がってます。あの装置の影響だ……」


アキトが無線越しに影班へ声をかける。

「由宇、詩乃、準備はいいか?黒傘の仕掛けはほぼ水位制御に依存している。」


【2025年・廃港/午前10:45】


玲は潮が桟橋の板を叩く低い音に耳を澄ませ、靴底に伝わる振動を感じ取る。水面は静かに、しかし確実に上昇しており、板の隙間から霧のように吹き上がる海水が、二人の足元を濡らしていた。


「……この潮位だと、黒傘のトリックが完全に作動してる。」玲は低くつぶやき、視線を海面に走らせながら周囲を警戒する。


アキトが端末を手に画面を指でなぞり、水流のパターンを確認する。

「水流の向き、勢い……完全に一致。舞台の時と同じだ。黒傘はこのタイミングで全てを計算している。」


安斎は欄干に手をかけ、海面の揺れを目で追いながら短く言い放つ。

「あと一分で最大水位だ。装置が完全に作動すれば、桟橋は制御不能になる。逆流トリックを仕掛けるなら、今しかない。」


詩乃が端末のマイクに向かって低く告げる。

「皆、位置について。私が逆流パターンを展開する。黒傘の想定外の動きを作り出すわ。」


玲は息を整え、アキトと互いに目配せを交わす。水面に映る自分たちの影が、動くたびに揺れる。桟橋全体が、一つの巨大な舞台装置のように呼吸しているかのようだった。


「……来るぞ。」アキトが低くつぶやく。

霧に混じった冷たい潮風が顔を撫で、港全体を包む重苦しい空気が、二人の神経をさらに研ぎ澄ます。

「最大水位での衝撃と水流の変化を予測して、全員の動きを合わせるんだ。」玲が指示を出す。


静寂と波音の交錯する空間で、影班の連携が息を合わせ、十五年前の舞台で黒傘が計算した水門トリックに、現代の意志が逆流として反撃を仕掛けようとしていた。


【2025年・廃港/午前10:48】


《潜入開始。》安斎の低い声がイヤモニ越しに響く。


玲は瓦礫を踏みしめながら、桟橋の隙間から水面下の空間を見下ろす。微かな水の揺れと潮の匂いが、緊張感を増幅させる。


「ここからは完全に音を立てずに進む。」玲が低くつぶやき、アキトと目を合わせる。


海面が小さく割れ、冷たい飛沫が二人の顔を濡らす。

「水流は予想通り……だな。」アキトが端末で水圧と流速を確認しながらつぶやく。


影班のメンバーたちも同時に桟橋下へ潜り込む。由宇は端末で水中の障害物をスキャンし、詩乃は逆流装置の展開準備を進める。


「全員、位置についたか?」安斎が短く確認する。


玲は頷き、冷たい水に手を浸しながら慎重に前進する。水中に響く小さな泡の音が、まるで水底の舞台で観客の視線を受けるかのように重なる。


「……ここで仕掛けを逆手に取る。黒傘の想定外の動きを引き出す。」玲の言葉に、影班全員が気を引き締める。


海面下の薄暗闇に、十五年前の舞台装置の痕跡と、現代の精密な操作が同時に存在する。冷たい水の流れの中で、過去と現在の因果が交錯し始めた。


【2025年・廃港/午前10:52】


玲は潜水マスク越しに支柱の間を覗き込み、口元の呼吸管から水泡を静かに吐き出す。

「……見ろ、あの構造物。あの羽根車、回転してる。」玲の声がイヤモニ越しに届く。


アキトが隣で手元のタブレットを操作し、海中映像を拡大表示する。

「センサーの反応も一致……2005年の設計通りだ。」


由宇は水中ライトを微妙に振り、暗がりの装置の輪郭を照らす。

「圧縮空気の解放タイミングも完璧だ……奴は想定外のタイミングで逆流を作動させるつもりだな。」


詩乃は冷静に逆流弁の位置を確認し、慎重にロック解除を指示する。

「ここで逆に流れを変えれば、黒傘の計算が狂う。」


安斎が低く一言。

「各自、潜行ルートを維持。流れを読め。」


水中の金属装置が低く唸り、薄暗い水面下に赤く点滅する警告灯の光が瞬く。

玲は拳を軽く握り、水流の方向と羽根車の回転を頭の中で瞬時に計算する。

「よし、ここからが本番だ……」


【2025年・廃港/午前10:57】


玲の警告が海中にこだまし、影班は瞬時に距離を取る。

アキトが水流に逆らいながら手元のタブレットを凝視する。

「センサー反応……不規則な熱源が急上昇してる。黒傘の仕掛けだ!」


由宇はライトを振り、揺らめく銀色の影の正体を確認する。

「羽根車が想定外の角度で回転してる。潮流が逆流してる……こいつ、狙い通りには動かさないつもりだ。」


詩乃は潜水グリップを握り、手元の配管バルブを操作する。

「逆流弁を開く……水圧が下がれば、流れをこちらに変えられる。」


安斎は低く指示する。

「全員、潮流を読め。装置が動く瞬間を予測するんだ。」


海中の金属装置が唸り、微細な振動が体に伝わる。

玲は瞬間的に状況を整理し、息を整える。

「位置取りはそのまま……ここから逆手に取る。」


冷たい水の中で、影班と玲たちの呼吸が緊張で重く響く。

水面下で赤く点滅する装置の警告灯が、静かに二つの時間を結ぶ合図のように揺れた。


【2025年・廃港二階/午前11:23】


玲は封筒の紙片を机の上に広げ、指先で光の線を追う。

「これ、全体が一種の光通信パターンになってる……20年前の舞台装置が発していた信号の記録だ。」


アキトが覗き込み、端末に取り込まれた写真と照合する。

「なるほど……光の強弱と間隔が、あの水門や羽根車の作動タイミングにリンクしてる。」


由宇は3Dマップ上で桟橋と舞台装置の配置を確認しながら言う。

「このパターン、光の指示に従って水流や音響を制御していた。見た目以上に緻密なトリックだ。」


詩乃は紙片を慎重に傾け、光の反射を観察する。

「光の角度や反射点を計算してる……誰も想定していない視点から、観客も舞台も心理操作されていたのね。」


玲は深く息をつき、紙片を揺らすように動かす。

「これがあれば、当時の装置の意図も、黒傘の心理も、かなり正確に再現できる。」


全員の視線が紙片に集まり、過去と現在をつなぐ“光の設計図”の意味を静かに理解する。


【2005年・港舞台桟橋/午後8:12】


黒傘の声が潮風にかき消されそうになりながらも、港の夜気に溶け込む。

「計画は完璧だ。港は、もう――我々の手の中だ。」


影班の一人が、桟橋下の水門に目をやりながら低く答える。

「水位は予定通り上昇中。次の合図で流れを完全に制御できます。」


別の影が木製の梁を軽く叩き、装置の動作確認をする。

「羽根車も正常。光信号のパターンは完全に同期しています。」


黒傘は静かに傘を閉じ、滴る水が木板に小さな輪を描くのを見守る。

「観客は何も気づかない……すべては我々の計算通りだ。」


暗闇の中で、影たちは互いに視線を交わし、無言のまま次の動作に備える。

港全体が、音もなく、しかし確実に彼らの手の中で動き出していた。


【2025年・廃港桟橋下/午前10:47】


玲は無線機に向かい、低く、しかし確実な口調で指示を送る。

「由宇、詩乃、安斎、桟橋の下を重点的に捜索しろ。装置の全容を把握して、破壊が最優先だ。当時の影班の足取りも忘れるな。」


成瀬由宇は端末の地図を見つめながら応答する。

「了解。熱源パターンと水流跡を追跡し、装置の位置を特定します。」


桐野詩乃は水中ライトを点灯させ、慎重に水底を照らす。

「金属構造物と配管の接続部を中心に捜索します。異常反応があれば即報告。」


安斎柾貴は潜水具のゴーグルを調整し、息を整えながら低く呟く。

「……時間との勝負だな。逆流や圧力の変化に注意しながら進む。」


玲は深呼吸を一度行い、仲間たちの準備を確認する。

「各自、慎重に。しかし確実に。あの夜の港と同じ動きが、今もこの場所に残っている。」


玲たちは、潮の匂いと冷たい水流に包まれながら、廃港の舞台装置を解体するために潜行を開始した。


【2025年・廃港桟橋下/午前10:52】


影の一人が崩れ落ちると同時に、低く抑えた水音が連続して響いた。

闇の奥から、さらに二つの気配が動く。


由宇は体勢を崩さぬまま、床材代わりの鉄骨を蹴って位置をずらす。

視界の端で、相手の肩越しに走る緊張を読み取った。


「……遅い。」


短剣の柄で鳩尾を打ち抜き、相手の呼吸を断つ。

衝撃音は、潮騒に溶けて消えた。


その瞬間、別方向から伸びた手首を、詩乃が正確に掴む。

関節の可動域を超えた角度へ捻り上げ、低い音とともに武器を落とさせた。


「動線が甘いわ。十五年前と同じ癖。」


囁きは冷たく、しかし感情を含まない。

男は声を上げる前に、詩乃の肘が頸動脈を圧迫し、静かに沈んだ。


無線が一瞬だけ開く。

安斎の声が、波の低音に重なる。


《左舷側、金属フレーム裏に二名。呼吸が乱れてる。――元影班だな》


由宇は即座に返す。

「了解。心理的包囲に入る。」


由宇が足音をあえて一歩だけ鳴らす。

わざとらしいほど、わずかに。


闇の中で、敵の呼吸が止まる気配が伝わってくる。

“見られている”という錯覚が、彼らの動きを縛った。


その隙を、安斎が逃さない。

背後から一気に距離を詰め、体重を乗せた制圧動作で地面に押さえ込む。


「……過去に縋る奴は、動きが単調だ。」


安斎の声は低く、短い。

抵抗は、ほとんどなかった。


詩乃は周囲を一瞥し、ゆっくりと息を整える。

「制圧完了。残敵反応なし。」


由宇は短剣を収め、装置が唸る方向へ視線を向ける。

鉄骨の向こうで、かすかに赤いランプが明滅していた。


「――次は、舞台装置だ。」


その言葉に応えるように、遠くで海中装置が低く鳴り、

十五年前の“第四幕”が、再び動き出そうとしていた。


【2005年/2025年・廃港桟橋先端/舞台港セット・視線リンク】


――2005年。

黒傘は、わずかに顎を引いたまま、独り言のように呟いた。

「……見ているな。まだ名もない観客が。」


その声は潮騒に溶け、舞台照明の死角へと吸い込まれる。

舞台袖の奥、誰にも気づかれぬ位置で、彼は確信していた。

この港は“今”だけのものではない。

未来に再び踏み入る者がいる――それも、偶然ではなく。


黒傘はポケットの中で指を鳴らし、合図とも取れぬ仕草を残す。

その瞬間、舞台上の波音が、ほんのわずかだけ低く変調した。


――2025年。

玲は胸の奥に走った微細な違和感を無視できず、足を止める。

「……今、誰か……」


無線が一瞬、沈黙した。

その静寂を破るように、低く落ち着いた声が割り込む。


《玲、その反応……視覚的な錯覚じゃないわ》

御子柴理央だった。

古地図と脳波同期ログを照合しながら、淡々と続ける。


《2005年の舞台記録、黒傘の立ち位置と、あなたの現在位置が完全に一致してる》

《空間記憶の“重なり”が起きてるの。あなたは今、彼が“想定した観測点”に立っている》


玲はゆっくりと息を吐いた。

「……つまり、あいつは」


《ええ》理央は即答する。

《未来に“見返される”ことを前提に、あの夜の舞台を組んだ》


そのとき、桟橋の向こうで海鳥が三度、低く鳴いた。

過去と現在の境界が、ほんの一瞬だけ薄くなる。


玲の背後に、気配が生まれる。

だが振り返っても、そこにいるのは風と闇だけだ。


「……黒傘」

玲は名を口にし、静かに言った。

「舞台は、もう終わってる」


無線の向こうで、安斎が短く息を吐く。

《……いや。違うな、玲》

《これは“再演”だ。観客が変わっただけだ》


潮が桟橋を打ち、波音が重なる。

十五年前に仕組まれた視線は、確かに今、回収されつつあった。


【2025年・23時41分

旧港湾地区/桟橋下・海中】


ライトの円がゆっくりと揺れ、錆びた外装の奥に刻まれた溝が浮かび上がる。

それは偶然の腐食ではなかった。

一定の間隔で刻まれた刻線――光を受ける角度によって、信号のように明滅する。


玲は息を整え、無線を開く。


「……見えた。外装に刻線がある。舞台照明用じゃない、意図的な反射コードだ」


水中で泡が弾け、少し遅れて安斎の声が届く。


『やはりな。2005年の舞台照明ログと一致するはずだ。由宇、確認できるか』


少し離れた位置で、成瀬由宇が無音で身振りを返す。

彼のライトが刻線をなぞり、端末の表示が切り替わった。


「一致率、九三パーセント。……これは“視線誘導用”だ。観客じゃない。舞台袖、もしくは――」


由宇は一瞬、言葉を切る。


「――水面下の人間に向けたコードだ」


その言葉に、玲の胸の奥で何かが噛み合う音がした。


「黒傘は……舞台の上だけを見せてたわけじゃない。

水の下にも“役者”を置いてた」


そのとき、別のライトが静かに重なった。

白に近い、やや拡散した光。


桐野詩乃だった。

彼女は装置の側面に手を伸ばし、慎重に付着物を削ぎ落とす。


「塩分反応、問題なし。けど……このシリンダー、ただの圧縮装置じゃないわ」


詩乃は小型センサーを差し込み、数秒待ってから告げる。


「心理誘導用の遅延装置。

潮位、音、光――全部を“同時に起こさない”ためのタイマーよ」


玲は一瞬、目を閉じた。


「……観客の認知を、ずらすためか」


『違う』と、安斎が即座に返す。

『役者と裏方の認知を分断するためだ。

誰が、いつ、何を見たか――それを食い違わせる』


水中で、低い唸りが一段階、弱まった。


その変化に、アキトの声が割り込む。


『玲、装置の回転数が落ちてる。誰かが、停止工程に入ってるぞ』


玲はライトを振り、周囲を見渡す。

暗緑の水の中、ゆっくりと浮かび上がる影があった。


人影――ではない。

かつて人が立っていた“位置”の名残。

足場、手すり、合図灯。


「……十五年前の配置だ」


その瞬間、玲の脳裏に、記録ではなく“感覚”がよみがえる。

九歳の頃、意味も分からず見ていた舞台。

雨、光、港、そして――説明できない緊張。


「黒傘は、舞台を使って未来に信号を残した。

見つけられる人間が、必ず現れると信じて」


詩乃が小さく笑った。


「随分と演出家気取りね。でも――」


彼女は装置の最奥、黒布に覆われた部分を指差す。


「クライマックスは、まだよ」


布の下から現れたのは、封印された手動レバー。

表面には、かすれた文字が残っていた。


――第四幕、観測者入場。


玲は静かに呟く。


「……ようやく、舞台に立てってことか」


無線の向こうで、安斎が低く応じた。


『ああ。

そして今回は――観客じゃない』


海中で、ライトが交差する。

影班全員が、同じ装置を、同じ角度で見つめていた。


十五年前に仕掛けられた舞台は、

今この瞬間、ようやく“続き”を演じる準備を整えたのだった。


【2025年・夜/港近く・臨時地図室】


重く濡れた金属音が、地図室の床にもう一度響いた。

引き上げられた装置は床に横たえられ、ライトを浴びて鈍い光を返している。

錆と海藻をまとった外殻、その隙間から覗く歯車と配線は、明らかに舞台用の規模を超えていた。


玲は濡れた手袋を外し、装置を見下ろす。

「……十五年前の“演出”じゃない。これは、最初から現実を動かすための構造だ」


その隣に、静かに歩み寄る影があった。

御子柴理央。

中性的な輪郭の顔立ちに、淡い光を映す灰色の瞳。

無駄のない動きで手袋を外し、細い指先で装置の表面をなぞる。


「舞台装置に偽装した、潮流干渉機構だね」

声は低すぎず高すぎず、どこか温度のない響きだった。

「羽根車、圧縮槽、光信号発信部……全部、心理誘導と同期してる」


アキトが眉をひそめる。

「同期?」


理央は古地図と舞台配置図を重ね、端末を操作した。

二つの図面が透過され、ひとつの形に重なる。


「観客の視線。役者の動線。音響のピーク。

 その“感情が最大化される瞬間”に、潮位と光が変化するよう設計されてる」

一拍置き、静かに続ける。

「つまり――人の心を合図に、港そのものが動く」


室内が、わずかに静まり返った。


安斎が腕を組む。

「黒傘は、そこまで読んでたってことか」


理央は肯定も否定もせず、装置の中央部を指した。

「ここ。封筒に残ってた光信号と一致する。

 十五年前、舞台で発信されたコードは……“再演”のための合図だ」


玲の脳裏に、桟橋で感じた振動と、海鳥の声がよみがえる。

「じゃあ、今回の満潮も――」


「ええ」

理央は視線を上げ、玲をまっすぐに見た。

「黒傘は幕を閉じたんじゃない。

 “次の観客”が現れるのを、待ってただけ」


その言葉に、朱音のスケッチブックがふと机の端で揺れた。

描かれた港の線が、まるで今も呼吸しているかのように。


アキトが小さく息を吐く。

「……俺たちが、第四幕の登場人物ってわけか」


玲はゆっくりとうなずいた。

「違う。――幕を終わらせる側だ」


理央は淡く微笑んだ。

その表情は性別も年齢も曖昧で、ただ“解析者”としての静けさだけを宿している。


「なら、急ごう」

彼は端末を閉じ、装置に布をかけた。

「この舞台、まだ終わってない。

 でも――終わらせ方は、僕たちが選べる」


外では、雨が再び降り始めていた。

十五年前と同じリズムで。


【2025年・深夜/廃港桟橋・支柱下】


支柱に伝わる振動が、詩乃のブーツ越しに脈打つ。

由宇が地面に伏せた二人から距離を取り、即座に周囲を制圧する。


「退路、確保。増援はまだ来ない」


その声に重なるように、無線が短く鳴いた。

《水流ベクトル、解析完了》


中性的な低い声。

御子柴理央だった。


《自然潮流じゃない。羽根車の回転位相が意図的にズラされてる。共振点を作って、支柱ごと揺らしてる》


詩乃は片手で固定具を押さえ、もう片手で海中を睨む。

「……舞台の“波”と同じ理屈ね。恐怖を増幅させるための揺れ」


由宇が支柱の陰に身を沈め、視線を巡らせる。

「壊せば止まるか?」


《即時破壊は逆効果。圧縮槽が生きてる。今切れば、噴き上がる》


理央の声は冷静だったが、わずかに呼吸が早い。

机上ではなく、現場の緊張を共有している証拠だった。


詩乃が歯を噛みしめる。

「じゃあ、殺す前に眠らせる」


彼女は固定具のロックを半段階だけ戻し、揺れの位相に合わせて装置を“逃がす”。

振動が一拍、遅れて減衰した。


由宇が短く頷く。

「今だ」


《そのまま三十秒。……いい、聞いて。》


理央の声が一段落ちる。


《十五年前の舞台記録、照合できた。黒傘は“完全停止”を狙ってない。観客に悟られない“終わり方”を作った。だから――》


詩乃が即座に理解する。

「止めない。幕を降ろす」


支柱の揺れが、嘘のように静まっていく。

海面の渦がほどけ、泡が散り、ただの夜の港へと戻っていった。


由宇が息を吐いた。

「……終演だな」


無線の向こうで、理央が小さく笑う。

《ええ。拍手は、いらない》


遠くで海鳥が一声、低く鳴いた。

それはもう、合図ではなかった。

ただの夜の音だった。


【2005年・22:41/港を模した舞台・桟橋セット裏】


黒傘の歩みは静かだった。

足音は舞台裏の雑踏と雨音に完全に紛れている。

濡れた木板の感触を確かめるように、一歩ごとに重心を預け、彼は桟橋下へ続く狭い昇降口の前で立ち止まった。


背後で、波音SEがわずかに強まる。

舞台技師が意図的に上げたものではない。

黒傘はそれを聞き分け、唇の端をほんのわずかに動かした。


「……潮位、予定通りだ」


暗がりから、低く抑えた声が応じる。

桟橋構造を専門に設計した舞台機構士――水理と荷重計算に精通した男だった。


「水門、第一段階クリア。浮力制御、安定してます」

「観客席には?」

「異常なし。波音に完全に溶けてます。気づく者はいません」


黒傘は視線を上げ、舞台上の“港”を一瞥する。

赤いドレスの女優が、光の中で静止している。

観客の視線はすべて彼女に注がれ、桟橋下の世界には誰一人として意識を向けていない。


「いい舞台だ」

そう呟き、黒傘は昇降口の影へと身を沈めた。


梯子を降りると、そこは舞台装置の心臓部だった。

水槽、配管、圧力制御弁。

そして、黒布を被せられた例の装置。


水理担当のスペシャリストが、計器を指差す。

「潮位があと三十センチ上がれば、第二幕と同じ流れを再現できます」

「再現じゃない」

黒傘は即座に訂正した。

「これは“記憶に残す”ための動きだ」


男は息を呑み、頷いた。


黒傘は黒布をめくり、装置の表面に刻まれた溝を指でなぞる。

舞台照明が反射する角度、雨粒が落ちる位置、観客の無意識が“危険”と誤認する瞬間。

すべてが計算され尽くしている。


「ここで、水を動かす」

「了解。合図は?」

黒傘は一瞬、何かを聞くように耳を澄ませた。


――遠くで、海鳥の鳴き声。


それを合図に、彼は小さく頷いた。


「今だ」


低い唸りとともに、装置が動き出す。

舞台上では、誰もそれを“仕掛け”だとは思わない。

ただ、異様なほどリアルな港の夜として、記憶に刻まれるだけだ。


黒傘は闇の中で立ち尽くし、静かに息を吐いた。


「幕は、まだ落ちない」

その声は、波音と雨音に溶け、

20年後の港へと、確かに流れていった。


【2025年・深夜/廃港・桟橋下 海中】


泡がゆっくりと横へ流れた。

さきほどまで真下に立ち上っていた気泡が、何かに引かれるように斜めへ逸れていく。


『……違う。逆流してる』

詩乃の声は落ち着いていたが、無線越しに緊張が滲んでいた。

『自然の潮じゃない。装置が“切り替わった”』


玲は水中ライトを振り、支柱の根元を照らす。

羽根車の回転が、先ほどよりも緩やかに、しかし確実に方向を変えていた。


『理央、聞こえるか』

玲が呼ぶ。


少し間を置いて、柔らかく中性的な声が応えた。

『見えてるよ。流速データ、今投げる』


視界の端、ゴーグル内ディスプレイに青白いラインが重ねられる。

海中の流れが、線となって可視化されていく。


『……二層構造だ』

御子柴理央の声は静かだった。

『表層は満潮に合わせた自然流。でも下層――装置の周囲だけ、人工的に“溜め”が作られてる』

一拍置き、続ける。

『十五年前と同じ。心理的には「静まった」と錯覚させてから、一気に動かす構造だ』


アキトが息を詰める。

『じゃあ、次に来るのは……』


『放出だね』

理央は淡々と言った。

『圧縮空気と水圧を同時に抜く。桟橋全体が“浮く”』


その瞬間、装置の奥で低い振動が走った。

金属が鳴る、鈍く、腹の底に響く音。


『来る!』

詩乃が支柱に体を寄せ、固定具を締め直す。

『由宇、今なら止められる!』


由宇は一瞬も迷わず、装置の影へ滑り込んだ。

水流が一気に強まり、身体を引き剥がそうとする。


『……黒傘は、ここまで計算してた』

玲が呟く。

20年前の舞台。

観客に見せない“間”と“溜め”。


『でも』

玲は前を見据えた。

『幕を降ろすのは、今度は俺たちだ』


無線に、安斎の低い声が割り込む。

『全員、カウントに備えろ。放出まで――十秒』


海中で、装置のランプが赤く、ひとつ、またひとつと点灯していく。

闇の中、20年前と同じ鼓動が、再び動き出していた。


【2025年・夜/廃港・桟橋直下】


ワイヤーの悲鳴と同時に、詩乃の身体が水流に煽られた。

白泡が視界を覆い、ライトの光が乱反射する。


「詩乃!」

玲の声が水中通信に割り込む。


《大丈夫。固定点が削られただけ……でも、内部が動いてる》

詩乃の声は落ち着いていたが、その背後で低周波の唸りが一段階、重くなった。


由宇が支柱の影から滑り出る。

短剣を収め、代わりに掌サイズの測定端末を展開した。


「回転数が上がってる。羽根車だけじゃない……二重構造だ。内側に、もう一つ駆動核がある」


《だから潮が“切り替わった”のね》

詩乃が即座に理解する。

《外洋と港内、流向を交互に反転させてる。舞台用じゃない……完全に実用レベル》


そのとき、安斎の低い声が入った。

《玲、装置の外殻に刻印がある。2005年の舞台会社の登録番号……だが改造痕が新しい》


「黒傘が残した“完成形”か」

玲は装置の影に手を伸ばし、冷たい金属に触れた。

指先に、かすかな振動――まるで心拍のような周期。


そこへ、後方支援艇から理央の通信が入る。

《構造解析、完了。シリンダーは圧縮空気じゃない……水圧共鳴型。起動条件は“満潮+負荷”》


中性的な声色が、水中でも不思議と明瞭だった。


《止めるなら、今。核を外せば連鎖は止まる。ただし――》

一拍置いて、理央は続ける。

《固定を失えば、装置ごと沈む》


詩乃が短く息を吸う。

《沈める。十五年前と同じなら……それが一番、確実》


由宇が一瞬だけ視線を玲に向ける。

その目は問いではなく、確認だった。


玲は頷く。

「やれ。幕は――ここで終わらせる」


詩乃がワイヤーを切り替え、逆方向にテンションをかける。

金属が軋み、装置全体が傾いた。


次の瞬間、重力に引かれるように巨大な影が沈み始める。

泡が渦となり、海底の闇が口を開ける。


《離脱!》

安斎の号令と同時に、影班は一斉に後退した。


沈みゆく装置の奥で、最後に一度だけ、低い唸りが鳴った。

それはまるで――遠い舞台で、幕が落ちる合図のようだった。


水面に浮上した玲は、荒い息のまま港を見渡す。

雨は止み、海鳥の声もない。


ただ、潮だけが静かに満ちていた。


【2025年・23時41分】

港跡地・仮設解析拠点(旧倉庫二階)


防水ケースの留め具が外れ、湿った空気の中で小さく乾いた音がした。

アキトが息を詰めたまま、記録媒体を端末に差し込む。


「……来るぞ」


画面が一瞬暗転し、次の瞬間、粗いノイズの向こうに“港”が現れた。

照明の角度、雨の落ち方、波音のリズム――すべてが既視感を伴って迫ってくる。


玲は画面から目を離さない。

「二十年前だ。舞台の映像……いや、違う」


横から、静かな声が割り込んだ。

御子柴理央だった。中性的な顔立ちに、感情の揺れを映さない眼差し。

彼は手元の解析パネルを操作しながら、淡々と告げる。


「これは舞台映像じゃない。舞台“装置”の内部記録だよ。

照明制御、排水バルブ、音響トリガー……全部が一つのタイムコードで同期してる」


画面の隅、秒数表示が不自然に跳ねた。

その瞬間、別の映像が割り込む。


――暗い桟橋の下。

水面すれすれに設置された金属装置。

そして、手袋をした手が、最後のレバーを押し込む。


アキトが息を呑む。

「……黒傘」


理央は小さく首を振った。

「顔は映ってない。でも、癖がある。

操作の間合い、確認の視線、わざと一拍置く指の動き……

舞台心理を知ってる人間だ。観客の“呼吸”を読むタイプ」


玲は拳を握り締める。

「二十年前、ここで終わったはずの幕を……まだ続けてる」


無線が低く鳴り、海上から由宇の声が届く。

《装置の第二系統を確認。まだ生きてる。止めるなら今だ》


詩乃の声が続いた。

《潮位、再上昇する。猶予は三分》


玲は即座に判断する。

「理央、コードの核心を抜き出せ。

アキト、バックアップを三重に。

二十年前の“第四幕”――ここで終わらせる」


画面の中、二十年前の港で、レバーが最後まで倒される直前で映像は止まった。

まるで、こちらの出方を待つかのように。


理央が、ほんのわずかに口角を上げる。

「……面白いね。

過去は、ちゃんと現在を見てる」


倉庫の外で、再び波が桟橋を叩いた。

その音は、二十年前と同じリズムで、確かに鳴っていた。


【2025年・22時41分

廃港桟橋・沖合】


海鳥の鳴き声が、低く湿った空気を震わせた。


由宇の呼吸が、一瞬だけ止まる。

波間に揺れる黒い輪郭は、確かに“人の形”をしていた。

フードも、傘もない。だが、その立ち姿だけで、記録に残る男と一致してしまう。


「……錯覚だ。光の反射に過ぎない」


そう言い聞かせるように呟き、由宇は短剣を握り直す。

しかし次の瞬間、無線がかすかに鳴った。


《由宇、見えてる?》


玲の声だった。

水中マイク越しでも、声色に迷いがない。


「……見えてる。だが実体は確認できない」


影は、波の上下に合わせて揺れ、やがて水面と完全に同化する。

まるで、最初から“そこに存在しなかった”かのように。


詩乃が、支柱に体を預けたまま周囲を見渡す。

濡れた前髪の隙間から、冷静な紫の瞳が動いた。


「視覚誘導ね。光信号と潮位、それに人間の記憶を重ねてる。

 二十年前の舞台と、今の港を――意図的に」


安斎が低く息を吐く。


「黒傘はここにいない。だが、“演出”は残ってる。

 俺たちは、用意された幕の上に立たされてるってわけだ」


そのとき、玲の手元の防水ケースが小さく震えた。

アキトが回収した記録媒体が、内部で自動起動を始めている。


《……再生、始まります》


アキトの声に重なり、ノイズ混じりの音声が流れ出す。

古いマイク、遠くの波音、そして――聞き覚えのない、低い男の声。


『潮が満ちたら、視線は必ず集まる

 人は、水と闇に抗えない』


玲は、息を詰めた。


それは記録であり、同時に――宣言だった。


御子柴理央が、地図室から即座に割り込む。

中性的で淡々とした声が、状況を一段冷やす。


《光パターン、完全一致。

 二十年前の舞台照明コードと、今の海面反射データが同期してる》


「つまり――」


玲が言葉を継ぐ。


「黒傘は逃げたんじゃない。

 最初から、“残る”つもりだった」


海は再び静まり、泡も消えていく。

桟橋の下には、停止した装置と、回収された証拠だけが残った。


だが誰も、安堵はしなかった。


十五年前、幕は一度下りた。

そして今――第四幕は、確かに終わった。


それでも。


潮の匂いの奥で、まだ“観客席”が息を潜めている。

そんな感覚だけが、夜の港に残り続けていた。


【2005年・舞台裏/港セット下部】


水門の開閉レバーが、ゆっくりと最終位置へ倒れ込む。

金属同士が擦れ合う鈍い音は、上階で鳴り響く拍手と音楽に完全に飲み込まれていた。


潮位計の針が、赤い目盛りを越える。

一拍、遅れて――

沈降用の重りが外れ、黒い水中へと落下した。


ごぽり、と空気が押し出される音。

それを合図に、桟橋下の装置が連動する。

羽根車が回転を速め、配管を通って水が送り込まれ、港セット全体の水位が、ほんの数センチずつ上昇していく。


舞台監督席のモニターには、何事もないかのように華やかなダンスシーンが映っていた。

誰一人として、舞台の“下”で進行する第二の演出に気づいていない。


暗がりで、操作盤の前に立つ影がひとつ。

黒傘だ。


彼は計器類に視線を走らせ、わずかに頷く。

「……予定通りだ」


その声は、波音SEの低音に溶け、誰の耳にも届かない。

黒傘は指先で、最後のスイッチカバーを閉じた。


カチリ。


その瞬間、舞台上ではクライマックスの照明が焚かれ、観客席からひときわ大きな拍手が巻き起こった。

歓声と喝采。

だがその下で、港は確実に“完成”へと近づいていた。


黒傘は背後を振り返らない。

すでに、次の幕のことしか見ていなかった。


――この舞台は、今夜で終わらない。

ただ、記憶として沈むだけだ。


そう確信するように、彼の足音は再び闇へと消えていった。


【2025年・深夜】


場所:旧港湾地区・木造ビル二階 地図室


潮騒の残響が、まだ耳の奥に貼り付いている。

モニターの光だけが室内を照らし、壁一面の古地図に淡い影を落としていた。


御子柴理央は、椅子に腰掛けたまま、静かに映像の最終フレームを止める。

中性的な横顔に、感情の起伏はほとんど見えない。

だが、指先だけがわずかに震えていた。


「沈没じゃない」

理央は淡々と口を開く。

「“沈没させられる構造”を、舞台の裏で完成させていた。水門、重り、潮位同期……全部が連動してる」


アキトが眉をひそめる。

「観客が拍手してる間に、港そのものを殺す準備を?」


理央は頷き、別のデータを呼び出す。

「20年前の潮汐データと、今日の満潮時刻。完全に一致してる。黒傘は――」

一拍、言葉を切る。

「“再演”を前提に仕込んでいた」


玲は地図の前に立ったまま、古地図と現在のドローン映像を重ねて見ていた。

桟橋、倉庫、支柱。

全てが、あの夜の舞台装置と同じ配置だ。


「観客は、街だった」

玲は低く呟く。

「あいつは最初から、現実を舞台にするつもりだった」


無線が短く鳴る。

詩乃の声が、少し荒れた呼吸と共に入った。

《装置は完全停止。残圧も抜けたわ。でも……》


「でも?」由宇が即座に返す。


《仕掛けの“核”が一つ足りない。記録媒体とは別に、もう一段階――》


理央が画面を切り替え、静かに言った。

「“合図役”だ。水位でも装置でもない。人間の判断を誘導するための、心理的トリガー」


アキトがはっと息を呑む。

「……海鳥の声」


室内が、わずかに静まる。


玲はゆっくりと顔を上げた。

窓の外、闇に沈む港の上を、一羽の影が横切る。


「黒傘は、もういない」

玲は言う。

「でも――舞台は、まだ終わってない」


理央はモニターを落とし、立ち上がった。

「第四幕は、観客が気づいた瞬間に終わる。……今回は、間に合った」


遠くで、波が桟橋を叩く音が一度だけ響く。

それは拍手のようでもあり、幕が降りる音のようでもあった。


玲は静かに息を吐き、無線を切る。

次に鳴く海鳥の声が、もう“合図”でないことを、確かめるように。


【2005年・夜/港を模した舞台・制御室】


制御室の薄暗い照明が、一瞬だけ明滅した。

古いモニターに映る水中映像が揺らぎ、装置の影が歪む。


黒傘は指先でレバーを固定し、静かに息を吐いた。

呼吸の音さえ、機械の唸りに溶け込ませるように。


「浮力、安定……想定どおりだ」


背後で、舞台技師の一人が無意識に喉を鳴らす。

だが黒傘は振り返らない。

視線は常に、数字と波形、その奥にある“観客の心理”へ向けられていた。


水位計の針が、刻むように動く。

その動きに合わせるかのように、舞台上では照明が切り替わり、喝采がひときわ大きくなる。

歓声は、覆い隠すための幕。

誰も気づかないまま、桟橋下の機構は次の段階へ進んでいた。


黒傘は低く、ほとんど独り言のように続ける。


「恐怖は、正面から見せるものじゃない。

安心の裏側で、静かに育てる」


制御盤の端に取り付けられた小さなタイマーが、赤く点灯した。

残り時間は、舞台の一幕分。


黒傘は懐中時計を取り出し、蓋を開く。

秒針の音が、制御室の空気を支配する。


「――幕が降りるのは、物語が終わるときじゃない」


その言葉と同時に、彼は時計を閉じた。


舞台上では、最後のダンスが始まり、観客の視線は完全に奪われる。

その裏で、水中装置は静かに位置を変え、

二十年後、再び誰かが辿り着く“舞台の下”へと、確かな痕跡を残していった。


黒傘は微かに笑う。


「記憶に残る舞台とは――

いつまでも終わらないものだ」


制御室の灯りが落ち、

港を模した舞台は、何事もなかったかのように喝采の中へ沈んでいった。


【2025年・夜/廃港・桟橋下】


水面を割って現れた白鷺は、音もなく支柱に手を掛けた。

濡れた白髪が額に張り付き、ライトの反射で一瞬だけ輪郭が浮かぶ。

その視線は冷静で、感情の起伏を一切見せない。


「固定、続行。」

白鷺の低い声が無線に乗る。

「潮流の位相がずれてる。装置は“演出通り”に動いてるだけだ。主制御は別にある。」


由宇が水中灯を振り、装置の裏側を照らす。

複雑に絡んだ配管の奥、錆に覆われた円盤状の基部が見えた。

円周に刻まれた微細な刻印――舞台用の調整目盛りだ。


「やっぱり……舞台技師の規格だ。」

由宇が息を詰める。

「海洋設備じゃない。観客席の“視線”を基準に設計されてる。」


詩乃がワイヤーを締め直し、装置の揺れを抑える。

「つまり、正面から壊すと逆に暴れる。……黒傘の癖ね。」


白鷺は一瞬だけ目を閉じ、耳を澄ませた。

桟橋上の波音、遠くの風、金属の微振動。

それらを重ね合わせ、静かに告げる。


「三十秒後、潮位がもう一段上がる。

その瞬間、補助弁が開く――開く“ように見せる”だけ。」


安斎の声が割り込む。

《玲、聞こえるか。白鷺の読みは正しい。主制御は桟橋中央、二本目の支柱だ》


玲は無線を握り、短く応じる。

「了解。……白鷺、切れるか?」


白鷺は支柱の影に身を沈め、細身のツールを取り出した。

刃先は鋭くも派手さはない。

“壊す”ための道具ではなく、“語らせる”ための器具だ。


「切らない。」

彼は淡々と言う。

「——語尾だけ、奪う。」


次の瞬間、装置の唸りが一段低く落ちた。

白い泡が散り、渦がほどける。

潮の流れが、嘘の演出をやめ、現実のリズムに戻っていく。


海鳥が、遠くで一声鳴いた。

三度目ではない。

——もう、合図は不要だった。


【2025年・深夜/廃港・桟橋直下 海中】


白い泡が、闇の中で細く尾を引いた。


玲はライトを切り替え、泡の発生源へと泳ぐ。

錆びた鉄骨の影から、ゆっくりと“それ”が姿を現した。

円筒状の金属装置――側面には、摩耗した刻印。

二重に刻まれた溝が、まるで舞台の幕を模した意匠のように走っている。


無線に、安斎の声が低く割り込む。

《位置、確認した。浮上信号と一致してる。……二十年前に埋められたやつだ》


玲は装置に手を伸ばし、指先で刻印をなぞる。

「……黒傘。あんたは、ここまで計算してたのか」


背後で、水流がわずかに歪む。

由宇が静かに着底し、短剣を収めた。

「周囲、クリア。敵影なし。……だが、この感じ、終わってない」


詩乃がワイヤーを締め直しながら、装置の基部を覗き込む。

「封印構造が二重。しかも内部に光学反射板……舞台用の仕掛けね。

 光が当たる角度で、記録が“再生”される」


その言葉に、アキトが息を呑む。

「じゃあ、二十年前の“合図”は……」


次の瞬間、玲のライトが刻印の一点を照らした。


水中に、淡い光の筋が走る。

反射、屈折、重なり合う線。

それは、かつて舞台上で観客の視線を誘導した――あの光のパターンだった。


朱音の声が、無線越しに小さく震える。

『……見える。スケッチと、同じ……』


玲は静かに頷き、装置を見据える。

「これは、遺物じゃない。

 二十年前から続く“第四幕”の、最終合図だ」


遠くで、海鳥が一声、低く鳴いた。


その音に重なるように、装置の奥で小さなロックが外れる音がする。

黒傘が、かつて刻み込んだ“位置”と“時”が、今、完全に重なろうとしていた。


玲は無線を握りしめ、短く告げる。

「影班、全員。――幕を下ろす準備に入る」


海中で、静かに光が揺れた。

それは、二十年越しに回収された舞台の記憶。

そして、黒傘が最後に残した――観客なき演出だった。


【2025年・夜/廃港・桟橋下制御室】


装置の微かな唸りが、水を震わせて制御室全体に広がっていた。

錆びた鉄扉が軋み、白鷺が静かに中へ足を踏み入れる。

白髪は海水に濡れても乱れず、無表情のまま暗闇を測るように視線を巡らせていた。


「……まだ、生きてる装置ね」


低く、感情を削ぎ落とした声。

白鷺は腰を落とし、床に這うケーブルを指先でなぞる。

指の動きは正確で、迷いがない。


無線にノイズが走り、御子柴理央の声が重なる。

中性的で落ち着いた声音が、状況を即座に言語化した。


《制御室内部、旧式の潮位同期装置だ。2000年代初頭の舞台用にしては異常な精度……いや、これは“再浮上”前提で組まれてる》


白鷺は小さく鼻で息を吐いた。

「やっぱり。黒傘は“一夜限り”なんて考えてない」


制御盤の奥、封印されていたはずのサブスイッチが、微かに温度を持っている。

白鷺は工具を取り出し、躊躇なくカバーを外した。


その瞬間――

床下から、低く鈍い振動。


「来るわよ」

詩乃の声が無線に割り込む。

《潮流が逆転する。あと二十秒》


白鷺は頷き、レバーの前に立つ。

「だったら――主役交代ね」


指がレバーを掴み、ゆっくりと引き下げられる。

装置の唸りが一段階高まり、海中で泡が一斉に弾けた。


遠く、桟橋の上。

玲がその振動を足裏で感じ取り、短く息を吸う。


「……黒傘。あんたの舞台は、もう終幕だ」


制御室の灯りが、ひとつ、またひとつと落ちていく。

しかしその暗闇は、混乱ではなかった。


それは――

二十年前に仕込まれ、二十年越しに回収される“完全な静寂”。


海鳥が、遠くで一度だけ鳴いた。


【2025年・深夜】


場所:廃港・第三桟橋脇 仮設制御エリア


潮の音だけが、一定の間隔で闇を叩いている。

つい先ほどまで唸りを上げていた装置は完全に沈黙し、海面は嘘のように静まり返っていた。


玲は濡れた手袋を外し、防寒シートの上に置いた。

「……終わった、のか」


その言葉に即答はなかった。

代わりに、制御用コンテナの奥から足音が近づく。


淡い光の中に現れたのは、細身の影だった。

短く整えられた白に近い髪、感情を抑えた中性的な顔立ち。

御子柴理央は、濡れたコートのまま端末を胸に抱え、静かに一同を見回した。


「“停止”は確認しました。ただし――完全な終幕かどうかは、まだ断定できません」


由宇が視線を上げる。

「どういう意味だ」


御子柴は桟橋の先、暗い海面を指先でなぞるように示した。

「黒傘は、装置そのものより“時間”を仕込む人物です。

 二十年前、彼は沈めた。今回は、浮上させただけ。

 ――舞台としては、対称性が美しすぎる」


詩乃が小さく鼻で笑った。

「美学の話をしてる場合?」


「ええ。してません」


御子柴は端末を操作し、ホログラムを展開する。

そこには、二十年前の舞台配置図と、現在の廃港構造が重ねられていた。

完全に一致するポイントは、ただ一つ。


玲が低く息を吐く。

「……観客席だな」


御子柴は頷いた。

「正確には、“観客が立つ場所”。

 彼は、いつもそこに視線を置く。

 演者でも、装置でもない――見る側です」


アキトが拳を握りしめた。

「じゃあ、黒傘はまだ……」


「生きているかどうかは重要じゃない」


安斎が遮るように言った。

「問題は、思想が残ってるかどうかだ」


一瞬、全員の視線が海へ向く。

波間に揺れる光は、もはや何の形も結ばない。


御子柴は静かに言葉を継いだ。

「ただ一つ確かなのは――

 二十年前、“幕は必ず二度降りる”と言った人物が、

 今夜、二度目の幕を下ろしに来たという事実です」


由宇が端末を閉じ、立ち上がる。

「なら、三度目はない」


玲は桟橋の先端を見つめたまま、小さく頷いた。

「……観客席は、もう空だ」


その言葉に応えるように、

海鳥が一声だけ鳴き、闇の向こうへ飛び去っていった。


【2025年・深夜/廃港・桟橋脇】


安斎は起爆装置から手を離し、ゆっくりと息を吐いた。

雨は止み、潮の匂いだけが夜気に残っている。


「解除完了。残留反応なし」

低く短い報告に、無線の向こうでいくつかの安堵が重なった。


由宇が周囲を警戒しながら一歩下がる。

「動線、クリア。白鷺の反応も消えた。……逃げたな」


詩乃は濡れたグローブを外し、装置の断面を一瞥した。

「逃がした、じゃないわ。彼女は“幕が下りた”ことを確認しに来ただけ」

視線は冷たく、しかしどこか確信めいている。


地図室から接続されていた回線が切り替わり、御子柴の声が入る。

《構造データ、完全同期。水門、浮力、心理誘導……すべて2005年の設計思想と一致する》

中性的で淡々とした声が、事実だけを積み上げていく。

《黒傘は“事故”を作るつもりはなかった。観測点を未来に残すための、長期演出だ》


アキトが濡れた前髪を払って言った。

「二十年前、俺は八歳だ。観客だった……でも、今は違う」

玲の手にある防水ケースを見つめる。

「今度は、俺たちが見届ける番だ」


玲は桟橋の先へ歩み、海面を見下ろした。

さっきまで渦を巻いていた水は、何事もなかったかのように静まっている。


「……舞台は終わった。でも記録は残る」

封筒の紙片を指で整え、言葉を継ぐ。

「黒傘は、未来の観客を想定していた。だから俺たちが呼ばれた」


安斎が短く頷く。

「なら、エピローグだ。撤収する」


そのとき、遠くで海鳥が一声、低く鳴いた。

誰も振り返らない。もう“合図”ではないからだ。


詩乃が最後に振り返り、静かに言う。

「幕は降りた。でも……良い舞台だったわ」


玲は桟橋を離れ、港の闇に背を向けた。

潮騒は一定のリズムを刻み、二十年分の時間を、等しく海へ返していく。


その夜、廃港には再び静寂が戻った。

ただ一つ――

見せたい者だけに見せられた舞台の余韻だけが、確かにそこに残っていた。


【2005年/2025年・視線の交差】


2005年

時間:深夜

場所:港を模した舞台・桟橋先端


黒傘は、ゆっくりと息を吐いた。

傘の内側に溜まった水が、わずかに揺れる。


「……見届ける者がいれば、それでいい」


誰に向けた言葉でもない。

観客でも、役者でも、舞台袖の影たちでもない。

ただ、まだ名も顔も知らぬ“未来の視線”に向けて、黒傘はそう呟いた。


潮位計の針が、静かに臨界点を示す。

その瞬間、舞台上では喝采がひときわ大きくなり、

光と音が、すべての異変を包み隠した。


黒傘は一度だけ桟橋の下を見下ろし、

その後、何事もなかったかのように踵を返す。


「幕は……降りた」


その背中を、誰も止めなかった。


2025年

時間:午前1時47分

場所:廃港・桟橋先端


玲は、冷え切った欄干に手を置いたまま動かなかった。

波は穏やかで、装置の唸りも、警告音も、もうない。


それでも――

胸の奥で、何かがまだ終わっていない感覚が残っている。


アキトが、少し距離を置いて立ちながら声をかけた。

「……同じ景色、見てるんだろ」


玲は頷き、低く答える。

「ええ。あの夜、ここに立ってた人間の視線と……」


由宇が周囲を警戒しながら補足する。

「黒傘。

 仕掛けも、位置も、タイミングも……

 全部、“未来に発見される前提”で組まれてた」


詩乃は海面を見つめ、静かに言った。

「つまり――

 彼は逃げたんじゃない。

 引き継いだのよ、この舞台を」


安斎が最後に短く告げる。

「なら、役目は果たした。

 次は俺たちが幕を閉じる番だ」


玲は、もう一度だけ海を見下ろし、

誰もいないはずの闇に向かって、はっきりと言った。


「……見ているなら、覚えておいて。

 あなたの“第四幕”は、ここで終わった」


その瞬間、

遠くで海鳥が一声、低く鳴いた。


二十年前と同じ音程で。

しかし今度は、確かに――

未来へ向かう余韻として、夜の港に溶けていった。


【2005年・深夜/港舞台 地下通路】


黒傘は一歩、地下へ足を踏み入れた。

靴底が濡れたコンクリートを踏み、低く鈍い反響が通路の奥へ転がっていく。

天井を這う配管から、一定の間隔で水滴が落ち、薄暗い灯りの下で小さな水紋を作っていた。


通路の壁には、舞台装置用の制御ケーブルと古い排水管が並走している。

その配置を一瞥しただけで、黒傘は現在の潮位と、舞台上の進行を正確に把握していた。

ここは誰の目にも触れない、港という舞台の“心臓部”だった。


「……十分だ」


独り言のように呟き、黒傘は腕時計に視線を落とす。

秒針が一周するたび、舞台上では歓声が高まり、照明が切り替わる頃合いだ。


通路の奥から、足音がひとつ近づいてくる。

舞台技師の服を着た男が、息を潜めるように立ち止まった。


「ここは立入禁止だ」

声は震えていたが、職務としての言葉だった。


黒傘は振り返らない。

ただ、ゆっくりと手袋を外し、壁際の制御盤に触れる。


「知っている。だからこそ――ここに来た」


制御盤のメーターがわずかに揺れ、圧力値が静かに安定域へ入る。

舞台上では“演出上の高潮”が始まる時間だ。


技師は喉を鳴らし、思わず問いかけた。

「……これは、芝居なんですか?」


黒傘は短く息を吐いた。

地下通路に、その声だけが落ちる。


「芝居だ。だが――観客に見せるためのものじゃない」


レバーが、最後の位置へと収まる。

遠くで、低く長い水音が響いた。

それは舞台上の波音とも、港の実際の潮騒ともつかない、不気味な重なりだった。


黒傘は再び手袋をはめ、地下通路の奥へと歩き出す。

その背中を、技師は追うことができなかった。


通路の灯りが一つ、また一つと消えていく。

港という舞台は、静かに、しかし確実に“次の幕”へと進んでいた。


【2025年・21:48/旧港湾倉庫群・第三区画】


雨脚がますます激しくなる中、玲は倉庫の前で足を止めた。

古びた扉の錠前には、新しく付け替えられたような痕跡が残っている。

錆に覆われたはずの金属部分だけが、不自然に鈍い光を返していた。


「……最近、誰かが出入りしてる。」

玲の低い声に、隣でアキトが頷く。


「鍵の摩耗が浅い。少なくとも、ここ一週間以内。」

アキトはしゃがみ込み、ライトで錠前の裏を照らした。

「しかも、雑じゃない。倉庫荒らしの仕事じゃないな。」


無線が短く鳴り、詩乃の声が割り込む。

《外周、異常なし。ただし……倉庫内、気配があるわ。音、反響してる。》


「反響?」

玲は扉に手をかけたまま、耳を澄ませる。


《空間が広い。地下に続いてる可能性が高い》

続けて、落ち着いた中性的な声が重なった。


《構造、2005年の舞台資料と一致します》

御子柴理央だった。

《この倉庫、当時の港セットと地下動線が直結している。水路と制御室が残っている可能性が高い》


玲は一度、目を閉じる。

雨音の向こうで、かつての舞台の波音が重なった気がした。


「……黒傘は、ここから消えた。」

独り言のように呟き、扉を押す。


軋む音とともに、扉が内側へ開いた。

湿った空気と、金属と海水が混ざった匂いが一気に流れ出す。


暗闇の奥、床に残る細いレール。

天井から垂れ下がる古い配管。

そして――床面に、わずかに残る水の跡。


アキトが息を呑む。

「……まだ、生きてる。装置の残骸が。」


玲は一歩、倉庫の中へ踏み込んだ。

足元で、水が小さく波紋を描く。


「第四幕は終わってない。」

その声は、雨音に紛れながらも確かだった。

「……ここが、最後の舞台だ。」


【2025年・深夜/玲の事務所】


雨音が、一定のリズムで窓を叩いている。

遠くを走る車の水音が、時折それに重なった。


玲は椅子に腰を下ろしたまま、スケッチブックから視線を外さずにいた。

朱音の描いた線は、子どもの手によるものとは思えないほど、迷いがない。

波の流れ、沈み込む影、その縁取り――

どれもが「見たもの」ではなく、「そこに在ったもの」を写し取っている。


「……やっぱり、位置が合う」


玲が低く呟くと、机の向かいに立っていた人物が一歩前に出た。

御子柴理央。

中性的な顔立ちに、落ち着いた声。

白いシャツの袖を軽く捲り、スケッチと錆びたボルトを並べて見比べている。


「この歪み方、偶然じゃないね」


理央はスケッチの端を指でなぞった。

「海底装置の回転軸と一致してる。

 朱音ちゃん、この“影”を描いたとき、たぶん音も感じてたはずだ」


「音?」


「低周波。人間の耳にはほとんど届かないけど、子どもは拾うことがある」


理央は小型の解析端末を起動し、港で回収した装置のログを呼び出す。

画面に波形が浮かび上がり、スケッチの線と重なるように同期した。


「ほら。

 二十年前の舞台装置と、今回の廃港。

 発してる信号が“同じ構文”だ」


玲は息を整え、椅子の背にもたれた。

「……黒傘は、装置を残しただけじゃない。

 記憶の導線まで設計してた」


そのとき、事務所の扉がノックもなく開いた。


「やっぱり、ここだったか」


濡れたフードを外しながら入ってきたのはアキトだった。

手には紙袋。

中からは、簡易の温かい飲み物が二つ、机に置かれる。


「港の空気、まだ重い。

 でも――終わったな」


玲は一瞬だけ視線を上げ、微かに口元を緩めた。

「あぁ。幕は、ちゃんと降りた」


朱音のスケッチブックを閉じると、その表紙に雨粒が一つ落ちた。

いつの間にか、窓が少し開いていたらしい。


理央が静かに言う。

「でもね、玲。

 舞台が終わっても、観測者がいる限り――物語は残る」


玲は立ち上がり、窓を閉めた。

雨音が、少しだけ遠ざかる。


「だから記録する。

 二十年前の影も、今夜の静けさも」


机の上で、錆びたボルトがわずかに光を反射した。

それはもう、装置の一部ではない。

過去を繋いだ“証拠”として、そこに在った。


外では、雨が静かに止み始めていた。


【2025年・深夜/都内・アキトのワンルーム】


深夜のワンルーム。

机の上には絡まった配線の束、飲みかけのコーヒー、そして三台のモニターが青白い光を放っている。

雨音は窓ガラス越しに細く続き、一定のリズムで室内の静寂を刻んでいた。


アキトは椅子に深く腰を沈め、キーボードに指を置いたまま映像を睨んでいる。

廃港に設置された監視カメラの映像が、フレーム単位で巻き戻されていく。


「……ここだ」


画面の隅、波打ち際に一瞬だけ現れるノイズ。

通常なら圧縮の乱れとして処理される程度の揺らぎだが、アキトの目はそれを逃さなかった。


彼は別ウィンドウを開き、同時刻の気圧、風向、潮位データを重ねる。

さらに、理央から共有された二十年前の舞台照明ログを呼び出し、発光周期を同期させた。


モニター上で、二つのグラフがぴたりと重なる。


「……やっぱりだ。偶然じゃない」


アキトは小さく息を吐いた。

あのノイズは“映像の乱れ”ではない。

光の反射角と水面の振動を利用した、意図的な信号の残滓だ。


イヤモニに指をかけ、低い声で通信を開く。


「玲、聞こえるか。港の監視映像に、二十年前の舞台照明と同じ周期の光パターンが残ってる」

一拍置いて、言葉を選ぶ。

「……黒傘は、記録されることまで計算してた。舞台が終わっても、映像の中で“再演”できるように」


画面の中、コマ送りされた波間に、黒い影がかすかに揺れた。

それは人の形をしているようで、していない。


アキトはコーヒーに手を伸ばし、すっかり冷えた液体を一口飲む。

苦味が舌に残る。


「八歳の俺には、絶対に見えなかったな……」


独り言のように呟き、再びキーボードを叩く。

次の瞬間、モニターには新しい解析結果が浮かび上がった。


——“第四幕”、まだ終わってない。


アキトの視線は、静かにその文字を捉え続けていた。


【2025年・深夜/港湾道路・走行中】


ワイパーの規則的な音が、車内の沈黙を刻んでいる。

フロントガラス越しに見える港の灯は滲み、雨粒に引き延ばされて揺れていた。


助手席で地図を押さえていた御子柴が、指先で地下通路図の一角をなぞる。

中性的な横顔が、モニターの光に淡く照らされる。


「ここ……旧排水路と倉庫地下が繋がってる。二〇〇五年当時の舞台設計図と一致するわ」


後部座席から由宇が身を乗り出す。

「死角だらけだな。監視カメラも風化してる」


ハンドルを握る安斎が、低く応じる。

「黒傘は“見せない場所”を必ず使う。舞台でも、現実でもな」


詩乃が無線を確認しながら、窓外の暗闇を一瞥する。

「地下に入るなら、毒物も爆薬も使える空間。……嫌な予感しかしないわ」


そのとき、アキトの端末が短く振動した。

画面に映し出されたのは、朱音のスケッチの一部だった。


「これ……さっき送られてきた。波の線が、ここで急に歪んでる」


御子柴が即座に反応する。

「水流じゃない。構造物が動いた痕跡よ。……装置は完全には終わってない」


車内の空気が、わずかに張り詰めた。


安斎は視線を前に据えたまま、静かに告げる。

「進路変更だ。地下通路入口へ回る」


遠くで、海鳥が一声だけ鳴いた。

それは、二〇年前の舞台と同じ合図のように、夜の港に吸い込まれていった。


【2025年・深夜】

場所:玲の事務所・朱音の作業机


雨の音が一定の間隔で窓を叩き、部屋の明かりをわずかに揺らしていた。

朱音は小さな背中を丸め、机の上に広げたスケッチブックを見つめている。

十歳の指にはまだ余計な力がなく、鉛筆は紙の上を探るように、慎重に滑っていった。


波の線。

桟橋の影。

その奥に、傘のような細い三角形。


朱音は一度、手を止めた。

眉をひそめ、胸の奥に引っかかる何かを確かめるように、紙から目を離さない。


「……ここ、違う」


誰に向けた言葉でもなく、独り言に近い声だった。

彼女は消しゴムを使わず、上から新しい線を重ねる。

影は少しだけ位置を変え、波の揺れと重なる。


その様子を、少し離れた場所でモニター越しに見ている人物がいた。


御子柴理央は、静かに息を整えながら画面を拡大する。

中性的な顔立ちに落ち着いた視線。

感情を抑えた声で、通信マイクに言葉を落とした。


「朱音ちゃん、その影……動かしてるのは“記憶”じゃない。

 空間の違和感だ。君は、見たままじゃなくて、感じた配置を書いている」


朱音は小さく頷いた。

画面越しでも、その反応ははっきりと伝わる。


「ここね、こわくないの。

 でも……ひとりじゃ、ない」


鉛筆が止まり、影の横にごく細い線が添えられる。

それは人の形でもなく、波でもなく、ただ“そこにあった気配”だけを示していた。


御子柴は一瞬、言葉を失い、やがて静かに呟く。


「……やっぱり。

 二十年前の舞台、記録に残っていない“視点”がある」


雨音が、少しだけ強くなる。

朱音はスケッチブックを閉じず、ページに手を置いたまま、顔を上げた。


「ねえ。

 これ、まだ続きがあるよね」


その問いは、未来を知る大人たちに向けられたものではなかった。

過去と現在の“影”そのものに、そっと触れるような声だった。


御子柴は静かに頷き、答える。


「ある。

 でも……君が描いたことで、もう一度“止められる”」


朱音は安心したように、ほんの少しだけ笑った。

雨の夜、十歳の少女のスケッチブックは、

誰よりも正確に、真実の舞台配置を記録し始めていた。


【2005年・深夜/港地下 暗渠制御区画】


薄暗い暗渠の中、海水が滴る音と、鉄管を伝う低い唸りが重なっていた。

黒傘は濡れたコートをゆっくりと脱ぎ、壁際に立て掛ける。

指先で装置の外殻をなぞると、そこには刻まれたばかりの微かな傷があった。

――工具の跡。意図的に残された、未来への目印。


「……いい深さだ」


低く呟いた声は、水音に吸い込まれて消える。

その背後、暗渠の奥から足音が一つ、慎重に近づいてきた。


「黒傘。水位、予定通りだ」

声の主は、舞台機構技師の久我だった。

劇場では名の知れた男だが、今夜の彼はヘルメットも外し、作業灯だけを肩に提げている。


「潮位センサー、二系統とも安定してる。浮力調整も誤差一%以内」

久我は制御盤に手を置き、計器を一瞥した。

「……正直に言うと、舞台装置の域を超えてる。ここまでやる必要があったのか?」


黒傘は答えず、装置の中央部――回転軸の固定具にしゃがみ込む。

金属ピンを一本抜き、代わりに黒く塗られた別のピンを差し込んだ。


「必要なのは“完全”じゃない」

静かな声が暗渠に落ちる。

「二十年後、誰かがここに辿り着いた時――理解できる余白があればいい」


久我は眉をひそめた。

「二十年後……? あんた、本気で言ってるのか」


黒傘は立ち上がり、装置全体を一度だけ見渡す。

回転羽根、圧縮槽、潮流誘導板。

すべてが沈黙の中で、確実に“その時”を待っていた。


「舞台はな、久我」

黒傘はゆっくりと振り返る。

「上で観ている連中だけのものじゃない。

 観客にも、役者にも、そして――未来にも、だ」


久我は何も言えず、ただ喉を鳴らした。

作業灯の光が、装置の外殻に刻まれた傷を一瞬だけ照らす。


それは、十五年後、さらにその先で、

別の誰かが“違和感”として触れることになる痕跡だった。


黒傘は最後に制御盤の非常停止カバーを閉じ、封印タグを取り付ける。

赤いタグが、暗い水面にかすかに揺れた。


「……幕は、もう上がっている」


その言葉と同時に、遠くで舞台の拍手が一段と大きくなった。

暗渠の天井を震わせながら、喝采は夜の港へと流れ込んでいく。


【2005年・】

時間:22時17分

場所:港を模した舞台セット・舞台袖/地下制御通路


幕がゆっくりと下り、客席から大きな拍手が沸き起こる。

しかし舞台袖の影は、その熱気から切り離された静けさを纏っていた。


黒傘は袖の暗がりで立ち止まり、拍手の波を背中で受け流すように耳を澄ませていた。

歓声、笑い、椅子の軋み――すべてが「成功」を告げる音だったが、彼の表情は微動だにしない。


地下から、わずかな振動が伝わってくる。

計器が予定通り沈黙に入った合図だ。


舞台技師の吉岡が、数歩離れた位置で息を詰めている。

彼は制御盤から手を離し、汗ばんだ額を拭った。


「……終わった、んですよね」


その声は、確認というより祈りに近かった。


黒傘は一度だけ、ゆっくりと頷く。


「観客に見える幕は、今、正しく下りた」


低い声だった。

だが続く言葉は、吉岡には向けられていなかった。


「見えない幕は……これから二十年、閉じられたままだ」


黒傘は踵を返し、舞台袖のさらに奥――

立ち入り禁止の扉へと歩き出す。


途中、赤いドレスの女優が通り過ぎる。

彼女は濡れた髪をタオルで拭きながら、ふと立ち止まった。


「……あなた、観てた?」


黒傘は答えない。

すれ違いざま、彼女の耳元にだけ、囁く。


「最高の第四幕だった」


女優は一瞬だけ目を見開き、何かを言いかけたが、

黒傘の姿はすでに闇の向こうに溶けていた。


地下通路へ続く鉄扉が、静かに閉まる。


その向こうで、黒傘はコートを羽織り直し、最後に一度だけ時計を見た。

針は、予定通りの位置を指している。


「……あとは、未来の観客に任せよう」


足音が遠ざかり、

拍手の余韻だけが、空になった舞台に残り続けていた。


【エンディング】


【2025年・未明/廃港】


雨はいつの間にか止み、港には波の余韻だけが残っていた。

濡れた桟橋を撫でる潮の音が、一定の間隔で呼吸のように繰り返される。


玲は手すりに片手を置き、暗い海面を見下ろしていた。

その背後で、影班の動きが静かに収束していく。


由宇が周囲を確認し、低く報告する。

「装置は完全に沈黙。二次系統も遮断済みだ」


詩乃は手袋を外し、潮の匂いを含んだ空気を一度吸い込む。

「再起動の痕跡もないわ。……これで、本当に終わり」


安斎は無線を切り、短く息を吐いた。

「二十年前の舞台は、ここで完全に閉幕だ」


その言葉に、誰もすぐには返事をしなかった。

海鳥が一声だけ鳴き、闇に溶けていく。


玲はゆっくりと顔を上げる。

「……いい舞台だったよ。悪趣味なくらいに」


遠く離れた街の灯りが、波に揺られて歪んだ。


【2025年・深夜/市内・玲の部屋】


机の上には、回収された装置の部品写真と、朱音のスケッチが並べられている。

波、桟橋、沈む影――

そして、傘を持つ人物の背中。


朱音はペンを置き、玲を見上げた。

「ねえ……もう、あの影は動かない?」


玲は一瞬考え、静かに頷いた。

「ああ。もう幕は上がらない」


朱音はほっとしたように微笑い、スケッチブックを閉じる。

紙の擦れる音が、部屋に小さく響いた。


【2005年・夜/劇場・舞台袖】


拍手が鳴り止まない。

幕の向こうでは、観客が立ち上がり、喝采が渦を巻いている。


その喧騒から一歩引いた暗がりで、黒傘は静かに立っていた。

傘を閉じ、滴る水を床に落としながら、誰にも聞こえない声で呟く。


「……これでいい」


視線はもう舞台には向いていない。

遥か先、時間の向こうにある“港”を、確かに見据えていた。


黒傘は踵を返し、暗い通路へと消えていく。

拍手はなおも続き、やがて幕は完全に下りた。


【2025年・明け方/廃港】


空がわずかに白み始める。

夜と朝の境目で、港はただの廃墟へと戻っていた。


玲は最後に一度だけ振り返り、静かに背を向ける。

足音は波音に紛れ、やがて聞こえなくなる。


二つの時代を貫いた“第四幕”は、

誰にも告げられることなく、確かに終わりを迎えた。


舞台は解体され、

観客も去り、

残ったのは――

海と、記録と、記憶だけだった。

あとがき


この物語は、ひとつの「舞台」から始まりました。

雨、光、影、そして音。

本来は観客を欺くための装置だったそれらが、二十年という時間を越えて、現実の港と人の記憶に根を下ろしていく――その過程を書き留めることが、本作の核でした。


2005年の舞台は、虚構でありながら、極めて現実的でした。

黒傘が設計したのは爆発でも殺意でもなく、「視線の誘導」と「心理の囲い込み」です。

観客が見るべきもの、見ないまま通り過ぎるもの。

その差異こそが、舞台と現実を隔てる最後の境界線でした。


そして2025年。

玲、アキト、影班、朱音――

彼らはその境界線の上に立ち、かつて隠された仕掛けを“再演”ではなく“解体”する側として歩きました。

同じ雨、同じ潮位、同じ構図。

それでも結果が変わったのは、見る者の立場が変わったからです。


朱音のスケッチは、未来から過去を照らす光でした。

子どもの線は曖昧で、だからこそ真実に近い。

記録では残らなかった歪みや違和感を、彼女は無意識のうちに掬い上げていました。

舞台が隠そうとしたものを、彼女は「見えてしまった」のです。


影班は、かつて舞台袖にいた存在と、同じ場所に立ちました。

ただし彼らは観客ではなく、演出でもない。

“幕を下ろす側”として。

二十年前に未完のまま残された第四幕は、ここで初めて終わりを迎えました。


この物語に明確な勝者はいません。

黒傘は消え、名前は歴史に残らず、装置だけが沈みました。

しかし彼の問い――

「見せたい者だけに見せる」

という思想は、今もなお、現代の情報、演出、社会のあらゆる場所に息づいています。


だからこそ、この物語は終わりであり、同時に始まりでもあります。

港は静まり、波は元のリズムを取り戻しました。

けれど、次に誰かが同じ場所に立ったとき、

ふと海鳥の声に足を止めるかもしれない。


それでいいのだと思います。

舞台は終わっても、視線は残る。

そして、見るという行為そのものが、次の物語を生むのです。


――幕は、確かに降りました。

しかし世界は、いつでも次の照明を待っています。

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