79話 井戸劇場編~港編への橋渡し
主要人物(2025年側)
•玲
冷静沈着な探偵。朱音のスケッチを手がかりに、井戸劇場と15年前の事件を追う。黒傘との心理戦で「第三の選択」を見つけ出し、次の舞台「灯りの消えた港」へと進む準備を整える。
•アキト
玲の行動パートナー。現場での判断力に優れ、朱音のスケッチをデジタル化・分析して港の水中に沈んだ影の存在を見抜く。
•佐々木朱音
無邪気で直感力に優れた少女。スケッチで未来と過去をつなぐ鍵を描き出すが、絵を描くたびに胸の奥に冷たい痛みを覚えている。
•影班
黒傘の行動を逆探知し、先手を打つ精鋭チーム。
•成瀬由宇:暗殺実行・対象把握担当。冷静かつ迅速な行動派。
•桐野詩乃:毒物処理・痕跡消去担当。不敵な笑みと大胆な戦略性を持つ。
•安斎柾貴:精神制圧・記録汚染担当。冷徹な思考で状況を分析する。
•御子柴理央
記憶分析のスペシャリスト。2005年と2025年の現場映像を比較し、観客席の配置の違いから黒傘の心理戦の死角を見抜く。
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主要人物(2005年側)
•黒傘
15年前の事件の首謀者的存在。心理戦と舞台装置を駆使し、時代をまたいで玲たちを試す。井戸劇場での決着後、「第四幕は灯りの消えた港で」と告げる。
•舞台袖の影(後に重要人物と判明)
黒傘に促されて舞台から退いた謎の人物。内心には迷いと葛藤を抱えており、その選択が今後の展開に影響を与える可能性がある。
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その他の関係者
•佐々木圭介・沙耶
朱音の両親。今回は直接的な行動シーンは少ないが、朱音を精神的に支える存在。
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今回の物語では、
•玲・アキト・朱音の絆
•影班の冷徹な戦略と覚悟
•理央の鋭い洞察
•黒傘の時代を超える存在感
が絡み合い、次の舞台「灯りの消えた港」への緊張感を高めています。
【2005年・8月17日 午後10時42分】
蓮池町。霧の濃い夜。
街全体を包み込むような白い靄が、街路の輪郭を曖昧にしていた。
旧町家の前に設置された一本の街灯が、不意に明滅を繰り返す。
ガラスの内側で蛍光管が青白く震え、次の瞬間――乾いた破裂音と共に火花を散らし、根元から軋むような音を立てて倒れ込んだ。
ひび割れた石畳の上を、細かい雨が打つ。
水たまりが波紋を広げ、反射していた街灯の光がゆらりと消える。
雨音の中に混じって、何かが水を踏む音――靴底の硬い感触が、ゆっくりと近づいてきた。
霧の奥から現れたのは、黒い傘を差した人物。
背丈は中背、だが傘の位置は低く、顔はほとんど見えない。
その人物は、倒れた街灯のすぐ脇を何事もなかったかのように通り過ぎ、旧町家の門前で立ち止まった。
門は、古い木製で格子の隙間から奥の庭がわずかに覗ける。
人物は一瞬だけ格子の向こうを見やり、傘の内で何かを呟く。
雨音に紛れて、その声は聞き取れない――ただ、低く響く囁きの調子だけが耳に残る。
次の瞬間、町家の奥からごく小さな、だが確かに応えるような“声”が返ってきた。
人の声か、あるいは何か別のものか――判別できない。
黒傘の人物は、静かに門を押し開け、中へと消えていく。
木戸が閉じる音が、雨の闇に溶けた。
【2025年・8月17日 午後9時12分】
蓮池町。二十年前と同じ町、同じ場所。
夜気は湿り、遠くから微かに雨の匂いが漂ってきた。
街灯は、二十年前に倒れたまま修復されていない。
根元は赤錆で裂け、いまでは雑草と蔦が絡みつき、過去の事故の記憶を隠すかのように覆っていた。
玲は、片手に古びた現場写真を持ち、もう片方の手で小型ライトを門の方へ向けた。
写真の中の構図と、目の前の風景がゆっくりと重なっていく――。
倒れた街灯。
ひび割れた石畳。
そして──かすかな光と影の綾の中に浮かび上がる、門前の黒い傘の影。
「……あれを、見てるのは俺だけか?」
低い声が背後から響いた。振り返ると、霧のように音もなくアキトが立っていた。
彼は首に掛けた双眼鏡を片手で回しながら、玲の視線の先を追う。
「影……。実体がない。熱反応ゼロだ」
アキトの声は淡々としているが、わずかに眉間が寄っている。
「つまり、残留……記録か」
玲は写真を軽く揺らし、視界の中で過去と現在を何度も重ねた。
その瞬間、イヤモニが小さく鳴った。
『玲お兄ちゃん、門の右側……。そこに“もうひとつの影”が来るよ』
朱音の声だ。わずかに震えている。
アキトと玲が同時に右側へ視線を送る――が、そこには何もない。
「……未来予知か?」アキトが呟く。
玲は短く頷き、懐からカメラを構えた。
「時間は俺たちの敵でもあり、味方でもある。朱音の絵が更新された瞬間、動くぞ」
薄闇の中、二人の視線は門とその奥に吸い寄せられていった。
黒い傘の影は、まるで彼らの到来を知っていたかのように、じわりと形を変えてゆく――。
【2005年・8月17日 午後10時45分】
雷鳴が、夜の蓮池町を裂いた。
閃光が一瞬、旧町家の瓦屋根と門構えを白く浮かび上がらせる。
その直後――木製の門が、軋むことなく、まるで闇に吸い込まれるように静かに開いた。
黒い傘の人物は、視線を左右に走らせた後、滑るような動きでその奥へと消えていく。
門が閉まる音はしない。代わりに、雨が打ちつける音と、屋敷の奥から響く低い囁きだけが残った。
門前の石畳には、雨で半ば滲みかけた足跡がいくつも交差している。
最も新しい一筋の足跡は、踵が深く沈み、前方がわずかに内側へと傾いていた。
被害者の靴のサイズは23.5センチ――だが、その足跡は明らかに大きく、27.0センチ前後。
さらに、もう一つの足跡は異様に細長く、25.5センチで、土踏まずの部分がほとんど沈んでいない。
雨脚が強まり、輪郭が少しずつ崩れていく。
だが、その交差の位置と角度は、まるで誰かが“意図的に並んで歩いた”かのように揃っていた。
雷鳴が再び轟き、屋敷の奥で何かが倒れるような重い音が響く。
傘の影は、すでに門の向こうの闇に溶け、二度と見えなかった。
【2025年・8月17日 午後9時15分】
「……見たか?」
背後から低く落ち着いた声。霧の中から、黒のコートを翻してアキトが現れる。
玲は振り返らずに小さく頷き、視線を旧町家の門へと固定した。
門は閉ざされ、朽ちた木の表面に苔が斑に張りついている。
しかし、足元の石畳には──この雨にもかかわらず、輪郭の崩れていない濡れた足跡が残っていた。
水滴が、まるで今しがた通ったばかりのようにきらりと光る。
アキトがしゃがみ込み、懐中ライトを足跡に沿って滑らせる。
「……27.0センチ。踵が深く沈み、つま先は内側に傾いている。これは体重のかけ方の癖だな」
玲も隣に膝をつき、もう一筋の足跡にライトを当てた。
「25.5センチ……細長くて、土踏まずの沈みがほぼない。扁平足じゃない。靴底の形状も違う」
二人は視線を交わす。
「並んで歩いている……?」
「いや、それだけじゃない。歩幅のズレが一定だ。片方が半歩遅れてついていく……まるで演出の動きだ」
玲の脳裏に、二十年前の現場写真が重なった。
そこにも、全く同じ角度と間隔で並ぶ二筋の足跡が記録されていた。
「黒傘は単独犯じゃない……少なくとも、あの夜は」
アキトが立ち上がり、門に手をかける。
「なら、もう一人は?」
玲は答えず、ただ足跡の先──門の向こうの暗がりを凝視した。
雨の匂いの奥に、かすかな鉄錆の匂いが漂っている。
「……この先に、答えがある」
その声は、まるで二十年前の雷鳴の残響に溶けるようだった。
【2005年・8月17日 午後10時48分】
旧町家の内部は、ひんやりと湿った闇に満ちていた。
障子は破れ、天井の梁からは埃がゆっくりと降っている。
奥の六畳間。薄い蝋燭の炎が揺れ、その灯りの外側に二つの影が対峙していた。
ひとりは──黒い傘を閉じ、滴る水を畳の上にこぼしている人物。
もうひとりは、顔を深くフードで覆った長身の影。
灯りは二人の顔を決して照らさず、ただ輪郭だけを浮かび上がらせていた。
「……間に合ったな」
低く、湿った声。黒傘の人物が口を開く。
「お前の方こそ」
フードの影が短く応じる。
外では、遠く雷鳴が連続して響く。雨脚が強まり、瓦を打つ音が部屋に重なった。
黒傘が、わずかに身を寄せる。
「次は──二十年後だ」
蝋燭の炎が、その瞬間だけ大きく揺らいだ。
フードの影が頷く気配だけを残し、背を向ける。
「舞台は変わる。だが役は同じだ」
足音が畳を踏みしめ、闇の奥へと消えていく。
黒傘はその背を見送りながら、畳の下に手を差し入れ、小さな木箱を押し込んだ。
──中には古いカセットテープ。ラベルには、かすれた手書きの文字が残っている。
その音を誰が聞くのか──それは、まだ二十年後の話だった。
【2025年・8月17日 午後9時17分】
霧の中、玲のポケットの中で携帯が微かに震えた。
静まり返った町に、その振動音だけがやけに大きく響く。
画面には──送信者不明のメール。
差出人欄は空白。
件名もない。
玲は眉をひそめ、指先で開く。
そこに表示されたのは、たった一文だけだった。
──「木箱は、まだ井戸の下だ」
指先が止まる。
アキトが横から覗き込み、表情を変えた。
「……二十年前の“あれ”か」
玲は頷き、視線を足元の石畳へと移す。
門の前──雨に濡れた足跡は、一列ではなかった。
大きめの足跡(推定27cm)と、小さめの足跡(推定23cm)が交互に並び、旧町家の門内へと続いている。
その組み合わせは、2005年の現場写真に写っていた足跡の並びと完全に一致していた。
「黒傘は……単独じゃなかった」
玲が呟く。
アキトは霧の向こうを見やりながら、冷静に計算するように言った。
「木箱の在りかを知らせてきた奴は、あの時もう一人いた“共犯者”の線が濃いな」
玲は再びメールを見下ろす。
送り主が誰であれ、二十年前の闇はまだ完全には閉じていなかった。
──そして、井戸の下に残された木箱の中身が、次の舞台への扉を開ける鍵になる。
【2005年・8月17日 午後10時49分】
旧町家の廊下は、湿った木の匂いで満ちていた。
黒い傘の人物は、その傘を畳むことなく、雨粒を滴らせながら奥の座敷へと進む。
歩くたびに畳がわずかに沈み、古い木材が低くきしんだ。
障子の向こうで、蝋燭の火が揺れる。
そこにもう一人、背を向けた影があった。
影は無言で廊下を指し示す──その先にあるのは、土間へ続く階段。
二人は階段を降り、ひんやりとした空気が漂う地下へ入った。
中央にぽっかりと口を開けた古井戸。
黒い傘の人物は、傍らの木箱を両手で抱え、井戸の縁に立つ。
「……二十年だ」
低く響く声。
箱の表面には、古びた南京錠と、見慣れぬ刻印が打たれている。
もう一人の影が短く応じた。
「二十年後──必ず開ける」
次の瞬間、木箱は闇の底へと落とされた。
水面を叩く鈍い音と、四方の石壁に反響する波紋の音が、静寂に吸い込まれていった。
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【2025年・8月17日 午後9時24分】
玲とアキトは、旧町家の裏手にある井戸を見下ろしていた。
周囲はすでに影班が確保し、簡易照明が立てられている。
「……本当に、ここにあるんだな」
アキトの声が、井戸の底から立ち上る冷気にかき消される。
朱音のイヤモニから声が入った。
「うん……玲お兄ちゃん、絵に描いた通りだよ。そこに……ある」
影班の成瀬由宇がロープを手早く結び、玲に向かって頷く。
「降下準備完了」
玲は懐中電灯を握りしめ、井戸の縁に足を掛けた。
暗闇の底に、わずかに光る金属の輝き──錆びた南京錠。
「……見つけた」
数分後、泥と苔に覆われた木箱が井戸から引き上げられた。
箱の表面には、二十年前の現場記録写真と同じ刻印。
アキトが指で泥を拭い、深く息を吐く。
「二十年……眠っていたのか」
玲は南京錠に手をかけながら、ほんの一瞬、2005年の黒傘の姿を幻のように見た気がした。
【2025年・8月18日 午前6時32分】
森のロッジ。まだ朝の霧が窓の外を包んでいる。
朱音の小さなアトリエは、夜明け前から淡い青白い光で満たされていた。
机の上には、開きっぱなしのスケッチブック。
そこに描かれているのは──井戸の底から引き上げられた木箱。
だが、箱の蓋を開けた瞬間、中から無数の黒い影が舞い上がっていく様子までが細かく描かれていた。
影の中には、一つだけ文字の形をしたものがあった。
朱音は目をこすり、まだ夢の続きの中にいるような感覚で呟いた。
「……これ、開けちゃ……」
その言葉は、ロッジの静けさに吸い込まれていった。
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【2025年・8月18日 午前8時05分】
旧町家裏手。現場検証テントの中。
玲とアキト、そして影班の成瀬由宇が木箱を囲んでいた。
南京錠はすでに切断され、蓋の縁には細い銀色の針金が巻かれている。
アキトがそれを見て眉をひそめた。
「……罠だな。開けた瞬間、何かが飛び出す仕掛けだ」
しかし玲は、スケッチで見た情景が脳裏をよぎりながらも、蓋に手をかける。
「開ける……。二十年、こいつが待っていたものを確認する」
蓋をゆっくりと押し上げた。
次の瞬間──中から細かな黒い紙片が、爆ぜるように宙に舞った。
それは羽虫の群れのように見えたが、よく見るとすべて古びた新聞の切り抜きであり、一片ごとに赤いインクで異なる単語が記されていた。
アキトが舞い落ちる紙片を一枚掴み、声に出す。
「……“観客席”」
玲は別の一枚を拾い、唇を固く結んだ。
「……“井戸の劇場”」
その瞬間、箱の底にもう一つの物が現れた。
──黒い封筒。
中には、一枚の写真と短い手紙。
写真には2005年の黒傘が、旧幻劇座の水槽舞台の前に立つ姿。
手紙には、たった一行だけ。
『第三幕は、雨の街路』
玲は手紙を見つめながら、アキトに目を向けた。
「……これは挑発だ。二十年越しの、な」
その言葉に、アキトは低く笑った。
「いいだろう。観客の立場から舞台に上がってやる」
【2025年・蓮池町 旧町家内部/午前10時14分】
湿った土の匂いが、玄関の敷石から漂ってくる。
玲は懐中電灯を低く構え、廊下の奥へゆっくりと進んだ。
足元の畳は、朱音のスケッチそのままに、雨で黒く染みている。
壁の漆喰は剥がれ、古い水の筋が天井から斜めに走っていた。
どこかで、規則的に水滴が落ちる音。
──コン……コン……。
その音を辿ると、廊下の突き当たりに半ば崩れた座敷があった。
中央には、直径一メートルほどの丸い井戸。
井戸の縁は舞台の奈落のように囲まれ、上部に太い梁が渡されている。
梁には、切られたままの古いワイヤーが二本ぶら下がっていた。
アキトが後ろから追いつき、小声で言う。
「……幻劇座の奈落構造にそっくりだな」
玲は頷き、手にした黒い封筒を見やった。
──『第三幕は、雨の街路』。
まるで、この井戸そのものが次の舞台の入口だと言わんばかりだった。
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【2005年・8月17日 午後10時52分】
同じ旧町家。
黒い傘の人物が井戸の前に立ち、腰をかがめる。
脇にはもう一人、仮面をかぶった影。
井戸の中に縄を垂らし、古びた木箱をゆっくりと引き上げる。
仮面の影が低く言う。
「二十年後、同じ構造の舞台を再現しろ。
観客は一人残らず──舞台に引きずり上げる」
黒傘は無言で頷き、木箱を両手で持ち上げた。
その蓋には、赤い文字でこう書かれていた。
『雨の街路』。
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【2025年・蓮池町 旧町家内部/午前10時16分】
玲は井戸の縁に腰を下ろし、懐中電灯の光を深く落とす。
底にはすでに何もない。
だが、水面に映る自分の姿が、不意に黒い影へと変わった気がして、息を呑んだ。
アキトの声がイヤモニ越しに響く。
「……井戸は入口だ。雨の街路、その先に“劇場”がある」
玲は懐中電灯を消し、静かに立ち上がった。
この古い町家は、ただの廃屋ではない──二十年前から張られていた“舞台”の一部だ。
その舞台の次の幕が、もうすぐ開く。
【2025年・蓮池町 旧町家・封鎖扉前/午前10時20分】
玲は扉の前で足を止めた。
古びた木製の板は、長年の湿気で膨らみ、指先で触れると冷たく吸いつくようだ。
鍵穴は茶色く錆び、縁には何度もこじ開けられた痕が残っている。
アキトが低く呟く。
「……ここから先は、朱音のスケッチにもなかったはずだ。
だが──“雨の街路”ってのは、この扉の先だ」
玲は黙って頷き、耳を澄ませる。
扉の向こうから、かすかな水音が聞こえる。
雨の滴りではない──まるで石畳を叩く靴音のように、一定のリズムで近づき、遠ざかっていく。
その時、イヤモニが短くノイズを走らせた。
ノイズの奥から、聞き覚えのある声が囁く。
──「観客はもう席についている。あとは君たちが幕を開けるだけだ」
玲とアキトは目を合わせる。
黒傘だ。二十年前と同じ声、同じ抑揚。
心理戦の幕が、再び開こうとしている。
アキトが腰のホルスターに手を伸ばす。
「……舞台に上がる覚悟はあるか?」
玲は錆びた鍵穴に特殊工具を差し込みながら、薄く笑った。
「観客の拍手が鳴る前に、演者を舞台から引きずり下ろす」
――カチリ。
扉が軋みを上げ、わずかに開いた隙間から、湿った風とともに冷たい雨の匂いが流れ込んだ。
視界の奥には、濡れた石畳の街路が続いている。
街灯は一本も点っていない。
その代わり、闇の中に浮かび上がるのは──一本の黒い傘。
【2025年・蓮池町 旧町家・封鎖扉内/午前10時22分】
扉の内側は、外よりもなお重い空気に満ちていた。
湿った埃と古いカビの匂いが鼻を刺す。
玲の懐中電灯の光が、壁のひび割れをぼんやりと照らすと、その間に黒ずんだ水の筋が走っていた。
数歩進むと、廊下は自然に下り坂になり、やがて足元が石畳へと変わる。
上から滴り落ちる水が、石畳を濡らし、そこに淡く反射する。
──それは、地下に造られた街路だった。
右手には瓦屋根の連なり、左手には閉ざされた木戸。
まるで古い町並みを、そのまま地中に沈めたような空間。
頭上には剥き出しの鉄骨が走り、そこから幾筋ものワイヤーが垂れている。
その先端には、何かを吊り下げるための金属の輪が揺れていた。
アキトが囁く。
「……これは舞台装置だ。上から一気に落とす罠かもしれない」
その瞬間、イヤモニから微かな笑い声が混じった囁きが届く。
──「君たちはまだ舞台袖にいるつもりだろう? だが観客席は、もう君たちの頭上にある」
玲は一瞬だけ上を見上げる。
暗闇の中、鉄骨の隙間からいくつもの影がこちらを覗き込んでいる。
演者と観客──その立場が逆転しているかのような錯覚。
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【2005年・8月17日 午後10時53分/同じ街路】
当時の街路も、同じ湿った石畳と閉ざされた木戸の並びだった。
黒い傘の人物は、ゆっくりと中央を歩きながら、上を見上げていた。
頭上には、覗き込む“観客”たちの影。
その中に、誰も動かしていないはずのワイヤーが、ひとりでに揺れていた。
──「演者は、観客が望む結末に抗えるだろうか?」
黒傘の声が、地下の反響で何重にも響いた。
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【2025年・雨の街路/午前10時24分】
玲とアキトは、互いに目配せをしてから前進する。
しかし足元には、一定の間隔で黒い石が埋め込まれており、その上を踏むたびに、頭上のワイヤーが微かに振動する。
それが単なる舞台効果なのか、落下罠の起動装置なのか──判別できない。
アキトが低く笑った。
「……二十年前と同じ動きで誘ってくるつもりだな」
玲は短く答える。
「なら、二十年前と同じ結末にはしない」
【2005年・蓮池町 旧町家・夜9時12分】
雨音が、瓦屋根を絶え間なく叩き続けていた。
古い町家の中は、電気が落ち、蝋燭の灯りが座敷の隅でかすかに揺れている。
湿った空気と、古い木材の匂いが充満していた。
黒い傘の人物は廊下を進みながら、壁際に置かれた木箱の上に視線を落とす。
蓋の隙間から覗く細いワイヤーが、天井の滑車へと繋がっていた。
それは“観客席”の上から吊るされた複数の仕掛けと連動しており、足元の特定の石畳を踏めば、頭上から舞台装置が落ちる構造だった。
──「観客はただ見ているだけではない。舞台の結末を決めるのは、彼らだ」
低い声が蝋燭の明かりと共に揺れ、やがて奥の闇へ消えていった。
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【2025年・蓮池町 旧町家・雨の街路/午前10時26分】
玲は膝をつき、足元の石畳と垂れ下がるワイヤーをじっと観察した。
「これ……二十年前の仕掛けと同じだな。石の下に板バネがあって、踏むと上の滑車を回す」
アキトが小さく笑う。
「じゃあ、踏む順番を逆にすれば……」
二人は視線を交わし、すぐに作業に取り掛かった。
アキトが腰の工具袋から小型の金具とワイヤーカッターを取り出す。
玲は懐中電灯を口にくわえ、石畳の隙間から細い棒で板バネを押し込み、固定した。
「……逆起動モード、だな」
アキトが切断したワイヤーの端を、別の滑車へと繋ぎ直す。
これで、もし黒傘が二十年前と同じ誘導をしてきても、仕掛けは“演者側”ではなく“観客席側”に作動する。
玲は立ち上がり、耳元のイヤモニを軽く叩いた。
「聞こえてるか、黒傘。あんたの台本、もう結末が変わってる」
暗闇の奥で、わずかに笑う息遣いが返ってきた。
──「ほう……では、新しい観客たちに相応しい幕引きを見せてもらおうか」
【2025年・蓮池町 旧町家内部/午後3時46分】
閉ざされた扉を押し開けた瞬間、湿った空気が押し寄せてきた。
十数年、誰の足も踏み入れていないはずの座敷は、薄暗く、埃と黴の匂いに満ちている。
玲は懐中電灯の光を天井に走らせ、絡み合うように張り巡らされたワイヤーの影を確認した。
「……本当にあったか」
アキトが低く呟き、足元の石畳の一つをそっと踏む。
次の瞬間──
ギギギ……と、滑車が逆方向に回り始めた。
天井の暗がりから、乾いた破裂音とともに舞台装置が“観客席”側へと落下し、埃が爆発のように舞い上がる。
観客席の座布団や木製の長椅子が次々と倒れ、そこに設置されていた古びた人形たちが床に散乱した。
無数の視線のようなガラスの瞳が、一斉にこちらを向く。
「……うわ、これは……」
アキトが眉をひそめる。
その時、座敷の奥──舞台中央に吊るされた古いスピーカーから、ノイズ混じりの声が響いた。
──「逆手に取るとは、いい趣味だ」
──「だが、観客が混乱しても、舞台は止まらない」
わずかな機械音の後、スピーカーから低い鐘の音が三度鳴る。
すると、舞台の背後にあった障子が音もなく開き、奥の通路に新たな光が差し込んだ。
玲はアキトと視線を交わす。
「……次の手、ってわけか」
「多分な。俺たち、もう“次の幕”に招かれてる」
奥から漂ってくるのは、雨の匂い──
そして、石畳を叩く水音。
黒傘の声が、囁きのように追い打ちをかけた。
──「雨の街路で会おう」
【2025年・蓮池町 旧町家内部/午後3時49分】
アキトが息を殺して金具を外す。
錆びついた金属音が、静寂の中で神経を刺すように響いた。
湿気で歪んだ木蓋が、わずかに軋みながら持ち上がる。
玲は懐中電灯をわずかに傾け、木箱の影を深くした。
その暗がりの奥に──黒い布に包まれた何かが見えた。
触れる寸前、背後のスピーカーから低い声が割り込む。
──「その距離では、まだ観客だ」
──「舞台に上がる覚悟は、あるか?」
その声と同時に、奥の通路から冷たい風が吹き抜け、雨の匂いが押し寄せる。
石畳を叩く水音が、まだ姿の見えない“雨の街路”の存在を告げていた。
玲は木箱をそっと閉じると、アキトに視線を送った。
「……行くぞ。舞台は変わった」
⸻
【2005年・蓮池町 旧町家内部/午後10時03分】
同じ座敷、同じ木箱。
黒い傘を持つ人物が、それを覗き込み、ゆっくりと中身を布で包む。
動きは、二十年後の玲とアキトの所作と驚くほど似ている。
──「観客席はもう満席だ」
──「次は、雨の街路で開幕だ」
障子を開けると、外は夜の雨。
石畳の路地は、提灯の赤い光でまだらに染まり、奥へ奥へと伸びている。
黒傘は視線を一度だけ振り返り、薄く笑った。
その表情は、二十年後の玲たちがまだ知らない、確かな優位を帯びていた。
⸻
【2025年・蓮池町 “雨の街路”入口/午後3時55分】
旧町家の奥の扉を抜けると、突然、視界が開けた。
そこは、密閉されたはずの建物の内部に広がる、不自然な屋外空間だった。
頭上から細い雨が降り、路地の石畳は鈍く光っている。
アキトが低く息をつく。
「……まるで、時が止まったみたいだ」
玲は頷く。
「いや──時が、重なってる」
その時、路地の奥で、黒傘がゆっくりとこちらに傘を傾けた。
二十年前と全く同じ角度、同じ動きで。
【2025年・蓮池町 旧町家外庭/同時刻】
外で待機していた朱音は、膝の上にスケッチブックを置き、鉛筆を握っていた。
雷鳴が庭の樹々を震わせると同時に、朱音の手が勝手に動き出す。
目は紙を見ていない。
白い紙に、細い石畳の曲線が現れ、傘を差した影がひとつ、ふたつと増えていく。
──その線は、玲たちがまだ見ていない「路地の奥」を正確に描いていた。
朱音は息を呑む。
描き終えた傘の一つが、ゆっくりと倒れる線を描いた瞬間──
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【2005年・蓮池町 雨の街路/午後10時08分】
赤い提灯の下、黒傘が路地の中央に立つ。
もう一人の影が横切った瞬間、石畳の一部が沈み、細いワイヤーが雨の光に閃いた。
通りを抜ける者の足首を絡め取り、提灯の明かりの中で転倒させる仕掛け。
──観客席からは見えない。
だが舞台上の者は、避けることすら許されない。
黒傘はすれ違いざまに呟いた。
「役者は、自分の台詞を選べない」
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【2025年・蓮池町 雨の街路入口/午後3時56分】
玲とアキトが奥へ進むと、足元の石畳が微かに沈んだ。
反射的に後退──と同時に、脇の壁から錆びた針金が飛び出す。
アキトが蹴り払い、針金が空中でちぎれた。
玲は低く呟く。
「……二十年前の罠だ。だが、今は逆に使える」
二人は意図的に足音を響かせ、罠が作動したように見せかけながら、路地の影に回り込む。
──観客と演者の立場を、静かに入れ替えていく。
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【2005年・蓮池町 雨の街路奥/午後10時09分】
もう一人の影が罠にかかり、石畳に膝をついた。
黒傘は近づき、囁くように言った。
「この痛みは、二十年後にもう一度繰り返される」
その時、路地の奥で雷光が瞬き、黒傘の横顔が一瞬だけ露わになった。
⸻
【2025年・蓮池町 雨の街路奥/午後3時58分】
雷鳴。
朱音のスケッチブックに描かれた傘の影と同じ場所で、黒傘が立っていた。
玲は懐中電灯を向ける──が、光が届くより先に声が飛んだ。
「役者は増えたな」
低い声は、二十年前の録音のように遅れて耳に届いた。
アキトは拳を握り、玲は一歩踏み出す。
──舞台は、完全に重なっていた。
【2025年・蓮池町 旧町家内部/午後4時05分】
カセットプレイヤーは、埃をかぶった古い型だった。
アキトがそれを箱の横で軽く叩くと、かすれたモーター音が微かに回り出す。
テープはすでにセットされており、再生ボタンの上には古びた赤いインクで数字が書かれていた──「2005」。
玲が目を細め、箱の奥を覗き込む。そこには、蔵の奥へと続く木製の“封鎖された門”が見えた。
鉄製の閂は、何重にも錆びついているが、鍵穴にはまだ光が残っている。
⸻
【2005年・蓮池町 雨の街路奥/午後10時14分】
黒傘は濡れた石畳を踏みしめ、旧町家の裏口に辿り着いた。
奥には、同じ木製の“封印の門”がそびえている。
同行していた影が低く言う。
「……この門を開くのは、お前しかできない」
黒傘は無言で懐から小さな金属片を取り出し、鍵穴に差し込む。
雨が止む瞬間を待つように、わずかに手を止めた。
その横顔が、提灯の赤い光に一瞬だけ照らされる──片頬に細い傷跡。
⸻
【2025年・蓮池町 旧町家・封印の門前/午後4時06分】
アキトが閂に手をかけるが、動かない。
その時、カセットが突然回り始め、ざらついた声が流れた。
『……開ける瞬間を、必ず見ている』
玲の背筋が冷える。
この声──数日前に聞いた監視カメラの音声と同じだ。
門の奥から、かすかな金属の反響音が返ってきた。まるで、向こう側にも誰かがいるように。
⸻
【2005年・蓮池町 旧町家裏口/午後10時15分】
黒傘が鍵を回す音と同時に、門の奥で何かがわずかに動いた。
背後の影が問いかける。
「二十年後……そこには誰が立っている?」
黒傘は、雨粒の滴る傘の下で微かに笑った。
「……舞台の主役だ」
⸻
【2025年・蓮池町 封印の門/午後4時07分】
錆びた閂が外れ、扉が軋む。
その隙間から流れ込む空気は、冷たく、そして不自然に乾いていた。
玲がライトを差し入れる──そこは、朱音のスケッチにも、記録にも存在しない“空白の空間”だった。
扉の縁に、細い傷跡が刻まれている。
それは二十年前、黒傘の片頬にあったものと同じ形をしていた。
【2005年・蓮池町 旧町家内部/午後9時12分】
雨が降っていた。
灯りの落ちた座敷に、黒傘を差した人物がひとり。
足元には倒れた椅子、散らばる硝子片──さっきまでここで誰かがいた証拠。
奥の襖の向こうで、低く笑う声が響く。
「ようこそ、“雨の街路”へ」
襖が開くと、そこは屋内でありながら、石畳と街灯が並ぶ異様な空間だった。
舞台装置のように組まれた家々の壁、雨を模した細い水滴のカーテン、そして奥には赤い幕が揺れている。
黒傘は一歩踏み出し、傘先で石畳を叩く。
その音が、天井裏の反響で何重にも重なり、不気味な余韻を残した。
⸻
【2025年・蓮池町 旧町家・封印の門奥/午後4時07分】
玲が懐中電灯を差し入れると、そこは現実離れした“街”だった。
壁は色褪せ、石畳はひび割れ、街灯の多くは倒れている。
だが配置は、朱音が描いた「雨の街路」と完全に一致していた。
アキトが低く呟く。
「これ……舞台だな。全部、作り物の町だ」
遠くで、微かに水滴の音がした。
それは実際の雨ではない。天井から垂れるパイプの水が、同じ間隔で石畳に落ちているのだ。
⸻
【2005年・蓮池町 舞台「雨の街路」/午後9時13分】
黒傘は石畳の中央まで進むと、傘を閉じ、舞台の観客席へ視線を向けた。
暗闇の中、無数の影がこちらを見ている──それは人ではなく、黒い布で覆われたマネキンたち。
「二十年後も、この光景を見せてやろう」
その言葉は、まるで未来に向けた宣言のようだった。
⸻
【2025年・蓮池町 舞台「雨の街路」/午後4時08分】
玲の足元で、何かが砕けた。
見ると、それは古い硝子片だった。
アキトが拾い上げ、息を呑む。
「……これ、二十年前に割れたままだ」
次の瞬間、舞台の奥──赤い幕の裏で、何かが動いた。
まるで、二十年前と同じタイミングで、誰かがそこに立っているかのように。
【2025年・蓮池町 旧町家 舞台「雨の街路」内部/午後4時09分】
テープが止まり、静寂が落ちた。
アキトは無言でプレイヤーの蓋を閉じ、玲と視線を交わす。
その瞬間──足元の石畳がわずかに沈んだ。
かすかな金属音。
次いで、天井から重い鎖が落ちてきた。
鎖の先には、錆びついた鉄枠。
舞台両端に仕込まれていた枠が倒れ込み、視界が黒布で覆われる。
まるで観客席と舞台を遮断する“幕”のように。
⸻
【2005年・蓮池町 舞台「雨の街路」/午後9時14分】
黒傘の人物は、石畳中央の板を足で軽く踏む。
カチリ──という音とともに、左右の壁の奥で機械仕掛けが回転し始めた。
黒布の幕が降り、観客席を完全に覆う。
その動作を確認すると、黒傘は傘の先端で鎖を一度だけ突き、笑った。
「二十年後、同じ場所で──」
⸻
【2025年・蓮池町 舞台「雨の街路」内部/午後4時10分】
玲が懐中電灯を動かすと、幕の内側の布に、何かが書かれているのが見えた。
それは赤茶けた色で描かれた、不規則な文字列。
アキトが眉をひそめ、指先で触れる。
指に残ったのは、乾ききった古い血。
「……これ、二十年前のままだ」
その瞬間、舞台奥の赤い幕が、ゆっくりと横に開き始めた。
奥の暗がりから、一歩、足音。
まるで時を超えて──二十年前の黒傘がそこに現れたかのように。
【2025年・蓮池町 旧町家 舞台「雨の街路」内部/午後4時11分】
テープの再生が終わっても、空気は冷えたままだった。
玲は視線を床に落とし、アキトは壁に手をついたまま沈黙している。
──ギシ、と舞台の奥で床板が鳴った。
赤い幕の隙間から、黒い傘の先端がゆっくりと現れる。
それは雨粒を弾き落とすかのようにわずかに揺れ、布の影から長身の人物が一歩、踏み出した。
顔は見えない。
ただ、二十年前の現場写真に映っていたのと同じ、濡れた黒いコートと、手元の傘の持ち方。
まるで時間が巻き戻され、そのまま目の前に立ったように。
アキトが小さく息を吸う。
「……本物、なのか?」
黒傘は答えない。
ただ、傘の影から覗く唇が、わずかに笑ったように見えた──その瞬間、頭上の裸電球が一斉に明滅し、室内の輪郭が歪む。
次に視界が安定した時には、黒傘はもう幕の向こうへと消えていた。
残されたのは、湿った石畳に、たった一行の文字だけ。
──「次は、幕が上がる時だ」
【2025年・都内某所「幻劇座」裏通路/午後11時03分】
幻劇座の裏口に立ったとき、夜気はひどく湿っていた。
玲は懐中電灯のスイッチを入れず、足音を極力殺して錆びた鉄扉を押す。
蝶番が軋む音をかき消すように、遠くから電車の通過音が響いた。
暗い通路の奥、アキトが手を挙げて立ち止まる。
「……ここだ」
足元には舞台機構を制御する古い配電盤。
その側面には、誰かが後から取り付けたらしい黒い制御ボックスが配線に割り込む形で繋がっている。
蓋の隙間から赤いランプが点滅し、微かなモーター音が低く続いていた。
「幕が上がる時」という言葉が、玲の脳裏で再生される。
──つまり、舞台のメイン幕が上昇した瞬間、この制御ボックスが連動し、舞台装置が強制的に動く仕組みだ。
アキトは図面を思い出すように目を細めた。
「……奥の転換床と花道、両方が同時に動く。もし役者や観客が乗っていたら……」
その言葉は最後まで続かなかった。
配電盤の奥で、小さなリレーの切り替わる音がしたのだ。
⸻
【同時刻・森のロッジ/朱音の部屋】
朱音は夢の中にいた。
スケッチブックの上に、鉛筆が勝手に動き続けている。
真っ黒に塗りつぶされた観客席。
そして、その中央でせり上がる床の上に──傘を差した影が立っていた。
雷鳴のような音と共に、舞台の幕が上がる。
観客席が傾き、座っていた人影が次々と闇に吸い込まれていく。
朱音の手は止まらない。
紙の端に、はっきりとした文字が刻まれる。
──「二十年前の約束、今ここで果たす」
【2025年・幻劇座 地下井戸通路/午後11時14分】
井戸の石壁を回り込むと、足元にわずかな足場と、闇へと続く細い通路が口を開けていた。
そこから、舞台の奈落から漏れるような低い振動音が響いてくる。
アキトは振動を足裏で確かめ、わずかに顔を上げた。
「──来るぞ」
通路の先、格子状の鉄柵の向こうに、舞台裏の歯車と滑車がゆっくりと回転を始めるのが見える。
錆びたワイヤーが巻き上げられ、赤いランプが連動して点滅し、
──ドン、と腹に響く低音。
天井方向から、重たい布の擦れる音が落ちてくる。
幕が、上がる。
⸻
【2005年・幻劇座 舞台袖/午後9時14分】
蝋燭の光が、黒傘の足元を揺らしていた。
舞台袖の暗がりで、彼は古いレバーをゆっくりと引き下ろす。
歯車が唸り、滑車が回り、舞台全体が低く震え始める。
──幕が上がる。
客席の視界が開け、豪奢な背景画の裏で、床の一部がわずかに浮き上がる。
そこには仕掛けられた木箱があり、鎖で封じられたまま、観客の目に晒されていく。
⸻
【2025年・幻劇座 地下井戸通路/同時刻】
現代の歯車も同じように唸り、奈落の床がせり上がる。
玲は鉄柵の隙間からそれを凝視する──
だが浮き上がった床の中央にあるのは、木箱ではなく、
黒い傘を差した影だった。
観客席から、一斉にざわめきが広がる。
そのざわめきは、十五年前の雨音と完全に重なった。
【2025年・幻劇座 本舞台/午後11時17分】
舞台袖の暗がりが、わずかに揺れた。
玲はスポットの光に入らないよう身を低くし、袖へと歩を進める。
アキトは反対側から回り込み、挟み込む形を取った。
スポットライトの縁をかすめるように、黒傘がわずかに傾く。
その下から覗いた視線は、まるで二十年前の雨夜をそのまま切り取ったように、玲を射抜いていた。
「──来たな、玲探偵」
低く、湿った声。
その瞬間、天井から鋼線が解けるように垂れ、舞台奥の書き割りがガタリと崩れた。
観客席の一角で、悲鳴が上がる。
アキトが短く息を呑む。
「罠、動き始めた……!」
舞台下手の床板がはね上がり、隠されていた小道具箱が観客席へと滑り落ちる。
同時に、舞台上の照明が不規則に点滅し、暗闇と白光が交互に走った。
その閃光の中で、黒傘はまるで舞台の主役のように一歩、また一歩と前へ出る。
「観客が混乱すればするほど、真実は遠ざかる──そうだろう?」
黒傘の声が、拍手のような足音と混じり、天井から降る埃と一緒に会場全体を包み込む。
玲は一瞬、観客席に視線をやった。
泣き声、叫び声、きしむ椅子。混乱の渦。
だが、再び視線を戻した時──黒傘の姿は舞台中央から消えていた。
【2025年・幻劇座 舞台裏・封鎖区画/午後11時19分】
重い扉を押し開けた瞬間、空気が変わった。
冷たく、しかし湿った空気が、頬をかすめて通り過ぎる。
奥には、ほの暗い舞台裏の空間が広がり、古い布幕や埃をかぶった舞台装置が無言で並んでいる。
アキトが耳を澄ませた。
──かすかな足音。
舞台の反対側へ抜ける、誰かの動き。
「……黒傘だ」
玲は頷き、懐中電灯を消して影の中へ溶け込んだ。
──その頃、観客席。
朱音は膝の上のスケッチブックに目を落としていた。
雷鳴のたびに、鉛筆が紙の上を勝手に走る。
彼女は描いている自覚がない。ただ、線が勝手に繋がり、形を成していく。
描かれたのは──暗い廊下と、その奥に傘の先端。
傘はわずかに傾き、右手の方へ向かっている。
「……右手……?」
朱音が小さく呟いた瞬間、舞台裏の玲は足音が右側の通路へ逸れるのを確かに聞いた。
アキトが玲を見た。
「今、右に──」
「わかってる」
朱音の絵と、舞台裏の現実が、時を隔てずに重なっていく。
【2025年・幻劇座 舞台裏/午後11時23分】
闇の中、アキトが懐中電灯を点ける。
光の輪が床を舐め、その中央に一枚の紙切れが浮かび上がった。
舞台袖の埃に半ば埋もれ、しかし不自然に新しい。
玲がしゃがみ込み、指先で拾い上げる。
──そこには、鉛筆で殴り書きされた地図と、赤い線。
赤線は右手通路の奥で途切れている。
「……誘ってるな」
アキトの声が低くなる。
紙の端には、かすれた文字があった。
〈幕が上がる時、観客は一方向しか見ない〉
──その瞬間、舞台上から鈍い軋み音。
舞台装置の一部がゆっくりと動き出し、天井から砂のような埃が降ってくる。
右手通路の先にある壁の隙間から、細い光が漏れた。
だが、その床一面には古い木の板が並び、足を踏み入れれば沈むように見える。
玲は視線を走らせ、息を潜めた。
──沈む床。その下は奈落。
つまり、右手通路は舞台機構を利用した落下罠。
「……あの地図通りに進めば、確実に落ちる」
「観客の視線を舞台へ釘付けにして、その間に……」
アキトは言葉を切り、玲を見た。
玲は紙を折り畳み、懐にしまう。
「わざわざ案内してくれるなんて、親切なこと」
──その口調は、明らかに黒傘の挑発を逆手に取るものだった。
【2025年・佐々木家ロッジ/翌朝 午前6時12分】
朱音は、アトリエの机に向かっていた。
夜明けの光が、まだ白く柔らかく室内に差し込む。
無意識に鉛筆を走らせて描かれたのは──
水面に沈む門。その背後に、黒い影がひとり、静かに立っている光景。
門の右側には、細長い通路のような線が描かれていた。
それは途中で途切れ、濃い黒鉛の塊に飲み込まれている。
朱音は首を傾げた。
この通路──昨日の夜、夢の中で見た気がする。
足を踏み入れた瞬間、床が沈み、水の中へ引きずり込まれる……。
鉛筆の先が紙を離れた瞬間、描かれた線が波紋のように揺れ──
場面は、十五年前へと滲む。
⸻
【2005年・幻劇座 舞台裏・右手通路/午後9時21分】
湿った木の板が、足の重みでわずかにきしんだ。
黒傘の足元、薄暗い通路の奥へ向かって伸びる床は、中央がかすかに沈んでいる。
その下から、水音。
井戸水を流し込んだ奈落の底が、冷たい匂いを放っていた。
観客席からは、舞台の幕が上がる音と歓声。
──全員の視線が舞台上に釘付けになる一瞬を、黒傘は正確に計算していた。
その瞬間、板が崩れる。
落ちた影が水面に叩きつけられ、波紋が広がった。
観客は何も気づかない。舞台の光に眩まされ、裏で起きた音は拍手と混ざって消えた。
黒傘は傘先で水面を軽く突き、静かに通路を後にした。
【2025年・K部門記録分析室/午前6時45分】
理央は、モニターの光だけが照らす暗い室内で、古い航空写真を拡大していた。
画面には蓮池町、2005年の記録。
縮尺を最大にすると、二つ並んだ水門と、その傍ら──
「……いる」
ピクセルの塊に近い解像度の中に、黒い傘を差した人物が小さく佇んでいた。
当時の天候は大雨。写り込むはずのないその影は、写真の撮影時刻と罠の作動時刻を一致させていた。
理央は即座に玲へ暗号化メッセージを送る。
右手通路、床下水路。崩落型。起動タイミング=幕上昇と同時。
⸻
【2025年・幻劇座 舞台裏・右手通路手前/午後11時25分】
玲は右手通路を前に足を止めた。
板の中央がわずかに沈んでいる──十五年前の構造そのままだ。
アキトが無言で視線を交わす。
「……使えるな」
彼は工具を取り出し、通路の下に回り込むと、支持金具をひとつ外し、逆方向にテンションを掛ける。
本来なら舞台の幕が上がる瞬間、中央の板が落ちる仕組み。
だが今、その作動条件を黒傘の足が乗った瞬間に変更する。
⸻
【2005年・幻劇座 舞台裏・右手通路/午後9時21分】
黒傘は舞台の歓声を背に、通路を渡ろうとしていた。
──その足元で、わずかな沈み込み。
床が軋み、水面が影を飲み込む。
⸻
【2025年・幻劇座 舞台裏/午後11時27分】
通路に差し掛かった黒傘の影が、ライトの反射で揺れた。
玲の耳に、過去と同じ木の悲鳴が重なる。
アキトが引き金を引くように、仕掛けた逆起動が作動──
足元が崩れ、奈落の水音が舞台裏を震わせた。
【2025年・玲探偵事務所/午前9時12分】
机いっぱいに、地図と古い資料が広がっていた。
蓮池町の旧地図、その端に鉛筆で書き込まれた水路の線。
玲はその一点を指でなぞりながら、顔を上げた。
「……落ちたはずだ」
アキトは黙って、昨夜の映像をモニターに映す。
舞台裏、右手通路の奈落。
黒傘が足元を崩され、水面へと消える瞬間──だが、直後の映像は真っ暗になり、次のフレームでは空洞だけが残っていた。
「遺体は?」
「……無い。痕跡すら」
紙の上で玲の指が止まる。
旧地図のその場所は、水路が地下に潜り、複数の出口へと分岐する“見えない迷路”だった。
黒傘がそこを知っていたなら──
アキトが地図の別の地点を軽く叩く。
「次は、こっちに現れるかもしれない」
窓の外、朝の光が差し込んでいるのに、空気は重いままだった。
黒傘は死んだのか、生きているのか。
答えが出ないまま、時だけが進んでいく。
【2025年・佐々木家ロッジ・朱音のアトリエ/午前9時28分】
朝の柔らかな光が窓から差し込む。
朱音は無心で鉛筆を走らせていた。
紙の上に浮かび上がったのは、石畳の狭い路地。
古びた街灯は倒れ、苔に覆われた二つの水門が影を落としている。
彼女はふと息を呑み、視線を上げた。
「生きてる……かもしれない」
絵に描かれた風景は、玲たちが探る旧地図の一角にぴったり重なっていた。
記憶や直感が、朱音の心を強く揺さぶる。
「玲さん、黒傘は……まだ動いてる」
その声は、まだ誰にも届いていない。
しかし、確かな予感が彼女の胸を締めつけていた。
【2025年・K部門記録分析室/午前9時46分】
理央はモニターの前で、2005年の現場写真と今朝の最新衛星写真を慎重に並べて比較していた。
画面には、苔むした二つの水門と、周囲の石畳の路地が鮮明に映し出されている。
玲は朱音が描いた絵のコピーを広げ、地図の上に重ねてみせた。
「この石畳の路地、そして倒れた街灯の位置……朱音の絵とほぼ一致する。彼女の直感は間違っていない」
アキトが画面に指を走らせ、古い写真と衛星画像の重なりを示す。
「しかも、この水門付近には、2005年の記録にない不自然な痕跡がある。誰かが意図的に隠しているようだ」
理央は画面から目を離さず、静かに言った。
「ここが、黒傘の潜伏場所の可能性が高い。朱音の絵が、事件の真実を示す鍵になっている」
玲は深く頷き、朱音の絵を大事そうにたたんだ。
「よし、すぐに現地へ向かおう。ここからが本当の勝負だ」
【2025年・蓮池町旧市街地/午前10時45分】
玲とアキトは、薄曇りの空の下、旧市街地の入り口に立っていた。
古びた木製の看板には、かつての商店街の名前がかすれて読み取れない。
石畳の路地は苔と落ち葉に覆われ、わずかに濡れた緑色が光を吸い込むように沈んでいる。
通りを抜ける風が、どこか湿り気を帯び、古い木の香りと錆の匂いを運んできた。
玲は懐中電灯を腰に下げたまま、視線だけで周囲を探る。窓ガラスはすべて曇り、シャッターには錆びついた南京錠。人の気配は一切ない。
アキトが無言で地図を広げ、朱音の絵と照らし合わせる。
「……ここだ。右に曲がると水門が見えるはずだ。ただし」
彼は声を潜め、苔むした石畳の一角を指差した。そこには、かすかな擦れ跡がある。
「誰かが最近、重いものを引きずった跡だ。黒傘の動きと一致する」
玲は頷き、路地へ一歩踏み出す。足音が石畳に吸い込まれ、周囲の静けさがさらに重くのしかかる。
その時──遠くで、微かに金属が軋む音がした。まるで誰かが、錠前をゆっくり開けるかのように。
「……見られてるな」
玲の声は低く、確信を帯びていた。
【2025年・佐々木家ロッジ・朱音のアトリエ/午前10時52分】
アトリエの窓辺に座る朱音は、新しいスケッチブックを前に、鉛筆を握りしめていた。
指先は、何かに導かれるように動き出す。
まだ彼女の目には形が見えていないのに、紙の上には濃い影が広がっていく。
──石畳の路地、その奥。
倒れた木箱の脇に置かれた、古びた街灯。
街灯の根元から、細い糸のようなものが路地の端へ伸びている。
朱音の呼吸がわずかに乱れる。
鉛筆の先が、無意識に“火花”の形を描いた瞬間──
⸻
【2025年・蓮池町旧市街地/同時刻】
玲の足が、路地奥に転がる木箱を跨いだ。
その瞬間、街灯の根元から鋼線が引き抜かれ、火花が弾ける。
苔むした石畳の下から、圧縮空気の唸りと共に仕掛けが作動。
上方──古びた看板の影から、鉄製の枠が勢いよく落下してきた。
反射的に身を屈めた玲のすぐ頭上を、枠がかすめ、石畳に鈍い音を響かせる。
「……第一段階だな」
アキトは低く呟き、目線をさらに路地の奥へ送った。
そこには、まだ動き出していない“次の仕掛け”が静かに待っていた。
【2025年・蓮池町旧市街地・旧町家門前/午前11時05分】
玲とアキトは門扉の前で足を止めた。
鉄製の格子門は長年の風雨で赤く錆び、触れるたびに金属が軋む不快な音を立てる。
門の向こうには、薄暗い石畳の中庭──そして旧町家の正面玄関が見えた。
アキトが慎重に門の留め金に手を伸ばした、その瞬間──
足元の敷石がわずかに沈む感触。
「下がれ!」
玲の声と同時に、門扉の上部から鋼線が弾け、左右の壁面に仕込まれた金属板が互いに向かって滑り出した。
空気を切る鋭い音と共に、二人の間の空間を刃のように横切る。
アキトは門柱に体を押しつけ、玲は反対側の石段へ飛び退く。
数秒遅れで、門扉の格子の影が長く伸び、その奥──二階の縁側に、人影が一瞬だけ立った。
黒傘。
その人物は何も言わず、ただ視線を二人に落とした後、奥の廊下へ消えた。
「……距離、あと二十メートル。」
アキトが低く告げる声に、玲はうなずいた。
罠はすでに第二段階まで発動──次は、黒傘の逃走ルートを塞ぐための仕掛けが待っている。
【2025年・蓮池町旧市街地・旧町家門前/午前11時15分】
玲はイヤモニのスイッチを押し、小さく息を整えてから呼びかけた。
「……右手通路、封鎖を」
即座に、遠くで金属が噛み合う乾いた音。
旧町家の裏手に配置された奈々と理央が、黒傘の逃走経路をひとつ潰したのだ。
アキトは腰の小型カメラを起動しながら、門の内側へ一歩踏み込む。
中庭の石畳には、かすかに濡れた足跡が残っている──黒傘のものだ。
「動きが速い……二階へ行ったな」
視線を上げた先、縁側の戸がわずかに揺れ、影が滑るように消えた。
次の瞬間、上階の障子窓から白い粉末が舞い降り、視界が霞む。
目と喉に刺すような刺激──胡椒と石灰の混合粉末だ。
アキトが咄嗟に顔を覆うのと同時に、玲は左の路地へ駆け出す。
屋根の上を走る足音。
黒傘は門前の罠を突破されたと悟り、建物の外縁を伝って逃走を開始していた。
「屋根沿い! 南側へ回り込む!」
玲の声がイヤモニ越しに響き、アキトも粉末を振り払いながら追いすがる。
瓦の軋む音、軒下の影、そして再び降り出した小雨が、二人と黒傘の距離を測るように降りかかっていた。
【同時刻・佐々木家ロッジ・朱音のアトリエ】
朱音は鉛筆を走らせながら、玲の言葉を反芻していた。
──「右手通路、封鎖を」
その短い声が、耳の奥で何度も繰り返し響く。
鉛筆の先が紙の上をすべるたび、形になっていくのは、雨に濡れた瓦屋根と、その端に立つ黒い影。
影の足元から、縄のようなものがするすると垂れ下がっている。
朱音の指が止まる。
紙の端に、ふいに黒い点が現れ──そこから蜘蛛の巣のように線が広がった。
それは、屋根の縁を覆う細工網の模様だった。
⸻
【2025年・蓮池町旧市街地・屋根沿い/午前11時15分】
黒傘の足が瓦を蹴る音と同時に、乾いた「パチン」という音が響いた。
瞬間、屋根の縁に仕掛けられていた細工網が跳ね上がり、黒傘の脚を絡め取る。
瓦の破片が砕け散り、黒傘の身体が一瞬大きく揺れる。
玲はその隙を逃さず、軒下から飛び出した。
「捕まえた──!」
だが次の瞬間、黒傘は手首のナイフで網を切り裂き、屋根の向こうへ身を投げた。
鈍い着地音とともに、雨に混じって土の匂いが立ち上る。
追い詰めたはずの影は、再び町の迷路に溶け込んでいった。
【2025年・蓮池町旧町家内部/午前11時30分】
玲とアキトは、軋む音を立てて朽ちた木の扉を押し開けた。
中は外よりも冷たく、古い木と埃の匂いが濃く漂っている。
薄闇の中、梁の影がまるで長い腕のように床に伸びていた。
足を踏み入れた瞬間──どこかで微かに木がきしむ音がした。
玲は即座に視線を上げる。
天井裏の板の隙間、その奥で何かがきらりと光った。
「……上だ」
囁いた直後、天井板が落ち、土埃とともに太い縄が垂れ下がった。
それは床の中央に置かれた古い木箱へと結ばれている。
アキトが木箱に近づくと、蓋がゆっくりと開き──中から転がり出たのは、古びた黒傘。
だがそれは人影ではなく、ただの傘だった。
「……おとりか」
玲の眉がわずかに動いた瞬間、背後で木の扉が音もなく閉まった。
視界の端で、右手通路に残していた縄の細工が切断され、逃げ道がひとつ消える。
黒傘は罠の発動を利用し、あらかじめ二人の行動経路を読んでいた。
「上か下か──決めろ」
玲の声が低く
【2025年・蓮池町旧町家内部/午前11時45分】
朽ちた廊下は、足を置くたびに小さく軋み、奥から吹き込む冷気が薄い埃を巻き上げた。
壁には色褪せた掛け軸が傾き、床板の隙間からは淡い光が漏れている。
そのとき、イヤモニが小さく鳴った。
『……玲さん、気をつけて』
朱音の声は、わずかに震えていた。
『絵が……変わったの。門の後ろにあった影が、今……地下に降りていく』
玲とアキトは同時に足を止め、視線を交わす。
右手の廊下の先──そこに開いた黒い影のような穴。
吹き上がる冷気は地下の存在を示していた。
「……行くか?」
アキトの問いに、玲は答えず、わずかに首を傾けた。
その一瞬、視界の端を黒い影が横切った。
黒傘──だが、確かめようと向いたときにはもう消えていた。
背後からの物音。
床板の下で、何かが移動する低い振動音が響く。
それはまるで、二人が地下に降りるのを待ち構えているかのようだった。
玲は短く息を吐き、懐中電灯の光を穴に向ける。
下には苔むした石段が闇の中へと消えていた。
朱音の声が、再びイヤモニに落ちてくる。
『……降りたら、もう戻れないかもしれない』
廊下の奥、穴の向こう──そこに、一瞬だけ黒傘の輪郭が浮かび、
まるで笑うように傘をわずかに傾けた。
玲の足が、一段目の石を踏みしめる。
その瞬間、頭上の梁から何かが落ち、背後の出口が重い音を立てて閉ざされた。
【2025年・蓮池町旧町家/午後0時12分】
廊下の突き当たり、封鎖された扉の前で玲が立ち止まる。
重く湿った木の匂いが鼻を刺し、外の空気とはまるで別世界のようだった。
アキトが片手を上げ、玲を制した。
そして耳元のイヤモニに指先を軽く当てる。
『……玲さん、音が変わった。』
低く、理央の声。
『足音じゃない……これは、扉の向こうで何かを引きずっている音だ』
その瞬間、扉の下の隙間から細い光が差し、影が横切った。
黒傘──だが、その動きは不自然に滑らかで、まるで二人をわざと誘い込むような軌跡だった。
アキトは短く息を吐き、足元の床板を軽く叩く。
「……下、空洞だ」
玲はうなずき、懐中電灯を灯す。
扉の向こうから聞こえるのは、鉄が軋むような低音。
それは2005年──旧町家舞台裏で黒傘が仕掛けた水門罠が作動したときの音と、寸分違わず重なっていた。
玲の脳裏に、2005年の現場映像がよぎる。
雨、舞台の幕が上がる瞬間、奥から現れた黒傘が、観客を混乱に陥れる罠を発動させた光景。
今、同じ音が目の前で鳴っている。
「……これは、おびき寄せだ」
アキトが扉に視線を固定したまま言う。
「扉を開けさせて、足元を落とす。2005年と同じやり口だ」
しかし玲は首を横に振った。
「違う……今回は、落ちるのを見せるためにやってる」
廊下の端、ほんの一瞬だけ、視界の隅に黒傘の輪郭が浮かぶ。
2005年の記録映像と完全に同じ角度、同じ立ち位置。
まるで二つの時代の黒傘が、同じ場所からこちらを見ているようだった。
アキトが低く囁く。
「……開けるか?」
玲は短く考え、懐中電灯を消した。
闇の中で、二人は静かに位置を変える──罠を逆利用するために。
【2025年・蓮池町旧町家/午後0時15分】
廊下の板が、ひときわ大きく軋んだ。
玲は左手で扉を押さえながら、イヤモニ越しに低く問いかける。
「……理央、下の構造は?」
『2005年の図面とほぼ一致。扉の先、二メートルほどで床が落ちる。落下先は旧水門通路に接続』
アキトの視線が鋭くなる。
「つまり、開けた瞬間に……」
その言葉とほぼ同時、扉の下の隙間から強い光が差し込み、金属の軋み音が廊下全体に響き渡った。
玲は一気に扉を押し開ける──
瞬間、視界が揺れる。
2025年の光景の上に、2005年の現場映像が重なった。
雨の夜、旧町家舞台裏。
舞台の幕が跳ね上がり、観客席のざわめきと同時に、水門の鉄扉がゆっくりと開く。
溢れ出す水、逃げ惑う人々──その中心に、黒傘の影が立っていた。
今の玲の目の前にも、同じ黒傘が立っている。
だが2005年のそれは濡れ、2025年のそれは埃をまとっていた。
時代が違うはずなのに、動きだけは完全に一致している。
床が鳴り、足元の板が外れた。
玲とアキトは同時に横へ跳び、落下を回避。
しかし視界の隅、黒傘の姿はもうない。
残ったのは、2005年の水音と、2025年の湿った風だけ。
「……消えた?」
アキトが息を整えながら呟く。
玲は首を横に振り、廊下奥の闇を見据えた。
「いいや──まだ、ここにいる」
【2025年・蓮池町旧町家/午後0時18分】
廊下の奥、闇に沈んだ間合い。
黒傘の人物は、まるで舞台役者のように、片足を前に出し、静かに立っていた。
傘の先端から滴る水が、ひと粒、木の床に落ちる。
その背後の薄明かりが、わずかなシルエットを浮かび上がらせた。
アキトが低く息を吐く。
「……あれは、完全に誘ってる」
黒傘は、わずかに顎を動かし、背後の扉を示す。
次の瞬間、足元の埃が舞い上がるように視界が揺れ──2005年の水門通路が重なった。
薄暗い石造りの通路、苔むした壁、湿った空気。
その中を、2005年の黒傘が静かに歩く。
靴底が水たまりを踏み、波紋が広がる。
現実の2025年では、同じ位置で廊下の奥に地下への階段が口を開けていた。
2005年の水門通路と、2025年の地下通路の階段──時代の異なる二つの“道”が、視覚の中で重なり合っている。
玲の耳に、イヤモニから理央の声が割り込む。
『玲、気を付けて。2005年の通路は落とし穴の先で水門が作動した場所よ。足元を確認して』
黒傘は一歩、また一歩と後退しながら、階段の影へ消えていく。
その動きは、2005年の黒傘とまったく同じ。
まるで時間をまたいだ舞台演出の一部であるかのように。
アキトが短く頷く。
「……追うんだな」
玲は答えず、ただ足を踏み出した。
階段の下からは、二つの時代の水音が同時に響いてくる。
【2025年・蓮池町旧町家/午後1時02分】
黒傘が消えた地下井戸の縁には、小さな紙片が置かれていた。
雨に濡れない位置――まるで拾われることを計算していたかのように。
玲が指先でそれをつまみ上げると、わずかに湿った紙に墨の文字が滲んでいる。
《幕は、二度下りる》
その瞬間、アキトの足元からわずかな振動が伝わってきた。
階段の下――闇の底から、低くうねる水音が立ち上る。
視界の端が、にじむように別の光景へ切り替わる。
2005年、蓮池町の水門通路。
黒傘が石畳の奥で立ち止まり、ゆっくりと鉄製のレバーを引き下ろす。
鉄鎖がきしむ音と共に、水門の扉がゆっくりと持ち上がり、
冷たい濁流が石の通路へ流れ込んでいく。
――同時刻、2025年。
玲とアキトの足元で、古い排水路の仕掛けが作動した。
壁の内側を水が走り、床板の下で何かが外れる音が響く。
闇の奥から、規則的な水しぶきと金属の軋みが重なって近づいてくる。
ふたつの時代の音が、完全に同調していく。
2005年の濁流が水門からあふれ出す瞬間、
2025年の地下通路でも、床板が崩れ、冷水が一気に押し寄せた。
玲は手すりに腕を掛け、アキトを押し戻す。
水面越しに――2005年の黒傘と、2025年の黒傘が、
同じ位置、同じ姿勢で立っている幻視が重なった。
理央の声がイヤモニ越しに切迫する。
『玲、ここは罠そのものよ! 水が引くまで動かないで!』
しかし、階段の下から黒傘が静かに片手を挙げた。
――まるで「もっと深くへ来い」と告げるように。
【同時刻・佐々木家ロッジ/朱音のアトリエ】
イヤモニの向こうから、玲とアキトの短く鋭いやり取りが断片的に届く。
「……水位が上がってる」「引くなら今だ」「いや、奥に何か――」
その声が、朱音の耳に直接響くような感覚と重なった。
朱音は新しい紙を引き寄せ、震えるような手で鉛筆を握る。
線は意思を持つかのように勝手に走り出し、白い紙面を切り裂く。
現れたのは――揺らめく濁流の中で沈む赤い幕。
その向こう、薄暗い水中に、黒傘の人物が立っている。
輪郭は水の歪みで揺れ、しかし確かにこちらを見ていた。
朱音の胸が急に締め付けられる。
次の瞬間、頭の奥で別の景色が閃いた。
――2005年、蓮池町の水門通路。
濁流が押し寄せる中、当時の黒傘が、鉄格子の奥で静かに待っている。
その足元、通路脇の小さな鉄板がゆっくりと持ち上がっていく。
致死的な罠の作動音が、2025年側の通路音と完全に重なった。
朱音は思わずイヤモニへ向けて声を張り上げた。
「玲さん……行っちゃダメ! それ以上行くと――!」
2025年、地下通路の入り口で、玲とアキトは一瞬だけ視線を交わす。
浸水は足首を越え、膝下まで迫っている。
先へ進めば戻れないかもしれない。
しかし、奥には黒傘の姿が――確かにある。
2005年側の濁流が鉄柵を越える音と、2025年側の波が階段を打つ音が同じリズムで響く。
二つの時代が、完全にひとつの罠として閉じようとしていた。
【2025年・K部門記録分析室/午前1時過ぎ】
送られてきた鮮明な画像を、理央は即座に過去の記録データベースと突き合わせた。
画面に浮かぶ比較結果に、彼女の指先が止まる。
「……あった」
声は低く、しかし確信を帯びていた。
「2005年の水槽舞台事故――表向きは老朽化による崩落事故として処理されてる。
でも……現場写真を拡大すると、観客席の陰に“黒傘”のシルエットが映ってる」
理央は送信ボタンを押し、玲たちへ緊急チャンネルで情報を送った。
⸻
【2025年・蓮池町地下通路/同時刻】
水位は膝下を越え、濁流が壁を叩く音が反響する。
先にはわずかな光――そして、その中心に黒傘の影が立っている。
動かず、ただこちらを見つめる。
まるで「来い」と無言で告げているかのように。
イヤモニから理央の声が響いた。
『玲、聞こえる? 2005年の事故……舞台裏の水槽通路と構造がほぼ一致してる。
事故じゃない。計画的な罠だった』
アキトが低く呟く。
「つまり、こっちも……同じ構造ってわけか」
玲は頷くが、その視線は黒傘から外れない。
水位は刻一刻と上がる。
引けば安全は確保できる――しかし黒傘を取り逃がす。
進めば真相に近づける――だが、2005年の犠牲者と同じ結末を迎える危険がある。
黒傘が、ほんのわずかに首を傾けた。
光の向こう、影が揺れ、それがまるで「お前はどっちを選ぶ?」と問う挑発のように見えた。
玲とアキトは一瞬だけ視線を交わす。
次の瞬間、二人は――
【2025年・蓮池町旧町家・地下通路/午後1時08分】
玲は短く頷いた。
「行き先が決まったな」
アキトは口角をわずかに上げる。
「終幕に向けた第二の開幕……こっちも幕を上げてやろう」
その瞬間――
黒傘が、ゆっくりと傘の先端を床に突き立てた。
金属の先が石畳を叩く音が、地下の空気を震わせる。
それは合図のように、頭上の格子から水が一気に噴き出した。
濁流が壁を叩き、足元の水位が一気に増す。
同時に奥の格子窓が閉じ、唯一の退路が塞がれる。
黒傘はただ静かに後ずさりし、闇の向こうへ消えていく。
その姿は舞台の幕の隙間に消える役者のようで――だが視線だけは最後まで玲たちを捉えて離さなかった。
玲が低く吐き捨てる。
「……心理戦の極致、か」
水音がさらに大きくなり、二人の足元で渦が巻き始める。
黒傘が残した選択肢は――もう、進むか沈むかしかなかった。
【2025年・蓮池町旧町家・地下通路/午後1時08分】
玲は短く頷いた。
「行き先が決まったな」
アキトは口角をわずかに上げる。
「終幕に向けた第二の開幕……こっちも幕を上げてやろう」
その瞬間――
黒傘が、ゆっくりと傘の先端を床に突き立てた。
金属の先が石畳を叩く音が、地下の空気を震わせる。
それは合図のように、頭上の格子から水が一気に噴き出した。
濁流が壁を叩き、足元の水位が一気に増す。
同時に奥の格子窓が閉じ、唯一の退路が塞がれる。
黒傘はただ静かに後ずさりし、闇の向こうへ消えていく。
その姿は舞台の幕の隙間に消える役者のようで――だが視線だけは最後まで玲たちを捉えて離さなかった。
玲が低く吐き捨てる。
「……心理戦の極致、か」
水音がさらに大きくなり、二人の足元で渦が巻き始める。
黒傘が残した選択肢は――もう、進むか沈むかしかなかった。
満員の客席が、舞台上の幻想に酔っていた。
舞台中央には、高さ二メートルを超える巨大なアクリル製の水槽。
中では、赤いドレスを纏った女優が、水中でゆっくりと舞っている。
水中照明が揺れ、光の波紋が客席にまで漂った。
しかし、その美しさの奥に、わずかな異様さが混じる。
観客のざわめきが、不安の色を帯び始めた――その時。
舞台袖の影で、黒い傘を差した人物が、静かにレバーを押し下げた。
ゴウン――
重い金属音が響き、水槽の背後の水門が開く。
大量の水が通路を駆け抜け、舞台床下の水位が一気に上昇。
赤い幕が濡れ、ゆらめきながら沈み始める。
舞台上の女優が手を伸ばす――その瞬間
2025年・蓮池町旧町家・地下通路/午後1時08分の濁流が、玲とアキトの足元を呑み込む。
二つの時代が、音と光と水の感覚で完全に重なった。
黒傘の影もまた、両時代の闇の中で同じ姿勢で立っていた。
【2025年・蓮池町/旧幻劇座前 午後4時39分】
アキトはタブレットに映し出された古い事故映像と、朱音が今朝描いた絵を並べて見比べた。
眉をわずかに寄せ、低く呟く。
「2005年の事故記録……やっぱり黒傘は舞台袖にいた。
あの囁き――“幕は沈む時が、美しい”……」
隣の玲が、旧幻劇座の錆びた扉を見据える。
その奥には、冷たい闇が広がっていた。
その瞬間――
2005年・旧幻劇座/午後7時06分
舞台袖の黒傘が、水門の第二バルブを解放する。
水槽背後の通路が急速に浸水し、逃げ場を奪うかのように観客出口が閉ざされる。
2025年・旧幻劇座地下通路/午後4時40分
玲とアキトの背後で、古びた鉄扉が轟音を立てて落ちた。
湿った空気が急に重くなり、足元には濁流が迫る。
耳元のイヤモニから、朱音の震えた声が響いた。
「……後ろが、塞がった……」
二つの時代。
舞台の女優と、地下通路の二人。
どちらも黒傘の“誘導”によって出口を封じられ、前へ進むしかない状況に追い込まれていた。
闇の奥から聞こえてくるのは――
両時代同じ位置からの、ゆっくりとした靴音。
【2025年・蓮池町/旧幻劇座・地下通路 午後5時12分】
薄暗い地下通路を、玲とアキト、そして影班と服部一族の数人が、ほとんど息を殺して進んでいた。
壁は苔に覆われ、触れればぬめりを感じるほど湿っている。
足元には浅く濁った水が溜まり、踏み出すたびにわずかな波紋が広がる。
だが、その波紋の上に――別の波紋が重なった。
足音。
一定の間隔で、確実にこちらに近づいてくる音。
まるで地面を踏むたびに、その音が水滴に吸い込まれ、どこまでも響くようだった。
⸻
2005年・旧幻劇座・舞台裏通路/午後7時07分
舞台袖、浸水が迫る通路を、ヒールの音がゆっくりと響いていた。
その奥に立つ黒傘は、片手で水門のレバーを支え、もう片方の手で傘の柄を軽く床に打ち付ける。
カン……カン……
響きは水面に反射し、通路全体を包み込む。
⸻
2025年・地下通路
玲が一瞬、動きを止めた。
アキトも同時に立ち止まり、わずかに目を細める。
「……この足音……」
玲の声が、低く沈む。
イヤモニ越しに、朱音の震えた声が届く。
「玲さん……その音、私の絵にも……あった……」
同じリズム、同じ間合い。
二つの時代の通路に、まったく同じ足音が響き続けていた。
【2005年8月17日・旧幻劇座 午後7時14分】
舞台袖。
黒傘の男は、客席の熱気から切り離された静かな闇の中で、腕を組んで立っていた。
水槽の中で揺れる赤いドレスには一瞥もくれず、その視線は――
客席最前列、真っ直ぐ前を向くひとりの男に注がれていた。
その男は無表情で腕を膝に置き、ただ舞台を見つめている。
だが黒傘は、まるで旧知の友人を見るかのように、ゆっくりと傘の先を床に打ち付けた。
カン……カン……
⸻
【2025年・旧幻劇座・地下通路 午後5時12分】
濁った水の上を進む玲とアキトの耳にも――同じ音が響く。
カン……カン……
それは壁を伝い、空間全体に溶け込んでいた。
玲は振り返った。そこに誰もいない。
けれど足音は止まらない。
アキトが低く呟く。
「……この間合い、15拍ごと。完全に同じだ」
イヤモニの向こうで、朱音が息を呑む。
「私、描いた……その足音、二つの絵に……」
⸻
【2005年・舞台袖】
黒傘が一歩、前へ。
足元の水が静かに揺れる。
その一歩が――
【2025年・地下通路】
玲とアキトの目の前、闇の奥で水が揺れた。
同じ足音が、時代を跨いで重なる。
【2025年・旧幻劇座・水槽舞台 午後5時16分】
玲とアキトは舞台上に足を踏み入れた。
中央の水槽は半分まで水が溜まっており、舞台袖には――確かにいた。
黒傘の人物。
黒傘は、十五年前と同じ声で囁いた。
【2025年・旧幻劇座・地下階段 午後5時18分】
錆びた階段を、玲とアキトは息を殺して駆け下りた。
壁は黒く煤け、剥がれかけたポスターがいくつも貼られている。
――「幻劇座 第三幕予告」。
日付は、2005年8月17日で止まっていた。
その瞬間――
⸻
【2005年8月17日・旧幻劇座・水槽舞台 午後7時15分】
水槽の底に取り付けられた金属レバーが、カチリと音を立てる。
観客の誰もが気づかぬうちに、水門の歯車がゆっくりと回転を始めた。
女優の赤いドレスが水中で揺れ、波紋が舞台の照明を乱す。
⸻
【2025年・旧幻劇座・地下階段】
地下から――重い水の奔流音が響く。
同時に、足元を冷たい湿気が舐めるように這い上がってきた。
玲は息を呑む。
「……始まったな」
⸻
【2005年/2025年 完全同期】
2005年――舞台上の水槽の水位が急上昇し、観客席から悲鳴が上がる。
2025年――地下通路に張り巡らされた古いパイプから水が噴き出し、通路を塞ぎ始める。
異なる二つの時代で、同じ水門の機構が同じ音で作動している。
足元に広がる冷たい水と、耳に残るあの金属の回転音。
それは二十年前の観客席にも、今の玲たちの足元にも、同じリズムで響いていた。
【2005年8月17日・旧幻劇座・舞台裏 午後7時20分】
赤いドレスの女優が、水に濡れた髪を振り払いながら舞台袖に消える。
観客席のざわめきは、まだ舞台演出の一部だと思い込んでいる。
――その裏で。
**ギィ…**と低く扉の蝶番が鳴った。
舞台裏の非常口がわずかに開き、外の湿った夜風が吹き込む。
しかし次の瞬間――
ガシャン!
重い鉄製の格子が滑り落ち、出口を完全に塞いだ。
舞台裏の空気が一瞬で重くなる。
⸻
【2025年・旧幻劇座・地下通路 午後5時20分】
玲とアキトが駆け抜ける地下通路の先――
唯一の出口である鉄扉が、何の予兆もなくドンッと閉まった。
背後で影班が即座に反応するが、
扉の上から落ちてきた格子が、完全に通路を封鎖してしまう。
アキトが顔を上げる。
「……やられたな」
⸻
【2005年/2025年 完全同期】
2005年――舞台裏の格子越しに、黒傘が立っていた。
2025年――地下通路の格子越しに、同じ黒傘が立っていた。
二つの時代が、
同じ角度、同じ距離、同じ視線で交差する。
そして黒傘の唇が、時を越えて同じ言葉を紡ぐ。
> 「出口は、もう閉じた」
【2025年・旧幻劇座・第三幕舞台装置 午後5時20分】
舞台中央――半分まで水の張られた水槽。
その背後の幕の影から、黒傘がゆっくりと現れる。
わずかな舞台照明が、濡れた床に反射して揺れる。
玲はその姿を見た瞬間、脳裏に――
2005年の記録映像と、朱音が描いたスケッチが重なった。
舞台袖、客席、地下通路。すべての空間がひとつの閉じられた舞台として収束していく。
イヤモニ越しに、朱音が息を呑む音。
「……同じだ。十五年前と、全部……」
黒傘の人物は、わざとゆっくりと舞台を一周しながら、
玲とアキトを視線でなぞるように囲い込む。
歩みのリズムは、どこか水のしずくが落ちる間隔と一致している。
⸻
【心理的包囲】
2005年――舞台裏で赤いドレスの女優を追い詰める黒傘。
2025年――舞台上で玲とアキトを追い詰める黒傘。
二つの時代の視線が、完全に同一の角度と距離で迫る。
舞台の空気が冷たくなり、息を吸う音さえ反響して響く。
黒傘は口を開く。
> 「十五年前、幕は水に沈んだ。
> そして今、同じ幕が閉じる」
その声は――イヤモニの向こうで、朱音にもはっきりと届いていた。
【2025年・蓮池町郊外・旧井戸劇場前 午前10時42分】
森を抜けた瞬間、玲は足を止めた。
そこに現れたのは、時の流れに取り残されたような円形の煉瓦造りの建物。
中央には深く口を開けた井戸――しかし、その底は舞台になっており、
天井から吊り下げられた照明の残骸が、わずかな光を反射していた。
アキトは周囲を見渡し、低く呟く。
「……変だな。井戸が舞台の中心……観客席からは上から覗き込む形になる」
玲は眉をひそめ、足元の砂利に視線を落とす。
そこに――規則正しい足跡のパターン。
それはまるで、ここに来る者の歩幅と動線を事前に測っていたかのようだった。
「……アキト、これ、舞台装置じゃない。罠だ」
玲の声は、どこか確信に満ちていた。
⸻
【心理戦の罠を見抜く】
アキトも頷く。
「観客の視線を一点に集中させる構造……つまり、狙われる位置が固定される」
玲はさらに続ける。
「しかも、この井戸……舞台が沈む仕組みだ。
あの黒傘は、俺たちを“舞台に上げさせる”つもりだったんだ」
イヤモニから朱音の息を呑む音が聞こえた。
「玲さん……井戸の下、なにか動いてる……」
⸻
【物理的罠の発動】
その瞬間――舞台の下から、重い金属音。
井戸の内壁を覆うように鉄製のシャッターが回転し、
舞台の縁がわずかに傾き始めた。
遠く、黒傘の人物がゆっくりと井戸縁を歩きながら、
舞台中央の二人を見下ろしていた。
その姿は、まるで十五年前の幻劇座の舞台袖で観客を見下ろしていた時と同じ。
> 「幕は上がった……あとは沈むだけだ」
井戸の底から、濁った水の音が響き始めた――。
【2005年8月21日・井戸劇場 午後6時58分】
開演ベルの音が、井戸の底に鈍くこだまする。
観客は円形バルコニーに半円状に並び、井戸の縁から真下の舞台を覗き込んでいた。
舞台は深さ十メートルの井戸底――そこに立つ役者の一挙手一投足が、
観客の視線にさらされる仕掛けだ。
照明が灯ると、水面が反射して天井を揺らし、
その揺れが、まるで時間の波紋のように――
2025年の同じ井戸劇場にいる玲とアキトの視界へ重なった。
⸻
【2025年・井戸劇場・舞台上】
井戸縁から黒傘がこちらを見下ろす。
足元の舞台は微かに揺れ、濁った水が上昇してくる音が響いていた。
玲は低く言った。
「……舞台は観客の視線を奪うための装置だ。なら、視線を“奪い返す”」
アキトはすぐに理解し、口角を上げた。
「つまり、俺たちが“演じる”番ってわけだな」
⸻
【心理戦の逆利用】
二人はあえて舞台中央へ進み、黒傘に“動線を読ませる”。
同時に影班が裏側のメンテナンス通路へ回り込み、
罠の制御機構にアクセスしようとする。
玲は視線を上げ、黒傘に向けて挑発するような笑みを見せた。
「見ているだろう……なら、目を離すな」
その瞬間、アキトが舞台袖へ急な横移動――
観客(黒傘)の視界と注意をずらし、
影班が井戸底の“水門制御レバー”に手をかける。
⸻
【2005年との完全リンク】
2005年の舞台でも、主演俳優が突如位置を変え、観客の視線が一瞬乱れる。
その一瞬の“死角”で、舞台裏の人物が水門制御に触れようとする――。
> 二つの時代が、井戸の水音と観客のざわめきで完全に重なった。
【2025年・井戸劇場・舞台準備室 午前11時07分】
玲は朱音から送られてきたスケッチを机に広げた。
鉛筆線は荒々しく、右奥の木製の扉だけが、不自然なほど真っ赤に塗り潰されている。
アキトがそれを覗き込み、眉をひそめた。
「……扉の向こうに仕掛けがあるってことか」
玲は無言で頷き、しかし紙を持つ指先に微かな緊張が走る。
「いや……これは“行け”という誘導かもしれない」
その時、イヤモニに低く響く声――黒傘。
『ようやく幕の奥を見たか。だが観客は、君たちの台本を読み終えている』
⸻
【2005年8月21日・井戸劇場・舞台袖】
黒傘のシルエットが、舞台袖の暗がりから観客席を見上げていた。
視線の先――最前列に座る一人の男が、小さく頷く。
まるで何かを“開始する合図”のように。
水面が揺れ、舞台裏で木製扉がきしむ音がした。
その瞬間、2025年側でも――同じ扉の蝶番が軋む音が重なった。
⸻
【両時代同時の“心理戦のさらに上”】
玲とアキトは、黒傘の狙いが“選択を与えること”ではなく、
選択肢そのものを罠にすることだと悟る。
行くか引くか――その思考を読まれた瞬間に、両時代の舞台構造が同じように閉じ始める。
舞台袖から鎖が降り、井戸底の通路が塞がれ、
逃げ道はわずか数秒で消えていく。
黒傘の声が、まるで舞台のナレーションのように響いた。
『幕の向こうは、いつだって観客のための出口ではない』
【2005年8月21日・井戸劇場・舞台奥 午後7時10分】
黒傘がゆっくりと木製扉を押し開けた。
蝶番が悲鳴のような音を立て、井戸底の空気がわずかに揺れる。
その瞬間――舞台照明が一斉に落ちた。
闇に包まれた井戸の底で、水音が低く響き、観客席のバルコニーからざわめきが波紋のように広がっていく。
観客の視線は、開いた扉の奥――暗闇の向こうに吸い寄せられる。
黒傘はゆっくりと顔を上げ、その目だけが光を捉えた。
⸻
【2025年・井戸劇場・舞台準備室 午前11時10分】
朱音のスケッチと、現場の構造が完全に一致していることを確認した玲とアキト。
しかし、その扉に向かえば確実に罠に落ちる――それは明らかだった。
玲はわずかに口元を歪め、低く呟く。
「二つの選択肢しかないと思わせるのが、あいつのやり口だ」
アキトは一瞬の沈黙の後、タブレットで井戸劇場の古い設計図を拡大し、指で舞台袖の外周をなぞった。
「……あった。井戸舞台の下に“溢水用の排水溝”がある」
玲の視線が鋭くなる。
「第三の選択……観客にも黒傘にも見えない、舞台の裏側から抜ける道だ」
⸻
【両時代同時】
2005年、舞台奥の扉に観客の視線が集中するその瞬間――
舞台下の暗がりで、赤いドレスの女優がそっと舞台の床板を外し、排水口に身を滑り込ませていた。
2025年、玲とアキトは舞台中央の装置を操作し、床板をわずかに持ち上げて隙間を作る。
そこから影班が無音で姿を消す。
黒傘は、舞台奥の扉から振り返り、観客席(そして2025年の監視カメラ)に向けてゆっくりと視線を送る。
しかし、その目線の裏で――第三の道を選んだ者たちは、すでに彼の舞台から姿を消していた。
低い声が、闇の奥から響く。
『……幕を外から見る観客は、想定していなかったか』
【2025年・井戸劇場・舞台中央 午前11時30分】
井戸の底は、思っていた以上に広かった。
舞台の中央には古びた木板が円形に組まれ、その周囲を深い水溜まりが囲んでいる。
上から射し込む光は弱く、空気は湿って重い。
玲とアキトが足を止めた瞬間、イヤモニから朱音の緊張した声が届く。
『……そこ、2005年の絵と全く同じだよ。板の並びも、水の位置も……全部』
玲は一度、ゆっくりと目を閉じた。
「なら、次に来るのも同じだ。だが――今回は違う」
アキトが短く笑う。
「第三の選択、だろ?」
ふたりは舞台中央を離れ、井戸壁の影へと滑り込む。
その動きは観客席からも、舞台袖からも見えない。
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【2005年8月21日・井戸劇場・舞台裏 午後7時12分】
赤いドレスの女優が、水面の上を踏むようにして舞台中央を歩く。
しかし、次の瞬間、彼女は不意に進路を変え、舞台の床板の隙間へと身を屈めた。
観客の視線は舞台奥の扉に向けられており、その変化には誰も気づかない。
⸻
【両時代同時・舞台外】
暗がりの中、二つの時代の影が同じ場所に“存在”するように重なった。
2005年では女優が、2025年では玲とアキトが――同じ排水路を進む。
そして、その先に。
井戸舞台の外縁部、照明も音も届かない地下回廊。
そこに、黒傘のシルエットが静かに立っていた。
低く湿った声が、時を隔てて響く。
『……観客のいない舞台に立つ気か。面白い』
玲は一歩踏み出し、冷ややかに返す。
「舞台じゃない、これは“交渉の場”だ。あんたのルールじゃなく、こっちのルールでやる」
時代を超えた視線が、井戸底の闇で交差する。
黒傘と玲たち――初めての“舞台外”での対決が、今始まった。
【2005年8月21日・井戸劇場・舞台中央 午後7時10分】
黒傘は、静かに井戸の底の舞台へと歩み出た。
円形の木板がわずかに軋み、その足音が水面に反響する。
上方から降り注ぐ照明が、黒傘のシルエットをくっきりと浮かび上がらせた。
観客席の円形バルコニーに並ぶ客たちの視線が、一斉にその一点へと注がれる。
息を呑む音が、ざわめきの中に混ざる。
しかし黒傘は、舞台中央に立ったまま一言も発しない。
やがて、ほんのわずかに顎を上げ、
観客席の中の、特定の一人を見据える。
その視線は冷たく、まるで時空を貫くようだった。
⸻
【2025年・井戸劇場・舞台外回廊 午前11時30分】
玲とアキトは排水路の暗がりから、舞台中央の黒傘を見据えていた。
あの視線は、間違いなくこちらも捉えている――十五年の時を隔てても。
アキトが小声で言う。
「見てやがる……」
その瞬間、舞台外の通路が轟音とともに閉じ、
井戸の壁面から鋼鉄の柵が降りてきた。
玲は短く息を吐く。
「来るぞ――舞台の外でやる気だ」
⸻
【両時代同時・舞台外対決 開始】
2005年、黒傘は観客の視線を利用し、舞台袖の警備を欺いて奥へ消える。
2025年、黒傘は物理的に玲とアキトの進路を塞ぎ、回廊の出口を封じる。
両方の時代で、舞台外の暗闇が戦場へと変わった。
心理戦は終わり、初の直接的な行動の衝突が始まる。
【2025年7月30日・蓮池町・廃街路跡 午後2時03分】
玲とアキトは、崩れ落ちた瓦屋根の間を縫うように進み、朱音のスケッチで見た通りの街路跡に足を踏み入れた。
湿った空気の中、石畳には雨の跡のような黒い染みが広がっている。
『……右側、石畳が沈む。気をつけて!』
イヤモニ越しに朱音の声が走る。
次の瞬間――。
足元の石畳が、わずかに沈んだ。
まるで誰かが“向こう側”で同じ場所を踏みしめたかのように。
玲とアキトは同時に顔を上げる。
十五年前の舞台奥と、この街路跡の奥の影が、
ほんの一瞬、同じ形に重なった。
その影の中心――黒傘の視線が、時を越えてこちらを射抜く。
重なった瞬間、瓦屋根の上から土埃が細く落ち、
廃街路全体が息を詰めるような静けさに包まれた。
イヤモニ越しに、朱音の緊張を帯びた声が響く。
『……玲お兄ちゃん、そこ……ワイヤーが……!』
玲は即座に足を止める。
板の隙間から、細く張り巡らされた金属ワイヤーが微かに光っていた。
これは――舞台床下の排水装置と直結している罠だ。
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【2005年8月21日・井戸劇場・舞台裏 午後7時12分】
黒傘は、舞台裏の暗がりを迷いなく進んでいた。
手にした鉄製のレバーを一気に引く。
ゴウン――と井戸の底から鈍い振動が伝わり、舞台床の下で水門が開く音が響く。
水が勢いよく流れ込み、舞台板の隙間から吹き上がるように溢れ出す。
観客席からは悲鳴とざわめき。
その混乱の中、黒傘は水路の上を渡る細い足場を器用に進み、舞台奥へと消える。
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【2025年7月30日・井戸劇場・舞台中央】
アキトがワイヤーの端を見つめ、低く呟く。
「……これ、2005年と同じだ。あの時の水路トリックを再現してやがる」
玲は顎に手をやり、わずかに笑みを浮かべる。
「なら、利用させてもらう」
アキトが素早く腰のツールから小型クランプを取り出し、ワイヤーのテンションを固定する。
その操作は、水門が開くタイミングを意図的に遅らせるためだった。
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【二重攻防戦】
•2005年側:黒傘は水門作動による“舞台水没”を利用し、追跡者を足止め。
•2025年側:玲とアキトは、その作動を逆手に取り、黒傘が想定していない“逆流”を仕掛ける。
結果、2005年で水が押し寄せるタイミングと、2025年で水が引くタイミングが完全に反転。
黒傘が築いたはずの時代連動罠が、逆方向に動き始める――。
【2005年8月21日・井戸劇場・舞台奥 午後7時12分】
黒傘が木製の扉を押し開けた先は、雨に濡れた石畳の通りを模した舞台セットだった。
鈍い光を放つ街灯が、薄暗い路地に長い影を落とす。
足音――遠くで、水たまりを踏む音が規則正しく響いている。
黒傘は足を踏み出そうとした――その瞬間、足元から冷たい衝撃が襲った。
水路から逆流するように、濁った水が激しく吹き上がる。
予定外の圧力に一瞬、黒傘のバランスが崩れる。
水飛沫が黒いコートを打ち、視界を白く霞ませた。
⸻
【2025年7月30日・井戸劇場・舞台奥 午前11時32分】
玲とアキトは、クランプで固定していたワイヤーをタイミングよく外す。
逆流が舞台裏の排水口から勢いよく噴き出し、黒傘が想定した水流パターンを完全に狂わせる。
アキトがニヤリと笑い、玲が短く告げる。
「……今だ」
二人は水が引き始めた足場を一気に駆け抜け、舞台奥の通路へ。
その速度は、2005年の黒傘が足を取られた時間とぴたりと重なっていた。
【2025年7月30日・井戸劇場・舞台奥 午前11時33分】
玲が木製の扉を押し開ける。
湿った木の匂いと、長く閉ざされていた空気が流れ出す。
その先に広がっていたのは――崩れかけた舞台セット。
傾いた街灯が片側に倒れ、濡れた石畳が不規則に光を反射していた。
水たまりの表面がわずかに揺れ、今しがた通った誰かの足跡が、奥へと続いている。
アキトが足跡に目を留め、低く呟く。
「……間違いない。やつだ」
⸻
【2005年8月21日・井戸劇場・舞台奥 午後7時13分】
濁流に足を取られた黒傘は、わずかに遅れて同じ通路へと踏み込む。
街灯の下に広がる水面が、自らの動きに呼応するかのように揺れる。
先ほどまで自分が作った“遅延”の仕掛けが、今は相手に道を譲る形になっていた。
――罠が、返ってきた。
黒傘は静かに笑う。
この入れ替わりが意味するものを、彼だけが完全に理解していた。
【2005年8月21日・雨の街路舞台 午後7時15分】
舞台奥の暗がりを切り裂くように、黒傘が姿を現した。
つば広の傘から滴る水が、舞台の石畳に落ちて淡い輪を広げる。
頭上から降り注ぐ雨音――それは舞台装置による人工の雨だが、
その響きは観客席の心臓の鼓動と溶け合い、異様な静寂を生み出していた。
高い位置に配置された客席から、幾十もの視線が彼を包囲する。
しかし黒傘はその視線を受け流し、ただ一点――
暗がりの奥、時を越えて同じ地点に立つ“誰か”を見据えた。
⸻
【2025年7月30日・井戸劇場・舞台奥 午前11時34分】
玲とアキトが足を止める。
薄暗い舞台セットの奥から、ゆっくりと歩み出る影――
傘の先端から水滴が落ちる音まで、十五年前と全く同じ。
その瞬間、時代の壁がひずみ、視線が交差する。
冷たく、深く、逃げ場のない目。
“今”と“過去”が、同じ場所で初めて真正面から向き合った。
アキトが小さく吐き出す。
「……ようやく、会えたな」
【2025年7月30日・蓮池町・廃街路跡 午後2時03分】
玲とアキトは、崩れ落ちた瓦屋根の間を縫うように進み、朱音のスケッチで見た通りの街路跡に足を踏み入れた。
湿った空気の中、石畳には雨の跡のような黒い染みが広がっている。
『……右側、石畳が沈む。気をつけて!』
イヤモニ越しに朱音の声が走る。
次の瞬間――。
足元の石畳が、わずかに沈んだ。
まるで誰かが“向こう側”で同じ場所を踏みしめたかのように。
玲とアキトは同時に顔を上げる。
十五年前の舞台奥と、この街路跡の奥の影が、
ほんの一瞬、同じ形に重なった。
その影の中心――黒傘の視線が、時を越えてこちらを射抜く。
重なった瞬間、瓦屋根の上から土埃が細く落ち、
廃街路全体が息を詰めるような静けさに包まれた。
【2005年・雨の街路舞台 午後7時17分】
黒傘は観客の視線を背に、濡れた石畳を踏みしめながら通りの奥へ進む。
舞台袖の暗がりから、もう一つの影が現れる――手に小型の拳銃を隠し持った人物だ。
しかし観客席からは死角になっており、その存在に気付く者はいない。
黒傘がわずかに傘を傾ける。
それだけで、影は何かを察したように静かに後退した。
――その瞬間。
天井から、ぽたり、と大粒の水が落ちる音。
続いて舞台奥の暗渠から水が噴き出し、濡れた石畳を急速に覆っていく。
観客は演出だと思い、どよめく。
だが水量は明らかに制御を超えていた。
舞台奥の壁がきしみ、漆喰の塊が剥がれ落ちる。
瓦礫と水が同時に押し寄せ、舞台中央が轟音とともに崩れ落ちた――。
【2025年・蓮池町・街路跡 午後2時06分】
玲がふと視線を上げる。
崩れかけた二階の窓から、誰かがじっとこちらを見下ろしていた。
それは――朱音のスケッチに描かれていた“もう一つの影”と、寸分違わぬ姿。
アキトが息を詰め、わずかに足を止める。
次の瞬間、影が窓枠から身を引いた。
――音が消えた。
いや、違う。
空気が一瞬、深く沈んだのだ。
頭上で、ぱきり、と木材が裂ける音。
そして、時間が押し寄せるように一気に崩壊が始まった。
二階の壁が砕け、瓦屋根が落ち、石畳に粉塵が広がる。
その中で、屋根裏の溜まり水が一気に流れ出し、濡れた石畳を覆った。
瓦礫と水が混じり、波のように足元へ押し寄せる。
――2005年の雨の街路と、2025年の廃街路が、同じ崩落の音で完全に重なった。
【2005年・雨の街路舞台 午後7時20分】
黒傘はゆっくりと舞台奥の門を押し開けた。
雨音を模した水滴が、門の向こうの暗がりへと吸い込まれていく。
振り返りざま、わずかに傘の縁を上げ、低く告げた。
――「第四幕は……灯りの消えた港で。」
その瞬間、舞台の照明が一つずつ消え、最後に頭上の街灯がぱちんと落ちた。
暗闇が、雨の匂いとともに迫る。
⸻
【2025年・蓮池町・街路跡 午後2時09分】
崩落の瓦礫を踏み越え、玲とアキトは石畳の奥の鉄門へと走った。
イヤモニから朱音の声。
『……今、門の向こうに――!』
玲は一瞬だけ立ち止まり、門の隙間から覗き込む。
そこに立っていたのは、2005年の舞台で門を押し開けた黒傘と、同じ立ち位置の影。
口の動きがはっきり見えた。
――「第四幕は……灯りの消えた港で。」
声は届かない。
だが、その言葉を読み取った瞬間、玲とアキトは顔を見合わせ、同時に頷いた。
2005年、2025年――両時代が、同じ港を目指して動き出す。
その動きは、もはや追跡ではない。
反撃だった。
【2025年・蓮池町・街路跡 二階 午後2時09分】
玲とアキトは、崩れた階段を駆け上がり、二階の窓辺へと踏み込んだ。
瓦礫の隙間から射し込む光に、薄く舞う埃。
窓際の小さな机に、風でめくれそうな一枚の紙切れが置かれている。
墨の筆跡は、黒く濃く、わずかに掠れていた。
《第四幕 灯りの消えた港》
その下には、淡く描かれた港の輪郭――
街灯は一本もなく、海面は墨色に塗り潰され、遠くにぼんやりと船影だけが浮かんでいる。
アキトが低く呟く。
「……次は、港だな」
玲は紙から目を離さず、静かに首を振った。
「いや――これは“呼び出し”じゃない。“招待状”だ。」
その言葉と同時に、窓の外から潮の匂いが、確かに流れ込んできた。
【2005年8月21日・港町舞台 午後7時35分】
舞台は、灯りを失った港の情景へと変わっていた。
桟橋は暗闇に沈み、海面は重く静かに揺れている。
時折、波が桟橋の下を叩き、濁った水音が響いた。
黒傘は桟橋の端に立ち、背を向けたまま観客へ語る。
――「幕は、必ず二度降りる」
その瞬間、舞台上空から細かな雨が落ち始めた。
舞台照明を反射し、雨粒は光と影の粒子となって宙を漂う。
⸻
【2025年7月30日・港跡地 午後4時58分】
玲とアキトは、街路跡を離れ、港跡地へとたどり着いた。
海はすでに色を失い、桟橋の木材は黒く濡れている。
空から、ぽつり――ぽつりと雨が降り出した。
アキトが静かに口を開く。
「……十五年前も、この雨だったのか」
玲は港の奥、朽ちた船影を見つめながら答えた。
「いや……同じじゃない。今度は、俺たちがいる」
二人は桟橋を歩き出す。
雨音が次第に強まり、十五年前の舞台の雨音と重なっていく。
⸻
【エンディング・リンク】
2005年、舞台の雨は観客席にまで届き、黒傘の姿をぼやけさせる。
2025年、現実の雨は桟橋の端で視界を霞ませ、港全体を灰色に沈めていく。
十五年の時を隔てた二つの雨音が、同じリズムで石畳と木板を叩き、
そして――二人はその場を後にした。
【2005年8月21日・井戸劇場・舞台裏控室】
――暗転の後、カメラは静かに動き始める。
濡れた石畳の匂いが、まだ控室の空気に残っている。
黒傘は無言で傘を閉じ、滴る水が床板に小さな円を描く。
その水紋が、ゆっくりと波打ちながら消えていく。
壁際の古びた姿見。
そこに映る黒傘のシルエットは、照明の残光を背負い、輪郭だけが浮かび上がっている。
彼の目線が、鏡の奥の暗がりへと向かう。
――その暗闇の中、何者かの輪郭が、ほんのわずかに揺れた。
だが、それが影なのか、人なのかは判別できない。
黒傘は口角をわずかに上げ、声にならない言葉をつぶやく。
その瞬間、カメラは鏡の奥へと引き込まれ、
視界は完全な闇に包まれる。
――闇の中で、客席のざわめきのような音が遠くに響いた。
【2005年8月21日・井戸劇場・舞台袖】
拍手の波が、幕の奥から押し寄せてくる。
舞台袖の暗がりに佇む“影”は、黒傘の視線を受けて一歩退いた。
それは従うというより、立ち止まったまま後ずさるような動きだった。
――自分は何を守ったのか。何を裏切ったのか。
答えは見えないまま、暗がりの奥へと歩き去る。
足音が消え、舞台袖は完全な闇に沈む。
闇は深く、重く――そのまま、別の時代へと溶けていく。
⸻
【2025年7月30日・港・夜】
暗闇の中から、波の音が浮かび上がる。
ゆっくりと視界が開け、灯りのない港が姿を現す。
潮風は冷たく、遠くにかすかなブイの鈴の音が響いている。
玲とアキトは、防波堤の端に立って海を見下ろしていた。
朱音の声がイヤモニ越しに届く。
『……見える? あれが“第四幕”の舞台だよ』
海の闇と、あの夜の舞台袖の闇は、同じ色をしていた。
まるで、二つの時代がひとつの影を共有しているかのように――。
【2025年・蓮池町調査後日談】
事務所の窓から、薄曇りの空がのぞいていた。
玲は机の上に、街路跡で拾った紙切れを置き、その横に古びた港の地図を広げる。
墨で記された四文字――「灯りの消えた港」。
それは半世紀前に封鎖され、公式記録からも消えた廃港の名と一致していた。
指先で地図の端を押さえると、古紙の繊維がきしむ。
玲の視線は、地図上の一角を静かに射抜く。
――その瞬間、画面がゆっくり暗転する。
⸻
【クロスフェード】
暗闇の奥から、かすかな波の音が近づいてくる。
低く湿った潮風が、見えない帆柱を揺らし、鈴のような金属音が響く。
その音はやがて、深く、重い海の呼吸へと変わる。
視界の奥、真っ黒な水平線の手前に、灯りひとつない港が浮かび上がった。
闇はただの暗さではない――
それは、過去と現在を結ぶために用意された舞台装置そのものだった。
【2025年・玲の事務所 午後2時15分】
玲の隣で、アキトは朱音のスケッチをスキャンし、専用ソフトで細部を拡大しながら、港の古地図の風景に重ね合わせていた。
画面上には、朽ちかけた防波堤と、海底に沈んだ船の影がかすかに浮かび上がる。
アキトが呟いた。
「……次は、水面の下か。まだ誰も見ていない場所だ。」
玲は無言で頷き、机の上の紙切れに目を落とす。
⸻
【クロスフェード】
【2005年・灯りの消えた港 深夜】
海風が吹き抜ける薄暗い埠頭。潮の匂いが鼻をくすぐる。
黒傘がゆっくりと傘を畳み、手に持った小さな箱を開けた。
その中には、古い照明器具や水流を模した機械装置のパーツが整然と収められている。
黒傘は慎重に機械を組み立てながら、港の静寂の中に、これから起きる“舞台の仕掛け”を練っていた。
足元の濡れた板張りが軋む。
遠くで波が静かに打ち寄せる音が、まるでこれから始まる物語の序曲のように響いていた。
【2005年・灯りの消えた港・深夜】
黒傘は古びた埠頭の片隅で、手際よく細かな装置を組み立てていた。
金属製の枠に透明なチューブが絡みつき、その中をゆっくりと水が流れる仕組みだ。
小さなポンプが水流を作り、ライトが波の揺らぎを模す。
周囲には、複雑に配線されたセンサーやリモコンが点在し、彼の指先が確かな動きでスイッチを調整する。
「この流れが、向こう側の動きを攪乱する……」
黒傘の声は冷たく静かだが、そこには深い確信が宿っていた。
彼はまるで舞台の監督のように、光と水と影の戯れを作り上げていく。
⸻
【2025年・朱音の自室・夜】
朱音はスケッチブックの最後のページを閉じ、窓の外の雨音を聞きながら小さく息を吐いた。
胸の奥に沈む冷たさが、今日も確かに彼女を支配している。
それでも、彼女はペンを握る手を緩めない。
「玲お兄ちゃんを助けたいから……」
静かな決意が、その瞳に揺れていた。
【2025年・帰路・車内】
暗い車内で、成瀬由宇が運転席に座りながら無線機の音を注意深く聞いている。
助手席の桐野詩乃は冷静な瞳でモニターを睨み、背後の安斎柾貴は端末を操作しながら肩越しに情報を追っていた。
安斎が端末を閉じ、低くつぶやく。
「港は……奴の地元みたいなもんだな。」
詩乃が不敵な笑みを浮かべて答える。
「だったら、その地元ごと覆してやればいい。」
成瀬は無言で前方を見据え、車のヘッドライトが闇の中で冷たく輝く。
【2025年・玲探偵事務所・調査室】
壁一面に貼られた2005年の現場写真と最新の調査映像が並ぶモニターに、御子柴理央がじっと視線を注ぐ。
ふと、観客席の配置に微かな違和感を覚えた彼は、指で写真と映像の細部をなぞる。
「ここ……観客席の並びが、微妙に違う。」
理央の声は低く、しかし確信に満ちていた。
「この違いが意味するのは、視界の死角。黒傘の心理戦の核心だ。」
彼はモニターの映像を拡大し、死角になっている場所を指差す。
「この隠された視線の抜け穴を使って、あの男は罠を仕掛けている。」
⸻
【2025年・帰路・車内】
成瀬由宇が運転しながら無線を傍受し、桐野詩乃がモニターに映る黒傘の動きを冷静に分析している。
安斎柾貴は端末を閉じ、静かに口を開いた。
「港は……奴の地元みたいなもんだな。」
詩乃は鋭い笑みを浮かべて答える。
「だったら、その地元ごと覆してやればいい。」
成瀬は無言で前を見据え、三人の覚悟が車内の空気を引き締める。
⸻
【2025年・玲探偵事務所・調査室】
理央が冷静に指摘する視界の死角の話に、玲が静かに頷く。
「死角を突く心理戦……黒傘の罠は、単なる物理的なトラップじゃない。」
アキトも息を呑み、朱音のスケッチを手に言った。
「この罠に気づいた以上、俺たちも次の一手を考えないと。」
港に向かうための地図と準備が整い、決意を胸に一歩を踏み出そうとする一同。
しかし、その頃――廃港の桟橋には、すでに黒傘が静かに立っていた。
冷たい雨雲が再び海を覆い尽くし、次なる戦いの幕開けを告げているようだった。
【2025年・玲探偵事務所 午後11時12分】
港の古地図を片付け、照明を落とした事務所に、短い着信音が響いた。
玲は机上のノートPCを開く。
そこには差出人不明のメールが一通――件名はただ、
《第四幕 開演前夜》
本文は一行だけ。
> 「港の闇は、海より深い。」
添付ファイルには、見覚えのある港の桟橋が映っていた。
ただし写真の端――霧の中に、黒傘のシルエットが立っている。
そしてその背後、水面下には、沈んだ船影の輪郭がぼんやりと浮かんでいた。
玲は小さく息を吸い、画面を閉じた。
――ゲームの次の手は、もう始まっている。




