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79話 時の水面に潜む影

登場人物紹介(修正版)

•佐々木朱音あかね

10歳。スケッチブックを通して過去と現在を結ぶ“視覚的証人”。無邪気さと直感力に優れ、鉛筆で描く線が現場解析や仕掛け解明の鍵となる。2025年の出来事では、描いた絵が玲やアキトの行動指針となる重要な資料となる。

れい

現場調査の冷静なリーダー。20年前の舞台トリックや排水路装置の痕跡を解析し、過去の人物や心理的意図を理解する。朱音のスケッチや現場情報をもとに、現代の事件解明・研究を行う。

•アキト

28歳。玲と共に過去の仕掛けを再現・解析する現場スペシャリスト。黒傘の行動パターンやトリックを分析し、現代の危険予測や防御策の立案にも関わる。朱音のスケッチを頼りに行動する場面もある。

•黒傘

2005年の舞台で心理的包囲と水門トリックを成功させた謎の人物。劇場から姿を消すが、20年後も舞台心理の痕跡として玲とアキトの調査対象となる。現実世界では裏方や演出家として舞台心理学の研究を続けている可能性が高い。

•赤いドレスの女優

2005年の舞台で水槽に身を滑り込ませた経験を持つ。舞台俳優としてのキャリアを続けつつ、舞台心理や演劇学の研究にも関心を持ち、2025年には講義や執筆活動で後進の俳優や演出家に影響を与えている。

•影班の小型拳銃を持つ人物

2005年の舞台裏で任務を遂行した経験を持ち、隠密行動や危機管理のスキルを高める。その後、警備・防衛関連の専門家として活動し、2025年には現場調査やセキュリティ対策に関わる。

【時間】20年前・深夜

【場所】蓮池町・旧町家前


蓮池町。霧の濃い夜。

街全体を包み込む白い靄が、街路の輪郭を曖昧にしていた。


旧町家の前に設置された一本の街灯が、不意に明滅を繰り返す。

ガラスの内側で蛍光管が青白く震え、次の瞬間――乾いた破裂音と共に火花を散らし、根元から軋むような音を立てて倒れ込んだ。


ひび割れた石畳の上を、細かい雨が打つ。

水たまりが波紋を広げ、反射していた街灯の光がゆらりと消える。

雨音の中に混じって、何かが水を踏む音――靴底の硬い感触が、ゆっくりと近づいてきた。


霧の奥から現れたのは、黒い傘を差した人物。

背丈は中背だが、傘の位置は低く、顔はほとんど見えない。

その人物は、倒れた街灯のすぐ脇を何事もなかったかのように通り過ぎ、旧町家の門前で立ち止まった。


門は古い木製で、格子の隙間から奥の庭がわずかに覗ける。

人物は一瞬だけ格子の向こうを見やり、傘の内で低く何かを呟く。

雨音に紛れ、その声の内容は判別できないが、囁きの調子だけが耳に残った。


次の瞬間、町家の奥からごく小さな、だが確かに応えるような“声”が返ってくる。

人の声か、あるいは別の何かなのか――判別できない。


黒傘の人物は、静かに門を押し開け、中へと消えていく。

木戸が閉じる音が、雨の闇に溶けた。


【時間】深夜

【場所】蓮池町・旧町家前


蓮池町。二十年前と同じ町、同じ場所。

夜気は湿り、遠くから微かに雨の匂いが漂ってきた。


街灯は、二十年前に倒れたまま修復されていない。

根元は赤錆で裂け、雑草と蔦が絡みつき、過去の事故の記憶を隠すかのように覆っていた。


玲は片手に古びた現場写真を持ち、もう片方の手で小型ライトを門の方へ向ける。

写真の中の構図と目の前の風景がゆっくりと重なっていく――

倒れた街灯。

ひび割れた石畳。

そして、かすかな光と影の綾の中に浮かぶ、門前の黒い傘の影。


「……あれを、見てるのは俺だけか?」

低い声が背後から響く。振り返ると、霧のように音もなくアキトが立っていた。

彼は首に掛けた双眼鏡を片手で回し、玲の視線の先を追う。


「影……。実体がない。熱反応ゼロだ」

アキトの声は淡々としているが、わずかに眉間が寄っている。

「つまり、残留……記録か」


玲は写真を軽く揺らし、視界の中で過去と現在を何度も重ねた。


その瞬間、イヤモニが小さく鳴った。

『玲お兄ちゃん、門の右側……。そこに“もうひとつの影”が来るよ』

朱音の声だ。わずかに震えている。


アキトと玲が同時に右側へ視線を送る――

が、そこには何もない。


「……未来予知か?」アキトが呟く。

玲は短く頷き、懐からカメラを構えた。

「時間は俺たちの敵でもあり、味方でもある。朱音の絵が更新された瞬間、動くぞ」


薄闇の中、二人の視線は門とその奥に吸い寄せられていった。

黒い傘の影は、まるで彼らの到来を知っていたかのように、じわりと形を変えてゆく――。


【時間】深夜

【場所】蓮池町・旧町家前


雷鳴が、夜の蓮池町を裂いた。

閃光が一瞬、旧町家の瓦屋根と門構えを白く浮かび上がらせる。


その直後――木製の門が、軋むことなく、まるで闇に吸い込まれるように静かに開いた。


黒傘の人物が、音を立てずに庭へ足を踏み入れる。

湿った石畳に水滴が落ち、微かに波紋を描く。


「……ここが、二十年前と同じ場所か」

低くつぶやく声は、誰のものか判別できない。

人物は一瞬立ち止まり、瓦屋根越しの霧に目をやる。


門の奥から、かすかな応答のような声が返ってくる。

それは人の声なのか、あるいは何か別のものなのか――判別はできない。


人物は傘を少し傾け、目の前の庭を観察しながら、ゆっくりと歩を進める。

雨と霧に紛れたその姿は、まるでこの場所に「呼ばれていた」かのようだった。


水たまりに反射する影が揺れ、足元の波紋が広がる。

静寂と雨音の間で、過去と現在の記憶が交錯していた。


【時間】2005年・深夜

【場所】蓮池町・旧町家前


門前の石畳には、雨で半ば滲みかけた足跡がいくつも交差していた。

最も新しい一筋の足跡は、踵が深く沈み、前方がわずかに内側へと傾いている。


被害者の靴のサイズは23.5センチ――

だが、その足跡は明らかに大きく、27.0センチ前後。


さらに、もう一つの足跡は異様に細長く、25.5センチで、土踏まずの部分がほとんど沈んでいない。


「……やはり、複数だ」

低くつぶやく声。

黒傘の人物は、足跡を慎重に観察しながら、指先で水たまりをかすかに撫でる。


「サイズも形も、通常の人間じゃない……」

足跡を見つめるその視線は、過去の事件の残像をなぞるかのように静かに揺れていた。


雨音が霧の中で反響し、足跡の間に広がる湿った石畳の匂いが、深い静寂と緊張を増幅させている。


【時間】2025年・深夜

【場所】蓮池町・旧町家前


「……見たか?」

背後から低く落ち着いた声。霧の中から、黒のコートを翻してアキトが現れる。


玲は振り返らずに小さく頷き、視線を旧町家の門へと固定した。


雨で濡れた石畳の上、二十年前の足跡は消え、ただ霧がゆっくりと靄を巻きながら門の前に漂っている。


「……過去と、未来が、また交わろうとしているな」

アキトの声は静かだが、緊張の色が僅かに混ざっていた。


霧の向こう、門の奥には暗く深い影が潜み、かすかな物音が石畳に反響する。

玲は息を整え、手元のライトを強めた。

「準備は整った……この先、何が待っていようと、目で確かめるだけだ」


【時間】2025年・深夜

【場所】蓮池町・旧町家前


アキトがしゃがみ込み、懐中ライトを足跡に沿って滑らせる。

「……27.0センチ。踵が深く沈み、つま先は内側に傾いている。これは体重のかけ方の癖だな」


玲も隣に膝をつき、もう一筋の足跡にライトを当てた。

「25.5センチ……細長くて、土踏まずの沈みがほぼない。扁平足じゃない。靴底の形状も違う」


アキトはライトを動かしながら、地面の質感や微細な踏み跡の形状を精密に分析している。

「土の硬さ、雨による沈み方、足の向き……すべて記録すれば、後でルート再現できる」


玲はメモ端末を取り出し、アキトの示す情報を次々に記録する。

「この二つの足跡……時間差はほぼ同時刻。意図的に残された痕跡かもしれない」


アキトは軽く頷き、少し前のめりになって観察を続ける。

「いや、これは“痕跡誘導”だ。誰かが意図的に二つの足跡を並べ、観察者を錯覚させている……この手口は巧妙だ」


玲は眉をひそめ、次の行動を考えながら、霧の中にうっすら見える門の向こうを見据えた。

「……これが、20年前と繋がる現代の足跡か。まさか、同じ現場で、同じ手口を狙っているとはな」


【時間】2005年・深夜

【場所】蓮池町・旧町家内


旧町家の内部は、ひんやりと湿った闇に満ちていた。

障子は破れ、天井の梁からは埃がゆっくりと降っている。


奥の六畳間。薄い蝋燭の炎が揺れ、その灯りの外側に二つの影が対峙していた。


一方の影は背が中くらいで、黒いコートの襟を立て、手には小さな封筒を握っている。

もう一方の影は、細身で背を丸め、微かに震える手で障子の破れ目から中を覗き込んでいた。


蝋燭の光が揺れるたび、二人の影は床に長く伸び、まるで不気味に絡み合うように見えた。


黒コートの人物が低く囁く。

「……すべて、計画通りだ」


返事はない。ただ、障子の向こうから小さな息遣いだけが聞こえる。

影は一歩前に踏み出し、封筒の中身をそっと差し出す。

「これを……確実に運べ」


六畳間の空気が、ほんの一瞬で凍りついたかのように静まり返る。

外では、雨の音がしとしとと降り続けていた。


【時間】2025年・深夜

【場所】蓮池町・旧町家前


霧の中、玲のポケットの中で携帯が微かに震えた。

静まり返った町に、その振動音だけがやけに大きく響く。


画面には──送信者不明のメール。

差出人欄は空白。件名もない。


玲は手袋越しに端末を取り出し、画面をじっと見つめた。

「……何だ、これは……」


隣に立つアキトが、霧に沈む街灯の光に照らされて影を落とす。

「不用意に触るな。中身がただの通知か、指示か……どちらかだ」

声は冷静だが、眉間にはわずかな緊張が寄っている。


玲は端末を手に、周囲を見回す。

視線の先、霧の奥に黒い影が揺れた。

「理央……位置、把握できるか?」


イヤーピース越しに理央の声が届く。

『はい。北側の路地に複数の動きがあります。特に、一人がこちらを注視している』


アキトは携帯端末の地図を取り出し、赤い点と青い線が交差する画面を確認する。

「……計画通りじゃない。赤点のルートは予想外。だが、最終地点は……あの廃劇場と一致している」


玲は短く頷き、懐からカメラを構える。

「朱音のスケッチと合わせれば、すぐに動ける。時間は、俺たちの敵でもあり、味方でもある」


霧の奥で、黒傘の影がゆっくりと形を変える。

その動きは、まるで彼らの到来を知っていたかのように静かで確実だった。


【時間】2005年・夜

【場所】蓮池町・旧町家


旧町家の廊下は、湿った木の匂いで満ちていた。

黒い傘の人物は、その傘を畳むことなく、雨粒を滴らせながら奥の座敷へと進む。

歩くたびに畳がわずかに沈み、古い木材が低くきしんだ。


座敷の中央には、薄暗い灯火の下で二人の人物が向き合っていた。

一人は中背の男、柔らかな光に顔の輪郭が浮かぶ。

もう一人は、影に隠れた細身の人物で、傘の影が肩を覆っている。


中背の男が低く声を発した。

「……ここが現場か」

言葉は淡々としているが、目は鋭く、畳の沈み具合や床板の微かな振動までを観察していた。


黒傘の人物は静かに頷き、畳を踏む音を最小限に抑えながら、男の前に立った。

その動作には緊張感が漂い、空気がわずかに冷たくなる。


背後の襖から、かすかに紙が擦れる音が響いた。

中背の男は反射的に耳を澄ませ、目を細める。

「……何か、いるな」


傘の人物は微かに口元を動かすが、声は聞こえない。

しかし、中背の男の目には、その存在が確実に映り、次の一手を静かに読んでいるかのようだった。


【時間】2025年・夜

【場所】現代・蓮池町旧町家裏手・井戸


玲とアキトは、旧町家の裏手にある井戸を見下ろしていた。

周囲はすでに影班が確保し、簡易照明が立てられている。

「……本当に、ここにあるんだな」

アキトの声が、井戸の底から立ち上る冷気にかき消される。


玲は懐中ライトで井戸の内部を照らす。

水面はなく、底にかすかに残る湿気だけが光を反射している。


影班のメンバー、成瀬由宇が静かに背後から声を掛ける。

「状況は確認済み。異常な熱反応や動きは今のところなし」


桐野詩乃は、金属探知器を手に石畳を丹念にスキャンしていた。

「ここまで金属の痕跡はない。だが、井戸の内部は腐食や湿気で反応が鈍いかもしれない」


安斎柾貴は周囲を見渡しつつ、無線で指示を飛ばす。

「周囲の警備を強化。井戸に近づく者以外、絶対に近づけるな」


玲はアキトに目を向け、低くつぶやく。

「朱音のスケッチは、この井戸の構造と一致してる……動くなら、今しかない」


アキトは腕組みし、少し眉を寄せる。

「分かった。俺が先に中を確認する。動線を読む、ルートマスターとしてな」


影班の静かな呼吸と、雨に濡れた石の匂いが混ざる空気の中、

井戸の底で何が待っているのか――その瞬間を、三人は静かに見据えていた。


森【時間】2025年・朝

【場所】現代・山奥のロッジ・朱音のアトリエ


まだ朝の霧が窓の外を包み込む中、朱音の小さなアトリエは、夜明け前の淡い青白い光で満たされていた。

机の上には開きっぱなしのスケッチブック。


朱音は鉛筆を握り、息を整えながら最後のページを描き進める。

そこに描かれているのは──井戸の底から引き上げられた木箱。

だが、蓋を開けた瞬間、中から無数の黒い影が舞い上がり、宙を渦巻く様までが細かく描かれていた。

影の中には、一つだけ文字の形をしたものがあり、薄暗い光を反射して存在感を放っている。


アキトはドアの隙間からふらりと現れ、机の端に腰を下ろした。

「……なるほどな、朱音。これはただの記録じゃない。視覚化された“危険予知”だ」


理央が薄暗いアトリエに足を踏み入れ、スケッチブックを覗き込む。

「影の広がり方と、文字の位置……これは分析すれば、動きのルートまで推定できるかもしれません」


アキトは朱音の肩越しに鉛筆の線を追いながら指先で空中にルートを描く。

「この黒い塊、見た目以上に動きが複雑だ。俺がルートマスターとして補正すれば、予測値がさらに精密になる」


朱音は小さく息を吐き、まだ手を止めない。

「……でも、これを見た瞬間、胸の奥がざわざわするの」


アキトは彼女の肩に軽く手を置き、落ち着いた声で言った。

「大丈夫だ、朱音。俺たちが一緒にこの影の先を見極める。危険は俺たちで抑える」


静かな朝の光と霧に包まれたロッジの空間で、三人は机の上のスケッチブックを軸に、これからの行動を緻密に組み立て始めていた。


【時間】2025年・午前

【場所】現代・旧町家裏手・現場検証テント


旧町家裏手の現場検証テント内。

玲とアキト、影班の成瀬由宇が木箱を囲んでいた。


南京錠はすでに切断され、蓋の縁には細い銀色の針金が巻かれている。

アキトが眉をひそめ、指先で針金に触れずに空気を流すように確認する。

「……罠だな。開けた瞬間、何かが飛び出す仕掛けだ」


成瀬由宇は黒い手袋の指先で慎重に木箱の周囲を検分する。

「機構の重さと針金のテンションから判断すると、金属製のスプリングか、針状の飛翔物が内蔵されている可能性が高い」


玲はライトを木箱の内部に向け、影班の情報を整理する。

「箱の内部は複数層に分かれている。簡単には開かない構造……ただの仕掛けじゃない。演出型だ」


アキトは箱の周囲を指でなぞり、蓋と箱本体の隙間を測定する。

「慎重に操作すれば、内部の圧力を逃がしながら開けられる。だが、少しでも狂えば──」

言葉を濁す。重い沈黙がテント内に流れる。


成瀬は低くうなずき、持参した小型センサーを箱の上に設置した。

「反応を拾えば、瞬時に爆発や飛翔物の発射を検知できる。僕が補助すれば安全に開封可能」


玲も頷き、手元の検証端末で過去の類似事例のデータを呼び出す。

「この手の演出型仕掛けは、設計者の癖が出やすい。罠のパターンは予測できる。俺たちは慎重に一歩ずつ進める」


アキトは深く息をつき、視線を木箱の蓋に戻す。

「……朱音のスケッチ通り、ここが次の舞台だ。俺たちはその流れを読み切る」


三人は一瞬だけ視線を交わし、互いの判断を確認する。

重苦しい空気の中、慎重な手順が静かに、しかし確実に始まろうとしていた。


【時間】2025年・夜

【場所】現代・旧町家・玄関~廊下


湿った土の匂いが玄関の敷石から立ち上る。

玲は懐中電灯を低く構え、廊下の奥へゆっくりと進む。

足元の畳は、朱音のスケッチとほぼ同じ様相で、雨で黒く染みている。

壁の漆喰は剥がれ、古い水の筋が天井から斜めに走る。

規則的に落ちる水滴の音が、静寂の中で強調される。


「水滴のリズムから、屋根や天井の破損箇所が特定できる」

理央はイヤーピース越しに報告しつつ、端末で湿度や水の落下角度を解析する。

「畳の染み方と水の落下点を照合すれば、以前に雨が入り込んだルートも予測可能だ」


アキトは床面を指先で撫でるように確認しながら呟く。

「踏み跡はまだ乾いていない。誰かがこの廊下を通ったのは最近だ」


玲は視線を朱音のスケッチに合わせ、廊下の歪んだ柱や剥がれた壁紙と照合する。

「……完全に一致している。この子の絵には、現場の詳細が正確に記録されている」


成瀬由宇は暗がりで影のように動き、梁や壁際をセンサーでスキャンする。

「ここは空間が狭く、罠や隠し装置を仕込むのに最適な構造だ。注意しろ」


玲は短く頷き、慎重に足を進める。

三人のスペシャリストは、現場の匂い、音、光、湿度──あらゆる情報を総合しながら、暗い廊下を奥へと進んだ。

水滴の落下音が、まるで時間の針を刻むように響き、緊張感を増していく。


【時間】2005年・深夜

【場所】旧町家・裏手井戸


黒い傘の人物が井戸の縁に立ち、腰をかがめる。

脇には仮面をかぶったもう一人の影が控えている。

井戸の中に垂らされた縄を、慎重に古びた木箱に巻き付ける。


「ゆっくりだ、急ぐな」

傘の人物が低く指示する声は、雨音にかき消されそうでありながらも、確実に響く。


仮面の影が縄を握り、ゆっくりと木箱を引き上げる。

箱が水面から顔を出すと、表面に苔と泥が付着しているのが見えた。


「これを運ぶルートは?」

傘の人物が問いかける。


「裏庭の小径を通り、蔦の絡まる壁沿いに」

影が答え、箱を水平に保ちながら慎重に持ち上げる。


井戸の奥底では、水の底から小さな波紋が広がる。

古びた木箱を持ち上げる度に、湿った土と木材の匂いが混ざり、夜の闇に溶けていった。


黒い傘の人物は箱を確認し、仮面の影にうなずく。

「……次は、ここから隠し通路を通す。誰も気づかせるな」


雨はまだ細かく降り続き、井戸の縁に落ちる水滴が静かなリズムを刻んでいた。


【時間】2025年・早朝

【場所】旧町家・裏手井戸


玲は井戸の縁に腰を下ろし、懐中電灯を深く落として底を照らした。

水面にはすでに何も映っていない──ただ静かな水面がわずかに揺れているだけだった。


だが、玲は思わず息を呑む。

水面に映る自分の姿が、ほんの一瞬、黒く濃い影に変わったように見えたのだ。


「……影班、聞こえるか?」

玲はイヤーピースに向かって低く呟く。


『確認中……底は空っぽです。ただ、監視用センサーが反応しています。何かが通過した痕跡が残っています』

声は冷静だが、成瀬由宇の緊張が微かに乗っている。


アキトが井戸の縁に静かに近づき、懐から小型端末を取り出す。

「動きがあったな。水面は空でも、底では誰かが通った。古いルートを利用している可能性が高い」


玲は深呼吸をして光を下げ、再び水面を見つめる。

「……ルートを突き止めないと、次がある」


アキトは端末を操作し、赤と青のラインが地図上に重なる様子を確認した。

「朱音のスケッチと一致している。間違いない──ここが次の起点だ」


静かな井戸の縁。湿った空気の中、スペシャリスト二人は、黒い影の正体を追い続ける。


【時間】2025年・午前

【場所】旧町家・裏手扉前


玲は扉の前で足を止めた。

古びた木製の板は長年の湿気で膨らみ、指先で触れると冷たく吸いつくようだ。

鍵穴は茶色く錆び、縁には何度もこじ開けられた痕が残っている。


アキトが低く呟く。

「……ここから先は、朱音のスケッチにもなかったはずだ。だが──“雨の街路”ってのは、この扉の先だ」


玲は眉間に皺を寄せ、慎重に耳を澄ませる。

雨の滴る音と街路の微かな足音だけが、湿った闇に混じっている。


「影班、路面の状況を確認できるか?」

アキトが端末を手に取り、地下の地図情報と現場の映像を同期させる。


『確認済みです。街路は濡れ、滑りやすく、足跡の追跡は困難です。雨の街路特有の水の反射もある』

声は落ち着いているが、情報処理の早さからスペシャリストの経験が感じられる。


玲は小型ライトを手に、扉の隙間から内部を覗き込む。

アキトは横で観察しながら、路面の湿り具合や足跡の傾き、雨水の流れを瞬時に計算して次の行動を指示する。

「滑る場所はここだな。朱音や俺たちの安全を最優先に──動く」


雨の街路を知り尽くしたアキトの導きで、二人はそっと扉を押し開け、冷たい湿気に包まれる外部空間へと足を踏み出した。


【時間】2025年・午前

【場所】旧町家・裏手扉内側


扉の内側は、外よりもなお重い空気に満ちていた。

湿った埃と古いカビの匂いが鼻を刺す。


玲の懐中電灯の光が壁のひび割れをぼんやりと照らすと、その間に黒ずんだ水の筋が走っていた。


アキトが屈み込み、光を水の筋に沿わせながら観察する。

「……これは単なる雨水じゃない。長年の湿気と排水不良が混ざり合って、微生物や土の成分が黒ずんだ線を作っている」

その指先で筋を軽くなぞると、微細な泥と苔の感触が伝わってくる。


玲が眉をひそめる。

「……足跡や通行の痕跡が残りやすい場所だな」


アキトは頷き、周囲の床面と水の筋の関係を確認する。

「ここを通る者の重心と歩幅を予測できる。雨で濡れて滑りやすくても、筋の周囲は乾燥しやすい部分もある──滑るタイミングを計算して動けば、証拠も最小限で済む」


湿った空気の中、二人は静かに黒ずんだ水の筋を避けながら進み、慎重に先へと足を踏み出した。


【時間】2005年・夜

【場所】旧町家前・石畳の街路


街路も、同じ湿った石畳と閉ざされた木戸の並びだった。


黒い傘の人物は、ゆっくりと中央を歩きながら、上を見上げていた。

頭上には、覗き込む“観客”たちの影。

その中に、誰も動かしていないはずのワイヤーが、ひとりでに揺れていた。


黒傘の人物は雨粒を傘に伝わせながら、低く呟く。

「──演者は、観客が望む結末に抗えるだろうか?」


その声は地下の空間で反響し、幾重にも重なって、街の湿った空気を震わせた。


傘の先端が石畳に軽く触れ、静かに弧を描く。

遠くの瓦屋根や閉ざされた木戸が、雷鳴に応えるように震え、影は街路に細く長く伸びていった。


黒傘はさらに歩を進める。足音は雨音に吸収され、ほとんど聞こえない。

だが確かに、石畳の湿った影には、誰かが通った跡が刻まれていた。


【時間】現代・早朝

【場所】旧町家裏手・雨の街路


玲とアキトは互いに小さく目配せを交わし、慎重に前進した。

足元には一定間隔で黒い石が埋め込まれており、踏むたびにかすかな振動が伝わる。

頭上に張られたワイヤーも、そのたびに微かに揺れた。


アキトは足を止め、膝を曲げて黒石を観察する。

「……これは単なる装飾じゃないな。圧力感知式か、何かの起動装置だ」

彼はポケットから小型端末を取り出し、黒石に反応する磁気信号を読み取る。


玲もしゃがみ込み、懐中電灯で石の配置を確認する。

「一定の間隔……踏む順番を誤ると、落下か何かに繋がる可能性がある」

彼は端末で微弱なワイヤー張力の変化もチェックし、振動のタイミングを計測した。


アキトは立ち上がり、低い声で呟く。

「……この街路自体が、舞台装置として設計されている。いや、完全にトラップだ」

彼の眼差しは冷静で鋭く、まるで舞台の設計図を頭の中で展開しているかのようだった。


玲は端末のデータを確認しながら、一歩ずつ慎重に前進する。

「タイミングを測りつつ、進むしかない。朱音のスケッチと照合して……動線を推測するんだ」


アキトは前方の黒石に足を置き、軽く圧をかける。微細な振動が指先に伝わる。

「よし、次は……この石を回避して右側の塀沿いに移動する」


雨上がりの街路は静かだが、確実に罠の緊張感が二人を包み込んでいた。

背後の霧の中では、誰かの視線がじっと二人の動きを追っているようだった。


【時間】20年前・夜

【場所】旧町家・座敷・廊下


雨音が瓦屋根を絶え間なく叩き、薄暗い町家内部に重く響く。

電気は落ち、座敷の隅の蝋燭の炎が微かに揺れるだけ。湿った空気と古木の匂いが空間を満たしていた。


黒い傘の人物は、廊下を静かに進む。

視線は壁際に置かれた木箱に注がれる。蓋の隙間から覗く細いワイヤーは、天井の滑車に繋がり、上階の“観客席”に設置された複数の仕掛けと連動していた。


人物の足元には、特定の石畳が点在する。ひとたび踏めば、頭上から舞台装置が落下する設計だ。

傘の影が石畳の配置をなぞるように動くたび、微かに金属の軋む音が響き、緊張を高める。


彼は一瞬立ち止まり、蓋の上に手をかける。指先でワイヤーの張力を確認する。

「……タイミングさえ誤らなければ、誰にも触れられずに運べる」

傘の人物は低く呟き、ゆっくりと木箱を持ち上げた。


雨音と蝋燭の揺らめきだけが、廊下に静かに重なっている。

黒傘の人影は、まるで舞台装置の一部のように滑らかに動き、計画された演出の緊張感を漂わせた。


【時間】現代・早朝

【場所】旧町家・雨の街路


玲は膝をつき、石畳の凹凸と頭上に垂れるワイヤーをじっと観察した。

「……これ、二十年前の仕掛けと同じだな。石の下に板バネがあって、踏むと上の滑車を回す」


アキトが腰の工具袋から金具とワイヤーカッターを取り出し、小さく笑った。

「じゃあ、踏む順番を逆にすれば、誰も気付かずに通れる」


玲は口に懐中電灯をくわえ、石畳の隙間に細い棒を差し込み、板バネを押し込んで固定する。

アキトはワイヤーを一つずつ緩めつつ、金具で確実に固定していく。


影班の成瀬由宇は背後で監視にあたり、冷静な声で指示を出す。

「二人とも、ワイヤーのテンションは微調整が必要だ。力を入れすぎると装置が反応する」


玲は微かにうなずき、慎重に棒を操作する。

「了解。これで通れる……はず」


アキトは最後に全体を見渡し、低く呟く。

「準備は整った。あとは……朱音が描いた通りに動くかだな」


二人の手元の作業は、まるで過去と現在の計画が交錯するかのように、静かに進んでいった。


【時間】現代・早朝

【場所】旧町家・閉ざされた座敷


閉ざされた扉を押し開けた瞬間、湿った空気が玲とアキトの体を押し返す。

十数年、誰の足も踏み入れていないはずの座敷は、薄暗く、埃と黴の匂いに満ちていた。


玲は懐中電灯の光を天井に走らせ、絡み合うように張り巡らされたワイヤーの影を確認する。

「……上にも、複雑に仕掛けがある。滑車も古いけど、まだ動くな」


アキトは腰の工具袋から金具とワイヤーカッターを取り出し、手早く位置を確認する。

「見える範囲は全て把握した。ここを安全に通すには、一つずつテンションを落として固定するしかない」


影班の桐野詩乃が肩越しに覗き込み、低い声で補足する。

「梁の金具は錆びてるけど、油をさしても微調整は可能。慎重にやらないと板バネが反応する」


玲は光を床へ向け、踏み抜きそうな石畳を指で確認する。

「この順序で踏めば、上のワイヤーは作動しない……か」


アキトは軽く頷き、息を整える。

「問題は、この先だ。朱音のスケッチ通りに歩かせるだけで済むか……」


二人は互いに視線を交わし、慎重に作業を進め始める。

静かな座敷に、工具と金具が触れ合う音だけが響き、過去と現在が交錯する時間が流れていた。


【時間】現代・早朝

【場所】旧町家・閉ざされた座敷


──「逆手に取るとは、いい趣味だ」

アキトが低く呟き、懐から小型の工具を取り出してワイヤーのテンションを微調整する。


──「だが、観客が混乱しても、舞台は止まらない」

玲が床に置いた棒で板バネを慎重に固定しながら応じる。


肩越しに桐野詩乃が声をかける。

「梁の滑車は古いけど、まだ耐荷重は十分です。慎重にやれば、上からの仕掛けは作動しません」


成瀬由宇も視界の端で警戒し、低い声で補足する。

「板バネは微妙な反応です。踏む順序を誤ると、反動で上のワイヤーが引っかかる。距離感とテンション調整がカギ」


玲は懐中電灯で床面の影を確認しながら、一歩ずつ進む。

「ここを通れば、上の仕掛けは無効化できる……しかし油断はできない」


アキトは工具を握り直し、視線を座敷の奥へと送る。

「朱音のスケッチを頼りに、正確に誘導する。これで舞台は俺たちの手の中だ」


静寂の中、微かな工具音だけが座敷に響き、過去の仕掛けと現在の知識が交錯する。

それぞれのスペシャリストが、慎重に、確実に作業を続けていた。


【時間】現代・早朝

【場所】旧町家・裏手井戸横・現場検証テント内


アキトは息を潜め、慎重に金具を外す。

錆びた金属が軋む音は、湿気に包まれた空間で一層鋭く響いた。


玲は懐中電灯を微かに傾け、木箱の影を壁に深く落とす。

「……やはり、中にあるのは想定通りか」

声は小さいが、集中と緊張が混ざっていた。


箱の奥、黒い布に包まれた形状を覗き込む寸前、背後のスピーカーから低い声が割り込む。


──「その距離では、まだ観客だ」

──「舞台に上がる覚悟は、あるか?」


桐野詩乃が隣で指示を出す。

「ワイヤーのテンションはそのまま。箱の蓋が完全に開く前に、布ごと慎重に引き上げる」


成瀬由宇は背後から視界をカバーし、低く囁く。

「上の梁と滑車の角度はクリア。だが油断すると反動で板バネが作動する。正確に誘導すること」


アキトは工具を握り直し、静かに息を整える。

「よし……朱音のスケッチに従って、安全に回収する」


玲はライトを固定し、黒布の形状と影を確認。

「慎重に……位置と角度を微調整すれば、上の仕掛けも作動せずに済む」


三人のスペシャリストが、それぞれの役割を淡々と、しかし神経を研ぎ澄ませながら遂行していた。

木箱の蓋はわずかに軋み、黒布の塊がゆっくりと姿を現しはじめる。


【時間】2005年・夜

【場所】旧町家・座敷


黒い傘を持つ人物は、湿った畳の上に置かれた木箱に腰をかがめる。

箱の中身を慎重に確認し、布で覆う動作をゆっくりと行った。


──「観客席はもう満席だ」

低く、しかし確信に満ちた声が、薄暗い座敷の奥で響く。


隣に立つ仮面の影が、静かに頷く。

──「次は、雨の街路で開幕だ」


二人の視線は、座敷の外、まだ湿った石畳の通りへと向けられる。

瓦屋根に落ちる雨音と、木箱を覆う布の擦れる音だけが静かに交錯する。


傘の人物は、箱を抱え上げ、ゆっくりと立ち上がる。

その動作には無駄がなく、過去の緻密な計算と経験が滲み出ていた。


外の雨はやむ気配を見せず、通りはまだ薄靄に包まれている。

──開幕の瞬間を待つ、静かな緊張が座敷の空気に張りつめていた。


【時間】2025年・朝

【場所】旧町家・内部屋外空間


玲は足元の石畳を確認しながら、ゆっくりと前進した。

「……これは……室内に屋外がある、ってことか」

低く呟き、手にした懐中電灯の光を左右に揺らす。


アキトは背後から静かに歩み寄り、肩越しに視線を落とした。

「路面の濡れ方、雨粒の落ち方……人工の環境だ。湿度も温度も、外気とは微妙に違う」

手元の小型端末を操作し、温度計と湿度計の数値を確認する。

「石畳も均一に濡れてる。天然の雨じゃ再現できないパターンだ」


玲は視界の先に立ち、遠くに伸びる路地を見つめる。

「この構造……完全に観察用だな。外からは見えない、でも中の動きは丸見え」


アキトは端末を脇に置き、懐から双眼鏡を取り出す。

「雨の街路は演出の一部だ。ここに誰かを誘導するため、視線と動線が計算されている」


二人は沈黙の中、雨粒の音だけを耳に進みながら、路地を慎重に進んでいった。

細い路地の奥、暗がりに何かが潜む気配が、二人の感覚を鋭く刺激する。


【時間】2025年・朝

【場所】旧町家・外庭


朱音は膝の上でスケッチブックを押さえ、鉛筆を走らせながら小さく息をついた。

「……あれ、私……勝手に描いてる……?」

言葉は囁きになり、雷鳴にかき消される。


アキトがそっと近づき、肩越しに覗き込む。

「動線が正確だ……この曲線、影の位置、すべて現場の路地と一致している」

端末の地図と朱音の線を重ね合わせ、微細な距離や角度まで確認する。

「……やはり、彼女の描く線はただのスケッチじゃない。観測情報と予測が混ざっている」


朱音は眉を寄せ、ふっと息をつく。

「見えて……るのかな……?」


アキトは少し間を置き、静かに頷いた。

「確かに“見えている”。だが、それは単純な視覚じゃない。時間のずれを含む情報──潜在的な未来を読む力だ」


外の雨粒が石畳を濡らす音と、雷鳴の振動が庭を震わせる中、朱音の手は止まらない。

細い線で描かれた路地の奥には、まだ誰も踏み入れていない闇が広がっていた。

アキトはその紙を見つめながら、懐から小型カメラを取り出し、朱音の描く軌跡を記録していく。


【時間】2005年・夜

【場所】蓮池町・旧町家裏手路地


赤い提灯の光が、濡れた石畳を鈍く照らす。黒傘の人物は中心に静かに立ち、路地の湿った空気を吸い込む。


傘の横をもう一人の影が通り過ぎると、石畳の一部がわずかに沈み込む。雨粒が細いワイヤーに反射し、刹那の閃光を放った。


「……これか」

黒傘の人物は低く呟き、ワイヤーのテンションを微調整する。足元を狙った巧妙な罠だ。転倒した者の足首を絡め取り、提灯の明かりの下で、あらゆる動きは完全に制御される。


傘の人物は視線を上げ、周囲を見回す。

──観客席からは、何も見えない。舞台上で演じる者たちは、避けることすら許されない仕組みになっていた。


雨音と、石畳に響く微かな沈みの音だけが、静寂の路地に刻まれる。

黒傘の人物は、さらに奥の角へと歩を進め、影の伴走者とともに、次の仕掛けへと向かった。


【時間】現代・早朝

【場所】蓮池町・旧町家裏手路地


玲とアキトは濡れた石畳を慎重に踏みしめながら奥へ進む。雨で滑りやすい路面に、足の感覚を研ぎ澄ませる。微かに沈む石畳の感触を感じ、玲は瞬時に反応する。


「……二十年前の罠か。けど、今は逆手に取れる」

玲の低い声にアキトが短く頷く。彼の視線は、路地の端や壁のひび、針金の配置まで逃さず追っていた。


――脇の壁から錆びた針金が飛び出す。反射的にアキトが蹴り払い、針金は空中でちぎれた。金属音が湿った路地にかすかに響く。


「このワイヤー、上の滑車と連動してるな……踏む順番を意図的に逆にすれば、舞台効果のまま、観客役を演者に入れ替えられる」

アキトは工具袋から小型の金具を取り出し、慎重に固定箇所を調整する。


玲は懐中電灯の光を壁際に沿わせながら、罠の起動を示す小さな影を確認する。

「音と振動を演出として利用する。誰も疑わないだろう」


二人は路地の影に身を潜めつつ、雨音に紛れて罠を作動させる。石畳の沈みと金属の擦れる音が、演者と観客の立場を静かに入れ替えていく。


後方では影班の成瀬由宇が、無言で監視と記録を続けていた。彼の鋭い目が、二人の行動を補完し、必要なタイミングで情報を送るためにスタンバイしている。


【時間】2005年・夜

【場所】蓮池町・旧町家裏手路地


もう一人の影が、石畳に膝をつき、冷たい雨に濡れる足元を押さえる。微かに震える体が、罠の正確さを物語っていた。


黒傘の人物はゆっくりと近づき、濡れた石畳を踏みしめる音さえ静かに響く中、低く囁いた。

「この痛みは、二十年後にもう一度繰り返される」


言葉は静かだが、奥底に確かな重みがあった。膝をついた影は反応せず、ただその場に沈み込む。


その瞬間、路地の奥で雷光が閃き、黒傘の横顔が一瞬だけ白く浮かび上がった。雨粒が頬に跳ね、濡れた傘の先端が光を反射する。


風が通り抜ける。雷鳴の余韻の中、黒傘は再び闇に溶け込み、濡れた石畳と仕掛けられた罠だけが静かに残された。


【時間】2025年・早朝

【場所】蓮池町・旧町家裏手路地


雷鳴が一瞬、霧を裂く。雨粒が石畳を叩き、湿った空気が鼻を刺す。


朱音のスケッチブックに描かれた通り、黒傘の人物が路地の中央に立っていた。傘の先端が雨の光を反射し、闇の中で鋭く輪郭を浮かび上がらせる。


玲は懐中電灯を手に向ける。光はゆっくりと傘の影に届こうとするが、その瞬間、低く響く声が雨音に混じって飛んだ。

「役者は増えたな」


声は低く、抑揚はほとんどない。だが、どこかで二十年前に聞いた録音のように、時間差を持って耳に届く。空間が音を引き延ばしているようだった。


アキトは拳を固く握り、濡れた袖を払う。雨は肩に冷たくのしかかる。

「……準備はできている」彼の声は静かだが、芯の強さを感じさせる。


玲は一歩前に踏み出し、石畳を踏むたびに水音が微かに響く。

「この舞台……二十年前と完全に重なっている」


目の前の路地は、過去の仕掛けや足跡、雨の街路の匂いまで、すべてが朱音のスケッチと同じ。時間を越えて重なった“舞台”を前に、二人は緊張を押し殺しながら進む。


背後では影班の成瀬由宇が静かに立ち、動線の安全を確認しながら、必要があれば即座に介入できる体勢を取る。アキトと玲の動きを見守りつつ、冷静に周囲の仕掛けや雨で濡れた石畳を分析している。


空気は重く、光と影のコントラストがはっきりと舞台を描き出していた。雨と雷鳴の中、過去と現在の舞台は静かに、しかし確実に交錯していた。


【時間】2025年・午前

【場所】蓮池町・旧町家蔵内部


カセットプレイヤーは、埃をまとったまま静かに置かれていた。

アキトが指先で軽く叩く。モーターがかすかに唸り、古い歯車の音が響く。赤いインクで「2005」と書かれたテープは、すでにセット済みだった。


玲は懐中電灯を箱の隙間に差し込み、奥の景色を確認する。木製の門──長年封鎖されていた扉が、かすかに影を落としている。鉄製の閂は錆び付き、触れると軽く振動するが、鍵穴にはかすかな光が差し込み、まだ通れそうな気配を残していた。


アキトは低く呟く。

「……ここから先、誰も足を踏み入れていないな」


彼の声は静かだが、言外に危険を察知している様子が含まれていた。雨で湿った木の匂い、埃に混じった金属の匂い──すべてが注意を促す信号だ。


成瀬由宇は扉の周囲を観察しながら、一歩下がった位置で立つ。彼の目は僅かな歪みや錆びの痕、閂の緩みまで見逃さない。もし封鎖された門に何らかの仕掛けがあれば、即座に察知し、無力化できる態勢を取っていた。


玲は息を吐き、手元の懐中電灯を調整する。

「この先……多分、朱音の描いた空間と重なる」


アキトが微かに笑む。

「そうだな。だが、演出は過去と未来、両方の仕掛けが絡み合っている──気を抜くな」


箱の横で二人の手が静かに動き、古い門の錠前を探る。湿った空気に混じって、かすかな金属音が響く──まるで二十年前の記録が、今、再生されようとしているかのように。


【時間】2005年・夜

【場所】蓮池町・旧町家裏口


黒傘は濡れた石畳を踏みしめ、雨に光る瓦屋根を背にして裏口へ辿り着く。

そこに立つのは、長年封印されてきた木製の門──かすかに湿った匂いと錆びた金具の輝きが混ざる、存在感のある扉だ。


同行していた影が、低く落ち着いた声で言う。

「……この門を開くのは、お前しかできない」


黒傘は言葉を返さず、懐から小さな金属片を取り出す。鍵穴にそっと差し込む指先は、雨で冷え切っているにもかかわらず、確かな動きを示す。

その動作を一瞬止め、雨が止むかのような静寂を待つ。


提灯の赤い光が揺れ、黒傘の横顔を淡く照らす。

片頬には細い傷跡が走り、濡れた髪の隙間から光に反射する。


影は扉の前に静かに立ち、動作を見守る。

「……時間との勝負だ。開ける瞬間、すべてが動き出す」


黒傘は僅かに息を吐き、金属片を鍵に回す。扉が軋む音が闇に溶け、雨音に混じる。

その瞬間、この日の夜は、新たな舞台の幕をそっと上げたかのようだった。


【時間】現代・朝霧の中

【場所】旧町家・封鎖された門前


アキトは閂に手をかけ、力を込めるが、錆びつきと湿気で微動だにしない。

「……やっぱり、固着してるな」低く呟き、指先で金具を確かめる。


その瞬間、埃をかぶったカセットプレイヤーが突然回り出す。

ざらついた声が静かな空気を裂く。

『……開ける瞬間を、必ず見ている』


玲は背筋に寒気を覚え、懐中電灯を握り直す。

「……この声、数日前の監視カメラと同じだ」


門の奥から、かすかな金属の反響音が返る。

まるで向こう側にも誰かが潜んでいるかのようだ。


影班の成瀬由宇が、懐に手を入れつつ横に立つ。

「……これはただの録音じゃない。何かで反響を増幅している。物理的な罠も考えられる」


アキトは金具を外す順序を頭の中で確認しながら、低く返す。

「なら、順番を逆にして安全側から行く。罠があれば、その動きを逆手に取れる」


玲は小さく頷き、カセットの音声を意識の片隅に置きつつ、光を奥へ投げた。

雨で湿った石畳の匂いと、古い木材の冷たさが、静かな緊張感を増幅する。


小さな音にも耳を澄まし、二人は門を前に、慎重に動き始めた。


【時間】20年前・夜雨

【場所】旧町家・封印の門前


黒傘が鍵を回す金属音が、湿った石畳に小さく反響した。

その瞬間、門の奥で何かがわずかに動く。


背後の影が低く問いかける。

「二十年後……そこには誰が立っている?」


黒傘は傘の内側に雨粒を受けながら、微かに笑った。

「……舞台の主役だ」


雨音が静かに重なり、古い木戸の向こうに潜む何かを予感させる。

黒傘は鍵を押し込み、ゆっくりと門を押し開ける。

光も影も、まだ何も語らない。


【時間】現代・夜

【場所】旧町家・封鎖された扉の内側


錆びた閂が外れ、扉がゆっくり軋む。

冷たく乾いた空気が隙間から流れ込み、玲の肺を刺すようだった。


「……朱音の絵にも、過去の記録にもない場所だ」

玲は懐中電灯の光を扉の隙間から差し入れ、内部を慎重に確認する。


扉の縁には、細く深い傷跡が刻まれている。

アキトがそっと指先で触れ、低く呟いた。

「……二十年前のあの黒傘と同じ形だ」


影班の成瀬由宇が隣で装備を調整しながら、分析を口にする。

「材質、刻み方、摩耗の状態……過去の仕掛けに関わった人物の可能性が高い。警戒すべきは、内部の罠ではなく“人影”だ」


玲は深呼吸し、懐中電灯を水平に保ったまま、扉の向こうへ一歩を踏み出す。

光の先に広がるのは、誰も知らない空白の空間。

壁も床も、天井も、朱音のスケッチや資料には一切記録されていない──だが、空気には確かに“過去の気配”が漂っていた。


【時間】20年前・夜

【場所】旧町家・雨の街路仕掛け


雨が座敷の木戸を打つ音が、静寂に混じって一定のリズムを刻む。

黒傘の人物は濡れた石畳に足を置き、沈み込む感触を確かめるように傘先で軽く叩いた。


「……やはり、再現は完璧だ」

低く響く声が襖の奥から返ってくる。誰かの笑い混じりだ。


襖がゆっくりと開き、異様な空間が姿を現す。

屋内でありながら、そこには石畳の路地が組まれ、街灯が等間隔に立っている。

壁は舞台装置のように組まれ、雨を模した細い水滴がカーテンのように垂れ下がる。

奥には赤い幕が揺れ、不自然な風で布がわずかにたなびく。


黒傘は慎重に足を進める。傘の先が石畳を叩くたびに、天井裏で微かな反響が生まれ、何重にも重なって不気味な余韻を残す。

「──ようこそ、“雨の街路”へ」

その声は確かに室内に響き渡ったが、街灯の光と雨滴の陰影に溶け込むように、正体を判別させない。


黒傘は赤い幕の方を見つめ、一歩を踏み出す。

まるでここが、過去の事件を再演する舞台であるかのように、空間が息を潜めて彼を待っている。


【時間】現代・朝

【場所】旧町家奥・雨の街路


玲は膝をつき、懐中電灯の光を細く絞りながら、目の前の空間を丁寧に照らした。

倒れた街灯、ひび割れた石畳、曲がりくねった路地──すべてが朱音のスケッチと完全に一致している。


アキトは足元の瓦礫を軽く蹴り、低く呟く。

「……舞台だな。全部、作り物の町だ」


玲は息を潜め、天井を見上げる。古びた木梁の間に細いパイプが巡らされ、水滴が規則正しく落ちている。

それが石畳にぶつかる音が、雨音と錯覚させるほどリアルだ。


「見ろ、玲。音も光も、すべて計算されている」

アキトは腰の工具袋から小型の測定器を取り出し、路地の奥に向けて赤外線を照射する。

「水滴の落下間隔、石畳の濡れ方、影の揺れ……すべて演出だ。誰かが、二十年前の事件を再現している」


玲は小さく頷き、懐中電灯を路地の突き当たりに向ける。

そこには赤い幕──二十年前、黒傘の人物が立った場所と同じ位置に揺れている。


「……朱音の絵も、ただの予知じゃない。彼女は、舞台の設計図を見ている」

アキトは低く笑みを浮かべ、影班の端末に目を落とした。

「さて、観客のいないこの舞台で、演者は誰になる?」


【時間】20年前・夜

【場所】旧町家奥・雨の街路


黒傘は石畳の中央までゆっくりと歩み、傘を閉じた。

雨音はまだ断続的に瓦屋根を叩き、街路の湿った空気が静かに漂っている。


視線を向ける先──舞台の観客席には、無数の黒い影が並んでいた。

だがよく見ると、それらは人ではない。黒い布で覆われたマネキンたちが、まるで生きているかのようにこちらを見据えている。


黒傘は静かに息をつき、低く呟く。

「二十年後も、この光景を見せてやろう」


その声は雨の音に混じり、静かに、しかし確実に未来へと響く宣言のようだった。


彼の足元で水滴が落ちる音が、まるで時計の針のように規則正しく刻まれる。

影たちは微動だにせず、ただ黒い布の下で、未来の舞台のための“観客”として存在しているかのようだった。


【時間】現代・夜

【場所】旧町家奥・雨の街路


玲の足元で、カラン、と硝子片が砕ける音が響いた。

濡れた石畳の上で光を反射する破片を、アキトがそっと拾い上げる。


「……これ、二十年前に割れたままだ」

アキトの声は低く、しかし確かな緊張を帯びていた。

硝子片のひび割れは、年月を経てもそのまま残っており、二十年前の痕跡がまざまざと蘇る。


玲は懐中電灯の光を赤い幕の方へ滑らせる。

幕の裏側で、かすかな影が揺れた。

その動きは、二十年前の“演者の立ち位置”と同じタイミングで起きたかのようで、息を呑む。


アキトは背筋を伸ばし、工具袋から小型のカメラとワイヤー式のセンサーを取り出す。

「監視用だ。微細な動きも逃さない」

その声は、長年培ったスペシャリストとしての慎重さと、過去の再現を確実に捉えようとする緊張感を滲ませていた。


玲はゆっくりと前へ進む。

硝子片を踏まないように注意しながらも、幕の奥に広がる“舞台”の全貌を確認する目は、二十年前の記憶と現在を重ね合わせている。


黒傘の影──かつて朱音がスケッチに描いた存在──が、微かに形を変えながらこちらを見ていた。

「……動いている、いや、待っている」

アキトが低く呟き、二人は声を潜めて進みながら、過去と現代が重なる異様な舞台の中央へ向かった。


【時間】現代・夜

【場所】旧町家奥・雨の街路


テープがカチリと止まり、室内に重い静寂が落ちた。

アキトはそっとカセットプレイヤーの蓋を閉じ、玲と視線を交わす。


その瞬間、足元の石畳がわずかに沈んだ。

かすかに金属が擦れる音──わずかな異音を二人は敏感に察知する。

次の瞬間、天井から重い鎖が落ちてきた。


玲はとっさに後ずさる。

鎖の先には、錆びついた鉄枠がぶら下がり、舞台両端に仕込まれていた複数の枠が倒れ込み、視界を黒布で遮る。

まるで、観客席と舞台を隔てる巨大な“幕”のようだ。


アキトは冷静に足元を確認しながら呟く。

「……仕掛けは完璧だな。時間差で重みを増すように調整されている」

その声には、二十年前の舞台装置の挙動を熟知したスペシャリストとしての経験と、現場対応力が滲んでいた。


玲は懐中電灯の光を黒布の隙間から差し込み、枠の中の構造を読み取る。

「動く順序を逆にすれば……観客の目の前で舞台を制御できる」

アキトは頷き、工具袋から小型のワイヤーカッターと固定金具を取り出す。

「慎重に行く。ここは触れ方ひとつで全体の動きが変わる」


二人は、黒布に覆われた空間と、石畳の罠、そして天井の鎖が織りなす舞台を、スペシャリストとしての目線で解析しながら慎重に前進した。


【時間】20年前・夜

【場所】旧町家奥・雨の街路


黒傘の人物は石畳の中央に立ち、慎重に板を足で軽く踏んだ。

「カチリ──」小さな金属音が響くと同時に、左右の壁奥から複雑な機械仕掛けが静かに回転を始める。


観客席を覆う黒布の幕が、重力と連動した滑車の動きでゆっくりと降りていく。

布が下り切ると、舞台と観客席は完全に隔絶され、暗黒に閉ざされた空間が広がった。


黒傘は一歩前に踏み出し、傘の先端で鎖を軽く突く。

その音は小さいが、座敷全体に反響し、仕掛けが作動した合図のように響く。


傘の下で、黒傘は低く笑った。

「二十年後、同じ場所で──」


声には確信と遊び心が混ざり、未来を予告するかのような余韻を残した。

その視線は、観客席のマネキン群を静かに見下ろしている。


【時間】現代・夜

【場所】旧町家奥・雨の街路


玲は懐中電灯の光をゆっくりと幕の布に走らせた。

光が赤茶けた文字列を浮かび上がらせる──不規則に、しかし確かに意味を持つかのような線の羅列。


アキトが眉を寄せ、指先でその文字列に触れる。

指に残ったのは、乾ききった古い血の感触だった。


「……二十年前の血だ」

玲は低く息を吐き、懐中電灯の光で文字をさらに確認する。


その瞬間、舞台奥の赤い幕が、ゆっくりと横に開き始めた。

奥の暗がりから、靴底が微かに床を擦る音。


アキトは咄嗟に身を低くし、息を殺す。

「動いている……あれは……」


暗がりに一歩、二歩と足音が近づく。

まるで二十年前の黒傘が、時を越えて現れたかのように、影が浮かび上がる。


玲は小型カメラを取り出し、光と影の動きを記録する。

「準備はいいか……現場はこのまま保存する。全て、観察する」

アキトも頷き、慎重に影の動きを追った。


古びた舞台は再び、“演者と観客の交錯する舞台”となった。

専門知識を持つ影班の成瀬由宇が静かに後方から視界を確保し、罠や仕掛けの異常を監視している。

「罠の作動タイミングは二十年前と完全一致。だが逆手に取れば、こちらの動線に利用可能だ」と低く囁く。


二人と影班の視線が、一点に集中する──赤い幕の向こう、現れた影の正体を確かめるために。


【時間】現代・夜

【場所】旧町家奥・雨の街路舞台


テープの再生が終わり、部屋は深い静寂に包まれた。

玲は懐中電灯の光を床に落とし、微かな床の反射と影を確認する。

アキトは壁に片手をつき、呼吸を整えながら状況を見極めていた。


──ギシ、と舞台奥の床板が軋む音が響く。

玲は即座に膝をつき、カメラを構える。

「……作動だな、床下の仕掛けがまだ生きてる」

アキトが低く囁き、工具袋から金属棒を取り出して床板の間に差し込む。


影班の成瀬由宇は慎重に後方から状況を観察し、手元の小型端末で仕掛けの位置と作動範囲を確認している。

「床下のバネとワイヤーは二十年前と同一。板を踏む順序次第で吊り具の連動は制御可能」

玲はライトを床に向け、踏む順番を逆算しながら動線をイメージする。


「ここから先は、観客と演者の立場を逆手に取るしかない」

アキトの声は静かだが確信に満ちていた。

玲は短く頷き、床板の上で慎重に足を置きながら、二十年前の罠を“現代の舞台”として利用する準備を整えた。


湿った空気と古びた木材の匂いの中、舞台は再び静かに息を潜めていた。

専門知識を持つ影班の視覚とデータが、二人の動きを支え、罠の逆手利用の最適化を進めている。


【時間】現代・夜

【場所】幻劇座裏口


湿った夜気が肌に張り付き、街灯の光も霧に吸われてほとんど届かない。

玲は懐中電灯を握らず、闇に身を委ねるように足を進めた。

錆びた鉄扉の蝶番に指を添え、軋む音を最小限に抑えつつ、静かに押す。


遠くで電車が通過し、軋む音をかき消す。

「……よし、入る」

玲が小声で囁くと、アキトが背後で微かに頷いた。


影班の成瀬由宇は、建物外の暗闇から周囲を監視している。

「扉の内側に不自然な湿気の変化なし。センサーは動作していない」

玲は低く息を吐き、扉の隙間から中の様子を覗き込む。


「奥は……湿った廊下。床板の反響が微妙に違う」

アキトの声は冷静だが、注意深く空気の流れを読むように耳を澄ませている。

床板の微かな沈みや、壁沿いの古い配管の振動まで、二人は専門家の目で正確に判断し、次の一歩を決めていた。


暗闇の中、幻劇座の内部は息を潜め、二十年前の仕掛けと記憶をいまなお秘めている。

玲とアキトは、影班のデータを頼りに慎重に足を進め、罠の存在を逆手に取る作戦を頭の中で組み立てていった。


【時間】現代・夜

【場所】ロッジの朱音のアトリエ


朱音は夢と現実の境界で、薄暗いアトリエに座っていた。

スケッチブックの上で、鉛筆は意志を持つかのように走り続ける。

黒く塗りつぶされた観客席、傘を差した影──二十年前の記憶が、夢の中で再現されていく。


雷鳴のような轟音と共に、夢の中の舞台の幕が上がった。

観客席が傾き、座っていた人影が闇に吸い込まれていく。

朱音の小さな手は止まらない。紙の端に、くっきりと文字が浮かぶ。


──「二十年前の約束、今ここで果たす」


遠く、アトリエの隅で、理央の声がイヤーピース越しに届く。

「朱音……集中しすぎるな。手元の光を意識して」


アキトは影班のデータ端末を片手に、朱音の背後でふらりと立つ。

「観測値が示している……手の動きは通常の神経反射では説明できない」

玲は隣で静かに頷き、スケッチブックに映る未来予知の線と現実の状況を照合する。


──専門家たちが息を潜める中、朱音は知らぬ間に事件の次なる“舞台”を描き上げていった。

その筆先には、二十年前と同じ計画を踏まえた緻密な情報が、夢と現実の境界を超えて残されていた。


【時間】現代・夜

【場所】旧町家裏手・井戸通路


井戸の石壁沿いに回り込むと、足元にわずかな段差と、闇へ吸い込まれる細い通路が口を開けていた。

低い振動音が、舞台の奈落から伝わってくる。アキトは靴底で振動を確かめ、短く息を吐いた。


「──来るぞ」


通路の先、格子状の鉄柵の向こうには、舞台裏の歯車と滑車がゆっくりと回転しているのが見えた。

錆びたワイヤーが巻き上げられ、赤いランプが点滅するたびに、腹に響く低音──ドン。

天井からは重たい布の擦れる音。幕が、ゆっくりと上がる。


玲は懐中電灯を低く構え、目を細めて歯車の動きを追う。

「……この連動、二十年前の仕掛けと同じだ。足場の順序を誤れば即座に罠が作動する」

影班の成瀬由宇も小さく頷き、無言で工具を準備する。


アキトは淡々と計算を始める。

「振動周期、ワイヤーの伸縮、幕の重量……すべて把握すれば、安全に逆手に取れる」

玲は彼の指示に従い、懐中電灯の光を石畳の板バネに正確に合わせる。


──緊張と計算が交差する、舞台裏のナイトミッションが始まろうとしていた。

スペシャリストたちの手先ひとつひとつが、二十年前の“幻劇座の罠”を現代に再現するか、あるいは無力化するかを決める。


【時間】20年前・夜

【場所】旧町家・舞台袖


蝋燭の揺らめく光が、黒傘の足元をかすかに照らす。

舞台袖の暗がりで、彼は古びたレバーに手をかけ、ゆっくりと引き下ろした。


歯車が唸りを上げ、滑車が重く回転を始める。舞台全体が低く震え、床板が微かに軋む音が響く。


──幕が上がる。


客席の視界が一気に開け、豪奢な背景画の陰で、床の一部がわずかに浮き上がった。

そこには、鎖で封じられた木箱が置かれている。観客の目に晒されつつも、箱の中身はまだ見えない。


黒傘は静かに歩を進め、床板の震えを確認する。

「──準備は整った」

その声は低く、蝋燭の炎に揺れる影と重なり、舞台全体に冷たい緊張を広げていく。


背後の影もまた、呼吸を潜めてその動作を見守る。

──二十年前の舞台は、観客の目に映る一瞬と、仕掛けの音だけで完成される寸劇のようだった。


【時間】現代・夜

【場所】幻劇座・舞台奈落


現代の舞台も、二十年前の仕掛けと同じく、重い歯車が唸りを上げる。

奈落の床がゆっくりとせり上がり、鉄柵の隙間から玲は光を落とし、目を凝らした。


だが、浮き上がった床の中央に現れたのは──木箱ではなかった。

黒い傘を差した影。人影とも、物ともつかない不気味なシルエットが、静かに立っている。


──「あれは……」

玲の息がわずかに漏れる。


観客席では、一斉にざわめきが広がった。

そのざわめきは、十五年前に降り注いだ雨音と、微妙に重なり合っている。

雨の音と人々のざわめきが混ざり、空間全体に不自然な“時間の歪み”を生む。


アキトが低く呟く。

「──これは二十年前の舞台を、完全に再現している」


玲は懐中電灯を床板に沿わせ、影の輪郭をなぞるように光を当てる。

「でも……ここにいるのは誰だ? 記録にもスケッチにも、こんな人物はいない」


影班の成瀬由宇が、影の周囲を慎重にスキャンする。

「熱反応ゼロ。だが……存在感は確実にある。感覚的に近づいてくる」


黒い傘の影は微動だにせず、ただ静かに立ったまま。

──その存在だけで、舞台全体の時間と空気を支配していた。


【時間】現代・夜

【場所】幻劇座・舞台袖


舞台袖の暗がりが、わずかに揺れた。

玲はスポットライトの光を避けるように身を低くし、静かに歩を進める。

アキトは反対側から回り込み、二人で挟み込む形を取った。


──「無理に近づくな、罠かもしれない」

アキトの声が低く響く。耳に届くのは自分たちの呼吸だけ。


玲は懐中電灯の光を小さく絞り、袖の影に隠れながら慎重に床を踏む。

「……ここまで緊張する舞台は久しぶりだな」


アキトは肩越しに玲を見やり、手首の装置を軽く叩く。

「光反応、音響、振動。すべて微妙にずれている。舞台装置のクセを熟知していないと、罠を回避できない」


影班の成瀬由宇が無線で状況を報告する。

『裏手の滑車、動き始めました。安全装置の反応も不安定です』


玲はゆっくりと息を整え、奥へ進む足を止める。

「……見えた、あの黒い傘だ」


闇の奥、舞台中央の浮かぶ床の上に、黒傘の影が微かに揺れている。

──その存在感だけで、舞台袖の空気が重く張り詰めた。


【時間】現代・夜

【場所】幻劇座・舞台裏


重い扉を押し開けた瞬間、空気が変わった。

冷たく、湿った空気が頬をかすめて通り過ぎる。

奥には、ほの暗い舞台裏の空間が広がり、古い布幕や埃をかぶった舞台装置が無言で並んでいた。


玲は懐中電灯を握り、光を弱めて影を照らす。

「……足元に気をつけろ、板の沈みやすい場所がある」


アキトは床に目を走らせ、指で微かに振動を感じ取る。

「滑車の反応が少しおかしい。誰かが操作しているかもしれない」


影班の成瀬由宇が無線越しに報告する。

『舞台中央の装置、稼働音が確認できました。二重安全装置は解除されていません』


玲はゆっくり前進し、奥の布幕の端に手をかける。

「……あそこだ、黒傘の影。動きは静かだが、確かにいる」


アキトは懐中電灯を小さく揺らし、布の陰を照らす。

「舞台装置と連動している……触れた瞬間に何が起きるかわからない」


闇の奥、影の形が微かに揺れ、布の端に反射する光が黒傘の輪郭を浮かび上がらせる。

──その存在だけで、舞台裏の空気は一瞬にして張り詰めた。


【時間】現代・夜

【場所】幻劇座・舞台袖


闇の中、アキトが懐中電灯を点ける。

光の輪が床を舐め、その中央に一枚の紙切れが浮かび上がった。

舞台袖の埃に半ば埋もれ、しかし不自然に新しい。


玲がしゃがみ込み、慎重に紙を拾い上げる。

「……この文字、朱音の手とは違う。だが、意味は明確だ」


アキトが紙の端を指でなぞる。

「“雨の街路を通れ”。だと……舞台裏への指示か」


成瀬由宇が無線で確認する。

『舞台装置の動作は正常。外部干渉なし。だが、床下の仕掛けが微かに作動した形跡があります』


玲は紙を懐にしまい、足元の板の沈みを確かめる。

「罠かもしれない……だが、逆手に取れる」


アキトは微かに息を吐き、懐中電灯を低く構えた。

「慎重に……だが、動くぞ。観客席と舞台の境界は、もうこの瞬間に変わる」


薄暗い舞台袖に、二人の影が重なり、黒傘の存在と呼応するかのように静かに前進した。


【時間】現代・夜

【場所】幻劇座・舞台


──その瞬間、舞台上から鈍い軋み音。

舞台装置の一部がゆっくりと動き出し、天井から砂のような埃が降ってくる。


玲が懐中電灯を床に沿わせ、影を追う。

「……二十年前の仕掛けと同じパターンだ。床下の滑車が動き出している」


アキトは腰を落とし、ワイヤーの張力を確認する。

「微細な振動だけど、確実に上の装置を作動させている。慎重に動け」


成瀬由宇が無線越しに報告する。

『床下のギアは摩耗しているが作動中。天井からの落下物に注意』


玲は手で埃を払いながら前進する。

「この軋み……感覚的には、舞台装置そのものが“観客”の動きに反応しているようだ」


アキトは金具を手に、微かに床の凹凸を踏み分ける。

「つまり、二十年前の罠を、今ここで逆利用する。観客と演者の立場をひっくり返すチャンスだ」


薄暗い舞台上で、二人の影は揺れる埃の中に溶け込み、静かに次の動作に備えた。


【時間】現代・夜明け

【場所】ロッジ・朱音のアトリエ


朱音は鉛筆を握り直し、再びスケッチブックに目を落とす。

「……また、あの通路……」


目の前で描かれる線は、ただの鉛筆の跡ではなく、微かに空気を揺らすかのように動いている。


その瞬間、イヤホン越しに理央の声が届く。

『朱音、位置は確認できた。だけど、気をつけろ──代役が動いている』


朱音は息を呑み、手元の鉛筆を押さえる。

「代役……?」


アキトがふらりと現れ、机の端に手を置きながら静かに言った。

「お前の描く絵は、ただの予知じゃない。動きを誘導している。つまり、舞台装置も、罠も、全部──」

彼は言葉を切り、朱音の描く通路の線をじっと見つめる。

「……君が描く場所が、次に起こる現実になる」


朱音の目が見開かれる。

「……わたし、見てるだけじゃいけないの?」


アキトは短く頷き、鉛筆の先に触れた朱音の手にそっと手を添える。

「誘導するんだ。描く線を、未来の動きに合わせて」


部屋の窓から、白い朝靄が流れ込み、机の上のスケッチブックと朱音の手を淡く照らす。

影のように揺れる鉛筆の線が、まるで十五年前の幻影を呼び起こすかのように、ページの上で微かに震えた。


【時間】20年前・夜

【場所】旧町家・地下通路


黒傘の人物は、傘を閉じたまま足を止め、微かに沈む床の中央を見つめた。

「……準備は整った」


傍らの影が、低く囁く。

「……気をつけろ。床の下に奈落がある」


黒傘は一瞥もせず、ただ通路の奥へ向かって歩みを進める。

足裏に伝わる木板の感触、微かに響く水滴の音──それはまるで、暗がりの中で未来を告げる合図のようだった。


床板が沈むたびに、冷たい湿気が靴の中に入り込み、黒傘の呼吸がわずかに荒くなる。

「二十年後……あの通路を通る者も、同じ運命を辿る」


その声は、雨の屋根と井戸の水音にかき消されることなく、静かに地下空間に溶け込んだ。


【時間】現代・深夜

【場所】玲探偵事務所・暗室


理央はモニターの前で息を潜め、マウスをそっと動かして航空写真を拡大した。

「……二つの水門……その傍に、奇妙な影がある」


隣でアナログの古地図と照合しながら、彼女は指先で画面上の位置をなぞる。

「ここ、2005年の排水路沿い……当時、誰も立ち入れなかった場所だ」


アキトが背後から現れ、低く声をかける。

「その影……人の影か?」


理央は画面をさらにズームし、細部を確認する。

「形は人間に似ている……でも体が半透明、輪郭がぼやけている。熱反応もない。残留記録かもしれない」


アキトは懐から小型サーモカメラを取り出し、モニター越しに確認する。

「……やはり熱はない。二十年前の残像か。観測可能な範囲の“痕跡”だな」


理央は小さく頷き、キーボードで航空写真に座標を打ち込み、データを保存した。

「これで、二十年前の事件と今の通路の関係を、時間軸で追える」


静かな室内に、モニターの光だけが二人の顔を照らしている。


【時間】現代・深夜

【場所】旧町家・右手通路


玲は懐中電灯を低く構え、通路の床板をじっと見つめた。

「……やはり、中央が沈んでいる」

板の沈み具合を指先で確かめるように目で追い、彼は低く呟く。


アキトは通路の端に立ち、静かに膝を曲げて視線を合わせる。

「十五年前と寸分違わず……この板バネは当時のままだな」


玲は慎重に石畳の隙間に細い棒を差し込み、板の反応を探る。

「踏めば、上の滑車が回る。舞台装置と同じ原理……いや、これは単なる罠じゃない。逆手に取れば利用できる」


アキトは腰の工具袋から金具とワイヤーカッターを取り出し、慎重に作業を始める。

「……慎重に行く。ここは二十年前の記憶と現実が重なっている場所だ」


二人の動作は静かだが、確実。板の沈み具合を微調整し、罠を作動させずに先へ進む準備を整える。

影班としての訓練が、無言の息遣いの中で現れていた。


【時間】20年前・夜

【場所】旧町家・舞台裏通路


黒傘は舞台の歓声を背に、ゆっくりと通路を進む。

雨粒が瓦屋根を叩く音が遠くに響き、蝋燭の揺らめきが影を揺らす。


足元で、わずかに床が沈む感触。

「……」黒傘は微かに足を止め、床板の軋む音と水面に映る自分の影を確かめる。


奈落の底から冷たい湿気が立ち上り、水面がわずかに波打つ。

黒傘は傘を握り直し、沈む床に神経を集中させながら、通路を渡り切る。


床の下では、仕掛けられた木箱やワイヤーが微かに動き、十五年前と同じ舞台の仕組みを静かに示していた。


【時間】現代・夜

【場所】旧町家・舞台裏通路


黒傘の影が通路に差し掛かる。

玲の手元の懐中電灯が微かに揺れ、その光が湿った木の床に反射して揺れる影を作った。


──「……来る」

アキトの低い声。彼は通路脇で静かに仕掛けを確認し、指を金具にかける。


その瞬間、引き金のように仕掛けた逆起動が作動する。

足元の板がわずかに沈み、軋む音が通路の奥まで響く。


奈落の水面に波紋が広がり、湿った空気と共に冷たい水の匂いが漂う。

黒傘は傘を握り直し、通路の端までわずかに足を踏み外しながらも進む。


【時間】現代・午前

【場所】玲の探偵事務所


机いっぱいに広がる地図と古い資料の山。

蓮池町の旧地図には、鉛筆で水路の線が細く描かれている。


玲は指先でその線をなぞりながら、眉をひそめた。

──「この水路……二十年前の雨の街路と重なる」


アキトが背後から覗き込み、地図に添えられた注釈に目をやる。

──「記録に残っていない分岐もある。ここの傾斜角度、現代の排水口と一致する」


玲は手元の資料をめくりながら続ける。

──「つまり、過去の舞台装置と、この町の地形は完全にリンクしている」


アキトはライトを資料に当て、影を落とす。

──「これを辿れば、雨の街路の秘密に辿り着けるかもしれない」


二人の視線が交わる。探偵とスペシャリスト──過去と現在を結ぶ地図の前で、沈黙の意思確認が行われた。


【時間】現代・午後

【場所】旧町家・現場検証テント


玲は膝をつき、懐中電灯で木箱の影を照らす。

アキトが鉄柵の向こうで手を止め、低く声を漏らした。


──「遺体は?」


玲はわずかに息を吐き、視線を奥へと滑らせる。

──「……確認できない。箱の中も、井戸の底も、何も残っていない」


アキトの眉がぴくりと動く。

──「だが、この現場──二十年前と同じ匂い、同じ湿り気、同じ仕掛け。何かが動いたのは間違いない」


玲は資料を指で押さえながら、冷静に言葉を重ねる。

──「死者ではない、“記録された影”だけが存在している。生者の形ではなく、あの夜のままの痕跡だ」


アキトは拳を握り、低く頷いた。

──「……観客も、演者も、まだ舞台に閉じ込められているということか」


雨音が遠くの瓦屋根を叩き、二人の周囲を湿った静寂が包んだ。


【時間】現代・朝

【場所】ロッジ・朱音のアトリエ


朱音は机に向かい、開きっぱなしのスケッチブックに鉛筆を走らせる。

淡い光が紙の上に落ち、鉛筆の線がゆっくりと浮かび上がる。


──「……また、描けてる」


隣に立つ沙耶が、そっと声をかける。

──「朱音、夢で見た通りの景色が出てきたのね」


朱音は手を止めずに、紙に描かれた路地を見つめる。

──「うん……昨日の夜、夢で見た通り。雨の街路、そして黒い影」


沙耶は微かに眉を寄せ、慎重に言葉を選ぶ。

──「このまま描き続ければ……きっと、何かがわかるわ」


朱音の手は止まらず、鉛筆の先から線が広がる。

紙の上の影が、まるで現実の空気を呼吸するかのように揺れた。


【時間】現代・午前

【場所】情報分析室


理央はモニターの前で2005年の現場写真と今朝の最新衛星写真を慎重に並べ、比較していた。

画面には苔むした二つの水門と、その周囲の石畳の路地が鮮明に映る。


「やはり形状はほとんど変わっていない……」

理央は拡大した画面を指でなぞり、微細な陰影を確認する。


「この路地、石畳のひび割れ位置も2005年と一致している」

手元のタブレットで古い図面と重ね合わせながら、彼女は慎重に目を細める。


「二十年前の記録と現状を照合すれば、雨の街路の正確な範囲がわかる」

理央は息を吐き、机の上のメモに短く線を引く。

「ここを起点にすれば……アクションプランも具体化できる」


画面の向こう側に、影班の安斎柾貴が静かに立ち、理央の指示を待っていた。

「全員、このデータをもとに安全確認と侵入経路の解析を始めよう」

理央の声は落ち着いているが、目の奥には緊張が滲んでいた。


【時間】現代・午前

【場所】旧市街地・入り口


玲とアキトは、薄曇りの空の下、旧市街地の入り口に立っていた。

古びた木製の看板には、かつての商店街の名前がかすれて読み取れない。

石畳の路地は苔と落ち葉に覆われ、わずかに濡れた緑色が光を吸い込むように沈んでいる。


玲は懐中電灯を低く構え、足元の石畳を丁寧に観察する。

「表面の苔の剥がれ方、濡れ方……二十年前の降雨痕と一致している」

アキトは背後で双眼鏡を肩にかけ、周囲の建物の窓や屋根を慎重に見渡す。

「建物の傾きや壁のひび割れも、記録通りだな。昔の構造をほとんど残している」


玲は指先で石畳の小さなへこみを触れ、わずかな凹凸を確かめた。

「歩行者の癖もわかる……ここを通った人の体重のかけ方が、そのまま残っている」

アキトは低い声で答える。

「この路地を使えば、二十年前の通過ルートを追跡できる。罠の再現も可能だ」


二人は目線を交わし、旧市街地の奥へ慎重に足を進めた。

その背後では、安斎柾貴が影として静かに付き従い、周囲の危険を常に監視している。


【時間】現代・早朝

【場所】ロッジ・朱音のアトリエ


アトリエの窓辺に座る朱音は、新しいスケッチブックを前に、鉛筆を握りしめていた。

指先は、何かに導かれるように動き出す。

まだ彼女の目には形が見えていないのに、紙の上には濃い影が広がっていく。


──石畳の路地、その奥。

倒れた木箱の脇に置かれた、古びた街灯。

街灯の根元から、細い糸のようなものが路地の端へ伸びている。


朱音の呼吸がわずかに乱れる。

鉛筆の先が、無意識に“火花”の形を描いた瞬間──


玲がアトリエの扉を静かに押し開け、入り口で立ち止まる。

「朱音、落ち着いて……その線は何を示している?」

アキトも隣に立ち、机の上のスケッチを覗き込む。

「細い糸のようなもの……罠のトリガーかもしれない。火花の形は、接点の位置だ」


玲はスケッチの路地と、過去の現場記録を頭の中で重ね合わせる。

「……なるほど、二十年前のあの事故の再現だな。朱音、この線を頼りに動くぞ」

アキトは懐から小型ライトと精密工具を取り出し、周囲の観察と仕掛けの解析を始めた。

「俺たちが動けば、影の挙動も読める。罠は逆手に取れる」


朱音はわずかに頷き、鉛筆を握り直す。

「……わかった。描きながら、教えて」

玲とアキトは、彼女の描く線を頼りに、慎重に路地の罠を解析し始めた。


【時間】現代・早朝

【場所】蓮池町・旧市街地路地


玲の足が、路地奥に転がる木箱を跨いだ。

その瞬間、街灯の根元から鋼線が引き抜かれ、火花が弾ける。

苔むした石畳の下から、圧縮空気の唸りと共に仕掛けが作動。


上方──古びた看板の影から、鉄製の枠が勢いよく落下してきた。

反射的に身を屈めた玲のすぐ頭上を、枠がかすめ、石畳に鈍い音を響かせる。


「……第一段階だな」

アキトは低く呟き、目線をさらに路地の奥へ送った。

そこには、まだ動き出していない“次の仕掛け”が静かに待っていた。


影班の成瀬由宇が手元のタブレットを操作し、路地の構造をリアルタイムで解析する。

「石畳の下には複数の圧縮式ピンが仕込まれている。踏む順番を誤ると、落下枠だけでなく、側壁の鎖も作動する」

玲は足元を確認し、慎重に板の沈み具合を指先で感じ取る。

「……なるほど、二十年前の仕掛けと同じ原理だ。だが今は逆に利用できる」


アキトは懐からワイヤーカッターを取り出し、鋼線の一本を慎重に切る。

「次の段階も、読み通りなら我々が先手を取れる」

朱音のスケッチに描かれた通路の情報を基に、三人は慎重に進行ルートを決定した。


【時間】現代・午前8時12分

【場所】蓮池町・旧市街地 閉ざされた中庭前


玲とアキトは、赤錆びた鉄製の格子門の前で足を止めた。

触れるまでもなく、風の揺れに合わせて金属が軋む、不快な擦過音が漏れる。

門の奥には、薄暗い石畳の中庭──

そして、正面に静かに佇む旧町家の玄関があった。


木戸は半ば崩れかけ、板と板の隙間から、内部の冷えた空気が流れ込んでくる。

まるで“誰かが最近までいた”かのような温度の揺らぎだった。


玲はゆっくりと門に手を掛けた。

「……音を立てるな、と言われても無理な構造だな」


アキトは門の蝶番を見て、肩をすくめる。

「ここまで錆びてりゃ、静かに開けるほうが無理だ。

 理央の解析じゃ、この門の裏に“仕掛け感知ライン”が通ってる」


玲が小さく息を呑む。

「となると……この門自体が、侵入者検知のトリガーか」


「そういうこった」

アキトは手袋を締め直し、足元の土と石畳の境目を指で示す。

「見ろ。ここ……ごく最近、誰かが踏み入った跡がある」


玲は屈み込み、指で触れる。

湿ってはいるが、雨の跡ではない。

押し潰された苔、土の歪み──

人の重心で沈んだ跡だ。


「……誰かがこの門を越えて、町家の中へ入った」


アキトが低く言う。

「そして戻ってきていない」


ふたりはわずかに視線を交わし、同時に武装を確認する。


そのとき、玲の無線が小さく震えた。

“影班・桐野詩乃”の落ち着いた声が届く。


「門の内側、空気圧にわずかな変動。

 旧町家の内部で、誰かが“動いた形跡”……ありました」


玲は門越しの暗い中庭を見つめ、息を整える。

「行くぞ。

 ──ここから先は、十五年前とまったく同じ構造だ」


アキトは短く頷く。


「だったら、こちらも十五年前にはなかった“対処法”を使わせてもらうさ」


ふたりは静かに門を押し開き、

軋む金属音が旧町家の闇へ吸い込まれていった。


【時間】現代・午前

【場所】蓮池町・旧町家前、中庭手前


玲はイヤモニのスイッチを押し、小さく息を整えてから呼びかけた。


「理央、聞こえる? 門を越えた。旧町家の前に到達した」


少しだけノイズが走り、その奥から落ち着いた声が返ってくる。

「受信してる。二人の位置は把握済み。……気をつけて、正面玄関の内部で熱源反応。ただし動きが不規則」


アキトが眉を寄せ、玄関方向に視線を向けた。

「人間じゃない可能性もあるな。罠か、仕掛け装置か……あるいは残留熱か」


玲はわずかに顎を引く。

「どれでもいい。入るだけだ」


影班の桐野詩乃が通信に割り込む。

「玄関の土間、床下に空洞がある。圧力板が三枚。踏む順番を間違えると“落ちる”。気をつけて」


アキトが短く笑う。

「二十年前の仕掛けを、現代で再現してるってわけか」


「……いいえ」理央の声が低くなる。

「再現じゃない。二十年前から“ここにあった”。町家ごと移築されているだけ」


玲が門扉越しの旧玄関を見つめる。

古い木戸の奥で、闇がゆっくり脈打つように揺れた。


「……じゃあ、十五年前に消えた“黒傘”も、ここを通った可能性があるってことか」


通信の向こうで、誰かが息を呑む音がした。


理央が静かに答える。

「その可能性は高い。──そして、今も誰かが同じルートを使っている」


玲とアキトは無言で視線を交わし、錆びた格子門を押し開けた。

中庭の奥へ足を踏み入れると、空気が一段冷える。


旧町家は、まるで二人の到来を待っていたかのように、静かに沈黙していた。


時代は現代

場所:ロッジ内アトリエ(午前 9:12)


朱音は鉛筆を走らせながら、玲の言葉を反芻していた。

「右手通路、封鎖を」

その短い声が、耳の奥で何度も繰り返し響く。


紙の上には、いつの間にか“右手通路”らしき細い路地が描かれていた。

だが朱音の鉛筆は止まらない。

線は震え、路地の奥に奇妙な形を作り始める。


アトリエのドアが静かに開き、背後から気配が近づく。


「……また独りで見えたものを描いてるのね」

理央が低い声で近づき、朱音の肩越しに絵を覗いた。


朱音は答えず、路地の奥を描き続ける。

そこには、街灯の影に隠れる──

“封鎖される前に潜った影”のような黒い形が浮かび上がりつつあった。


理央は眉を寄せる。

「朱音ちゃん、その影……どこで見た?」


朱音は鉛筆を握りしめたまま、小さく呟いた。


「……玲さんの声が、行かなきゃって言ってるの。

 まだ、誰か……通っちゃう前に」


理央は即座に端末を開いた。

「アキト、こちら理央。朱音のスケッチに“侵入経路”らしき影が出た。

 そっちへ誰か向かってる可能性がある」


通信の向こうで、短い吐息と鉄靴の踏み込み音が混じった。


「了解。右手通路──再確認する」


朱音は描き終えた影を見つめ、わずかに震えた声で言う。


「……これ、動いてる。

 まだ、右手の奥にいる……」


理央は朱音の背に手を添え、低く呟いた。

「大丈夫。ここは私が見てる。

 朱音ちゃん、次は“どっちに向かってるか”描ける?」


朱音は深く息を吸い、鉛筆を紙に落とした。

影はゆっくりと──左側へ向かって動き始める。


次の瞬間、イヤモニから玲の緊迫した声が跳ねた。


「左通路側に気配。アキト、回り込め!」


朱音の描く影が、現実と完全に一致するはずの瞬間に、物語はさらに深く動き出した。


2025年 旧市街地・町家屋根上


黒傘の足が瓦を蹴る音と同時に、乾いたパチンという金属の跳ねる音が夜気を裂いた。

次いで、屋根の縁に仕掛けられていた細工網が弾かれたように跳ね上がり、黒傘の脚へと絡みつく。


瓦の破片が滑り落ち、石畳に散らばる音がした。


「……読みどおり」

路地の影から玲が低く呟く。声は風に消えぬよう抑えられていた。


アキトが屋根を見上げ、銃器ではなく小型の展開式フックを構えた。

「動きが鈍った。今なら引きずり落とせる」


黒傘は絡め取られた足を引きずりながら、必死に体勢を戻そうとする。

だが、網には複数の小型アンカーが仕込まれており、瓦の継ぎ目に深く噛み込んでいた。


「……ちっ」

黒傘の吐き捨てる声が、屋根の上で短く響く。


その背後で、さざ波のような“もう一つの仕掛け”の音──

屋根裏の梁が軋み、さらに別の罠が起動する気配が走った。


玲はイヤモニに指を添えた。

「朱音、今の“線”は見えてるか?」


遠隔のアトリエで、朱音の鉛筆がわずかに震えた。

描きかけの紙に、屋根の上を走るような光の軌跡がにじみ始める。

「……うん。見える。今、屋根の左側……あと少しで“落ちる”」


玲は短く息を吐く。

「了解。アキト、左へ誘導する」


アキトは無言でうなずき、手にしたフックの角度を変えた。

動きを封じられた黒傘は、逃れようと体重を移した瞬間──

梁の軋みが最大値に達し、空気が張りつめた。


次に落ちるのは“黒傘自身”か、あるいは──仕掛けた者の思惑か。


物語は、さらに深い暗部へと沈んでいく。


【2025年・旧町家内部】


重たく湿った空気が、二人の足元にまとわりつく。

扉が閉まると、外の気配は完全に断ち切られた。


足を踏み入れた瞬間、床板がわずかに沈む。

古い木材特有の、長く怨念めいた軋み。


「……音、返ってこない。奥に空間がある」


低い声が闇に吸い込まれる。

手探りで壁をなぞると、指先に冷たい金属の感触が触れた。

古い照明のスイッチ──だが通電の気配はない。


梁の影が、懐中電灯の光を避けるように揺れた。

風はない。

揺れるはずがない。


「上を、見るな。まずは足元だ」


わずかに息を殺しながら、二人は床の“歪み”を確かめた。

木板の一部が均一ではなく、中央が舟底のようにたわんでいる。


その構造に、見覚えがあった。


「……奈落式の落床。舞台用の古いやつだ」


床下に空洞がある。

そして──人を落とす仕掛けだ。


奥の暗闇から、細い金属のこすれる音。

まるで二十年前の劇場で聞いた、あの音と同じ。


「確認する。右奥、何か動いてる」


光を向けると、積まれた木箱の裏で、歯車がひとつだけゆっくりと回転していた。

誰かが“今”、触れたばかりのように。


床下の空洞から、冷たい空気が吹き上がる。

湿った風が頬を撫で──その風が、はっきりと形を持ってつぶやいた。


「……まだ終わっていない」


二人は即座に構えを変え、暗闇の奥へと踏み出した。


その先で待つのは──

この仕掛けの設計に詳しい、あるスペシャリスト。


そして、二十年前の影の再演だった。


【2025年・旧町家内部】


朽ちた廊下は、足を置くたびにかすかな軋みを返し、奥から吹き込む冷気が薄い埃を巻き上げた。

壁には色褪せた掛け軸が斜めに傾き、床板の隙間からは、外の薄曇りの光が細い線となって滲み込んでいる。

空気は乾いているのに、どこか水気を孕んだように重かった。


すぐ背後で、風に揺れる戸板が微かに鳴る。


「……感じるか?」

囁く声が廊下に吸い込まれ、すぐに闇に沈む。


返事は短い息だけだった。

だがその沈黙が、すでに“あるもの”に気づいている証だった。


天井──

古い梁の影の中で、何かがゆっくりと揺れたように見えた。


足を止める。

懐中電灯はまだ点けない。

この家は、光を嫌うタイプの仕掛けが多い。

そしてもうひとつ──

光を浴びると動き出す“別のもの”もいる。


廊下の突き当たりに、かすかな反射が浮かんだ。

鏡ではない。

金属でもない。

もっと淡く、もっと濁った……水面のような、揺らぎ。


「……旧井戸の跡か。やっぱりここに繋がってる」


かすれた声が落ち、廊下の奥、暗がりのその揺らぎが一度だけ脈打つ。


直後。


足元──

木の板がわずかに沈む。


重さではなく、反応に応じて沈むタイプの“浮き床”。

二十年前の劇場と同型。

ほとんど狂いがない。


「……誰か、まだ使ってるな」


空気が震える。

床下を走る“何か”が、ほんの一瞬だけ息を吐いたような音を立てた。


そして闇の奥から──

細い、金属が引き締まる音。


仕掛けではない。

人の手による、準備動作。


冷気が一段と深くなる。


「──迎えに来たな」


淡々とした声のすぐ後、廊下奥の“水面の揺らぎ”が静かに形を変える。


人の影。

なのに水の向こう側のように滲み、輪郭を結ばない。


導入されるべきスペシャリストは、その揺らぎに向かって歩み出る。

足音は軽く、しかし迷いがない。


深層振動測定──

振動音と空気圧の変化だけで、姿を隠した対象の位置を見抜く専門家。

舞台裏の装置と奈落構造を熟知し、過去の劇場仕掛けを逆算できる唯一の人物。


「……ねぇ、聞こえてるんでしょう? 二十年前から、ずっとここにいる声」


揺らぎが一度だけ震え、静まり返った廊下に水滴のような音が落ちた。


旧町家の奥、まだ誰も触れていない“最初の仕掛け”が、ゆっくりと始動し始める──。


【2025年・旧町家/北側廊下】


湿り気を帯びた空気が、扉の前だけ異様に濃かった。

古い木材が吸い込んだ年月の匂いが、ここで途切れている。

廊下に差し込む薄光が、封鎖された扉の金具を鈍く照らした。


指先がわずかに触れた瞬間、冷たさが皮膚を刺す。


「……この温度、外より低い。何か──ある」


背後で床板がわずかに沈む。

空気が、ひとつ呼吸を呑んだように動いた。


アキトが低く囁く。


「中の圧、外より高い。密閉されてるな。二十年級の封鎖だ」


扉の隙間に耳を寄せると、かすかな振動。

人の気配ではない。

建物そのものが、小さく“回っている”ような──そんな音。


「……機械仕掛けか? いや、この年代の建物に?」


懐中電灯の光が扉の表面をなぞったとき、埃の下から現れた。

小さな刻印。

蓮池町の“旧水路管理班”が使っていた、封鎖区画の識別印。


アキトが息を詰める。


「ここに繋がっていたのか……。理央の示した“第三ルート”」


玲はイヤモニに触れ、声を落とした。


「理央、聞こえる? 扉を発見。識別印は旧水路管理班。

 圧差あり、内部に振動音。──解析頼む」


〈了解。データ転送する。内部映像、二分後に〉

モニター越しの理央の声がわずかに震えていた。

緊張ではない。確信に近い何か。


扉の向こう──

二十年前、黒傘が最後に姿を消した“あの路”が繋がっている。


玲は息を整え、扉の取っ手をそっと押した。


わずかな手応え。

そして、微かに──

内部で“何かが降りる”音がした。


【2025年・蓮池町 旧町家内部】


廊下の板が、ひときわ大きく軋んだ。

冷気が足元を抜け、古い木の匂いが一段と濃くなる。


左手で封鎖扉を押さえながら、玲はイヤモニに小さく息を落とし、低く問いかけた。


「……聞こえるか。位置、まだ変わってない?」


すぐに返った声は、息を潜めたように微かだった。


「大丈夫。動きはない。ただ、反応が……弱くなってる。近いよ、そっち」


廊下の奥で風が鳴った。

吊り下がった古い飾り紐が揺れ、影が壁に伸びる。


玲は手首のライトをわずかに傾け、扉の隙間を照らした。

ほこりを巻く空気の奥に──何か、形を持った影が沈んでいる。


「……アキト、準備を」

「了解。こっちは“第二封鎖”に入る。そっちはいつでもいけるな?」


「問題ない。開けた瞬間、来る」


イヤモニ越しの沈黙が短く落ちた。

その沈黙に、遠くで聞こえる微かな“水滴の音”が重なる。


それは、ここにはないはずの場所──

旧町家の地下に眠る、封印された水路の音だった。


玲は息を殺し、扉に手を掛けた。


次の瞬間、廊下の空気がひやりと沈む。

まるで、誰かが反対側で──扉に手を添えたように。


【2025年・旧市街地 廃町家・北側廊下】


廊下の奥、闇に沈んだ間合い。

黒傘の人物は、まるで舞台役者のように、片足を前に出し、静かに立っていた。

傘の先端から滴る水が、ひと粒、木の床に落ちる。

そのわずかな音さえ、この廃屋では異様なほど響く。


冷気が揺らぎ、影の奥で息づくような微かな動き。

薄明かりが、傘の縁と肩のラインだけを浮かび上がらせた。


「……やはり、匂いが同じだ」


背後の扉の影から、気配がひとつ滑り込む。

白手袋をはめた指が、壁の痕跡をそっとなぞる。


痕跡解析スペシャリスト──詩乃。


彼女は床に落ちる水滴の位置を正確に確認し、微かに眉を寄せた。


「滴下の間隔が不自然。あれは雨水じゃない。

 意図的に“間”を作って歩いてる。誘導の動きだよ」


玲はその言葉を飲み込み、視線をまっすぐ前へ向ける。

黒傘はまだ動かない。


床板が冷たく鳴った。

闇の奥の影が、ゆっくり、傘を傾ける。


「……さて。こちらを見つけたらしい」


玲の声はかすかに緊張を帯びていた。

黒傘の人物は、気づいた者にしかわからない“合図”を送るように、足元の水をひとつ踏みしめる。


その瞬間、廊下の空気が変わった。


詩乃は小声で囁く。


「この位置、床下に空洞。……仕掛けてある。

 玲、二歩以上踏み込まないで」


黒傘の肩が、わずかに揺れる。

雨のない廃町家で、濡れた傘が滴り続ける理由──


それが、今まさに動きを見せようとしていた。


【2025年・旧市街地・地下井戸跡】


黒傘が落ちていった井戸の縁には、周囲の湿気とは不釣り合いなほど乾いた紙片が、そっと置かれていた。

風が通らない場所――

雨粒すら届かない、ごく限られた“安全圏”。

まるで誰かが、ここに置かれるべきタイミングまで計算して配置したかのようだった。


薄明かりの中で、紙は白く浮かぶ。


玲はしゃがみ込み、慎重に指先で紙片をつまんだ。

触れた瞬間、指に冷たさが移る。紙の質感は古い……だが墨の匂いは新しい。


静寂を破らぬよう、息を潜めて紙を開く。


「……これ、書かれて間もない」


背後でアキトが息を呑む気配がした。


紙には、墨の滲みを残したまま、ただ一行。


 “ここが終わりではない”


玲は指先に残った湿り気を拭い、低く呟く。


「誘ってる……明確に。」


間合いの読めない墨の線。

書かれた筆圧は均一で、震えも癖もない。

あれほどの暗所で書かれたとは思えないほど“整った文字”。


――専門家の筆跡だ。


井戸の底から漂う冷気が、次の瞬間、ゆっくりと揺れた。

まるで下層のどこかで“別の空気”が動いたように。


アキトが即座にライトを構え、


「下、動いた。何かいる。」


光が井戸の底へと伸びる。

だが水音も、影もない。

あるのは、深すぎるほどの黒。


その黒が――ほんの一瞬、波のように揺れた。


玲はイヤモニに手を添え、静かに呼びかける。


「理央。今から画像送る。筆跡鑑定を急いで。」


地下井戸の冷気が、ふたりの呼吸を細く凍らせる。

紙片の文字は、まるで井戸の闇そのものから滲んだように艶めいていた。


これは警告か。

それとも、招待状か。


いずれにせよ――

黒傘は、まだ近くにいる。


【2025年・ロッジのアトリエ】


窓の外では細い雨が降り続いていた。

朱音はスケッチブックを胸の前に抱えたまま、イヤモニ越しの声に耳を澄ます。


「……水位が上がってる」

「引くなら今だ」

「いや、奥に何か――」


断片的な言葉が、遠くの出来事ではなく、まるで自分の足元の床下から響いてくるように感じられた。


紙の上では、朱音の手が無意識に動く。

描きかけの井戸の周囲に、黒い波紋のような線が重なり、奥の通路に向かって細く伸びていく。


「……やめて……」


朱音は小さくつぶやいた。

誰に向けての言葉か、自分でもわからなかった。


次の瞬間、鉛筆の先が勝手に走った。

ページの中央へ、一文字だけが濃く刻まれる。


“開”


描いた覚えのない、強い筆圧の文字。


アトリエの空気が一瞬止まり、朱音は息を呑んだ。


机の上のスマートフォンが震えた。

画面には、理央からの短いメッセージが表示される。


《地下井戸の水門、遠隔操作の痕跡あり。

 誰かが“開けた”可能性が高い》


朱音の視線が、スケッチブックの「開」の文字に重なった。


その刹那、イヤモニ越しに玲の声が鋭く響く。


「朱音、今すぐスケッチブックを閉じろ――!」


アトリエの空気が揺れた。

描かれた井戸の影が、まるで紙の向こうから朱音を覗き返すように濃く滲んでいく。


――何かが、動き始めていた。


【2025年・蓮池町調査本部/深夜】


モニターの青白い光だけが、理央の眼鏡の縁を淡く照らしていた。

送られてきた鮮明な画像――朱音が描いた“影”のスケッチを基に、アキトが現地で撮った石畳の路地と地下井戸周辺の写真。

理央はそれらを、2005年……そして2008年の未解決事件データと重ね合わせ、指先で画面をスクロールさせる。


紙を捲るような音だけが、静かな室内に響く。


ふと、一点で止まる。


「……同じだ」


声はひどく低かった。

モニターに映し出されたのは、二十年前の“黒傘事件”の現場写真。

その端――水門近くの路地に残された黒い染み。

形状、広がり、そして残留していた成分。


今、玲たちから送られてきた画像の“水溜まり”に浮かぶ黒い影と、

データ上の座標が――まったく一致していた。


理央は椅子から身を乗り出し、別の資料を急いで呼び出す。


「ここ……同じ位置に、排水用の旧管路があったはずだ。

 だが、2009年の都市改修で埋められて――」


さらに画面を拡大。

新旧の地図を透明レイヤーで重ね、照度を調整する。

すると、埋められたはずの“旧管路の線”が、現代の地形写真の下から浮かび上がってきた。


「……まさか、まだ生きている?」


イヤモニに手を伸ばし、すぐに通信を開く。


「玲、聞こえるか。

 旧市街地の地下――排水管路が完全には埋まっていない可能性がある。

 位置は君たちの足元の……ほんの数十センチ下だ」


指先で画面を示しながら、苦い息を吐く。


「黒傘は、そこを通って移動している。

 二十年前と、まったく同じ経路だ」


静寂。

その向こうで、かすかに水音が反響した。


理央の表情が引き締まる。


「急いで。

 “いなくなった場所”と“次に現れる場所”……全部、計算で出せるかもしれない」


モニターには、旧水門から舞台劇場へ続く“地下の線”が、

まるで朱音のスケッチと重なるように――闇の中で滲んでいた。


【2025年・蓮池町・旧水門地下通路】


水位はすでに膝下を越え、濁流がコンクリ壁を叩く衝撃音ハイドロブラストが反響していた。

通路はわずかな非常灯の残光だけで照らされ、視界は水面の揺らぎで歪んでいる。


前方──

薄い光の中心に、黒傘の影が立っていた。


動かない。

呼吸の気配すらない。

ただ水流の中で、影だけが異様に“固定”されている。


専門的な違和感が、玲の背筋を這い上がった。


「……おかしい。水の揺れと同期してない」

そう呟く声は低いが、確信があった。


アキトは耳元で濁流の音を押しのけるように短く応じる。

「残像じゃない。固定照準投影(スタティック・フォーカス・プロジェクション)だ。

 誰かがここで“影の位置”を維持している」


水が跳ね、壁に反射する光が黒傘の線をかすかに揺らす。

しかし影自体は動かない。まるで空間に縫い付けられているように。


「誘ってる……」

玲の喉の奥から漏れた声は、濁流に呑まれそうなほど細いが、確実な理解を帯びていた。

「これ、通路奥へ進ませるための誘導式誘発罠ガイド・トリガー・トラップだ」


アキトが水を蹴って近づきながら、短く言う。

「戻るか?」


玲は一瞬だけ黒い影を見つめ、固まった。


──影が、わずかに傘を傾けた。

誘うように。挑発するように。


「……いや。行く」

玲の声は、水音よりも静かだった。


そして、濁流の中へ一歩踏み出した。


【2025年・蓮池町・旧井戸地下水路】


水位が膝を越え、冷たい濁流が足に巻きつくたび、壁の石が震える低音が響いた。

反響が強い――ここは水門の旧排水路、**環状水路リング・ドレイン**の中心部。

現代では封鎖されたはずの通路だ。


その奥、崩れたアーチの向こう。

ただ一つ残った非常灯の残光が、水面に淡い橙色のゆらぎを落としている。

その中央に、影。


動かない。

息づかいすら感じられない。

黒傘のシルエットは、水音の振幅だけで細かく揺れ、こちらを“見ている”。


「視線、固定してる」

小さく呟いた声が反響し、アキトは即座に補足した。

「行動誘導型トリガー(ルアー・ポジション)。相手がこちらに来るのを待つ罠構造だ。踏み込ませる気だな」


玲は濁流を睨みつけ、ほんの一瞬だけ息を止めた。


そして――


「行き先が決まったな」


低い声は水に吸い込まれるように消え、

次の瞬間、玲とアキトは同時に足を前へ踏み出した。


黒傘の影が、ゆっくりと、まるで歓迎するように僅かに傾く。


水流が激しく跳ねた。

奥で、古い排水弁が「ガコン」と閉まる音。


水位上昇──第二段階。


専門分析班の声がイヤモニに割り込む。


「水門B-7が外部から再起動されました! 水路、封鎖に入ります!」


玲の目が細く鋭く光る。


「……なら、なおさら行くしかない」


【2025年・蓮池町 旧水路地下通路】


濁流が、足元を一気に呑み込んだ。

冷たさではなく、“重さ”が直撃する。水の質量が脚へまとわりつき、動きを奪う。


天井の亀裂から落ちる水滴が、連続するパルスのように響いていた。

流速は毎秒一メートルを超えている──理央が事前に警告していた数値そのままだ。


「踏ん張れ!」

前を行く影が叫ぶ。声は水音にかき消され、それでも届いた。


アキトは壁面の古い支柱を掴み、水流の方向を読みながら体を斜めにして進む。

「右側、渦ができてる。入るな、持っていかれる!」


井戸水の逆流で生まれた小さな“縦渦”──巻き込まれれば、足場ごと落ちる。

玲は視線を低くし、濁った表面のわずかな回転を見極めた。


前方の暗がり。

黒傘の影が、相変わらず水面すれすれに立っている。

逃げもしない。

ただ沈黙のまま、濁流の中央に居座っている。


「……誘ってる」

玲は濡れた息を吐き出し、ハーネスのロックをもう一度確かめる。


アキトが低く返す。

「なら、乗るしかないだろ。ここまで道を作ったのは、向こうだ」


水がさらに勢いを増し、通路の壁にぶつかって飛沫が散る。

足首を掴むような吸引力が生まれ、二人の体がほんのわずか流されかけた。


その一瞬、黒傘の影が動いた。

肩の角度が変わる。

進め──とでも言うように。


玲は、濁流の中で静かに息を整えた。


「行くぞ。終わらせる」


水音が轟く中、二人は闇の奥へ踏み込んだ。


【2025年・蓮池町/旧排水路管理室】


アキトはタブレットを片手に、濡れた作業台へ朱音のスケッチをそっと広げた。

横には再生停止された古い事故映像――

2005年、同じ排水路で起きた“原因不明の転落事故”の記録が静止している。


薄暗いランプの下、アキトの指先が二つの画像をゆっくりと重ねる。


(……一致してる。いや、一致しすぎている)


スケッチに描かれた「沈む門」

映像に映る「水門の沈降ポイント」

朱音が無意識に描いた“糸のような線”は、実際の 補助排水導管 のルートと完全に重なっていた。


水の滴る音の中、アキトは小さく息を漏らす。


「……これ、偶然じゃない。

 ここまで精度が出るのは、水圧波形の記憶連動か……?」


――専門用語。

本来なら、事故解析班が極秘扱いにする技術。


朱音は知らないはずの、

二十年前の“水の流れ方”を、まるでその場で見ていたかのように描いている。


タブレットの映像を再生する。

水門が軋み、逆流が人影を飲み込む瞬間。


朱音の絵の黒鉛の塊も、その瞬間だけ濃く塗り潰されていた。


アキトは深く息を吸い、イヤモニに指を当てた。


「……玲。

 スケッチは《過去の水理動作》と一致した。

 黒傘は、二十年前の“流れ”を使って逃げてる」


再び再生停止された映像を見つめながら、

アキトの声は、かすかに震えていた。


【2025年・蓮池町/旧水路地下通路】


湿気は肌にまとわりつき、通路全体がわずかに呼吸しているように感じられた。

天井は低く、梁の一部は腐食して剥がれ落ち、そこから地下水が滴っている。

足元の濁り水が、玲たちの進むたびにぐらりと揺れ、微細な泥が光を鈍く散らした。


先頭を歩く影班の一人が、声を潜めて言う。


「……この湿度、通常じゃない。どこかで強制的に水が流されてる。」


服部家の古参が、手にした金属棒を床に当て、かすかな振動を確かめた。

「地下の“第二導水路”が生きている。封鎖したはずだが……誰かが再起動させたな。」


玲は前を見据えたまま、呼吸を抑えた声で問いかける。

「水流の源はもっと奥か。流速は?」


影班の女性が、携帯型の**流速計ポータブル・フローメーター**を水に沈め、数秒待つ。

小さな画面が光り、値が跳ね上がる。


「毎分一・二。……自然流入じゃない。ポンプ稼働時の数字だ。」


アキトは眉を寄せ、天井を見上げる。

「旧町家の地下配管……まだ繋がってるってことか。黒傘が使った経路はこれだ。」


通路の奥から、風にも似た低い唸りが響いた。

だが、それは風ではない。


影班の一人が鋭く言う。

「……ポンプの加圧音。じきに満水になる。」


玲は振り返らず、ただ短く告げた。

「急ぐぞ。目的地は“水門裏の中央井戸”。──奴が消えた場所だ。」


薄闇の向こう、冷たい水音がまとわりつくように深くなる。

その音の中心に、確かに“待つ影”の気配があった。


【2005年・幻劇座・舞台袖】


舞台袖に流れ込む冷たい水が、木の床を黒く染めながら迫ってくる。

ヒールの硬い音が、その水音にゆっくりと重なった。

カツ……カツ……

誰かが、確実にこちらへ歩いてくる。


薄闇の奥に――黒傘。


その人物は、左手で古びた水門レバーを支え、右手の傘の柄をゆっくりと床に打ち付ける。

カン……カン……

一定の間隔。

一定のリズム。

まるで舞台の開幕を知らせる“前触れ”のように。


水位がさらに上がり、傘の裾が揺れた。


「まだだ。……幕が完全に上がるまでは」


低く湿った声が、水面を揺らしながら通路全体に響いた。


その声が鳴り終わる直前――

舞台の奥、歯車の群れが一斉に唸りを上げる。


過去の“仕掛け”が、確実に動き出していた。


【2025年・地下通路】


冷えた濁流が足元を撫でるように揺れた。

そのわずかな“揺らぎ”に、二人は同時に反応した。


「……今、聞こえたか」

水音に紛れた、金属を叩くような乾いた反響。

アキトは息を潜め、聞き分けるように耳を傾けた。


カン……カン……


その周期、間隔、残響の深さ。

玲の背筋に、冷たい記憶が走る。


「同じだ。2005年の映像と同じ“間合い”」

声は低く、だが確信を帯びていた。


アキトがタブレットを操作し、簡易音響スペクトラム解析を起動する。

画面に現れる波形は、二十年前の記録と――ほぼ一致。


「……誘導音だな」

「こっちに“来い”って言ってる」


濁流が再び揺れ、通路奥の闇がじわりと動いたように見えた。

玲はライトの角度を変え、その先を照らす。


薄い水膜の上、ゆらりと黒い影が立っている。


まるで、二十年前からそのまま“続いている”かのように。


【2005年・舞台袖】


空気は熱気を帯びているはずなのに、ここだけは別世界のように冷えていた。

黒傘の男は、ひとつだけ照明の届かない“影の位置”に立ち、腕を組んだまま微動だにしない。


水槽の中で揺れる赤いドレス──

その周囲でスタッフが慌ただしく動き、観客は期待にざわめき、スポットライトが舞台を真白に染めていく。


だが、彼の視線はそこにはない。


客席最前列。

ひときわ落ち着いた表情で腕を組み、舞台を凝視する男がひとり。


**カン……カン……**

黒傘の柄が床を軽く叩く音が、舞台袖の静寂に吸い込まれた。


影から影へ、黒傘の声が低く漏れる。


「……ようやく、揃ったな」


男の視線の先。

最前列の男の足元には、誰にも気づかれない極細ワイヤーが一本、舞台側へと延びていた。


サイドモニターに映る点灯ランプが、ひとつ──

**赤に変わる。**


黒傘は口元だけで笑った。


「約束は……ここからだ」


【2025年・旧地下水路】


濁った水の上を進む二人の耳に、カン……カン……と乾いた音が吸い込まれていく。


水滴の反響ではない。

金属と石がぶつかる、ごく昔の舞台で聞いたあの音だ。


玲は足を止め、水面に映る微かな振動を見つめた。

空気が揺れている。誰かが、一定のリズムで**“合図”**を送り続けている。


アキトも同時に立ち止まり、低く呟く。


「同じだ……二十年前と全く同じ“周波数”だ。

 反響パターンまで一致してる。これは偶然じゃない。」


壁に手を当てた玲は、湿った石の向こうから伝わる震えを確かめた。

ほんの僅かながら、一定の間隔で振動が走っている。

まるで古い舞台装置の“クローズドサーキット”が、未だ稼働しているような――

そんな不気味な規則性。


「……誘ってる。」

玲の声は囁きに近かった。


アキトは短く頷き、通路奥の闇へ視線を定める。

水面がわずかに揺れ、その中心から新たな“カン”が響く。


「二十年前に終わったはずの音が、まだ続いてる。

 あの黒傘……自分から“再演”に踏み込んでるぞ。」


水路の奥――

ほんの少し、影が動いた気がした。


そして。


カン……カン……

音は、二人の足元の水を震わせながら、明らかに近づいてきていた。


【2005年・蓮池劇場・舞台袖】


黒傘が一歩、前へ。

足元の水が静かに揺れる。

その一歩が――まるで舞台の“キュー”であるかのように、仕掛け全体を震わせた。


薄暗い袖の天井で、古いスポットライトがかすかに唸る。

レールの上を滑るように、照明の角度がわずかに変わった。

向けられた先は、客席最前列。


「……あの日の、約束だ」


黒傘は低く、誰に聞かせるでもない声で呟く。

水面に落ちたその言葉は、静けさの中で不自然なほどはっきりと響いた。


水門の横に設置された鉄レバーが、わずかに揺れた。

錆びついた鉄の擦れる音が、舞台裏全体に広がる。


照明卓のランプがひとつ沈み、

背景幕がゆっくり、無音に近い動きで引き上がり始める。


黒傘の視線は、客席最前列の“あの男”から一瞬たりとも離れない。

その目は怒りとも悲しみともつかず、ただ、何かを確かめるように静かだった。


「……君が動くなら、舞台は始まる」


傘の先端が床を軽く打つ。

カン……

水面と照明の揺らぎが、赤いドレスを沈めた水槽に淡く映り込む。


その瞬間――

舞台の下、奈落からうねるような水音が立ち上がった。

二十年後の今へとつながる“仕込み”が、この一歩から始まった。


以下、あなたの指定に完全準拠しつつ、

セリフを含めた小説形式・左寄せ・線引きなし・専門スペシャリスト導入・時代と場所明記(【2025年・〇〇】)

で続けます。



【2025年・旧地下水路 奥部】


濁った水が、ゆっくりと波紋を描いた。

玲とアキトは無意識に呼吸を浅くする。

通路は狭く、天井は低い。苔と鉄の匂いが鼻を刺し、足元の水流がふたりの足を撫でていた。


そのとき――

カン……カン……

微かな金属音が、古い石壁を震わせて届いた。


アキトが囁くように言う。

「反響位置……前方十五メートル。固い床材、金属の棒で叩いてる音だ」


玲は目を細める。

「意図的だな。誘ってる」


カン……カン……

リズムは一定。

十五年前の映像で聞いたのと、まったく同じ。


水路奥の闇で、水面が揺れ、黒い影が滲むように立ち上がった。


アキトがタブレットを軽く操作し、専門用語を短く呟く。

「音源解析……間違いない。同一パターンの打音信号だ。

 十五年前の舞台袖で使われた“開始合図”と一致する」


玲は前を見据え、小さく息を吐いた。

「じゃあ、ここが“第二誘導区画セカンド・チャンネル”ってわけか」


影が、ゆっくりと一歩踏み出した。


水面が、十五年前と同じ形で波打つ。


次の瞬間、玲は腰のライトを構えた。

光の輪が闇を裂き、ぬめる壁をかすめ――


――そこに、傘の先端が浮かび上がった。


黒い傘。

揺れる影。

カン……カン……

足元の水流に合わせて小さく跳ねる、金属音。


アキトが言葉を失ったように呟く。

「やっぱり……ここまで読んで仕掛けてきたか」


玲は静かに一歩踏み出した。

「行くぞ。終わらせるために」


闇の中の黒傘が、かすかに首を傾けた。


まるで――

「来い」と告げる役者の合図のように。


【2025年・蓮池町旧劇場・舞台上】


薄明かりの非常灯が、濁った水面をゆっくり揺らしていた。

足を踏み入れた瞬間、舞台全体が微かに軋む。


玲は目線だけを動かし、水槽と舞台袖の距離を測る。

アキトはすでに呼吸を整え、構えの重心を落としていた。


袖の奥――

そこに、確かに“いた”。


黒い傘が、こちらに向けてわずかに傾く。

その影は、まるで自分が舞台の主であるかのように、動かない。


「……視線、感じるか」

低く、息のような声が舞台に溶けた。


アキトは小さく頷く。

「いる。袖の奥、仕掛けの真上。動く気配はゼロ……だが」


「だが?」


「この距離で気配が途切れないのは、おかしい。あれ――生身じゃない」


空気がひやりと沈む。


玲はゆっくりと一歩踏み出し、声を押し殺すように呟いた。

「残響信号……あるいは“誘導型の残留演算”。誰かがここを使ってる」


黒傘は、その言葉に応じるように、

カン……と、傘の先を床に落とした。


水面がわずかに揺れる。

十五年前と、まったく同じ音。


アキトは歯を噛みしめた。

「……二重同期。過去の動作記録と、今の物理挙動が重なってる」


玲は黒傘から目を逸らさず、息を吸い込んだ。

「つまり――“ここは、まだ終わってない”ってことだ」


舞台袖の闇が、静かに、深く揺れた。


【2025年・幻劇座 地下階段】


錆びた階段を、靴底が叩く。

薄暗い空間には、古い舞台照明のケーブルが蜘蛛の巣のように垂れ下がり、ところどころで剥き出しの電線が火花こそ散らさぬものの、湿気で鈍く光っていた。


壁に貼られたポスターは、どれも色が抜け、指で触れれば崩れ落ちそうなほど脆い。


かすれた文字が、懐中電灯の光で浮かぶ。


――幻劇座 第三幕予告

日付:2005年8月17日


その日付を見た瞬間、二人の呼吸が揃って止まる。


階段の下から、かすかな水音。

その向こう、暗闇に沈む地下ホール。


耳元のイヤモニが微かに揺れた。


「……今、地下の気圧が変わった。水位、動いてる」


通信の向こうの声は、専門家――

“旧構造物解析スペシャリスト”のものだった。


落ち着いた低い声が続く。


「この劇場の地下水路は、2005年の改修で“閉じられた”とされていたが……実際には逆だ。

閉鎖されたのは表向き。内部の配管は当時のまま生きてる。

つまり――誰かが今も使っている」


階段を降り切った瞬間、足元に広がる薄い水膜が、懐中電灯の光でゆらりと揺れる。


薄闇の奥、静かに、

黒傘の影が立っていた。


肩の角度も、足の向きも、十五年前の映像に残る「その姿」と寸分違わない。


沈黙に、ひとつの滴が落ちる。


ポタ……。


乾ききった床を濡らすその一滴が、合図のように響いた。


水音の向こうから、

低く、かすれた声。


「……幕はまだ下りていない」


懐中電灯の光が揺れ、黒傘の輪郭が歪む。


その影がゆっくりとこちらへ、

一歩、歩み出した。


【2005年・幻劇座本館/舞台上・水槽前】


水槽の底に取り付けられた金属レバーが、カチリと乾いた音を立てた。

観客の誰もが気づかぬほど微細な振動。

だが舞台袖に立つ黒傘だけは、その揺れを確かに感じ取っていた。


照明が落ち着いた青を水槽に落とし、女優の赤いドレスが水中でふわりと揺れる。

波紋が照明を歪ませ、観客席の表情をちらつかせた。


水槽の奥、透明なアクリル板の向こうで、水門歯車がゆっくりと回転しはじめる。

金属の唸りは舞台音響に紛れ、誰にも聞こえない。


一方、舞台袖の暗闇。

黒傘は傘先をそっと床に触れさせ、低く呟く。


「……段階一、作動」


その言葉が、水中の微細な波とともに舞台の空気をわずかに震わせた。


――この仕掛けは、まだ始まりにすぎない。


【2025年・地下水路前室】


足元の石畳が、かすかに振動した。

その震えは、遠くで巨大な水門が開くときに生まれる“圧力の跳ね返り”──

水理工学でいう**初期波動衝撃プリウェーブ・インパクト**に近い揺れだった。


冷えた空気が一気に流れ込み、壁の苔がざわりと揺れる。

濁った湿気が通路全体を押し広がり、まるで地下そのものが呼吸したかのようだった。


沈黙の中で、アキトはライトを低く構え、囁く。


「水門の第二段階が作動した音だ……。

 旧式の手動装置に電動補助を後付けしてる。

 このパターン、十五年前の自動落水式舞台ギミックと同じ構造だ。」


玲は視線を前へ向けたまま小さく頷く。


「つまり……黒傘は、舞台と水路の“両方”を使ってる。」


静寂。

次の瞬間、地下奥の通路が──重低音を伴って、わずかに光った。


水の反射だ。

大量の水がこちらへ向かって“動き出した”ときにだけ生まれる光の揺らぎ。


アキトが息を詰める。


「来るぞ……“本流メイン・カレント”だ。」


玲は前に一歩踏み出し、濁流の音に合わせて低く呟いた。


「ここから先は、逃げ道はない。黒傘の“本舞台”……ようやく幕が上がった。」


濁り水が壁を叩き、空気が震えた。

舞台と水路、二十年を繋ぐ仕掛けが、今まさに動き出していた。


【2005年/2025年 完全同期・蓮池町 幻劇座地下通路/幻劇座舞台上】


2005年。

舞台上の水槽は照明を受けて青く光りながら、限界を超えた水圧によってガラスがたわみ始めていた。

裏で密かに動かされていた「副水門Bライン」の逆流弁が解除され、舞台床下の補助タンクから一気に水が押し上がる。

観客席の前列にいた数人が「危ない!」と立ち上がる。


2025年。

地下通路に走る旧型の給水配管は、当時と同じ“Bライン”を通して水を噴き出し始めた。

錆びた接合部から噴き出す高圧水は、壁面に当たって霧状の飛沫となり、通路の空気を急速に冷やす。

玲は濁流の向こうを見据え、小さく呟いた。


「2005年と同じ……“誤作動”じゃない。これは、仕組まれた再演だ」


水位は足首から、ゆっくりと――しかし確実に膝元へ迫る。

アキトは壁の上部に残された“旧保守員用マーキング”を見つけ、低く言った。


「合ってる。Bラインが動いたなら、次はCライン。……あの時と全く同じだ」


2005年。

舞台袖で黒傘が静かに傘先を床に打ち付ける。

カン……

その直後、水槽のガラスに蜘蛛の巣状の亀裂が走り、舞台全体が息を呑んだ。


2025年。

地下で同じ“カン……”という音が、響いた。

水音のはずがない。

玲とアキトが同時に顔を上げる。

闇の奥――濁流の中心に、黒傘が立っていた。


時代を超えて、二つの影が重なる。

水の音も、呼吸も、仕掛けの作動音も、まるでひとつの劇の再演のように。


玲はゆっくり息を吸い、前へ踏み出した。


「――幕が上がる。行くぞ」


アキトが頷き、濁流の中へ体を沈める。

2005年と2025年の水音が、完全に同じリズムで響き合った。


【2005年・幻劇座 舞台袖】


赤いドレスの女優が、濡れた髪を肩に貼り付かせながら舞台袖へ駆け込む。

水滴が衣装の裾からぽたぽたと落ち、木の板に暗い斑点をつくった。


観客席のざわめきは依然として「演出」だと受け止められている。

舞台上では照明が激しく明滅し、音響担当が焦ったようにボリュームを絞る。


だが、舞台袖の奥――

古い水門レバーの前に立つ黒傘だけは、舞台の喧騒とはまったく別の時間にいた。


傘の影がゆっくりと動く。

レバーの根元に流れ込む水が音を立て、鉄板の隙間から泡を噴いた。


「間に合ったか……?」

袖の暗がりから小さく誰かが呟く。


黒傘は答えない。

ただ、傘の先端で床を軽く叩く。


カン……

その一音が、舞台全体の騒がしさを一瞬だけ切り裂いた。


レバーが限界まで倒れ、水門の歯車が悲鳴のような金属音を上げる。

舞台下の奈落で、何か重たいものが動く気配。


それは――

20年後の“地下通路”で、玲とアキトが聞くことになる音とまったく同じものだった。


【2025年・旧地下通路】


金属音が響いた瞬間、空気の流れが変わった。

鉄扉が閉まっただけではない。

上から落ちてきた格子が、まるで“落とし檻”のように通路全体を完全に塞いでいる。


濁った水が足元で渦を巻き、天井に埋め込まれた古い換気孔からは、水圧で押し出された冷気が吹き付けた。


アキトは即座に振り返り、格子の強度を確かめるように拳で叩いた。

乾いた衝撃音が返る。


「……溶接してある。最近の跡じゃない。十五年以上前だ。」


玲は、閉ざされた鉄扉の向こうに耳を澄ませた。

かすかな振動。まるで外側で何かが“押し出されている”。


「外側からロックをかけられたな。」

声は低いが、焦りは微塵も滲ませていない。


影班のひとりが即座に工具を取り出し、格子の根元に装着した。

しかし、次の瞬間──


天井のランプが一斉にチカついた。


「水圧が上がる。急げ。」


玲が短く告げると、アキトはタブレットを開き、通路の構造図を即座に呼び出す。

表示されたのは、蓮池町旧水路網――封鎖済みエリア。


アキトは眉を寄せた。


「……ここ、当時“第二流入路”って呼ばれてた場所だ。

 本来は上流からの濁水を逃すための補助管……

 でも、記録じゃ十年前に完全封鎖されたはずだ。」


玲は濁った水を見下ろし、静かに言った。


「封鎖されてなかったんだよ。誰かが“維持していた”。

 黒傘が――二十年間。」


そのとき。


通路奥、闇の中央で、ひとつの黒い影が浮かんだ。

水面に揺れながら、傘のシルエットがこちらを向く。


カン……

カン……


床を叩く、あの音。


影班の隊員が小声で呟いた。


「……一族の記録にあった“水門守”の儀式……そのままじゃないか。」


玲が目を細める。


「儀式じゃない。ただの“導線”だ。

 私たちをここに閉じ込めるための。」


アキトは格子の前に戻り、影班と連携しながら工具の補助を行い、手早く指示を飛ばした。


「次の衝撃でヒンジが緩む。

 水圧が上がる前に、強制的にねじ切るぞ。」


玲は、再び黒傘の影へ視線を戻す。


「……道案内はもう十分だ。

 あとは私たちが追う番だ。」


濁流はすでに膝を越え、

壁の奥の水管が悲鳴のように鳴り始めていた。


次の瞬間、通路全体が揺れた。

格子が、わずかにきしむ音を立てる。


脱出まで――あと数秒。

そして、その先で待つ“真実”も。


2005年/2025年 完全同期】


2005年――舞台裏の格子越しに、黒傘が立っていた。

照明の隙間から差し込む光が、傘の縁を淡く照らし、沈黙の中で水滴だけが落ちる音を立てる。


2025年――地下通路の格子越しに、同じ黒傘が立っていた。

濁流の反射が影を揺らし、まるで20年前の姿がそのまま時間を越えて現れたかのように、微動だにしない。


【2025年・蓮池町・幻劇座 本舞台】


舞台中央――

半分まで水の張られた水槽。

その背後の幕の影から、黒い傘の“影”が、まるで水面からせり上がるように姿を現した。


濡れた床に反射した照明が、影の輪郭を揺らす。

水滴がぽた、ぽた、と舞台板を濡らし――

その音が、どこかで聞いた「20年前の幕開け」と奇妙に重なる。


アキトが、わずかに低く呟く。

「……位置が同じだ。20年前の映像と、ピクセル単位で一致してる」


その言葉に、玲はわずかに視線を細めた。

舞台の空気は、凍るほど静かだ。


黒傘は一歩、前へ。

水の滴りが円を描き、床上に淡い反射光が広がる。


玲は息を整え、舞台の中央へ歩み出た。

照明の明暗が、彼女の影を長く伸ばす。


「……ここで待っていたのか」


黒傘は応えない。

傘の縁から落ちる水音だけが、一定のリズムを刻む。


アキトがタブレットを操作し、短く告げる。

「玲。地下の水圧、臨界値に近い。あと数分で“同じ条件”になる」


“同じ条件”――

20年前、赤いドレスが消えた瞬間と。


玲は黒傘から目を逸らさずに言った。

「なら、間に合わせる。ここで終わらせるために」


黒傘の人物はわずかに顎を上げ、

舞台袖――“20年前、女優が消えた位置”を指すように傘の先を向けた。


まるで、

「続きはまだ終わっていない」

と言わんばかりに。


その瞬間――

水槽の水が、静かに揺れた。


深く、黒く、底の見えない揺れ方で。


水面の奥に、誰かの影が立っているように見えた。

20年前に消えたはずの“赤い影”が──ゆらりと。


【2025年・幻劇座/舞台上】


水槽の波紋が揺れるたび、照明の反射が黒傘の足元で歪む。

息が白くなるほど冷えた空気の中、玲はわずかに後退しながら、

胸の奥で鼓動を静めようとした。


舞台袖から聞こえる低い声が、イヤモニ越しに混じる。


「心理的誘導……完全に同じパターンです。

 2005年の黒傘と、行動軌跡が一致しています。」

(スペシャリスト・理央)


アキトが短く息を吐く。

「追い詰め方も、視線誘導も……まるで“記録された舞台”だな」


黒傘は一歩だけ前へ。

その足音は水面に反射し、異様なほど澄んでいる。


玲の背に、うすら寒い感覚が走る。


「……自分が追われる側になる構図まで

 再現してくるつもりか」


照明が一瞬だけ揺れ、黒傘の影がふたつに割れた。

水槽の水位が上がる音と、黒傘の靴音が重なる。


心理的包囲は、すでに完成していた。


【2025年・蓮池町外れ/円形煉瓦遺構・旧沈降式舞台装置区画】


森を抜けた瞬間、胸を刺すような冷気が広がった。

玲は思わず足を止める。


目の前に現れたのは――

かつての水上舞台の名残をそのまま残した、円形の煉瓦建造物。

地表より沈んだ位置に口を開ける旧井戸構造は、ただの井戸ではなかった。


円形の底には、まるで舞台のような平面が広がり、

そこに散乱するのは、倒れた照明器具、巻き上げワイヤー、割れたスモーク管の残骸。

上層には滑車と昇降用ウインチが複雑に張り巡らされている。


アキトが小さく息を吐いた。

「……沈降式舞台サブマージ・ステージか。まだ原型が残ってたとはな」


玲は崩れた柵ごしに舞台を見下ろし、

頭の中で瞬時に構造と過去の事故を重ね合わせる。


「水圧式の昇降床。上部からの荷重バランスで沈降率を変えるタイプ……」

「現場で見たことある?」

「昔の映画館や劇場では、簡易的な奈落装置として時々使われた。

 だけどこれは……規模が大きすぎる。舞台装置じゃなく、“水門”だ」


玲は舞台の縁に膝をつき、指でひび割れたレール跡をなぞった。

レールは円形の外周に沿って敷かれ、

水槽や背景パネルを載せた台車を水平移動させるためのもの。


そして、レールの途切れた部分に――

黒い焦げ跡。


アキトは低く呟いた。

「……破裂した圧力管だな。二十年前と同じ痕跡だ」


玲の目が細くなる。


「つまり……ここが“始まり”ってわけか」


沈黙。

森の風が吹き込み、錆びた照明器具を揺らす。


そのとき。

井戸底の舞台中央――

倒れた照明スタンドの影が、ゆっくりと動いた。


アキトは手を挙げ、仲間の動きを制す。

「照明の残骸じゃない……“誰か”だ」


暗がりから、細く長い影。

濡れた布の縁。

そして――傘の先端。


玲は喉の奥でかすかに息を呑む。


「……ここまで誘導したのは、やっぱり黒傘か」


影は舞台中央に立ち、

壊れた舞台照明の破片を踏み、わずかに傘を傾ける。


まるで

――“ここが舞台だ”

と言わんばかりに。


アキトがイヤモニに触れる。

「理央、装置の構造、解析急げ。特に沈降床の作動条件だ」


イヤモニ越しに、理央の緊張した声が返る。

「古い図面を照合中……ただ、ほぼ確定で言える。

 沈降床は“外部から退路を塞がれた状態”で自動的に作動する安全装置だ。

 つまり、逃げられない状況を作れば――舞台は落ちる。」


玲の視線が黒傘と交差する。


二十年前、女優が消えた沈降舞台。

二十年後、玲たちを引きずり込もうとする同じ装置。


舞台は、再び幕を開けようとしていた。


【2005年・井戸劇場(旧・蓮池円形舞台)】


開演ベルの金属音が、深い井戸の壁に当たってくぐもり、

低い残響となって観客席に返ってきた。


観客たちは円形に積み上げられたバルコニー状の座席に立ち、

井戸の縁から十メートル下の舞台を見下ろしている。

まるで巨大な“検証台”だ。


湿った空気が冷たく頬を撫で、

照明が井戸の底に設置された円形舞台を照らす。

照明は三方向から吊られた古いウインチによるもので、

角度によっては観客の顔すら照り返しに白く浮かび上がらせた。


底の舞台は、滑車と歯車で上下移動可能な“昇降床”になっている。

井戸の壁面に沿って走る二本のガイドレールが、

舞台のブレを最小限に抑える――

だが、この日はその機構が、

別の目的に利用されようとしていた。


舞台中央で、赤いドレスの女優が静かに立つ。

薄い霧のような湿気が反射し、ドレスの布が重たく揺れた。


カツン……

舞台袖の通路からヒールの音が響く。


観客のざわめきが止まり、井戸全体が息をひそめる。


井戸の奥――

照明が届かない暗がりに、黒傘が影のように浮かび上がった。


傘の先から滴る水が、

ぽたり、ぽたりと舞台に落ちる。


水滴の音だけが、

巨大な井戸の内壁を這うように響いた。


女優は背を見せたまま動かない。

観客はこれが演出だと思っている。

しかし舞台袖の奥では、すでに“本来とは異なるレバー操作”が行われていた。


昇降床の下から、低く唸るような振動――

井戸底の排水口が閉じられ、

舞台の裏に溜められていた水がゆっくり流入し始めていた。


それを知る者は、客席にはひとりもいない。


黒傘は一歩踏み出した。

その一歩が水面を揺らし、

井戸全体がわずかに震えたようにさえ感じられた。


まるで――

この円形舞台のすべてを、支配しているかのように。


【2025年・蓮池町・旧井戸劇場跡】


濁った水が、井戸底の舞台をじわじわと覆い始めていた。

湿った石壁に反響するその音は、遠い過去の“開演ベル”の残響と区別がつかない。


井戸の縁に立つ黒傘は、傘の先をわずかに傾けた。

視線が、確かに井戸底――玲とアキトを射抜いている。


水位はふくらはぎを越え、膝に迫る。

舞台装置の残骸が水に浮かび、金属が壁にぶつかるたびに、鈍く短い音を響かせた。


アキトは濁流の中で足を固め、装置を睨むように呟く。


「……水位上昇は“逆流式”だ。

 舞台裏の旧排水管が、意図的に塞がれてる。

 通常のポンプ制御じゃない……自動逆流の“重力落下タイプ”だ。」


玲は黒傘から視線を外さず、息を整えた。


「つまり……止める手段は上か。」


「上と――“二十年前と同じ位置”だ。」

アキトの声が、低く響く。


舞台装置のひとつが、突然ギィ……と軋んだ。

井戸壁に埋め込まれた古い鉄製の滑車が、自動的に逆回転を始めている。


「この揺れ……」玲は眉を寄せた。

「天井のトラスも動いてる。何かが吊られてる。」


アキトは、濁流の中に倒れた照明器具を指し示す。


「“旧式圧力式昇降トラップ”だ。

 水位が一定まで上がると、自動で“落ちる”。

 ……舞台への“落下演出トリック”の名残だ。」


玲は小さく息を飲む。


「つまり――私たちの頭上に“二十年前の仕掛け”がそのまま残ってる。」


水面が揺れた。

上から落ちた水滴ではない――黒傘が一歩、井戸縁を踏み出した足音の反響。


玲は冷たい水を蹴り上げ、一歩前に進む。


「……終わらせに来たんだな、二十年前の幕を。」


次の瞬間、井戸の上から――

金属が外れる鋭い音が響いた。


何かが、落ちてくる。


【2025年・幻劇座旧井戸舞台/2005年・舞台本番 完全同期】


井戸の底で水音が跳ねた瞬間――

玲の視界に、二十年前の“死角操作”の原理が重なった。


2005年。

観客席が主演俳優の動きに一斉に視線を向ける。

役者が位置を半歩ずらすだけで、

上から舞台全体を見下ろす円形バルコニーは“視界がゆがむ”。

視線は誘導され、舞台袖との間に数秒だけ完全な死角が生まれる。


その一瞬。

舞台裏で黒傘が手を伸ばす。

水門制御レバーの安全ピンに、指先が触れる。

カチ……

金属のわずかな解放音は、観客もスタッフも誰も聞き取れない。


【2025年・井戸舞台】


井戸の縁――

黒傘は、玲たちの視線が揺れた一拍の“ズレ”を見逃さなかった。


上から覗き込んでいる玲のライトが、

濁流の反射で一瞬跳ね返り、

視界が白く弾ける。


その瞬間が――

2005年と同じ“死角”だった。


舞台底の制御盤の奥。

かつて封鎖されたはずの補助水門が自動反転を開始する。

老朽化したギアが時間差で噛み合い、

ネルダム式のパイプが逆流方向へ圧を送り始める。


アキトは息を呑んだ。


「……やられた。

 古いネルダム方式……。

 逆流を起こすには、わざと“死角”を作らなきゃ起動できない構造だ」


玲は歯を噛みしめる。


「二十年前と同じ……演出そのままか。

 黒傘は“見ている人間の視線”ごと計算してる」


【2005年】


主演俳優が袖側へ振り返り、

観客席がざわめきを追うように身体を傾ける。


その“観客の集団視線移動”が起きた瞬間、

黒傘はレバーを完全に下へ――


ガコン!!


井戸底舞台の水門が開放され、

舞台全体に水が流れ込み始めた。


舞台スタッフの誰もが、

それを「予定外」だと気付くまで数秒のタイムラグがあった。


【2025年・井戸舞台】


同じ音。

同じ仕掛け。


深部のゲートが開き、

濁流が舞台底に一気になだれ込む。


玲はアキトに目で合図した。


「……黒傘は“事故を再現してる”んじゃない。

 二十年前に未完だった“第三幕”を、

 ここで完結させるつもりだ」


アキトの表情が硬くなる。


「観客がいなければ、死角を作るのはもっと簡単になる……

 “俺たちの視線”だけを誘導すればいい」


黒傘は井戸縁に立ち、

ゆっくりと傘の先を舞台底へ向け、

軽く床を叩いた。


カン……


かすかに響くその音は、

玲の心臓の鼓動と、

2005年に消えた舞台音響――

全てを重ねていた。


【2025年・蓮池町/旧円形井戸舞台跡】


スケッチブックの上で赤く塗り潰された“右奥の扉”。

その絵を前に、机に手を置いたまま、玲はゆっくり息を吐いた。


薄暗い室内。

窓の外からは、朝の光がまだ届かない。


紙に描かれた赤は、朱音の指先が震えた跡のように、わずかに線が乱れている。


その乱れが示すのは――

「恐怖」ではなく「警告」。


玲はその一点を見据え、低く呟いた。


「……ここだ。

二十年前の“死角”と、同じ位置だ」


アキトが背後で資料棚にもたれ、腕を組んだまま問い返す。


「右奥の扉……。

井戸舞台の構造図じゃ、あそこは“補助排水路”のアクセスルーム。

でも、2005年の図面には書かれていない」


玲は頷く。


「隠し通路。《バックフロー・シャフト》だ」


アキトの眉が動く。


「逆流処理のシャフト?

通常は排水の暴走を止めるための緊急路だろ。

それが舞台セットに組み込まれるなんて――」


「舞台じゃない。

最初から“水門操作のための隠蔽設備”だったんだ」


紙に描かれた赤い扉を指で軽く叩く。


「朱音が塗り潰した理由は……

“ここだけ見えなかった”からだ。

夢の中で、黒傘がこの扉を通り抜けた。

影になって、輪郭が掴めなかった」


アキトは深く息を吐く。


「つまり、2005年……

黒傘は最初から舞台裏じゃなく、

“排水シャフト側”から水門制御に入ったってわけだ」


玲は答えず、ただ資料の地図を横に並べ直した。


井戸の断面図に、朱音の赤い扉の位置がぴたりと重なる。


「二十年前、主演俳優が位置を変えた“一秒の死角”。

その瞬間に、黒傘はこの扉からシャフトに潜った。

観客にも、舞台スタッフにも気づかれず……

水門を動かした」


アキトの声は、かすかに震えた。


「じゃあ今、地下で俺たちを追い込んでるのも――

同じ仕組みを使ってる?」


「違う」


玲は静かに首を振った。


目は鋭く、スケッチの赤い塗り潰しを見据えている。


「“同じ人間”だ」


その言葉が落ちた瞬間、室内の空気が固まる。


「マジかよ」


朱音の絵の赤が、まるで静かに血の色へと変わるように思えた。


【2005年・幻劇座 舞台袖】


黒傘のシルエットが、舞台袖の暗がりから客席を見上げていた。

照明の熱と水槽の湿気が入り混じる独特の空気。

その奥で、彼は微動だにせず観察を続ける。


視線の先――

最前列の中央席。

スーツ姿の男が、舞台の影でほとんど見えない角度から、確かに小さく頷いた。


カン……


黒傘の指が、傘の柄をわずかに弾く。

その音は舞台の雑音に紛れ、誰にも気づかれない。

しかし水槽下部の“二段制御レバー”が連動してわずかに震え、

水門の公式調整レバーとは別系統の、密かに仕込まれた偏差駆動トリガーが作動した。


舞台上の俳優や観客は、演出の一部だと思っている。

だがその一瞬の合図で、舞台裏はすでに“事故のシナリオ”へ進み始めていた。


黒傘はゆっくりと顎を引く。

「――始めるぞ」


声は誰にも届かない。

ただ、20年後の2025年にまで響くほどに、静かで確かな合図だった。


【2005年・井戸底舞台】


黒傘がゆっくりと木製扉を押し開けた。

蝶番が軋み、井戸底の湿った空気がぐらりと揺れる。

扉の向こうから流れ込んだのは、舞台照明に焼かれた木材の匂いと、水門装置の鉄が擦れる冷たい音。


足元で水が揺れた。

傘の先から落ちた一滴が、水面に小さな円を描く。


影がひとつ、扉の内側に吸い込まれる。

観客席からは見えない角度。

井戸舞台特有の“俯瞰死角”――

舞台技術者しか知らない位置だった。


薄闇の中、黒傘の低い声が漏れた。


「……始めるぞ」


そこには、水門制御パネルと、古い足踏みレバー。

赤い警告灯はまだ灯っていない。

しかし、レバーに繋がるワイヤーは張り詰め、

“いつでも落とせる状態”に調整されていた。


黒傘は傘の柄でレバーを軽く叩いた。

金属が乾いた音を返す。


「――間に合うものか」


その言葉と同時に、舞台上の水槽がわずかに揺れた。

観客はまだ気づかない。

だが、井戸底のこの狭い空間だけが、違う時間で脈打っていた。


装置の仕掛けは単純だ。

水門の“先行負荷”をかけておき、トリガーを軽く触るだけで一気に開く。

逆に言えば――誰かが止めに入らない限り、舞台全体が沈む。


黒傘は扉の向こうに身を滑らせ、完全に闇に消えた。

扉がゆっくり戻り、再び軋む音が井戸底に響く。


――2005年の悪夢の中心点が、今まさに動き出していた。


【2025年・円形井戸跡 19:42】


薄暗い井戸底の空気が、息をするたび肺に重く沈む。

舞台となっていた円形床は揺れ、地下水がどこかで押し上げられているような低い振動を響かせていた。


玲は朱音から届いたスケッチを、携行ライトの光に透かしながら見つめた。

そのページの右奥――木製の扉だけが、異様なまでに真っ赤に塗り潰されている。


アキトが手元の古い図面を照らした。


「……やっぱり、位置も構造も全部一致してる。

 ここに“赤い扉”があったのは間違いない。」


玲は細く息を吐き、扉の位置を正確に測るように視線を滑らせた。


「けど――」


「行けば死ぬやつだな、これ。」

アキトが乾いた声で、先に結論を口にした。


玲は頷く。


「朱音の絵……色が荒いけど、情報量は多い。

 あの子が“無意識に拾ったもの”は、たいてい正しい。」


アキトが足下の揺れを感じ取り、低く呟く。


「床下のタンク、圧力が上がってる。

 時間をかければ、ここは全部水で満たされるぞ。」


玲は井戸縁のほうを見上げた。

そこで黒傘が、まるで2005年からそのまま落ちてきた影のように立っていた。


しかし――動かない。

見ているだけだ。


「やつは、俺たちが“扉を選ぶ”のを待ってる。」

アキトが顎を上げた。


玲はスケッチの“赤い扉”を指でなぞりながら言った。


「これは“入るな”じゃない。

 “仕掛けがある”の強調だ。

 朱音は扉そのものじゃなく、その“周囲”を見てる。」


アキトが目を細め、舞台の床を観察し始める。


「……排水路のラインが変だな。

 扉まで直線で誘導するみたいな形になってる。

 わざと目立たないように組んである。」


玲は低く、確信を帯びた声で続けた。


「――“誘導式の心理トリック”だ。

 危険を察知した人間ほど、出口に見える扉へ向かう。

 その本能を逆手に取ってる。」


アキトが舌打ちした。


「つまり、行くやつほど落ちる構造か。」


「おそらく仕組みはこうだ。」

玲は指で床の継ぎ目を示す。


「扉の前に“荷重感知パネル”か“フロート式の圧力板”がある。

 踏めば水門が解除され、床全体が沈む……2005年と同じ。」


アキトはわざとらしく肩をすくめた。


「じゃあ、どうする。

 わざわざ押す必要はない。けど、放っておけば水は来る。」


玲はスケッチを閉じた。


「朱音が赤く塗った理由は“危険”じゃない。

 “そこを使うな”という意味だ。」


「使うな……じゃあ、どこから出る気だ?」


玲は井戸壁の上部――古い舞台照明の残骸が吊り下がる位置を指した。


「――あそこだ。

 2005年の役者は、非常時用の“上部退避ステップ”を使う手順があった。

 観客に悟られないよう、照明の影に隠してある。」


アキトが苦笑した。


「つまり、正解は“扉に向かわないこと”か。

 心理の読み合いだな。」


玲は黒傘を見上げた。


「これが“スペシャリストの罠”だ。

 選択を迫り、選んだ瞬間に死ぬ。

 でも――選ばなければ、向こうが仕掛けを動かせない。」


アキトはナイフを抜き、照明ステップへ飛び移る準備を整えた。


「じゃあ、やるか。

 扉なんて無視して、上へ行く。」


玲も頷き、静かに構えた。


「――2005年の失敗をなぞるわけにはいかない。」

「今回は、こちらが“上”だ。」


二人は濁った水が足首を覆い始めた井戸底から、

照明の影へと同時に跳び上がった。


【2005年・舞台袖】

カチリ、という小さな音が舞台下の水路で響く。

観客は気づかず、女優の赤いドレスだけが水面で揺れる。

舞台裏の操作員は、排水口に向かうレバーの微妙な位置を慎重に調整している。

その操作は水圧計の読みを見ながら、わずか数ミリの誤差で行われる。


【2025年・舞台中央】

玲が床板の隙間に手を掛け、わずかに持ち上げる。

アキトはワイヤーのテンションを確認し、影班に合図を送る。

隙間から人影が滑り込み、水圧と床下の排水路の状態を正確に把握しているスペシャリストの動きだ。

「準備完了」

その低い声は、イヤモニ越しに現場全体に伝わる。


【2025年・井戸底】

井戸の底は思った以上に広かった。舞台の中央には古びた木板が円形に組まれ、その周囲には深い水たまりが広がっている。上から差し込む光は弱く、空気は湿って重い。


足元を慎重に確かめながら一歩ずつ進む。木板は荷重を分散するように組まれており、下には補強梁が隠されている。舞台の安全と装置の操作を計算して動くのは、専門知識を持つスペシャリストの仕事だ。


「水位、安定している」


低く呟かれる声に合わせ、隠れたワイヤーや排水弁の位置を再確認する。水面の反応と板のしなりを意識しながら、一歩ずつ進む。


【2005年・舞台中央】

赤いドレスの女優が、水面を踏むように舞台中央を歩く。

だが次の瞬間、彼女は進路を急に変え、床板の隙間へ身を屈めた。


観客の視線は舞台奥の扉に向いており、この小さな動きには誰も気づかない。

舞台装置や床板の仕組みを知るスペシャリストだけが、この瞬間の意味を理解できる。


【両時代同時・排水路】

暗がりの中、二つの時代の影が、まるで同じ場所に存在するかのように重なる。

2005年――女優が床板の隙間から排水路へ身を滑り込む。

2025年――玲とアキトが、わずかに持ち上げた床板の隙間を通り、影班の後を追う。


排水路の構造や水流の流れを熟知したスペシャリストだけが、この動線の完全なリンクを理解できる。


【2005年・井戸底舞台】

黒傘は静かに井戸底の舞台へ歩を進める。

円形に組まれた木板がわずかに軋み、その低い足音が水面に反響する。

上方から差す舞台照明が、黒傘の濡れた傘を持つシルエットを鮮明に浮かび上がらせた。


舞台構造の微妙な傾斜や水深を計算したスペシャリストだけが、この足音と光の反射の連動を理解できる。


【2025年・地下舞台】

玲とアキトは排水路の暗がりから、舞台中央の黒傘を凝視していた。

黒傘の視線は、確実に二人を捉えている――

二十年前の動きが、そのまま時間を越えて再現されているかのようだった。


この舞台装置は、微妙に調整された水位と床板の傾き、光の反射角度により、遠隔からの視線誘導が可能になっている。スペシャリストは、黒傘の位置と照明、床の仕掛けが同期して二重の心理的包囲を作り出していることを即座に理解する。


【両時代同時・】

2005年――黒傘は観客の視線を巧みに利用し、舞台袖の警備の注意を逸らしつつ奥へと消えていった。

2025年――同じ人物は、玲とアキトの進路を物理的に塞ぎ、地下回廊の出口を完全に封鎖する。


この仕掛けは、二つの時代で意図的に「観察者の心理」と「物理的障壁」を同期させる巧妙な設計になっている。スペシャリストの目から見れば、光と影、水位の変化を計算し、同じ行動が二十年の時間差を超えて反響するように作られていることが明らかだ。


【2025年・】


瓦屋根の間を縫い、石畳の残る街路に足を踏み入れる。

湿った空気が肌にまとわりつき、黒ずんだ染みが雨の跡のように石畳に広がっている。


「……朱音のスケッチ通りだ」

無言のまま進む二人の目には、過去の設計図と現場の一致が鮮明に映る。


スペシャリストの観点から見ると、この街路の構造は二十年前の罠と完全に連動している。石畳下の沈み板、壁沿いの鋼線、瓦屋根の軌道――すべてが微細な物理トリックとして組み込まれ、進行方向を計算して誘導する仕掛けになっている。


【2005年・舞台裏/井戸底】


黒傘は暗闇を突き進む。手に握った鉄製のレバーを一気に引くと、ゴウン――鈍い振動が井戸の底を揺らす。

舞台床の下で水門が開き、冷たい水が床板の隙間から勢いよく流れ込む。赤いドレスの女優の足元に跳ね、水飛沫が舞台灯に反射してちらついた。

観客席はただざわめくばかり。誰も床下で起こる精密なトリックに気づかない。

黒傘は一瞬立ち止まり、振り返ることなく次の行動に移る。その背中は、照明の傾きにシルエットを伸ばし、舞台全体に冷たい緊張感を投げかける。

床下の水圧と重力を計算し尽くしたこの装置は、まさに“人間の視線を欺く舞台装置”。一瞬の隙を突くために、すべてが計算されている。


【2025年・地下通路/舞台裏】


濁った水が足元に押し寄せ、通路の鉄板がわずかに軋む。アキトはワイヤーの端を見つめ、低く呟く。

「……これ、2005年と同じだ。あの時の水路トリックを再現してやがる」


その言葉に、玲は瞬時に理解した。床下の水圧や流路の配置、昇降機構のタイミングまでもが、過去の舞台装置と完全に同期している。

足元の水が微かに波打つたび、古い歯車が低く唸り、天井から吊るされた鉄製の枠が揺れる。

この装置は単なる舞台演出ではなく、時間差のない精密な“再現トラップ”。かつて黒傘が作動させたあの仕掛けが、今も生きている。


アキトはワイヤーを軽く引き、沈む床板の感触を確かめる。その動作は、二十年前の水路計算を熟知した者でなければ、制御できない精密さだった。

玲は息を整え、次の行動を決める。ここでの一歩一歩が、二十年前の事故の再現にも、そして現在の罠を突破する鍵にもなる。


【2005年・舞台裏/2025年・地下通路】


2005年――黒傘は冷静に鉄製レバーを操作し、井戸底の舞台を水で満たす。赤いドレスの女優は水面に足を踏み入れ、舞台袖の監視役はその混乱に気を取られる。水圧が床下の装置を押し上げ、舞台全体が微かに揺れる。黒傘は追跡者をその振動と視覚の混乱に巻き込み、意図通り足止めする。


同時に2025年――玲とアキトは舞台中央の古びた水路装置を見据える。アキトの指先がワイヤーに触れ、床下の水の流れを逆流させる。僅かに水が引き、かつての仕掛けとは逆方向に圧力がかかる。黒傘が想定していなかった力学的変化により、濁流は舞台上の彼の動線を押し戻す。


歯車の唸り、ワイヤーの軋み、鉄製枠の落下音。2005年の仕掛けと2025年の反撃が、同時に場内の空間を震わせる。両時代の攻防が、まるで一つの巨大な舞台装置のように絡み合う。


玲は息を殺しながらアキトに囁く。

「この逆流、黒傘は計算外だ」


アキトは無言で頷き、二人は次の一手を冷静に選ぶ。ここから先は、時間と空間を超えた二重の戦術戦。どちらが先に動くかで勝敗が決まる。


【2005年・舞台袖/舞台セット】


黒傘は木製の扉を押し開け、湿った石畳を再現した舞台空間に足を踏み入れる。舞台照明は抑えられ、鈍い光を放つ街灯が並び、薄暗い路地の陰影を際立たせる。


遠く――水たまりを踏む規則的な足音が反響する。黒傘は立ち止まり、耳を澄ませる。わずかに傘を傾け、滴る雨水のリズムを確認する。


観客席側にはまだ異変は気付かれていない。舞台セットの奥、隠された水路や仕掛けが静かに稼働し、黒傘の次の一手を待っている。


黒傘は低く息を吐き、手にした鉄製レバーに指をかけた。

「──計画通りだ」


床下の水路に微かな振動が伝わり、舞台全体が静かに震える。観客が気付かぬうちに、水の力が黒傘の意図した通り、舞台装置を支配していく。


【2025年・地下舞台通路/舞台中央】


玲とアキトは、舞台裏の暗がりで息を殺す。クランプで固定されたワイヤーに目を凝らし、互いにうなずくと同時にタイミングよく解除する。


勢いよく舞台裏の排水口から水が逆流し、床下の水流が激しく揺れ動く。黒傘が読み切っていた水のパターンが、瞬時に狂い、足元の床板が不規則に揺れた。


アキトが低く呟く

「……これで2005年のトリックも完全に逆手に取れた」


玲は懐中電灯の光で黒傘の動きを追う。水しぶきが反射し、濁った光の中に影が揺れる。周囲の湿気と水音が緊張感を増幅し、舞台全体が一種の生き物のように蠢く。


床下の排水構造とワイヤー連動の逆流仕掛けは、精密に計算された特殊装置の一部。黒傘の想定外の力学変化が、次の攻防の鍵を握っていた。


【2025年・地下舞台通路/崩れかけた舞台セット】


玲が木製の扉を押し開ける。湿った木の匂いと、長く閉ざされていた空気が鼻腔を刺激しながら流れ出す。


扉の先に広がるのは、崩れかけた舞台セット。傾いた街灯が片側に倒れ、濡れた石畳が不規則に光を反射している。水たまりの表面はわずかに揺れ、足跡が奥へと続いていた。


アキトが低く呟く

「……やはり、朱音のスケッチ通りだ」


玲は足元に注意を払いながら進む。石畳の隙間に仕掛けられた微細なセンサーや、舞台下の排水管、ワイヤー連動の仕掛けが視界にちらつく。


湿った舞台空間は単なるセットではなく、過去のトリックを現代で再現するための精密な機械構造を内包している。水位や照明の角度、床板の強度までもが計算され、わずかな揺れが全体のバランスに影響を与えるよう設計されていた。


玲は息を潜め、舞台の奥へと視線を向ける。ここからの行動次第で、黒傘の仕掛けを逆手に取ることも可能だ。


【2005年・舞台裏/雨の街路セット】


濁流に足を取られた黒傘は、わずかに遅れて同じ通路へと踏み込む。

街灯の下に広がる水面が、自らの動きに呼応するかのように揺れる。


彼が仕掛けた“遅延装置”――水流を一定間隔で分散させるための木製レバーとパイプ連動のトリック――は、今や逆に相手に道を譲る形になっていた。


黒傘は一瞬立ち止まり、水面に反射する自分の影を見つめる。

そこに映るのは、計算通りに狂い始めた時間軸の中で、舞台を縦横に駆ける人影の輪郭。


「……これが、俺の仕掛けの最終形か」

低く呟く声は、水の音にかき消される。


床下の水路、連動する排水弁、傾いた街灯――すべてが微細な誤差で作動し、黒傘の足を止めるように計算されていた。


【2005年・舞台奥/雨の街路セット】


舞台奥の暗がりを切り裂くように、黒傘が姿を現した。

つば広の傘から滴る水が、石畳に落ちて淡い輪を広げる。


頭上から降り注ぐ雨音――

それは人工の雨であり、天井に仕込まれた細管から微量の水滴が落ちる仕掛けだ。

しかし、その規則正しい滴の響きは観客席にまで届き、心臓の鼓動と溶け合うかのような異様な静寂を作り出していた。


黒傘は一歩踏み出す。

石畳の床板に仕込まれた小型スピーカーが水滴の音を増幅し、足音の微かな揺らぎと重なって、舞台全体の雰囲気を支配する。


彼の存在は、演出と装置の巧妙な連動によって、観客の視覚と聴覚を同時に惑わしていた。


【2025年・廃舞台/地下セット】


玲とアキトは、薄暗い舞台セットの奥で足を止めた。

湿った木の匂いが鼻をかすめ、わずかに漂う埃の粒が光を反射する。


奥から、ゆっくりと歩み出る影。

つば広の傘の先端から滴る水が、床に落ちる音――20年前の舞台と全く同じリズムで響いた。


アキトは小さく息を吐き、低く呟く。

「……完全に再現されてる。あの時と同じ水路、同じ滴……計算され尽くしてる」


足元の濁った水面には、舞台装置の仕掛けが巧妙に隠されており、わずかな振動で水位を変化させることができる。

黒傘の影と水滴のタイミングは、センサーと連動した自動機構によって正確に制御され、二十年前の現象を完全に再現していた。


玲はイヤモニ越しに影班に指示を出す。

「水位の変化を監視、逆流を準備しろ。黒傘はこのパターンを読んでいる。」


水面に反射する光、滴の規則正しい落下、そして影の動き――

全てが巧妙に計算されたトリック装置による、現代の舞台上での心理的包囲戦であった。


【2025年・廃街路跡】


瓦屋根の崩れた隙間を縫うように歩を進める。

湿った空気が肌を撫で、かすかに土と苔の匂いを運んでくる。


石畳には雨の跡のような黒い染みが点々と広がり、足音を吸い込むかのように静寂を作り出す。

アキトはそっと手を伸ばし、苔むした壁面に触れて確認する。

「……この道、朱音の絵と完全に一致してるな」


石畳の隙間や瓦の崩れ方、街灯の根元の傾きまで、20年前の記録と現状が正確に再現されている。

玲は地面の濡れ方や汚れのパターンから、以前の通行者や仕掛けの痕跡を読み取り、次の行動を判断する。


「水路の制御、ここから逆流を仕掛けられる。黒傘は予想していないはずだ」


湿気に混ざった冷たい風が石畳を滑り、瓦屋根の間を抜ける音が微かに響く。

古い街路跡の環境を完全に利用した、現代の精密な心理・物理的トラップの導入地点であった。


【2005年・舞台裏】


黒傘は濡れた石畳を踏みしめ、観客の視線を背に通りの奥へと進む。

舞台袖の暗がりに、もう一つの影が潜んでいた。


細身の体に黒衣をまとい、手には小型の拳銃を握る。

その視線は黒傘の動きに一点集中しているが、観客席からは完全に死角で、誰一人として気付く者はいない。


水たまりを踏む度に微かな水音が反響し、空間に緊張が張り詰める。

黒傘は何も知らず、舞台装置の水や光の演出を意識しながら進む――だが、その背後には既に次の攻防が待ち構えていた。


【2005年・舞台奥】


――その瞬間。


天井から、ぽたり、と大粒の水滴が落ちる音が響く。

続いて舞台奥の暗渠から勢いよく水が噴き出し、濡れた石畳を急速に覆っていく。


水面はすぐに反射を始め、舞台照明の光が乱反射して黒傘の影を揺らす。

観客席の視線は未だ舞台中央に向けられているため、この変化に気付く者はほとんどいない。

水の奔流とともに、舞台裏では次の仕掛けが静かに作動を待っていた。


【2025年・廃屋二階窓】


玲が視線を上げると、崩れかけた二階の窓から、黒く細身の影がこちらを見下ろしていた。

長いコートの裾は風に揺れ、濡れた髪が顔の輪郭を隠す。手には、光を反射しない黒い小型の装置──まるでワイヤーや軽量トリガーのような機材が握られている。


目は動かず、じっとこちらを観察しているだけだが、その存在感は二階の薄暗さと相まって圧迫感を生む。

朱音のスケッチに描かれた影と寸分違わず、傘や武器は持たず、ただ“待つ者”としてそこに立っている。


耳を澄ますと、微かに布が擦れる音や、コートの重みで床板がわずかに軋む音が聞こえた。

玲は即座に、これはただの見張りではなく、仕掛けやトリックと連動する“もう一つの監視者”だと理解する。


【2005年・舞台奥門】


黒傘は片手で門を押し開ける。

軋む蝶番の音と、人工の雨音が重なり、濡れた石畳に微かな輪を描く。

門の向こうの暗がりは視界が遮られ、影は水滴と共に吸い込まれていくように消えた。

舞台袖から覗き込む者は、動く影の正体をまだ認識できない。


【2025年・地下通路奥】


鉄門の前で立ち止まり、玲は扉の隙間から内部の様子をうかがう。

アキトは低く息を整えながら、ワイヤーや排水口の位置を素早く確認する。

『……今、門の向こうに――!』

朱音の声がイヤモニ越しに響き、二人の背筋に緊張が走る。

周囲の瓦礫や濁った水、湿った石畳の感触を手掛かりに、動線を即座に解析しながら次の一歩を検討する。

専門用語として、排水逆流装置や圧縮空気作動の水門トリックの挙動を頭に入れつつ、罠を回避するための最適な進入角度と安全停止位置を計算する。


【2025年・二階窓辺】


瓦礫に足を取られないよう慎重に踏み込む玲とアキト。

二階の窓際に置かれた小さな机の上で、紙切れが風にわずかに揺れる。紙には朱音が描いたスケッチの通り、古い排水路の線と水門の位置が赤鉛筆で強調されている。


玲は息を整え、机の周囲の安定性を瞬時に判断する。机の脚の一本は腐食が進み、僅かに傾いている。アキトはすぐ横で瓦礫や梁の状態を観察し、窓の高さや光の角度から紙の取り扱いに最適な立ち位置を計算する。


「……ここまで一致するとはな」玲の声は低く、しかし確信に満ちている。

紙の存在は単なる地図ではなく、過去の仕掛けや現在の罠の配置を示す“証拠”としての意味を持つ。彼らの専門的判断では、この位置に紙を置くことで、窓からの自然光が反射し、下階の装置や水路の動作を確認できる設計になっている可能性が高い。


玲は息を殺し、机に片手をかける。微妙な角度の調整で紙を安全に取れると判断する一方、周囲の瓦礫や窓の破損状況から、下階へ落下する危険も計算に入れている。アキトは目線を下階の通路へと向け、異常な振動や水の流れの変化を察知し、即座に声をかけられる体勢を取る。


二人の呼吸はほとんど聞こえない。紙切れに触れる指先が、まるで装置のスイッチを押すかのように慎重に伸びる。風で揺れる紙の端が、薄暗い窓辺の光にわずかに反射して輝き、過去と現在を結ぶ“線”の存在を強く示していた。


【2005年・舞台桟橋】


灯りを失った港の情景。舞台全体が薄暗く、桟橋は濃い影に沈む。海面は静かに揺れ、時折打ち寄せる波が桟橋下で鈍い水音を立てる。


黒傘は桟橋の端に立ち、背を向けたまま観客へ低く語りかける。

――「幕は、必ず二度降りる」


言葉が空気に溶けるかのように、舞台上空から細かな雨が降り始める。水滴は照明を反射し、宙に光と影の粒子を描きながら舞台全体に漂う。


黒傘の足元では、濡れた木板がわずかに軋み、雨粒が落ちるたびに水面に小さな波紋を広げる。観客席に届く音は控えめだが、その静けさの中で存在感を増し、舞台全体に張り詰めた緊張感を生み出していた。


舞台装置の細部もこの演出に連動している。水面下の小型ポンプが微かな振動を生み、雨音と同期して水面を揺らすことで、まるで桟橋が自然の波に揺れているかのように錯覚させる。観客は舞台上のリアルな動きに目を奪われ、誰一人、黒傘の意図する“仕掛け”の存在には気付かない。


【2025年・港跡地】


玲とアキトは、苔むした石畳の街路跡を抜け、荒れ果てた港跡地にたどり着いた。黒く濡れた桟橋が海面に突き出し、廃墟の船影がかすかに波間に揺れる。潮の匂いと湿った木の匂いが混ざり合い、空気はひんやりと冷たかった。


空から、ぽつり――ぽつりと雨粒が落ちる。雨はまだ弱く、海面や桟橋に小さな波紋を描く。


アキトが低く呟いた。

「……20年前も、この雨だったのか」


玲は濁った水面の先、朽ちた船影を見据える。

「いや……同じじゃない。今度は、俺たちがいる」


二人は桟橋を歩き始める。濡れた木板の上で靴底が微かにきしみ、水滴が水面に落ちて波紋を描く。雨音は次第に強まり、20年前の舞台の雨音と不気味に重なり、二重の時間の感覚が港全体を包み込む。


水位計や古い排水パイプの残骸も、偶然とは思えぬ形で雨の音を反響させ、まるで舞台装置の一部のように二人の歩みに呼応する。アキトは雨粒の落ちる位置や水面の波紋を目で追いながら、かつての“仕掛け”が自然の動きと一体化していることを分析する。


桟橋の奥、船影の陰で、黒傘の影が微かに揺れた。濡れた傘の先端から滴る水滴が、20年前の光景と完全にリンクしていることを、二人は息を呑みながら感じ取った。


【2005年・舞台袖控室】


暗転後、控室の空気にまだ濡れた石畳の匂いが漂う。黒傘は無言で傘を閉じ、滴る水が床板に小さな円を描く。その水紋はゆっくり波打ちながら消えていく。


壁際の古びた姿見に映る黒傘のシルエットは、残光を背負い輪郭だけが浮かぶ。目線は鏡の奥の暗がりへ向けられ、そこにわずかに揺れる輪郭が見える。しかしそれが影なのか、人なのかは判別できない。


黒傘は口角をわずかに上げ、声にならない言葉をつぶやく。カメラはその視線を追い、鏡の奥へと引き込まれる。視界は完全な闇に包まれ、遠くで客席のざわめきのような音だけがかすかに響いた。


【2005年・舞台袖】


拍手の波が幕の奥から押し寄せる。舞台袖の暗がりに立つ“影”は、黒傘の視線を受けて一歩退く。その動きは従うというよりも、立ち止まったまま後ずさるようなものだった。


――自分は何を守ったのか、何を裏切ったのか。答えは見えないまま、影は暗がりの奥へと歩き去る。


足音が消え、舞台袖は完全な闇に沈む。闇は深く、重く――

そのまま、別の時代へと溶けていく。


【2025年・港跡地】


暗闇の中、波の音が静かに浮かび上がる。ゆっくりと視界が開け、灯りのない港が姿を現す。潮風は冷たく、遠くにかすかなブイの鈴の音が響く。


防波堤の端に立つ二人は、海面をじっと見下ろす。イヤモニ越しに朱音の声が届いた。

『……見える? あれが“第四幕”の舞台だよ』


視界に映る海の闇と、あの夜の舞台袖の闇は、同じ濃密な黒色をしていた。

まるで二つの時代がひとつの影を共有しているかのように――足元の水面に揺れる微かな光までが、過去と現在を静かに繋いでいる。


専門家はこの現象を、空間内の光反射と人間の心理的残像の重なりによる“時代同期視覚現象”と分析する。舞台装置や光源の位置、反射角度を完全に再現することで、二十年の時差を越えた“視覚的連続性”が成立しているのだ。


【2025年・港跡地】


波の音が潮風に混ざり、防波堤の先で静かに響く。遠くのブイが揺れ、鈴の音が微かに重なる。雨に濡れた石畳と黒い瓦礫が、月光の残滓に銀色の輝きを放つ。


玲は肩の力を抜き、深く息を吐く。

「……終わったな」


アキトも同じく視線を海に落とす。水面には、二十年前の舞台の残像が揺れるかのように反射していた。


防波堤の影から朱音の声が届く。

『……見て、あれが“第四幕”の最後の景色』


二人は無言のまま港を後にする。

背後で遠く波が岩に当たり、かすかに濁流のような音を立てる。その音はまるで、二十年前と今を繋ぐ時間の余韻のように、静かに残った。


専門家の視点では、この港跡地で確認された現象は「心理的空間同期」と呼ばれ、過去の舞台装置の物理的配置と視覚的残像が重なることで、観察者の意識に“二つの時代が同時に存在する”錯覚を生むことが確認されている。


空は次第に明るさを取り戻し、冷たい潮風に混じった雨雫が港を洗う。二十年の時を経た街の静寂は、ようやく新しい日常に溶け込み、物語は静かに幕を閉じた。


【黒傘の後日談・2025年】


舞台の心理的包囲と水門トリックを成功させた後、黒傘は静かに劇場から姿を消した。

20年後の2025年、彼の存在は歴史の一部に過ぎない。だが、当時の仕掛けや心理操作の痕跡は、28歳となったアキトや玲によって調査され続けている。


現実世界で黒傘は、裏方や演出家として舞台心理や観客操作の研究に没頭しているらしい。観客の視線、舞台上の水の動き、音の反響――すべてを計算に入れた演出理論の深化に余念がない。


ある日、劇場の薄暗い廊下で、黒傘は視線の端に気配を感じる。

「……久しぶりだな」

低く落ち着いた声が響く。振り向くと、そこに立っていたのは28歳となったアキトだった。20年前、幼い彼が直接関わったわけではないが、当時の事件の痕跡を追い、ついに黒傘の現場に辿り着いたのだ。


黒傘はにやりと笑い、口を開く。

「……あの仕掛け、まだ覚えているか?」

アキトは静かに頷く。彼の目は、当時の事件と黒傘の心理操作を冷静に解析している。


二人の間に沈黙が訪れる。

20年前の水音と心理的駆け引きの記憶が、薄暗い廊下でふたたび立ち上がる。

過去と現在が交錯し、次の“試み”の序章が、静かに幕を開けるのだった。


【赤いドレスの女優の後日談・2025年】


舞台袖で水槽に身を滑り込ませたあの経験は、彼女の演技に深い緊張感と静謐な表現力をもたらした。20年前の舞台での心理的駆け引きや仕掛けは、単なる恐怖体験ではなく、演技の技術として血肉になっていた。


その後、舞台俳優としてのキャリアを着実に積み重ねつつ、心理的トリックや舞台心理学に強い関心を抱き、大学で演劇学や舞台心理学の講義を担当するようになる。彼女の講義では、観客の視線の誘導、音や光の心理的効果、舞台装置を用いた間接的演出など、実体験に基づく具体的な分析が行われている。


2025年には、現役の舞台からは退いているものの、執筆活動や講演を通して後進の俳優や演出家に影響を与え続ける。彼女が語る言葉には、あの夜の舞台の緊張感と知見が滲み出ており、学生たちは息をのむように聞き入る。


講義後、彼女は窓辺に立ち、遠くの港を見つめる。静かに呟く。

「舞台は、観客の目だけじゃなく、自分の心とも戦う場所なのよね……」


その視線の奥には、20年前の黒傘や水門の記憶が、鮮明に焼き付いていた。


【影班・小型拳銃保持者の後日談・2025年】


舞台裏の死角で、黒傘の行動を監視しつつ任務を遂行した経験は、隠密行動や危機管理能力を飛躍的に高めた。わずかな物音や光の揺れ、人物の微細な動作を瞬時に判断する能力は、このときの舞台裏での任務によって鍛えられたものだ。


その後、彼は警備や防衛関連の分野で活動を開始する。初期は企業や個人向けの警備コンサルタントとして現場を指導し、特殊警護や危機対処訓練の指導も担当。20年以上経過した2025年には、現場調査やセキュリティ対策の専門家として、公共施設や重要拠点の安全設計に関わるようになっていた。


現場での静かな呟きが耳に届く。

「目立たず、だが全てを掌握する……それが最も確実な安全策だ」


彼の目線は常に周囲を走査し、過去の舞台裏での緊張感が、現代の防衛戦略に自然と反映されている。隠密と判断力、それに冷静さ。あの夜に得た経験が、今も確実に彼を支えていた。


時間: 2025年・秋

場所: 東京郊外・玲探偵事務所


玲は机に広げた朱音のスケッチや現場写真を見つめながら、過去の舞台トリックや排水路装置の痕跡を丹念に解析していた。20年前の出来事を、現場での再現実験や記録照合を通じて忠実に再現することで、当時の仕掛けの精密さと心理的意図を理解していく。


「なるほど……この角度から光を当てれば、観客には見えない仕組みになっている」


アキトとともに、舞台や排水路の構造を再現しながら、黒傘や赤いドレスの女優、影班の動きを心理学的視点から分析する。玲のノートには、人物の意図や行動パターン、観客の心理的反応まで詳細に記録され、研究資料として体系化されていった。


「過去の仕掛けも、人の心理も、結局は予測可能なんだな」


こうして玲は、事件そのものだけでなく、舞台トリックと人間心理の関係性を深く掘り下げ、20年前の事件を現代の知識と技術で解き明かしていった。


時間: 2025年・秋

場所: 蓮池町・現場調査拠点


アキトは玲とともに、舞台や排水路の痕跡を丹念に調査していた。20年前の黒傘の仕掛けや行動パターンを解析することで、危険箇所の特定や未来のリスク予測に応用する。


「ここだ……当時はこの水流で動線を完全に封じていたんだな」


作戦中に培った観察力と判断力をもとに、現場の安全策や即応手順を策定する。小さな異変にも即座に対応できるよう、精密なマニュアルやシミュレーションを作成し、現代の防御策に反映させていく。


「過去を知ることで、未来の危険も抑えられる」


アキトは分析と行動を両立させることで、黒傘の心理やトリックの裏側を理解し、現代の現場で生かす専門家としての能力を磨き続けていた。


時間: 2025年・春

場所:自宅アトリエ


朱音は静かにスケッチブックを開き、過去の舞台や街路跡を描き写していた。描かれる線や影は、ただの絵ではなく、現場解析のための“視覚的証人”としての役割を持っている。


「……ここ、やっぱり水路が深い」


ふとアトリエの扉が開き、アキトが軽い足取りで現れる。


「また描いてたのか」


朱音は振り返り、小さく笑う。


「うん、あの時の景色、忘れないように」


アキトは机の上のスケッチを見下ろし、慎重に言葉を選ぶ。


「君の描いた線があるから、俺たちは過去の動きを正確に再現できる」


朱音は鉛筆を握り直し、紙に向かう。彼女の手から生まれる線は、過去と現在を結ぶ重要な“証拠”として、玲やアキトの研究や解析に不可欠な存在となっていた。

【黒傘のあとがき】


舞台の上も、舞台裏も、すべては私の掌の上にあった。

観客の視線、役者の緊張、床下の水路――すべてが私の計算の一部だ。


あの水門トリックも、心理的包囲も、決して遊びではない。

人の動き、視線、予測される反応を読み切り、仕掛けを仕込み、揺さぶる。

舞台上の一瞬の死角に、私は全てを託した。


舞台が終わり、私は静かに姿を消した。

誰も追ってはこない。

だが、あの夜に作り出した影は、時を超えて残る。

あの心理操作の痕跡も、仕掛けの精密さも、歴史の中に刻まれ、未来の調査者の手を通して再び呼び覚まされるだろう。


私の存在はもう、誰の前にも現れない。

だが、それは消えたということではない。

見えないところで、あの影は今も生き続けている。

舞台の暗がり、雨音、濡れた石畳――

それらの中に、私が作り出した世界の一片が、静かに、しかし確かに残っている。


そして、いつかまた、誰かがその影に気づくだろう。

私はただ、微笑みながら見守るだけだ。

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