第8話:消えた作品
玲
年齢:29歳
性格:冷静沈着、観察力と推理力に長ける。事件解決に妥協しない。
役割:探偵・サイコメトラー
写真イメージ:黒のロングコート、淡い表情で資料に目を凝らす男性。
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藤堂
年齢:32歳
性格:社交的で軽妙な口調だが、危機管理能力と分析力も高い。
役割:報道関係者・情報提供者
写真イメージ:スーツ姿でカメラや取材ノートを手にする男性。
特徴:事件現場に精通し、情報網から迅速にニュースを伝える。
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篠原悠斗
年齢:35歳
性格:慎重で論理的、暗号やデータ解析の専門家。
役割:暗号解析担当
写真イメージ:薄い眼鏡、モニター画面を前に眉をひそめる男性。
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秋津修司
年齢:33歳
性格:冷静で理性的、過去の通信やログ解析に強み。
役割:情報解析担当
写真イメージ:キーボードに手を置き、集中して画面を見つめる男性。
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八木真一
年齢:38歳
性格:落ち着いた判断力を持つ。経験豊富で、人の心理や行動を読む能力に優れる。
役割:現場監視・分析担当
写真イメージ:腕を組み、倉庫の監視モニターを見つめる男性。
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副館長 藤崎葵
年齢:41歳
性格:冷静沈着で組織運営に長けるが、事件には動揺を見せることも。
役割:美術館副館長・事件の現場責任者
写真イメージ:黒いスーツ、書類を手に考え込む女性。
時間:午後四時
場所:神崎探偵事務所
事務所の静寂を破るように電話が鳴った。受話器を取ると、向こうから緊迫した声が響く。
「神崎探偵事務所でしょうか……。こちら、美術館の警備担当です。大変です。盗難事件が発生しました……。」
「で、盗まれたのは……?」
「……存在しないはずの作品です。『幻影の書』……。」
受話器を握る手に力が入り、玲はわずかに眉を寄せる。頭の奥で、既視感にも似た寒気が走った。
玲は受話器を握りしめ、声を落ち着けながら問いかける。
「幻影の書……存在しないはずの作品だと言いましたね。もう一度、状況を詳しく説明してもらえますか?」
電話の向こうで、警備担当者の声が震える。
「はい……深夜の警備巡回で、展示室のケースが空になっているのを発見しました。カメラにも異常はなく、侵入の形跡も見当たりません……まさに“消えた”という状態です。」
玲はその言葉を静かに反芻しながら、頭の中で可能性を一つずつ組み立て始める。
玲は短く息をつき、目の前のデスクに置かれたメモ帳に指先を滑らせる。
「……存在しないはずの作品が消える、か。まるで幻を盗むような話だな。」
受話器の向こうで警備担当者は小さく息をのむ。
「……玲さん、どうすれば……?」
玲は冷静に、しかし決意を帯びた声で答える。
「まずは現場に急行する。映像やセンサーの記録、すべて確認させてもらう。」
静寂な事務所に、次の行動を告げる玲の声だけが響いた。
玲は封筒を机に置き、受話器を置くと立ち上がった。
「では現場へ向かう。君も同行するのか?」
依頼人――美術館の警備員――は深くうなずき、少し緊張した声で答えた。
「はい……現場で待っています。盗難が発覚した時点で、私が唯一の目撃者です。」
玲はコートの襟を立て、短く息をついた。
「分かった。君の目で確認した状況を、すべて正確に伝えてくれ。」
警備員はわずかに肩を震わせながらも、毅然と頷いた。
二人は静かな事務所を後にし、呪われた絵が存在する美術館へ向かった。
時間:午後五時
場所:都内有数の美術館・特別展示室
玲は展示室の中央で、異様な静けさに包まれた空間を見渡した。
「これが……呪われた絵か。」
依頼人である警備員は背筋を伸ばし、声を震わせながら説明する。
「はい。展示されていた瞬間から、不穏な気配があったんです。目が……こちらを追うような気がして、夜は誰も近づけませんでした。」
玲は手袋越しに額縁の跡を確認しながら言った。
「影と目……なるほど、これは単なる美術作品以上のものだ。目撃情報と監視映像を全て確認する必要がある。」
警備員は小さく頷き、展示室の隅に残る足跡や机の上の資料を指さした。
「このあたりに、不自然な痕跡が残っていました。」
玲は深く息を吸い込み、静かに拳を握った。
「よし……まずはこの呪われた絵の足取りを追い、何者が、なぜ持ち去ったのかを突き止める。」
不気味な影が揺れる展示室の中で、二人の調査が静かに始まった。
時間:午後五時十五分
場所:美術館・特別展示室
玲は額縁の裏に刻まれたかすかな文字を、もう一度じっと見つめた。
「……“見るな、影を追うな”か。」
警備員は声を震わせて後ろからつぶやく。
「そんな文字、展示前にはありませんでした……。」
玲は指先で文字をなぞり、眉をひそめる。
「誰かが、わざと残した痕跡だな。ただの警告ではない。犯人からの挑発か、あるいは……絵そのものの性質か。」
空間に漂う不穏な空気を感じながら、玲は深く息をつく。
「この文字、消える前に全て記録しておかねば。次は、監視映像と連動して分析する。」
微かに揺れる影の中で、玲の瞳に鋭い光が宿った。
時間:午後五時三十五分
場所:美術館・特別展示室
玲は黒のコートを羽織り、展示室の静寂の中を歩いた。額縁の裏の文字と、絵の不穏な目線を頭の片隅で思い返しながら、手元の端末を操作する。
「監視映像と文字の刻印を照合……」
指先でスクロールする映像の中、微かな動きが幾度か映り込む。影が揺れる瞬間、誰かが絵に触れた痕跡を見逃さない玲。
「ここか……。」
玲は映像のタイムスタンプと文字の刻印が一致する箇所を確認し、現場の痕跡と照らし合わせる。分析結果を端末に書き込みながら、彼の瞳は決意に満ちていた。
「この絵を奪った人物の動きは、確実に追跡可能だ。」
時間:午後五時五十七分
場所:美術館・特別展示室前
玲が足を踏み入れると、副館長の藤崎葵が静かに立っていた。黒いスーツに身を包み、額縁の盗難に動揺を隠しきれない様子。
「……こちらが、盗まれた絵の展示室です」
藤崎の声は低く、しかし緊張が伝わる。手には記録ノートを抱え、指先がわずかに震えていた。
「状況は最悪です。監視映像も一部途切れていて、犯人の行動を正確に追うのが難しい」
玲は静かに頷き、端末を操作しながら状況を整理する。
「わかりました。映像の途切れた箇所と物理的痕跡をつなげれば、動きの予測は可能です」
藤崎は息を整え、玲の指示を待つ。展示室の薄暗い光が、二人の間の緊張をより一層際立たせていた。
藤崎は肩をわずかに落とし、息を整えた後、低い声で答えた。
「……不審な人物が展示室に立ち入った痕跡はありません。ただ、扉や窓に異常は見つからず、まるで絵自体が消えたかのようです」
玲は額縁の裏や展示台の周囲をじっと見つめ、眉をひそめた。
「監視映像の途切れた瞬間と、物理的な痕跡が一致するはずです。そこに犯人の意図が隠されている」
藤崎は微かに息をつき、玲の言葉を静かに受け止める。
「では……どう進めればいいのでしょうか?」
玲は静かに端末を操作し、画面に映る映像と展示室内の構造図を照合した。
「まずは、この展示室の隠された経路を徹底的に確認する必要があります」
玲は藤崎の言葉にわずかな違和感を覚え、眉をひそめた。
「君の説明には、不自然な点がある……」
藤崎は一瞬だけ視線を逸らし、口元に微かな笑みを浮かべた。
「……確かに、説明しきれないこともあります。ですが、私には何も隠していません」
玲は静かに歩み寄り、展示室の床と壁、そして監視カメラの位置を視線で追いながら呟いた。
「何も隠していない、とは言うが、真実の痕跡は君の視線の先に残っているはずだ」
藤崎の表情に微かな動揺が走る。玲はそのわずかな揺らぎを見逃さず、頭の中で次の推理の糸を組み立て始めた。
藤崎は息を整え、言葉を慎重に選びながら答えた。
「……確かに、監視カメラには映っていない時間帯があります。しかし、それはシステムの不具合によるものです」
玲は微かに眉をひそめ、机上のメモと監視映像のタイムスタンプを照らし合わせる。
「不具合、ですか……偶然にしては整合性が良すぎる。偶然にしては、ね」
藤崎は短く息をつき、視線を床に落としたまま、さらに言葉を続ける。
「……実は、その時間帯、私自身も部屋にいたのです。絵の状態を確認していました」
玲は沈黙を保ちつつ、藤崎の視線と微かな動揺を鋭く観察し、心の中で次の推理を組み立てた。
藤崎は一瞬、視線を天井に泳がせた後、ためらいがちに口を開いた。
「……実は、その時間、私は一人ではありませんでした。誰かが突然現れ、絵に手を触れたのです」
玲は息を殺し、藤崎の微かな動揺と、手の震えを見逃さずに観察する。
「誰ですか?」
藤崎は短く、しかし強い躊躇を見せながら答える。
「……わかりません。ただ、影のような人影でした。何も聞かず、何も言わず……ただ去っていきました」
玲は額縁の裏の文字を再度確認しながら、微かな違和感を胸に刻む。
「偶然ではない……何かが、この絵を狙っている」
彼の瞳には、影の正体を暴く決意が静かに燃え上がっていた。
玲は深く息を吸い込み、額縁を軽く指で撫でながらも、胸の奥にざわつく不穏な気配を感じ取った。
「……この感覚は、偶然ではない」
視線を室内の隅々に巡らせる。照明の陰、展示ケースの反射、床のわずかな埃の乱れ――すべてが、ただの偶然ではないと告げていた。
玲は手袋をきつく握り、冷静さを装いつつも、心の奥で警戒心を研ぎ澄ます。
「奴らはまだ、この空間の中にいる……いや、監視している」
不穏な気配が、沈黙の展示室に重く垂れ込めた。
時間:午後六時四十五分
場所:美術館・保管庫
玲は静かに保管庫の扉を開き、内部を慎重に見渡した。
「……見える範囲には何もない。しかし、痕跡は必ず残るはずだ」
手袋をはめた指先で棚や床、ロッカーの隙間を丁寧に探る。埃の積もり方やわずかな指紋の残り、床に落ちた紙片――小さな違和感が、事件の核心を示していた。
「誰かがここを通った痕跡……この順序は意図的だ」
玲の目が光を反射し、保管庫の冷たい空気の中で鋭く揺れる。冷静に見えるその表情の奥には、次の手がかりを逃すまいという緊張が張り詰めていた。
玲の視線は、壁に掛かった空の額縁に止まった。
「……ここに、作品があったはずだ」
額縁の縁には、かすかな擦れ痕と指紋が残るだけ。周囲の埃の積もり方や床のわずかな凹みが、誰かがここに触れた証拠を物語る。
「消えたのはただの物理的な作品じゃない……何かを封じ込めた、異質な存在だ」
玲は額縁をじっと見つめ、手にしたライトで隅々まで照らす。冷たい空気の中、背後の保管庫の壁が微かに影を落とし、彼の心に不吉な予感を芽生えさせた。
時間:午後六時五十五分
場所:美術館・保管庫
篠原悠斗は額縁の裏側に貼られた紙片を慎重に取り出した。
「……こいつは、単なる署名や管理番号じゃない。暗号だ」
彼はルーペを通して文字列を確認し、端末に入力しながら解析を始める。
「複雑な変換規則が使われている。標準的な暗号アルゴリズムではない……内部関係者しか解けない手法だ」
篠原の指先が軽く震え、額縁の裏の紙を押さえながら、じっと文字列のパターンを追う。
「これを解読すれば、消えた作品の行方、あるいは何が封じられているかが見えてくる……」
冷たい保管庫の空気が静寂を支配する中、篠原の集中した息遣いだけが響いた。
玲は小型のハンディライトを手に取り、額縁の隅々に光を当てた。
「微細な傷や擦れ跡……ここから誰かが手を加えた痕跡が見える」
光の筋が額縁の裏側を滑り、壁や床に落ちる。影がわずかに揺れ、保管庫内の冷気が肌を刺す。
「照明を変えるだけで、見えなかったものが見えてくる……重要な手がかりだ」
玲は慎重に額縁を傾け、光を角度を変えて、暗号の痕跡と小さな破損部分を丹念に確認した。
保管庫内に、微かな「ざわ……」という空気の揺らぎが響いた。
玲は立ち止まり、耳を澄ます。
「……誰かいるのか?」
ライトの光が額縁や壁に反射し、わずかな埃の動きまでも映し出す。
その瞬間、冷たい空気が肩をかすめ、背筋を鋭く突き抜けるような感覚が走った。
「……ただの風か、それとも――」
玲は拳を固め、身構えたまま保管庫の奥を見据えた。
玲の瞳が鋭く光る。
「……何かが動いた。」
ライトの先にわずかに揺れる影。息を潜め、体を低くしながら視線を固定する。
篠原も額縁の暗号解析を一時中断し、玲の指示を待つ。
「落ち着け……まず状況を把握するんだ。」
保管庫内の空気が緊張で張り詰め、静寂の中に微かなざわめきだけが響いた。
篠原は端末を前に、額縁の裏の暗号データを解析しながら、低くつぶやく。
「……このパターン、普通じゃない。暗号の中に、意図的に紛れ込ませた誤情報がある。」
玲は影を凝視しつつ、眉をひそめる。
「つまり、誰かが巧妙に足跡を消し、見せかけの混乱を作り出した……か。」
篠原は画面を指差しながら続ける。
「そして、この誤情報には微妙な時間差が組み込まれている。監視映像と連動させると、犯行時刻がずれる仕組みだ。」
玲は唇をかみ、保管庫内の静寂を破らぬよう、慎重に次の行動を考えた。
玲は額縁と解析画面を交互に見つめ、短く息をついた。
「……妙だな。」
手袋越しに額縁を軽く撫でながら、鋭い視線で隅々を確認する。
「誰かがこの空間を知り尽くしている。しかも、俺たちを誘導するように仕組んである。」
篠原が端末のログを指でなぞり、眉を寄せる。
「この暗号、ただのパズルじゃない。犯人の心理まで読むための仕掛けだ。」
玲は微かに唇を結び、次の手を考えながら静かに立ち上がった。
藤崎は唇をかすかに噛み、重い沈黙の後、小さく頷いた。
「……分かりました。お手伝いします。」
その瞳には微かな動揺と覚悟が入り混じり、玲の視線を受け止める。
玲は額縁を見つめたまま、低くつぶやく。
「この空間の秘密、解き明かす価値は十分にある。」
篠原も画面を凝視しながら、慎重に解析を続けた。
時間:午後七時三十五分
場所:美術館・保管庫
玲は空の額縁にそっと指を伸ばした。冷たく、かすかにざらつく木枠に触れると、微かな振動とともに記憶の残滓が指先に伝わる。
「……感じる。恐怖と焦燥、そして誰かの強い執着が。」
篠原がモニター越しに解析を続ける中、玲の瞳は鋭く光り、額縁の裏に隠された真実を探り始めた。
「この絵、ただの作品じゃない……何かを伝えようとしている。」
藤崎はわずかに息をのむ。沈黙の保管庫に、玲の声だけが低く響いた。
ざわ……。空気が微かに震え、静寂の中に不穏な気配が漂う。
玲の瞳が鋭く光り、指先はなおも空の額縁に触れた。
「……ただの盗難じゃない。何かが、ここに残されている。」
篠原が画面を凝視しながら、解析結果の数字をつぶやく。
藤崎は背筋を伸ばし、微かな動揺を隠せずに立ちすくんだ。
ざわ……ざわ……。保管庫の壁に、過去の悲鳴がまだ残っているかのように感じられた。
そして——玲の指先に、微かな振動が伝わる。空の額縁の向こう、かすかな冷気が手のひらをかすめた。
「来ている……来ているな、何かが。」
篠原は唸るように声を漏らす。
「額縁の裏の暗号、解析が進むほどに、不可解なパターンが浮かび上がる……通常の人間の仕業じゃない。」
藤崎は息をのむ。
「まさか……、本当に……」
ざわ……。保管庫の空気が微かに揺れ、目に見えぬ“何か”が彼らを観察しているかのようだった。
玲は息を詰まらせ、空の額縁の前で立ち尽くした。
「これは……ただの盗難事件じゃない……。」
篠原がそっと肩越しに声をかける。
「額縁の暗号は、もはや人間の意図だけでは説明できません。何か“異質な存在”の痕跡です。」
藤崎は震える声で囁いた。
「私……この絵の前に立つと、何か視線を感じるんです……まるで、生きているようで……。」
ざわ……。保管庫の空気がさらに冷たく、異様な緊張感が三人を包み込む。
玲は低く問いかける。
「……今、何か言ったか?」
藤崎は声を震わせ、視線を額縁から外せないまま答える。
「いえ……でも……この空間……まるで誰かが息をひそめて見ているような気配が……。」
篠原が端末の画面を見つめながら、淡々と呟く。
「微弱な電磁反応があります。自然現象ではない、人工的な痕跡……もしくは……未知の何かか。」
ざわ……保管庫の冷気が一層濃くなり、三人の間に重い沈黙が落ちる。
玲は額縁の縁からそっと手を離し、息を整える。
「……何か、俺たちが見落としている気配がある。」
藤崎は肩を震わせながら小さく頷く。
「確かに……この空間、普通じゃない……。」
篠原は端末を操作しつつ、淡々と解析を続ける。
「反応が微弱ですが、ここに痕跡があります。何かが残されている可能性が高いです。」
ざわ……静まり返った保管庫に、不穏な空気が漂う。
玲の視線は、額縁の奥深く、消えた絵画の痕跡を探して止まった。
玲は背後に、誰かの気配がかすかに漂うのを感じ、立ち止まる。
「……今のは……?」
指先に触れた額縁の冷たさが、まだ消えずに残っていた。
藤崎は息をひそめ、玲の動きを見守る。
「何か……いるのかもしれません。」
篠原は解析画面を凝視し、静かに呟いた。
「物理的には何もありませんが……感覚的には、確かに反応があります。」
ざわ……保管庫内の空気が微かに揺れ、消えたはずの絵画の存在を、まるで囁くかのようだった。
時間:午後九時十二分
場所:神崎探偵事務所
玲は事務所の椅子に深く腰掛け、冷めかけたコーヒーを口に含む。
視線は机の上に広げられた額縁の裏側に刻まれた文字に釘付けだった。
「——『影は常に見守る』か……」
微かに震える手で封筒を押さえ、唇を噛む。
頭の中で、あの冷たい保管庫の空気と、指先に残った冷たさがよみがえる。
「これは……ただの盗難事件じゃない……何かが潜んでいる。」
静寂な事務所に、コーヒーをすすった音だけが響き、玲の額には汗が滲んだ。
玲は額縁の裏に刻まれた文字を改めて見つめ、指先に残る冷たさを感じながら呟いた。
「——『影の中に答えがある』……か。」
視線を窓の外、沈みかけた街の灯りに移す。
薄暗い事務所の中、冷めかけたコーヒーの香りが微かに漂う。
「これは……ただの盗難じゃない。誰かが意図的に、俺たちを導こうとしている。」
額縁を握り締める手に力を込め、玲の瞳は鋭く光った。
頭の中で断片的な情報が交錯し、次に進むべき道筋が、わずかに浮かび上がる。
玲が額縁から視線を離すや否や、事務所の電話が鋭く鳴り響いた。
受話器のベルが静寂を切り裂き、冷たい空気を震わせる。
「……来たか。」
玲はゆっくりと立ち上がり、手を伸ばして受話器を取る。
心の奥で、今度の連絡が単なる確認では済まないことを直感していた。
受話器越しに、静かで落ち着いた男性の声が響く。
「玲さんですね。額縁の件、私からの情報を待っていたようで……。だが、動くなら今です。」
玲は沈黙のまま受話器を握りしめ、わずかに眉を寄せた。
声の向こうに潜む冷徹さと、緊迫感が事務所の空気を引き締める。
男性は一瞬、ためらうように間を置き、低く静かな声で続けた。
「額縁の件――ただの盗難ではありません。絡んでいるのは、表に出せない“影”です。動くなら、覚悟して動くことです。」
玲は受話器を握ったまま、一瞬沈黙する。
言葉の奥に潜む危険を読み取り、心の中で次の一手を慎重に思案した。
玲は額縁の裏に刻まれた文字を再び凝視した。
『影の中に答えがある』――短い言葉だが、その重みは確かに現実を揺さぶる。
指先で文字の凹凸をなぞりながら、玲の頭の中で過去の事件や、見えない何かの存在が交錯する。
「……これは、ただの暗号ではない。誰かの意思が、ここに残されている。」
冷めたコーヒーの香りと、静まり返った事務所の空気が、緊張感をさらに増幅させた。
受話器の向こうの声に、玲は思わず肩を強くすくめた。
微かな既視感――どこかで聞いたことのある、しかし記憶の奥に封じられた声が、確かにそこにあった。
「……どこかで……」
玲の唇から零れた呟きは、静寂の事務所にかすかに反響するだけだった。
心の中で、封印された過去と、現在の謎が一瞬にして交差する。
受話器の向こうから聞こえる声の主――低く落ち着いた声色、しかしどこか焦燥を含む。
「玲、久しぶりだな……覚えているか、あの十年前の事件のことを。」
玲の心臓が跳ねる。封印された記憶の奥底で眠っていた名前――佐久間直人の声だった。
その瞬間、過去と現在が奇妙に重なり、事務所の空気が張り詰める。
玲は受話器を握りながら低く応える。
「覚えている。だが、今回の事件と何か関係があるのか?」
声の主はわずかに間を置き、緊張を含んだ口調で答える。
「関係がある……いや、むしろ全ての始まりかもしれない。」
玲は額縁の裏の文字を思い出し、背筋に寒気が走る。過去の影が、再び目の前に迫っている感覚だった。
玲は静かに額縁を手に取り、裏側に刻まれた文字列を再確認する。
『影の中に答えがある』
その短い文面に、過去の事件の余韻と、現在進行中の謎が不思議に重なり合う。
玲は唇を引き結び、低くつぶやいた。
「影……か。」
文字の意味を反芻しながら、彼の瞳は静かに、しかし鋭く光を帯びた。
玲の視線は額縁の裏に刻まれた文字に固定される。
「影……」
つぶやいたその言葉が、室内の静寂にかすかに吸い込まれるようだった。
まるで文字自体が呼吸しているかのように、玲の心に不安と直感が同時に押し寄せる。
彼はゆっくりと立ち上がり、額縁を抱えたまま、事務所の窓から差し込む薄明かりを見つめた。
影──それは単なる言葉ではなく、謎の導きのように玲の胸に響いた。
玲は額縁を手元に置き、深く息をついた。
「……この『影』という言葉、ただの比喩じゃないな」
隣で篠原が端末の画面をスクロールしながら言う。
「影の専門家にアクセスする必要があります。心理学、サイコメトリー、暗号解析……複合的に扱える人物です」
玲はゆっくり頷き、決意を滲ませる。
「なら、まず連絡を取る。奴らが残した足跡を解析できる者……だ」
画面に現れたスペシャリストの写真は、落ち着いた表情の中に鋭い眼光を宿していた。
「彼なら、影の正体に触れられるかもしれない」
扉が静かに開き、背筋の伸びた人物が入ってきた。黒いスーツに身を包み、目元には知性と冷静さが漂う。
「ご依頼は『影』の件ですね」と低く告げる声。
玲は額縁を手に取り、軽く会釈した。
「ええ、君の力を借りたい」
篠原が端末を指し示しながら補足する。
「心理学、サイコメトリー、暗号解析。すべてに精通しています」
スペシャリストは微かに微笑む。
「では、早速始めましょう。影の足跡を辿る作業から」
玲の視線が額縁に戻り、冷たい決意が宿った。
「これで、真実に近づける」
スペシャリストは淡い光の下で腕を組み、静かに自己紹介を始めた。
「私は椎名透。専門は“影”の心理解析と行動痕跡の追跡です。暗所の微細な変化、微妙な物理的痕跡、そして人間の心理パターンから、影の正体や動きを特定することができます」
玲は額縁を見つめたまま、静かに頷く。
「君の力が必要だ。単なる盗難や失踪ではなく、この“影”は……普通の手段では追えない」
椎名は薄く微笑み、端末の画面に指を滑らせる。
「安心してください。足跡は必ず、どこかに痕跡を残します。それを読み解くのが私の役目です」
玲は額縁を握り直し、決意を固めた。
「よし……始めよう」
椎名透は薄暗い事務所の床を見下ろし、指先で空中をなぞるように言った。
「足跡、痕跡、それに心理の痕……すべては読み解くことができます」
玲は額縁の裏の文字を再び見つめながら応じる。
「つまり、この“影”が残した痕跡から動きと目的を特定できる、と?」
椎名は頷き、手元の端末にデータを重ねて映し出した。
「ええ。見えないものも、必ず何らかの痕跡を残します。それを追うことで、影の軌跡を解読できるのです」
玲は拳を軽く握りしめ、静かに息をついた。
「わかった。君の解析に全力を頼む」
椎名は微かに微笑み、暗い部屋に沈む静寂の中で作業を開始した。
椎名透は薄暗い事務所の一角に設置された解析端末の前に座り、指先を軽く動かす。
「まずは足跡のパターン、接触痕、光の反射まで……あらゆるデータを統合します」
モニターには微細な床の傷、埃の偏り、額縁のわずかな位置ずれが拡大表示される。椎名の目は一切の異常を見逃さない。
「動きの軌跡、心理的圧力の流れ……すべて数値化して再現します」
玲は椅子に腰かけ、冷めたコーヒーを口に含みながら、その手際に目を細めた。
「……なるほど、影の残した痕跡がここまで正確に追えるとは」
椎名は頷き、端末に表示された3Dマッピングを指でなぞる。
「はい。ここから、影の行動と目的を明確に浮かび上がらせます」
静かな事務所に、指先で操作する微かなクリック音だけが響いた。
椎名は解析結果を前に、低く呟いた。
「影の行動パターンは規則的ではなく、突発的な混乱を意図している可能性があります。つまり、我々を撹乱させながら、特定の情報へと誘導しようとしている」
モニターには、床の微細な埃の偏りや、額縁のずれた位置が時系列でマッピングされて表示される。
「そして目的は……単なる物理的侵入や盗難ではありません。精神的圧迫と心理的操作によって、標的の行動を誘導することが主眼です」
玲は冷静に椅子にもたれ、手元の資料を見つめながら応じた。
「つまり、影は我々の反応を計算している。痕跡を残すことで、こちらを試し、揺さぶっているわけだな」
椎名は頷き、画面上の痕跡を指でなぞった。
「はい。行動の目的は、最終的にある一点――おそらく封印された情報、あるいは幻の作品に到達させるための道筋を作ることです」
玲の目が光り、微かに唇を引き結ぶ。
「ならば、こちらも逆算して誘導する。影の思惑を読む、というわけだな」
静寂の中、事務所の空気が一層張り詰める。
椎名は解析モニターを指さしながら言った。
「痕跡や影の行動は、偶然ではありません。彼らは意図的に我々を、ある一点――封印された情報、あるいは幻の作品――へ導こうとしているのです」
玲は額縁や資料の位置を思い返し、静かに頷いた。
「つまり、すべては計算された心理操作。影は物理的な侵入よりも、我々の行動パターンを読み、心理的に誘導することを目的としている」
椎名は軽く息をつき、画面上の時系列マッピングをスクロールしながら続けた。
「足跡、埃の偏り、わずかな物のずれ……これらすべてが道標です。そして、最終的には我々を封印された情報か、幻の作品へと導く」
玲は視線をモニターから離し、深く考え込む。
「ならば、こちらも逆算して行動する。影の策略に乗せられず、先回りして道筋を切り拓く――これが今回の鍵だな」
薄暗い事務所に、緊張の静寂が漂った。
時間:午後十一時五十五分
場所:神崎探偵事務所
椎名は、テーブルに広げた資料の上へペン先で一本の線を引いた。
「ほら、ここです。足跡の分布が変わるポイント。この位置から“影”は行動パターンを変えています」
玲は目を細め、線で示された地点を見つめる。
「……まるで、ここが“分岐点”のようだな」
椎名は頷き、さらに低い声で続けた。
「ええ。この分岐以降、痕跡が意図的に錯乱されている。偽の道標を散りばめ、追跡者を惑わせる――その先に、封印された情報か幻の作品がある可能性が高いです」
玲は顎に手を当て、短く息をついた。
「影は、私たちがここに辿り着くことを前提に仕掛けをしている。つまり、幻の作品の隠し場所は“この道筋の終点”……」
椎名は目を輝かせ、ディスプレイに映した地図を拡大する。
「はい、そして終点と思われる地点は――廃棄された旧地下ギャラリーです。美術館の古い図面にしか載っていない、封印された区域」
玲は静かに立ち上がり、コートを手に取った。
「……決まりだな。次はその地下ギャラリーだ。影の思惑を逆手に取る」
椎名もまた立ち上がり、手元の端末を閉じる。
「準備はできています。影が残した“最後の足跡”を、こちらが踏み越えましょう」
冷めかけたコーヒーの香りだけが、静まり返った事務所に残っていた。
――二人は、封印された真実と幻の作品が待つ“終点”へと向かう決意を固めた。
時間:午前零時三十分
場所:旧地下ギャラリー・鉄扉前
薄暗い廊下を進むと、壁に埋め込まれた重厚な鉄扉が姿を現した。
その表面には奇妙な刻印と、長年にわたり誰にも触れられていないはずの新しい爪痕が走っている。
玲は懐中電灯の光をゆっくりと当て、扉に近づいた。
篠原が携帯端末をかざし、浮かび上がる刻印を解析する。
「……これは、ただの装飾じゃない」
篠原の声は低く、緊張を帯びていた。
「暗号化された情報媒体そのものだ。この扉自体が“鍵”であり、“記録媒体”だ。」
椎名が壁際にしゃがみ込み、鉄扉の下の床の影を指でなぞる。
「影の動き……ここに合わせて刻印を照らすと、図形が完成する仕組みだ。つまり、光と影を使った“解読装置”だな。」
玲は静かに頷き、ライトの角度を変えた。
その瞬間、刻印は扉の表面に複雑な紋様を描き出し、浮かび上がる。
「……幻の作品は、“絵画”じゃない。」
玲の声が低く響いた。
「ここに封じ込められているのは、“呪いの記録”そのものだ。——情報であり、同時に人の心を蝕む仕掛けだ。」
藤崎葵は蒼ざめた顔で息を呑む。
「まさか……美術館から盗まれたのは、絵の形をした“器”に過ぎなかったっていうの……?」
玲は鉄扉にそっと手を置き、額縁に触れたときと同じ冷たさを指先に感じた。
「これは呪いと情報を同時に封印する装置だ。——だから、“幻影の書”は存在するし、存在しない。」
篠原が小さく吐息を漏らす。
「盗まれたのは、美術品ではなく、“秘密そのもの”か。」
玲の瞳が鋭く光る。
「そして、それを手に入れた者は……世界を揺るがす力を握ることになる。」
時間:午前零時四十五分
場所:旧地下ギャラリー・展示室内部
重々しい鉄扉が、軋む音を立てて開いた。
冷気が吹き込み、埃の匂いと共に長年閉ざされていた空気が流れ出す。
玲が一歩足を踏み入れると、崩れかけた壁と埃に覆われた展示室が広がっていた。
割れたガラスケース、朽ちかけた額縁、そして床に散らばる無数の紙片。
その中央に——一枚の布に覆われたキャンバスが鎮座していた。
藤崎葵は息を呑み、口元を押さえた。
「……これが、幻の作品……?」
篠原が慎重に布の端をつまみ、ゆっくりと引き上げる。
埃が舞い上がり、懐中電灯の光を乱反射させる。
姿を現したのは、一枚の異様な絵画だった。
荒々しい筆致で描かれた闇の渦の中に、不気味な影と光る瞳。
その視線は、見る者の心を直接射抜くように迫ってくる。
玲は思わず息を詰め、低くつぶやいた。
「……これが、“幻影の書”か……。」
時間:午前一時
場所:旧地下ギャラリー・展示室中央
覆いが取り払われた瞬間から、室内はただの廃墟ではなく、異様な緊張感に包まれていた。
藤崎葵は震える声で言った。
「……ただの絵じゃ、ない……視線が、追ってくる……」
玲は額縁の縁にそっと指を置いた。冷たい感触が皮膚を刺し、その奥に残留した“何か”がざわめく。
「……静かにしろ。」
玲の瞳が鋭く光り、サイコメトリーのように過去の残滓を読み取ろうと集中する。
すると、耳の奥に低い囁き声が響いた。
——『記録は影に、影は記録に。封じられた言葉を、解き放て。』
篠原が端末を構え、額縁の裏をライトで照らす。
「……見ろ。紫外線で浮かび上がる……コードだ。」
そこには、肉眼では見えない微細な文字列が刻まれていた。
アルファベットと数字が交互に連なる、まるで暗号のような配列。
篠原が素早く解析にかける。
「これは……ただの暗号じゃない。データ圧縮形式だ。おそらく、この作品そのものが——情報媒体だ。」
玲は絵画に目を戻す。筆致に見える線の流れ、影の形……それらが一種のマッピングコードとなり、ある座標を指し示している。
「……なるほど。」
玲は低くつぶやいた。
「この絵は、“呪い”ではない。真に封じられていたのは、組織の裏の取引記録——幻の作品は、情報を隠すための容器だったんだ。」
藤崎葵が顔を蒼白にし、声を震わせた。
「じゃあ……この恐怖は、演出だった……?」
玲は首を横に振る。
「いや……恐怖は副産物にすぎない。隠したい真実を守るため、絵に触れる者を遠ざける“仕掛け”だ。」
——幻影の書は、組織の黒い記録を宿した“影のアーカイブ”だった。
時間:午前一時三十分
場所:旧地下ギャラリー・展示室中央
篠原の端末に、復号化された文字列が次々と浮かび上がる。
その文字の羅列が、やがて意味を帯びた瞬間、彼は小さく息を呑んだ。
「……これは……ただの金銭取引の記録じゃない。」
玲が顔を向ける。
「……何を見つけた?」
篠原は唇を噛み、スクリーンを玲へと差し出す。
そこに並んでいたのは、複数の高額送金記録。送金先には、いずれも表向きは存在しないはずの口座名が刻まれている。
——“美術館特別管理口座”
——“葵プロジェクト”
玲の眉がぴくりと動く。
「……葵プロジェクト?」
その場にいた副館長・藤崎葵の顔から血の気が引いた。
「待って……違う、私は……知らなかったのよ!」
しかし篠原は冷静に告げる。
「名前を借りられていた可能性はある。だが……この記録の送金元を見ろ。」
画面には一つの名が浮かび上がっていた。
——篠原財団
一瞬、沈黙が場を支配した。
篠原自身が顔を固くし、言葉を失う。
玲は低い声で切り込む。
「……つまり、この“幻影の書”に隠されていたのは、篠原財団が裏で行ってきた非合法な美術品取引の証拠。そして……葵、お前の名前は、その隠れ蓑に利用されていた。」
藤崎葵の瞳に動揺と涙が揺れる。
「そんな……じゃあ、この事件の黒幕は——」
玲がゆっくりと息をつき、言葉を紡いだ。
「……黒幕は“影”を利用し、記録を封印してきた者。篠原財団——そして、その背後にいる人物だ。」
篠原が苦い表情で呟く。
「……財団を動かせるのは、一人しかいない……私の叔父、篠原剛三だ。」
時間:午前二時
場所:旧地下ギャラリー・展示室
崩れかけた壁の隙間から、冷たい風が吹き込む。
その瞬間、照明が一斉に落ち、展示室は闇に包まれた。
「……っ、停電?」藤崎葵が声を震わせる。
玲は即座に懐中ライトを構え、周囲を照らす。
その光の先、崩れた柱の影に——人影が揺らいだ。
重い靴音が静寂を破る。
コツ……コツ……。
姿を現したのは、黒いスーツに身を包んだ壮年の男。
鋭い眼光と冷たい笑みを浮かべ、その佇まいだけで空気を支配する。
篠原悠斗の表情が凍りつく。
「……剛三叔父……!」
男はゆっくりと掌を掲げ、影の中に踏み込む。
「やはり……ここまで辿り着いたか。」
その声は低く、重く、まるで長年の沈黙を破る呪いのように響いた。
玲が鋭く問いかける。
「……篠原剛三。お前が“幻影の書”を巡る取引と、裏の資金の黒幕か。」
剛三は小さく笑い、展示室の奥に鎮座する空の額縁を一瞥した。
「絵などどうでもいい。——重要なのは、“記憶”だ。」
その言葉に、空気が一変する。
藤崎葵が震えながら後ずさる。
「記憶……? まさか……」
剛三は歩を進めながら続ける。
「“幻影の書”は、絵画の皮を被った記録媒体。そこに刻まれていたのは、ただの取引記録ではない。……人間の“影の記憶”そのものだ。」
玲の瞳がわずかに鋭さを増す。
「……影の記憶……」
篠原剛三は冷たい笑みを浮かべ、暗闇に溶け込むように言った。
「この力を掌握した者が、未来を支配する。」
時間:午前二時
場所:篠原財団・地下ギャラリーホール
玲は低く息をつき、照明の薄明かりに浮かぶ篠原剛三の姿を見据えた。剛三は椅子に座り、片手で額に触れながら静かに笑う。
「玲か……随分と手際がいいな。君もずいぶん私の影を追ってきたようだ。」
「追った先で何をしていた? 秘密の取引、そして幻の作品……全て知っているな。」
剛三は視線を逸らさず、淡々と答える。
「知っている……だが、それを暴く覚悟はあるのかね?」
玲の指先は微かに震えたが、声は冷静だった。
「覚悟? 俺の目的は一つだけだ。消えたものの真実を公にし、関わった人々を守ること。」
剛三は立ち上がり、闇の中で輪郭だけが揺らぐ。
「なるほど……では、君がどこまで耐えられるか、試させてもらおうか。」
その瞬間、壁沿いに隠されていた電子ロックが作動し、床下から薄い霧が立ち込める。
玲は一歩前に出て低く言った。
「脅しても無駄だ、篠原。真実は俺たちの手にある。」
剛三はゆっくりと笑い、闇の奥に消えたように見えた。しかし、その声だけがホールに残る。
「ほう……その手の中の真実、果たして本当に握れるかな?」
その緊迫の空気の中、玲は証拠のUSBを握り締め、冷静に次の一手を考える。
時間:午前二時三十分
場所:篠原財団・地下ギャラリーホール
玲はUSBを握りしめ、床に立ち込める霧の中で静かに呼吸を整える。霧の向こうから剛三の低い笑い声が響いた。
「USBを渡せば、君にも怪我はない……」
玲はゆっくり首を振る。
「渡せない。ここにあるものは、組織の不正と真実の証拠だ。誰も消せない。」
剛三の影が床に長く伸びる。突然、ホールの端から機械仕掛けの障害物が動き出す。玲は素早く身をかわしながら、篠原の攻撃をかわす。
「やはり……君は手強いな。」剛三は闇の中から指示を出す。「センサーを作動させろ、霧の向こうで孤立させろ!」
だが玲は落ち着いて、床に潜むワイヤーや障害物を冷静に見極める。篠原の指示で障害物が迫るが、玲は霧の動きと音の変化から安全地帯を判断し、USBを守りながら一歩ずつ前進する。
篠原の影が急に現れ、玲の進路を塞ぐ。低く響く声がホールに反響する。
「ここで終わりだ、玲!」
玲は間合いを計り、反射的に足元の配線を切断。障害物が暴走し、篠原は咄嗟に身をかわす。玲はその隙にUSBを確保し、近くの非常口へ向かう。
霧が晴れた瞬間、篠原の姿は一瞬だけ露わになる。冷ややかな笑みを浮かべながら、闇へと消える。
玲はUSBを胸に抱き、深く息をつく。
「終わった……もう誰も、この秘密で傷つかせはしない。」
外に出ると、夜明け前の冷たい空気が頬を撫でる。遠くで警察車両のサイレンが鳴り、玲はUSBを安全な手に渡すため、静かに次の行動を決める。
エピローグ
玲探偵事務所の一日は、ゆっくりと静けさを取り戻していた。
篠原は端末を閉じ、秋津はソファで軽く伸びをする。
「これで……全部片付いたな。」
篠原の言葉に、秋津も頷く。
「長かったが、ようやく終わったか。」
玲は窓際に立ち、街並みを眺めていた。
陽光が差し込み、淡い光がデスクを照らす。
コーヒーカップを置いた玲は、小さくつぶやく。
「……ああ。これにて完全解決だ。」
その言葉に、誰も異論を挟まなかった。
事件の残滓も、影の囁きも、今はもうここにはない。
事務所に漂うのは、穏やかな空気と、確かな達成感。
そして、次に訪れる依頼を静かに待つ探偵たちの姿だけだった。
——完。
玲の後日談
時間:午後三時
場所:神崎探偵事務所・デスク
玲はデスクに向かい、事件の資料や証拠ファイルを整理していた。
窓から差し込む午後の光が書類の端を照らす。
指先で封筒や写真を慎重に並べながら、彼は低くつぶやく。
「幻の作品も、記録として残せた……これで一段落だな。」
額縁の裏に刻まれた暗号や、篠原が解析したデータの断片を思い返しつつ、静かな余韻に浸る。
電話やメール、日々の雑務に追われる事務所の喧騒を背に、玲はわずかに肩の力を抜いた。
藤堂の後日談
時間:午前十時
場所:神崎探偵事務所・リビングスペース
端末を閉じ、淹れたばかりのコーヒーを手に微かに笑う藤堂。
画面に映っていた複雑な暗号や監視映像を思い返しながら、肩越しに玲の姿をちらりと確認する。
「玲も、ようやく肩の荷が下りたか……」
彼の声には軽い冗談めいた調子が混じっていたが、心の奥底では事件解決の安堵とわずかな緊張の余韻が残っていた。
珈琲の香りが室内に漂い、二人の事務所に静かな平穏が戻っていた。
篠原悠斗の後日談
時間:午後四時
場所:神崎探偵事務所・解析室
篠原はモニターに映る暗号化通信のログを再確認し、慎重に操作を続ける。
彼の指先は正確で迷いなく、微かに眉を寄せた表情には、解析者としての冷静さと責任感が滲む。
「これで全ての通信経路は把握できた……異常なし。」
篠原の声は低く、独り言のように静かに室内に響く。
彼の背後では、過去のデータ解析に使った資料や端末が整然と並び、事件の余韻と冷静な秩序が共存していた。
秋津修司の後日談
時間:午後五時
場所:神崎探偵事務所・解析室
秋津は静かに端末を操作し、過去の通信履歴を画面に映し出す。
眉をひそめ、画面の文字列と格闘しながら、慎重にデータ復元を続ける。
「……ここに残された痕跡が、事件の核心に繋がるかもしれない。」
彼の手は迷いなく動き、過去のやり取りをひとつひとつ精査する。
室内には端末の操作音だけが静かに響き、秋津の集中力が空間を支配していた。
八木真一の後日談
時間:午後六時
場所:神崎探偵事務所・解析室
八木は倉庫や施設の監視映像を再確認し、映像の微細な動きに目を凝らす。
腕を組み、静かに考え込みながら、過去の事件の全体像を頭の中で整理していた。
「やはり、あの影の動きには意味があった……」
彼の眉間に皺が寄り、唇を薄く引き結ぶ。
誰も口を挟めない沈黙の中、八木は次の行動や予防策を慎重に思案していた。
副館長・藤崎葵の後日談
時間:午前十一時
場所:美術館・保管庫
藤崎は保管庫の鍵を一つ一つ確認し、並べ直された展示物の位置を慎重に点検していた。
新たな警備システムの導入計画をメモに書き込みながら、頭の中で異常時の対応手順を反復する。
「次は絶対に、あのような混乱を許さない……」
微かに息をつき、額にかかる髪を整え、改めて保管庫内の安全確認を続ける藤崎の姿には、冷静さと決意がにじんでいた。
社会的波紋
時間:午後八時
場所:全国各地・報道各社
ニュースでは、美術館で起きた幻の作品盗難事件が大々的に報じられた。
内部関係者による犯行の手口、篠原剛三の影響力、そして事件の背後に潜む組織的な策略が次々と明かされ、世間に大きな衝撃を与える。
街頭モニターやテレビ画面には、空の額縁と混乱する美術館職員の映像が映し出され、人々の関心は一気に高まった。
ネット上でも推理や憶測が飛び交い、文化界と経済界の双方に波紋が広がる。
「まさか、内部犯行だったとは……」
「あの篠原剛三が関わっていたなんて、信じられない……」
人々の声が、事件の衝撃をさらに増幅させていた。
玲の端末に、静かに通知音が響いた。画面には「藤崎葵」からのメールが届いている。
件名:お礼
本文:
玲様
昨晩のご尽力、誠にありがとうございました。おかげさまで、幻の作品に関わる混乱を最小限に抑えることができました。
また、保管庫の再整備と警備強化についても適切な助言をいただき、重ねて感謝申し上げます。
今後とも、美術館の安全と作品保護にご協力いただければ幸いです。
藤崎葵
玲は画面をじっと見つめ、微かに唇を緩める。
「……やはり、最初に動いてよかったな。」
端末を閉じ、コーヒーを一口飲み干すと、事務所には再び静寂が戻った。




